黒白 109号 大正15年11月 pp40-43 義太夫虎之巻
明烏六花曙 山名屋の段
                胴摺帽人 寄     参考:浄瑠璃素人講釈本文
 【/ は行末改行を示す】
 
 此外題は「富士松新内」流を燒き直して、芝居の舞臺藝に組立てた物を、何でも「四代目綱太夫」が、「織太夫」の頃、床本に校正して語つたが始りじやと聞いて居る、明治時代になつて、色々の太夫等が盛んに演奏したのを、數々聞いたが、皆々何の興味も起る運方ではなかつた、元來が、コンナ風格も藝規もない物であるから、ドンナ風に語らうとも、太夫の力任せではあるが、餘り流行するから、餘り聞苦しくない丈けには運ばねばいかぬと思ふ、往昔「五代目鶴澤仲助」が、故後藤猛伯のお抱三味線であつた時、猛伯の家政整理のため、庵主に「仲助」の引受方を賴まれたので、其「仲助」の藝風を聞いて見ると、元々彼が二十歳臺で、「彦六座」で「故源太夫」を彈いて、三段目四段目を彈いて居る時の藝を聞いて居る耳では/猛伯のお相手を十年もして居たので、何とも始末に困る程、藝が㷀[かじ]けて居る、是では到底駄目であるから、兎も角寄席に出よと命じた「仲助」も其決心をして、色々と太夫を物色したが、當時一人も適當の太夫が居らぬ、夫では素人の化物を探せと命じたら、其頃「豐澤松太郎」の門弟で、「松十郎」とか云ふ三味線彈が、甲府に坐礁して、宿錢もなくウヅ振ふて居るとの事故、兎も角金を送つて招んで見よと命じた、早速來た男は、十月末に浴衣一枚の男である、取敢へず築地の柏屋で手見に「紙治の内」を語らせて見たら、詞は音が低くて、モ一ッ工合が惡るいが、淨瑠璃は器用に運びが付いて居る、是ならよいと云ふので、早速に衣服大小等を拵へて遣つて、化物として、東京を威かさねばならぬので,直に「攝津大掾」に手紙を出して、門弟の中に加へて、口上看板を出してくれと賴んだら、「大掾」早速承知して「二見太夫」と云ふ名を與へて當時東京第一の義太夫寄席、日本橋茅場町の宮松亭に看板を掛けさせた、其初日の出し物が、此「明烏六花曙、浦里、時次郎、山名屋の段」であつた。庵主は始めから、此の太夫を馬鹿にして居る上に、出し物の「山名屋」が、馬鹿にせざるを得ぬ物である、只だ「仲助」の三味線をのみ氣にして居た所が、先づ「座敷も靜かなり」の「ヲクリ」が、何だか變に感ずるほど穩やかにズー-ンと運ばれて、引付られた、「ジヤン」と「シメ」たら、太夫は「間」を放つたらかして「ヲヤ」と思ふやうな「間」で「雪はまだ」と極々汚ない聲で「地色」に出た「テン」と彈いたら又夫を捨てゝ、輕るく見臺を押へて、顎を突出して 「殘りて」と輕く云ふて、「アームーウウ、キィーーイイと汚ない聲で云ふて、又輕るく、ハアルーウウーーノウーーカーアゼ」と云ふたら、滿場既に、送りで押へ付けられて居た處に、此所になつて、一方の隅から、溜り切れず「ヤア、越路太夫ソツクリだゾー」と聲が掛ると同時に、滿場の大拍手であつた、夫から「フキー」と下で止まつて「ハレヌミノ浦里ーーヲーヲーーガ」と輕く欺まして出た面白さ、「湯上りイ、イイーーイ、スガタ、ソノマヽニ」と云ふ聲の、頃合の好さと云ふたら無い、「カムロノ、ミドリ、ウチイツレテ」と足を語り「上る、二階」の「ギン」の音が一杯でよく「緑りが煙草盆」と放つて置いて「チン/\」と「長地がゝり」となつて「煙に憂さは晴らして――エヽヽヽモ、ハアーーアアレーーエエ、エヌーーウ、「チン」ヲモーヲヲイーノヲ、時ー次郎ヲ」「チン、チリンチ、チチテツツン、ツツンツンツン」との運び好さと云ふたら,兎も角滿場醉ふて仕舞ふたのである、是から「文彌」になつて普通「セーエーーカアーーレエーーテーーエエ」となるのを、ポンと捨てゝ、一寸見臺を押へて、杖を突いて出て「ウ、セカレーーテエ、「チン/\」「エエ」「チン/\」「ヨイ」「エヽヽヽヽヱー、イイ、マアーーワアアー、」と入れて「ヤア、マアナーーア、ヤア、アアアアアーーア」、と止まつて「アアアアーー、ノヽヽヽヽヽ」と語り捨てた時は、只もう聽衆は跡も先もなく、夢現を辿るやうになつたのである、夫が別に好い聲でも何でもないが、藝がよくて「間」がよくて、汚ない聲の遣ひ方が上手で、ドンナ事を云ふにも、覺えがあるので、破、舒、急、輕重の運びが、チヤンと鍛練してあるから、コンナ外連ものを外連に語るにも、淨瑠璃の風格が、チヤンと据つて居る、此「二見太夫」の「山名屋」は「織太夫」を初めとして、嘸々、誰れ誰れも語つたのであらうが、此人の此段は、横から押しても、縱から押しても、ビクともする物ではない、決して似せ物ではない、鍛練の結果から出た、藝と見へたのである、夫から「通ひ廓に咲く花の」の「ギン」から出る聲が、全く語る道を知つた、大太夫の語り口であつた、夫から時次郎の口説になつて「シアン」と「表具」に出る時、少しの當氣もなく、目色をかへ、息を詰めて「二人一處――、ニイーーイイ、死ヌウウ、ナア、ラーーアーーバア、アトデーーエ」「チン/\/\」と彈く時は、聽衆總てが、其息に引付けられて、啜り聲を出したのである、夫から浦里の口説となつて「エーーエ」と泣き詰めた息の强さ「ソリヤアンマリジヤ」の强さと云ふたら、恰好が付かぬ位になつたのは、前の「エーーエ」が强かつたから、そふなるのである「ナサケナイ」が泣聲の「カワリ」が、溜らぬ程よくて、直ぐに「今宵別かれて、私しが身や、可愛い緑は、何と、「チヽチン」なろふと――ヲ、ヲモーーヲヲヲ、ワンーーンンス、」と泣いた時は、本當に此段の山を語つたと思ふた、夫から「呵責の、鬼に、引――イイツ……タテラレ」と「引立られ」を息を詰められる丈け詰めて「マクレ」氣味に放り出して寄席の滿場が破れ出る程に云ふて「シホ/\」と「カワッ」た手際は、全く傍若無人と見へた「シホ/\」の「ヲクリガヽリ」から「立つて行く――ウウ、跡から」と「アトカラ」と足取に語つて「アタリヲ、ニラム、カヤガメノ」と意地惡るく云ふて「光アーーリシニ、カアガアヤアク」と「ヲクリ」になるまで毛筋程の隙もなかつた、夫から「説教カヽリ」の三味になつて「チチチンチンチン」と渡したのを受けて「ヤアーーアア、ミーーイイ、イイ、イイイイイイイイーーイイ、イーーイイ、ワアアア、「チン/\/\」アーーアア「チン/\/\」ムウ、アーーアア、「チチンチン/\」となつた時は、此太夫死はせぬかと思ふ程、一杯に出た、夫からがらりと「カワリ」て探り氣味に「安やなし浦里が」と云ふたので、アヽ何所までよく語る事を鍛練したものかと、感心したのである、夫から只だ、サラサラ/\と、攫んで捨てるやうに語りて「彦六」の「二上新内」で聽衆をドツと悦ばせて「早や東雲の明烏」と、段切つて仕舞ふた手際は、全く「明烏」の標本と思ふた、夫から、跡から考へて見れば、「詞」は矢張「一本方」低くて、充分語れては居らぬ事に氣付いたが、何様、藝が出來て居るので、ソンナ事は問題に考へられぬ上出來であつた、昔日から、誰々の風などと云ふのは、斯くの如く、一杯に出來た物の事から、始まるのであるは申までもないが、帽人はコンナ仕様もない物で、斯く感じたのは、之が始めでゞあつた、夫から早速大掾に手紙を出した、曰く
 「前略、此間中手紙を以て、弟子を御賴致し候處、早速御承引下され、貴姓の、「二見」を以て、名前に遣はされ、祝着に存居申候、扨て藝道の儀は、如何やと内々心配致し候末、今日貴師の名染深き、宮松亭にて初日の演藝を聞き候處、先づ/\、名前を與へられた弟子たるに恥ぢぬ丈けの者とは、慥かに見受候、先づ「淨瑠璃を語る事を知つて居り、息遣ひが出來て居り、間拍子が調ふて居り、夫に件ふ鍛錬が出來て居り」候、元々田舎藝にて、詞や音遣ひには、無理な所もチヨイ/\有之候得共、先づ近來に、得がたき者と存候、云々・・・・・・・・・
と書いたが、其返事が面白い、
 「御尊書賜り、繰り返し拜讀仕候、「二見太夫」儀、不一方御世話御引立を蒙り候由、本人書状にても委細拜承致候/師弟の契約致し候私身に取り、重々ありがたく存じ上奉り候、殊に今日のお手紙、私共多くの門弟共と共に、長年御贔屓を蒙り候に、未だ一度も、此の如きお誉めのお詞を、旦那様に戴候者、一人も無し、只だ「二見太夫」一人のみ、斯る御賞詞を蒙り、私門弟の中より、斯る者を出し候事、私身に取り此上の喜も無し、此上とも、行末御愛想盡かし等無之様、數々御叱り、お取立の程、偏へに/\御願申上候、云々
と書いてあつた、夫から「二見太夫」に其手紙を見せたれば、「二見太夫」は忽ちに落涙して、
 「旦那様、マダ顔も見た事のない、日本一の師匠を、旦那様のお蔭で師匠に持ちまして、其師匠から斯る親身も及ばぬお手紙が、旦那様に參りますとは、私は如何致して此師匠様に、御恩報じを致したら宜敷や、是も只旦那様にお縋り申て、藝道の勉强致すの外、厶りませぬ、・・・
と云ふて居た、其後、越路太夫や南部太夫等が、大變ボヤき始めた曰く、
 「我家の師匠は、顔も知らず、名も知らぬ者に、自身の名字の名前などを遣つて、我々一生の中に、書いてもらへるかドウか判らぬ程の、立看板を書いて、夫が東京で當つたと云ふて、我々門弟の爲めに、一度も書いて呉れられぬ、禮状までを、旦那はんに、遣られたそふじや、アヽ我々の行未が、思ひ遣らるゝわい、
と云ふて居たとの事を、大掾が聞いて、兩人を呼付け、
 「お前等は、「二見太夫」の事を聞いて大變ボヤクそふじやが、夫は、東京の旦那はんに、お目に掛つた時、ボヤキなはれ、私は東京の旦那はんを、信用して居るのじや、「貴様の弟子にして好い者が居るから、コレ/\にせよ」とのお手紙であつたから、私は此年まで、澤山弟子も持つたけれども、マダ一度も旦那はんに、夫れ丈け云ふて貰ふた弟子を一人も持たぬ、アノ旦那はんは、私が四十六歳の時から、御贔屓になつた方で、引續いて弟子全體が、何かとお世話になつて來たんじや、其上、藝と云ふ物の、よく判るお方じやさかい、其方が、アレ丈け思ひ切つて云やはる事じやさかい「信用致ませぬ」とは、ドウしても云はれぬのじや、夫に、矢張旦那が、實地聞きやはつても、好かつたので、其事を立派に手紙に書いて、くれはつだので、其私の嬉しさは、お禮を申さずに居られるものでない、……お前等は、何も申さずに、一ぺん旦那はんが來やはつた時、「二見太夫」の咄を、聞いて見い
と云ふたとの事、此咄を聞いたから、帽人は越路と南部を呼んで斯く云ふた、
 「お前達は,大掾門下で、一二はあつても、三四とない優秀の太夫である、修業も練達も、天下に耻ぢぬ藝人である、夫が、素人に毛の生へたやうな、「二見太夫」と、なんで競爭心を起すのであるか、ソンナ魂性では、若し三人とも「明烏」を、素淨瑠璃で、田舎廻りに語つて、競爭したら、屹度負ける事受合である、ソンナ事は少しも氣に掛けず、今では、大隅の藝を聞き、師匠の藝を聞き、此兩人を負かす事を、ナゼ心掛けぬ、藝道は勝敗であるぞ/常陸山の弟子は、師匠と顔が合ふた時、師匠を投げて、土俵の上に埋めたら、師匠は涙を滴ぼして喜ぶのである/俺は藝人の藝を上達せしむるのが、一生の道樂であるから、藝さへよければ、誰でも喜んで世話をする、藝以外は、才智があらうが、辯巧あらうが、夫には一切關係はせぬのである、俺位の者にでも、可愛がられやうと思ふなら、唯々藝を磨きなさい、「二見太夫」と云ふ者は、化物である、今藝人になした斗りの男である、但し「明烏」では、慥かに感心したに相違ない事を、繰返して云ふておく、
と云ふて聞かせた、之を要するに「明烏」は、澤山語る者もあるが、帽人の生涯中に聞いたのでは、「二見太夫」が一番よい/其語り方は、當時「師匠仲助」の二枚目を彈いて居た「六代目鶴澤仲助」が、よく聞いて覺へて居る筈である同人に聞いて見れば、直に判るのである、帽人の耳に殘つて居る、「二見太夫」の「明烏」を書いて、此稿の責を塞ぐのである、(了)