(八十)明烏六花曙   山名屋の段

 此外題は、富士松新内流を焼き直して、芝居の舞台芸に組立てた物を、何でも四代目(*六代目)綱太夫が、織太夫の頃、床本に校正して語つたが始めじやと聞いて居る。明治時代になつて、色々の太夫等が盛んに演奏したのを数々聞いたが、皆何の興味も起る運び方ではなかつた。元本がコンナ風格も芸規もない物であるから、ドンナ風に語らうとも、太夫の力任せではあるが、余り流行するから、聞苦しくない丈けには運ばねばいかぬと思ふ。
 往昔五代目鶴沢仲助が、故後藤猛伯のお抱三味線であつた時、猛伯の家政整理のため、庵主に仲助の引受方を頼まれたので、其仲助の芸風を聞いて見ると、元々彼が二十歳台で、彦六座で故源太夫を弾いて三段目四段目を弾いて居る時の芸を聞いて居る耳では、猛伯のお相手を十年もして居たので、何とも始末に困る程芸がイジけて居る。是では到底駄目であるから、兎も角寄席に出よと命じた、仲助も其決心をして色々と太夫を物色したが、当時一人も適当の太夫が居らぬ。夫では素人の化物を探せと命じた、其頃豊沢松太郎の門弟で、松十郎と云ふ三味線弾が太夫になつて、甲府で宿銭もなくウヅ振つて居るとの事故、兎も角金を送つて招んで見よと命じた。早速来た男は十月末に浴衣一枚の男である。取敢へず築地の柏屋で手見に紙治の内を語らせて見たら、詞は音が低くて今一ッ工合が悪いが、浄瑠璃は器用に運が付て居のに感心した。是ならよいと云ふので、早速に衣服等を拵へて遣つて、化物として東京を威かさねばならぬので,直に摂津大掾に手紙を出して、門弟の中に加へて、口上看板を出してくれと頼んだら、大掾早速承知して、二見太夫と云ふ名を与へて、当時東京第一の義太夫寄席、日本橋茅場町の宮松亭に看板を掛けさせた。其初日の出し物が、此明烏六花曙浦里時次郎山名屋の段であつた。庵主は始めから此の太夫を馬鹿にして居る上に、出し物の山名屋が馬鹿にせざるを得ぬ物である。只だ仲助の三味線をのみ気にして居た所が、先づ『座敷も静かなり』の「ヲクリ」が、何だか変に感ずるほど穏やかにスーツと運ばれて、引付けられた。「ジヤン」とシメたら、太夫は「間」を放つたらかして、ヲヤと思ふやうな「間」で『雪はまだ』と極々汚ない声で「地色」に出た、「テン」と弾いたら又夫を捨てゝ、軽るく見台を押へて顎を突出して『残りて』と軽く云つて、『サーームーーウウ、キイーーイイ』と締つた声で云つて、又軽く『ハアルーーウウーーノウーーカーーアゼ』と云つたら、満場既に送りで押へ付けられて居た処に、此所になつて一方の隅から、溜り切れず「ヤア、越路太夫ソツクリだゾ……」と声が掛ると同時に、満場の大拍手であつた。夫から『フキーー』と「下」で止まつて、『ハレヌミノ浦里――ヲーーヲーーが』と軽く欺まして出た面白さ、『湯上リイ、イイーーイ、スガタ、ソノマヽニ』と云ふ声の頃合の好さと云つたら無い、『カムロノ、ミドリ、ウチイツレテ』と「足」を語り、『上る、二階』の「ギン」の音が一杯でよく。『縁(**緑)が煙草盆』と放つて置いて、「チン/\」と「長地ガヽり」となつて『煙に憂さは晴らして――ヱヽヽヽモ、ハアーーアアレーーヱヱ、ヱヌーーウ」「チン」「ヲモーーヲヲイーノヲ、時―次郎ヲ』「チン、チリンチ、チチテツツン、ツツンツンツン」との運びの好さと云つたら,兎も角満場酔つて仕舞つたのである。是から「文弥」になつて普通『セーーヱーーカアーーレヱーーテーーヱヱ』となるのを、ポンと捨てゝ、一寸見台を押へて、杖を突いて出て『ウ、セカレーーテヱ』「チン/\」『ヱヱ』「チン/\」「ヨイ」『ヱ………ヱー、イイ、マアーーワアアーー』と入れて『ヤア、マアナーーア、ヤア、アアアアアーーア』と止まつて、『アアアアーー、ノ………』と語り捨てた時は、只だもう聴衆は後も先もなく夢現を辿るやうになつたのである。夫が別に好い声でも何でもないが、芸がよくて、「間」がよくて、汚ない声の遣ひ方が上手で、ドンナ事を云ふにも覚へがあるので、破、舒、急、軽、重の運びがチヤンと鍛練してあるから、コンナ外連ものを外連に語るにも、浄瑠璃の風格がチヤンと据つて居る。此二見太夫の山名屋は、織太夫を初めとして、嘸誰も彼も語つたではあらうが、此人の此段は横から押ても、縦から押ても、ビクともする物ではない。決して似せ物ではない、鍛練の結果から出た芸と見へたのである。夫から『通ひ廓に咲く花の』の「ギン」から出る声が、全く語る道を知つた大太夫の語り口であつた。夫から時次郎の口説になつて「シアン」と「表具」に出る時、少しの当気もなく、目色をかへ「息」を詰めて『二人一処――、ニイーーイイ、死ヌウウナア、ラーーアーーバア、アトデーーヱ』「チン/\/\」と弾く時は、聴衆総てが其息に引付けられて啜り声を出したのである。夫から浦里の口説となつて、『ヱーーヱ』と泣き詰めた「息」の強さ、『ソリヤアンマリじヤ』の強さと云つたら、恰好が付かぬ位になつたのは、前の『ヱーーヱ』が強かつたからそふなるのである。『ナサケナイ』が泣声の「カワリ」が溜らぬ程よくて、直ぐに『今宵別れて私しが身や、可愛い縁(**緑)は、何と、「チヽチン」なろふと――ヲ、ヲモーーヲヲヲ、ワンーーンンス』と泣いた時は、本当に此段の山を語つたと思つた。夫から『呵責の、鬼に、引――イイツ……タテラレ』と『引立られ』を「息」を詰められる丈け詰めて「マクレ」気味に放り出して、寄席の満場が破れ出る程に云つて、『シホ/\』と「カワッ」た手際は、全く傍若無人と見へた。『シホ/\』の「ヲクリガヽリ」から『立つて行く――ウウ、後から』と『アトカラ』と足取に語つて『アタリヲ、ニラム、カヤガメノ』と意地悪るく云つて、『光アーーリンニ、カアガアヤアク』と「ヲクリ」になるまで、毛筋程の隙もなかつた。夫から「説教ガヽリ」の三味になつて、「チチチンチンチン」と渡したのを受けて『ヤアーーアア、ミーーイイ、イイ、イイイイイイイイーーイイ、イーーイイ、ワアアア、「チンチン/\」アーーアア「チン/\/\」ムウ、アーーアア」「チチンチン/\」となつた時は此太夫死はせぬかと思ふ程一杯に出た。夫からがらりと「カワリ」て探り気味に『あやなし浦里が』と云つたので、アヽ何所までよく語る事を鍛練したものかと感心したのである。夫から只だサラ/\と攫んで捨てるやうに語つて、彦六の二上新内で聴衆をドツと悦ばせて、『早や東雲の明烏』と段切つて仕舞つた手際は、全く明烏の標本と思つた。夫から後で考へて見れば、「詞」は矢張一本方低くて充分語れては居らぬ事に気付いたが、何様芸が出来て居るのでソンナ事は問題に考へられぬ上出来であつた。昔日から誰々の風などと云ふのは、斯くの如く一杯に出来た物の事から始まるのであるは申までもないが、庵主はコンナ仕様もない物で、斯く感じたのは之が始めでゞあつた。夫から早速大掾に手紙を出した。曰く、
前略、此間中手紙を以て弟子を御頼致候処早速御承引下され、貴姓の二見を以て名前に遣はされ祝着に存居申候扨て芸道の儀は如何やと内々心配致し候末、今日貴師の名染深き宮松亭にて初日の演芸を聞申候処、 先づ/\名前を与へられた弟子たるに恥ぢぬ丈けの者とは、慥かに見受申候、先づ浄瑠璃を語る事を知つて居り、息遣ひが出来て居り、間拍子が調ふて居り夫に件ふ鍛錬が出来て居り候、元々田舎芸にて、詞や音遣ひには無理な所もチヨイ/\之有候得共、先づ近来に得がたき者と存候、云々
と書いたが、其返事が面白い、
御尊書賜り繰り返し拝読仕候、二見太夫儀不一方御世話御引立を蒙候由、本人書状にても委数(**敷)相承致候、 師弟の契約致候私身に取り重にありがたく存じ上奉候、殊に今日のお手紙私共多くの門弟共と共に長年御贔屓を蒙り候に未だ一度も此の如きお誉めのお詞を、旦那様に戴候者一人も無之、只だ二見太夫一人のみ斯る御賞詞を蒙り、私門弟の中より斯る者を出し候事、私身に取り此上の喜も無之、此上とも行末御愛想尽かし等無之様、数々御叱りお引立の程、偏へに/\御願申上候、云々
と書いてあつた。夫から二見太夫に其手紙を見せたれば、二見太夫は忽ち落涙して、
「旦那様、マダ顔も見た事のない、日本一の師匠を、旦那様のお蔭を持まして、其師匠から斯る親身も及ばぬお手紙が、旦那様に参りますとは、私は如何致して、此師匠様に御恩報じを致したら宜敷やら、是も只々旦那様にお縋り申て芸道の勉強致すの外厶りませぬ」
と云つて居た。其後越路太夫や南部太夫等が、大変ボヤキ始めた。曰く、
「家の師匠は、顔も知らず名も知らぬ者に、自身の名字の名前などを遣つて、我々一生の中に書いてもらへるか,ドウか判らぬ程の、立看板を書いて、夫が東京で当つたと云つて、我々門弟の為めに一度も書いて呉れられぬ礼状までを旦那はんに遣られたそふじや、アヽ我々の行未が思ひ遣らるゝはい」
と云つて居たとの事を、大掾が聞いて、両人を呼付け、
「お前等は、二見太夫の事を聞いて、大変ボヤクそふじやが、夫は東京の旦那はんにお目に掛つた時ボヤキなはれ、私は東京の旦那はんを信用申して居るのじや、貴様の弟子にして好い者が居るから、コレ/\にせよとの、お手紙であつたから、私は此年まで沢山弟子も持つたけれども、マダ一度も旦那はんに夫丈け云ふて貰つた弟子を一人も持たぬ、アノ旦那はんは私が四十六歳の時から御贔屓になつた方で、引続いて弟子全体が何かとお世話になつて来たんじや、其上芸と云ふ物のよく判るお方じやさかい、其方がアレ丈け思ひ切つて云やはる事じやさかい、信用致ませぬとはドウしても云はれぬのじや。夫に矢張旦那が、実地聞きやはつても、好かつたので其事を立派に手紙に書いてくれはつたので、其私の嬉しさは、お礼を申さずに居られるものでない……。お前等は何も申さずに,一ぺん旦那はんが来やはつた時、二見太夫の咄を聞いて見い」
と云つたとの事。此咄を聞いたから庵主は、越路と南部を呼んで、斯く云つた。
「お前達は,大掾門下で一二はあつても、三四とない優秀の太夫である。修業も練達も天下に恥ぢぬ芸人である、夫が素人に毛の生へたやうな二見太夫と、なんで競争心を起すのであるか、ソンナ魂性では、若し三人とも明烏を、素浄瑠璃で、田舎廻りに語つて競争したら、屹度負ける事受合である、ソンナ事は少しも気に掛けず、今では大隅の芸を聞き、師匠の芸を聞き、此両人を負かす事を、ナゼ心掛けぬ。芸道は勝敗であるぞ、常陸山の弟子は、師匠と顔が合つた時、師匠を投げて土俵の上に埋めたら、師匠は涙を滴ぼして喜ぶのである、俺は芸人の芸を上達せしむるのが、一生の道楽であるから芸さへよければ誰でも喜んで世話をする、芸以外に才智があらうが、弁巧があらうが、夫には一切関係はせぬのである、俺位の者にでも可愛がられやうと思ふなら、唯々芸を研きなさい、二見太夫と云ふ者は化物である、今芸人にした斗りの男である。但し明烏では慥かに感心した。お前等は負けるに相違ない事を、繰返して云つておく」
と云つて聞かせた。之を要するに明烏は、沢山語る者もあるが、庵主の生涯中に聞いたのでは、二見太夫が一番よい。其語り方は当時師匠仲助の二枚目を弾いて居た六代目鶴沢仲助が、よく聞いて覚へて居る筈である。同人に聞いて見れば直に判るのである。庵主の耳に残つて居る、二見太夫の明烏を書いて、此稿の責を塞ぐのである。