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【私の履歴書 豊竹山城少掾】
(2026.02.25)
提供者:ね太郎
豊竹山城少掾(芸術院会員、文楽座紋下)私の履歴書
思い出せば明治二十二年、十二歳の時、文楽の大夫を志してこの道へ入ってからもう七十年余になりますが、この七十年というものは来る日も来る日も修業々々で追いまくられ、今日までただの一日も楽な日はありませんでした。
いや全く浄るり(義太夫ぶし)ほどやっかいな音楽はありません。それというのも、たった一人きりで殿様の声も出さなければならないし、お姫様にもならなければならないし、そのほかじいさん、ばあさん、芸者から傾城、武士、百姓、町人、でっちから非人、こじきにいたるまで語りこなさなければならないのです。そのうえ文章に従って喜怒哀楽、雨、風、雪、春夏秋冬の季節感や、着ている着物の色にいたるまで森羅万象、ありとあらゆる情景を表現しなければなりませんし、それには想像も及ばない力と業を必要とするのです。
「忠臣蔵」でいえば由良助から判官、師直、お軽、勘平、平右衛門、本蔵、力弥、定九郎、与一兵衛と、全部一手に引受けて語らなければならないのです。お軽がよく語れても、勘平が語れないような大夫はわれわれの仲間では″片輪″といいます。それだけに逆にいえばこんなむずかしいものがうまくやれればこんなおもしろい仕事はないといえましょう。といってなかなかできるものではありません。
ところで、長唄や清元ですと家元というものがあって、先祖から伝わった自分の家の芸を守ってこれを子孫や門弟に伝えていますが浄るりには家元がありません。それはあまりむずかしくて世襲制度が困難だからです。摂津大掾さんや団平さんのような名人のお子さんでもそれだけの腕がなければその名を継ぐことはできません。したがって昔の名人上手の語り口が完全に伝わらず、わずかに昔の名人上手の口伝を探りつつ継承しているわけです。
他の音曲や芝居がラクだとは決して思っておりませんが、これが芝居ですと、名優の御曹司が父の名跡を襲名すれば自分の修業もさることながら取巻きや、ごひいき連が盛り立ててくれたり、あるいは役柄によって成長し、父祖伝来の型を守ってゆけます。事実市川家は十代、尾上家は六代も連綿と続いていますが、われわれの方はそうはいきません。まず三代と続きません。全く裸一貫実力の世界です。
そこで私どもの方では、語りの「風邪」というものを目あてに勉強いたしております。「風」を離れてはこの道の芸はありません。「風」にもいろいろありまして、まず西風(竹本座)と東風(豊竹座)とありますが、これはあとになって大夫が東西入り乱れたので混乱を来しました。そこで私は、ごんにちいうところの「風」とは、ある浄るりの初演当時の大夫のすぐれた語り口、もしくはその浄るりを流行させた中興の方々の語り口であると解釈しております。それをたどって原作の精神なり、人物描写なりを研究するところにこの道の修業があると私は思います。たとえば「艶容女舞衣」の″酒屋″の初演は安永年間の豊竹島大夫ですが、長らくとだえていたものを復活上演した文化の竹本綱太夫、天保の豊竹靱大夫の残した「風」があり、それをさらに洗い上げた初代豊竹古靱大夫さんの「風」も範とすべきです。「太功記十段目」は麓大夫風、伊賀越の「沼津」は前の″小アゲ″(前半の端場)は咲大夫風、奥は染大夫風、近くは、ひばり山の「中将姫」や「廿四孝」をあれだけ立派に仕上げたのは摂津大掾さんですから、大掾さんの語り口を「風」とすべきでしょう。
ではこのような「風」が全部の滞浄りに残っているかといえばそうではありません。古い文献がなくなっているので、いろいろと調べても、ごくわずかしかわかりません。結局それは家元制度がないからで、浄るりというものは初演当時からみるとずいぶんくずれているわけです。それをくずさないように、古くからある立派な語り口を継承してゆくことこそわれわれに与えられた使命であります。
私はここ数十年来″古きに還る″ことを主張しまして、ときどき院本(原作のこと)通りに語ることがありますので、『あんな浄るりはない』などといわれたこともありましたが、そういわれてもいっこうにかまいません。
それは語りくずされた浄るりを聞きなれた方の批判ではないかと思います。「風をきわめる」、これが私の浄るりに対する信条の一つであります。
私はこの一月(昭和三十四年)の文楽座興行のあと二月の東京公演、三月の京都公演、六月の名古屋公演をもって七十年の舞台生活に別れを告げて引退、その後は及ばずながら後進の指導に余生をささげておりますが、これから先も「風をきわめる」という信念に変りはありません。
これも信条の一つですが、私は床に上がって浄るりを語るとき、つとめて行儀よく語るように心がけております。一段の最高潮の場面にくると顔をしかめ、首をふり、見台をたたき、身体を伸び上がらせて語る大夫がよくあります。こうするとある程度情がうつり、ひいては観客をひきつけることにもなりますし、第一語りやすいものなのですが、私はなるべくそういうことはしないようにしております。見台にしがみついたりするのはまだしも、ハナをかんだり、「カーッ、プーッ」とタンをはいたり、浄るりほど行儀の悪い芸はありません。
他の音曲より力を必要とする芸ですからある程度はやむを得ませんが、あんなにしなくても語れるはずです。″音曲の司″といわれる浄るりの品位を向上する意味においてももっと行儀よく語りたいものです。実業家の故渋沢栄一さんが摂津大掾さんの浄るりを聞いて『義太夫というものはなぜあんなに行儀が悪いのだろう』といわれたそうですが、ごもっともだと思います。しかし大掾さんは実はこのことをちゃんと心得ておられました。大掾さんはほんとは行儀よく語る方なのです。それを伸び上がったり見台にしがみついたりしたのはわけがあってのことなのです。あの当時、浄るりは芝居に押されて一時衰えておりました。そこへ彗星のように現われたのが大掾さん(当時二代目竹本越路大夫)です。天性の美音であるうえ、立派な修業をされた方だけに、ぐんぐんと芸が上がり、たちまち浄るり界を風びするほどになりました。その大掾さんがたまたまポンと見台をた,たいて伸び上がって語ったところ、それがいかにも自然で上品だったため非常にうけ、それ以来、そうしなければお客が承知しなくなり、これで一時衰えた浄るりが盛返ったほどでした。ですから大掾さんが行儀悪く語られたのはいわば興行政策からといってもいいでしょう。
それから私はいわゆる″あて込み″がきらいです。つまり大向うをうならせるという芸を好みません。語っているとき『よう、待ってました』と声が掛ったり、手をたたかれるのがにが手です。これは内気で陰気な私の性格がそうさせたのでしょうが、一つには「手がなるようでは芸が未熟だ」という古く井上播磨掾の教えもありますので、なんとかして拍手がこないように、客席をシーンとさせるような浄るりを語りたいと思っています。
こういうことがありました。私の古靱大夫時代で、あれは大正五年の暮でしたか、三代目越路大夫さんの一座に加わって東京歌舞伎座で素浄るりの興行がありました。私のだし物はお夏清十郎の「湊町」でして、この日、私のごひいき連が大ぜい見えて、お夏の出の〽遠山おろし雪おろし……のところでシャンシャンと手拍子を打つ手はずになっていたそうです。具体的に言いますと〽とおやーアアア(ア、トントン)まあー(テテテン)……というところのア、トントンは三味線が左の指で軽く棹をたたく間になっていまして、ここで連中さんが一緒にシャンシャンと手拍子をとるというのです。これを聞いたものですから、さあ困ったことになったと思って楽屋で三味線の清六さん(先代)と相談してはじめの〽とおやーの節をうんとのばして、ア、トントンの間を抜いて語りました。連中さんはあっさり肩すかしを食わされ、待ち構えた手拍子が打てなかったものですから、あとで『なぜあんな語り方をしたのだ』とお小言を頂戴しましたが『私どもは前々からこういうふうに教わっておりますので……』と逃げてしまいました。ごひいき連にすれば一つ古靱大夫に景気をつけてやろうという有難い思し召しだったのでしょうが、どうも私は拍手が苦手です。決してお高く止まっているわけではありませんが……。
それから床に上がったときお客がザワザワしているのはお客もよくありませんが、それ以上にζちらの方が悪いのです。床に上がった瞬間からお客の気分をこちらにさらってしまえばお客はシーンとしています。大掾さんや先代大隅さんなどはそれだけの威厳と力量がありました。普通なら「待ってました」と手がくるところでもお客は手を打つ余裕さえなくひきつけられ、固唾をのんでシーンとしていたものです。これがほんとうの芸だと思います。こういう芸を身につけたいと私はつねづね思っております。
いったい私という人間は、人に手をついてあやまることのできない強情な反面、無口で、引っ込み思案で陰気なところがあります。芸はその人がらを反映するものでして、私の浄るりは陰気くさくて、おもしろくないとよくいわれました。
大正の始めごろ特にそういう批判をいただきました。それというのも当時、芸の上では三世清六師匠に死なれ、家庭でも大勢の子供に先立たれたためか、なんとなく気がめいっていたのでしょう。
しかしよく考えますと、浄るりというものはどれもみんな陰気に出来ているものなのです。けんらんたる舞台で、派手なふりを見せるクドキ(注=俗にサワリといわれるが、クドキが正しいと山城師はいう)でさえ、そのほとんどは女性が、なげき悲しむ場面です。「太功記」の〽これ見給え光秀どの……にしても、「堀川」の〽そりゃ聞えませぬ伝兵衛さん……にしても「先代萩」の〽あとには一人政岡が……にしても、みんな女が、よよと泣きくずれて悲嘆の涙にくれるところです。
そこで一般にこのクドキをあて込んで語る大夫がいます。特に女義の方にこの傾向が多く、浄るりというものは「語る」ものであるということを忘れて「歌う」人が多いようですが、これはたいへんな間違いです。浄るりを歌うつもりだからクドキ中心にあて込んでしまうのです。その一段の浄るりの精神は、はじめの二、三行のマクラにあって、むずかしいのは、その″マクラ″と″ことば″です。「酒屋」に例をとりますと〽こそは入相の、鐘に散り行く花よりも、あたら盛りを独り寐の、お園を連れて爺親が、世間構はぬ十徳に、丸い天窓の光さへ、子故に暗む黄昏時……あたりまでのマクラが大事です。ここに娘のお園をあわれむ父親宗岸のしみじみとした情が出ています。はじめの〽こそは入相の鐘に散り行く……は霞んだ遠い鐘の音の気分を現わしながら語り、そのあとは宗岸の地合で、若い身空で、後家になる娘のさびしさをあわれむ感じを出さなければなりません。〽子故に暗む、ツンで……われに返り、気をかえて〽黄昏時……をいいます。
そのあと半七の父半兵衛といろいろやりとりがあって、半七には三勝という女があること、半七がおたずね者になったこと、おたずね者でもいいから半七のそばにいたいと願うお園があわれさに〽あいつを思ふ俺が因果、俺もこなた程はなけれ共、娘はかはいゝ、おれやかはいゝ、不便でござるわいのふ……で宗岸が泣くところは十分に答えさせなければなりません。私はこのへんを楽しんで語っています。続いて半兵衛の〽道理じゃ道理じゃ宗岸殿と、あとは詞もないじゃくり……となりますが、「泣いじゃくり」は「なアいイ」ですすり、「ヤ、オイ、じゃくウゥゥり」とあて込む人もありますが、それでは「ない」と「じゃくり」が別々になって「泣いじゃくり」のかけ文句が死んでしまいます。私は「なアァいイィじゃくウ……」まで続けて、すすり「ウーウーリ」とやります。それから半兵衛のセキ込みがあって、宗岸、半兵衛、母親が奥へ入ると〽跡には園が憂き思ひ……のクドキになり、ここで「待ってました」と声がかかるわけですが、私はそれまでの宗岸と半兵衛に力を入れて語り、クドキは目当てにしません。
この一段は心とことばのうらはらな半兵衛もむずかしいですが、なんといっても宗岸の情合いが眼目だと思って宗岸をしっかりつかまえて語ります。
〽今ごろは半七さん……以下は、三味線に派手な手がついていて、人形の見せどころですから、語る方はせいぜい引締めて地味にやります。
まあこういった調子ですから私の浄るりはおもしろくないということになるのでしょうが、院本を何回もくり返して読んでみると、作者はたしかに宗岸や半兵衛に力を入れて書いていることがよくわかります。「堀川」でもお俊や伝兵衛よりも母親が大事ですし、「忠臣蔵六段目」の勘平切腹も、勘平やお軽は二の次で、娘のお軽を遊女に出したあげく、婿の勘平に先立たれるお軽の母親の悲しさが眼目だと思います。「正確な人物描写」これも浄るりに対する私の信条の一つです。
大分理屈っぼい前置きを長々と書きましたので、ここらで本題の履歴書に入りましょう。お古い話で、おぼろげながら思い出すままに書きしるしますが、私は本名を金杉弥太郎といいまして、明治十一年十二月十五日、東京は浅草の馬道でうぶ声をあげました。文楽の大夫にはめずらしく江戸ッ子です。父は銀造という筆職で、私の生まれた当時は十数人も職人を置いて盛んにやっていたようです。母は大阪の者で「えい」といいました。父は若い時分に極道をして大阪へ流れ、母と結婚して東京へ舞いもどったらしく、私は父が四十三、母が二十五歳の時の子です。兄があったそうでらすが、生まれて間もなく死に、ほかに「さと」という姉と「八重」、「ふく」という妹、蔵造、栄次郎という弟がいまして、つごう七人兄弟でしたが今では私と東京にいる八重の二人きりになりました。私の生家は馬道九番地で、本通りからちょっと路地を入ったところにあったと思います。馬道通りに出た筋向いに小松屋という菓子屋があって、物ごころがついたころから毎日通って″鹿の子″”すあま″″ようかん″″切ざんしょ″などを手当り次第に買って食べたものでした。
毎日一銭の小づかいをもらっては、三つか四つ買いましたから多分一つ二厘か三厘でしょう。小松屋のとなりが大黒湯、そのほか鳥料理の金田、これはいまでもあります。そばやのよろずやなどもかすかにおぼえています。店の名は忘れましたが絵草紙屋が一軒ありまして、そのころからいろいろな絵草紙を買い集めました。私には収集癖がありまして、前々から相当な量の院本を集めておりましたが、その丹精のかいもなく戦災できれいのこらず焼いてしまいましたのが一生の心残りです(注=ある文楽研究家の説によると山城師の蔵本は時価数千万円といわれている)。いまになって考えますと、私の収集癖はこの絵草紙から始まったといっていいでしょう。絵は国周、周延、清親といろいろありましたが、国周が特に多いようでした。団、菊、左の「忠臣蔵」の似顔で、顔のところだけめくれるように、替り役者の似顔を何枚もはりつけたのもありました。三枚続きの似顔絵が一組三銭でした。金田の筋向いに酒屋があって、そこへ毎日酒を買いにやられました。
父は朝から一升酒をあおる酒豪で、のんでいる時、きげんがいいと『おい弥太公、おめえも一ぺえやんねえ』とかなんとかいって私にものませるのですが、五つ、六つの私が結構父のおつき合いをしました。後年、私が大の左党になったのも、父のこのありがたい(?)教育の賜物でしょう。
いまも同じところにありますが、浅草広小路の馬道の角が郵便局で、その並びの吾妻橋に寄った左側に東橋亭という寄席がありました。明治十八年に大掾さんの二代目越路大夫さんが出ました。そのあと先代大隅さん、名人団平さんの一座もかかったことがあり、私は毎晩のように聞きに行きました。東橋亭はその後いわゆる″タレ義太″の女義太夫の常打ちになった有名な席です。東橋亭の横丁に先代幸四郎さんのお父さんの藤間勘右衛門さんが住んでおられたこともおぼえています。
仲見世も思い出です。「紅梅焼」や「はじき豆」「雷おこし」もよく買って食べましたが、現在と違ってそのころは店という店はほとんど掘立小屋か″テント張り″で、夜になると百匁ろうそくやランプで商売をしていました。仲見世の裏通りの「梅園」というしるこ屋、表通りの「ちんや」という料理屋(現在は牛肉屋)、そばやの「尾張屋」それから駒形の「どぜう」などもよく父や母に連れていってもらいました。みんな、いまでもある古い店です。
観音さまの境内の奥山には「デロレン祭文」「砂絵」「居合抜き」「手妻師」「のぞきからくり」などいろいろの大道芸人が群集していてたいへんなにぎわいでした。
デロレン祭文は、ホラ貝を吹いて錫杖をチャリンチャリンならしながら祭文をうたうのですが、ざるをつるしたサオを突出してお鳥目の催促をすると、たちまち人だかりが散らばっていきました。砂絵は「南無妙法蓮華経」をとなえながら地面へ砂で絵を書くのです。居合抜きは木綿の紋付に、はかま、たすきがけのいでたちで口上を述べたあと、一間もある長い刀を抜いて見せるのですが、これは歯痛の薬を売っていました。
大きなからかさをたてた、おばあさんのハトの豆売りだけは昔もいまも同じです。こんな古いことを思い出して書いていると全く子供に返ったような気がします。
父はたいへんハデ好きであったうえ、芸ごとが好きでしたので、姉は清元のけいこをさせられ、私は四歳のころ歌舞伎の子役になりました。もちろん父の手引で、当時、浅草の今戸に住んでおられた先々代片岡我童さんに弟子入りして片岡銀杏と名乗りました。この我童さんはのちに十代目片岡仁左衛門になられた人で、有名な十一代仁左衛門さんのお兄さんです。その我童さんの妹婿に片岡仁三郎という方がいて、そのお子さんが終戦後、悲業な惨事でなくなった十二代仁左衛門さんで、この人が生まれるまで私は師匠の養子になるように話が決まっていました。人の運命はわからないもので、もし十二代目さんが生まれなければ私は十二代目片岡仁左衛門になっていたかもしれません。
ここでおぼろげながら舞台の記憶をたどってみましょう。年月は忘れましたが、浜町の明治座の前身の千歳座に出たことがあります。出し物は「祇園祭礼信仰記」で、この時の配役は久吉が師匠の我童さん、是斎が九蔵さん(後の先代団蔵)、新作が家橘さん(十五代羽左衛門の父)小次兵衛が尾上松助、加藤が五代目菊五郎さんで、私は輝若丸で我童さんの久吉に抱かれて出ました。そのあと三段目の是斎内の場で、みなし子になった私の輝若が花道をトボトボと歩いてくるあとから、里の子が五、六人竹を持って追いかけてくる中に、当時、竹松だった十五代羽左衛門さんが一緒に出ていたのをおぼえています。
大失敗をやったことがあります。なんという小屋だったか忘れましたが、横浜の巡業の時でした。「関取二代鑑」が出まして、秋津島内の場で、私はせがれ国松をやっていました。我童さんの秋津島が切腹してその血を国松にのませると国松が苦しむ場面で、私は昼間の遊び疲れでグウグウ寝込んでしまいました。さて目がさめると、あとのせりふをすっかり忘れて立往生をしてしまい一幕をワヤにしてしまいました。この時、舞台の袖についていた母は泣かんばかりの大騒ぎで、あとで母や師匠からさんざんせっかんされましたが私の方はいっこうにがんぜがありませんでした。
我童さんは芸にかけては厳格でしたが、私生活ではとてもやさしい″おじさん″でした。なかなかの男前で、役柄は立役、二枚目が得意でして、女形はあまりしませんでした。
父は私をひとかどの歌舞伎役者にさせたいと思ったのでしょう。朝は踊りと長唄のけいこをさせられ、午後は学校へ手習いに行かされました。踊りは先代花柳寿輔さんに習いました。寿輔さんは浅草田町におられまして、たいへんやかましい方で、けいこ場ではいつも竹の棒を持っていて出来が悪いとシリやヒザ小僧をピシピシやられました。長唄は杵屋勝十郎さんでしたが、どうも記憶がさだかでありません。学校は雷学校といって、浅草郵便局の前の横丁にありましたから、ちょうど並木クラブという寄席のあたりにあったと思います。
学校といっても、明治十七、八年ごろですから寺子屋も同然でした。吉田文五郎さんがこの履歴書で寺子屋時代のことを書いていましたが、全くあれと同じです。芝居のない時は毎日五冊ぐらい草紙をぶらさげて手習いに通うのですが、サッパリ身が入らず、観音さまの奥山で遊んでばかりいました。奥山には前に書いた大道芸人のほかに軽業や玉乗りの小屋が掛り、当時の子供らのあこがれでした。私はいつも草紙をぶらさげて『行って参ります』と勢い込んで学校へ行くふりをしては毎日のように奥山を遊び回り、学校の終るころを見計らって草紙を適当によごして『ただいま』とすました顔で家へ帰りましたが、とうとう学校から『弥太郎ちゃんはこのごろ休んでばかりいるが病気ですか』と使いが来たものですから、すっかり旧悪が露見して、父に十日もアザが残るほどシリをたたかれたことがありました。それからというものは大福帳を渡されて、長唄と踊りのけいこ場と、学校の出席のハンコを押してくるようにさせられたものです。
このように父も母も私を立派な役者にしようと力を入れ、大分金も使っていたようですが、どういうものですか私は子供ごころにも役者がイヤでイヤで仕方がありませんでした。というのは、あのおしろいをぬられるのがたまらないのです。男なのになぜ女みたいにおしろいをぬられなければならないのだろう、とそればかり考えていました。舞台へ出る時も母や姉がソデについて押しやるように出されるのですが、いよいよ出になるころに『おしっこがしたい』といい出しては二人をてこずらせたものでした。
八歳のころから浄るりのけいこをしました。これも役者修業が目的でしたが、そのころから私は役者より浄るり語りになりたいと願うようになりました。勢い浄るりのけいこに身が入ったのはいうまでもありません。手ほどきは近所に住んでおられた竹本政子大夫さんです。たいへんおとなしい方であまりしかられた記憶はありません。この方は浄るりのけいこのかたわら″うらない″をしておられました。三方の上にお地蔵さんのようなものをのせて信者の悩みを申上げ、そのお告げを信者に伝えては″おひねり″に包んだお布施をもらっていました。私はこの方に「高野山」や「日吉丸」なんかを教えていただきました。これとは別に鶴沢清道さんという方にも習いました。これは政子大夫さんとは違ってなかなかやかましい方で、よく小言をいわれました。どちらかといえば″いなかのけいこ屋″といった感じでしたが、お二人とも私にとってはたいへん思い出の深い方で、その後文楽に入っても、上京するたびに必ずお二人のごきげんうかがいに参りました。
もう一人子役時代の友だちで幸ちゃんというのがいました。これは五代目菊五部門下の尾上幸蔵さんのそのまた弟子で、幸丸といい、後に尾上大五郎(本名牧野五郎三郎)となって六代目菊五郎さんの支配人になった人です。向うでも私を「銀ちゃん」と呼び、つい昨年(三十三年)亡くなるまでお互いに東京や大阪へ行くたびに必ずたずね合い、手紙のあて名もいつも「幸ちゃん」「銀ちゃん」でした。いずれもなつかしい人たちです。
さて前にも書きましたが、明治十八年に文楽が東上して猿若町に掛りましたとき、父に連れられて見物しました。出し物は「廿四孝」と「合邦」でしたが、「廿四孝」の勘助住家を二代目津大夫さん、「合邦」は大掾の二代目越路さんでした。この時は全く子供心にもお二人の芸にすっかり魅せられてしまい、それ以来私は浄るりのとりこになってしまいました。人形使いは役者と同じようですが、大夫は一人で幾役も語りこなし、人形も三味線も大夫のいう通りになるのだから、大夫がいちばんえらい。なんとかして大夫になりたいと思うようになりました。
それからというものは毎日しつように『役者はいやだから、どうか大夫にしてくれ』とダダをこねましたところ、あまり熱心なので、とうとう父も私のいうことを聞いてくれまして、十歳の時、改めて五代目竹本津賀大夫さんに弟子入りして小津賀大夫と名乗り、子供大夫としてあちこちの寄席に出ました。津賀大夫さんは江戸ッ子で、小がらな方で、政子さんや清道さんとはまた違った語り口でした。こうして津賀大夫さんに二、三年けいこしていただきましたが、父の同業者で馬渡新兵衛という大阪の人がいまして、この方が『浄るりのけいこなら大阪へ行かなあかん』と父を説得され、その熱意に父も動かされ、明治二十二年六月、十二歳のとき、津賀大夫さんにお別れして父に連れられて大阪へ参りました。途中名古屋巡業中の我童さんに事の次第を申上げ、まず木田(西区)の母の姉の家にいったん落着き、南地に住んでおられた我童さんの弟の我当さん(後の十一代仁左衛門)をたずね、我当さんの口ききで、俗に「法善寺の師匠」といわれる前記の二代目竹本津大夫さんに入門したわけです。津葉芽大夫という名をいただきましたが、これは師匠のごひいきの堀勝造さんという方が、前の師匠の我童さんの俳名″芦燕″にちなんで考えて下さったものです。
これで私はあこがれの大夫になったわけですが、これから難行苦行が始まるのです。まずこの年の八月、津大夫師匠について御霊文楽座の楽屋へ入り、師匠の雑用をしていました。当時文楽座の紋下は、大夫は二代目越路大夫、三味線は五代目広助、人形は吉田玉造さんと、いわゆる三業紋下でありまして、文楽の黄金時代でした。このとき師匠は「庵」(紋下に対する控えの位)になられました。そして十月興行からはじめて私の津葉芽大夫の名が番付に乗り、十一月興行からはじめて出演しました。この時は「菅原伝授手習鑑」の通しで、私は大序大内の段を先輩の大夫さんたちと、ミス内でほんのちょっぴり語りました。
私たちが文楽へ入ったころは大夫の序列というものが現在よりはっきりしていました。大夫の階級は大きく分けて、大序、序中、序切、二段目語り、三段目語りといろいろあります。これは昔から時代物の狂言が五段組織になっていまして「大序」「二段目」「三段目」「四段目」「五段目」に分れているところからきているのではないかと思います。
「仮名手本忠臣蔵」が俗に十一段といわれていますが、あれは十一冊というのが正しいので、各段の語り口から分けると五段組織になっています。つまり「鶴岡兜改め」から俗に三段目といわれる「松の廊下」までが大序、四段目といわれる「判官切腹」が二段目、「二つ玉」が三段目の立端場、「身売りから勘平切腹」が三段目、「一力茶屋」が掛合い場、八段目といわれる「道行旅路の嫁入」が道行、九段目といわれる「山科閑居」が四段目、「天川屋から討入り」が五段目になるのです。大序で全曲を一貫する事件の伏線を置き、二段目で判官の切腹という事件の原因を描き、三段目は勘平の腹切という、事件の原因から導かれた突きつめた場面になり、四段目はその突きつめた場面から一転した「一力茶屋」とか「道行」をはさんで本蔵の切腹という愁嘆場になり、五段目が討入りで大団円という仕組みになっています。
説明が長くなりましたが、大夫の序列もこの五段組織にならってありまして、まず文楽へ入って大夫の名前をもらうと「大序」に入ります。それから序中、序切、二段目、三段目語りになりますが、「三段目」は全段のヤマにならっていて、曲もむずかしいのですから、人によって得手、不得手はありますが、三段目語りになれば立派なもので、四段目、五段目も語れます。
というわけで新米の大夫を「大序」と申しますが、さて大序の人々はどんな仕事をしているかといいますと、大序を語る時、三味線は大体、裏四本ぐらいの調子でやります。普通大夫は五本か六本の調子ですが、それでさえ他の音曲に比べて倍以上の声量を必要とするのですから大序はそのまた倍の高い声量を要するのです。忠臣蔵以外の大序はたいてい五行本の十二、三枚で、それを七、八人から十二、三人の大夫が朝の七時ごろからお客がまだ二、三人しか来ていない小屋のミスの中で語るので、仕事は簡単ですが、その苦しいことはたいへんなものです。
何しろ裏四本というと現在われわれの語っている調子の大体一オクターブ高いのですから、それこそ声はつり上がってノドはヒリヒリになります。いきおい大夫は思い切り顔をしかめ、見台にしがみついたり、のび上がったり七転八倒の苦しみです。そこであまり見にくいから大序はミス内で語るようにしたのだと聞いております。
話は違いますが大正の初めごろ、三代目津大夫さんのところへ九州で相撲をしていた二十五貫もある若い大男が入門しました。米俵を軽々と持上げる力持ちで、津和大夫という名前で大序へ入りましたが、一、二年すると突然いなくなりました。話によるとけいこをやりすぎてロク膜になったのだそうです。武蔵大夫というのがいました。この男はなかなかの美声で、浄るりを三十年もやっていましたが、ある時、清元梅吉さん(現在の寿兵衛)が武蔵大夫の美声を聞いて「ぜひ私のところへ来てくれ。立派な清元の太夫にして見せる」とすすめられたのですが、それを断って大正十五年私のところへ弟子入りをして武蔵大夫と名乗りました。当時五十歳でしたが、しばらく大序にいました。梅吉さんから嘱望されたほどの人が五十歳で大序で甘んじていたのです。
新派の伊志井寛さんもいまから四十年ぐらい前、一時文楽座の大序にいて津駒大夫といっていましたが、これもけいこでハラに力を入れすぎ、脱腸になって役者に転向しました。
まあこんなぐあいで、浄るりの修業というものは素人の方々の想像も及ばない力がいるのです。
私どもの若いころは名庭絃阿弥(前名六代目豊沢広助)さんという名代のやかまし屋がいまして、この方は毎朝大序のあくころから楽屋入りをして大序の連中の浄るりを聞いては、いちいちだめを出しておられました。まずいことには絃阿弥さんのお部屋は楽屋と舞台の入口にありまして、どうしてもそこを通らなければならないのです。絃阿弥さんは早朝から楽屋にデンとすわっていて舞台から引込んでくる大夫の一人々々をつかまえては『まずいな』とか『もっと勉強せなあかん』などといちいちしかりとばしていました。
私もやられましたが、全く関所を通る気持でした。しかしそれが若い者のはげみになって、みんな修業をしたものです。そして勉強しすぎては身体をこわしたりする者があるかと思えば、若死をしたり、修業のつらさにたえかねて廃業するものもある、といった調子で、私が大序にいたころ、津子大夫、鶴尾大夫(後の三代目南部大夫)谷栄大夫、十九大夫、氏登大夫、越戸大夫、品尾大夫、津満大夫、綾の大夫、鶴五郎(現在の清八)などと、ずいぶんいましたが、物になったのは鶴尾大夫と鶴五郎ぐらいなもので、あとはみんな脱落しました。
前に書いたような修業を積んで、出世の早い者で四、五年、遅い者で十年ぐらいかかって「大序」から「序中」になり、さらに十年以上も修業して「序切」に出世します。序切語りになればもう一人前で、楽屋では羽織を着られるようになり、三段目や三段目の端場(導入部)を勤めることもできます。しかし序切語りになるまでに修業のつらさに何人かが脱落してしまいます。ひどいのになると序切はおろか一生大序にいた人さえあります。
さて私は大阪へ来て父も一年ばかり一緒についてくれましたが、仕事のつごうで父が帰京するについて難波駅前の路地に住んでおられた野沢吉十郎さんのお宅へ月二円の飯代で置いていただきました。吉十郎さんは吉兵衛さんのお弟子で芝居のチョボに出ていました。当時、文楽座は朝七時に幕があきましたので、われわれ小僧は一時間前の六時に小屋入りをしなければなりません。それには四時ごろ起きて、まず吉十郎さんにひとくさりけいこしてもらい、それから手弁当で五時前に師匠のお宅へあがります。お宅は法善寺横丁で茶店をしておられましたので、そこに泊めてもらっている相弟子の津子大夫と二人で店の掃除をして、のれんをかけたり、ヨシズをつったり、打ち水をして朝の支度をすませてから、床本をかかえて御霊まで約十町ばかりの道をスタコラ歩いて六時ごろ小屋入りをします。大序がすんだころ師匠の楽屋入りをお迎えしてから師匠のお帰りまで、お茶くみから使い走りまでいっさいの雑用をさせられます。そのうえ、師匠のお帰りがお車ですとお宅まで車の後押しです。
このほか、われわれには番付配りというやっかいな仕事があります。興行の始まる二、三日前に番付ができ上がりますと私が師匠のごひいき先へ番付を配りに回るのです。現在のように電車がありませんから、夏といわず冬といわず大阪中の東西南北をテクるのですが、これがなかなか面倒です。ある夏のことでした。例によって数十枚の番付を持って中之島を歩いていると、三次郎という三味線ひきの卵とばったり出会いました。とたんに悪い了見を起し、どちらからともなく『堂島川で泳ごう』ということになり、私は一回ぐらい番付を配らなくてもいいだろうとばかりに、大江橋から持っていた番付を川へ投込み、二人でジャブジャブやったものです。
さて汗も引いたので、いい気持で上がってみると、こはいかに、ぬいであった二人の着物が盗まれているのです。いくら昔でもすっぱだかでは歩けません。途方にくれていると、ちょうど相乗りの人力車が向うから来ましたので″これは助け船″とばかりに飛び乗り、二人で膝かけの毛布を頭からかぶってひとまず老松町(北区)の三次郎の家まで行き、そこでおふくろさんに三次郎の着物を借りて何食わぬ顔をして師匠の家へ帰りました。
ところが悪いことはできないもので、久原さんという師匠のごひいき先が、ちょうど堂島川の川下にあって、そこの女中さんが石段を下りて川で洗たくしているところへおり悪しく私の投げた番付が固まって流れてきたらしいのです。女中さんは何気なく拾い上げると竹本津大夫の印を押した番付なので御主人に見せると、御主人はシワをのばしてしまっておいたのです。二、三日して師匠があいさつに行かれた時、久原さんは『こんなものが流れてきよった。津葉芽か津子大夫の仕業と違うか』といわれ、たちまち悪事露見で師匠から大目玉を食わされました。
ところで私は立派な師匠に弟子入りはしたものの、くる日もくる日もこんな雑用をさせられ、師匠はいっこうに私に浄るりのけいこをしてくれませんでしたが、子供心の気安さからしばらくたって「日吉丸」や「高野山」などを教えてもらいました。師匠はどちらかといえば、あまり風采は上がらない方でしたが、一面なかなか上品で″お公卿さん″というアダ名が付いていたくらいで、温厚なお人だけにあまりきびしくありませんでした。一つにはまだ十二、三の子供ですから、やかましいこともいわなかったのでしょう。しかしいま考えるとこれは大変なことです。大休、師匠というものは自分の弟子にはあまりけいこをしないものです。私の兄弟子なども、ほとんど、けいこなどしてもらっていませんでした。それを日本で一、二といわれる大師匠が直接手をとって教えて下さったのです。しかし、なんといっても私と師匠では格が違いすぎますので、そうたびたび、けいこをしていただくわけにもいきませんので、私は師匠をはじめ先輩方の舞台を拝見していろいろと聞きおぼえ、師匠以外の先輩方にも、けいこをしてもらいました。
浄るり以外の社会ですと、一定の師匠に弟子入りしていながら他流の方々にけいこをしてもらうことは許さないところもあるようですが、一見封建的に見えても、われわれの社会はこういう点では案外開放的です。「壼坂」は大隅大夫さんがいいとなればすぐさま大隅さんにけいこをお願いします。「岡崎」は越路大夫さんに限ると思えば、芝居の開く前に越路さんのお宅へ押しかけるといった調子です。早い話が『わてにばかり習わんかて、だれぞほかの師匠にけいこしてもらい』という師匠さえあります。
おかしな話ですが、こういう場合ほかの社会では金品をお礼に持っていくところもあると聞いておりますが、われわれの方はだれでも無報酬でけいこしてくれます。そのかわり、これはと思う師匠方に対してはふだんからかわいがられるように心掛け、お茶くみから使い走りの雑用をしてあげるのですが、報酬といえばこれが報酬でしょう。これは結局われわれの給金が安いからこういう習慣ができたのでしょうし、また一つには家元制度がないから、自然開放的になったのでしょう。
こうして習いおぼえたものを自分のモノに仕上げて、こんどは師匠に聞いてもらうのですが、芸がくずれてさえいなければ師匠は決して何もいいません。なにしろわれわれの修業時代には師匠の津大夫をはじめ団平、摂津大掾、大隅大夫、越路大夫、五世広助、絃阿弥、吉兵衛、三世清六さんといったそうそうたる名人がキラ星のように並んでおられましたので、こういう方々の立派な芸を盗み放題盗めたのですから全く幸福でした。
話はあともどりしますが、こういうわけで私もはじめのうちはおもに大序の古顔の三味線ひきの方々から「菅原伝授」「彦山権現」「妹背山」「加賀見山」などの大序をつぎつぎにけいこしてもらい、明治二十二年十一月興行の時、「菅原」大序を初めてミス中で語りました。語ったといっても〽蒼々たる姑射の松、化して婥約の美人と顕れ、珊々たる羅浮山の梅、夢に清麗の佳人となる……とほんの一くさりです。そのあと順々に先輩たちが語ってゆくのです。こうして「妹背山」「八陣」「一谷」「伊賀越」など毎月大序を勤めていましたが、幸いにも明治二十四年一月興行から大序を抜けて序中に進みました。時に十四歳です。
子供のことでもあり、師匠に弟子入りして二年目だったので″異例の出世″などと騒がれたようですが、これは一つには文楽座に子供大夫ははじめてのことで、珍しがられたのでしょうし、また子供なるがゆえに大序の高い調子も案外ラクに語れたからで、どちらかといえば運がよかったのです。(編者注=これは大変なけんそんで、大阪の文楽通や古老にいわせると、このような早い出世は団平以来の由)
この時お仕打(座元の植村家)からはじめてお給金をもらいました。十五日ごとに二十銭です。一体文楽では弟子入りして二、三年は師匠の雑用ばかりさせられ、けいこもしてもらえなければ舞台へも出られません。二、三年たってやっと大序に入りますが、それでも給金はもらえません。大序を抜けて序中に入るとやっともらえるのですが、それが二十銭です。修業はつらい、給金はくれない、というわけで、大序に何年もいる古い人たちはバカバカしくなって廃業するか、いなかへ帰って素人相手にけいこ屋をはじめるわけです。
さて二十銭の給金をもらったものの、二十銭で十五日間食っていけるわけのものでもありませんし、前にも書きましたように、私は毎月二円、父から仕送りを受けていましたので、最初の二十銭札と、番付を裏返して作った給金袋を神ダナに供え、記念のためにとっておきましたが戦災で焼いてしまいました。
文楽座入座二年目で首尾よく大序を抜けたものの、その月末に母が病気になったとの知らせを受けたものですから私は取り急ぎ東京へ帰りました。しかし帰ってみると母の容体はそれほどでもなく、間もなく回復しましたが、その代り″筆銀″で鳴らした父も寄る年波ですっかり落ち目になっていました。大勢いた職人も暇を出し、母と二人差し向いで筆作りをするというていたらくでした。姉のさとは芸者に出され、私は妹の八重や、ふくをおんぶして、ふき掃除から飯たきまでしなければなりませんでした。私を呼び戻したのも、実のところ、私を手元においていくらかでもかせがせたかったらしく、よんどころなく、私はその後しばらく東京にとどまって寄席に出ました。
この時はおこがましい次第ですが、子供大夫の私が真打で看板をあげました。二枚目がチャリ語りの靱木大夫、三枚目は筆大夫、四枚目が美浜大夫という、いずれも東京の寄席を回っていた人たちで、私は大阪から吉十郎さんに来てもらって三味線を弾いてもらいました。そのころ私も十五段や二十段ばかりおぼえていましたので、四谷の「喜代志」、麻布「十番」など市内の寄席を毎晩打って歩きましたが、前に書いた「東橋亭」や日本橋茅場町の「宮松」という席はなかなか格式を持っていまして、当時は私のような者はまだ出られませんでした。半年ばかりたって竹本播磨大夫さんの一座に加わり、私は三枚目で出演しました。睦という組合がありまして、それに加盟している東京の寄席を打って回りましたが、播磨大夫さんは人気がありましたので、いつも客席はいっぱいで不入りの時でも三百と下りませんでした。木戸は五銭から八銭ぐらいでしたが、寄席では客一人につき二銭ぐらいをハネ、その残りが楽屋の身入りになります。その中から真打と二枚目あたりまでが歩合いをとり、あとは頭割で、私は三厘もらっていましたから、五百人入れば一円五十銭になりますので文楽の給金の五倍にもなり、結構家計の助けになったわけです。私はいつも真打がすむ十時すぎまで楽屋にいましたので家へ帰るのが十二時か一時になりました。もちろん昔のことですから電車はなく、鉄道馬車が浅草から下谷山下まで二銭、人力車は五銭ぐらいでしたが、家計が苦しかったので、牛込あたりからでも毎晩歩いて帰りました。
しかし四谷や牛込から歩いてきますとすっかり疲れ、お腹もペコペコになりますので馬道まで来ると路地の表の牛飯屋へ寄り、内証で熱カンを一杯つけてもらったあと二銭か三銭で牛めしや開化丼を食べたものです。
翌二十五年の春十五歳の時、綾瀬大夫さんの口ききで有栖川宮邸からお召しがあり、綾瀬さんと二人で霞ヶ関のお屋敷へ伺いました。宮様はかねて綾瀬さんがごひいきで、よくお座敷へ招いて浄るりをお聞きになられたそうで、私は綾瀬さんの前座を語らせていただいたわけです。赤い毛せんを敷いた広い二間続きの奥のお座敷でまず私が「日吉丸三段目」を語り、そのあと綾瀬さんが「忠臣蔵九段目」を語られました。宮殿下、妃殿下、若宮様もおそろいで、宮様は白羽二重のお召物で、ご熱心に聞いておられました。若いお女中は髪は高島田で帯を矢の字に結び、年配のお女中は笄をさし、薄化粧をして、みんな裾を引いておられ、まばゆいばかりのその情景に私はポーッとしてしまいました。長いお廊下には金網のあんどんがかかり、長持が置いてあったりして、加賀見山の「長局」の舞台そのままのようでしたので、私は「長局」を語るたびにこの時のことを思い出します。
この年の暮に私の一家は赤坂の山王下へ引越しましたが、翌二十六年の三月、相変らず播磨大夫さんの一座で打って歩いているうちに神戸の播半という料理屋さんでぜひとも私を養子に……という話がありました。これは引越した家の隣りの松本芳太郎という仕立屋さんのお世話でした。この方は俗に″江戸芳″といった仕立職の名人で、一時大阪にもいたことがあり、相当顔の売れた人でした。父としても家計も苦しいことだし、相手が立派な料理屋さんでもあることですし『まあよかろう』ということで、その年の八月、ちょうど団平さんや大隅大夫さんが東海道を巡業中でしたのでその一座に加えてもらい、巡業の帰途、養家に入りました。名人団平さんや大隅さんを知ったのはこの巡業の時です。
団平さんはだれもが認めた名人、天才でした。団平さんがいかに偉かったかということは明治以前、三代目豊竹巴大夫さんが「合邦」を語られた時、番付に「三味線豊沢団平」と大夫付(上位にならなければ大夫付にはならない)になっておられたのが十八歳の時であったという一事でもわかります。それから明治に入って三世長門大夫さん、摂津大夫[掾]さんの相三味線を勤めておられましたが、いきさつがあって文楽座を脱退、彦六座に入り、大隅さんをひいておられました。
団平さんは全く人間わざとは思えない力のこもった三味線をひかれました。舞台が一転してこれから″註進″の出になるところとか、「合邦」でいえば〽玉手はすっくと立上り……の前あたりになると、三味線ごと身体をひとゆすりして極まるのがクセでしたが、ハッと掛け声をかけたそのあとのバチさばきといったら、それは筆舌には尽せない、すさまじい迫力がありました。それもただ大きな音を出すというだけでなく、チャンと理屈に合っているのです。「吃又」で又平がこの世の名残りに、庭の石に絵をかくところの〽これ生涯の名残りの絵姿は苔に朽るとも、その名は石塊に止まれと……というくだりの合の手も、ほかの人がひくと「ツツツトツン」としか聞えませんが団平さんのは「ダッダッダッダッダッ」とそれこそ石に魂をたたき込むような音が小屋も割れよとばかりに鳴り響き、楽屋にいてもビンビン腹にこたえます。強い近視の、小柄な方でしたが、その割に手がふしくれ立って大きかったのは、はげしい修業の結果でしょう。
右ばかりでなく、左手にも非常な力を入れておられるらしく、棹のところどころにくぼみができているばかりでなく、糸をはじくはずみに棹のふちが欠けたことさえあったそうです。三味線はごくお粗末なものを使われながら小屋を震かんさせるような大きな音色を出されたのですから全く神わざです。巡業のとき、よく私の舞台をお聞きになって『お前、あんな浄るり語ったらあかんで……』とかいろいろご注意をいただきました。養家の播半で一の谷の「組打」を、清水町のお宅で忠臣蔵の「天川屋」をけいこしてもらいましたが、いつも『人に上手やとかほめられたら、クササれてると思うて修業せなあかん……』といわれ、間をやかましくいわれました。当時は清水町の師匠にけいこをつけてもらったというだけで、ハクがついたくらいでしたから、われもわれもと団平さんのお宅へ押しかけたものですが、何分十六、七のことですから団平さんの極意などのみ込めるわけがありませんでした。あれだけの方でいながら実に質素で、清水町のお宅も簡素でしたし巡業の時はいつも赤切符です。ある時、春子大夫さんや、伊達大夫さん(後の先代土佐大夫)が二等の切符を買って待合室へ来ると、団平さんが赤切符なのに面くらって『お師匠はん、二等やおまへんのか』というと『二等やったら汽車が早よ着くかアホ』といった調子で、みんないやいや三等にお供をさせられたものです。
これは余談ですが巡業の時の団平さんのいでたちは珍妙そのものでした。まず黒ちりめんの着物に羽織まではいいのですが、どういうわけか女のお高祖頭巾を頭からスッポリかぶってすそを首に巻き、その上に山高帽をチョコンとのせるのです。おまけにリボンの正面に赤切符をはさみ、薄いコッポリげた(ポックリのこと)をはいて、得得として歩いておられたのですから、さしずめ刀を盗られた鞍馬天狗が山高帽をかぶったようなあんばいでいまの若い人たちが見たらさぞふき出すことでしょう。本名を加古仁兵衛といわれ、明治三十一年稲荷座で大隅さんの「志渡寺」をひいておられる最中に倒れてなくなられましたが、つねつね「舞台で死ね」と口ぐせのようにいっておられたのですからさぞ本望でしたろう。時に七十二歳でした。
三世大隅大夫さんはお世辞にも美声とはいえませんでしたが、団平さんにたたかれた人だけに立派な芸を持っておられました。特に音づかいがすばらしく、「忠臣蔵九段目」の小浪の「アノもったいないことおっしゃりますわいなア……」から泣き落しのうまさは無類でした。間延びのしない息のつまった語り口は団平さんのお仕込みでしょう。「野崎」の婆さんがあんまりよかったので、ある時『これはお師匠の工夫ですか』と聞きますと大隅さんは『いや、古靱はん(初代)のマネや』といっておられましたが、マネでもあれだけ語れれば立派なものです。
養家の播半は神戸の北長狭通りにあった有名な料理屋です。主人、つまり養父は服部松之助といって当時四十二の働き盛りでした。大柄のアバタ面で背一面に入墨をしていました。
背中に水滸伝の魯智進、おなかに″しゃりこうべ″、腕にはコイの滝のぼりが見事に入っていたりして一見こわいようでしたが、実はやさしい人で、私はずいぶんかわいがってもらいました。そのころ養父は名人団平さんや三世大隅大夫さんらの座元をしていまして、おちぶれた彦六座を再興して、ゆくゆくは私にその経営をまかせて一旗あげさせようとしたらしいのです。団平さんが私のような若僧にけいこをつけて下さったのも″座元の息子だから″という特別のはからいがあったからでしょう。
さてこのような立派な養家に入って私は運が向いたようにも思えましたが、実を申せば養母との折合いがうまくありませんでした。養母はやかましい人で、家計一切を切回していた女丈夫でした。芝居が休みで家でブラブラしている間はよく『料理屋に若い男はじゃまや』などと皮肉られたものですから、養母と食事をするのが気づまりで、いつも私は別室で食べました。料理屋でも内箱の芸者も置いていましたし、検番からも大勢芸者が出入りしていました。
その時分、神戸の花柳界は警察の″臨検″がちょいちょいありまして、お客と芸者が泊っている現場を発見されると、どしどし引っぱられたものです。そこで「臨検だ」という情報が入ると、要領のいい芸者はよく私の部屋へ入り込んできました。というのは、そのときもし私の部屋へお巡りさんが調べに来ても『私はこの家の息子です』といえばそれでことは済んだのです。ときには朝、まだ眠っている最中に私の寝床の中へもぐりこんでくるあつかましい芸者もいまして、おはずかしい話ですが、何しろこちらも若かったものですから、つい好い仲になった女も幾人かありました。女や酒の味を覚えたのもこのころからでしょう。そんなことが養母に知れたものですから養母のきげんはますます悪くなる、そこでシャクにさわるからまた遊ぶ、飲むといった調子でいよいよ養母との間は険悪になりました。
そこへもってきてこの年の十一月、養父が四十二の若さで急死しました。病名は忘れましたが、東京で入墨の仕上げ直しをやったのが原因だったとおぼえています。これで父の彦六座復興の望みは断たれたわけですが、養父の知人の花里幸治郎という人が経営を引受け、稲荷座と改めて開場することになりましたので、四国、中国方面と素浄るりで巡業していた団平さん、大隅さんの一座が帰阪して二十七年三月、団平さんと五代目弥大夫さんの紋下で″こけら落し″興行に参加しました。
こうして稲荷座には、九月まで出勤していったん養家へ帰りましたが、かわいがってくれた養父もなくなり、養母とは相変らずうまくいかないので、結局、翌二十八年四月、不縁となって金杉家へ復籍して大阪へ舞いもどりました。すぐさま元の師匠(津大夫)に泣き込んで六月からまた文楽座に出してもらうようになりました。
この九月に「日吉丸」が出て私は「猪狩」の口を語るについて相三味線の竹三郎君(後の七世広助)と一緒に五代目広助師匠のお宅に伺い、教えていただきました。五代目さんは俗に「松葉屋師匠」といわれ、当時二代目越路大夫さん(大掾)をひいておられた大先輩です。
その時聞かせて下さった師匠の浄るりのお上手なのには恐れ入りました。まくらの節回しといい、木下藤吉郎のことばといい、一点一画もおろそかにしない気品のある語り口には、聞いていて身のちぢまる思いでした。五代目さんに教えて頂いたのはあとにも先にもこれぎりでした。
私が神戸の養家にいる間に東京で芸者をしていた姉の「さと」は神戸へ来て、養家の世話で中検から出ていまして、落ちぶれた両親を東京から呼寄せて養っていましたので、私が養家を出てからもそのまま神戸にいました。
さて文楽座に復帰した私は、こんどは家からの仕送もなくなりましたが、その後給金もいくらかずつ上がってきましたので、苦しいながらも、安堂寺町の心斎橋付近の屋根職の家へいくらかの飯代で置いてもらい、そこから小屋へ通いました。
だいたい私は素人のけいこをしたり、客席をウロウロするのはきらいで、ずいぶん前からそういうことはしていませんが、そのころは何分にも若く、金はない、遊びたい、酒は飲みたい、で背に腹はかえられず、いやしい話ですが、顔見知りのお客を見つけてはご祝儀をあさりに行ったものです。そして小屋の廊下で師匠のごひいきの旦那方をさがし出しては『おいでやす、師匠がよろしう申しとります』と頭を下げると、そのころで五銭か十銭のご祝儀にありつき、二、三人もごあいさつすると結構飲み代がふところに入ります。当時二十銭もあるとちょっと飲めました。たいていの一杯屋が酒は一本五銭、さしみ、天ぷらが八銭という相場で、小屋がハネると私は御堂筋の梅月という飲屋へよく行きました。
こうしてロクに修業もせずウロウロしていましたが、明治三十年二十歳の時です。三月興行は「菅原」の通しでしたが、私の役は「車曳」の掛合の杉王と「柘榴天神」の口でした。ある日のこと陽気はよし「車曳」のあとの役まで大分、暇がありましたので叶大夫(後の七代目春大夫)と桜の宮へ花見としゃれ込みました。二人でぶらぶら歩いて来ますと桜の宮はもうたいへんなにぎわいで、同僚の司大夫がやっぱり花見に来ていて、ごひいき連と相当メートルをあげて騒いでいるところに出くわし、無理に引っぱり込まれて仲間入りをさせられました。
根が好きだからたまりません。すっかり酔っぱらって、気がついた時は日も西に傾き、小屋がとっくにハネたころでした。ままよとばかり、こんどはおみこしをすえてその日は飲みすごし、あくる日覚悟を決めて小屋へ行きますと仲間に『お前これやで……』と首を切るマネをされたので、師匠にも会わず、すぐさま神戸へ行き、姉から汽車賃を借り、父を連れて帰京しました。
あとで聞くと『すんまへん』とひと言あやまれば、おわびはかなったのだそうですが、生来強情な性分で、どうもあやまるのがにが手なものですから仕方がありません。
東京ではひとまず父の弟子だった人の家に落着き、私はまたまた播磨大夫さんの一座に入れてもらい、寄席回りをしているうち京橋の三十間堀あたりのしもた屋の二階に間借りしていましたが、苦しくて間もなく父を神戸へ帰してしまいました。なにぶん男一人の生活で、炊事が面倒なものですから、寄席の帰りに不潔な屋台のものばかり食っては酒を飲み、はては悪遊びをするという不摂生がたたってとうとう病気にとりつかれてしまいました。そうかといって休んでは食えないので高座には出ていましたが、播磨さんのごひいきの熊坂病院の院長さんにみてもらいますと『いまのような不養生をしていたら死んでしまう』とすっかりおどかされたものですから、いのちが惜しいばっかりに一年あまり毎日病院へ通いました。
院長は病名については何も教えてくれませんでしたが、肋膜だったらしいのです。播磨さんの番頭の鹿野さんは播磨さんに『津ばめの容態がどうもおかしいから大阪へ帰した方がいい』などといっているのを聞いたものですから、私は『どうかこの一座で死なせて下さい』と泣込んで引続き寄席へ出勤していたところ、どうやら身体も回復してきました。
こうして三年東京にいましたが、大阪の津大夫師匠から「帰って来い」というお手紙をいただきましたので、明治三十三年の夏、三たび文楽座へ帰参しました。
三度目に帰ってはじめての七月興行は「日本賢女鑑」「油屋」「質店」「関取二代鑑」でしたが、私は二代鑑の「秋津島内の場」の中で、通称″はらはら屋″の呂大夫さんの端場を語りました。当時は難波新地の知人の家で居候していましたが、間もなく給金が十五日で二円五十銭ばかりになりましたので靱中通りの路地の家を借りました。階下が二畳と三畳、二階が三畳というマッチ箱のような小さな家ですが、生まれてはじめて自分で一戸を構えたわけです。神戸から両親を呼んで一緒に住み、母はこの家でなくなりました。
酒はいっぺんに二升は軽くあけ、女遊びはする、と本格的な乱行のはじまったのもこのころからです。下らないことを書きますが、当時私の住んでいた家の路地はコの字形になっていまして、表通りに入口が二つあり、ふだんは一方を出入口にして、他の一方はしめてありました。いろいろと女出入りもありまして、私は好きな女には開いている方の入口を教えてはよく家へ引っぱり込んで適当に楽しみ、きらいな女にはしまっている方の入口を教え、会わない算段をしたものです。
ところがある時、そのきらいな方の女がどうした加減か開いている方の入口から堂々と入り込んできまして、しばらく居すわられてネをあげたことがありました。
そのころ北の新地のお茶屋の娘で「おつる」という女が髪結いをしていまして、そのおつるとの間に男の子ができてしまいましたので一緒になり、子供は太郎と名付けました。間もなく、明治三十八年の七月、二十八歳の時、京都の路大夫さん、千代大夫さんの一座に加わって広島から九州へ巡業に行きました。これで文楽座を三たび退座したわけです。地方ではたいていむしろ小屋で、開演中でも雨が降れば中止になり、五日間の興行が十日になったこともあったりして、この巡業はさんざんでした。長崎では梅雨と不入りにたたられ、十五日もトヤについてしまい、ここでも極道がはじまって、相三味線の綱造君と二人で前借りの前借りをして十日間も丸山遊廓へ通い、スッテンテンになってしまいました。綱造君のごひいきの有之さんという方に「鬼笑楼」という遊廓へ連れて行かれたのがすっかり病みつきになったのです。楼主がなかなか話せる人でして『うちの女の子に浄るりを聞かせてやって下さい』と頼まれ、おいらんの部屋へ、抱えのお女郎から、やり手婆さんまで全部集めて「太功記」だったかを聞かせてすっかり気に入られ、ちょっとしたなじみもできたものですから、いい気になって通いはじめたのです。上等で、酒は飲み放題で泊りが十円、次が七円五十銭と五円という勘定でしたが、しまいには一文なしで、やり手姿さんに裏口から内証で入れてもらったこともありました。
こうして大阪へ帰ったのが翌年の二月でしたが、おつるは家を畳んで空家になっていました。それというのも巡業先から一文の仕送りもしなかったので私が悪かったのです。そのころ父は母の遺骨を持って厦門へ行っていました。播半の養父の二号だった人があちらで料理屋をしていまして、姉がそこでお世話になっていたものですから出かけたのですが、そのうちに帰って来ましたので北区絹笠町の現在の堂ビルのあたりに家を借りて一緒に住んでいますと、家内が太郎と次に生まれた二郎の二人を押しつけて行きました。それまではまだ縁は切れていなかったのですが、父はもう家へ入れるなと怒っていましたし、それきりになってしまい、しばらくしてなくなりました。一心寺という寺に墓がありまして、ときどき拝んでいます。
この年の六月限りで大隅さん、三代目清六さんの一座に私はそのころはじめてできました弟子の津路大夫をつれて北海道巡業に参加しました。これで四度目の退座でしたがこれが最後の退座です。翌年一月に帰るはずだったところ、つごうにより東京の寄席に出演中、素人浄るりの大家でもあり、政界の黒幕だった杉山茂丸(其日庵)先生の知遇を得、さらに後藤猛太郎伯爵のお口ききで大島大夫、山城大夫らと台湾へ巡業に出かけました。
台湾には杉山茂丸先生も後藤伯も御一緒で台北、キールンなどの在留邦人に素浄るりを語って聞かせましたが大した思い出はありません。それより私としては杉山先生を知ったということがどれほど仕合せだったかわかりません。
杉山先生は頭山満翁とは義兄弟の杯を交わされた方で、いってみれば政界のボスです。摂津大掾さん、大隅さん、絃阿弥さんという名人について実際にけいこもされた方で、いわば近代浄るりの大通です。語りの「風」ということを熱心に研究されていまして「浄瑠璃素人講釈」は先生の名著です。実のところ私が「風」についてやかましくいうようになりましたのも杉山先生の影響によるところが多いのです。
東京は向島の小松島にお屋敷があり大阪へ来られると中之島の銀水が定宿でした。文楽の興行中はちょいちょい来られて大掾さんのだろうが誰のだろうが『きょうはここのところがよかったが、きのうはよくなかった』などと立派な批評をしておられました。元の総理大臣の広田弘毅さんが書生をしておられて、次の間から『先生入ってもよろしゅうございますか』とおそるおそるおそばへ行くほどでして、私などなかなか近寄れませんでしたが、大分あとになって私の浄るりについてもいろいろと御批評をいただくようになり、それがずいぶんど修業に役立ちました。一度だけほめていただいたことがあります。それは明治四十五年の四月「妹背山」の通しが出まして、私は「御殿」の中、摂津大掾さんの端場を語りましたが「頭に残ったところがあったよ」といっておられました。「端場」というものは「切」の邪魔にならぬようにサラリと語って「切」を引立てるのが法になっていまして、その寸法が合っていたといわれるのです。全くその通りでして、そんな細かいところまで目の届いた方です。
女遊びをしたり、大酒をのみながらも私は前々から院本の収集をやっていましたが、杉山先生の影響でそのころから院本、シラミ本、古番付、評判記、故人の肖像、名所図絵など浄るりに関する参考書を金もないくせに盛んに集めるようになり、原作者の精神、作為、「風」について勉強しました。私が第一に心がけたことは買い集めた院本を何回も繰返し読むことです。むずかしいものでも十回も読むと、作者はどういう気持でこの曲を書いているのかということもわかってきますし、これをわれわれが床で使っている五行本と比べると、原作からどういう風に変化してきているかということも自然とわかります。
また近松や竹田出雲の肖像画をみていると、何かしらその風格がわかるような気がしますし、評判記を読むと昔の名人の語り口もある程度想像できます。名所図絵には院本に出てくる″かけことば″になっている地名が出てきてその意味がよくわかります。
さて大序を抜けて序中に進んだ大夫の次の望みは″序切語り″に出世することです。序切語りになると番付の自分の名前の上に「切」という字が付くのです。私は早く番付に「切」の字をもらって、せめて一日一円くらいの給金をもらいたいと念じている矢先に、いまの鶴沢清八君が、その当時妙見さんの信者でして『能勢の妙見さんは御利益があるからぜひお参りしろ』というので、雪の降る寒いある日のこと私は一人で妙見さんにお参りに出かけました。大体私の家は本門仏立派でして、他派は絶対に信じないというしきたりがあったのですが、私はあまりそういうことにはこだわらない方でしてお堂へ上がって「どうか近いうちに私の名前に切という字がつきますように……」と拝み「月に一度は必ず参ります、切がつきましたら灯籠を寄進致します」と誓って、お百度参りの連中の仲間入りをしました。こうして四ヵ月妙見さんへ通いましたが、ズボラをして月まいりはこれきりでやめてしまいました。
三代目津大夫の名前を私に下さることになっていたようですが、明治四十二年のはじめごろから事情が変って兄弟子の文大夫が襲名するととになりまして、その代り私には綱大夫の名をやろうという話がありました。しかし綱大夫はその後、師匠が襲名した大きな名前でしたので辞退したところ、古靱大夫の名前を預かっていた八代目鶴沢三二さんという人が「古靱大夫を襲名したらどや」ということになり、四月興行の時、二代目豊竹古靱大夫を襲名しました。出し物は「伽羅先代萩」で、摂津大掾さんが「御殿」を語られ、私はその前の立端場の「竹の間」を披露狂言として語りました。この時は座元が植村家から松竹合名会社になったその第一回興行で、夢にも出られると思っていなかった摂津大掾さんの立端場を勤めることもできたし、給金も待望の一日一円になったので、私としては記念すべき興行でした。
二世古靱大夫を襲名した翌々月の六月から三世鶴沢清六さんが私の相三味線になって下さいましたが、この清六さんを得て私の芸は心機一転したといえましょう。
清六さんは静岡の方で本名を永田福太郎といわれました。私が文楽へ入った時はまだ鶴太郎といつて二十二歳でしたが、そのころから私は清六さんにほれ込んでいました。三世越路さんのさの大夫時代、時大夫、呂大夫さんをひかれ、清六になって、大隅さんをひいておられた″鬼腕″と呼ばれた三味線の名手です。なにしろ大隅さんの相三味線は日本一の団平さんでして、その団平さんの亡くなられたあとがまに選ばれた人だけに立派な腕前だったわけですが、いつも大隅さんは『団平師匠と同じようにひけ』と清六さんをいためつけ、そのころの清六さんの苦労は並みたいていのものではなかったらしいのです。ところが、こんどはそのとばっちりが、まだ何も知らない若造の私のところへきたものですから、それこそ私はヒイヒイいわされたものです。それまでの私の浄るりは「オーッ」と掛け声がかかって、そこでぐっと息を吸い込むと「テン」と三味線が鳴り〽なんとやらして……と語る、といった式でしたが、清六さんは団平系統の力の入った理詰めの三味線ですから、まるで勝手が違うのです。
たとえば御所桜三段目の「弁慶上使」で弁慶の「太郎夫婦のいやらずばと泣くより泣かぬ苦しみは、ナコリャ」のことばがあって、〽鳴くセミよりもなかなかに……という地合になるところがあります。ここはこの浄るりでいちばん声を張るところでして、今までは「泣くより泣かぬ苦しみは、ナコリャ」で三味線は「オーッ」と思い切り大きな掛け声をかけてから「テテン」とくるので、ひと息入れてからへ鳴くセミよりも……と出られるのですが、清六さんのはそうではありません。「苦しみは、ナコリャ」のあとで「オッ」と短い掛け声をかけたかかけないうちに、おそろしい力で「テテン」と打込んでくるので、こちらは間髪をいれず〽鳴くセミよりも……と出なければならないのです。その苦しさといったら腸がねじれるかと思いました。しかし考えてみるとたしかにこの方が理屈に合っています。ここは女子供が歌をうたっているのではありません。弁慶という豪傑が子の愛のために生涯にたった一度大泣きに泣くところですから、湯をのんだり、悠長な掛け声をかける余裕はないはずです。
清六さんにひいてもらうようになってから間もなくのこと、京都の明治座で「三十三間堂」の柳を語っていました時も、清六さんは私のハラワタが煮えくり返るようなおそろしい力でひきまくられ、未熟な私はとうとうその迫力にたえかねて、途中で床本をとじるなり高座を降りるという一世一代の醜態をさらしたことがありました。
その清六さんも本興行が始まるとよく私を連れて絃阿弥さんのお宅へうかがってわれわれの芸を聞いていただきましたが、その時には必ず新しい五行本を持って行かれ、絃阿弥さんから教わってはいちいち朱(譜)を入れておられるなど、ご自分の修業もされていました。万事がこの調子であるうえ、なかなかの気むずかし屋でけいこ以外でもずいぶんいじめられ、ハラにすえかねたこともありましたが、ひとたび三味線を持って「テン」とひかれるとコロリとまいって、それまでの苦労も忘れるほど清六さんの芸にほれ込んでいました。それでもしばらくたつと三味線はどうひこうと、ツボをはずさず三味線と離れていてしかも間を合わせて語るというコツを覚え、どうやら清六さんについて語れるようになりました。私が本格的な浄るりの修業ができたのも、どうやらまともな浄るりを語れるようになったのもこの清六師匠と、また一つには絃阿弥師匠のおかげだと思っております。
若いころの、私の酒好きは困りものだったようで、ずいぶんと失敗をしました。そもそも私が″酒豪″と認められたのは十三歳の時ですか
ら、われながらあきれたものです。話はあとにもどりますが、それは津大夫師匠に入門した翌年、つまり明治二十三年暮の因講の大会で、私はある先輩に酒をさされるままに軽く杯を乾したものです。見ていたお酌が『あのボンチおもろいわ』とばかりつぎつぎとさします。こちらはオヤジのお仕込みがよかったもので、いい気になってグイグイと杯を重ね、徳利三、四本あけてしまいました。そこまではよかったのですが、なにぶん十三の子供ですから、すっかりきいてしまってフウフウいいながら、座敷に小間物屋の店開きをはじめたものです。
当時五代目弥大夫さんの日記に「この日、津葉芽大夫という子供どろどろに酔うてそこらあたりに八百屋店を開けり(中略)。東京出の新米なれば除名のサタもありしが、結局少年のことなり、飲ませし側にも罪ありということで落着す」とあったそうで、あの時代で大先輩のおられる前でたいへんなことをやったものです。大体私は前にも書いたように五つ、六つのころからオヤジの相手をしていたくらいですから文楽へ入った十二、三のころからずうっと飲み続けていました。
ところで相三味線の清六さんは、ごひいきが大勢おられてお座敷にしょっちゅう招かれていましたが、天二物を与えずで、当の清六さんは全くの下戸でして、杯をさされるたびに当惑しておられたようです。そこで清六さんは左党の私を″ひょうたん″代りにちょいちょいお座敷に連れて行かれましたので、私はこれが何よりの楽しみでした。いつも私は清六さんの隣りに座らされ、清六さんは、はじめ二、三杯飲まれると、それからあと受けた杯はだれにも気づかれないように私の横へ置かれるのです。私もまた、だれにも気づかれぬようにその杯を乾して、そっと元のところへ置いておく。これが私の役でした。あるとき、飲まないはずの清六さんがあまりよく杯を受けるので、ごひいき連が不思議がり、私の″ひょうたん″役がバレて大笑いをしたことがありました。
余談はさておき、「鬼腕」の清六さんにたたかれて修業しているうち、明治四十五年五月興行の時、私は待望の「序切語り」になり、「仮名手本忠臣蔵」の通しで三段目の「松の廊下」の役がつきました。番付の私の名前の上に首尾よく「切」という字が付きました。明治二十四年、序中になってから二十一年目のことです。何をおいても能勢の妙見さんの約束を果さなければならない義理があったのですが、いまだにそのままです。気になるのですが、もうこの年になってはおっくうになって行かれませんので、お題目をとなえてはいいわけをしています。
明治四十五年七月二十三日の朝、私の師匠二世津大夫(当時七世綱大夫)がなくなられました。師匠は温厚な方でわれわれ若い者が無茶をやってもあまり小言はいわれず、私のように四度も退座した者でも最後までわが子のように面倒をみて下さっただけに、親とも頼む師匠の死にわれわれ門弟はガックリきました。師匠は小音でしたが、世話語りの名人で、床に出られると客席はシーンとして、語り込んでくると声もよく通りました。ウレイのよくきく語り口で、極彩色娘扇の「天王寺村」とか「鰻谷」は格別でした。特に「鰻谷」は大隅さんも、大掾さんも、得意とされていましたが、師匠のほどあわれには語れませんでした。
痔持ちで、床に上がるとしり当てのかわりにパンヤを詰めた皮の輪をあてがっておられましたが、それもこれも悲しい思い出になりました。こうして師匠はなくなり、父もその前になくなりましたが、私は清六さんというよき師匠を得てその指導により、捨て身になってけいこにはげみ、かたわら院本その他の参考書により「古浄るり」についての研究なども怠りませんでしたので、どうやら浄るりというものがわかってきました。
大正元年ごろ私は湊町に住んでいましたが、そのころ新町で義大夫の芸者をしていた二度目の家内の「いの」と一緒になり、新町で「うつぼ」というお茶屋をはじめました。家内は勝気な性分で私とはだが合いませんでしたが、店をはじめてから、八年目になってどうしたことか『暇をいただきます』といって、とめるのも聞かず出て行きました。
当時新聞の花柳記事に「古靱は間借り住いから長火ばちの前に座れるようになった恩ある女房を追出した」などと書かれ、いやな思いをしたことがありました。この家は人手に譲って同十年住吉に移りましたが住吉時代が私のいちばんたのしい時でした。というのは前の家内が出て行きましたので、以前から関係のあった「しげ」を名古屋から呼び寄せますと、「しげ」は長女の三子と乳母をつれて来ました。それに前からいる太郎、二郎と家の中はにぎやかになりました。
この間私は大正二年四月、摂津大掾さんの引退披露興行で、大掾さんは「楠昔噺」を語られ、三世越路太夫さんが「紙治」を出し、私はその端場の「チョンガレ」を語りました。評判は悪くなかったようで、そのご褒美でしょうか、六月には、はじめて一段の出し物を許されました。出し物は「壼坂」でした。それから以後も清六さんの指導により一生懸命けいこを続けたかいがあって大正三年の五月には「二段目語り」になり「埴生村」を語り、同五年十月には待望の「三段目語り」に進み、木下蔭狭間合戦の「壬生村」を勤めました。しかし相次ぐ猛げいこと酒の飲みすぎで、このころまたも身体を悪くしてちょいちょい床を休んで、宝塚や別府などで保養しているうちにどうやら調子も出てきましたので、大正六年五月から八月まで私と清六さん、錣大夫、静大夫の一座で名古屋をふり出しに東海道から北陸の旅に出ました。大垣の巡業の時、清六さんが何かのいきさつで『わて、いなしてもらう』とごね出しました。こんなことはたびたびでしたが、その時私もぐっときて『それではあんたを聞きに来たお客に義理が立ちまへんやろ』といって、その場はすみました。しかし、帰阪して間もなく満州へ巡業する話がありましたので、この巡業を理由にして一時清六さんと別れ、野沢吉弥さんにひいてもらいました。九月から同じく錣大夫、静大夫らと満州に渡り、大連をふり出しに旅順、奉天、撫順から朝鮮と在留邦人相手に素浄るりを語って回って来ましたが、十月九日、京城で摂津大掾さんの死を知り、釜山から博多に渡り、その年の暮に帰りました。
こうして翌年の六月興行を打上げたあとで、吉弥さんと円満に別れ、再び清六さんにひいてもらうことになり、また二人のコンビが続いたわけですが、清六さんも苦労されたのでしょう、いままでより人柄がずっと円満になりました。大正十一年一月清六さんはカゼをひき、それがもとで十九日になくなりました。やっと浄るりというものがわかってきたころですし、私としてはかけがえのない人を失ったわけで、師匠がなくなった時と同じようにガッカリしました。それから私の相三味線は新左衛門、四世清六、弥七、藤蔵(現在)と四人も変っています。
大正の終りから昭和のはじめにかけてまたまた身体の調子が悪くなりましたが、シンが強いのでしょうか、ときどき休演する程度でどうにかこうにか持ち続けてきました。大掾さん引退のあと大正四年三世越路大夫さんが紋下となられ、越路さんは十三年の三月になくなられたので、五月に私の兄弟子三世津大夫が紋下となりました。しかしその津大夫が昭和十六年の七月になくなって、十七年の一月、いわば順送りで私が紋下(やぐら下ともいい、文楽の総帥者)になり、披露狂言として「熊谷陣屋」を語りました。それからまもなく住吉の家を売って堀江の手ぜまな家に移りました。大体この家は借金で建てたものでして、紋下になっても、座元(松竹)に借金があって、いうべきことがいえないようでは困ると思ったから家を売って借金を返したのです。
そのうちに戦争がはげしくなり、それでなくても後継者のいない文楽からも若い者がどんどん戦地へ狩り出されていきました。十九年の三月には「臨時措置令」とかで、全国の大劇場が閉鎖になりましたが、文楽は古典郷土芸術保存のため閉鎖を免れたので二十年の三月、四ツ橋の文楽座が焼けるまで興行を続け、焼けてからは空襲下に朝日会館で興行したことも思い出です。
七月には京都の湖月亭で″断絃会″という私中心の会が催され、会場へ行きますと米軍機がブンブン飛んでいまして、これはとてもだめだと思っていましたところ、お客はギッシリ詰めかけ『好きな義大夫を聞きながらドカンとやられて死んでもええ』という声がかかり、この言葉に感激して「紙治」と忠臣講釈の「喜内住家」の二段を無我の境で語ったこともありました。三月の空襲では堀江の家が焼け、三千冊の院本と、数千冊の浄るり参考書を焼いてしまったのが何よりの心残りです。それでも戦争の終った二十一年の二月、松竹さんが何をおいても文楽座を復興して下さったのが、われわれの大きな喜びでした。
その十月には六代目菊五郎さんらと芸術院会員に列せられ、その後皇居にお招きを受け、御陪食を賜ったのは一代の光栄でした。
翌二十二年三月には秩父宮家から「山城少掾藤原重房」の掾位を賜りこの時御殿場のお屋敷へうかがい、当時御在世の宮様、妃殿下をはじめ河竹繁俊博士や宮家出入りの方々の前で菅原伝授の「道明寺」を語りました。宮様との御縁は、昭和六年ごろ大阪師団長をしておられた阿部信行元大将のおはからいで、当時大阪へお見えになった宮様に「太功記十段目」を聞いていただいてからのことです。戦後のひどい時でしたのでその日ごちそうになったお料理は妃殿下の手料理で、お野菜類は全部お庭で殿下おてずから作られたものと聞いて恐れ入りました。またごちそうをいただいてお話に打ち興じていたため、帰りの汽車を五分も遅らせてしまい、申しわけないことをしました。
それからこの年の六月十四日には恐れ多くも天皇陛下が四ツ橋の文楽座に行幸遊ばされ、私の「重の井の子別れ」をお聞きいただきました。私は三十分前に清六君と床の裏側に座って出を待っていましたが、やがて床が回って御座所を拝すると陛下の拍手しておられるお姿をお見受けしました。一礼して語りはじめましたが案外落着いて語れました。このあと「千本桜」が終り、松竹白井会長の先導で、私と清六、文五郎の三人が貴賓室で拝謁を賜りましたが、陛下から『たいへん結構な芸術を見せていただいて有難う』というおやさしいお言葉をいただきました。そのあと白井会長が『文五郎は七十九、山城少掾は七十歳になります』と申上げると『ああそうですか、たいへんですね』と、おねぎらいのお言葉をいただき、かさねがさねの光栄に思わず涙しました。
昭和三十年二月には重要無形文化財保持者に指定され、その十一月で四ツ橋の文楽座は閉鎖になり、翌三十一年一月、道頓堀に新しい文楽座ができましたので、その記念興行に「十種香」を語りました。それまでにも軽い脳いっ血を一、二度やりましたが、次の三月興行で「寺子屋」を語っているうちまたまた血圧が高くなり、しばらく静養していましたが、前からあった神経痛もひどくなって立居が極度に困難になり、身体全体の力も衰えました。内臓は別にどうということもなく、十一月からまた出勤しまして「忠臣蔵一力茶屋」の由良助を語り、それ以来最近まで床は勤めておりますものの、声も思うように出ず、ますます力もなくなってきました。こういうことでは今後も文楽座の紋下としての重責は果すことができないのではないかと思って名残りおしい次第ではありますが、さる十二月(三十三年)、大谷会長や門弟たちにも相談して、ここに七十年の舞台生活とお別れして引退することを決意した次第であります。この間二十三年に因会と三和会の分裂という悲しい事件も起り、いろいろと頭をなやましましたが、三十一年以来ずっと両派の合同公演を続けるようになり、問題は九分九厘まで解決したも同然ですので、これがせめてもの慰みであります。
また芸の話になりますが、私はどちらかといえば世話物より「熊谷陣屋」「安達原三段目」菅原の「道明寺」伊賀越の「岡崎」といった時代物が好きです。しかし時代物の中でもやってみたいと思いながら、忠臣蔵九段目の「山科閑居」だけはとうとうやらずじまいでした。というよりやりそびれてしまったのです。まず大正十年正月興行の時、「忠臣蔵」の通しが出まして、三世越路大夫さんが九段目を語ることになっていましたところ、越路さんが急病で、私がその代役をつとめるはずでした。しかし幕内から苦情が出て中止になり、その興行は八段目の道行までにとどめ、その代り私の顔を立てるため、切狂言として「堀川」を語らされました。それからしばらくたった四ツ橋時代に「忠臣蔵」が出た時も九段目を初役で語ることになっていましたが、その時は相三味線の現在の清六君が病気で倒れて機会を失ってしまいました。
くわしいいきさつは忘れましたが、その後もう一度こういうようなことがありました。大体九段目は三世清六師匠から教わって私なりにまとめてあったのですが、どうもこう故障が続くと、こちらもウンザリして、九段目は縁がないものとあきらめたまま今日に至ってしまいました。なにしろ九段目は大物中の大物でして、「忠臣蔵」の通しが出ると九段目は必ず紋下が語るのが例になっています。しかし皮肉な考え方をすれば、「九段目を語らなかった紋下があった」という文楽史上の例外ができておもしろいかもしれません。このほか私が当然手がけていたと思われる「布引の四段目」「近江源氏先陣館」「日向島」もやっていません。
そういう反面私は今まで何十年もうずもれていたものをいわば復活上演した経験があります。その第一は引退披露狂言として語った「良弁杉」です。これは絃阿弥師匠に教わって大正十年五月初役で語りましたが、それまで四十年間出たことがありません。そのほか「俊寛」信州川中島の「直江屋敷」などもあまり上演されていませんでしたが、院本を読んだり、豊沢松太郎さんに教わって復活したわけです。
いったいに浄るりは、流行しているものほど″語りくずされている″といわれますが、確かにその通りです。むかしは前だれを掛けた丁稚小僧まで〽今ごろは半七さん……とかなんとかくちずさんでいたもので、そういうものほど、とかく芸が乱れがちになるのです。そこで「芸が行詰まったら、古きに還れ」という古い教えに従って私は院本を読みはじめたわけで、古いものを調べているうちに「俊寛」や「直江屋敷」をやってみようと思い立った次第です。
院本を調べるのは楽しみです。「太功記十段目」のように「ばかりなり」という文句が十何ヵ所もあって文章上ずいぶん欠点もないこともありませんが、忠臣蔵六段目の「勘平切腹」には感心させられました。というのは、ここは御承知のように勘平が金ゆえに切腹するのですが、その金という字が四十七字使ってあります。
まずおかるの身売りの「切給金(きりきゅうきん)は金百両」からはじまって「今夜中に渡さねばならぬ金」「証文の上で半金渡し」等々四十七字キッチリあります。これは四十七士になぞらえてあって、ここらあたりに作者の苦心がうかがわれます。こう考えてくると、院本では、勘平がハラを切ったあとで〽打止めたるは我舅、金は女房売った金……となっているのにいつごろからか〽金は……と一度いって「テテン」と三味線を入れ、もう一度〽金は女房売った金……と金を一回余計に語っています。
これは勘平が手負いになっているので息苦しさを表現したのでしょうが、そうすると金が四十八字になってせっかくの作者の苦心も水のアワになってしまいます。私は前から院本通りに語っていますがこれから考えてもむやみに原作に手を入れるのはよくないということがいえます。
さて昭和三十四年一月の文楽座の引退興行の時も、二月の東京公演でも「口上」で綱大夫が私のことを「家庭的には不幸だった」というようなことを申上げておりましたが、これについてちょっとふれてみましょう。私は住吉に二十五年住んでおりまして、この時代がいちばん楽しかったと書きましたが、反面、この間に相次いで八人の子供をなくし、たいへんつらい思いをいたしました。
家内のしげは住吉へ来てから四郎、英子、雄子、寅太郎の四人の子を産みましたが、まず大正十年に長女の三子が三つで病死しました。これがはじまりで翌年には三男の四郎が同じく三つで、十二年には二女の英子が一つで死にました。そして十三年には長男の太郎が二十二歳で、十五年には二男の二郎も二十二歳でなくなりました。
私は元来無頓着の方で、鬼門だとか、家相がどうだとか、そんなことはいっこうに気にかけない性分でしたが、『長男が死んでから鬼門に当るところに建増ししたのがいけない』といわれてから、ちょっと気になりまして、それからは二つある井戸を一つ埋める時なども拝んでもらったりしました。それからしばらくは平穏無事でしたが、昭和十六年に義子の豊に続いて四男の寅太郎がなくなりました。寅太郎は末っ子でしたので全くガックリしました。それにこの子は死ぬ少し前に宗門の話を聞きたいといい出し、お寺さんに来てもらって話を聞いておりました。そして『僕は死ぬのではない、からだを直してまた戻ってくるのだから泣かないでくれ。お父さんのからだの悪いところは全部引受けてあげる』といって、自分の持ち物の形見分けまでして、まるで悟りを開いた聖人のように死んでいきましたので、正直なところ、ほんとうにこたえました。「太功記十段目」で十次郎の「十八年がその間、御恩は海山かへ難し、……先立つ不幸はゆるしてたべ」ということばがありますが、寅太郎も十八歳でしたので、私は「太功記」を語っていると寅太郎を思い出して泣けて仕方がありません。ところがその悲しみもまだおさまらないうち、十七年の七月、東京の帝劇公演でるす中に、最後に残ったたった一人の娘、雄子がとうとうなくなりました。この時私は病床の雄子にうしろ髪を引かれる思いで上京したのですが、むし暑いその月の二十四日の夜、終演後宿へ帰ってから「ユウコシス」という電報を綱大夫から受け取りました。
実はこの時、私が床を勤めている最中に綱大夫が楽屋で電報を受取ったそうで、弟子たちは気を使って、終演まで私に知らせず、宿でホッと一息したところで綱大夫が渡してくれたのです。私は全く泣くに泣けない気持で『やっぱりダメだったか』とつぶやいて雄子の霊にめい目しました。それまでに七人の子を次から次へと失って泣き尽した私の目の中は、もうすっから乾き切って最後の娘にささげる涙さえもなくなってしまったのです。
この時は私のかわりに綱大夫をはじめ弟子たちが存分泣いてくれました。こうして八人の子供に死に別れ、家内のしげと二人で戦後まで生き延びましたが、しげは一緒になって三十年目の昭和二十二年二月十二日になくなりました。それは私に山城少掾の掾位を下さるというお話のあったころでしたので、そのことを聞かせてやれたのがせめてものなぐさめでした。ずいぶん苦労をかけましたが、私には一言のぐちもこぼさずよくやってくれました。
それからしばらくたって、京都の長谷川寿という女を四番目の家内に迎えましたが、何の因果かごれも一昨年なくなりました。これで私の肉親で残っているのは東京で日吉の姓を名乗っている妹の八重とその子供たちだけになりました。戦災にあった私は高野口へ疎開し、その後京都に移り、一時大阪二ツ井戸の綱大夫の家で世話になっていましたが、三十二年の暮に現在の大阪天王寺餌差町の手ぜまな宅を建て、横山きみ(五〇)灰野秩(七一)という二人のばあやの世話を受けて余生を送っております。
現在の心境は″無念無想″といったところです。しかし幸いにも医者から止められていた酒が少しのめるようになりましたので、今後は酒を唯一の友として、戦後から三百冊ばかり買い集めた院本を読み、かたわら後進の指導に当りたいと思っております。