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【自叙小伝 豊竹山城少掾】

(2026.02.25)
提供者:ね太郎
 自叙小伝 豊竹山城少掾
 
サンデー毎日 第28年23号(1543)pp11-13 1949.6.5, 24号(1544)pp11-13 1949.6.12 

  上
 
 八つの時に文楽をきき歌舞伎志願から転向
 
 私の父は江戸生れ、母が大阪生れでしたので、その中に出来た私はちようど東京と大阪のアイノコみたようなものです。それで七十二歳になつた今日でも、まだ時によると、語り口に江戸なまりが出て、思わずハッとすることがあります。なんといつても義太夫は大阪が本場ですから、語り口はどこまでも上方のなまりでなくてはいけません。この道では、それが正しいとされております。
 さて、私の父は金杉銀蔵、母はおゑいと申しまして、江戸浅草の寺内で筆職をやり、通称「筆銀」と呼ばれていました。筆職といつても、当時はなか〳〵の顔役で弟子が二十人ほどもおり、それがズラリと列んで仕事をしていました。私はこの「筆銀」の長男、金杉弥太郎として明治十一年十二月十五日に生れました。
 父の銀蔵は大変な飲み手で、朝一升、昼一升それで寝酒がまた一升という調子。そしてよく私を膳のそばへ呼びつけては「おい弥太公一杯どうだえ」と飲ませるんです。こちらはまだ四つか五つの子供ですから、酒など飲めないのですが、飲まぬと父のご機嫌が悪いので、つい顔をしかめながらも飲む。父はそれを見ながらうれしそうにまたチビリ〳〵やる。私が若い時分から大酒をくらつたのも、こうした父のお仕込みがもとだつたのでございます。
 父は生粋の江戸ッ子だけに、さすがに芸ごとが好きで、私の姉のおさとには清元をこれも子供時分から教え込んでいました。「おい、おさと、喜撰のチョボクレをやつてごらん」と父が注文すると、姉のおさとは三味線抱え、廻らぬ口で[愚僧が住家は京のたつみの世を宇治山とや人はいうなり……」などと唄い出す。それをサカナにしてまた一杯やる。私の父はこういつた風のごく江戸前の職人堅気の人でした。
 この姉のおさとは今日なお健在で、京の私の宅に一緒に暮しております。私とは六つ違いで当年七十八になりました。私としてはこの姉を見送らないうちは、どうも気になつて死ねないような思いがいたします。
 私は最初、歌舞伎役者になるつもりで、当時片岡我童と申されておりました先々代の仁左衛門さん(この方は晩年発狂されまして大阪で明治二十八年に逝くなられております)のところへ弟子入りをして「片岡ぎんなん」という名までもらつておりましたが、たしか私の八歳のころ、猿若町の芝居へ大阪の文楽の連中がかゝつて、これを見物に連れて行つてもらいました。その時の狂言はなんでも、雪の降る竹やぶの場で大きな人形が立廻りをやる--今から考えると、「廿四孝」の三段目の「筍掘り」だつたわけですが、それが子供ごゝろに非常に面白く感ぜられました。この時、床(ゆか)で語つている太夫さんがいかにも人品のいゝお爺さんで、それがまた子供ごゝろに深い印象となつて「あんな立派な義太夫語りになりたい」といつしか思い立ち、それから東京におられた五世竹本津賀太夫さんのもとへお稽古にあがるようになつたのでございます。その翌々年の十歳から十一歳のころにかけては既に東京の寄席で竹本小津賀太夫と名乗つて高座に現われてなどいました。
 
 十二歳で法善寺へ入門"あッあの太夫さんだ"
 
 そうこうするうち、明治二十二年、私の十二歳の時、義太夫をやるなら東京では駄目だ、どうしても本場の大阪へ出て修業しなければ本筋のものにならないと、すゝめてくれる人があつたので、いよ〳〵両親も決心し、新橋から汽車に乗せてもらいました。ところがその時分の汽車のことですからノロ〳〵走つて退屈で仕方がない。途中、名古屋で下車しました。すると、たま〳〵その時、師匠の仁左衛門さんが名古屋の小屋に旅まわりをされていたので、ちようど幸いお目にかゝつて、正式に芝居のほうのお暇をもらつたわけでございます。師匠はまた大変喜んでくれて、「大阪へ行つたら、しつかり修業するのやで、芸人はなんでもその道へはいつたら、その道の第一番の人にならなあかん」と、子供の私をつかまえて、こん〳〵訓えてくださいました。子供ごゝろにも師匠のこの厚いお情けは胸へこみ上げてくるようでした。
 こうして大阪へまいりましてから、またまたそのころ難波新地の坂町に住んでおられた仁左衛門師匠をお訪ねして、誰かよいお師匠さんをお世話していたゞきたいとお願いしましたら、この時も上機嫌で「よし〳〵、近所にえゝ師匠があるさかい、連れていてやる」と申され、紹介していたゞいたのが法善寺の師匠でした。
 法善寺の師匠と申しますのは、二代目の竹本津太夫師匠のことで、そのころは千日前の法善寺の境内で茶店を出しておられました。世間で師匠のことを「法善寺の師匠」と申しておりましたのはこういうわけからで、文楽座の楽屋裏では単に「法善寺」とさえいえば津太夫師匠を指すことになつておりましたものでございます。
 ところが、不思議なことに、はじめてこうして津太夫師匠にお目にかゝつてみると、私が八歳の時、東京猿若町の芝居「廿四孝」の三段目を語つておられた人品のよい太夫さんというのが、この法善寺の津太夫師匠だつたと知れました。
 「アッ、あの太夫さんだつた」
 私は子供ごゝろにもその奇遇に驚きました--義太夫語りになろうと発願したのも津太夫師匠、そしてはじめて大阪でとつた最初の師匠がまた津太夫師匠だつたわけで、大変、因縁のあるはなしだと存じております。
 とにかく、こうして二世竹本津太夫の門に入つて、竹本津葉芽(つばめ)太夫という名前をいたゞき、その年、すなわち明治二十二年の八月興行から師匠の津太夫に伴われて平野町の御霊さんの文楽座へ入座したわけでございます。
 
 大酒はのんだが芸なし お茶屋の仏壇に小便
 
 以上が私の生い立ちのあらましなのですがこれらのことは既にたび〳〵あちらこちらでお話しいたしましたことがありますので、大体この程度に止めておきまして、次に若い生意気盛りのころの馬鹿ばなしを、お笑い草に少し書き止めておきましよう。
 前にも申しましたとおり、私は子供の時分からの父親に酒を飲むことを教えられたおかげで、二十歳台に、もの随分飲みましたもので、一晩に二升ぐらいなら一向に平気でございました。
 こんなわけで、そのころはお茶屋へ遊びにまいりましても、芸者と遊んだり、色ゴトに身を持ちくずすより前に、まず酒でヘベレケになつてしますものですから、一向に艶ッぽい話がございません。若いころから私は女よりも酒、たまさか女が出来ても、結局はしこたま手切金を取られて別れるのがきまりでした。とにかく、酔つぱらつてお茶屋のお仏壇に小便をひつかけたことなどあるんですから……芸者などにも「津葉芽太夫はんのお座敷は面白うないお座敷や、お酒ばかりのんではる、しまいには小間物店の掃除させられるし……」などとよく皮肉られたもので、唄一つうたうのでもなければ、踊り一つ踊るわけでもなく、ただガブ〳〵酒を飲むだけの芸当しか知りませんでした。
 今申しました仏壇に小便をひつかけたお茶屋はたしか北の新地の「大黒」という家だつたと覚えていますが、このうちへも三味線の綱造さん、同じく三味線の吉松さん、それに太夫では先代の源太夫さんなどとよく遊びに行つたもので、まずこの三人あたりが私の二十五、六歳時分の飲み友達でしよう。綱造さんはそのころ私の合三味線を弾いていてくれましたが、この人も私同様に一晩に二升は空けていました。今でこそツル〳〵頭のおじいさんになつてしまいましたが、そのころはふさ〳〵と髪の黒い美男子で、年齢も私より四つ下、それで女にはよくモテたものでございます。吉松さんはハジキ豆ばかりで飲む妙な癖がありました。いつも酒の気がないと舞台へ出られぬ気の弱い人でした。
 なにぶん、そのころは南地(みなみ)、北の新地、堀江とうか〳〵遊び廻つてた時代で、本職の文楽座のほうはズボラのしほうだい。毎日のように私と綱造さんとが交代で休んでは、他人様に代役のご迷惑をかけてお茶屋へ日参です。もつともそのころは物価の安い時代で、大阪でいう「明かし花」--これは午前の零時から翌朝へかけての芸者の花代のことなのですが、それが芸者一人あたり七十銭、十人揚げて遊んでもわずか七円でことたりました。今日から考えると全く夢のようなはなしでございますが、そんなにも安かつたお茶屋の払いが、節季ごとに大変で、着物や羽織は年中、質屋の蔵に流連(いつゞけ)というていたらくでございました。
 あとさき見ずの馬鹿遊びにうつゝを抜かしていた時代、とう〳〵師匠の津太夫に大目玉を喰つたことがありました。
 それは明治二十四年の十一月興行、私の廿四歳の暮れのこと、この時も相棒は綱造さんで、二人ともそのころ北の新地でいゝ女が出来ておりました。私のは色は浅黒いがすんなりと姿のいゝ女で、それに声がよくて端唄が得意でした。名前はもうすつかり忘れてしまいましたが、そのころは、まず、わたしの方から熱をあげていたのでしよう。綱造さんの相棒さんはまだ生きていまして、今日でも文楽座の観客席に、いゝお婆さんになって、時おり姿が見られます。
 とにかく、この二組が、
 「おい、いつも同じ座敷で飲んでいても気が変らんさかい、一ぺん神戸へでも出かけよか」
 「そらおもろい、いこ〳〵」というわけで、"酔つたまぎれに梅田のステーションから下りの終列車に乗込んで神戸の三宮まで行き、それから人力車で諏訪山公園の「常盤」という馴染みの「席貸し」に泊りこみました。その晩は飲み明して、翌朝は女二人を「常盤」の離れ座敷におき、二人だけ二日酔いのもうろうたる顔つきで御霊の文楽へかけつけ、何くわぬ顔で二人ならんで床(ゆか)へあがつたのです。この時の二人の持ち場はお妻八郎兵衛「鰻谷」の段の端語(はば)(一段の浄瑠璃の前半)で、その切場(きりば)(一段の後半)は師匠の津太夫が語つておられました。ところが「鰻谷」の端場といえばなか〳〵やかましいもので、その上に師匠が切場を受持つておられるのですから、私としては十分慎重であるべきはずのものが、自分が語つていてわれながら何がなんだかわからぬというていたらく。床を下りると、またその足で二人一緒に梅田へ走り、下りの汽車で三宮から「常盤」へ帰つてまたその晩も飲み明かす。こんな商売最中のだゝら遊びを三日三晩も続けました。今から考えると、われながら馬鹿げたことですが、罰はテキメン、三日目にとう〳〵舞台をトチつてしまいました。
 三日目の朝、例のとおり梅田の駅で降りて、駅前の帳場で相乗りの人力車を雇い、大江橋筋を南へ走らせていると、淀屋橋の北詰で三味線の団次郎さん(現在の寛次郎さん)にバッタリ出会いました。すると寛次郎さん、オヤッという顔つきで、
 「津葉芽さん、今ごろ人力車に乗つてどこへ行くねん。もう「鰻谷」が始るのに、二人の姿が見えんいうて、小屋中大騒ぎしてまつせ」--そらえらいこッちや……と車の上の二人、気が気でなく、無理むたいに車夫を急がせて御堂筋をいつさん走りに走らせ、御霊さんの東門まで来ると、もうトトン〳〵という幕間の太鼓が聞えている。幕間が三十分以上も延びているのです。客席では見物衆がわい〳〵騒いでいます。汗びつしよりで無我夢中で床へ上り、やつと客も静まつて、どうやら難なくすみましたが、この時ばかりは師匠の津太夫さんからこつぴどく叱られました。酒と女の失敗で、この時ほど後悔したことはありませんでした。
 なお、筆のついでに、そのころの笑いばなしを、も一つだけおしやべりしておきましよう。
 これもやはり北の新地でのことなのですが、死んだ先代の源太夫さんとよく遊びにいつた時分、私が源太夫に芸者を世話してやりました。この人も無邪気なごく人のいゝ方でしたからそれを大変よろこんで恩に着るのですが、そんな晩に限つて、源太夫さんと、その世話してやつた芸者とが一緒に寝ている枕許で、いつまでもチビリ〳〵酒を飲んでやるんです。すると、源太夫さん、いら〳〵して「もう遅いで、はよう帰らんと……」と寝間の中で困つた顔をしてます。それがまた面白いので私も無理に腰を据える……とう〳〵夜のしら〴〵あけるまでねばつて大笑いになつたことなどありました。
 こんな罪の深い調伏も、今から思えば廿五、六歳の生意気盛りの悪戯ごゝろ、若気のいたりで、お恥かしいことでございます。
 たゞし、こんな遊びばかりいたしておりますと、全く芸の修業をお留守にしていたように取られるかと思いますが、決してそうばかりでもなく、一所懸命に勉強して、稽古に血みどろになつていたことはもちろんでございます。結局、長い目で過ぎ越し方をふりかえると、芸に身が入つている時代と、気持にゆるみが出来ている時代とがテレコ〳〵に、山と谷のように起伏していたようにも考えられます。まずこれも若いころの腹のすわつてない私の愚かさからであつたかもしれませんが……。
 
 二人の子供を残して去つた女房おつる
 
 私の実母のゑいは明治三十六年二月四日に五十一歳で亡くなりましたが、その前かたに、私は、はじめての妻帯をいたしております。家内はつると申しまして、これも同じく北の新地のお茶屋の娘で、そのころは女髪結いを家業にしておりました。このおつると私との間に男の子が二人出来ました。長男は太郎と申しまして、これは大正十三年の九月に廿二歳で亡くなり、次男は次郎といつて、これも引続き大正十五年十二月に同じく廿二歳で亡くなつしまいました。この最初の女房おつると江戸堀南通りちようど魚市場「ざこば」の近くに小さな家を持つて世帯していた私の廿八歳のころ、京都の路(みち)太夫、花勇(後の勇造)須磨太夫三代目越路師匠のお弟子さんだつた声のいゝ千代太夫、それと私と綱造さんなどを加えた素浄瑠璃の一座で中国から九州へかけて巡業したことがありました。
 ところが、この興行は不思議にどこへ行つても客足がつかず、長崎へたどりついた時は、もうニッチもサッチも行かないほど金に詰つてしもうて失業者みたいに長崎だけ廿日間も居据わつてしまいました。懐の苦しいことは申すに及ばず、大阪から持つていつた衣類から見台まですつかり質に入れてしまうような状態でありながら、やつぱり例のとおり、たとえ金がなくとも酒だけは欠かさず、よく丸山へ出かけて遊んだものです。そのころ丸山の太夫の揚げ代は上等の太夫で十円、中等が七円下等の赤切符が五円という相場でしたが、その行きつけの鬼笑楼という女郎屋では、私たちが文楽の芸人だと知ると、そんなら女郎衆の慰安にはもつてこいだというわけで、大勢の女郎衆を前にして、私と綱造とデン〳〵と一段語つてやる。おかげで私たち二人は全く無一文のくせに、思いがけぬ面白い遊びが出来たものでした。
 でも、九州から大阪へ帰る時は、一座打ちそろつてぜいたくな汽車旅行など出来るはずもなく、少々時間はかゝるが運賃の安い船でやつとこさ帰阪したような始末で、私だけは広島に立寄り、大手町の「大本」というお茶屋で一、二ケ月も居候しておりました。
 
  ×
 かようなわけで、九州の旅先で私自身が丸はだかになつているような状態ですから、大阪の女房のところへは一銭も送金してやることが出来ません。それで女房のおつるは私の留守中に家財道具一切、それに父親の後生大事にしていた仏壇まで売り払つて江戸堀の家をたゝんでしまつたのです。で、九州から帰ると家がなくなつている。父親は大変立腹して、厦門で料理屋をしていた姉のおさとの主人の所へ行つてしまうというような騒ぎで、私は弟子の津路太夫(これは私のところへ最初に入門した弟子です)と、それから長男の太郎と私の三人で三味線の団次郎さん(前のはなしの淀屋橋の上で会つた現在の寛次郎さん)のお父さんの白井亀次郎さんのお宅で一ケ月ほど居候する身分となり、太郎の面倒は津路太夫が見てくれることになりました。
 おつるは決して心ゆきの悪い女ではなかつたのですが、こんな風に家族との折合いも悪く、その他いろんな事情で、とう〳〵太郎と次郎の二人の子供を私に押しつけたまゝ、夫婦別れをするようなことになりました。その後、おつるの消息はまるつきりわからず、二人の子供たちは次第に成人してゆくのに、この子らの母親は一体、生きているのか死んでいるのか、それすらもわからなかつたのですが、後年、天王寺さんの一心寺で、はからずもおつるの墓を見つけて、その奇縁に驚いたことがありました。
 一体、一心寺には義太夫道の古い太夫や三味線ひきの墓が沢山残つておりますので、時おり展墓に出かけては、斯道の先輩の墓を慰めることにいたしておりますが、ある年の夏、たしか三代目の越路太夫さんとご一緒だつたかと覚えていますが、一心寺へ例のとおり参詣いたしましたところ、二代目竹本此太夫さんのお墓のそばに、「市場」と彫つた墓石のあるのに気がつきました。「市場」と申すのはおつるの生家の名なので、なにごゝろなく目をやりますと、まぎれもなくそれはおつるの姉の墓で、その墓石の裏におつるの名もはつきりと彫りこんでありました。私は思わずハッとしました。おつるはもうこの世のものでなかつたのだ。私と別れてからどうした生活を続けていたのかは知るよしもありませんが、浅い夫婦のちぎりとはいえ、私としては感慨なきを得ません。私は持合せた夏菊の切り花を供えてやり、静かに、今は亡き太郎と次郎の母親の墓に合掌してやりました。人の世の定めなさ、一心寺の夏木立に蝉しぐれが降るように聞えていました。
 
  x
 芸と酒、そしてこんな家庭的な労苦のうちに二十歳台も過ぎ、明治四十二年、私の三十二歳の春、いよ〳〵津葉芽太夫から二代目豊竹古靱太夫を襲名いたしたわけでございます。(つゞく)
 

   下
 
 因縁つきの"古靱太夫"反対を押しきつて襲名
 
 明治四十二年の四月興行の文楽座で、竹本津葉芽太夫の私は、いよ〳〵二代目の豊竹古靱太夫を襲名。久々に出勤した三代目野沢勝市さんの糸で「先代萩」の竹の間をその披露狂言として語らせてもらいました。時に私は三十二歳。そしてこの興行は文楽座としても紀念すべき興行で、この時から文楽座は創立以来の座主植村さんを離れ、松竹合名会社の白井松次郎さんの手に買収されたのでございます。
 さて、この「古靱」の改名ですが、当時これは私の兄弟子に当る竹本文太夫さんが、師匠津太夫の跡を襲つて、三代目の竹本津太夫になられることに決定していましたので、それでは相弟子の私も何かいい名を継ぎたいと思い立つて、先ず最初に七代目の織太夫がほしいと師匠に申出ましたところ、織太夫の名は一足違いで木津谷吉兵衛にやつてしまつたとの話で、非常に残念に思いました。
 余談にわたりますが、この木津谷吉兵衛と申されるのは北堀江にあつた「堀江座」の座主で、古住太夫と申し、以前は六代目竹本綱太夫さんの門人でした。この六代目の綱太夫さんは非常に気むつかしい方で、或る晩、弟子のその古住太夫が夕食のお給仕をしていると、しきりに「ならせ、ならせ」とおつしやる。ところが、その「ならせ」とは一体なんの意味か古住太夫に一向にわからない。だが、それを問い返えせば叱られるに決つているので、無理に聞えないふりをしていましたが、またしても「ならせ、ならせ」とおつしやる。それで、万事休した古住太夫、「ならせ」とは「鳴らせ」だろうと考え、思い切つて、しやもじで茶碗のふちと、米びつのふちとをコン〳〵ポン〳〵叩いた。すると師匠の綱太夫さん、箸を食膳の上へ投げつけて「この馬鹿野郎ッ」と、古住太夫の頭をガンと一つなぐられた。それもそのはずで、綱太夫さんの「ならせ」とは御飯をそのまゝ茶碗につがず、米びつの米を十分にしやもじで「馴らせ、馴らせ」よく「馴らせ」てから茶碗についでくれという意味だつたのです。いくら師匠でも口へ出していわないことはわからぬ道理なのですが、それにしても「馴らせ」を「鳴らせ」と思い間違つて、コン〳〵ポン〳〵やつたというので、あとで大笑いになつたという逸話が残つております。
 さて、織太夫が駄目になつたので、今度は先代大隅太夫さんのところへ相談に行つて、私が子供時代に浄瑠璃の手ほどきをしていただいた五代目竹本津賀太夫さんの跡をもらつて、六代目津賀太夫を欲しいと申しますと、これも既に和佐太夫という人にやつてしまつたとの話で、全く一時ガッカリいたしました。
 ところが、幸いなことにそのころ名人としてやかましかつた三代目の鶴沢清六師匠が私を引立てる意味で、私の相三味線になつてやろうとの話が持ち上つていた時なので、これを聞いた鶴沢三二さんが、「清六が津葉芽太夫を弾くなら、私が預つている豊竹古靱太夫の名をあげよう。初代の古靱太夫の合三味線だつた因縁もあるから……」といつていただきとう〳〵これで二代目の「豊竹古靱太夫」を継ぐことになつたわけでございます。
 これも余談にわたりますが、この初代古靱太夫さんは、不幸な横死をされた方で、明治十一年二月二十四日、やはり御霊神社境内にあつた「土田の席」という寄席の楽屋で、「鍛冶徳」という大工さんに刺殺され、当時世間を大変騒がせたものでした。なんでもこの「鍛冶徳」さんは、初代古靱太夫さんとは仲のよい幼な友達だつたのですが、何かの怨恨からこんな刃物三昧になつたということでした。犯行後三目目にこの「鍛冶徳」さんも立派に腹を切つて自殺しました。「鍛冶徳」さんのお墓は戦災前まで天王寺の遊行寺にありました。
 こんなわけで、古靱太夫という名はケチのついた不吉な名前の上に、その歿年の明治十一年が、ちようど私の生れた年に当るという不思議なめぐり合せもありますので、当時、いろんな人達から「選りに選つて、そんないまわしい名をつけなくともいいのに……」と忠告されたものですが、一向にそんな迷信めいたことのきらいな私は世間の反対を押し切つて襲名いたしました。
 とにかく、こんなわけで卅二歳の時から二代目の古靱を名乗ることになりましたが、当時私の一興行十五日間のお給金は金六円でした。そも〳〵私が文楽座へ入つて始めてお給金をいただいたは、忘れもしません明治二十三年、私の十三歳のとき。「苅萱桑門」の高野山の段が掛合になつていて、先代綾太夫さんの苅萱に私が石童丸を語つた時で、それが一興行で金二十銭でした。だから十三歳から三十二歳までの間、ちようど二十年間に、私は金二十銭也からやつと金六円也にまで昇給いたしましたわけです。実に今日から考えますと、全く嘘のようなお話でございます。
 先日も申上げましたとおり、私が今日曲りなりにも文楽座の「櫓下]にまでなり得ましたについては、師匠二代目津太夫の御高恩は申すまでもありませんが、どちらかといえば津太夫師匠は、私の若年のころ既にこの世を去られましたので、その後の修業は主として三代目の鶴沢清六師匠と、松屋町の師匠すなわち六代目豊沢広助師匠の御厚情の賜ものといわねばなりません。実際のところ、若しこの二人の師匠がなければ、今ごろ私はどうなつていたか知れません。この両師匠あつてこその私だつたと存じます。その有難さは今日なお一日として忘れません。
 
 恩人の清六師匠、名人だつたが大へんな我侭
 
 そのうちでも特に、三代目の清六師匠は私が子供のころから尊敬していた三味線の名人で、また逆に清六師匠も私がお気に入りで、なにかと可愛がつていただきました。それが右に述べましたとおり、私の古靱太夫襲名を機会に相三味線として私を弾いてくだされることになり、私としても年来の宿願がかなつた形で、大いにうれしく感じました。で、古靱襲名の翌々月、明治四十二年の六月興行から「古靱、清六」と床(ゆか)に列びましたが、持場は「岸姫」の兵衛屋敷の「中」でございました。
 ところが、この先代清六師匠はあれだけの名人でいながら人間としてはどちらかといえば職人気質の濃厚な、非常に気分のむつかしい方で、例えば日常、楽屋内での立居振舞いにしても、別に怒るほどのことでもないのに、額に青筋を立てゝ立腹される。それに元来、お人好しの証拠には直ぐ他人のおだてに乗る。こうした清六師匠の気質をよく呑み込んで、先年逝くなつた錣太夫さんなど、面白半分にあることないことを師匠の耳に入れる。それでいよ〳〵御機嫌が悪くなるといつたわけで、これにはホト〳〵困り抜きました。
 だが、なんといつても、私自身これほど敬慕している大先輩のことですから、例えば、御ヒイキ筋の招宴に出席しても、先ず正面の上座には櫓下の越路太夫さん、次ぎに六代目の吉兵衛さん、そしてその次ぎには清六師匠を坐わらせて、私などは遙かその末席に列なるといつた風に、どこまでも師弟の礼を尽していたつもりだつたんですが、それでも「古靱は生意気な奴や」……という誤解が頭を離れません。
 前にも申上げました通り、私の六十余年にわたる長い舞台生活において、この三代目清六師匠と六代目広助師匠との二人は大恩人中の大恩人として、その有難さは寝た間も忘れませんが、何分にも清六師匠の高慢無礼ぶりは年とともにつのる一方で、如何な私も、とうとうその所業の非常識さに辛棒できぬ羽目に立ち至りました。
 大正六年、私の四十歳の時のことですが、その五月に私と清六師匠をシンに、錣太夫、静太夫(現在の大隅太夫)、明石太夫、徳太郎(現在四世清六)らの一行で名古屋の末広座を振出しに岡崎の金升座、豊橋の豊橋座、静岡の千鳥座、東京の有楽座、横浜の横浜座甲府の巴座と東海道を一巡りしたことがありましたが、その帰途に大垣の宝福座に乗込んだ時のことです。
 どうも、これは少々お恥かしい話ですが、この大垣に出演した晩、私のなじみの芸者が名古屋からわざ〴〵逢いに来てくれました。ところが清六師匠の馴染みの芸者も名古屋の女で、これもその晩に大垣へ来る約束になつていたところ急にお客に誘われたらしく、大垣を素通りして、そのまゝ汽車で備中玉島の金光教へおまいりに行つてしまつたものです。そうとは知らぬ清六師匠、宿屋の二階で首を長くしていたが、待てど暮せど一向に女の姿が現れない。ところが、その隣の部屋では私と私の馴染女とがさし向いで一杯きこしめしている。それを襖越しに見てイラ〳〵しているところへ、悪い時には悪いことの続くもので徳太郎の馴染女もまた〳〵東京から徳太郎のもとを追いかけて、ちようどその晩大垣へ着いた。これで左右両となりの部屋に二組の男と女。その間にはさまつて、清六師匠だけが、広い座敷の真ン中でポツネンとひとり煙草ばかり吹かして、朝まで一睡もせずに女の来るのを待つていられたわけなのです。
 もちろん、これは私どもが故意にそうしたわけでもなく、偶然こんな成行きになつたので、心のなかでは清六師匠に同情していたほどなのですが、サア、朝、目がさめると、清六師匠カン〳〵に怒つている。頭の先から湯気を立てんばかりです。傍から見ていると可笑しいやら、気の毒なやら……でも、これは時のはずみで、なんとも処置のつけようもない。まるで子供の駄々ッ子のような無理をいう。朝起きぬけに「昨夜は済みませんでした」と謝まりにまいりますと、「お前たち、女が逢いに来たら、そんなに威張り散らさんならんのかッ」といつたあんばいで、全く宿屋の女中さんに対してさえ、こちらが恥しいほどでした。
 
 腹にすえかね別れたが満一年でヨリをもどす
 
 この巡行はこの問題の大垣からさらに金沢、高岡、富山と北陸路をまわつて伊勢路に入り、津の曙座を打上げにして八月上旬三ケ月振りに大阪へ帰つてまいりましたが、大垣以来いよ〳〵清六師匠の低気圧は険悪で、行く先き〴〵の茶店の祝儀の端々にいたるまで、とやかく申されますので、伊勢路に入つてから私は頭取をつかまえて「どうも清六師匠の口がウルサくて仕様がないから、私のお給金は全部師匠のほうにまわして下さいよ」といつたほどでした。
 こういう状態で帰阪しましたのですが、いくら恩人の師匠といえ、こちらも人間のことゆえ、三度に一度はムカ〳〵することもある。それで早速、むかし私と清六師匠とを取持つてくれた「ざこば」の旦那衆に「清六師匠は芸の上では名人だけど、人格はゼロだ。もうこれ以上の辛棒は私には出来兼ねますから……」と別ればなしを持ち出し、そのころ新町の九軒の吉田屋の前にあつた鰻屋の二階で、清六師匠と私とその旦那と三人立会つて奇麗に別れの盃をくみかわしました。
 明治四十二年の六月から、この大正六年の八月まで、約九ケ年の長い間、なにかと御世話になつた師匠と私との舞台夫婦もこれでスッカリ解消というわけで、さすがに私としても感慨なきを得ません。ちようど八月中旬の暑い盛りのころでしたが、その鰻屋の二階から見おろすと、九軒の植込みの葉ざくらが夏の陽にギラ〳〵光つて目を刺すようです。これで、やつと清六師匠とのイザコザから逃がれることが出来た気安さが、その夏の陽に照り映えた葉ざくらの色艶をさらに一段とすがすがしく思わせるのでした。だが、それでいてなお、十年近くも御世話になつた恩師とのはかない別れ、その心苦しさがどつか私の胸の隅ッこに自責に似たものをよどませぬでもありませんでした。話が済んで「ざこば」の旦那と一緒に九軒から佐渡屋町へ抜ける清六師匠の後姿にも、思いなしか痛々しい影がさしているようでもありました。
 清六師匠と別れた翌九月から私はまた〳〵錣太夫、静太夫らと一緒に大連を振出しに旅順、奉天、撫順、それから帰路は朝鮮へもまわつて京城、仁川、釜山と長い満鮮巡業に出かけましたが、この巡業から私の相三味線は清六師匠にかわつて八代目の野沢吉弥が弾いてくれました。
 一方、私と別れた清六師匠はその後、弥太夫さんを弾いておられましたが、どうもうまく行かず、さらに代つて駒太夫さんを弾かれましたが、これもイキが合わず、悶々のうちにその年も暮れました。だが、それもそのはずで、失礼ながらあれだけ御機嫌のとり難い清六師匠に仕える人間は文楽座広しといえど恐らく私以外にはありますまい。で、師匠の清六さんも、一たん気づよく喧嘩別れをしたものの、やはり私が恋しく、また私としても松屋町の六代目広助師匠その他から「どんなに気に入らぬことがあつても、清六ほどの師匠と別れては、お前の損や……」と意見され、それで大正七年七月、また〳〵元々どおりヨリを戻して「古靱、清六」のコンビにかえつたわけでございます。
 ところが、妙なもので、僅か満一ケ年しか別れておりませんでしたが、改めて一緒になつてみると、それが昔とは全く打つて変つたほど物のよくわかる師匠になつておられるのには一驚いたしました。私は別れていた一年間の淋しさが胴身に沁み込んだせいか、すつかり気持が折れて来られたのでしよう。言葉づかいまで丁寧に礼儀正しくなられました。こう気持よくせられてみると、私の方もなんだか却つてお気の毒のような気になつて、それからはお互いに極くおだやかなお付き合いで暮して行けました。
 その後、また四年ほど経た大正十一年の正付、文楽で「本蔵下屋敷」が出た時、ふとした風邪がもとで、一月十九日遂に清六師匠の急逝に会いました。行年五十五歳。実に惜しい名人をなくしました。明治四十二年から大正十一年まで、前後合せて約十四ケ年の長きにわたつて、私は清六師匠の芸の力で育てられて来ました。きびしい稽古の中から私は清六師匠の真の「芸道」の立派さを会得することができました。私情的には前に申上げましたとおり、いろ〳〵苦労はいたしましたが、この師匠のご恩は私の生涯を通して忘れることが出来ません。
 
 八人の子福者だつたがそれも次々にみな病死…
 
 お話がかわりますが、私は八人の子福者でした。前回申上げました最初の女房のおつるとの仲にできた長男の太郎と次男の次郎のほかに男三人、女三人の子持ちで他人様からも羨やまれるほどでしたのに、その八人が八人とも順次に病死してしまつて、今日では全く天にも地にも一人ぼつちの身になつてしまいました。
 元来、私は帰らぬ繰り言や愚痴をならべることの嫌いな性質なので、こんな不幸のなかでも、決してそのため気力を落したり、取乱したりすることはなかつたが、それでも最後の寅太郎と雄子の二人に先き立たれた時は、さすがの私も老境に入つていた気の弱りも手伝つていたし、それにいよ〳〵もうこれで本当に一人残らず子供がなくなつたと思うと、人知れぬ愛惜の涙が腸をたつ思いでした。
 寅太郎が逝くなつた昭和十六年の五月には文楽座で「太功記」の尼ケ崎を語つていましたが、その最初の十次郎の出の「十八年がその間、御恩は海山かえられぬ」と初陣に当つて母や祖母に陰ながら暇乞いするくだりへ来ると、もう床で語つている私の頬に涙が幾筋も伝つて、それが床本の上へポトリと落ちるのです。舞台の十次郎も十八歳のつぼみの花で散つた。わが子の寅太郎も同じく十八歳を一期にして果敢なくもこの世を去つた。時も時とて、この「尼ケ崎」の十次郎と寅太郎の年齢の一致が堪えがたい親としての悲しみに、さらに生々しく人の世の頼みがたなさを思わせるのでした。
 雄子は子供の時からムク〳〵と肥つていてこの娘だけはなんとしても死なせたくないと神仏にそれとなく祈つていたのですが、なに分、戦争真最中の無理がたゝつて、これも十七年の春ごろから次第に弱つてまいりました。でも、逝くなつた七月は東京劇場へ出演することになつていたので、病床で「お父さんいつて来るから、大事に養生してるんだよ」と申しますと、案外元気に「お早うお帰り」とニッコリした顔で玄関まで送り出してくれなどしましたので、まさか、これが父娘、この世の最後の別れになるなどとは夢にも考えていませんでした。それがその月の二十四日、父親の私を呼びつゞけながら、遂に息を引きとつたのです。大阪堀江の自宅から「ユウコシス」の至急報を受け取つた時、私はその電報を手にしながら東劇の楽屋で「とう〳〵いけなかつたか……」と一言だけ思わず口へ出ました。すると、それを聞いていた綱太夫以下の門弟たちが一斉に声をあげて男泣きに泣いてくれました。
 私は兄弟子の津太夫さんに続いて文楽の「櫓下」になりました。日本芸術院の会員にも推薦されました。秩父宮殿下から「豊竹山城少掾」の受領名をいただきました。さらに天皇陛下行幸の光栄、宮中での拝謁の有難さなど、未熟な私ながら、打ち続く晩年のかずかずの栄誉には、恐らく文楽座二百年の歴史においても、私ほど幸福な者はありますまい。だが、その無上の光栄の蔭に、私は一個の人間としてこれほど悲惨な、生きて行く苦しみに打ちのめされております。
 七十二歳の老境にある今日、私は人の世の煩悩にのたうちながらも、ただ〳〵「芸道」一筋の解脱にすがつて、なお力強く生き抜いて行かねばなりません。これだけが今、私に残された御仏のたゞ一つの慈光でございましよう。     (おわり)