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【マイクはなれて 山城少掾】

(2026.02.25)
提供者:ね太郎
 
 連載対談55 マイクはなれて 放送文化 13(11):44-49 1958
 山城少掾  きき手 武田俊雄

 気品に満ちた浄瑠璃を語り、一分のすきまも見せないきびしい舞台行儀の山城少掾ではあるが、いちど床をおりるとこれはまた和やかな顔の人。局へ放送に見えるときに玄関の守衛さんに会釈される姿はごひいきの社長さんに対するのと少しも変らない。こちらが恐縮するほどである。ただ口の重いのがこんどの対談には重荷であった。「私は浄瑠璃のほかはなんにも存じませんので」とおっしゃる。マをはずさないようにいつもねらっている合三味線の鶴沢藤蔵さんの苦労がしのばれる。(武田)
 
 
 収集癖が嵩じて
武田 最近テレビをお買いになりましたですね。
山城 ええ、三月ばかり前に。あれはよろしいな。
武田 どんなものをごらんになってますか。
山城 何となしに、出ていたら十一時まで見ています。
武田 特にお好きな番組は……。
山城 何でもかまわず出ているものを、野球でも……。(笑)
武田 おわかりになりますか。
山城 わかりません。(笑)
武田 すると外へは全く出られないわけですか。
山城 どこへも出ません。もう芝居(文楽座)の行き帰りだけです。みなさんにも御無礼ばかりしています。
武田 以前はよくお歩きになったとうかがっていますが……。
山城 ええ、ずいぶん。若いときから出歩くのが好きで、体の工合がよくて暇さえあれば御陵めぐりをしたり、近廻りの神社やお寺へ御朱印帖をもって出かけました。終戦のあとなんか、こんにちのように自動車もござんせんし、天満から四つ橋の文楽座まで歩いてかよったこともございます。
武田 あのころの市電はひどかったですからね。でもよく歩かれましたね。
山城 ときどき、当時これも京都にいた綱太夫と一しょになるのですが、私がどんどん先に行くのでついて来れないで弱っていました。(笑)
武田 京都からかよわれていた頃……。
山城 さようです。堀江で焼かれましてね、毎日満員電車でシャケのように吊り皮にぶらさがってかよったもんです。
武田 大阪のお宅では、惜しい番付や丸本(浄瑠璃本)などの文献類をすっかり焼かれてしまわれたそうで。
山城 ええ、残念なことをしました。手もとからはなすのがなんとなく心さびしかったばかりに……。戦後また集めにかかりましたが、もうだめです。
武田 あのころのものには宝暦時分の珍しい番附や近松前本の浄瑠璃本などがたくさんあって、学問的にも大へん役立てられました。
山城 ええ、番付は黒木勘蔵さんらが東京音楽学校で邦楽年表をつくられるときも大分お貸ししました。大正の初めごろでしょうか。丸本、しらみ本、古番付、評判記、肖像……義太夫節に関するものは手当り次第にあつめました。
武田 芸能人でお師匠さんほど学問の世界と交渉のあった人は少いですね。その時分ですか、書庫に寝台をもち込んで……。
山城 洋間が一つありましてね。そこへ寝台をおいてやすんでいましたが、いつでもすぐ手が届くように部屋の廻りをすっかり棚にしてそれへ本をつめていました。近松ものの丸本はたしかあと一、二冊でみんなそろうはずでした。
武田 その住吉のお宅へ移られたのは……。
山城 大正八年ごろでしょうか。そこには二十五年ほどいましたが、やはりあの時分が一ばん楽しい時代でした。
武田 お酒はその時分はよく召し上っておられたでしょう。
山城 そりゃもう(笑)正月には新年宴会をやりましてね。弟子どもが集るもんですから…-。さあ若い時分には三升ぐらいあけましたか、一晩に……こないだ死んだ綱造君が呑み友だちでした。私がどうやらこうして一人前の太夫になったのは清六さん(三世)のおかげですが、この方は酒があまりいけぬ方でして、私はよく瓢箪代りにお伴しました。清六さんが受けられた盃を膝のよこにおかれると私が干してもとのところへ戻しておく(笑)という役目でした。近頃はさっぱりいけません。
武田 御病気以来自重なさっているそうですね。
山城 まあ一合くらいでしょうか、気が向けば、も少しいただくこともございます。年ですかな。(笑)
   実のところ、このごろはあまり面白くないので、いっそ廃めちまおうかと短気を起すこともありますが、さてこの商売を離れてほかに芸があるわけでもなし、なにしろ長い間やって来たことですからまた出たくなるだろうと思うとなかなかふんぎりがつきません。
武田 お師匠さんは家族運の薄い方でございますね。
山城 七人ありましたが、みんな早く世を去りました。
武田 『大功記』の十段目ですか、重次郎の「十八年がその間、御恩は海山かへ難し」のところを語られると、なくなったお子さんを思い出されるので封じものになっているそうで……。
山城 演らないというわけではないんですが。そりゃ子供のことは思い出します。四男の寅太郎がなくなったのが十段目でした。ちょうど三代津太夫も重態でして私が帰ったあとになくなったんですが、同じ日に息子が死んだんです。私はその日も舞台は休みませんでしたが、いかにもつらくていやでした。……寅太郎も十八でした。もっとも浄瑠璃はことごとく悲劇なんですからどれをとりあげても何かに当るところがあります。
 
 若気のいたリ
武田 お師匠さんの浄瑠璃はいつも気品に富んだ語り口で有名で、日常や舞台行儀も大変上品でいらっしゃいますが、小さい頃踊りを習われたとか聞きましたが……。
山城 そんなわけでもございませんが、私の父親というのが派手好きの方でして、私が四つのときに芝居の子役に出されたことがあります。片岡銀杏といっていました。
武田 そのままやめずに歌舞伎におられたら、こんにちの歌舞伎も大分様子がちがってきていたかも知れませんね。
山城 さあ。(笑)それでも性に合わなかったんでしょう、子供心に白粉を塗られるとぞっとして役者がいやでした。
武田 すると大阪へ来られたのは……。
山城 法善寺の津太夫さんです。二代目です。私の十二歳のときです。
武田 明治二十二年ですか。どうして浄瑠璃にはいろうというお気持になられました?
山城 浄瑠璃は八つのときから稽古していました。そのころ文楽座が東京に来ましてね。孟宗竹の竹やぶがあって、その奥で人形の動いているのが大変珍しく見えました。……『廿四孝』の筍掘りだったんですね。その場の太夫さんも三味弾きの方も実に上品な人だったのです。この方がのちに私の師匠となった法善寺の師匠なのです。
武田 この方は「お公卿」さんというあだ名がついていたそうですが、するとその上品なところがお師匠さんのお好みにあったわけですね。
山城 役者がいやで仕方がなかった上、太夫は老幼男女、いろんな役をひとりでみんな語って、人形も動かせば三味線も弾かすんだから、こりゃ太夫が一番偉い。子供心にそんなことを考えたんでしょう……。とうとう父も納得して太夫になることを許してくれ、子供太夫の寄席へ出るようになりました。
武田 法善寺の師匠という方は茶店をやっておられたそうで……。夫婦ぜんざいで有名なあの法善寺ですね。
山城 そうです。法善寺の境内にそのころ茶店が二軒ありました。その一軒です。
武田 法善寺の津太夫には美しいお内儀さんがあって……。
山城 初代清六さんの娘さんで、苦労知らずに育った方だけに人一倍悋気ぶかいたちでした。そのころ師匠にはお幸さんといういい人があって始終それで家庭争議がおきていました。あるときも師匠ご夫婦で大げんかになったので、止めにはいろうとしたとたん、部屋のすみにあったお櫃を足にひっかけてころがしたもんで(笑)そこらいっぱいご飯粒だらけになり、その騒ぎで喧嘩はケリになったこともございました。
武田 内弟子時代にはずいぶん御苦労もありましたでしょう。
山城 ええ、みんな苦労したもんです。芝居の始まるのが朝の八時ごろですから、それまでに店の掃除をして暖簾をかけ、床几をならべたり葭簑をつったりして……。それから本をかかえて御霊の文楽座へ歩いてかよいます。大序をすますと私かもう一人の弟子かどちらかが師匠の御出勤を迎えに戻ります。人力車のときは後押しもいたしました。
武田 いまでもやっていますが、翌月の番付をごひいきへ配るのもお弟子さんの仕事ですね。
山城 いまと違って電車のない時分ですからずいぶん遠くまで配って歩きました。あるときこの番付配りを怠けてひどい目にあったことがあります。暑い盛りのことで、その番付配りの途中三次郎という三味線弾きの卵と出あったんです。子供のことですから一つ泳ごうかという悪い相談ができましてね、ちょうど中之島だったもんですから今の大阪市庁の横あたりから堂島川へ入って泳いだんです。そこでもっていた番付はめんどくさいと川へ投げ込んだのですが、いい気持になって泳いであがってくると脱いだ着物もないんです。これには弱りました。ちょうど相乗りの空車が来たので早速それに乗って三次郎の家まで引いてってもらいました。おふくろさんが大急ぎで身揚げしてくれた着物を着せてくれてほうほうのていで戻ったんです。(笑)
武田 十三歳の抵抗ですね。(笑)
山城 ところがこれには後日談がついていましてね。川下に久原さんというひいき筋の家がありまして、そこの女中さんが洗濯かなんかしているところへ流れて来たんです。その投げ捨てた番付の束が……。拾い上げて見ると竹本津太夫と判がおしてあるでしょう。あとで師匠が挨拶に行かれたときに奥からこれやと言って出して見せられたんでたちまち悪事露見、大目玉をいただきました。
 
  無心に語る
武田 NHKの放送が始まったのは、大阪は大正十四年と聞いていますが、あれは三越ですか、一番初め……。
山城 確かそうです。屋上にスタジオがございました。
武田 そのころは古靱太夫時代で……。
山城 ええ、古靱太夫を襲名したのは明治四十二年です。
武田 もともと三代目津太夫の名はお師匠さんが継ぐはずだったそうですが……。
山城 私も父からそんなことを聞いたことがありました。ちょいちょい法善寺のお宅へうかがっていた父に師匠が早くからそう言っておられたのを。明治四十一年の秋に師匠が倒れまして急に話が変って兄弟子の文太夫が三代目を継ぐことになりました。そうこうしているうちに、三代目清六さんが合三味線になって下さることになって、古靱太夫の二代目を襲ぐことになりました。
武田 清六さんは明治の彦六座を背負って立っていた三代目大隅の合三味線として苦労しただけに、お師匠さんに対しても随分きびしかったそうで……。
山城 ずいぶん泣かされもしました。稽古のはげしい方で……。巡業に行っても、その晩の演しものが昨夜の土地と同じなんですが、それでも晩の舞台までに三べんくらい繰り返しての稽古です。
武田 よくこらえて来られましたね。
山城 一緒に行っている越路さん(三代)が見かねて「そないせんかてええや
ろ」と言うて下さるんですが、清六さんは「いま苦しんでおかんとあとのためにわるい」と言うて取り上げられません。私もいくら苦しくてもこの人に太夫にして貰うんやという気持でいました。気むずかしい方で……。
武田 放送が始まったころのプログラムを見ると、あのころはお師匠さんはよく出演されていますね。
山城 ええ、盛んでした。毎日のように浄瑠璃がございましたな。私もちょいちょい行っています。
武田 お師匠さんのほかに、先代の津太夫さん、錣太夫、先代の土佐太夫と多士済済でしたね。それかち娘義太夫や素人浄瑠璃を加えるとほとんど毎日かならず義太夫番組があったようですな。
山城 むかしはよかったです。(笑)
武田 昭和二十八年の第四回NHK放送文化賞……。
山城 そうあの時分もよくいれました。
武田 「山城少嫁独演会」という時間があって、一段まるごかしに演っていただきました。あれで随分ファンがふえて、義太夫節を再認識したという声も聞きました。
山城 東北や北海道へ巡業にいきますと、ラジオでは聞いているが実物は初めてでというお客さんがありました。
武田 二度目のご病気までつづきましたね。
山城 近ごろは根がつづきませんで……。
武田 スタジオでは舞台とちがってお客さんの姿が見えなくて語りにくいんでしょうか。
山城 よくみんなそう言いますが、私はどうということもございません。もっとも若い時分は旅に出たときなんか、始まる前に舞台に出て声を出して見て響き工合によって、その日の語り方を考えたこともありましたが……。近頃はお客さまの方が私の声の方に合わせて聞いて下さると思うようになりました。
武田 このごろはそういうことは……。
山城 気にしたら何から何まで気になりますから。ぶん回しが表へ回ったとき、見物席のざわつきが耳についたり、その方へ気が散ったりするような日はうまくいきません。逆にこっちへ吸いとらねばだめなんです。見物をおさえると申しますか、なんにも聞えず無人の境のようなものです。
武田 すると文楽座が四つ橋から新しく道頓堀に移って近代的な設備になり山城 そんなことはとんちゃくなしです。
武田 放送ですとマイクまかせで……。(笑)演しものはお師匠さんからおっしゃるのですか。
山城 こちらからは別に言いません。やれといわれるものをやっているだけなんです。しかしどちらかというと「二月堂』のような「風」のあるものが好きですな。
武田 「風」ということは義太夫節では大へんむつかしいことだそうですが……。
山城 いえ、私は何も存じませんので……。(笑)
 
 
  この道で喧しい「風」
武田 堀川猿回し(『近頃河原達引』)ではお師匠さんのご研究で床本を改められたというような……。
山城 私は昭和二年のときから、古きにかえすという考えで、床本と丸本のちがうところは原作の丸本に拠ってなおしています。堀川というのは猿回しがあるので派手なように思われていますが、大体はさびしい曲なんです。三味線は派手でも浄瑠璃はできるだけしんみりした気分に語ることに苦心しています。
武田 写実に語るわけですね。わびしい親子暮らしのなかの親子の情合がよく出ないと……。
山城 世話物は話をするように語れと聞いています。ですから「いま戻ったぞや」「オオ今戻りやったか」というイキでさらさらと行きたいのです。いったいに丸本の方が簡潔で床本は入れごとが多いですな。「琴三味線の指南屋も」では丸本には「の」がありません。「お鶴さんさぞ待遠にあらうな」も「さぞ」がございません。
武田 語り出しの「おなじ都も世につれて、田舎がましの薄煙、堀川辺に住居して」のところもそうでしたね。
山城 さようです。普通には「田舎が、まし」と言っていますが、私は田舎風のという意味で「田舎がまし」と言っています。
武田 しかし、お師匠さんは浄瑠璃の文句を訂正なさるだけでなく、語り口もそれにふさわしいように工夫されて、いままで道化めいて語られていた与次郎を、心から母に孝養をつくしている真面目な青年としてえがかれたというところに近代的な義太夫節をつくり上げたお師匠さんの大きな功績があるわけですね。
山城 原作の丸本をよく読んでいると自然そこへおちつくのですな。
武田 そこで「風」ということが喧しくいわれることになるのですね。
山城 なんにしましても「風」というものをはなれての義太夫はございません。
武田 「風」というのは初演の人とか中興の人のくせというだけでなく、脚本の解釈や演出意図というものも含まれているのでしょうね。
山城 それを探って語るということに修業があるわけなんです。なんでもかんでも同じに語るんなら五、六段も稽古すりゃ何でも語れるわけで。それじゃあ小説本読むのも一しょですから……。(笑)
武田 「風」には大きくいって豊竹座の「東風」と竹本座の「西風」に分けられるのですか。
山城 総体に東風はギンの多い派手な音づかいで、西風はいくらか地味で渋い語り口になりますが、遡って古風をただすということは大へん難しい仕事です。
武田『仮名手本忠臣蔵』の初演のときにも東西の太夫入替ということがありましたね。
山城 寛延元年の竹本座です。此太夫さんと吉田文三郎さんの意見が衝突したんですね。それで文三郎さんの横暴に憤慨した太夫が東へはしったのです。これからですね、東風と西風が入りまじるのは。だから九段目は東の此太夫さんの風に西の政太夫さんの風が入っていると考えてよろしいんです。明治の名人の団平師匠が彦六座にたてこもっておられた時代には、御霊の文楽座がいったいに西風なのに対抗して、東風をとりあげて西のものでもなるたけ派手にやらしておられたようです。ともかく私どもとしましてはこんにちまで風を残しておられる方にならうのを修業の目標にしています。たとえば『酒屋』なんか初演は安永の二代目若太夫さんですが、ながらく上演が絶えていましたのを、天保の靱太夫さんがこれを復活したのでこの方のものとしなければなりませんし、これに磨きをかけられた初代古靱太夫さんの風を範としなきゃあいけませんでしょうな。
武田 うかがっているとだんだん難しくなってまいりますが……。
山城 どなたにもわかるのは『伊賀越』の沼津です。コアゲは咲太夫風です。咲太夫さんは男徳斎といわれたチャリ(滑稽もの)の名人で、間どりと足さばきのたくみな方でした。奥は染太夫風で、この方は濃やかな情合を語って名人とうたわれた方で「およねは一人物思ひ」からしっとりと沈んだ風にきっぱり替らなくちゃなりません。もっとも風と申しましても要所要所にあるわけで、一段の初めから終りまでのべつにあるというわけではありません。……それから、昔からたびたび床にかかってやり過ぎているものはそれだけ語りくずされているのが多いんです。『太十」なんか麓場といってやかましく言われながら十人やれば十人ともちがっています。私なんか、自分では、もとはこうだったろうと思うところを、自分なりにやっています。まあ古きに帰るというつもりなんです。
武田 古典である文楽のむつかしいところですね。私どももよく言われるのですが、放送でも『酒屋』とか『すしや』など同じものをいつも繰り返さないで、どんどん新作をやったらというんです。これはどうも日本の古典に対する理解が少ないような気がしてさびしくなることがあります。お師匠さんの語られる『酒屋』と摂津大掾が語った『酒屋』とはおなじ『酒屋』でも一方は詞にすぐれており、他は地合がこまやかであったでしょうし、ちがう。その人の力によってどんなにちがうかを楽しむのが古典の鑑賞の仕方の一つの方法だと思うんです。もっとも古格と言いますか風は守られていなければなりませんが……。こういう風というものを掘り下げていると意外な発見がありますね。初演のころの社会通念と言いますか、人々のものの考え方や作劇術が案外合理的なんですね。
山城 むかしの作はよくできています。
 
  思い出す人々
武田 お師匠さんは十二月で満八十歳を迎えられるわけですが、半世紀以上文楽に暮らしておいでになると、いろいろの名人を送り迎えなさいましたでしょう。
山城 なんといっても清六師匠ですね。こうして一人前の太夫になったのは。
武田 芸の育ての親として……。
山城 ええ。……松屋町の師匠、のちに名庭絃阿弥となられた六代目の広助さんですが、この方にもずいぶん稽古をしていただきました。役ごとに清六さんと二人でうかがいました。この方もきびしい方で、まだ私の若いころでしたが、『すしや』の稽古で、マクラから「御運のほどぞ危うけれ」までを半月あまりもかよって初めは聞かしていただいたんですが、まことにうまい浄瑠璃で毎日感心ばかりしていました。ところがこっちが語る段になると初めから終りまでお気に入りません。二、三行も先へは進めないのです。とうとう或る日、「やめてしまいっ」と撥の先で机の上の本をはじきとばされました。大ぜい稽古に控えている門弟衆の前をすごすご引退がったんですが……。そう言われてもあくる日また恐る恐る稽古に上りますと、だまって稽古をつけてくれられました。
武田 舞台での変った癖のある方もありましたでしょう。
山城 はらはら屋の呂太夫さん、これは初代ですが、この方は間拍子をとるのに扇で床本をたたく癖がありまして、つぎに膝をたたいて、その手をサアッと前へのばす……という大へん派手なものでした。この方の笑い、うーフ、あーハ……という浄瑠璃のあの笑いですが、芝居の表筋にいて聞えるんです。ああいま三段目やなということが判るんでした。それから木谷蓬吟さんのお父さんに五代目の弥太夫さんという方がいました。悪声用でしたが情を語るのが巧みな方で、この方は舞台で床本をぐっと手づかみにつかんで本をめくるんです。それでこんどはそのしわくちゃになったのを平手でせっせとのばす。(笑)語りながら、それをくり返すのがくせでした。
武田 文楽のおはやしは昔から一人でやるんですか。
山城 あんまりたくさんかかりませんな。昭和の初め頃までいましたが小川弥三郎という人がやっていました。片手に太鼓の撥をもって、もう一方では笛をというわけで……。それから足の先にリンをはさんで振るのですから。ときには寝ころんだままで打つんですよ。(笑)ぞんざいというのでもないのですが、なにしろ文楽は義太夫が中心ですから歌舞伎ほど凝らなくてよいわけです。
武田 むかしの娘義太夫ではだんだんヤマになってくると見台からのり出したり、櫛がおちて、髪が。パラリとくずれたりするのに大へん色気があったと聞きますが、文楽ではそういうスタンドプレイはやったんですか。
山城 そう、呂昇なんか人気がありました。私どもの方はむかしはそれはやかましいものでした。扇子を持った手を膝においたまま、体をくずさずに語ったもんです。摂津大掾が越路太夫時分からのことだと言われています。体をゆすぶったり、のび上がったり床の行儀がくずれてきたのは……。越路さん十八番の『中将姫』なんかで「ゆるさせ給へ母さま」で一ぱいのび上って、あの美声を張り上げられるとお客さまはもうたまらなくなって拍手されたものなんですね……。一つには前受けをねらわなければならないほどその時分は浄瑠璃の苦境時代だったのです。
武田 ながいお師匠さんの舞台生活では一期の思い出というようなのがいくつかおありでしょう。
山城 空襲の最中に浄瑠璃を語ったことがありましたな。あれは昭和二十年の七月でしたでしょう。仙糸さんが弾いて下さりましたが。京都に断絃会という催しがあったときです。ラジオはひっきりなしに空襲警報を伝えていますので、こう騒がしくてはお客さまも落着いてお聞き下さるわけにはゆかないでしょうから明日に延ばしてはとみなさんに御相談したんですが、そっちが語る気なら構わないからやれとおっしやるんです。どこで死ぬのも一しょだ、好きな浄瑠璃を聞きながらドカンとやられりゃ本望だと言われると、お客さまがその気ならこっちはもとより芸人冥利、そんならやりましょ、やってくれというわけで二段語りました。舞台中は飛行機の音も気になりませんでしたが、おりたとたんに落着かなくなり出したから不思議なもんです。その日は米機が二千機以上通過したのだそうで……。
武田 終戦後文楽行幸がありましたね。あれも大きな思い出の一つだと思いますが。
山城 昭和二十二年の六月でしたが、私は『重の井子別れ』を勤めました。無事に勤め上げたいということ、おいでの間に不時なことのないようにとそればっかり念じておりました。床に出る前の緊張感というものはなんとも言えんものでした。あとで貴賓室へ伺候しましたが、陛下のお言葉がいまだに耳に残っています。
武田 道頓堀の新しい文楽座のこけら落しの時にはお師匠さんが……。
山城 あのときも嬉しゅうござんした。楽屋へはいって若い人たちの顔を見ていると胸が迫まって来て……。思わず涙がこぼれました。どうも年をとると涙っぽくなるのでしょうか。
武田 明治のころにも大正にも文楽の苦境時代がありましたが、いまも一つの危機といえると思いますが。
山城 文楽が危いと言われてきたのは昔からなんです。宝暦元年の番付の口上に「毎日百人の間ほうらくにてお目にかけ候」とあります。
武田 つまり「先着百名標に限り無料御招待」というビラなんですね。宝暦というと『忠臣蔵』が出て間もないときですし、こんにちたびたび上演されている『玉藻前』『恋女房』『嫩軍記』などの名作が発表されたときですから……。
山城 そうです。だから名人さえ出れば浄瑠璃は決して滅びるものではございません。私なんかも若いときにはせめて一円とれる身分になりたいと思って勉強したもんです。なにしろ初めは十五日で二十銭でしたから。食えないから勉強するんで、食えると勉強しないもんなんです。昔は生活が楽になりたいと思えばいやでも勉強して芸を認められて番付の位置がちっとでも上にあがろうとした。早く名前の上に「切」という字がつくようになりたいとか、せめてあの人のそばまで行きたいとか思って修業をはげんだものです。
 
  後継者の養成
武田 ところで、七十年間の舞台生活ですからお弟子さんの数もずいぶんになりますでしょう。
山城 さようです。みんな早くなくなったり、中途でほかの商売に変ったりしましたので……。いまの文楽では綱太夫が一ばん古いです。つばめ太夫、和佐太夫、雛太夫、松島太夫、津太夫、古住太夫……これはこんど引退披露をした住太夫の息子です。それに弘太夫、十九太夫、綱子太夫。土佐太夫は預り弟子です。
武田 孫弟子をいれるといまの文楽はお師匠さんの系統をひく人が大半で、そのために文楽を聞いているとどうも講義を聞いているようで肩が凝るという評もありますが、弟子運には恵まれておられるのは何よりです。正月には大勢集って賑かなことでしょう。
山城 正月の十日ごろに新年宴会をやるとみんな集ってくれます。私は子供にも家内にも先立たれましたから……。みんなの弟子たちの元気な顔を見ているのが楽しみです。
武田 文楽は全体が無形文化財に指定されることになり、国から補助金が出て若手後継者の養成にも力をいれているようですが、一ばん御心配なのはどういう点でしょうか。
山城 三味線弾きです。昔はみな七、八歳で弟子入りして修業したもんです。だから二十代には或る程度でき上っています。世の中のありさまが変ってしまったのでそれがむずかしくなりました。
武田 鶴沢徳太郎さんの甥の清治さんのほかは若い人でもみんな二十前後なんですから……。太夫や人形もそうでしょうが、三味線はことに幼いときから稽古をはじめないと手が固まってしまうんでしょうね。新しい時代にふさわしい養成法を考えねばならないですね。
山城 以前には私も考えて見たこともあります。太夫、三味線、人形の三業から選りあつめて合宿させ、生活の面倒を見ながら芸を仕込むというんですが、戦争があってすっかり世の中が変りましたので(そのままになりました。今でもできなくはないんでしょうが、相変らずの私の引込思案に、方々にお願いして廻ることもおっくうでそのままになっております。まあ私一代の間に文楽をつぶすようなことはしたくないと思っています。
武田 近ごろの御健康はどうですか。
山城 おかげさまで血圧もあまり高くないものですから……。
武田 最初の御病気はたしか昭和二十五年でしたか。
山城 ええ、五月の東京公演のときでした。三十一年の春にも大阪の国立病院へはいりましたが……。それ以来元気です。ただ運動が足りないので、足に力がなくなりまして、浄瑠璃を語るのも初日があいて二、三日は肚に力がはいらないで困りますが、それもしばらくすると取戻します。
武田 文楽座が道頓堀に移って間もないころ、お師匠さんもおさびしいだろうというので綱太夫さんが自宅を建て増して、御一緒にお住まいでしたね。師弟美談として私たち心のあたたまる気持でした。
山城 ええ、厄介かけました、綱太夫には。私も年をとりましたのでいろいろめんどうなことはみな綱太夫に委せてありますので……。幸い今の餌差町の土地が手に入りましたのでこちらへ移りました。
武田 なにか長寿法を実行しておられるのですか。お食事はいまでも牛肉などビフテキにして平気で召し上るそうですが……。
山城 なんでもいただいています。知らぬ間にこんな年になりました。ですから別にこれといった養生はしていませんが、歯はみんな自分の歯ばかりです。ひところは野菜のジュースをすすめられましたが、あれはまずくて飲みにくいのでやめました。近ごろはよく眠ります。朝、眼を覚まして新聞を一通り見てまたひと寝入りするというようなわけで……実際よく寝ています。
武田 どうもいろいろお聞かせ願いまして有難うございました。今後もお元気で活躍をお祈りしています。