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【新国劇「文楽」第四幕 抜萃】
(2026.02.07)
提供者:ね太郎
1959年演劇出版社版では山城が「位牌」を持っていたことになっているが、1948年羊文版では山城の持ち物への言及はない。
北条秀司作品集 (演劇出版社 1959.12.25)による。[ ]は、 北条秀司戯曲選集IV (青蛙房 1964.11.20)で補足した。
第四幕
昭和二十二年六月十四日。--文楽にとって永久に記念すべき光栄の行幸日。
舞台は大阪四ツ橋文楽座の楽屋。
幕の開いた時は、天覧芸能の重の井子別れの段がいまや段切の最高調に達しているところ。
楽屋には、次の幕に出演する桐竹紋十郎と吉田玉助が、弟子達に囲まれて、出の支度をしている。
支度が終ると、紋十郎は静御前の人形を調べる。
玉助は早変りの衣裳のひき抜きを弟子に試みさせている。
口番と炊事婦が、固くなって、舞台の音に耳を傾けている。
柝の音がチョンと鳴り、さかんな拍手の裡に幕がしまる気配。
急に楽屋が活動的になる。
弟子の一人が来る。
弟子 切れました。
紋十郎と玉助、顔を見合わせる。
紋十郎 さあ、いよいよだんな。
玉助 どうもいかん。落着くんや。落着くんや。(自分に言いきかすように呟く)
紋十郎 神さんにお願い申そう。(神棚にむかって、合掌する)
桜井支配人が先払いのようなカタチで来る。
支配人 此処でちょっとイキを入れて行きはったら。
文五郎が妹の山村に介添されて、舞台から戻ってくる、
妹 一ぺん。やすんで行きまひょ。
文五郎、妹とともに控室に入り、畳の上にヘタヘタと坐る。
紋十郎 お師匠はん、おめでとうございます。
玉助 お芽出度うございます。
文五郎 (言葉なく、頷くのみ)
弟子が薬湯を持って来る。
妹がそれを文五郎にのます。
山城少掾と清六が弟子とともに来る。
玉助 お芽出度うございます。
紋十郎 お芽出度うございます。
二人、それぞれ言葉を返し、やがて出てゆく。
山城 (神棚に合掌してから)文五郎はん、どないもおまへなんだか。
文五郎 大けに。お蔭さんでどうやら勤めさして貰いました。(深い呼吸をする)
清六 よろしおましたな。
山城 よかったなあ。これでわても死ねる、(眼頭を抑える)
弟子達が二人の衣裳をぬがせようとする。
綱太夫が来る。
綱太夫 お師匠はん、お芽出度うございます。(清六にも)
山城 一通りは語れたつもりやったけど、どないやったかな。
綱太夫 結構でした。ほんまに結構な出来でした。……奥さんにお見せ出けなんだのが残念だす。
山城 どこぞ隅の方できいてるやろ。(微笑)
清六 死んだ人達もキッと聞きに来てまっせ。
山城の衣裳から、位牌が落ちる。
弟子がびっくりする。
綱太夫 (拾って、戒名を読む。山城の顔を見る)
山城 (微笑)部屋へ持つていといて。
綱太夫 へ。(涙を拭きながら、持去る)
清六 (弟子に)重助はんはどないした。
弟子 どないしはったんだっしゃろな。(口番に)頭取さん。重助はん、まだ見えまへんかいな。
頭取 まだ見えんようだんな。
清六 やっぱり具合わるいのンかいな。
山城 お医者に止められたのやろ。……一目でも見られるとええのんになあ。
支配人がまた来る。
支配人 高安先生がお見えだす。
高安博士が急ぎ顔で来る。
高安 やあ、お目で度うさん。
山城 (恭しく一礼する)お蔭さまで……。
皆、それにならう
[清六 いかがでございました。]
高安 陛下はとても御満足の御様子でな、あんたら三人に言葉をかけてやろうと仰せられてるのや。
三人 (一寸言葉なし)
高安 幕間の時間がないさかい、早よ支度しなはれ。
山城 (感動を抑えて)はい。(二人に)……ほんなら。
清六 わてはとてもそないな。……どうぞお二人だけで……。
高安 なに言うてるのや、さあ、文五郎はんも。
妹 兄さん。
文五郎 (眼を抑えたまま、立たない)……わいはもう今日死んでもええ。
高安 (感動をうつされながら)さあ、早う、早う。
弟子達、大急ぎで三人に袴をつけさせる。
この間、高安、頭取と立話をする。
高安 そんなら。(先に立つ)
三人、高安に伴われて去る。
幸吉が房造の団八と綱太夫を相手に話しながら来る。
幸吉 そら、おわかりになったとも、幕が閉まると一緒に、第一番にお手をお叩きになった位やもの。こういう風にな。([上下に掌をうたれる]真似をする)
綱太夫 よかった、よかった。やっぱりわいらの天皇陛下[さま]や。
幸吉 最初の幕開きから、瞬きもなさらずに御覧になってられたよ。時折り大きく呼吸を吐かれるんや。そや、あの、玉の輿(一寸フシをつけて]……のとこな、あこと、それから、……そや、高いも低いも(一寸フシをつけて)……のとこ、あこでも大きく呼吸をお吐きになったな。
綱太夫 そやけど、先生はよう見てはりましてんな。舞台見てるヒマおまへなんだやろ。
幸吉 両方見てんならんのンで、首が痛うなった。はは。
綱太夫 出て見たいと思いはらしめなんだか。
幸吉 今日ばっかりはつくづく阿呆の仲間入りがしたかったな。
北条秀司戯曲集 ( 羊文社 1948.11.5)による
第四幕
昭和二十二年六月十四日。文楽にとって永久に記念すべき光栄の行幸の日が来た。
舞台は四ツ橋文楽座の舞台を裏側から見たところ。
すなわち一切の飾り物はすべてその裏側を見せている。
幕の開いた時は、恋女房染分手綱、重の井子別れの段が今や段切の最高調に達しているところで、乳人重の井の人形を遣う文五郎と、三吉を遣う紋司が玉のような大汗を泛べ、プン廻しの床の衝立の向うでは、太夫山城少掾と三味線鶴沢清六の浄瑠璃が場を圧して朗々と響いている。舞台端のフツトライトの強烈な光芒のために、場席の方は何も見えない。
やがて亀吉の手にした柝の音がチョン!とひゞき渡り、段切の見得となる。
さかんなる拍手の裡にスルスルと緞帳が下りる。……人形を遣う人達は瞬間一寸放心状態となる。駈け寄つた弟子達が人形を受取つて、楽屋の方へ搬び去る。
四十度の大熱を冒して出演した文五郎の老体を案じて、妹の山村若栄が駈け寄つて介抱する。一方、床の衝立がグルリと廻され、山城と清六の姿が現れる。二人共今日は座蒲団を用いていない。それぞれの弟子達が近附く。
山城 (文五郎に)何ともおまへなんだか。
文五郎 お蔭さんで、無事に勤めさして貰いましたわ。
清六 よろしおましたな。
三人、楽屋へ行こうとする。
三浦支配人が急いで出て来て、三人を呼び止める。
三浦 一寸待つとくなはれ。会長はんが御用やそうだっさかい。
松竹の白井会長が興奮の醒めぬ面持で、手にハンカチを弄びながらやって来る。
白井 やあ、結構だした。陛下はとても御満足の御様子でな、山城、清六、文五郎の三人に言葉をかけてやろうとお仰せになってるのや。
山城 そら、ほんまだすか、会長さん。
白井 ほんまやとも。さ、直ぐわてと一緒に来なはれ。
文五郎 わてらみたいな者に天皇陛下が……。わてはもう、今日死んでもかまへん。(泣く)
山城 勿体ない事です。(眼を拭いて)では、直ぐに支度を……。
白井 いや、幕間の時間がないさかい、そのまゝでよろし。
清六 そやかて、こないな汗のまゝで……。
白井 かまいまへん。今日の汗は他の日の汗とちがいます。あんた方の真心から搾り出た汗だす。さあ。
山城 ほんなら。
三人、興奮を抑えかねた面持で、会長に随う。
その間に重の井の道具がどんどんとバラされ、義経千本桜、道行初音の旅の道具が出来てゆく。
綱太夫が支度をすませて舞台に下りて来、落着かぬさまで、あちこちと歩いている。
弟子の一人が座蒲団を持って来るので、今日は要らぬと持って帰らせる。
豊澤団八の房造が支度をして下りて来る。
房造 綱はん、紋下はんらが拝謁を仰せつけられはったちうのは、ほんまの事か。
綱太夫 ほんまやとも。今、会長はんと一緒に御便殿の方へ行かはった。
……[以下略]
「文楽」は新国劇のために書下したのだが、大阪の歌舞伎座で初日を開けるなり、府市会議員から台詞の訂正を強要され、その権幕におびえた劇場側が上演中止を声明するやら、それに対抗して大阪のジャーナリスト達が中止に反対を表明するやら、しまいには段々と問題が本論からそれて、府市会が出している文楽助成金の行方不明にまで問題が及ぶやら、文楽座労組が蹶起するやら、最後には山城少掾が調停に乗り出されるやら、なかなか賑やかなことであつた。そういう意味からも、私にとつて生涯忘れることの出来ない作品となつた。(同書 「あとがき」 より)