| 【明】明治の演芸(四) |
| 明治20.9.26 | 当時義太夫の三味線にては日本一と称せる大坂の豊沢団平は、大隅太夫等の一行と共に来月上旬を以て上京するよし。又同地に於て、越路太夫と其肩を比ぶる程の評判ある柳適太夫も、時宜に依り前の一行に引続き上京するならんといへり。【時事新報 明p82】 |
| 明治21.1 | 明治二十一年の事であつた越路太夫の文楽派とは商売上の敵派に属する彦六座の巨頭竹本大隅太夫、豊沢団平一座が上京した。【竹本土佐太夫「我が身の上」 演芸画報 第22年1号 p89 1928.1.1】 |
| 明治21.1.12 | ○花井お梅の義太夫 此ごろ浅草猿若町の文楽座にて興行中の竹本大隅太夫と云ふハ上京途次のつれつれに旧箱屋なりし峯吉を殺した彼の花井お梅の事を浄瑠璃に作り来る十五日より浅草の鴎遊舘にてお聞きに達しる由。【読売新聞】 |
| 明治21.1.15 | 此程中より猿若町の文楽座へ出勤の竹本大隅太夫、豊沢団平は、明十六日午前十時より日本橋区南茅場の宮松亭へ出席。【絵入朝野 明p94】 |
| 明治21.1.18 | 大坂登りの竹本大隅太夫、豊沢団平の一座は一昨十六日より日本橋区南茅場町の薬師境内なる宮松亭に於て昼席(午前十時より)を興行せしが、同日は賽日にて境内の雑沓一方ならず、之が為めにや左程の入りにも非ざりしが、昨日は開席時刻に及ぶ頃、既に満場隙間もなく押込みたるよし。又本日の出しものは「三十三所観音利益」坪坂沢市内の段にて、朝太夫は「明烏」なりといふ。【時事新報 明p95】 |
| 明治21.1.26 | 日本一と評判の高い団平と大隅太夫の両人へ、新吉原の角海老、角尾張、新万、安尾張当より美事なる縮緬の後幕を、又品川楼よりは天幕を、何れも両人へ贈らんと目下註文中なるよし。【絵入自由 明p96】 |
| 明治21.2.10 | ○慈善義太夫会 昨年中越路太夫の一座が浅草の文楽座にて催したる例に倣ひ今度団平大隅太夫の一座が養育院へ寄付の為め千歳座を借受て慈善義太夫会を催さんとせし処千歳座にてハ一日金百五円成バ貸うと云ふに一同ハ弱り小屋料を百五円払ッてハ寄付する処が無いゆゑ責て其半額位で貸て貰ひたいと掛合中の由 【読売新聞】 |
| 明治21.2.28 | ○興行物 竹本大隅太夫豊沢団平の一座ハ来三月一日より人形町の末広亭へ掛る由 【読売新聞】 |
| 明治21.4.13 | [広告]来る十六日午後四時より竹本大隅太夫鶴沢団平の一座出席仕候間不相替御来車を願升る 本郷東竹町 若竹亭 【読売新聞】 |
| 明治21.7 | 明くれば明治二十二年八月【二十一年七月】の事である。大隅、団平一座は一時東京の寄席興行を打切つて、北海道函館と越後新潟とへ行くことになり私も同行した。【「我が身の上」p89】 |
| 明治21.7.21 | 当地各寄席は何れも大繁盛なるが、中にも大隅太夫一座は頗る人気好く大入りなり。(函館通信七月十六日発)【奥羽日日 明p127】 |
| 明治21.7.23 | 大隅太夫と団平の一連は、曩に奥羽地方を経て北海道に赴き、目下函館に於て興行中のよしなるが、夫より新潟辺をも廻りて来月末には帰京し来り、再び府下の各寄席に出席する都合なりと。【時事新報 明p128】 |
| 明治21.8 | 間もなく函館を打上げ、一行は新潟へ往くことになつたが、其内源太夫、寛三郎以下は函館から海路をとり、大隅、団平、朝太夫、源吉(後に三代目団平)及び頭取木津名と銘名の付添人等は秋田県の土崎浜まで舟、夫より陸路、秋田の町を経て行くのであつたが、私は脚気患者だから船に乗せるは衝心の恐れがあるといふので、師匠の陸行隊に編入されたはよいが、時は八月、焼けるが如き炎天に駄馬の荷鞍に荷物の葛籠や行李と一緒に載せられて行くのだから、随分苦しい旅行であつた。蝙蝠傘も与へてくれなんだ。【我が身の上 p89】 |
| 明治21.8 | 頼まるゝまゝ遂に同地【秋田】の栄太楼といふ菓子屋の持つてゐる寄席に於て二日間興行することになつた。【我が身の上 p90】 |
| 明治21.9.1 | [広告] 初御目見え大阪登り義太夫 目下、三府をかけて其名を轟かせし団平始連名の者雇ひ入れ、当座に於て興行仕候間、御馴染薄き初御目見ながら、何卒特別の御贔屓を以て、当る初日より評判よろしく永当の御来車奉願上候。別て申上候は、茶屋蓮月に置ましでも御客様御取扱向に注意を加へ、精々勉励仕候間、是文御愛顧の程奉希上候。 当る九月一日午後四時より 竹本朝子太夫 豊沢団勇 豊沢金助 竹本源太夫 竹本源枝太夫 鶴沢寛三郎 豊沢助三郎 竹本朝太夫 竹本小隅太夫 豊沢源吉 竹本大隅太夫 三味線 豊沢団平 古八 湊座 【新潟 明p130】[古八は古町通八番町の略] |
| 明治21.10.14 | 大隅太夫、団平の一座は、久しく北国地方を興行中なりしが今度帰京して、明後十六日より浅草花川戸なる東橋亭に於て、毎日午後五時より興行するよし。今度は当所お名残りにて府下を打廻り、一先大坂へ帰るといふ。初日(十六日)の語り物は 白石噺揚屋の段(朝太夫)お三茂兵衛大経師(源太夫)、安達原袖萩祭文の段(大隅太夫、団平)等なり。」(やまと新聞 明治二十一年十月十四日 明治の演芸4 p134) 【やまと 明p134】 |
| 明治21.10 | これは又大隅一座が花川戸の東京亭【東橋亭】にかゝつてゐた時の事である。私は毎夕御簾内を語らされたが、其時は廿四孝の四段目、十種香を稽古してゐたので毎日〳〵十種香ばかりを語つてゐた。 【我が身の上 p91】 |
| 明治21.11.13 | 浅草猿若町の文楽座にて目下興行中なる大隅太夫、三味線団平の一連は、明後十五日より二十日迄昼六日間、須賀町の鴎遊館に於て興行するよしなるが、初日即ち十五日丈は、同人が旅中新作に係る花井むめの一件を語ると云ふ。 【東京日日 明p139】 |
| 明治22.1.30 | [広告]大隈太夫・団平壱座 当る二月一日午後五時より御名残り興行仕候間旧に倍し御来車奉願上候 人形町 末広亭 【読売新聞】 |
| 明治22.2.1 | 先月横浜へ赴きたる団平の一座は、本月一日より人形町末広亭に於てお名残興行を打てり。則ち本日(午後五時より)の語物は、お独楽才三鈴ヶ森(朝太夫)、日吉丸駒木山中(源太夫)、観音霊験記(大隅太夫、団平)等なり。 【改進 明p153】 |
| 明治22.3.1 | 大隅太夫の一行は、昨年大坂から登って来て各席を打廻し、何れも大入り大喝采を受け、お陰で好春を迎へた席亭もありしと聞ゐたるが、大坂へも此の事が知れ、頻りに同人を呼戻さんと度々迎ひをよこすので、いよいよ当月早々帰坂することに決し、京橋区鍋町の鶴仙でお名残興行を打ち意外の大入を占めた所処より、同じ睦連中の玉の井にて是非とも一興行して呉れと言入れしも、既にお名残まで打ち大坂へ帰る支度に着手りたれば、何分にも出席しかぬるからと断わるとは余りひどからふと葛藤が起りごた/\してゐたを、南金六町の安田某が仲裁に這入、睦連中の夫を無気に断わることなれば大負に負て、今一度玉の井にて興行した方が双方の為によからふとの扱ひに折合て、其噺しに纏り又た引留めらるることになりたれば、安田は帰坂延引の申訳に昨朝出発して大坂へ赴きましたと。 【東京絵入 明p156】 |
| 明治22.5 | ……扨先年より永らく東京表へ出芸仕居候豊沢団平竹本大隅太夫竹本源太夫竹本朝太夫其外一座文尽等今般帰阪致し久々にて御目見得仕り東都御土産かたがた是迄の一座と其の若手を相加へ大座にて何哉御意に相叶ひ候様一統丹精をこらし御見聞に相候……【彦六座番付口上 「義太夫年表明治篇」p619】 |