【1】「鰻谷の段」の端場について
浄瑠璃の「端場」という言葉は別に正本や床本に書いてあるわけではなく、書いてあるのは浄瑠璃の番付である。「端場」とは書かず「中」と書いてあるのがそれで、従って「端場」についての考察は、これが番付上のものであるという概念のもとに始めねばならない。
浄瑠璃の上演では、語る太夫の格付けと語る場面の関係が昔から重要視され、格上の太夫が劇の中心部や人気のある場面を語り、格下の太夫が大序とか序といわれる導入部などを語る。これは、太夫の序列が決まっており、浄瑠璃の各段の重要度が決まっているということである。一日の興行の中で中心になる出し物と付け物になる出し物があるが、前者を建狂言、後者を付狂言という。通し狂言の場合は、その浄瑠璃の中でそれぞれ各段の重要度と受け持ちが決められている。付狂言は付け物であるが、新参の太夫や格下の太夫は決して語れない。付け物を語れるのは人気のある太夫か、かなり格上の太夫ということになっている。「桜鍔恨鮫鞘」は付け物であるが、その「切場」を語るのは錚々たる太夫である。
一段を全部一人の太夫が語ることや、ずっと以前は、一浄瑠璃そっくり一人で語り続けることもあったと言うが、太夫の人数が増え続け、一興行で多くの太夫を出演させるために、また太夫の格や顔を維持するために、一段を更に細分して上演されるようになった。その区分けが「口」、「中」、「奥」、「切」などである。普通は「中」を「端場」といい、「口」と「奥」とをセットで「立端場」と呼んだりし、端場語りとか切場語りとかの格付けが行われてきた。浄瑠璃の細分化と、太夫の増加と格付けとが密接な関係にあることが知れよう。原則的には誰が何処を語るか決まっていても、その時々の出演太夫の顔ぶれによって、便宜的に変更されることも多い。
現在行われている「鰻谷の段」の床本は、「中」と「切」に分けられているから、「切」がこの劇の中心部で、「中」は「端場」といわれる導入部である。「端場」は劇を中心部へスムースに導くための案内の部分であり、決して軽く見るわけではないが、端場語りといえば、昔から若いまたは修業年限の短い太夫か、格下の太夫と相場が決まっている。これは、技能の熟練度からいっても当然で、切場語りになるまでに、太夫個人の努力は言うまでもなく、永い年月の修練が必要とされる伝統芸能では、ごく当たり前のことである。
「桜鍔恨鮫鞘」にも「褄重恨鮫鞘」にも、本来、現行文楽床本で「端場」といわれる部分はない。どちらにも多くの木版、翻刻の印刷本があるが、未だ「端場」と思われる部分を見たことはない。更に遡って、両浄瑠璃の種本となった「裙重浪花八文字 第六」や「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」を見ると「端場」と思われる部分がある。しかし、文楽床本とは違う。
そこで、「中」と「切」の場分けに注目して調べてみた。「鰻谷の段」を「中」と「切」とに分けて番付を作成し上演したのは、明治以降で、今年1月の公演までに30回を数え、また「中」と「奥」というのが1回あるが、これは太夫の格付けによる名称替えと見られるから同じと考え、計31回ある。他に「切」のみのものが12回、不詳のものが2回(素浄瑠璃会は除く)ある。江戸時代では「口」と「切」に分けられていたものが、明治以降「口」は全く現れない。「口」「切」に分けた場合の「口」は「端場」ではなく、前半部と見たほうがよい。事実、昭和になって、「前」「後」に分けたのが3回あるが、これは、「端場」がなく「切」のみのものである。時間記録が残されており32分+25分計57分では「端場」を入れて語れない。全段の上演時間は80分足らずである。これを「口」と「切」としなかったのは、太夫の格付け(あるいは顔かも)を配慮したものであろう。しかし、この「前」「後」の分け方が、まさに「口」「切」の分け方に符合する。
江戸時代に「端場」のなかった「桜鍔恨鮫鞘」は、広島版でも加嶋屋版でも「口」と「切」に分けられていた。どちらの版でも、真ん中の少しあとにたった一ヶ所「ヲクリ」という文字譜がある。ここが「口」と「切」の替わり目である。「褄重恨鮫鞘」の西宮新六版、大坂屋秀八版はともに??の2冊に分かれており、?最後にやはり「ヲクリ」がある。4つの版ともに同じところにある。「端場」が加えられた文楽床本の「中」「切」の分け方と、元々の「桜鍔恨鮫鞘」の「口」「切」の分け方は違うのである。
既に指摘されているように、「桜鍔恨鮫鞘」は「裙重浪花八文字 第六」から作られたものではあるが、「桜鍔恨鮫鞘」にも「褄重恨鮫鞘」にも、最初から「端場」はないのである。しかし、「裙重浪花八文字 第六」、同じであるが、「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」(冒頭部分に21字の加筆がある)には「端場」(ただし名称はわからない)と思われる部分がある。両者とも「ヲクリ」が二ヶ所あり、一つはこの「端場」と思われる場面の終りでもう一つは先の「口」と「切」の分かれ目である。二つの場面転換があり三つの場面にわかれる。この二つの浄瑠璃は詳しい上演記録がないのでよく判らないが、「口」「奥」(立端場)「切」の3区分であったのか。発端部であるが、香具屋弥兵衛の旧悪が露見する引き金となった一札の証文が登場し、書かれた内容とともに語られ、この劇の終末部分の伏線となっている。「桜鍔恨鮫鞘」「褄重恨鮫鞘」ともに何故この発端部が省かれたのか解らない。推定の域を出ないが、「桜鍔恨鮫鞘」はこの部分がなくても、全体の劇の流れが理解できると考え簡潔にまとめようとしたか。事実、この劇は余分な修辞がなく、まとまりの良い魅力的な出来映えとなっている。「褄重恨鮫鞘」は初版の段名が「無筆書置の段」となっているように、娘お半の書置きを語る場面に最重点を置き、香具屋弥兵衛の旧悪露見場面を除いたので、この冒頭部分は必要なしとみたか。劇としての幅が狭くなった感じでかなり見劣りする。
現行文楽の「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」の「端場」を書いたのは誰で、それは何時のことか。最初に登場するのは明治16年10月の日本橋北詰沢の席であるから、この時とみて間違いはないのであるが、この時語られた「端場」は5分位の極く短いものといわれている。その後、明治24年9月いなり彦六座での上演に際し、ここを語る伊達太夫(のちの土佐太夫)の相三味線で目にかけていた松三郎(のちの豊沢新座衛門)のために、団平の妻女ちかが改作増補したと言われる。今日(昭和2年)語っているのは、ちか女の改作版であると、石割松太郎「人形芝居の研究」は述べている。石割氏は千賀女の日記を発見された方であるから、この説は信じてよい。大隈太夫の没後、伊達太夫は大正2年か3年に彦六座から文楽座へ移ったから、この時ちか女の「端場」を持って来た。だから現在の文楽座もこれを語っているのである。いずれにしても、「鰻谷の段」の「端場」が本格的に登場するのは、ちか女の改作した明治24年である。
【2】「桜鍔恨鮫鞘」「褄重恨鮫鞘」と文楽床本について
現行の文楽床本は「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」を下敷きにし「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」を利用して改作したものである。
「桜鍔恨鮫鞘」の正本は不明とか不出とか言われている。義太夫節の正本を、全段を全て正確に載せ、作者名、版元名、出版年月日が記載され、しかもその作品が初演された日に発行された本と厳密に定義すれば、なかなかこれが正本だと断定できるものは多くない。作者、版元、年月日など欠けているのは往々にしてあるし、初演された日に発行など確認のしようもない。正本には七行、八行、十行などがあり、また別に稽古本というのがある。これは普通、四行か五行か六行で、多いのは五行稽古本である。
「桜鍔恨鮫鞘」の種本となったのは、?でも述べた「裙重浪花八文字」という八段物の浄瑠璃で、その七行正本には、作者八民平七、版元京都山本九兵衛ほか、明和六巳丑歳二月十二日と記されたほかに、初演時の太夫と思われる人々が連名で書かれている。立派な正本である。この種本の六段目「第六 姑の欲気に入聟の判字物」の最初の部分、六十二丁の表を彫り直し、冒頭に21字加筆したものが「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」として、別の浄瑠璃「小いな半兵衛 廓色上」と合綴され、作者八民平七、版元京都山本九兵衛ほか、明和五戊子歳十一月十九日として出版された。しかし、この「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」は明和5年に発行されたものではなく、明和5年に出た「小いな半兵衛 廓色上」の上に綴られて、明和6年以降に、即ち「裙重浪花八文字」の出版より後になって上梓されたのであることが明白になっている。奥書の作者名、版元名は間違いなさそうであるが、日付には全く信憑性がない。いつであるかは未だ立証されていない。
先にも述べたように、「裙重浪花八文字 第六」と「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」は全く同じもので、「ヲクリ」が二ヶ所にあるから、「口」「奥」「切」と分けることも可能である。「桜鍔恨鮫鞘」はこの「奥」と「切」の部分をそっくりその儘用いたものである。版元が「裙重浪花八文字」と違うから字の異なるところがあるが、内容、章句、修辞など殆んど同じであるから、作者は当然八民平七であろう。今のところ、唯一の原本と思われる物は、広島文教女子大学図書館蔵本であり、五行稽古本とされているが、一段物の正本考える。この広島版が元となり後に大坂加嶋屋清助版が出され、大坂五行稽古本として広く普及した。
「褄重恨鮫鞘」は「桜鍔恨鮫鞘」の改作本で、最初「無筆書置の段」として版行された。娘お半が書置きを話す部分に加筆が多く、終りに近い部分で一丁半も削除されている。再板以後は「褄重恨鮫鞘 鰻谷の段」と段名が変えられたのは、この浄瑠璃が「鰻谷」として評判になっていたからである。「褄重恨鮫鞘」の外題は、嘉永元年4月を最後に年表には登場しない。もっとも、「無筆書置の段」として年表に出るのは、寛永4年8月(一説では寛永3年とも)に一回きりである。このことをまとめてみると次のようになる。
「裙重浪花八文字 第六」→「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」→「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」
↓
「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」
文楽床本「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」は、広島版のちの大坂加嶋屋清助版に「端場」を増補し、「褄重恨鮫鞘」により各所に修正、削除、加筆を行ったものであり、本来の「桜鍔恨鮫鞘」とは内容としては同じでもかなり変わった姿となっている。
ここで、「桜鍔恨鮫鞘」と「褄重恨鮫鞘」の違いについて少し述べてみよう。豊竹君太夫と野澤八兵衛によって、寛政年中江戸表で大当たりをとったのは「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」であり、「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」ではない。段名からも想像できるように、娘お半の哀れさに重きを置き、劇の構成を単純なものにしてしまったのは残念である。江戸では評判となったが、嘉永元年4月の江戸湯島天神境内での興行を最後に上演されなくなった。両本の大きな違いは、先にも少し述べたが、香具屋弥兵衛の旧悪が露見する場面約一丁半が「褄重恨鮫鞘」では完全に削除されていること、余分と思われる修飾辞が各所に加えられていることで、劇の面白さの一つである意外性が失われ、また劇の密度が散漫になってしまったことである。その点、「桜鍔恨鮫鞘」は種本の「口」と思われる部分が省かれていて残念だが、それでも尚、原初の姿を正直に伝えており、起伏に富んだ舞台となり、緊張感を覚える濃密な構成になっている。
いずれにも、江戸時代の名高い歌謡が、「新大成糸のしらべ 四九 八郎兵衛」から引用され、三下り唄として歌われている。1「うきなをながすほり江川・・・」、2「いたづらがみにとめきゃらの・・・」、3「なみだのしぐれふるてやの・・・」、4「かねもろともにしのびいで・・・」、5「やつきりきりきりなきりころし・・・」、の五つの部分で、「桜鍔恨鮫鞘」には前半に1と2、後半に3が、「褄重恨鮫鞘」には前半に1と3、後半に4と5が、「文楽床本」には前半に1と2が、後半に4と5が取り入れられている。これによっても文楽床本は両浄瑠璃本から取り合わせであることが判る。また、八郎兵衛が弥兵衛に侮蔑され一旦家から出てゆく時の心情が、「桜鍔恨鮫鞘」では「娘の愛に引かされて」となっているが、「褄重恨鮫鞘」と文楽床本では「主人の大事に引かされて」となっている。短い句の相違であるが、前者は何よりも人間として心を痛めている情景を表わしているのに対して、後者は人間性を没却した封建的な絆に縛られた哀れな八郎兵衛を描き出している。
細かい相違は以上の他にも多くあるが、とりあえず二つの例を挙げておく。
文楽床本の「桜鍔恨鮫鞘」は、明治以来多くの名人上手が演じ、また改修が加えられて
きたと思われ、その時その時の評論家や通によって支持されてきたものだから、それなりに価値のあるものであろうが、だからといって至上のものではない。
「桜鍔恨鮫鞘」は明治以来多くの「抜本集」に翻刻されているが、二つの流れがあり、一つは内藤加我編「義太夫百段集」明治27年刊金桜堂版の「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」であり、一つは水谷不倒編「義太夫百番」明治32年刊博文館版の「桜鍔恨鮫鞘 無筆書置の段」である。この2編が代表的なもので、内容は外題からも判るとおり、前者が「桜鍔恨鮫鞘」であり、後者が「褄重恨鮫鞘」である。
浄瑠璃の床本はその床本を語る太夫によって、語り易いように節付けのみならず修辞にも改変が行われ、元の正本とはちがった形になっているのが普通である。古典芸能は伝統芸能である。その精神に於いてもその形式に於いても、正統な伝承が頑なに守られてこそ、素晴らしい遺産として認められるのではなかろうか。
【3】「四ツ橋」の段について
「桜鍔恨鮫鞘」という浄瑠璃は今では「鰻谷の段」のみが上演されていて、その前段も後段も人形芝居はもとより、正本も見たことはないと言われて久しい。しかし、前段はともかく、後段は「四ツ橋の段」もしくは「四ツ橋仕返しの段」として、明治時代に6回、大正時代に1回計7回上演されており、「義太夫年表」には文楽系の舞台図面まで掲載されている。江戸時代には上演の記録がないから、この段は「鰻谷の段」の「端場」と同じく明治になってから作られたものと見られるが、記録に出てくる最初は、明治16年10月の日本橋北詰沢の席である。その後堀江明楽座で1回、御霊文楽座で4回、堀江市の側堀江座で1回出ているが、いずれも同じ床本かどうかは判らないし、登場人物にも若干異同がある。
元来、「桜鍔恨鮫鞘」は「鰻谷の段」のみで、「四ツ橋の段」「四ツ橋仕返しの段」なるものは無いのであるが、この浄瑠璃の種本になった「裙重浪花八文字」には、「鰻谷の段」になった「第六 姑の欲気に入婿の判字物」に続く「第七」に「四ツ橋の立引に手帳の合文」というのがあり、これがまさに、八郎兵衛の四ツ橋での仕返しが筋となっている。だから「鰻谷の段」の後に「四ツ橋」の段があっても不思議ではない。明治35年に幸堂得知は雑誌「歌舞伎」の116号でこの「第七」の梗概を述べ、このあとに最末にある八郎兵衛の腹切りをここに引き上げて局を結ぶ事にすれば二幕にてほぼ筋は解る、と言われている。
明治時代に書かれたと思われる「四ツ橋」の段の内容は、詳しくは判らないが想像はできる。最初の日本橋北詰沢の席と明治35年7月の堀江明楽座は「四ツ橋の段」と名付け彦六座系で、いずれも一人の太夫が語っている。御霊文楽座の4公演と堀江市の側堀江座の1公演は、「四ツ橋仕返しの段」とし、いずれも4人の掛合いで語られ、古手屋八郎兵衛、香具屋弥兵衛、榎原郷介(榎並郷介、榎並一角、原剛助とも)、狭山孫右衛門(横山孫右衛門、亀屋忠兵衛とも)となっている。狭山孫右衛門というのは伊織の父であり、亀屋忠兵衛というのは伊織の世話をしている大店の商人であり、「裙重浪花八文字 第七」の四ツ橋にはどちらも出てこない。弥兵衛の仲間の郷助というのは仮の名で、弥兵衛と共に主家の宝刀を盗み、八郎兵衛の父親を殺した榎原団兵衛という悪侍である。「裙重浪花八文字」の最終「第八」には色々の人物が出てくると思われるが、この場の登場人物は4人で八郎兵衛、弥兵衛、郷助のほかにちょい役ででる郷助の家来の「たげ蔵」のみである。「四ツ橋」の段は恐らく、四ツ橋で八郎兵衛が弥兵衛を見つけ、証文と手帳を突き付けて刀の詮議をし、逃げようとする弥兵衛と郷助を斬り殺して見事親の敵を討つという筋書きは、「第七」と同じと考えられるが、孫右衛門、忠兵衛の動きや台詞は判らない。
「四ツ橋」の段は明治になって何時誰によって書かれたかは判らないが、単純な筋であるから、義太夫節の関係者なら誰にでも書けそうである。もしかすれば、「鰻谷の段」の「端場」と同じく団平夫婦かも知れない。団平は明治17年7月まで文楽座にいたから、文楽系でも彦六系でも、この床本は使えるのではないか。
ところで、「四ツ橋」の段が、大正15年2月の御霊文楽座での上演を最後に姿を消してしまったのは何故だろうか。昭和以来今年の1月までに30回余も「桜鍔恨鮫鞘」が上演されているのにいずれも「鰻谷の段」だけである。「裙重浪花八文字 第七」もそんなに内容のある場面ではなくむしろ極くつまらない筋で、鰻谷を遁れて四ツ橋に来た八郎兵衛が立ち回りの後、「風の神送り」に紛れていずことも知れずに逃げて行くというだけであり、結幕は先送りされている。
このような「四ツ橋」の段が出されなくなった理由として考えられるのは、(1)伝わっている「桜鍔恨鮫鞘」には元来この段がないので殊更に出す必要もないだろうと思われたこと、(2)もうひとつ考えられるのは、大正15年11月29日の御霊文楽座の焼失である。
御霊文楽座の記録というのは殆んど無いから、詳しいことは判らないのであるが、昭和23年新年号の雑誌「文楽」に載った座談会「御霊文楽の思ひ出」?木谷蓬吟司会、山城少掾、大隈太夫、清六、清八、綱造の出席?が興味深い。それによると、28日が興行の楽日で、12月が東京興行と西地方巡業ということのため、人形や小道具をだいぶ荷造りしてあったので、駆け付けた座方の人達が荷物を運び出し、相当助かったと話されているが、それでも、真夜中から燃え出し延々と正午前まで12時間近くも燃え続けたというのだから、その被害たるや想像に難くない。「義太夫年表 大正篇」も三宅周太郎「文楽之研究」初版も、当時の毎日新聞の記事を載せ、29日午前11時48分出火、12時半にして火勢衰えるという全く違う状況を伝えているのが不思議だが、荷造りしてあった分は助かったといってもそれは12月興行用のものだけで、他は殆んど焼け尽したといっていい。この時に焼けた人形、残った人形は「文楽之研究」に詳しい。また、正本ほか貴重な資料は前年に松竹の倉庫に移されていて助かっている。しかし床本については何の記録もななく、恐らくその大量が焼けてしまったと思われる。この焼失した床本のなかに「四ツ橋」の段があったのではないかと推察する。普段床本はどうされているのか知らないが、個人所有のものが多く、また貴重なものであるから、大事に太夫が自宅へ持ち帰り保管されていると考えるが、それでも余りにも多ければ、特に重要な床本でなければ、一部は小屋に置かれていたかも知れない。「四ツ橋」の段は燃え失せたのである。以後この段は世に現れなくなった。少々思い過ごしであろうか。
大森儀三郎「鰻谷中之町のいまむかし」昭和17年大阪市南区鰻谷中之町々会発行の「附録 古手屋八郎兵衛の實説とその展開」(この項は昭和8年11月から10年1月にわたって島之内時報にかかれた)にある記事。「この作(裙重浪花八文字)の八郎兵衛は最後に腹を切りますが鰻谷でも四つ橋でも死んで居ません。然るに今日追出しに使ふ四つ橋殺しの場では、悪党を斬ったといふので罪無しにして結末をつけてゐるのであります。」とあります。著者の推定される年齢からみて、「四ツ橋仕返しの段」=追出しを実際に観劇されていることは間違いありませんから、明治以降に上演されたこの段の結幕はこれで推測できます。やはり明治になってから書かれたものとの意を強くしました。ますます「裙重浪花八文字 第八」を読む意欲をかきたてられました。(補綴:2006.03.28)
最後にこの三つのレポートを書くのに用いたテキストと参考にさせていただいた資料を挙げておく。
【テキスト】
「裙重浪花八文字」明和6年 京都山本九兵衛ほか 7行本
大阪府立中之島図書館蔵 マイクロ複写
「恨鮫鞘・廓色上」明和5年? 京都山本九兵衛ほか 7行本
早稲田大学演劇博物館蔵 公開デジタル・アーカイブ・コレクション
「桜鍔恨鮫鞘 ?谷の段」 刊行年月不明 版元不明 5行本
広島文教女子大学図書館蔵の国文学研究資料館マイクロ資料
「桜鍔恨鮫鞘 ?谷の段」 明治期の再刊本 大坂加嶋屋清助 5行本
国立国会図書館蔵 公開近代デジタルライブラリーの4点
「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」 刊行年月不明 江戸西宮新六 6行本
抱谷文庫蔵の国文学研究資料館マイクロ資料
「褄重恨鮫鞘 鰻谷の段」 刊行年月不明 江戸大坂屋秀八 6行本
水谷不倒編校「義太夫百番 下巻」 明治32年 博文館 翻刻活字本
内藤加我編校「義太夫百段集 下巻」 明治27年 金桜堂 翻刻活字本
国立文楽劇場編「文楽床本集」 平成18年 最新の活字床本
戸板康二編山本二郎校「名作歌舞伎全集第7巻丸本世話物集」昭和44年東京創元社
【参考資料】
「義太夫年表 近世篇」全8冊
「義太夫年表 明治篇」
「義太夫年表 大正篇」
「文楽興行記録 昭和篇」高木浩司編 1980年 私家版
「日本庶民文化史料 第7巻 浄瑠璃」1975年 三一書房
「日本歌謡集成 第7巻 近世篇」高野辰之編 1928年 春秋社
石割松太郎「人形芝居の研究」 昭和8年 厚生閣
三宅周太郎「文楽之研究」 昭和5年
祐田善雄校注「文楽浄瑠璃集」日本古典文学大系99 1965年 岩波書店
雑誌「文楽」昭和23年新年号 座談会「御霊文楽の思ひ出」
インターネットサイト「音曲の司」より多くの資料を利用させていただいた
蛇足とは思いますが、参考資料に明示されておられないので。
>今日(昭和8年)語っているのは、ちか女の改作版であると、石割松太郎「人形芝居の研
究」は述べている。
『新左衛門の松三郎のために、すらすらと書加へて「お師匠はんに頼んで手をつけておもら
ひ」』(石割松太郎『名人団平と「壺坂」』)に関連して:
『二世豊沢新左衛門朱入り浄瑠璃本目録』
○ p6 (桜鍔恨鮫鞘)おつま八郎兵衛鰻谷ノ中 5行4丁 ニ?11?571
※終丁末尾「清水町団平大師ノ節付始メハ/竹本伊達太夫ト私ガ始メル/後ニ土佐太夫と
改名/豊澤新左衛門」
[『貴重書 人形浄瑠璃篇』では「鰻谷ノ中(端場)」とされる]
○ p6 桜鍔恨鮫鞘 鰻谷之段 切 ニ?11?578 5行15丁
※見返「昭和十四年八月吉日新調也/豊澤新左衛門」
○ p14 宝袋 ニ?11?642
※初丁「明治十九年十月一日ニ写也/豊澤松太郎/門人/豊沢松吉/所持」
1.桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段 6行10丁
[『貴重書 人形浄瑠璃篇』では「ニ?11?642?A」]
○ p15 記憶帳 ニ?11?646
11.桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段 5行11丁半
[『貴重書 人形浄瑠璃篇』では「ニ?11?646?K」]
『鶴澤清六遺文庫』 稽古本 三味線譜あり
○ p18 桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段(古手屋八郎兵衛)再板 294
加島屋清助
文句の改訂書入あり <団平師章><明治三十七年九月新調>
『竹本彌太夫遺文庫』 稽古本 三味線譜あり
○ p52 恨鮫鞘 鰻谷の段・花系図 船岡館段(二册合本) 801
5行 大阪 玉水源次郎
内容
桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段(古手屋八郎兵衛) 30丁
文句の改訂書入あり <明治三十年十一月一日ヨリ稲荷座ニテ/豊澤団平氏章写シ・・・>
《「鰻谷」考》
三世清六の朱入り本「鰻谷」にある記事、
「文句の改訂書入あり<団平師章><明治三十七年九月新調>」
これが気になったので、「鰻谷」上演年表を作ってみました。
明治24年の大隅団平による「鰻谷」が画期的であることは一目瞭然です。
(16年の春子は大隅の前名ですが、この時団平は御霊文楽座の三味線紋下)
そしてこの「鰻谷」は千賀の端場とともに、団平渾身の奏演だったと思われます。
『素人講釈』「鰻谷」で摂津大掾は綱太夫風(「鰻谷」も該当)について団平が、
「私が今斯ふ朱を調べて残すのを、弾く三味線弾は出来るかも知れぬが、
語る太夫さんは六ツヶ敷いと思ひ升云々」と語ったと述べていますが、
この「調べる」ということは、団平が「鰻谷」に綱太夫風が際立つようにしたということと同義、
もちろん新しく節付けしたということではないのですが、
そのまま伝わっていた手ならば、わざわざ「調べて残す」と語る必要はないのです。
団平の足取、間、具合だけで浄瑠璃が全く変わったとは『道八芸談』の記述です。
今日まで「鰻谷」が残り、我々が劇場でそれを聴くことが出来るのは、
ひとえに団平と大隅による明治24年の「鰻谷」によると言ってよいでしょう。
(近年逆に「鰻谷」の上演頻度が低いのは、聴く耳を持たない者が増えたためでしょう。
まさか、オペラ?音楽(作曲家)=不可!人形浄瑠璃?浄瑠璃(とりわけ風)=可能?)
前記『素人講釈』「鰻谷」にはあと二箇所興味深い記事があります。
まず、綱太夫風とはどういうものかということについて、
「綱太夫風と申升のは、先づ御分り易く申せば、
太夫が十分腹が締つて、出来る丈け淋しく語りて、
其間に掻き除ける事の出来ぬ、人情が漂ひ出し、
三味線は又出来る丈け派手な音をさせて、
夫が腹の締め方で、太夫の腹とからんで皆芸の活地となる、
是が綱さん一生の心掛けであつたと、師匠に聞いて居り升」
と摂津大掾に杉山は語らせています。
実際SPに残る大隅清六の「鰻谷」は実にすばらしく、
まず耳には清六の三味線の得も言われぬ面白さが際立ちますが、
それはとりもなおさず団平師章が絶妙たることの証左といえます。
そこに大隅が「後打見やり女房が」からぐっと深くお妻の心情に沈潜し、
娘お半との心模様を語り進めていくのですから、
八郎兵衛の屈折狂気、銀八の任侠慈愛に至る段切りまで、
あの雑音などまったく気にもならず引き込まれる浄瑠璃なのです。
団平の言う「調べる」とは、喩えて言えば、
長年の風雪にさらされたお堂のご本尊を洗い清めたところ、
まばゆいばかりに光り輝く黄金仏が現れ出たものかもしれません。
そしてもう一箇所は…
もう一点、それは、
「庵主嘗て摂津大掾に、此鰻谷に限り、其風の大隅と大差ある所以を糺せしに…」
とあるところです。
「一体綱さんの風と申すものは,私でも大隅でも、兎ても習得する事の出来ない筋合を備へて居り升」
と摂津大掾は語っていますが、
これはもちろん直接の回答にはなっていません。
画期的な明治24年彦六座での「鰻谷」の翌年、
御霊文楽座で紋下の越路が「鰻谷」を語っているのは、
明らかに対抗心を持って本家文楽のものを出したものと見てよいでしょう。
この両座が互いに芸を競い合っていたことは言うまでもありません。
この関係はこれ以後も年表からおわかりいただけると思います。
43年など大掾に敗れたと言っていい大隅の直弟子伊達をぶつけていて、
当時の記事でもあればそれを繰ってみると面白いかもしれません。
「明治三十六年、五代目鶴沢仲助が竹本大島太夫を弾くにつけ、
彼は大島にむかひ、師匠大隅太夫の風を、学ばざるべからざるを警告し、
故団平師の朱章を繰りて、大島に稽古をした。」
これはまさに団平が綱大夫風を文字通り「洗い出した」、
大隅初演の「鰻谷」の伝承を言っているのです。
彦六系の没落後彼らの文楽座での冷遇はあまりにも苛酷なものでしたが、
音曲の観点からすれば名人団平の遺産はむしろ圧倒的であったといえます。
彼の作曲した「壺坂」や「良弁杉」はもちろんのこと、
「楼門」や「琴責」など大和風の伝承が色鮮やかに聴き取れるのですから。
「鰻谷」はほんとうに魅力的な浄瑠璃です。
綱大夫清二郎はそれを確かに私たちに再認識させてくれました。
ただ、ストーリーの好悪で断罪される近年にあっては、
団平師章による大隅清六のSPレコードがCD化され、
その曲節ならびに至芸が広く人々の記憶にとどめられることを切に望むものなのです。
相変わらず、些末なことばかりことあげして申し訳ないのですが。
>今日(昭和8年)語っているのは、ちか女の改作版であると、石割松太郎「人形芝居の研
究」は述べている。
として引用された『名人団平と「壺坂」』は文末に(昭和二年五月)とあります。
また、今日、古本屋で更生閣版『人形芝居の研究』を目にしたのでちょっと付け加えると。
更生閣版『人形芝居の研究』の「改訂版の覚え書」に
「この書(『人形芝居雑話』)の改訂を終り、この「覚え書」を記しておく。そしてこの
改訂版を「人形芝居の研究」と改めた。」
とありますが、その改訂の内容は、春陽堂版『人形芝居雑話』(総ルビ)の挿絵とルビを
削り、口絵(舞台写真8、番付4)と「国家の保護を受くる操の実体は?」、「国家の
保護の手が動く?文楽へ」、「操評判猿轡」の3編を追加したもののようです。
なお、『演芸月刊』第十八輯p10?12に「「人形芝居雑話」の正誤」があります。
勘定場さんの指摘に関連した石割松太郎の文章も引用しておきます。
>そのまま伝わっていた手ならば、わざわざ「調べて残す」と語る必要はないのです。
「団平が古来の浄るりを研究する態度は、まづ、院本の節章(ゴマ)の尊重にある。丸本に
残るゴマを一点も諸[ママ]忽にしない。ゴマからゴマまでの白字に節を考へ、三味線の手を
付けた。かうして古名作に一々当ると名作であればあるほど、ゴマ一つさへもが動かせない
と、彼は晩年に、その近親者に物語つてゐるのに拠つても、節章尊重保存の団平の態度が
ハツキリと分る。(「豊澤団平の研究」『近世演劇雑考』p221)
一貫堂様ご指摘のように、
現行「鰻谷」床本は双方からの取り合わせであることがよくわかりますが、
どちらかといえば「褄重」の方がやや近いかもしれません。
(大隅清六「鰻谷」には録音時間の関係でカットされた部分があることには注意。)
ね太郎様による、清六本が加島屋清助再板「鰻谷」(桜鍔)への「文句の改訂書入あり」なのは、
明治以降の板行がもっぱらそちらばかりであったためでしょうか。
「近代デジタルライブラリー」にあるものもすべてその「鰻谷」(桜鍔)です。
これで「鰻谷」切場の方は落着したと言ってよいと思われます。
が、次は端場の方に新たなが疑問が生まれることになりました。
それは同じ遺文庫に「鰻谷ノ口」を見つけたことに始まります。
「浄瑠璃多賀羅」と題され、24行罫紙を二つ折りにし和綴じとしたもので厚さは約5cm。
詞章が手書きされ(前出の書入といい、清六の筆は惚れ惚れするばかり)朱も入っている。
奥書には「昭和十八年十月/三代目鶴澤清六師遺本/四代目大隅記」とある。
この宝箱に納められているものは、
「鬼一法眼三略巻 五条橋之段」「玉藻前 三段目口」
そして「恨さ免さや 鰻谷ノ口」
(あと「お俊伝兵衛達引 四条川原」「景清八島日記
大序」「盛衰記 小切 宇治川先陣」
「勧進帳」「肉付之面」「姫小松 赦免状」)
稽古本として版行されていないものの朱を残し集めておいたものであろうか。
その「鰻谷ノ口」は前記罫紙にしてわずか三丁分。
しかも詞章は現行の端場とは全く異なるもので、
「うなぎ谷の軒並び小家にちよつとひしがきの」から始まり、
「おいらは外の事より酒でなければ夜が明ぬサア々々ござれと打つ連て」
「ヲクリ√奥の一間へ入にける」まで全詞章朱入りとなっている。
これは一貫堂氏による精密な分析にあった通り、
『褄重浪花八文字』第六の冒頭がそのまま援用された形のものである。
ただし三ヶ所ほど詞章が部分カットされていて、
一札の証文は登場するが、書かれた内容の読みの所は省略されている。
とはいえきちんと朱が付いているから、実際に奏演されたものに間違いはなかろう。
とするとこれは江戸期に見られた「口」ということなのだろうが、
清六遺本中のものとて明治期に奏演されなかったとは断言できない。
こうなると『二世豊沢新左衛門朱入り浄瑠璃本目録』「おつま八郎兵衛鰻谷ノ中」
これを実際に閲覧し確認しなければならないことになる。
また文楽系の場合とりわけ団平新譜を用いなかった可能性もあり、
「鰻谷」の端場については一層の詰めが必要になったことになる。
「切場」について
「褄重恨鮫鞘」と「現行文楽床本」にある章句【年頃日頃しんじんする天神様の御利生にも。叶はぬ事か情なや。】は、「桜鍔恨鮫鞘」にはありません。「褄重・・・」と「床本」にある三下り唄【(ともなひつれて入相の。)かねもろ共にしのび出。秋風さむく身にしむも今のうらみは長堀の。人目をつゝむほふかむり】は、「桜鍔・・・」では《(今更何と詮方も。)涙の時雨古手やの。仇と情をときわけの。うすき契りや八郎兵衛が。妬みの剱研立て。我と身を裂く鰻谷》と、別の三下り唄になっています。「褄重・・・」と「床本」にある歌【(ウヌ真二つに。)やつきり/?/?ナ。切ころし。うきよの夢や鮫鞘の。こい口くつろげおとしざし。】は、「桜鍔・・・」では歌ではなく、《一討と。切て入んずはやり気も。思ひ直して。》と普通の文章です。「床本」にある章句【今ぞ詮議の網に取り付きしも。偏へに母人。妻の蔭。ハヽ、ハヽ、ハヽヽヽヽありがたし。忝し。と勇み立つたる】は、「褄重・・・」には無く、「桜鍔・・・」には《今詮義のつなに取付しも。みな親人の引合せお妻悦べ我が忠義は立たぞよ。魂さらずばよふ聞て。迷ふてばしくれるなと。真実合す両の手になむと唱ふる口の中。勢ひ込でかけ出す。とゝ様なふと跡追子。泣な/?撫さすり。いさめすかする》と、かなり長い文章になっています。これらを見ますとやはり「床本」は、「褄重・・・」と「桜鍔・・・」を搗き混ぜたものと言うことが判ります。団平が随所に書き加えた部分は畳語や短い語句ですが、長い章句は一ヶ所だけあります。娘お半が書置きを語る場面です。【不忠。エヽその後はどふやらぢやあつた。ム、ムヽ忘れたか。忘れたか。コリヤお半。早ふ言へ/?。エヽきり/?抜かさぬかい。こりや八郎兵衛なんするぞい。小さい者をびしや/?と。よふ覚へてゐると誉めてはやらいで。虫でも出たらどふするぞい。アヽだんない/?。堪忍せい/?。モ父はな。半分気違ひの様になつてゐるわい。父には伯父が大きなあつゝを据ゑてやるわい。サヽヽヽヽだんない/?。泣かずと思ひ出してちやつと言へ。ヨ。ヨ。わりやマア。年端も行かぬに親故苦労するなア。サ。サヽヽヽヽ
思ひ出してちやつと言へ。ちやつと言へ。】少しあけて【コレ伯父さん。母さんがこゝ言ふ時。泣いてぢやあつたわいの。】この文章はかなり畳字の多い特徴のある文で、全体としても、江戸期に書かれた他の部分とは相当異質な感が否めません。
[余論]
最近、新しい資料を2点入手しました。
?加嶋屋清助板の初版と身られる5行稽古本を偶然手に入れましたので紹介します。
国会図書館の公開近代デジタルライブラリーで読める「鰻谷の段」は4点ありますが、全て加嶋屋清助原板の再板で、外題はさまざまでも中身は同じもので、一字一句変わりません。4点のうち2点には再板とは書かれていませんが、間違いなく再板です。いずれも明治の初期に発行されていますが、これの初板らしきものです。外題は「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘 ?谷のだん」、内題は「桜鍔恨鮫鞘 ?谷のだん」、大坂船町 加嶋屋清助板、5行30丁、1行に17,18字、奥付はなく刊行年月日は不明。根拠はありませんが、江戸後期幕末のものではないかと推定されます。再板も5行30丁ですが、こちらは1行に14、15字ですから、初板は平仮名が多く、再板は漢字が多いわけです。字の違い以外、内容は全く同じと見てよいようです。
?蔦屋重三郎板「うなぎ谷の段」の画像について。
蔦屋重三郎板「褄重恨鮫鞘」の画像3丁分を見ましたので紹介します。蔦屋重三郎は、天明から文化期にかけての江戸出版界をリードした書肆で、国文学研究資料館「褄重恨鮫鞘 無筆書置段」の板元西宮新六、私蔵「褄重恨鮫鞘 ?谷の段」の板元大坂屋秀八などとともに江戸地本問屋です。当時、江戸で大流行した富本節の正本出版で基礎を築き、浮世絵で財を成した書肆といわれます。当然、浄瑠璃本も出していたでしょう。
1枚目は表紙で、「おつま八郎兵衛 恨鮫鞘(上)うなぎ谷の段」ひらかな新六行 小傳馬町三丁目 蔦屋重三郎板 。2枚目は(上)の多分9丁目で、(六つや七つ)「の子心にも親を大事と思へばこそ。誰がマア其様に深切に云ふてくれふぞ/?。年頃日頃しんじんする天神様の御利生にも。(中略)祝言といふからはだかれてねるがマア世けんのお定りじや。分て恋しいそなたの事。モ顔見てはこたへられるこつちやない。」。3枚目は最終丁で、「と銀八もかくるゝ間もあらしこ共。人殺しの八郎兵へしばれくゝれとこへごへに。(中略)心そゞろになる鐘は四ツ橋さして」です。外題こそ「恨鮫鞘 うなぎ谷の段」となっていますが、内容は2枚目と3枚目を見ただけで「褄重恨鮫鞘」と判ります。江戸の書肆から出された「古手屋八郎兵衛」は、外題はまちまちでも、みな6行本で(上)(下)の2冊に分かれているのが特徴です。蔦屋のこの本は、文化年中(6年?)江戸薩摩座で、竹本越太夫によって上演された「おつま八郎兵衛 恨鮫鞘」(義太夫年表 近世篇2 482ページ)を当てこんだものと思われます。江戸では、もっぱら「褄重・・・」が演じられ、「桜鍔・・・」が出たという記録は見当たりません。何故だかよく解りませんが、江戸では「褄重・・・」が、上方では「桜鍔・・・」が定番のようになっていたようです。推測が許されるなら、幕府のお膝元は規制が厳しかったが、上方では、江戸に比べるとさほど窮屈ではなかったと言うことでしょうか。
切の加筆について、ご指摘の長い詞の部分の書き入れはありませんでした。
他にも詞の箇所は書き入れされていませんでしたから、
朱のない部分は太夫の入れ事に任せていたものと思われます。
これも大隅の写実と関連があるのかもしれませんが、
江戸後期には決定的となった詞成分過多の浄瑠璃だからでしょうか。
「寶袋」「記憶帳」所収のものは「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷之段
切」と同じく、
大隅団平による現行詞章の切場でありました。
「おつま八郎兵衛 鰻谷ノ中」についてですが、
これも現行の端場と同一詞章(一部異同あり)にて、
朱は全体の検討は困難ですが、冒頭の鹿踊りからして間違いなし。
これで現行の端場もまた団平による節付けであり、
詞章はちか女の改作(むしろ新作)と決定してよいと思われます。
異同箇所はフシ落チの「けり」「ける」等は無視してよく、
現行「骨に収めた煙草入れ、煙管片手に苦笑ひ、母はほたほた傍に寄り」が、
元は「自慢の鼻毛身をふかす」と簡潔であった点のみです。
こちらの方が煙管煙草との掛詞も利き、弥兵衛の人物像も明確であるのに対し、
現行の説明的でかつ型にはまった色ドメは面白くなく、
また「苦笑ひ」は弥兵衛の性根をむしろ混乱させる改悪でありましょう。
ちか女最大の工夫は、おつまの独白からお半への母性愛を描き加えたところで、
団平の節付けもまたここの見事さが際立っています(朱からも一目瞭然)。
ここを伊達太夫(土佐)と松三郎(新左衛門)が勤めることを承知して、
ちか女は加筆創作し団平が魅力的な節付けをしたものであると言ってよいでしょう。
(正月公演劇評に「太夫が声柄でなかったのが惜しまれる」と書いたことが、
図らずもこの端場を正確に捉えていたことになったのをうれしく感じてもおります。)
昨年正月の文楽大阪公演で久し振りに出ました「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」を観て、疑問に思いましたことを3点、当「音曲の司」のサロンに06年3月8日から28日にかけて投稿させていただきました。その後はからずも同サイトの「文楽補完計画 其の十」にまとめてご掲載いただき、皆様のお目にも止まっていることと思います。その間、ね太郎様や勘定場様から数々のご助言や資料のご提供をいただき、あらかた其の疑問も解けたものと考えておりますが、わたくし自身のその後の資料の閲覧や入手によってこのたびまとめましたので、長くなりますが報告させていただきます。
「鰻谷の段」の端場について
1.「裙重浪花八文字」の「第六 姑の欲気に入聟の判字物」山本九兵衛ほか板7行本
八民平七作初めの3丁が端場に当たる。
<鰻谷の軒並び小家にちよつと菱垣の竹の格子の・・・・・打連て奥の一間へ入相時>
大阪府立中之島図書館蔵7行正本のマイクロコピーより
2.「恨鮫鞘」「廓の色上」との合綴版山本九兵衛ほか板7行本
作者不詳なるも、前書の流用からみて、八民平七としても間違いなし。
1の板木を流用して、1丁目(裙62丁オ)を削除し、冒頭に21字加筆、
鐫り直して、前半部を半丁別立て、後半部を裙62丁オとしたもので、初めの3丁。
<身をづくし浪花にさくや此花の取賑はふ嶋の内鰻谷の軒並並び・・・・・打連て奥の一間へ入相時>
早稲田大学演劇博物館蔵公開デジタルアーカイブより
3.「恨さめざや 鰻谷の口」浄瑠璃多賀羅3 写本6行3丁
1を基として、凡そ半分に編輯したもの。原作者は勿論八民平七なるも、編輯者は不明
<うなぎ谷の軒並び。小家にちよつとひしがきの。竹の格子の・・・・打つれて奥の一間へ入にけり>
財団法人人形浄瑠璃因会蔵大阪市立中央図書館寄託鶴澤清六遺文庫より
4.「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」国立文楽劇場 現行の文楽床本より
<移り香を、襟袖口に付け札の、羽織紋付島の内・・・・・涙の露の壜水や、打ちしほれてぞゐたりける。>
明治中期に加賀千代が作詞し、夫豊沢団平が作曲したもの
5.「おつま八郎兵衛 鰻谷の中」 5行4丁
4と殆ど同じであるが、
<骨に収めた煙草入れ、煙管片手に苦笑ひ、母はほたほた傍に寄り>の部分が、
<自慢の鼻毛身をふかす>とごく簡潔になっている。
二世豊沢新左衛門朱入浄瑠璃本の「寶袋・記憶帳」より
「鰻谷の段」の端場は、現在この5種が確認されます。
江戸末から明治にかけて出版された「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」大坂5行・京都4行の稽古本、「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」江戸6行稽古本にはいずれも端場はなく、明治以降数多く出た翻刻本にも端場はありません。あるのは唯一、現行文楽床本だけです。だからといって、江戸時代に端場が奏演されなかったわけではなく、上演記録に見える「鰻谷の段」の「口」がどういう内容のものであったか判りませんが、それは多分、1か2だったかも知れませんし、また、現在「切場」といわれる部分が「口」と「切」にわけられて演奏されてきたと考えると、その「口」つまり現在では「切場」といわれる部分の前半部だったかも知れません。このことは確認できず不明のままです。
しかしながら、現在またこれから後に演じられるであろう「鰻谷の段」の「端場」は、まぎれもなく団平夫婦の創作です。
「鰻谷の段」本体について
「桜鍔恨鮫鞘」の種本は八民平七作8段もの浄瑠璃「裙重浪花八文字」の「第六 姑の欲気に入聟の判字物」であるが、これが大坂では「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」として、江戸では「褄重恨鮫鞘 無筆書置の段」として、それぞれの稽古本が刊行されてきた。内容荒筋では殆ど同じであるが、細かい点ではかなりの違いが見出される。かなり人気のあった浄瑠璃で、公演の回数はそんなに多くはないものの、けっこう稽古本が沢山出回っている。今でも、これら稽古本を手に入れるのは左程困難ではないし、市場価格も高額という程でもない。現在、文楽で上演されている「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」は、これら稽古本のどちらでもなく、両者からの取り混ぜに、更に団平夫婦が若干加筆したもので、これが定着し今日に及んでいる。 「鰻谷の段」の名が余りに評判になったので、記録によれば、嘉永元年4月(1848)を最後に「褄重恨鮫鞘」や「無筆書置の段」の題は使われなくなり、以降は専ら「桜鍔恨鮫鞘鰻谷の段」の外題で上演されてきた。主人公の名をとって「古手屋八郎兵衛」や「お妻八郎兵衛」の芝居として親しまれてきた。
しかし、外題は「桜鍔恨鮫鞘」であっても中味はかなり「褄重恨鮫鞘」の影響を受けているのは大坂でもかわらない。ベストセラーと言われる大阪5行稽古本は、勿論「褄重恨鮫鞘」ではなく「桜鍔恨鮫鞘」であるが、それでも結構、張り紙をして修改訂してあるのを見かける。現に私の持っている加島屋板「再板 恨鮫鞘 鰻谷の段 古手屋八郎兵衛」内題「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の段」は、元所有者と思われる人の名と、入手日と見られる元治元年子九月吉日の記載があるが、張り紙が多くある。プロの浄瑠璃太夫は勿論のこと、アマの義太夫語りも大阪5行稽古本に張り紙をして修改訂や加筆をしたものと思われる。
私は、一幕物浄瑠璃の「桜鍔恨鮫鞘」の正本を、7行本の「廓色上」と合綴された「古手屋八郎兵衛 恨鮫鞘」でないかと考えているから、現在の文楽床本は、原初の「恨鮫鞘」とは随分変わった姿になったと感じている。ちなみに、この合綴本には、「廓色上」の内題の下に座本竹本綱太夫作者八民平七とあるので、「恨鮫鞘」も作者八民平七、座本竹本綱太夫とみて差し支えないと思う。
「鰻谷の段」の出版
明和初年(1764〜1765)頃、京・山本九兵衛の浄瑠璃板株は大坂・吉川宗兵衛へ譲渡された。明和6年(1769)2月、山本九兵衛、吉川宗兵衛、江戸・鱗形孫兵衛の連名で「褄重浪花八文字」7行本を出版。大坂阿弥陀池東芝居で興行。これ以降間もなく、「廓色上・恨鮫鞘」の合綴7行本が京・山本九兵衛から出る。安永初年(1772〜)、吉川宗兵衛の板株が大坂・天満屋玉水源次郎へ移る。安永2、3年(1773〜1774)頃、「鰻谷の段」の最初の出版が玉水源次郎から新板としてなされる。大阪市立中央図書館にある竹本彌太夫文庫に、大坂天満屋玉水源次郎新板と表紙に書かれた「恨鮫鞘 鰻谷の段 古手屋八郎兵衛」5行31丁本がある。広島文教女子大学所蔵本で国文学研究資料館によりマイクロコピーされたものと全く同板であり、私が広島版と名付けていたのは、明らかに天満屋玉水源次郎の原板と確認され、出版年は安永期と考えられる。文政11年(1828)11月、天満屋玉水源次郎の板株が紙屋与右衛門に移る。前記と別板の「恨鮫鞘鰻谷のだん 古手屋八郎兵衛」5行31丁本が出る。天保9年(1838)12月、紙屋与右衛門が板株を大坂・加島屋清助に譲渡。この板を使って加島屋清助も「恨鮫鞘鰻谷のだん 古手屋八郎兵衛」を出版。年月日は不詳。
元治(1864)以前に旧板を破棄し、「再板 恨鮫鞘 鰻谷の段 古手屋八郎兵衛」5行47丁本を出版。この再板本が大阪5行稽古本として、幕末から明治にかけて全国的に普及した。
(参考資料)阪口弘之「浄瑠璃本板株移譲顛末ー伏見屋と紙屋、加島屋ー」演劇研究会会報 第13号
「鰻谷の段」のあとにくる「四ツ橋仕返しの段」については、現在に至るも、全くその資料や情報が入手できず、行き止まりの状況です。