後打見やり女房が、心は泣けど眼に泣かぬ、お半を傍に引寄せて「コレお半、この間から言聞かして置いた事、よう覚えてゐやるかや」「アイ、皆よう覚えてゐまする」「ヲヽ賢い子ぢや、コレこの母が今言ふ事よう聞きやヤ、やんがて我が身も成人して、どうで一度は嫁入りする身、たとへ母がゐぬとても、二度の殿御を持ちやんなや」「アイそれもよう合点してゐまする、がコレ母様、お前は何として泣かつしやる、気合でも悪いのなら、薬買ふて来うかへ」と、ともに萎るゝ我が子の親身「ヲヽよう言ふてたもつた、コレ母はどつこも悪うはなけれど、婆様が飯でも炊いてか、それで煙たうて目が明かれぬ/\」と、涙に咽び泣きゐたる√徒髪にとめ伽羅の、浅き香りや香具屋の、花となりしと聞くよりも「エヽ時も時とあの歌わいの、丁度我が身に引当てゝ、世に歌はるゝもあの通り、八郎兵衛殿、さぞ腹が立たうけれども、コレ堪忍して下さんせ、堪忍して下さんせ、エ、エ、エ、何にも知らぬこのお半、一年/\経つにつけ、父様に生写し、必ず/\出世してこの母がとひ弔ひ」「コレ母様、そんならお前はモウ死なしやるか、わしも死にたい/\」と、取付き歎く我が子の顔二目とも見もやらず「ヲヽよう言やつた/\、よう言ふてたもつたなう、親なればこそ、エヽ子なればこそ、六つや七つの子心にも、親を大事と思へばこそ、誰がそのやうに親切に言ふてくりようぞいの、年頃日頃信心する天神様の御利生にも、叶はぬ事か情けなや、赦して下され八郎兵衛殿、堪忍してくれ我が子や」と、抱締め/\、背撫でさすり親と子が、涙の限り泣尽す、心のうちこそいぢらしゝかゝる歎きを露知らず、待ちに待つたる香具屋弥兵衛「コレお妻、我が身やそこにナヽヽ何してゐやる、盃やら寝所やら、婆様一人が打つたり舞ふたり、イヤモ、いかう俺もせきが来たはいの、サヽヽおぢや、行て寝やう」「ヲヽ弥兵衛様とした事が、八郎兵衛殿と訳立てゝ、女夫になつた仲なれば、今宵に限つた事ぢやなし」「アヽイヤ/\、祝言と言ふからは、抱かれて寝るが、マヽヽヽ世間のお定まりぢやはいの、分けて恋しいそなたの事、顔見ては堪えられたもんぢやないわいの、その美しい心の下紐、解いて貰はにや落着かぬ、サア早う来てたもいの」「サア行くわいな」「コレ母様、わしも眠たい、行て寝やう」「エヽ何かにつけて邪魔ながきぢやな、コヽヽコレお妻、我が身やそいつが可愛いか」「アイ、イヽエ」「ムヽヽさうであろ/\、坊主が憎けりや袈裟までと、おりやモ何ぢや知らぬが、めつたやたらに憎てらしいわい、そなたとしつぽり睦言の、邪魔になる小びつちよめ、俺次第にしておきや」と首筋掴んで引出し「コリヤ嬶と抱かれて寝る間、門に遊んでけつかれ」と外へ突出し、戸をぴつしやりさすがの母も胴欲と言はれぬ辛さ知らぬ子が「コレ母様、わし一人寝るわいの、伯父様、明けて」と叩く戸の、訳も隔てもなく涙「サア構はずと女房ども、祝言の夜の新枕、二つ並べてサア寝よ」と、せり立てらるゝ身の辛さ、否とも言ふに言はけなき、我が子を捨てゝ奥の方、伴ひ入るや入相の√鐘諸共に忍出で、秋風寒く身に沁むも、今の恨みは長堀の、人目を包む頬被り「アヽ世には似た事もあるといふが、あの歌の唱歌を聞けば、我が身の上に一つも違はぬ、七人の子はなすとも、女に肌身赦すな、と聞いてはゐれど、あいつばかりは、あゝした不心底があらうとは、微塵些か知らねども、親の欲気に引かされて、この八郎兵衛を見替へたか、但しまた、この中頼んだ金の工面、拵へるあだてもなく、なければ夫の難儀と思ひ、わざと女夫に見せかけて、やつぱり金の才覚も、それとは言はず心の謎、何にもせよ荒立てゝはこの身の妨げ主人へ不忠、虫をさすつて余所ながら、試してみん」と門の口「ヤア、そこにゐるはお半ぢやないか」「父様か」「ヨウこの暗いのに我一人、そうして嬶めはどつちへぞ行きをつたか」「イヽヤ母様はうちにゐて、わし一人こゝに置いて、伯父様と寝てゐやしやる」「ヤア何と言ふ、スリヤアノ、我を門へ放り出し、弥兵衛と奥に寝てをるか、チエヽ可愛いそちを構はぬからは、男の義理も心底も、真実捨てたにコリヤ違ひない/\/\、エヽさうとは知らず俺が手に色々道理を付けてみて、よもやと思ふた八郎兵衛が堪へ/\たがもう叶はぬ、憎さも憎しうぬ真二つに」ヤアきり/\/\な、斬殺し、浮世の夢や鮫鞘の、鯉口くつろげ落差し「イヤ/\/\畜生めらを斬殺し、我が命を取られた時は、刀の詮議も親の敵も得討たぬのみか、伊織様のお頼みなされた五十両、忠兵衛殿へ戻さねば、尽した事も水の泡、ハテどうがな」と立つつゐつ、憎さいや増す無念の涙「現在女房をおめ/\と人に取られ、腑甲斐なしと一生後ろ指差されんも口惜しゝ」と駆出しては、立戻り「マア伊織様にこの様子」と行かんとせしが、振返り「思へば憎し」とまた後へ、うちを覗いつ門を見つ、立つたりゐたり身をもだえ、千々に砕くる父親に付添ひ廻る子もうろ/\「父様、眠たい、寝さして」とせがみ立てら.れ「ヲヽ道理ぢや/\、可愛やな、モ親故我も苦労する、堪へてくれ」とばかりにて、子故の闇の憂き思ひ、思ひ重ぬる奥の間に「三国一ぢや、婿になりすました、しやん/\しやん」と納まる内祝ひ「これまでなり」と八郎兵衛、門の戸蹴放し駆入れば音に驚き母親が「ヤア八郎兵衛か」と言ふ間なく肩先下りに斬付くる「コレ/\/\、待つて/\/\」と女房が、留め隔つる片腕、落ちて甲斐なき息遣ひ娘はその儘父親が、振上る手にぶら下り「父様、去んで下されなう、お前がこゝにゐやしやると、母様が死なつしやる、堪忍して」と言ふ声が母の耳にや通じけん「お半はどこにぞ、必ず/\怪我すなへ」と、言ふがこの世の暇乞ひ一間の障子さつと明け「八郎兵衛は親殺し、この通り注進」と、裏道指して駆行く弥兵衡「ぼつ付いて一討ち」と、思へど引かるゝ後ろ髪「こヽぞ命の置きどころ」と、刀逆手に取直せば「コレ父様、死んで下さんないの」と、取付く我が子をまた抱取り、堪へ兼ねたる溜め涙、袖や袂に淵なせりかくとは知らぬ銀八が、とつぱ川筋一文字、提灯下げてつつと入り「八郎兵衛/\うちにゐやるか」と上る足元親子の死骸びつくり見合す覚悟の刀「コリヤさせぬは」と押留め「コリヤ八郎兵衛、合点の行かぬこの場の様子、仔細が聞きたいサヽヽヽどうぢや/\」「ヲヽ銀八、仔細といふたら八郎兵衛が、どうも男が立たぬによつて、二人ながら打殺し、腹切つて死ぬるが高、コレ銀八お半めが事頼む」と、また取直す刀の柄しつかと押へて「アヽもうよい/\わい、コリヤ八郎兵衛、さういふ女房にかゝり合せ、尤もとは思へども、刀の行方も知らず、今この中で腹切つては、主人へ忠義が立つまいぞよ」「サイノそこに気のつかぬ俺ではなけれども、不義の相手は香具屋の弥兵衛といふ奴、残らず見届けたつた今、訴人に失せたる天の網、かゝらぬ先に腹切る覚悟」「サアその網のかゝらぬ先こゝを立退き、伊織殿のお行方を尋ねずばわりや、済むまいがな」「ムヽ尋ねるとはソリヤ何で」「ムヽ訳を知らねば合点行くまい、意地悪の団兵衛めが梅川を請出すと聞き、二人連れで廓を駆落ち、その訳知つた伸居のお才、俺に逢ふて言ふにや、八郎兵衛様が頼まれてござる五十両の金子、釆女様のお情けにてその事は納まつたれど、梅川殿の身請けの金、またも手詰めの難儀となり、命づくに及ぶによつて、お二人ともに落しましたと聞いてその儘逢ひに来た、コリヤこの場の時宜はこの銀八が身に引受け、ハイ、人殺しは私でござりますとこつちから名乗つて出で、意趣斬りにすりやこの場は済む、サ、気遣ひせずと早う行け、早う行け」「チエヽその事をマア半時先に知つたらば、たとへ人に笑はれても、お主故と了簡定め、仕様模様もあらうのに、今更帰らぬ主君の身の上、不忠に不忠を重ねしも、憎い女が魂故、見るも中々腹立ち」と、持つたる抜き身でめつた突き見る目悲しき娘のお半「父様待つて、書置きの事、アレ/\伯父様留めて/\、書置きの事」「ヨウ、何ぢや書置きぢや」「アイ、一つ何から申し残さうやら、案じにくれて言残し参らせ候」と言ふに不思議と両人が「ムヽさうしてその後は、何と言ふてをいた、サヽちやつと言へ/\」「アイ、たゞ気にかゝるはお主様、段々積る難儀の上、金の要る訳聞きながら、拵へるあだてもなく、婆様と言合せ、夫のためにこの身を穢し参らせ候」と聞いて驚く銀八が「ヲヽさうであろ/\、テモ可愛さうなこつちやな、わりやマア賢い者ぢや、よう覚えてゐるな、その後を、サヽちやつと言へ、ちやつと言へ」「これにつけてもたゞ可愛いはわし、イヤ娘のお半、精出して寺へもやり、ものも縫はせ、大事に御育て頼入り候、不憫と思し一遍の、御回向頼む、父様」と、聞いて八郎兵衛正体なく「エヽ聞こえぬぞよ女房ども、さういふ事ならつひ一言、明かして言はゞこのやうな、酷い目はさせぬわい、たとへ顔が立たぬと言ふても、お主故なら何の留めう、今思へば姑が、憎う言ふたも裏の裏、お妻が代りに母者人、こなた一人殺される心であつたかい、/\、さうとも知らずおれが手に酷たらしう、一刀に手にかけたは、慈悲が反つて我が身の仇、親殺しと口の端に、かゝるこの身は厭はねど、理非も糾さず二人とも、斬つて捨てたは何事ぞ、赦して下され母者人、堪へてくれ女房」と、空しき死骸に取付いて、悔み歎けば銀八が「ヲヽ道理ぢや/\、道理/\」と諸共に、胸一杯に突つかくる、身も世もあられ雪氷、肝に貫く八郎兵衛が、涙の時雨古手屋の、昔も今も哀れなり訴人によつて数多の人音「まづ/\こちへ」と銀八も、隠るゝ間もあらしこども「人殺しの八郎兵衛、縛れ、括れ」と声々に「をらぬは必定、裏道へ」滅多無性に飛んで行く