平成廿三年七・八月公演(7/28、8/4―第二・三部―所見)  


 上演から一ヶ月以上経過しては、劇評の意味も大幅に変わってくる。三業の成果については、目下の東京九月公演に足を運べば直接見聞き出来るのである。とはいえ、作品解釈ばかりでは、詞章を読めばいいので観劇評など無意味ともなる。そこで今回は、それぞれの作品を評するときの筆の勢いに任せ、書きたいところを書くという、全体の統一性を顧みない方法を採ることとした。リアルタイムの評言は、既出の寸評に任せるものである。

第一部

「日高川渡し場」
 景事扱いであり親子劇場だから、インパクトが何よりも大事。当然責任はまず人形に掛かってくる。第一は蛇体となって泳ぐところ、迫力不足。第二は嫉妬の怨念に狂うところ、怒りなのか悲しみなのか判然とせず、棒杭にもたれるところは諦念さえ感じた。いや、それこそが清姫の本心かもしれない。しかし、その解釈は前段の「真那古庄司館」から通しでやった場合には有効であろうが、今回はしかも詞章を読めばわかるように、深読みというより的外れになる。一途な後追い、寝取られの妄想、恨みと恥辱、魔王とも鬼神とも、輪廻と煩悩の業火地獄も厭わず、憎悪の鬱憤晴らし、そして大蛇の姿となって川へ飛び込むとあるのだ。
 そうなると、カシラの選定にも問題が出てくる。ガブを使うべきだったのだ。こんな時にまで「情を伝える」云々と思っているとしたら、大きな間違いだ。派手に花火を打ち上げ、スゲー!と思わせてから解説そして本編に移ればいいのだから。ちょうど同時期に劇場公開していたポケモン映画にしても、愛とか勇気とか友情とかのメッセージはあるが、それはあくまでも味付けであって、やはり映像主体に音響効果で観客を圧倒して感動させるから、毎年相応の興行収入を上げて続編が作り続けられるのだ。こう書くと、ポケモン映画と文楽を同レベルに語る、程度の低い文章は読む気もしない、となるのだろうが、最初に述べたように、これは景事であり夏休みの親子連れをメインターゲットにしており、しかもトップバッターとして何が何でも塁に出なければならない立場にあるのだ。方便品を持ち出すつもりはないが、それほど「情を語る」文楽の本筋に拘るなら、親子劇場などという看板を掲げる必要はないだろう。そう考えると、太夫陣にも注文をつけなければならない。清姫はまず美しい高音で琴線を揺さぶる必要があり、加えて破壊的な力感を加味しなければならない。船頭はテンポ良くチャリがかり、最後の臆病風との対比も鮮やかでなければならない。その点、三輪は前者が今ひとつであったが、南都は結構よかったのではないか(人形もまずまず)。三味線は二枚目に清志郎が座るからシンの清友が無理をしなくて済んだのが幸いした。 

「舌切雀」
 新作ではあるが、作者錦太夫は大正末年からのラジオ放送開始時も、大阪BKの義太夫節浄瑠璃番組において、文楽座の太夫と並んで流されていたから、当時の人気がうかがい知れる。今回も詞章は改変せずの文語体だが、補曲・振付をも含めた三業の成果により、何の抵抗感もなく堪能することが出来た。工夫改善努力の成果といってよい。それと、十年のうちに、ファンタジーの世界が当たり前になって、すっとそこへ入っていけるようになっていたのだろう。怪物どもも自然に笑いを取っていたし、舞台と客席の距離感が近かったのが、何より夏休み公演の成功を示していた。照明も宝物の輝きが見事だったが、やや冗長に過ぎたのはもったいなかった。道具返しも眼を引きつけた。宙乗りもよいし、親雀の表情が恨みで恐ろしく変わるところは際だっていた。三味線も三下り二上りと効果的で、段切の踊り唄もよく、ただジャラジャラうるさく弾くのではなく、メリハリのきいた気持ちよいものであった。太夫陣は、まず劇場紋でないシン揃いの轡紋が師匠の肝煎りを感じさせた。お竹婆の造形だが、あの語りを聞くとなるほどカシラが八汐でなく莫耶であるのが納得される。要するに、性善説であるのだ。邪非道の性根でない以上は、嫌らしい表現も抑制したということだろう。ちなみに、プログラム鑑賞ガイドにある害鳥益鳥反映説は、制作担当者のせめてもの自己主張であるから、実演と的外れの言説と目くじらを立てるのはやめておきたい。
 お竹婆について一点だけ。サッカーボールを持ち出した時は何かと思った。もちろん「なでしこジャパン」の入れ事で時機を得たものだが、その手順を惜しいかな誤った。今女子スポーツでもっとも活躍しているのはと、大阪のおばちゃんに聞いてみよう。「知ってるで。女子サッカーやろ。えーっと何て言うたかなあ…。そや、ひまわりジャパンや!」なんてことにはならない。「なでしこジャパン!知ってるわそれくらい。ワイドショー見てるし。え?スポーツの種類?それはっと…野球かいな。違う、サッカー?!ああ、玉転がし。」とはなるだろう。つまり、サッカーボールを蹴らしても効果は今ひとつなのであって、なでしこと大書した(JAPANは添え書き程度でよい)ユニホームを着せるべきだったのだ。そうすると客席も時間差でなく最初からドッと来た。それは三つの理由による。一つは時事ネタ、次に婆さんが「なでしこ」というギャップ、そしてボールを蹴るという冷や水状態である。この場合、別にバットを振り回してもかまわない。「お母さん、なでしこJAPANってサッカーやなかった?」「ええの。お婆さんボケてはるから、間違うてはんの。」という、更なる反応までが期待できるからだ。もっとも、これだけのために、もう一体ユニホームを着せた胴体を用意して、早変わりで付け替えるのは手間が掛かるというのなら仕方ないが、やるのなら徹底的に、のはずだ。雀の舌を切るハサミも最初は原寸大だったから、以前の劇評でも親子劇場チャリ演目での小道具はデフォルメすべきと述べていたとおり、今回巨大化したものでさっそく客席からの好反応が来ていた。
 それにしても、平日とはいえ夏休みでこの程度の入りとは悲しいものがある。東京国立夏の歌舞伎鑑賞教室は、親子連れを奨励しているのだが、客席はその通りの満席で、しかも平日を問わないものであった。歌舞伎と文楽、首都圏と関西(というより大阪。京都や神戸とはお互い冷淡)の違いであろうか。「大阪の文楽」と声高に叫ぶのなら、この点をよく考えないと、未来は決して明るくはならないと感じた。
 

第二部

『絵本太功記』
「二条城配膳」
 次の「光秀館」とともに、『忠臣蔵』なら「本蔵館」、『菅原』なら「加茂堤」というところ。人数を捌く掛合も仕方のないところだろう。聞いてみるとなかなかよく、権力者春長の短気は太夫がよく、人形が老けていて今ひとつ。勅使の威厳は人形が春長を上回るほどの出来で、太夫は一本調子の強さに頼った感。蘭丸は太夫人形ともによく、主君に忠誠度100%の若武者を活写。十次郎は父への信頼度100%で、礼儀作法をわきまえた描写を、太夫人形が納得させるというよりも目立たぬ形で提示した。
 そして光秀。玉男は黒の大紋の出で立ちだけで、その性根を知らしめたが、玉女はまだそこには至らない。もちろん堂々として座頭に通ずるものは見えるし、動けるところは型もいいし、確実でもある。が、動かないところが肚としてあるというよりも、動かないでいるという段階に留まっている。だから「底意は誰かしら浪の万里に羽打つ大鵬や」など、無念ではあるが消沈はせず、大きく開き直るのでもなく、反逆心を剥き出しにも出来ず、しかもこれだけ踏みつけられても大鵬の格を強がりではなく失わないという、実に難しいところの描出は、まだまだ先が長いことを思わせた。とはいえ、二代の玉男を目指すのが本意であると言うのだし、それ故の十分な本読みに基づく作品解釈と、そこから導き出される説得力ある遣い方に至らなければならない覚悟は、当然あるはずだ。まだ所々に意味不明な動きが見えることも含めて、実質上の座頭宣言をした以上は、これからも辛口で厳しく苦言を呈していかなければならないのである。しかし今回は、その苦言がほとんどなかったという点を、評価もするのだが、といって減点がないというのでは師匠の域には迫れないのであって、早く加点主義にて評することができるようになってもらわなければならない。
 太夫はというと、持ち場でなら切語り相当となる千歳、実力も今更云々するレベルでもないし、だめ出しをされることもまずない。ところが、満足に至らない、というか、もう一段の高みに上がれない。不満が残る。そうしているうちに、今回は以前の彼ならこんなはずはないと思われる箇所まで出てきてしまった。「末代までお家の瑕瑾/諸士の恨みは小車の」「浅ましや悲しやナア/御心を翻され」このカワリがへったりなのはどうしたことか。まさかその語りを、故師譲りの精緻から豪放磊落に変えようとするのでもあるまい。壁、停滞期、まあこれはどの太夫にもあることで、これを乗り越えられるかどうかで、一流になるか否かが分かれる。しばらくは様子を見たいが、彼を高みに引き上げるべき姉さん女房が傍らにいないのが、何とも心配ではあるのだ。

「千本通光秀館」
 清治師と呂勢のコンビは、いつ聞いても面白いし爽快だし、それはすべて、足取りや間の卓越性が第一にあるからだ。義太夫節浄瑠璃の流れができていると言ってよい。戦後とりわけ平成になって、ドラマ性を強調するあまり、滞った芝居を見せられ、眠気覚ましに手の甲を何度もつねってアザが出来ることも多々あったのだが、このコンビには皆無、いや、清治師と呂勢とそれぞれでも皆無であった。マクラ一枚のすばらしさ、これだけでもう義太夫節浄瑠璃の世界に引き込まれる。後はどの人物も生気があり、目をつぶってもその人物像と心情とが伝わってくる。操と十次郎は声柄としても、文七、舅、金時、与勘平と、語り分けができたということは、明らかに時代物三段目切場語りへの道筋が付いていることを示す。しかも、一杯に語って声を痛めず、操と十次郎が美しく聞こえるのだから、これはとんでもない実力なのである。もちろん、清治師指導による三味線がそう語らせているのだが、本当によく鍛えられていると感じる。故呂大夫を弾く約束が出来ていたと聞くが、それが今そして未来にわたって、呂勢により現実化されるということでもあろうか。もう師匠の名を襲うに十分な実力で、もちろん南部を第一に襲名しなければならないのであるが、格としては断然後者の方が上であり、ここはまず呂を襲名してとも考えるが、踏み台になるようなことは不本意であろうし、ここらはどうか幹部連がうまく差配していただきたいものである。また、清治師がそれを意識しているかどうかは知らないが、清六の無念にして至るところができなかったことも、すでに実現している部分もあるが、今後とも押し進めてもらいたい。長かった戦後がようやく終わる、文楽界のエポックメイキングともなるはずである。

「妙心寺」
 三段目の立端場。二段目全体そして三段目切と光秀の物語は描かれない中で、ポツンと置かれている一段。もちろんその狙いは明白で、本作の裏の柱を通しておくための配慮である。従って、初段と四段目を繋ぐ中継地点というだけではなく、観客の心に印象を残しておかなければならない。作者はもちろん承知しており、節付けも巧みで為所のある一段となっている。最も注意しなければならないのは、この一段の前後半で光秀の性根がすっぱりと変化していることである。ここを出さずに初段と四段目を繋げて見せようものなら、「尼ヶ崎」の光秀は天下を簒奪して尊大となった人物として映ることになる。であるから、初段からの内攻光秀と並行関係にある母皐の存在が第一、転向点となる四王天のタテ詞が第二、そして天子への忠節のため馬上の人となった終幕が第三、となる。それに口での十次郎と初菊の恋模様が一輪の花として添えてある。
 その口はダブルキャスト、前半担当は声や腹等の素材がいいしこれまでも何度かハッとした。そのためか最近はこのクラスの筆頭として、聞き応えのある端場を担当することが多い。が、どうやらまだそこまてには至らないようで、課題が見えてくる。今回も、若い男女の恋模様が堪能出来ず、頑張って語っていますというのが前面に出ていた。もちろん、その姿勢は非難されるどころか賞讃されるべきものである。後半担当は、その次の位置付けであって、こちらはその工夫に納得することがあった。今回は三味線とも息がピッタリで、なかなか面白い仕上がりになったのが好印象であった。それにしても、ヲクリで最後の文字を次へ送るという、シャレにもならぬ悪習は何とかしなければならない。
 奥は前述の三点がしっかり押さえられるかであるが、英が宗助とともに今回も好成績。英のスタイルはすっかり完成し、次の切語りはもはや確定済。やはり義太夫節浄瑠璃が心身に染み渡っているからである。宗助も情味と力感かあって満足のいく出来であった。

「夕顔棚」
 まったく端場とはこういうものという、お手本のような寛治師の三味線に津駒。面白かったとか堪能したとかではないが、引っ掛かったりもたついたりすることなくすっとそのまま切場に至った。ということで、これ以上書くことはない。

「尼ヶ崎」
 一度目は英の代役だったが、前回同様に藤蔵とよく合って感心。源師は二つの風、すなわち麓太夫と四段目を心得ているから、それだけで切の語りとなる。
 「正清本城」や「小牧山城中」の前半にあるクドキ同様、「太十」(素浄瑠璃を前提)前半も麓太夫の声域声量を反映しての節付となっており、それを辿って情味が表現される。麓太夫風の面白く美しい部分があればこそ、義太夫節浄瑠璃中興の祖としてその名を残すことになったのである。聴く者を引き込みうっとりさせワーワー言わせる、それだけのものがこの風にはあるということである。それが、人形浄瑠璃全盛期であれば、さほどその必要性はなかったであろう。人々の耳目を驚かし、再び人形浄瑠璃へと足を向かわせねばらない、その使命を麓太夫は見事にかつ自然に果たしたのである。そう考えると、古靱(山城少掾)が残した録音「尼ヶ崎」のうち、研究者を中心にあまり評判のよくない、ビクターに残した四世清六との快演こそ、麓太夫風の真髄を体現したものであると言えるだろう。
 後半はすっかり座頭格となった咲と燕三。切場後半に加えて麓太夫風だから浴びせ倒して正解。四段目風に関しては、深刻なドラマにしてはならないということでもある。大落シで拍手が来たのも、その実力の程を証明していた。
 芸談等には光秀で泣かさなければならないとあるが、それは余程に困難である。まず、この場の光秀は一点の迷いも悩みもなく、天子に精勤を誓った一大忠臣であり、天下万民を安寧に導く将軍でなければならない。さもないと、「光秀館」といい「妙心寺」といい、優柔不断を四王天にけしかけられ、突然翻心して凶悪になり対象の誅殺を決断するという、何とも愚昧な男という造形になってしまう。大落シで泣くのは、血筋の恩愛によるのであり、母妻嫁そして子息の悲劇が我が身に突き刺さらなければならない。見る者とすれば、それらのクドキが心に響くことにより、大落シの光秀に投影されて涙を湛えるのである。子として父としての涙である。詞章もそうなっている。ならば、そんなに難しくもないのではないか。しかし、それを忠臣勇者を襲った不幸とはとらえられない。なぜならば、光秀は逆賊なのであり、逆賊の道を選んだことにより、その不幸を自らに招いたからである。母皐の「妙心寺」における諌言は、まさにこのことを見抜いていた。妻操の心配も杞憂では留まらなかったのである。つまり、主殺しの悪名を逃れることは出来ず、久吉側からすれば、天網恢々疎にして漏らさずということになる。が、春長の横暴と増長さらには理不尽を目の当たりにし、光秀に肩入れしている観客にとっては、その解釈を引き受けることはできない。唯一あり得るのは、仁義礼智忠信孝悌を兼備した光秀の、苦しみ悩み抜いた揚げ句に辿り着いた結論、悪逆無道の春長を倒すということが、たちまち弑逆の徒の烙印となって、彼とその一族をすべて滅ぼすことになるという、天の冷酷な厳しさに対して、ただそれを受け入れるしかない人間の慟哭という意味においてである。土民の竹槍に倒れるという小来栖の最期は、知識として持ってはいても、大団円が悠々然と登場した久吉の天罰覿面との言葉とともに、はっしと首を打ち落とされるというのは、とってつけたような竜頭蛇尾たる勧善懲悪の辻褄合わせとも片付けられないであろう。
 人形について。光秀の肚については前述の通り。極まり型は全般に美しいが、団七走りはいただけない。操は師を継承して抑制的。初菊と十次郎は極まり型など遣えるではないかと思わせた点を評価するが細部もまだまだ。皐は味があるがより強さがあっても。久吉は段切に寄り眼で極まるのは型もよいが、メリハリがなくベタだと操り糸が切れたのではとも思った。
 

第三部

『心中宵庚申』
「上田村」
 かつての液晶ディスプレイではよくドット抜けということがあり、たった一つでも取り替え買い替えしなければならなかった。これは神経質でも何でもなく、許されない不快感をもたらす一大欠陥である。白紙に落とされた汚点シミがどれほど醜悪であるか。今回、公演後半で調子に乗った鼻動きは、即返品の代物であった。ちなみに、それにひきずられてか、最後に本作を『八百屋献立』にしてしまった中堅がいた。故師の屈辱ともなるを知らざるうつけ者である。
 住師は錦糸の絃に対する全面的信頼感があり、酷暑の公演でも勤められるのである。簑助師と文雀師ともその信頼感で結ばれているから、奇跡とも言ってよい舞台が現出するのである。そこに勘十郎もまた加わっていることが、人形座頭は誰かと言うことを如実に物語っている。その中に入ると紋寿がやや軽く見えたのが惜しまれたが、三業の三位一体の至芸というものを本当に久し振りに実体験することができた。前回、前々回のそれも素晴らしいものであったが、今回はすべてが一世一代、これより前でも後でも成り立たない瞬間の輝きが照射されていたのである。

「八百屋」
 前段で堪能すれば、次はおのずから気も緩むものだが、嶋大夫はまた掴んで離さず、三味線は鮮やかでないが、心で弾いて手で弾かずに至るということか。それにしても、「ドン・ジョバンニ」なら晩餐会の曲で笑いが起こるのは当然なのだが、近松の折角の仕掛けの、前段此段ともに現在の観客に不発なのは、悲しくも痛ましい限りであった。

「道行思ひの短夜」
 作品解釈については、前回前々回の劇評を参照していただきたい。
 上之巻によると、半兵衛は五歳で大坂の人となり、そのまま町人に奉公したとある。いくら三つ子の魂百までとはいえ、また、武家での躾は幼時より厳格にもせよ、ここまで武士に拘るというのは尋常ではなく、半兵衛という人物に特徴的なものと言わなければならない。それはまた、この道行の詞章にもある通り、生涯町人の水は体に合わなかったということでもある。「死なうとせしも以上五度。恨みある中にもそなたに縁組み、せめての憂さを晴せしに」。乃木将軍の殉死、それに触発されての「こころ」の先生の死。死んだ気で生きてきた者にとって、その死の道を現実に行くだけの契機は、他人には謎であっても当人にはごく自然なものなのである。
 半兵衛がその死の道を意識せず開放的にいられたのは、「上田村」では平右衛門宅の門をくぐってからしばらくの間、「八百屋」では店に出て義母に山城屋の件を悟られる間だけ。それ以外は、俯き内向し苦悩するばかりの姿である。その対照が、勘十郎によって見事に描出されていた。よく本が読めており、解釈が行き届いている。これまで、近松物上演に関しては、客寄せパンダとシニカルに評してきた。しかし、ここのところ勘十郎によって、近松世話物は人形浄瑠璃のために書かれたものだという当たり前のことが、現実にその場で鮮やかに更新されていくのを体験し、その世界的戯曲作者とその作品を文字列の中に閉じこめておくのは、あってはならないことだと思い始めた。この上は、「堀川波鼓」ほかの、近年上演が絶えている作品をどんどん取り上げてもらいたい。しかしながら、もし次が「鑓の権三」なら再び糾弾の手を従来以上に強めることを、念のため附言しておく。