平成十一年十一月公演  

『近江源氏先陣館』


「和田兵衛上使」

 伊達大夫の持ち役。喜左衛門とのコンビなら経験則からだけでも勤められるというものだ。さすがに「武骨の荒くれ男」和田兵衛が映るのは伊達大夫である。もっとも以前と比較してがむしゃらな馬力は弱ってはいるものの、その分老母微妙の表現に滋味が加わっている。特筆すべきはたった一ヶ所しかない小四郎の詞でホロリとさせたことであって、これも早瀬との対比により際立つ微妙の描写が心有る語りで処理されていたからである。三味線も男女老弱柔硬浮沈それぞれに弾き分ける手練であった。なお、マクラの表現については段切りの部分と合わせて後述する。人形も同断。

「盛綱陣屋」

 切場の前半清治。まず盛綱と微妙との切羽であるが、盛綱の詞は地色の三味線のあしらいがよく、「修羅の巷の攻太鼓」も詞章通りの音がした。また微妙同意後のノリの部分の処理も結構であった。語りも最初の受け渡しから盛綱衷心衷情の物語、座を立つまで出来たと言ってよいだろう。ただ太夫はともすると地地色から色詞とすべてずるずるに流れてしまいがちであり、今回も盛綱物語の後半にそれが感じ取られたのは残念であった。人形は玉男が検非違使かしらの立役の性根を完璧に掴んでの至芸。文七の立役は大きく強い動きで処理をしてみせることもできるから文吾あたりに任せられるとしても、この検非違使および孔明かしらの立役は今以て玉男以外にはとても勤まらない。マクラ「思案の扇からりと捨て」の工夫もさもあるべき。ただ膝から外れてハッと気付くだけでは受動的であるので、我知らず膝なる扇をウムと外したとする方がより良いのではないかとも考えるが、これこそ素人見物人の戯言であろうな。あと感心したのは辛抱立役でも前述のノリのところではきちんと音曲に合わせた動きになっているところで、このあたりが人形勝手ではなく浄瑠璃を十二分に知り尽くした遣い方、音曲を体得してこその座頭である。これを思うと次代の立役候補はまだまだである。微妙は文雀が慈悲の心もありまた高綱盛綱両雄の母としての格も背骨も通ったところを見せる。さすがである。続いて篝火早瀬の場面は無難。「果報」をきちんと「くわほう」と発音したのは大いに評価したい。人形は和生の篝火が一子への愛こそすべての様子を見せ、簑太郎の早瀬は嫂の厚みと勝ち組の強さに冷ややかさまでも遣えていた。何を遣わせてもよくのみこんでいる人である。恐るべし。そして微妙と小四郎の絡み合いであるが、ここはとりわけ「…父様母様にたつた一目逢うた上せめて雑兵の首一つ取つて立派に死んで見せませう」「アヽこれなう賢い様でもさすがは子供預りの囚人敵へ帰して盛綱が武士が立つものか…」のやりとりに真実心溢れる感動がもたらされた。人形の小四郎は清三郎であるが「袖萩祭文」のお君といい、重要な子役をしっかりと遣ってみせている。評価したい。前半最後の大落としまで太夫清治ともに手強く煽り上げて観客も興奮の渦に巻き込まれ、引き続いて「折からさつと山風の遥かに陣鐘攻太鼓」と更なる昂揚感のうちに注進の勇みから高綱討死の予兆…と実に面白いところなのであるが、無残やな、盆がくるりと回転するのであった。ああ清治、ここから段切りまで勤めていればより一層の評価を受けたはずなのに。「袖萩祭文」の時といい、横綱でも張出格とはつらいものであることよ。どうか素浄瑠璃の会やNHKの録音等でこの鬱憤を晴らしていただきたい。その時は必ず付き合わせていただく故。
 後は呂富助であるが、これはもう富助の三味線、時代物切場に十分値する三味線を称賛すべきであろう。呂大夫は今回咲大夫と役場を交換すれば互いに十分であったのだが、次代の切語りとて鍛錬の場を与えられたというところか。注進はもっと押し出すべきだし、小四郎の声音も今一段の工夫が欲しい。大落しはやはり効き方が不十分であり、和田兵衛も豪快さが不足する。盛綱の詞も、時政帰陣後篝火に小四郎対面を許すところなど力がない。強さ大きさではなく気合いとでもいうべき力である。贋首の計略を物語る「負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木」を含む前後の部分も食い足りなかった(これは公演後半には乗り越えたかと聴いたが)。和田兵衛では「見よや盛綱」の決め詞がいけない。全体的には時代物切場の語りとして認められる出来であろうが、大曲「近八」の格は感じられず物足りなかったというのが偽らざる率直な感想である。富助の三味線はその至り難いところをよく補って痛快であった。人形について補言すれば、作十郎の時政は何とも食えぬ老体の不敵さを出していたし、文吾の和田兵衛が切れもあり大きさもあって大団七を遣えたといってよいだろう。玉男の盛綱はここでも見るべきで、例えば弟高綱の討死を確信する「ハヽア南無三宝しなしたり」の極り型、小四郎の健気さ故に贋首を真と偽る「弟佐々木が首」の決め詞をまずきちんと小四郎の方へ届かせている遣い方、等々やはりこの人でなければ。まさに立役列伝中の人物である。
 ところで、この「近八」はマクラと段切りで近江八景を半分ずつ読み込んであるのが面白い。マクラでは堅田落雁・石山秋月・矢橋帰帆・比良暮雪、段切りは三井晩鐘・唐崎夜雨・粟津晴嵐・瀬田夕照である。しかしこれは単なる言葉遊びではない。まずマクラを見れば、この琵琶湖周辺の鳥瞰図ともいうべき風景を織り込みながら、近江源氏佐々木氏が頼家実朝の反目により盛綱高綱兄弟も敵対せざるを得なくなった武士世界の義を語り起こしている。一方段切りでは小四郎の死に象徴される一家一門の悲劇を近江路の風景の中へ包み込んでいくのである。つまりこの浄瑠璃を聴く者はまず風光明媚なる南湖周辺の景を脳裏に描き、その比良山麓坂本の地に城郭とそこに張り巡らされた陣幕のひらめきとを見出すのである。それは視点の空間的移動であると共に、聴く者の時代からこの物語の時代へと時間的に移動することにもなる。共時性から通時性への巧みな瞬時交換である。それによって我々はごく自然に当たり前のように、小三郎の初陣手柄にわく人々の中へと入り込むことが出来る。もちろん段切りではそれと反対の過程をとる。そして何事もなかったかの如くに園城寺の鐘は鳴り響き夕陽は唐橋を照らして湖面に映えるのである。通時性の記憶つまり歴史的連続性は原自然を人文的地理に変換する。それなればこそ、大阪の陣を鎌倉初期へと移し換えることも可能なのである。そしてまた浄瑠璃を聴く現在(アクセントの高低に注意!)としての我々=小宇宙が大宇宙の一部であるとともにそれと一体化するものでもあるということを認識させてくれよう。マクラと段切り、これが神の視点からの語り物である浄瑠璃にとっていかに重要なものであるか、「近八」が大曲難曲とされる理由の一端もまたここに存在すると思われるのである。(なお、ここに於いて拙くも展開した「マクラと段切り」論は、あらためて一つの論考としてまとめたいと考えているが、さていつのことになるやら…)
 

『卅三間堂棟由来』

「平太郎住家より木遣音頭」

 間に合わせの狂言である。過去の上演間隔と今回の時間配分の関係から選択されたものに違いはない。それゆえこれを縮小版であるから今一つであったとか簡略版であるから感動までに至らなかったと言っても始まらない。草木の精の不思議と主眼の木遣音頭とが伝わればそれでよいのである。
  端場の千歳宗助はいつもながら明快で安定している。細部にも気を配り伏線を張り巡らすという端場の仕事をきっちりと果たす。もうこれだけで十分である。人形では玉也の進ノ蔵人が軽快だが出のところなどやや軽率。孔明かしらであるぞ。もちろん立役ではないのだから遣い過ぎは大迷惑と承知の上のことだろうが。母はさすがに老体なりの玉松。
 奥は咲大夫と清友。語り出しの音高からみても東風の曲だろうし、内容はまた素朴な説話めいた趣のあるものである。よって清友に弾かせたのは正解であろう。厳しく鋭い三味線とも派手で大きい三味線とも異なる、もこもこほくほくとした穏やかで温かい情趣を聴かせる清友である。咲大夫は付け物の切場に準じた扱い故だろう。さほど感心するような出来でもなかったと聴いたが、それでも突っ張りが利くから例えばお柳が平太郎に髑髏を渡して消え去り三人が嘆くところなども十分応えるのである。しかし何と言っても紋寿のお柳がよかった。人間と柳の精との遣い分けが出来たし、柳の葉隠れに消えるところが上々。玉幸の平太郎も欠陥はないのだが、あれだけ型通りに遣われると何とも申し上げようもない。ところで、この「木遣音頭」はなるほど佳曲ではあるが、今以て学校音楽指定鑑賞教材として鎮座ましましているというのは何とかならないものか。いわゆる戦後教育の中で生徒さんに聞かせるのに一番無難だということがあったのだろうが、ビデオも一般化した現在にあっては、やはり他の教材に差し替えて然るべきだと考えるのだが。もっとも音楽の先生方は西洋音楽至上主義で日本の伝統音楽芸能などの教材研究に時間を割くことなど考えられないから、結局のところ誰かが文部省にでも働きかけるかしか方法はないのだろうなあ…
 

「紅葉狩」

 この景事に三味線シン団六二枚目燕二郎、もったいない無駄遣いというところだが、今回は大夫も人形も大車輪で、存在感のある物に仕上がったので結構であった。団六そして燕二郎あるゆえにユニゾンでも厚みと幅が出る。替え手も派手ではないがまさしく風に舞う紅葉の如く耳にちらちらと照り映えたのは流石である。調子の高さも絃張り強きが故に右にも左にも手厳しいはずだが、それを感じさせなかった。三枚目の団吾も琴の団市清志郎も佳。大夫も津駒三輪のコンビが一杯に奮闘したし、南都も荒っぽいが山神の威を表現したものとして聞くことができた。腰元の新始もどうということはないが前へ出る語りがよい。人形は玉女の惟茂が検非違使かしらの性根で大きく風格あって遣えていたし、山神の文司もまた切れ味が見えた。退場はもっと派手でもよかろう。丸目の鬼若であるし。腰元二人玉英簑二郎はここらが平気で遣えてくれば前を行くのは和生と勘寿である。そして何よりも一暢の更科姫というより鬼女が素晴らしかった。品位をわきまえた遣い振りには定評があったが、ここのところ三枚目のチャリ首を遣う機会が多く、その動きにも面白さが見えてきたが、今回鬼女となってからの派手な立ち回り等に亡父亀松の面影を見たのも幻覚ではあるまい。一皮めくれて次なるステップへの発展が期待できる喜ばしい遣い方であった。左の清之助は主遣いの時の的確さを思わせるし、足の一輔も息が合っていた。全体を通じ第一部の追い出しとして絶好の出来であった。
 

『平家女護島』

「六波羅」

 若手修行の場。まず三味線の八介がよくとりまとめ全体の流れを弾き分けて示した。人形の玉女はここでの主役能登守教経の座頭文七首を遣って合格。智仁勇いずれもにじませて次々代の座頭二代玉男か。もう一人は有王丸の清之助で、常に端正な遣い方がこんな動きもちゃんとこなす。もっとも怪力とまでは至らぬが。和生のあずまやは大和撫子貞女なり。ここに芯の強さも表現できれば言うことはない。玉松の清盛は「老耄廃忘」をよく映したが「入道かつと顔色かはり」等は物足りない。続いて大夫陣、教経の貴は力あったがいつもの語り口。有王丸の津国はニンであるからのみ。あづまやの文字久が一番浄瑠璃らしいが詞も地色も地もべったり、いつもの平板さから抜け出せない。清盛は松香でさすがにベテランだが、あずまやの首を見るまでと見たあとそして教経にやりこめられる前と後との変化に乏しい。咲甫は歌と女房とを耳触り良く聞かせるが、いつものねち練り流と一目瞭然なのは逆に耳障りの恐れなきにしもあらず。文字栄は大きく前へ出るようになったが、さあこれからが浄瑠璃になるかどうか。呂茂相子ともに良質だが、呂茂はフシ落ちが少し変だし、相子は詞の方が面白そう…との寸評よりも、近松の詞章に興味が引かれる。教経が語る「一門の棟梁国家の固めいかなる非道をのたまふとて汝等風情が利を利に立てさせ清盛入道が利を枉げて天下の仕置立つべきか」という言葉は現代にもそのまま当てはまるではないか。政治の現実とはどのようなものであるかを鋭く見抜いている。あとは清盛をおちょくる仕方が見事。生首を以て「サアお盃の相手それ御銚子御肴ただしお寝間の新枕か」とは傑作この上なし。近松のブラックユーモアもなかなかである。さすがは国際クラスの劇作家である。

「鬼界が島」

 「人間的な俊寛像」−確かに今回はこの一語に尽きるだろう。しかしこれはプログラムの解説にあるように近松の戯曲に元々存在するものではない。住大夫の浄瑠璃と文雀の人形とが描いて見せたものこそが「人間的な俊寛像」なのである。古靭太夫初代栄三、そして越路大夫玉男と繋がる系譜とはまた別の新たな(現代的な)行き方を示して見せたと言ってもよい。例えば冒頭の謡ガカリから始まる描写は、古靭の場合は絶海の孤島鬼界が島とそこに登場する俊寛を外側からいわば浄瑠璃世界の神の立場から突き放すものである。一方住大夫はそれを俊寛自身の身と心とを通して見た風景いわば俊寛の心象風景として描いて見せたのである。詞章には「われを問ふやらん」「俊寛が身に白雪の」とあるから後者の方が的を得ているように見えるが、前者の場合われとはたった一人の人間存在というものを一人称代名詞を用いて表現したものと解釈できるわけで、それはすなわち孤独な自我として抽象化されうるものである。後者の場合は当然俊寛本人の自称ということになる。また、俊寛が身の部分は前者の場合そのわれとは即ちこの劇中にあっては俊寛という男身に相当するということであり、後者はこのという言葉を添えてこの俊寛が身とすればよくおわかりいただけると思う。人形もまたその語りをふまえて遣われる。玉男の俊寛が一種求道者の風格さえ漂わせた精神力で生きている人間像であるのに対して、文雀のそれは文字どおり「憔悴枯稿」の流人であり最愛の妻あづまやとの再会を心待ちにする生身の姿なのである。観客もまた同様である。前者の場合は俊寛が初めて詞を発するまでは具体的な物語に入ることができないでいるのだが、後者の場合は謡ガカリが済めば俊寛の立場境遇に感情移入することが可能なのである。以下段切りまで全体を通して後者の場合はその依拠するところを「俊寛も故郷にあづまやといふ女房明け暮れ思ひ慕へば夫婦の中も恋同然語るも恋聞くも恋」という典型的な詞章に求めている。それゆえに「瀬尾受け取れ恨みの刀」の一杯の語りと遣い方は最愛の妻あづまやを踏まえてのものとわかるのである。そして最後の「思ひ切つても凡夫心」とは具体的な俊寛自身のものとして描かれるわけで、それ故に文雀は詞章「浜の真砂に伏し転び」の通り崖からずりおちてかっぱと伏す俊寛を見せもしたのである。最初の赦し文に漏れたときの激怒から自虐への表現も、さらには「飢ゑに疲れし痩法師」俊寛が瀬尾を仕留めた時のあの鮮やかな動作瞬発力の根拠もそこにあったに違いない。今回の「俊寛」がもたらした感動はいわば絶対自としての感動、つまり生身の俊寛最愛の人を失った俊寛という具体的な人物の思考や行動を通してもたらされた感動といえるだろう。だから場合によっては、「互いに未来で未来で」で終わった方が未練がましくなくより格好良かったのではないかとの感想も漏れ聞こえてくるかもしれない。そして一方の「俊寛」は絶対他としての感動ということになる。もちろんそれは他人事として受け取るなどとは全く異なる物謂いであるのは当然であろう。生まれる時も死ぬ時も一人、絶対的な孤独者としての人間存在が、実際に肉体を持ち感情を持ち日々の生活を恋愛社会政治その他もろもろの他者との関係性において条件付けられたその内側で営まなければならないという事実。それを真実として一つの浄瑠璃に結実させ、演劇という非日常的な外部空間に描いて見せた近松門左衛門という人物の力量をあらためて思い知ることになった今回の上演である。
 さて、全体的に感動の好演であったのでそれについてはもう触れない。以下こまごまと気付いた点を列記しておく。住大夫(錦糸)は本番では時間が伸びる傾向にある(つまり現代の観客にもわかりやすくたっぷりと語る)のだが、今回はむしろ逆であったのはこの近松時代物二段目切に相応しいあり方だったといえよう。瀬尾の表現の巧みさは越路大夫を確実に上回るし、格闘後の息切れの表現なども見事であった。錦糸の三味線も地色のあしらいをうまくたどって大夫を助ける。千鳥のクドキにおける四つ間の繰り返しも良く、情感を描出するのに成功していた。人形では紋寿の千鳥が登場するところで見事に色彩感(全島墨中紅一点)を出していたし、玉輝の康頼は菊の酒盛の直後沖を見渡すという手順が詰まって遣い難いところも慌てず騒がずにやってのけたのも見事、勘寿は若男、玉幸は大舅をそれぞれの性根を踏まえて的確に遣った。簑太郎の丹左衛門は実にいい男である。「心ある侍」まさしくその通り。また新工夫も見られた。「船よりは扇を上げ陸よりは手を上げて」のところでその扇を少将成経に手渡して上げさせるようにしたのは流石である。「互ひに未来で未来で」とある通りなのだ。その間丹左衛門は寄り目動きのアオチで俊寛の覚悟を武士の胸に刻み込むという型を見せる。さもありぬべきだろう。ただし、少将から乞われて扇を渡すというのはいただけない。あくまでも上使と流人である。少将が丹左衛門を善人と見ての甘えも見苦しいし、乞われて気付く丹左衛門もぶざまである。ここはやはり船上から必死で俊寛に応えようとする少将を見て所持の扇を手渡してやるとすべきであろう。
 最後に。段切りの柝頭がチョンと打ち鳴らされたとき、観客はどちらの視点であったのだろう。俊寛とともに帆影が吸い込まれた水平線を見つめていたのだろうか、それとも高みにひとり残された俊寛を絶海の孤島に見下ろしていたのだろうか…今回は舞台を回転させない演出もあったのではと思った次第である。
 

『心中宵庚申』

「上田村」

 近松物それも改作もなく新作曲でもない作品は綱清二郎コンビをおいてよりほか人はいない。この地色の処理こそ故師綱大夫と弥七とがともに極めたものをきちんと伝承している証拠である。さて今回綱大夫は親平右衛門でこの浄瑠璃を括る。もちろん姉おかるの気働き積極性社会性も描き出したし、妹お千代の魅力=男を惹き付ける無意識の媚態・自他が見えなくなるしどけなさも表現し、源太かしらの元武士今は町人半兵衛の若さ端正物堅さも出来たのだが、やはり平右衛門が語れていればこその「上田村」であった。だから調子が出てきたのは平右衛門が起き出してからであるし、「慎み深い堅親父悪口交りの口説き泣き」で終わるあの長い部分こそが最上の出来なのであった。マクラも「万事限りの俄病」がとりわけ印象に残った。この浄瑠璃は泣き落としの手もなければ地と詞との鮮明対照もなく、筋立ても地味一方である。つまり地色が活かされ滋味が溢れ出なければ、観客は皆うとうととするばかりであるわけだ。清二郎の三味線あしらい結構。手が回り弾き倒すだけではどうにもならないということがよくわかる。人形は文吾の平右衛門、一暢のおかるに簑助のお千代、そして玉男の半兵衛いずれも前述のポイント性根を掴んで隙がない。見事なものである。ただし、段切りで平右衛門が最後立ちかねて倒れかかり姉おかるの肩を借りるというのは今更の遣い過ぎであろう。「灰になつても帰るな」これでもう平右衛門は終わっている。立ちかねてそのままおかるの肩を借りるだけでよい。詞章の最後にある四つの名残とはそのまま四人の別れなのである。ここは浄瑠璃に任せればよい。観客の目を引く動きは邪魔になるだけだ。邪魔と言えば冒頭の綿を繰る三人の下女の仕草にも許せないものがあった。床が「平右衛門といふ大百姓」と張って語った後「妻は去年の秋霧に消えても残る娘二人」と沈んでから再び娘の描写へと移る肝心の所で、あろうことか笑いを取ろうとしたのである。綿車が堅く廻らなくなったので手で叩いたら逆に痛くなり、別の下女の手を借りてようやく廻ったら今度はその反動でバランスを崩すという、ありふれた、くだらない、何の意味もない、愚劣な、浄瑠璃を知らない、目立ちたがりの、自己満足を鼻にかけた、作品世界を台無しにする、独りよがりの、床を愚弄する、ばかばかしい、首落ちものの遣い方をやって見せたのである。直接手を下したのは一名であるがここの下女は三人一組の為所であるから当然連座制が適用される。この若手が一人前になったとしたら、文楽は人形劇としてさぞ面白いものになっているのだろうなあ。なお金蔵の玉也はこれが本役と思われる。

「八百屋」

 近松の詞章を見るべきである。この最晩年の世話物は実に軽いタッチで書かれている。まずは自作の宣伝文「筑後の川中島の四段目からでたことぢやげな」しかもそれを「外へ出ればまた有難いことも聞く」とは。そういえば中の巻にも「『網島の心中』もござんする」とあったが、それはまた「父様の傍にあるまい」であるから、この本の魅力には堅物平右衛門も抗し難かったというわけだ。次に洒落のオンパレード。これはわかりやすいので観客の反応が鈍かったところを。「南無阿弥陀仏に取交ぜてぶつぶつ言うて出でにける」「嫁は知らぬと思込むこればつかりは仏なり」等々。そしてズバリ突くところは突いてあり実に冷徹。「とんと座りし茶釜の前湯を沸かして水になる末知らぬこそ果敢なけれ」など厳しいものである。
 もちろんその詞章を活かすも殺すも床次第。嶋大夫はこの浄瑠璃を切場の語り物にまで高めた越路師匠の預かり弟子として実によく稽古をしたに違いない。清介もまた故喜左衛門の節付けの妙を弾き分けんと努力したものであろう。以前ならここが良いここは悪いといちいち書かざるを得なかったが、もはやそれは紙面の無駄。敢えて言うならば世話物辛抱立役の半兵衛をもう少し端正に、「アイアイ、お傍へ参ります」にお千代の心思いを含ませるべき。逆にマクラの「筵庇に避けられし日影の千代が舅の家は新靭」お千代の出の「五月の重き身ながら足許も手も軽々と帯の下〜」の足取り間カワリは出来たし、西念坊の登場をその直前「ところへ」の詞一つで表現できるまでになったのだ。それはまたここのところ相三味線格の清介に拠るところも少なからぬのである。人形は玉男と簑助が超絶的。この二人が遣うと半兵衛お千代は紛れもない実の夫婦である。「上田村」で述べた人形の性根が捉えられていることなど言うだけ野暮である。これでこそ人形は浄瑠璃の邪魔になるどころか近松の詞章を確実に際立たせてくれる。これもまたどこが良いなどと書き出せばきりがない。とりわけ死を決意した段切りの場面では夫婦の情愛が手に取るようによくわかったとだけ記しておく。これでこそ次の道行にも付き合おうと観客は思うのである。勘寿の母も遣い過ぎずかつ的確。ここのところ一時の停滞感を脱したかに見える。先を越された和生に追い付いたろう。

「道行思ひの短夜」

 これまた近松の詞章は用意周到である。「可愛やお腹に五月の男か女か知らねども」全く遣りきれないがその通りであるし、「思切つても四苦八苦手足を足掻き身をもがき」生々しく重苦しいが心中死とはそのようにもたらされるものなのだ。そして切腹する半兵衛には杉森信盛としての筆を重ね合わせてみるべきだろう。そしてまた辞世の二首目「遥々と浜松風に揉まれ来て涙に沈むざざんざの声」、武士を捨て生き馬の目を抜く大坂商人としての成れの果ては婚礼の謡も死出に際して思い起こす故郷遠州の風音となる。「三国一ぢやわれは仏になりすますしやんと左手の腹に突立て右手へぐわらりと引廻し」とはまた、婚礼の祝詞と手締めとを二重写しにして擬音語とともに半兵衛を切腹させるものである。
 現行曲は原文を裁断してはいるものの改悪はせず、本文の主旨は押さえたものとみてよいだろう。床の小松はかえってその声が心中場のお千代にはまっていたとも聞こえたし、英もまた半兵衛の性根を表現できた。三枚目の呂勢は道行の情景描写をその美声を以て表現したが、その語り口も語り方も師匠そっくりだったのはむしろ好ましいものと映った。また、道行に並ぶ者の心得としてシン二枚目とわずかに頭を遅らせて語り出すという鉄則も守っていたのは、ちらちらと左手に注意を怠らなかったことからも明白であった。つばさ睦ともにまっすぐな語り口でよろしい。三味線はシンの団七が気合いを持ってこの生々しい道行をリードし、心中場においても写実に弾いた行き方が当を得ていた。弥三郎もよい。清太郎喜一朗ともにツレとしてよく支えた。清馗は不分明だが全体として三味線陣は充実した緊張感のある音を出していた。そして人形は玉男簑助に尽きる。この近松最晩年の世話物における徹底したリアリズムを表現仕切ったのはこの両人である。恐るべし恐るべし。百万言費やすよりも一度見られればすべては理解されよう。玉英は前述、勘弥もそれと同断。
  最後にお千代半兵衛心中の原因であるが、詞章を読み通せばそこここに書かれてあるから詳述はしない。ここでは三十代前半女性の解釈をお目にかけておく。心身症に陥った元武士今町人の男と自分も他者も見えない女それは大百姓の次女。ただ一つ言えることは「帯屋」とは舅も姑も異なっているということ。「八百屋」冒頭の詞章を見れば姑に罪はないことは一目瞭然である。さらに、封建社会における家族制度の問題と言ってしまえば、それは中高年の自殺は現代日本における社会システムの問題と言うのに等しく、何も語っていないことになる。また現代の嫁姑問題にも通じる普遍的な内容になっていると言えば、それは近世日本を現代日本と断絶した不可解な暗黒時代とする物言いに他なるまい。近松の筆はそのような解釈を全く意に介さない実に痛快な、そして人間という存在を完全に知り抜いたものなのである。