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【 小言諫言仕置場 】


心中場  投稿者: 勘定場  投稿日: 4月10日(日)22時32分41秒

「曽根崎」は「恋の手本と成りにけり」とあるように(現行は改作〔悪〕だが)、
純愛を貫いた二人の最期は、あのように美しく感動的な舞台演出でよい。

「天網島」の小春は急所をはずれてのたうち回り、治兵衛は一人風に吹かれるぶらり瓢箪、
これは「悪所狂ひの身の果てはかくなり行くと定まりし」とあることからも明白、
もっとも単なる固定的な倫理・道徳的な価値判断から近松は描いているのではなく、
人間として「仏は愚か地獄へも、コレ暖かに二人連れでは落ちられぬ」のである。

「宵庚申」半兵衛は毛氈の上で切腹するが、所詮笑止な擬態に過ぎない。
八百屋の段切で「この世を去る、輸廻を去る、迷ひを去る」と庚申の晩に掛けた詞章が、
「遥々と、浜松風に揉まれ来て、涙に沈むざゝんざの声、三国一ぢや、われは仏になりすます。
 しやんと左手(ゆんで)の腹に突立て、右手(めて)へくわらりと引廻し、
 返す刃に笛掻き切り、この世の縁切る、息引切る、哀れなりける」と心中場を終わらせる、
恐ろしいまでに現実を見切った、冷酷とまで感じさせる、近松究極の筆であろう。
そういえばこの二人の心中は、嫁が姑の気に合わないというただそれだけのものであったのだ。

それに比して今回の「道行」の詞章と人形の演出との関係には何の意味も…、
いやいや、近松を引き合いに出す方が間違っているのだろう。
ともかく、二度と見る気はない、くどいようだがこれだけは断言しておく。
(せめて詞章通り一気に死ねば、千日前の処刑場も資料的価値として見られたろうに…)
 

下馬評 投稿者:勘定場  投稿日:11月15日(月)22時11分29秒

可:しかし何だな、お上の御威光てのは凄いもんだ。
関:今更何感心してんだ、おい。
可:いやね、これでやるよって言ったら、三業は嫌も応もないんだと。
関:何だ、その話か。
可:俺だったら、黙っちゃいねえが。
関:役不足にも給金にも文句一つ付けねえ、それが一流の芸人ってもんよ。
可:けどなあ、あんな非道い本をまんまやっちまったら、痛くもねえ腹を探られることになるぜ。
関:どういうこった。誰が腹探るんだ。
可:お客がね、床も手摺もヤな奴だと。
関:どうもお前の言うことは読めねえなあ。
可:人形、うまくサボりやがったなあ。この間に飯食ってんのか、ご贔屓さんのお相手か。
関:おいおい、そりゃ失礼だろう。第一、師直役者に限ってそれはねえな。
可:太夫、師直は厄介だから伴内でどっさり前受け狙いって訳ですかい。
関:随分じゃねえか。真面目な若手を茶化しちゃいけねえよ。
可:いやね、この本が出来た切っ掛け、案外そんなとこだったんじゃねえのか。どっちにしたって。
関:ほう、お前にしちゃあ気の利いたこと言うねえ。
可:こんな邪推されちゃあ、たまったもんじゃねえだろ。
関:けどよ、お上の御威光ってお前が言ったんだぜ。
可:李下に冠を正さず。瓜田に靴を入れず。黙ってちゃいけねえな。
関:何だ、急に講釈師みたいなこと言いやがって。
可:だから、一言言ってやる奴がいなきゃいけねえんだよ。
関:じゃあ、どうすりゃいいってんだい。
可:さあね、それこそ下馬先じゃねえお城のお歴々方に頭突き合わせてもらわねえと。
関:お、今日のお前、なかなか冴えてるねえ。
可:そう言や、インターネットとやらで文句付けてる奴がいたっけか。
関:ダメダメ、あんな便所の落書き、誰も相手にゃしてねえぜ。
可:そりゃそうだ。
関:結局、可介はこの関内様だけがお相手ってことか。
可:まあな、これ自体架空のネタなんだから。
関:それを言っちゃあお終いよ。
 

下馬先尋問 投稿者:勘定場  投稿日:11月15日(月)18時39分59秒

「下馬先であるのに駕籠で行くとは何事か」
 ―ここがまさしく下馬先でして…
「判官は歩行で登場するではないか」
 ―師直は駕籠のまま登城するほどの威光を示す我が儘者で…
「詞章に『権威をあらはす鼻高々、花色模様の大紋に、胸に我慢の立烏帽子』とあるではないか」
 ―詞章通りに人形が動くということもないんで…
「『大名小名美麗を飾る晴れ装束』『正七つ時の御登城』の中、
 師直主従の権柄なる姿を有り体に見せることこそが、作者の真意ではないのか」
 ―真意とか小難しいことを言われても…
「次段冒頭に『程もあらさず入来るは塩谷判官高定。是も家来を残し置、乗物道に立てさせ』とあるが」
 ―え、それはこの段とは直接関係は…
「『是【も】』だ。明らかに駕籠のままの師直では詞章に破綻を来すが」
 ―(そこまで読まないといけない?オレは太夫じゃないよ)…
「『四足門の片蔭に主従うなづき話あふ』『主従刀の目釘をしめし手ぐすね引いて待かけゐる』と二度まで書いたのは、
 大舅首の師直と伴内の性根を手摺でもきっちり演じさせ焼き付かせるためではないのか」
 ―(詞章を変えると改竄だと騒ぐじゃないか)…
「『師直は開いた口ふさがれもせずうつとりと、主従顔を見合せて、気抜けのやうにきよろりつと、
 祭の延びた六月の晦日見るが如くにて、手持無沙汰に見えにける』
 この詞章こそ師直の人形なくしては決して叶わぬではないか」
 ―いやもう、すべて伴内によって代表させるということで…
「大序で師直の醜悪なる権力欲、色欲を描き、この一段で金銭欲を露骨に見せる。
 ここは師直の性根を客席に印象付ける、決定的場面ではないのか」
 ―(…)…
「師直の詞を伴内に振り替え、アラの出ないよう誤魔化しの改変はしても、伴内の詞とするには矛盾ならびに不具合だらけだが」
 ―鶴の真似する鷺坂伴内ということで…
「『イヤ陪臣のそれがし御前の畏れ』これを伴内に言っては強烈な皮肉になるだけだが」
 ―(知るか、そんなこと)…
「袖の下を要求してから目録を読ませる現行演出では尚のこと、『にはかに詞改めて』は師直でしかあり得ないのだが」
 ―そこまで気にするお客はいないと思いますよ…
「では何か、客がわからなければ詞章も節付も勝手にしてよいと言うことか」
 ―(…)…
「この『忠臣蔵』、序詞は礼記の引用で始まる。郷右衛門は『渇しても盗泉の水を飲まず』と勘平に語る。
 それを建てる側がかくもいい加減で、よくまあこの『忠臣蔵』を出せるな」
 ―お言葉ですが、もともとこういう台本があるんで、今回はそっちでやってみただけです…
「ほほう、では前例あるものはその内容に検討を加えることはないと。制作とは部品組立の雅称か」
 ―公務多忙ですので失礼します。私どもは文学研究者でも芸大出身者でもございません!
 

素通り狂言 投稿者:勘定場  投稿日:11月11日(日)10時01分28秒

今回パンフレットや各種チラシ等で「通し狂言」に対する言い訳が散見された。
とくに前者では「より深く楽しむために」という中の一項目のトップにわざわざ置き、
−「通し狂言」とは、特に時代物の狂言について、大序から大詰まで全段を通して上演すること。−
−現在では上演時間の関係上、「通し狂言」と銘打っていても、全ての段が上演されることは少なく、
 今回の上演も初段・五段目及びいくつかの場面を割愛している。−との記述がある。
(「鑑賞ガイド」にも−現代の観劇事情を考慮して初段のほかいくつかの場面を省略する云々−とあり。)
それにしてもまあうまく(問題をすり替え、本質を誤魔化し)書いたものである。
とすれば、何か、
今回の建て方は『忠臣蔵』で「天河屋」や「討入り」を省略するのと同じだと言うことか。
まあいいだろう。(もとより、言い訳の作文は官僚の最も得意とするところだから。)
しかし、いつか心ある観客がどうもおかしいと感じ、事の真実を探し求めた時のために、
この場でははっきりと書き記しておく。

確かに今回の『廿四孝』はとりわけその三段目を中心に十分楽しめた。
いわば望遠鏡で太陽系の惑星の数々を目にし、
金星の輝きと満ち欠け、火星の極冠と妖しい赤、木星の縞模様と惑星たちの戯れ、
土星の輪の神秘、そして地球の水と緑の美しい青、…
それぞれに感動をするようなものだろう。
しかし多くの人々はその惑星の多様な姿を見ていくうちに、
その小宇宙全体を覆う神秘とそれをもたらしているものに思いを馳せるはずだ。
それは理論としては確かに難しいし、容易に目に見えるものではない。
中心を貫く心棒のようなもの、その法則性。
しかしもしそれが存在しなければ、
その美しい惑星たちは求心力を失い四散してしまうのだ。
(『忠臣蔵』の例は、天王星以下は同様に想像していただきたい、ということにでもなろうか。)
もちろんそれをそれとして明確化できるのは物理学者や哲学者であろうし、
その感動だけで十二分にすばらしいものである。
しかしそこにはあくまでもそれが一本通っているからこそ、
浄瑠璃という小宇宙の感動となるのであって、
別に見えなくてもいいからとその心棒を抜いてしまうという行為が、
それが造物主=神であればなおのこと、
当然するはずのないあり得ないことであるのは説明するまでもないだろう。

今回の建て方にどうしても「通し」という表現を使いたければ、
「素通り狂言」とでもするのがよろしかろう。
もちろん他動詞としての「通す」を使うことなどもってのほか。
せいぜいが自動詞「通る」を以て第三者的傍観者となっておかれよ。
 

漫罵の調べ 投稿者:楊柳子(2001.11.10)

「自己他者関係不全症候群」
「千人を殺さば巨悪、万人を殺すは正義」箴言なりき
「大量破壊兵器で世界を脅かす責任を追及」されぬ国あり

「世界湖沼会議」
隷属はこの民にのみあるものを鮒喰はれゆく古代湖の澱(おり)
貪欲を止どめはせじなこの国とこの地球(ほし)すべて喰ひ尽くすとも
必要は発明の母 欲望も滅亡の母 快楽の国

「京都議定書」
トラックで運ばれ来たるカニ鍋にCO2の闇を貪る
使い捨ての地球にすがる民あわれ進化するヒトは宇宙を目指す

「京都迎賓館」
国賓に供す薄茶の名水は硬度も高きミネラルウォータ

「ニッポン・チャチャチャ」
RV「I love nature」のロゴ標は踏みにじられた自然の血の色
去年までイルミネーション自粛せず見ぬこと清しゼロサム社会
反省を互いにとする歪面に責任というベクトルを射む
保安官! キャッチボール!!の悪ガキは強きを幇け弱きを挫く

「グローバリズム・ブラックホール」
黒色液の赤いラベルを握る時ジュリアン=ソレルの哀しみは無し
ファストフードうましと語る舌先は今ぞ真理に化ける逆説
願いましては地球は狭いと歌うなりネズミ算のみ定理の世界

「パクス・アメリカーナ」
じゃんけんもせず阿弥陀籤も引かぬなり常勝という正義ぞ我は
正義なる白衣を纏う国益の癌深々と地球を侵す
暗闇に文明の光炸裂す今日も数多の魂(たま)を消し去り
ユニセフへ託す貧者の一灯を掻き消すがごと爆風興る

「漫罵」
売国奴とは愚かなり彼等こそ売国土たる亡者にあらずや
ペンは剣よりも強しと信じつつ脅迫メールを激励に読む
 

他山之石 投稿者:楊柳子(2000.10.02)

某会館友の会ニュースに関西の演劇時評が掲載されている。
平成6年の第1回以来今月号で81回を迎えた老舗評だ。
その中で文楽公演を取り上げているものについてはすべて保存しておいたのだが、
今回そのすべてを廃棄することにした。
ここ数年の評にもならぬ評、というよりも寄合酒のアテを突つきながらの駄弁程度にしかその意味を見出せなくなったからである。
その浅薄さは例えば今月号に掲載された夏公演評(?)の一部をご覧いただければ容易に分かる。

 A 「…まず子供向けとして木下順二の『瓜子姫とあまんじゃく』と『膝栗毛』。夏休み向けにしてあるわけです。」
 D 「今頃の子供は弥次喜多なんか分かるんでしょうか。」
 C 「分からないかもしれませんね。」
 B 「『瓜子姫』は武智鉄二演出とありますが、どれほど初演の演出が現在にも残っているんでしょうか。」
 C 「随分かわっているでしょう。それで、なお武智鉄二演出と言ってよいかどうか。
    著作権などははっきりしていますが、演出権の問題はむずかしいですね。」
 A 「二部は『鎌倉三代記』です。」
 B 「文吾、玉男、簑太郎という人物はそろっています。」
 C 「太夫が次々と変わるのが多少問題かなと思いました。」…以下第三部。

もちろん掲載原稿の字数制限があるから、この談義が氷山の一角に過ぎないことは承知しているが、
それでもどの部分を水面上に浮かび上がらせるかについては当然自由裁量のはずである。
その浮上させたものがこれである。
水面下は推して知るべきだろう。

「いや、現在の文楽自体を評として取り上げると、こういう話柄より他どうしようもないのだ。」との同情論があるだろう。
しかしその発言は、この時評に併載されている歌舞伎評や新劇評と比較していただければ、直ちに撤回していただけると思う。
更に言えば、「文化の世代間断絶や著作権問題に触れている斬新な内容だ」との擁護論に対しては、
その斬新とおっしゃる斬り口のなまくら加減をとくとご覧いただきたいと言えば済む。

「他山之石、可以攻玉」とは『詩経』に記され、夫子の謂いでもあるのだが、
もはやこの時評は、人形浄瑠璃に関する評論としては勿論、文楽評としても、もはや他山之石ですらない。
拠って茲に全てを破棄することにしたのである。
もとより、以て攻くべきもの「玉」に非ざるが故の所行、とは言わずもがなであるが…。
 

三題噺 投稿者:楊柳子  投稿日:06月25日(日)22時39分35秒

最近のTVに関する話題を。

映画「となりのトトロ」(TV放映)の紹介文
 母の入院で父と田舎に引っ越してきた幼い姉妹は森に住む不思議な生き物と友達になる。
 古い農村への郷愁と幻想に満ちた宮崎駿の秀作アニメ。
私などは「原点」であると考えますが。日本という座標軸の。
ところが記者子にとってはもはや過去のことであると。
「昭和40年代を以て日本の伝統継承は断絶した」(司馬遼太郎)との言が身に沁みる。

能楽「松風」(NHK教育)の詞章字幕
 現代仮名遣い表記という愚行。しかも、それならば、
 「いで参らう」は「参ろう」のはず。
 「立ち帰り来ん御おとづれ」は「おとずれ」でしょう。
 「立別れ稲葉の山の」これでは「往なば」と「因幡」の掛詞が台無しだ。
すべて古典的仮名遣いを切り捨てられぬ証拠の最たるものではないか。
例えば、同じ百人一首実方中将の和歌を如何する。
「えやは伊吹のさしも草」「燃ゆる思ひを」
「言ふ」なればこその「伊吹」、「思ひ」に込められた「火」の有効性。
これらを現代仮名遣いで吹っ飛ばしてしまうおつもりか。
昨年奥州名取にある実方中将の墓に詣でたのだが、
もし今年参っていれば、怒りの余りに塚は動き、その霊魂は忽ち近畿を目指したかも知れぬ。
これほどの一大事、制作担当たるきんきメディアプランは何とも思い至らなかったのか!
実に狂気の沙汰である。
が、私ならば、演目が「松風」であればこその狂気、と嘯いても見せようが、
これもまた何のことか、制作担当はさっぱりお判りにはなるまいな。

「質屋蔵」(NHK大阪放送局開局何周年、あとは何とかという横文字言葉の番組)
 故桂枝雀の口演。
 例によって客席大爆笑。若い観客も多かった。
 ところが肝心のオチが理解できずに笑えない。
 掛軸の菅公が抜け出して質屋の主に「また流されそうじゃ」と宣うたのだが…
天神様と成り給うてより一千年。
その近々十年に至って筑紫流罪が常識とならなくなっているのだ。
そう言えば先日、ファンタジーに興味がある高校生に、
日本でも龍退治の話はあるのだと語ったら驚いていた。
ドラゴンクエストは西欧の特許だと思い込んでいたらしい。
異文化によって無理矢理封じ込めらた50年の時は重い。
しかも今や自国民が自らそれについて語るのをタブーとしているのだ。
某国大統領に「汝を日本州知事と為す」と言われてニンマリする人物が登場する日も遠くなかろう。
たとえオロチが怒り狂っても、世界最強の無敵軍隊が苦もなく退治するというわけだろうな。

「馬鹿三つ見つけて怒り要らぬ世話」(当世)
 

ホンモノの形而上学 投稿者:楊柳子  投稿日:05月26日(金)18時16分34秒

まずは以下の文章を読んでいただきたい。

「壺阪寺」(日本最大の某私鉄西日本分割支部の旅広告)
 室町時代創建の三重塔と礼堂など、境内の随所に風格が漂う古刹。
 本尊の十一面千手千眼観世音菩薩にまつわるお里・沢市夫婦の愛の物語は歌舞伎等で語り継がれ
 眼病平癒の観音様として広く信仰されています。
 例年6月下旬〜7月上旬頃には、約5000株のラベンダーが境内のあちこちで咲きます。

「きのうへ行こう。」(某マヨネーズ会社のイメージ広告)
 はじめての土地へ行くときは、小さなスケッチブックとMDウォークマンを持っていく。
 スケッチをすると克明に見たという感じがする。ベトナムでの音楽はサンバがいい。
 ブラジルと湿度が似ているからだろうか。旅先では主に野菜は食べた。米と少しの鶏。
 それはもういない祖母がつくった日本の水田地帯の食事に似ていた。
 わたしの体質にきのうのゴハンは向いている。
 日焼けした肩。薄いお腹。バーガーは当分、食べない。

似非伝統回帰とはまさしくこれらの謂いだろう。
「聞き分けのなさ」はここでも如実に表現されていて、
耳はしっかりと塞いでいても結構らしい。
もはや馬鹿馬鹿しくてとても付き合ってはいられない。

そこへもってきて「神の国」がどうとかこうとか…
とんでもないことだ!
現代日本がもし正真正銘「神の国」だとすれば、
その怒りによって天変地異はとどまるところを知らず…

以上、『源氏物語』の読み直しを始めている者の駄文である。
 

北鵠南矢 投稿者:楊柳子  投稿日:04月16日(日)19時54分38秒

再び某紙夕刊より
 国立劇場曰く「人間国宝が至芸を披露しても客席ががらがらでは」
これは事実だから置くとして、敬遠された理由を
「公演時間が長いうえ、夜は劇場周辺が暗いこと」とし、
「時間を短くし、ロビーの照明を明るくした」とある。
後者はさもあろうが、前者は我田引水の論だろう。
本公演(入れ替えはあるものの)は勿論、正月公演にしろ、
第二部の内容の希薄さはどうだ。
浄瑠璃作品の世界観を提示することのない「目で見る文楽」「聞き分けのない狂言建て」…
自己の居場所を喪失して彷徨う現代日本人に今一番必要であるもの、
それが大きな物語世界であることは論をまたない。
そしてそれはミドリ建てで芸の切り売りをしてみせるのでは到底不可能である。
マクラと段切りによって初めてそれと位置付けられる、
浄瑠璃作品世界を提示することによってのみ可能なのである。

閉塞的な日常性によって窒息しそうな現代日本人、
歌舞伎や現代劇はそこに酸素を供給することによってそれを救おうとするが、
所詮は対症療法である。
我々の小宇宙が永遠無限の時空間つまりは大宇宙の中に位置付けられていること、
それを提示しその相互包括関係に身を委ねることを再認識させることにより、
個々の傷ついた魂はその時空間に開放されることになるのだ。
それは能楽やなによりも人形浄瑠璃こそがよく為すところである。
閉鎖的日常性をバブルで膨張させ、ニセの永遠無限で欺いていた20世紀末、
しかしそれも今年でいよいよ決定的終焉を迎えるのだ。
人形浄瑠璃の世界観を共有できない日本人は新世紀を迎えることは出来ない!
これは当然の結論である。
(ちなみに東京国立は9月、今世紀最後の『忠臣蔵』、またしても「梅と桜」はカットらしいが…)

 劇場支配人曰く、「今後、さらに思い切ったレートショーを企画し、若い層を取り込みたい」と。
とりあえず若者を世界の入り口まで導くという点からは大いに結構なことである。
7・8月公演の第一部は子ども向け、第三部は若者向け、これは認めよう。
そして徹底的に工夫、新企画をしていただきたい。
そのかわり、あとの公演はきちんとマクラと段切りを備えた通し狂言を中心にし、
人形浄瑠璃の世界観を提示しなければ、
文楽もまた21世紀には生き残れないだろう。
哲学無き新世紀は過去にも未来にもあり得ないのであるから。
 

象徴性 投稿者:楊柳子  投稿日:03月05日(日)16時01分08秒

ある方の御厚意により「源平布引瀧」二段目切場を見ることが出来ました。
木曾の先生義賢という史上でも文学的にもあまり表に出てこない人物が、
浄瑠璃作者の手によって見事に蘇った一段であると称してよいでしょう。

しかしここは「源氏の白籏」の意味を決定付けるということが最重要であると思われます。
ここをカットすると三段目における小まんの忠義衷心衷情も全く無に帰してしまいますし、
何よりも肝心要の実盛が甚だ形式的な人物になりかねません。
例えば「心利いたる実盛がかの白籏を押立つれば」のところ、
「心利いたる」という形容語が何の意味も持たなくなることはもちろんのこと、
「かの」という意味深長な表現などいっぺんに吹っ飛んでしまうでしょう。

そうでなくても現代日本人は自分の狭矮な日常経験において感じ取ったものしか認めないという、
惰弱な物質世界の中に埋没してしまっているのですから、
白籏の「象徴性」を感じ取らせるためには是非ともこの二段目切場が必要なのです。
そうすればかの乃木大将の連隊旗についても思いを馳せることが可能になりますし、
かの軍人将棋での軍旗という駒の存在理由とその実効性や用途についても明確に理解できるのです。
(もっともこの両者のかのが一体何のことを指しているのかさえ理解できない人々が多いでしょうが…)
逆に言えばこの二段目切場が昨今絶えて上演されていないということこそが、
現代日本と日本人の有様をそれこそ「象徴」しているということになりましょうか。

こういうように書き連ねますと、
仮想現実にどっぷり浸かっている現代日本の若者をますます迷い道に誘い込むことになる、
などという苦言を頂戴しそうでありますが、
彼らにとってはその仮想現実といわれているそのものこそが、生の現実なのであります。
ゲームやビデオなどから発信される強烈な視覚刺激を中心とする情報こそ、
彼らの感覚神経に直接働きかけてくるわけですから、
自分では絶対に感じ取ることが不可能な他者の感覚(思いや存在そのもの)などと比べて、
決定的に生々しい現実であることは疑う余地もありません。
それは視覚につぐ感覚受容器官である聴覚神経への刺激、
CD・MDなどを媒体として日々夥しく消費されている音楽(というよりも音の洪水)の存在が、
またその事の真実を決定的にしていると言えましょう。
(微妙で繊細な反応を要求される味覚や皮膚感覚の面に於いて、
 現代日本の若者には障害が目立ってきているという事実もまた、
 それを裏打ちしているということになりましょう。)

今必要とされるのはそんな現実などではなく、
「象徴性」や「想像力」であるということは明らかなはずなのですが、
悲しいかな、日々古典芸能に携わっておられる方々の目も耳もまた麻痺しているという状態なのであります。
 

浅薄の極 投稿者:楊柳子  投稿日:03月05日(日)00時51分00秒

「京都府立文化芸術会館友の会ニュース」という月刊誌がある。
数年以前からその誌上に「関西の演劇時評」なるものが掲載され、
今月号にも「十三夜会・しばい合評」としてその中に文楽評がある。
今回は正月公演「一谷」についての評なのだが、
これがまた北鵠南矢も甚だしい。
 まずC氏「結局、一、二段目は三、四段目への筋売りですね。
     二段目後半の「林住家」は今回上演しない四段目で完結する物語だけに、
     あそこで終わると不消化ですね。」
フン、そう言うなら三、四段目も五段目大団円で完結する筋売り以外の何ものでもあるまい。
実際「林住家」は初心者中級者レベルには手強い作品であることは認めるが、
あなたは仮にも評論家でしょう?
ああ、なるほど!
歌舞伎と新劇で頭の中は一杯で、人形浄瑠璃については「不消化」だと?!
これは、ごもっとも。
 続いてA氏「咲太(ママ)夫もチャリ場を達者に語っていた。」 はいはい、確かにあれは歌舞伎のチョボに近かった。三味線もね。
しかし床に関して彼にしか触れていないということは、
その場(段ではない)に感動なさったということでしょうなあ。
やはり人形浄瑠璃の床とは何たるかについても「不消化」ということで?!

そういえばこれらお歴々は正月公演のあの日、
11列の真ん中で劇場側が用意した招待者専用袋をお抱になって列席しておられましたなあ。
もちろん私は一般客として一人こそっと座っておりましたが。
 

無知の無知 投稿者:楊柳子  投稿日:03月05日(日)00時18分33秒

東京国立小劇場2月公演のパンフレット、
「質店」(住)が切場であるにも関わらず、
次の「蔵前」(嶋)にも切字が表記されていたとか。
担当者の勉強不足。 他に忠告する人もなさそうであるから、やむをえずリンクを記しておく。
難題捌快刀乱麻

「知の知」も嫌味ではあるが、
「無知の無知」などはもう担当として失格である。
もし次に又同様のことがあれば、
直接劇場側に担当者を問い質すことにせねばなるまい。
(もっとも「蔵前」を「質店」の一部と見なし、  
 「質店」とのみ段書きして両氏に共通の切字を付けるのならばわからなくもないのだが、
 このようなことは考えることさえなかったであろうけれど。)
 

昭和も遠くなりにけり 投稿者:楊柳子  投稿日:03月04日(土)23時21分32秒

平成十二年四月公演の第二部は実質的に「目で見る文楽」であり、
人形浄瑠璃の狂言建てもついにここまで堕落したかと嘆息しきりであったのだが、
第一部が「恋女房染分手綱」を通しで出すということで、
これでようやく「鐘入り」も「沓掛村」もあるわいと安堵の胸を撫で下ろしたのである。

ところがこの朝三暮四の目眩ましを食らったために全く気が付かずにいたのだが、
今回とんでもない新聞記事を目にして、これは一言釘を刺しておかねばならないと思うに至ったのである。
その記事は「某大新聞」夕刊(2/10)コラム「観覧者(古典)」(フリーライター井上由理子)と題され、
「立春を過ぎれば、気分はすっかり「道成寺」なのである。」で始まり、
「今年の春は、その舞台が目白押しなのだ。」と続き、
「まさに、道成寺づくしの春になりそうだ。」で終わるもので、
能「道成寺」、文楽「日高川」、文楽の夕べ「縁起絵巻」道成寺住職解説、民俗芸能「道成寺」等々、
この春には「道成寺」に纏わる各種公演が重なっているという内容である。
これ自体は至極妥当なものであり、
むしろ知的好奇心をも感じさせる文章であるのだが、
問題は次の部分である。
 「また、劇中に道成寺の舞台を設定し、鐘の中で能役者が切腹するシーンのある「恋女房染分手綱」も同時に上演。」
要するに、文楽四月公演の「道成寺づくし」、これを咎めるどころか好意的に捉えているということである。
元来狂言建てに当たっては前狂言や後狂言との重複を避け、それと連想させるものも避けるように行われていたものである。
江戸文芸としては至極当然のことである。
俳諧を例に取れば、ベタ付や打越は最も嫌うところであり、そのような付句をすれば芭蕉翁から三十棒を食らうであろう。
今回の四月公演第二部の狂言建ては、前述の「目で見る文楽」といい、この間抜けな仕方といい、
もはや如何ともし難い愚行と断定せざるを得ない。
それを新聞記事が賞賛して煽り立てるという構図は、
伝統の破壊、文化の衰退、無知の恥辱もここに極まれりの感を強くするものである。
無粋かつ野暮。これでは浄瑠璃の微妙な味も香りも感じられまい。
もちろんこのフリーライターに罪はない。
それに何らの斧正をも加えられなかった編集子の無知こそが問われるべきであろう。

実はこの件に関しては夙に例を見ている。
昭和63年1月公演に「良弁杉由来」と「卅三間堂棟由来」とが掛けられたとき、
雑誌(L-マガジン)記者が、この由来物を並べるという臆面もない建て方を、正当なものとして評価したことがあった。
あろう事かこの時には、劇場側も次の3月公演で「阿波鳴」「由良湊」とを並べ建て、
観客に対して子役の声色をイヤというほど聞かせるという、盗人に追銭的行為をやってのけたのである。
ほとんどの国民がバブルで浮かれていた時代であったとはいえ、
この感性の欠如もまた、人形浄瑠璃上演史上に残る汚点として、長く戒めとされなければなるまい。

因って茲に駄文を記し、併せて周知するところである。