FILE 161
【 西沢一鳳 皇都午睡 テキスト 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
新群書類従 巻1 皇都午睡 のテキストファイル
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【】:原翻刻の()を含め、異本・校異等の記事に用いた。
西沢文庫皇都午睡初編 上の巻
目次
一 表題の起原、枕を砕く
一 俗言の齟齬
一 秀句の渡守
一 東都の地口
一 似口行燈
一 浪華の口合、画口合
一 川柳点
一 冠付
一 折句
一 もぢり笠
一 尻付跡付
一 粘頭続尾(山科の跡付)
一 雑俳の品目、札の立見
一 二字段々
一 鶴助の発句
一 物は付
一 何に付
一 何曽々々
一 考へ物
一 古代の謎
一 字謎
一 字謎の発句、犬の足跡
一 前句付
一 落首
一 戯場の落首
一 所俳諧
一 金毘羅樽
一 画に似たる文字
一 字にて画を書く
一 古代の看板
一 画噺
一 宛字読
一 鈍書
一 落噺
一 講釈
一 浮世物まね
一 玉川三吾
一 大人遊
一 幼童の遊戯
一 鳥指
一 俄茶番
一 拳
一 所作拳
一 童謠ふれ〳〵小雪
一 十夜童謠
一 橋の下の菖蒲
一 地蔵の勧化
一 木遣音頭
一 遠国の唱歌
一 鞠のかけ声
一 手鞠唄
一 十二月万歳
一 置銭一銖(大尽舞)
一 鋳懸駱駝
一 おつこち
一 胡麻摺
一 四谷鳶阿波座鴉
一 天王囃子天満巫子
一 いろは譬
一 弄の名を異にす
一 寺子屋庵室
一 投壼投扇興
一 茶佳否記餒甞会
一 囲碁将棊
一 祭将棊
一 むべ山骨牌
一 仏像双六
一 道中双六
一 早口そゝり
一 竹田機関
一 大道具
一 軽業放下師
一 細工見世物
一 猿狂言、馬芸、力持
一 座敷影画
一 おどけ開帳
一 子守歌
一 順礼歌
一 潮来節
一 伊勢音頭
一 馬士歌
一 船歌船頭歌
一 臼挽田植歌
一 豊後節
一 浄瑠璃節
一 ちよんがれ節
一 娘道成寺
一 歌系図
一 雪の唱歌
一 青葉の解
一 謠曲を唱歌にす
一 綾鶴
一 鉤簾の戸
西沢文庫皇都午睡初編 上の巻
西沢綺語堂李叟著
表題の起原、枕を砕く
或片鄙の相応に暮せる人すこし学問の志はあれど師と頼む人もなく彼の経典余師と云る書籍を買ひて論語を大半読頃京より来る旅人に逢ひ四方山の話に及ぶ京の旅人は年も若くさまで身を持し体とも見へぬに何かと物語をすれば贈答速かなれば鄙人深く感じ足下の如く博識なるは年頃の学問も容易ならじと云京人打笑て我等生れてより書物といふもの一冊も見侍らず兎角田舎の学問より京の昼寝と社存じ候とそこ〳〵にして去る鄙人国に居て学問せんより京へ往て其昼寝社せん物と多分の路用もて独京に登つて三条の宿に着日毎に祇園下河原あるひは加茂糺の茶店に昼寝すれどもさせる博識にもならず睡には枕にもよるべしと邯鄲枕を求てすれどもさまで能もなければ括り枕塗枕香炉枕箱枕歌種[ウタタネ]枕船形枕張枕と枕のあらん限りをして昼寝をすれど能寝入てたま〳〵には国の事のみ夢に見て詮方尽手枕ひぢ枕をして睡れども験しなければ半年余りの京登りもむだごとなりと見限りて帰路の路銀をきらさぬうちにと今迄求めし枕の分を打砕きて捨我田合へ帰りしとある昔話をおもひ出皇都の午睡と題して今迄三都にて昼寝朝寝宵惑に聞たる種々の話に虚実を撰まず我僻案も打交へ書集る事になん是や宰予が昼寝ならで日本人の寝言とも笑はゞ笑へと東都浅草に三とせが間仮寝せし枕石山人が戯言也
俗言の齟齬
行水と沐湯[モクユ]とを唱へ違へ浴湯は湯を浴ると書ばさまで忌はしき詞にもあらず死行人に湯水をかけ棺桶へ入るなれば行水をもいまはしとも云ん丁灯と行燈を混じたる行燈は往来を通行の時ともす丁灯は居所に置べき也提灯挑灯の文字は後に書たる物と聞けり牛馬の止動[シイドウ]も止はとゞまれと云詞なるを畜生の悲しさには是を聞て動動はうごけと云詞なるに是を聞て止る鑿と烟管の名を取違へ烟管は煙草を呑む具なるゆへ是をのみと云鑿は金具にて木をせる物ゆへ木せると云とは滑稽者の云出せる詞なるべし
秀句の渡守
今云口合と云ものは往昔秀句と云て謡曲の狂言記にも秀句の渡し守と云あり旅人船渡しを渡るに賃銭なきを歎く一人是に無銭にて渡る工夫を教ゆ其渡し守は秀句を好めば薩摩の守也といふべし心はと尋たらばたゞのり也と申せよとて別る旅人教の如く渡し船に乗り薩摩の守と云船守船を川中にとめて心を問ふに忠度の詞を忘れて彼是云延す中船向ふの岸に着く旅人心は青[アヲ]なりといふて迯る船守やるまいぞ〳〵と追ふて入る是則口合のもとにして秀句とはいふなり
東都の地口
東都にて口合を地口と云近世出たる三養雑記に地口は土地の口合と云事にて仮令ば地酒地卵など云類ひにて地とは江戸をさしていへるの詞也とはあたらず是似口にて似かゝりたる詞を云がゆへなり扨似口口合に種々のわかち有三養雑記に出たるは天神の姿にて口をおさへたる絵に「だまりの天神〔鉛の天神〕団子三串書るに「団子十五〔三五十五〕今は四文銭にて商ふがゆへに四つざしなれど以前五つざしにて五文に売りし頃なれは百年跡の口詞[クチヤウ]也
似口行燈
又地口行燈とて初午にともす行燈には絵を半もたせたるなり「達磨大師の茶筌の姿
ゑびたこかしく
又句を長くいひつゞけしは「精霊のまことゝ棚経の坊さま見ればみそ萩露が垂る〔女郎の誠と卵の四角あれば晦日に月が出る〕 「君が射姿的場で見ればふだん尺二を射んなさる〔君が寝姿窓から見れば牡丹芍薬百合の花〕「小田原提灯細くかたばみ印の定紋〔今川了俊愚息仲秋にたいして制止の条々〕など也又通例の地口と云は「絵馬あげ願ほどき〔胡麻あげ雁もどき〕 「梅は見てさへ醋とや申す〔夢に見てさへよいとや申す〕 「雪見に出たる三谷[サンヤ]船〔一富士二鷹三茄子〕 「年の若ひのに白髪が見える〔沖のくらいのに白帆が見える〕 「玄関に席を改て口上を聴 〔林間に酒を暖て紅葉をたく〕 「銅の鍔〔渡辺の綱〕 「検校喧嘩杖が沢山〔天上天下唯我独尊〕 「娘は琴より三味のこと 〔皷はもとより波の音〕 是らは江戸の似口也
浪華の口合、画口合
京摂にての口合を画口合とて下に絵を書上に文句有て安永天明頃の草紙に有.「ほの暗に戸を明て〔此浦船に帆を上て〕振袖の娘羽子板を持て門松立し門の戸を明いる図なり此画にて句の余情をきかせるは先画賛の心なり絵に勘平簑笠にて火縄の火をかす曽我の五郎朝戻りの姿にて煙草の火をかるを書「時宗勘平馴染にもあらず〔時に范蠡なきにしもあらず〕 地獄閻王の前にて牛頭馬頭仙人の目をかけ居る図「仙人かけ目なし〔現銀かけ直なし〕 鞍馬天狗牛若に誤り居る図「鼻杉の根に付にけり〔早住の江に著にけり〕 是らは画にてきかせたる句ゆへ画口合と云も佳なり又画なくとも能きけるあり「赤き襷の紅屋との〔浅きたくみの塩谷どの〕 「本堂涼しさ団扇捨〔本蔵苦しさ打わすれ〕 「袖萩勘当になり悲し〔某佐々木になりかわり〕「反橋はだしになりかゝり〔同題〕「天神質屋へ自身に御座る〔天神七代地神五代〕 などなり近世段々巧になり同字を嫌ふと見へて口調一変したり金壱朱と銀壱朱と吹替の頃「金で見馴て又銀で〔死んで生れて又死んで〕 「仙台高雄を目に懸て〔現在母御を手にかけて〕抔と題の詞に新奇を工夫し「浜辺の蜑人〔山辺の赤人〕「垣の外の四斗樽〔柿の本の人丸〕抔は古風になり「あんずより梅が安ひ〔あんじるより産が安ひ〕 抔は愈古風となれり
似口に似て異なるは語路なり語路は自然と語勢の通ひて夫と聞ゆるを云「九月朔日命はおしゝ〔鰒は喰たし命は惜し〕「お染久松広ひ様でせまひ〔遠州浜松は広ひ様で狭ひ〕 又一種異なる有「気がもめの吉祥寺「堪忍信濃の善光寺「有がたい屋の貞柳さん「そふは左遷堂の不動さん「あつと頂戴鏡立「嘘を築地の御門跡「恐入屋の鬼子母神 抔なり是を口合の源ともいふべし
川柳点
東都の川柳〔柳樽〕浪華の冠付〔笠付〕は其土地に付たる物にて他国の人の真似るべきもあらぬ業なり川柳のうがちは世人の能しる所なれども一二をいはゞ「拝領の頭巾梶原縫縮め「由解村へ勅使より先山師たち「惚薬佐渡から出るがいつちきゝ「其手代その下女昼はものいはず「その当座昼も箪笥の釻が鳴る など寔に人情をよくうがちたる物なり今此口調を古しとて廃り近世は「蜻蛉の出臍駿河の富士の山「誰が広くしたと女房理窟云「関取を女房ばかり小さがり抔変れり時々の流行あつて是も古くなりけん
冠付
浪花の笠付も寛政より文化の頃は流行に随ひ月々に句集出たりしが近頃は甚廃りしと見へ句集も出板ならず人口に膾炙する句も尽たりと見へたり
折句
以前はやりし折句は端唄の唱歌に読込あれば今にも廃らず「蕣の盛りはにくし迎ひ駕〔アサムノ折〕 「余処でとく帯ともしらず紣て居る〔ヨヲクノ折〕 是らは其頃の折句なり浪と云題にて「芥子の花さわらば落ん下心〔ケサシノ折〕「きぬ〳〵と云題にて皆嘘の突仕舞なり寒山寺〔ミツカノ折〕 か様に有しものなり口調今時の様に鄙陋に無ゆへ発句かとも心得ゐもの有り「萍は思案の外の誘ふ水或は又「山吹や傾城に子は有ながらと作せる端唄は俳諧の発句より出たり「傾城の昼寝ぬ程に思ひ詰と云ひ出すはケヒヲの句より出せるとしるべし
もぢり笠
一種もぢり笠と云物有中の詞を上下に読入てきかすなり「御祖師様ありがたかりし瓜の皮〔有難 蟻集〕「百性はおのがわたに風すもふ好〔己 綿 小野川 谷風〕 「あぶり餅こがしやかとなる摩耶夫人〔堅 釈迦〕などなり
尻付跡付
又江戸にては尻取付廻しと云京摂にては跡付と云有句の下の詞を次の句の上に置事なり【江戸上略】「六じやの口」をのがれたる「たるは道連世は情「なさけの四郎高綱で「つなでかく縄十文字【下略】【上方】 「稲荷の鳥居に猿の尻「のしり〳〵と上下で「下の関までおゝせ〳〵「お関が弟は長吉で「長吉〳〵あばゝにつむりてん〳〵「天々天満の躶巫子「みこが戻ろか住吉参り「参り下向の足休め「すめの判官盛久は「久松そこにか冷かろ「たかろは船頭の松右衛門「ゑもん繕ひ正座する「するがに浅間富士の山【下略】などなり
粘頭続尾(山科の跡付)
今浪華稲荷祭礼に御輿太皷を舁掛声となるは「近江に石山秋の月「月に村雲花に風「風の便りを田舎から「唐をかくせし淡路島「島の財布に四五十両「十郎五郎は曽我の事【下略】 是ら安永頃に忠臣蔵山科の文句のみにて跡付書たる板行を見し事有暗記ながら爰に現わす「扨山科の住所「所〔心なり〕おなじき女どし「どし〔星なり〕をさしたる大星が「星〔ホシなり〕がる所は山々の「山と〔雨戸なり〕はづせば直に居間「今はの本蔵眼を開き「ひらき見ればこはいかに「いかにも底意は奥庭の「庭に雪つむ奥座敷「坐敷〔屋敷なり〕の案内いち〳〵に「いち〳〵立聞奥と口「と口〔一ト口なり〕のんで跡を明「明ていはれぬ謎詞「詞の塩茶汲むお石「石をむかひに片男波「お浪〔小浪なり〕はすぐれて器量人「りよふじん厳敷師直が「師直〔物モウなり〕どふれと下女の淋「りんきすなとおつしやつた「しやつた切たと言はなし「はなしきめでたきその中に「中に泣母泣娘「娘は父の御ほん蔵「本蔵苦しさ打忘れ「忘れぬ忠義の武士と武士「武士ある女の不義同前「せん石違ふを合点で「がてんで力弥が手にかゝる「かゝる親子の縁深き「ふかき契りの新枕 是唐山に粘頭続尾の戯と同じ趣なり
都て此種類甚多くて其時々流行し世に流布せる板行にも遺らず詩歌連俳に心を砕くも右に云句どもに心を尽すも同じ隙を費すなれば其当座にて云捨るはいと惜きものなり此惣名を只雑俳と云是にもそれ〴〵の点者有て業とする者少からず然れども其句者はもとより点者の名後世に伝わらずいと本意なし
雑俳の品目、札の立見
爰に雑俳の点者程あやしき業はあるまじ世上の流行を能くしりて昨日はどこに店開きありけふは彼所に喧嘩ありしなど委く知らざれは句者は銘々新奇を吐人のしらぬ珍説を吐て持来るゆへ其流行を知らざれば判者とはなり難し先年画口合集に札の立見とて四天王寺再建其外開帳の建札橋詰に立たるを往来群集して見居る図を書り点者飛騨の内匠なりと思ひ取天王寺再建等を思ひ合せて秀逸とせり句者は鮒のさしみの口合にて案じたる物を点者深く考とりて思わぬ手抦をとれりと云
二字段々
東都に一字付二字段々とて今にも流行するいはゞ尻取跡付の類にして蔵主との二字あるは前に二字有て蔵王と地主権現の心なるべし是を親子と付たり折節泉岳寺に開帳始る処にて時節といゝ点者よく聞て秀逸とはなしけり又七夕との二字に借伊[カルイ]と付るは夕霧伊左衛門七を借る狐泪に孕扱とは女を抓[ツマ]んで子を孕泪金にて扱ふと聞り又夏中のよせに西行に傾盥と付る是は日は西に傾き盥にて行水すると聞く抜井に秋葉是は東海道荒井を抜て秋葉廻りをする事よく聞たり又点者云山を抜く子葉の句と井の端の秋色の句とも聞けるなど前の二字を的として付る中に誠に流行を尽し和漢の故事を云とすれば思ひもよらぬ食物の名高きを入又高名の芸者の名を出す是を聴聴ぬとて句者より点者をたしなめる事有点者は机を放すやいな東都の市中を駈廻り新奇の雑談珍説を聞歩行となり戯場遊里は森羅万象の難説早く聞ふる物ゆへ点者かならず此両処に来つて遊ぶと云
鶴助の発句
○文政中に俳譜の師宗月夜庵三津人[ミツンド]と云有其身膝行[イザリ]の疾あれども流行をよく知りて御霊の芝居にて中村鶴助〔当時中村歌右衛門成駒屋翫雀の事なり〕七化九化の所作事をして大入せし頃の句に「田植るや鶴助が事云ひ合ふてと詠しが当時三都の俳優の長となるをよく流行に云当たるとしるべし
物は付
又一種物は付と云有東都にて以前はやりしと云「見へそふで見へぬ物は富士山より駿河町と有り
何に付
又もぢりの一体に奥様のお寝間へいつかそろ〳〵と這かけてくる蕣の花と云有是浪華では何といふ物といふ物と類せり昔の流行歌に「娘したがる母親までもさせて見たがる繻子の帯「長もあれば短かひもあるはお侍の腰の物是何といふより歌となりたり「われたもありわれぬのもある物なアに「茶碗屋の店などゝ云いはゞ謎の類なり
何曽々々
謎々はいと古きよりもてあそぶ物と見へて徒然草などにも見へ近くは文化中東都より謎とき坊主来つて即席に謎を解大に流行し事有其頃人口に膾炙せしは「虎屋饅頭とかけて天王寺「心は五十で十「誰にても抱れる男の子とかけて芳野の花「心はひと見せん坊抔有しも今は掛尽し解尽したりけん絶て佳謎を聞ず
考へ物
考へ物とて紙きれに題と詞を書て配り跡より心を解て銭を集る事はやれり是も一通りの事にては早く心のしれる物から遠[トオク]掛たるを善とし名高き考をいはば銭五百文にて長尺の木綿一疋大丈夫「是を武者の名一つの考「六せうの半貫為よし「子守女「是を大名の名三つの考「もり〔毛利〕には〔丹波〕あきた〔秋田〕「海老蔵の心「魚の名三の考「勢かれ〔鰈〕にあひ〔鮎〕たひ〔鯛〕是ら謎々より一変したるなり
古代の謎
往古の何曽々々は今とすこしく異なり「こばたひつくりかへして七月半を「たばこ盆「雀が利を持ながら目を抜れされども子をば羽の下に有を「硯ばこ「あさつてはあたご参りを「たまご是らを上古の謎々と云
字謎
又字謎と云有「三人は日を踏一人は日を戴き日月相並んで袖を貫く是「春日大明神也又「有節不于竹三星繞月一人居日下弗与衆人同是節の竹冠を除けば則即の字也「星の如く三点して下に半月を置ば心といふ字也「日下と書て下に一の人と字を置ば是の字也「弗と人と同すれば佛の字也「即心是佛の四字を大覚禅師の字謎の詩也
字謎の発句、犬の足跡
又■の一字の賛月と風躶になつて相撲かな是らは字謎の発句なるべし
又是に似て異なるは雪舗満地雞犬踏成竹葉梅華といへる絶対の句より出して「初雪や犬の足跡梅の花と云句はなれり五元集に雞去画竹葉犬走生梅華と云聯句によれりと云是らを呼でこそ真の雑俳とも云べし今時冠付などの鄙俚なる物に混ずる事なかるべし
■:
前句付
以前流行し前句付は誰も知たる句なれど「切たくも有切度もなしと云題に「盗人をとらへて見れば我子也といふ句を付る「己[ウヌ]が使ひに己れが行けり抔も前句付なり是其頃の一体にして俳諧連歌の付句にあらず或人宗祇に云「一つある物三つに見へけり「たぐひなき小袖の襟のほころびてと祇答ふ又「二つ有物四つに見へけり「月と日と入江の水に影さして祇答ふ又五つある物ひとつ見へけり「月にさすそのゆびばかりあらはれてと祇の付られたり其外安倍貞任が衣の袖梶原景季が鞠子川は上の句を詠うち直に下の句を詠是二人にて一首となれり和歌にあらず連歌と云ふにあらず贈答の一首はいはば前句付の原ともいはんか
落首
爰に又作者の名を呼ぬものは落首なり落首とは多くは人の悪口を読たる物ゆへ句者の名をかゝず譬はゞ我詠出たりとも人伝に聴たるふりにて云又昔は我手跡をかへて幼童の手跡にて書るさまして市中の街に落し置がゆへ是を落首とも言よしそれは天下の政事をなじり公役の私を誹謗せる物ゆへ姓名をしるさぬも尤なれどもいはゞ戯場の評判など卑賎の事を落首するには何の遠慮かあらん打出して作者の名も書くべきに其事なきは善事は賞じ悪事はいはぬが善と思ふが故に遠慮なるべし近く憶えし一二を出す或大儒の供部屋より失火せし時焼跡へ張たる落首に「大学も孟子訳なきしだらにて珍事中庸論語同断又売薬屋の店出しに夜分墨黒に書て貼しと聞しは「五龍円ろくしゆの壁で質置て八朱のあひで内は九へまひ是らは其商売敵などの族の詠なるべし
戯場の落首
戯場には毎度ある事にて文政中璃寛芝翫の南座贔負〳〵の落首替り度毎に木戸へ貼し事有り思ひ出る侭爰に記す〔角璃寛達大木戸始金花山と云看板を出して改る中芝翫繁夜話切に七化始めて出せし時にて当れり〕「出し物は尻から兀る金花山人がたらいで達の大木戸〔中芝翫一谷熊谷角璃寛小野道風〕「熊谷が夏の道風に当られてあたま丸めて京へ御隠居〔中璃寛薄雪角芝翫伊賀越〕「瑠寛大膳仙台銭角があるゆへ通用せん〔中璃寛熊坂角芝翫権八〕「長範に四翫まけたる歌右衛門中の余りを平井権八〔芝翫堺宿院へ行堀江へ戻り又角へ戻りつゞれの錦〕「歌右衛門堺宿院堀江出され非人になつて角にうろ〳〵〔中璃寛小倉色紙角芝翫先代萩〕璃寛「此度は不座も取へず手向山小倉の色紙角はまけ〳〵など贔負〳〵の争ひ喧かりしも三十年の昔となりて道頓堀の繁昌も其頃果をとりこせしにやあらん近世は此落首立べき両座の賑ひは稀になりけり
所俳諧
前に云冠付を始時々はやり物の惣名を江南[ドウトンボリ]にては所[トコロ]俳諧と云て他国の耳には通ぜぬ心なり是に各高手有て点を定る予幼き頃しれた物尽しと云を聞し事有「井戸堀は段々天に遠くなる此余に一二句もきゝたれど外は忘れたり又角の芝居の横手西側に地蔵尊有て其宝前に奉納の額に画口合書有しを思ひ出すに〔詞の題菅原詞の種忠臣蔵〕にて凡廿句計り有て句者の名もしるしありしが其頃毎年失火して地蔵尊さへ所がへせしか今は見へず此額の中におかしと思ふは今に忘れず画は勘平を母財布にて打擲の図に「勘平死ぬのじや母気強のじや〔何で死ぬのじやはらきるのじや〕権羽と記せり〔是幇間の第一鶴井権八也〕其余の句覚へず思ひ出俤眼にちらつき其頃爰は何屋彼所は誰々の住家と思ひ出しぬれば今は又後の世の昔となるべしとなつかしき物也
金毘羅樽
其頃又一種の金毘羅樽と云ものはやりしこは東都の柳樽の口調にて浄瑠璃歌舞妓の穴捜を云也忠臣蔵と夏祭とは其頃番付に板行して今稀に遺る予が著述の伝奇作書残編に出す見べし都て楽屋内にて月並に編集して外題二つ宛三ヶ年ばかりに数十題集り一小冊となり亡父より珍蔵せしが或友に貸たるを友失ふたり憎めども甲斐なし其内おかしきと思ふを爰に出すひらがな盛衰記「義盛は其翌出陣病気する「景高は呑ぬ薬礼たんとする「駒若は樋口が跡の仮名前、一谷嫩軍記「江南の梅より先に山桜「敦盛の馬いつの間か迯て去ぬ、義経千本桜「梶原は歌人と聞くにはめ句する「静をば万歳の娘かと人は云ひ、双蝶々「長吉は異見の後もやはりのら「時折はなまけでお早呵らるゝ、伊賀越乗掛合羽「其後は雪隠に苦を病む武助「和田の三語らにや巳之助拍子抜け、菅原「其頃は廿五日に休みなし「□蜘駕で時平の大臣還御也「龍田の前焦付したり玉子酒など当狂言は大約言尽し果は三国志を題とし「孔明を鼻紙代で先抱へ「孔明周諭一文摺かと手を開き「戯れに関羽胡弓を髭で摺「赤壁に今度解船[トキフネ]町が出来「黄巾の賊梔花[クチナシ]の直が上りなど有しが此中に楽屋の通言あまた有て病気する鼻紙代はめ句する抔は他所の人に通ぜず楽屋の穴捜にして所俳諧最第一なるもの也
画に似たる文字
昔より何人の作り始しともしれず文字にて自然と其容形[カタチ]になる物有傘鼎筆臼などを始古篆の文字に鳳龍の容に書有り多く児童の弄にのみなれり数種ありて文字と画を交へたるも有文字計りも有画計りも有先文字には円横井伝内口田中十内是らは先に云字謎の類なるべし
是を三山[ミツヤマ]通る児[チゴ]のさかづき
是を
如此善心を起し悪心を止一心に悟れば仏心に同是は野馬台詩に類して和歌の回文輪回体ともいふべし銭の容を書中央の孔を口と見て吾唯足知といへるも共に浮屠氏の書る也
字にて画を書く
「梅と云字の刎たる所へ梅の花を四五輪書人丸と文字にて書人丸の肖像と見へ「山水天狗「
「のしこし山「花と云字に山岡頭巾を着せ花盗人とす「へまむし入道は古き物にや山の井に「絵に似たる顔や
夜半の月雛や立圃の句有り正保の頃也葉室大納言の自画自賛とて「世の中を楽にへまむしよ入道あればある侭なけりや其分
是らを思へば後世のものとはいわれじ
古代の看板
糊屋の看板に丸き曲物を張りて
有と印たるはりが細ひといふ謎なるよし煙草屋の看板にも予幼き頃は
と印たる物そこ爰に有しが今は絶て見ずたばこ仮名一字に一画そへて三字に通わすかなには
など一字を直に二字に渡る書法あり草行の文字にも此類多く有事也
画噺
文化の始山東京伝奇妙図絵と云小冊を出す是には人丸の文字にて人丸の容を書梅の文字のはねたる所枝となり梅花をあしらひ
などを始に書て禿とかなにて書て禿の容としおいらんとかなにて傾城の容を画り其後文化六七年頃亡父画噺と云事始たり一二をいはば鴻池の主〔其頃俳名鵞江がこう髷とてはやれり〕
か様な髷にて来り向ふより辰巳屋の主
かやうな髷して行合喧嘩となる真中へ加島屋の主
かやうな髷にて分入挨拶に及び丸ふと云乍ら
と書そへ元の如に納つた
是を画噺の起原として社連を組銘々新奇の画噺を巧出し月に両三度の会有て画噺当時の梅と題して三編まで出板せり此中に朝早く内を出て本海道をずつと住吉へ参つたが
帰りは
阿倍野街道を戻つたら云乍書て足が
[すりこ木]になつた又さる所の娘の居間へ忍び込ふといた所が
こふ障子がしまつて明ず庭には
こふいふ塀は有又こちらから忍び込ふとすれば
こふしまつて有とふ〳〵ゑゝ〔蠅不入這入らず〕と書き終る是ら一時の戯れとは云ながらいとおかしき遊戯ならずや
宛字読
仮名にてとと書てへちまと読す
へとちとの間也是字謎の類也中興角觝取の名にいと一字書てかな頭[がしら]京と書て仮名どめ九十六と書て一字九十六【読方不明】と読すよし上総の九十九里村の文字を白里村と書一を足せば百となるゆへ白を九十九と読すよし皆字謎なり近江国小六月村は子育村の書損を改めず書来るよし
鈍書
字直しとは多く片仮名の一字を題として是に書そへて書となすの遊戯なり又一種鈍画[ドンヱ]と呼以前は
炮ろく頭巾
柱の向ふに箒を釣
天狗の厠に這入し抔にて有しを其後段々巧となりぬ随分解し難きを書ば点者はそれをよく見出す事となりぬ
酢吸の三聖
是を浄蔵貴所なりと上座に撰むなどよくうがちたる物なり祖中村慶子〔俳名富十郎〕釣鐘岬の嫉妬娘にて書たる
い十[ト]し藤[フヂ]は字直し画直しに通ひて字謎の一種異なるべし
落噺
世に落し咄といへる事は古きより有と見へ曽呂利新左衛門井の上新左衛門など頓作の咄有て多くは秀句謎々の類にて狂言記又醒睡笑などより出る寛文延宝の頃の落しばなしの冊子両三部も見たる事有近くは天明頃の板行に三都の落し話の佳なる物を集めて旧観雑話と題して序は坂東岩子[ガンシ]〔俳名道外坂東岩五郎〕書て三都の咄を三冊にしたる物有其後追々新作出来て東都にて桜川慈悲成無楽可楽が三題咄とて即席にて来客より得たる題の趣をはなす浪華にては松田弥七辻講釈の如く市中の軒にて高き台の上に乗前に台を置て拍子木を鳴らして聴聞の頤をはづさせ桂文治は別に咄小屋を建て日々新奇を咄出して一派を立たり後に道具鳴物を入此道の名誉と賞す文治作の咄を冊子とし数種出板せり中にも臍の宿替名高し別に薄物の綴本に著せし道具太平記蚤虱人間体道中記大開好色合戦などを出せり此好色合戦は甚鄙陋也といへども以前聞し事有て其文のおかしき所を思ひ出て爰に書つく【好色合戦の一章故ゐりて削る】
講釈
講釈師といへば古くは志道軒の辻講釈よく人口に膾炙せり京摂には吉田一方名高く近くは吉田天山老人也是を講釈の師とも云べし其後三都に誰彼と云もあれど天山に及ぶべからず今や豆蔵講釈とて戯場の狂言身振声色に類して咄家に異ならず諸芸とも昔より衰へるは流弊の習ひ是非なし
浮世物まね
又軽口物真似とて姓もなき馬鹿口をたゝき頤をはづさせ戯場俳優の物真似をするを東都にて豆蔵声色と云浪華にて忠七の身ぶり物まねと云豆蔵忠七は小屋主座元の名也寛政文化中に吾妻清七と云者身振物まねに妙を得て野郎帽子を当て芳沢いろは〔俳名巴江〕帽子を脱で浅尾為十郎〔俳名奥山〕などをまねるに其者爰に顕れ出しかと怪しむばかりよく似たり昔唐土函谷関にて孟甞君の客鶏の声をつかひ関の戸を開きしといへば今浮世物まねとて牛馬鶏犬諸鳥のまねをする事和漢共に古き事と思わる
玉川三吾
亦清七と同じ頃三絃胡弓の曲絃[キヨクビキ]に妙を得たる玉川三吾と云盲人は竹の皮にて胡弓を摺一挺の三味線にて二挺三挺の連絃ときかせ放屁の音などをひくに妙を得たり此者歿して後かゝる曲を聞ず
大人遊
文化中出板の草紙に大人遊と題して松好斎の画にて座敷の遊戯のみ挙し書有「棒捻「枕引「正直聖天様どこらがよかろ「畳の縁踏んだり縁ふますなどを始「白鬚明神御鬢の掃除「蛇の尾とろ或は紙のこよりにて目鼻口を拵へめんない鵆をさせて眉毛耳などとて一つ〳〵に渡す爰と推量にて
か様に置を是とする戯也
幼童の遊戯
多くは鳴物停止の折の慰みにして遊戯数種有浪華にて幼童のつらまへごくらと云を東都にて鬼ごつこと云浪華の白眼ごくらは江戸にてにらめくらと云ふ浪華にて座敷遊戯に宇治は茶所と云は人数に合せ椀のかさ或は小皿等の中へ酒茶菓子煙草など座中にある物を書て中に一枚書ぬを入是に当る物は我思ふ勝手に遊ぶ休の印也各前にふせて扨三絃に合せ宇治は茶所茶は宴【縁カ】所娘やりたアヤ聟ほしやと諷ひ乍ら座中車座に成つて廻して各前に廻りし器をあける酒の字に当りしは呑煙草に当りしは呑又追々に右の通廻す事也
鳥指
鳥さしと云遊戯よく似たり酒席にて骨牌の札に殿さま用人鳥指と三枚の外は鶴雁鴨雉子など鳥尽しの絵札人数にあわせ裏むけてよく札を切配る也殿の札に当りたる人殿の札を出して用人と呼用人札持し者前へ出して何の御用と問ふ殿けふは鳥をとらして遊ぶと思ふ鳥さしを呼べ用人鳥さしと呼鳥指の札の者ハツと答て札を向ふへ出す用人鳥さしに殿の御意をのべ殿の好の鳥を云付る鳥指雉子とか鶴とか仰の物を其座中に持居る者をさすさし違る時は罰酒一盃呑又外の者に云当らぬ時は又一盃呑三盃呑ても得あてぬ時は改て札蒔直す也廓中居続などにはかゝる遊戯など仕尽して遅日を暮すをいと興あり
俄茶番
浪華の俄と云遊戯は原謡曲の狂言より一変したる物と思わる東都には茶番と云て俄に相似たれ共又異也口上茶番は何にまれ我当りし題に合せ地口口合にて落す茶番狂言と云は京摂の俄に落しのなきを云いわば豆蔵めきて素人狂言をする也上方の如く流し俄の類を江戸吉原の俄とは云也京摂の俄にも数種有て文化中には袖岡繁弁連湯桶草履吉など老練の輩有て夏祭の頃は二人三人宛の仕組俄有て祭礼の日には所望に任せ店先にて仕又座敷へも往てせしもの也素人の俄は多く流し俄とて異なる姿して物売の声又は流行唄の口合もぢり等にて落せしもの也其頃は五十才以上の者色黒く或は老人大男の随分色気のなき人を俄男など賞たるもの也近来村上淀川本虎[ホントラ]などいへる老練の輩新作の俄をなせしより連を結び俄師と呼びしより素人俄黒人俄と二流にわかち今や三喜[サンキ]新蝶[シンデウ]南玉[ナンギヨク]なんどほとんど歌舞妓役者の心となり給金いか程と定め芝居の小屋にて道具鳴物を入場桟敷にて見する事とはなりぬ是幇間牽頭とおなじく忠七豆蔵の類とはなりけり嗚呼浪華の名物も廃りたり文化中に俄選といへる双紙二編有て天保中それに倣つて俄天狗と云書も出板に及べり
拳
拳は原長崎へ来泊人のもて来し物にや此道に達人多く文化中に浪華の義浪[ヨシナミ]名高く松好斎画を交て拳会図絵二冊を著す拳会には土俵を餝り手に拳褌をはめ角觚に倣ひ名乗りをあげ五人拾ひ十人ひらひ抔云有虎拳狐拳虫拳など出来れば其後拳のかゝりに種々の所作をし打や囃せや太皷に皷に大皷ヒヤリテン〳〵チリンカ〳〵コロリンシャン〳〵大名公家お上人に山伏はゝち〳〵座頭の坊屋根屋に大工に畳差船頭馬方四つ手駕頼ませよ〳〵そこらでセイ跡狐拳になる也
所作拳
又菊々猴々豆々と云拳も有近頃東都にてはやりしはジヤン拳也酒は拳酒色品[イロシナ]は蛙〔ひよこひよこひよこ〳〵〕蛇ぬら〳〵〔ジヤンジヤカジヤカ〳〵ジヤンケンナ〕婆様に和藤内が呵られて虎は〔ハウ〳〵ツテトロテン〕なめくでサア来なせへ跡は狐拳也是より色々の趣向をつけとゞは三国拳とて天照大神孔子釈迦有たれどはやらず予此上は樽次底深が酒戦の時の盃を思ひ出蜂龍蟹の拳より趣向あるまじくと思ふ蜂はさす龍は呑蟹は肴を挟むと是に甲乙を付たらばおかしからん
童謡ふれ〳〵小雪
童謡俗謳は古く伝ふる物なれば字音の転ずる事多く言誤る事多し徒然艸に鳥羽の院幼くおわしませし時雪のふる日仰られしふれ〳〵こゆきたんばのこゆきと云は米の粉をふるふに似たれば粉雪を云たんばとはたまれ粉雪かきや木の股にとうたふを聞語れるよし
十夜童謡
俗謳と云は京師に例年十月六日より十五日迄十夜とて浄土宗の寺に法会有洛中町々の子供鉦を叩き夜毎に門々へ来て米を乞ふて曰なむあみだ〳〵おうづるてんまの人あみだ地獄は遠からず毎年よねんもほかになしいちの盃剣の山おうさてこうさて其時涙の暮六つ観音勢至は蓮のれんげに打乗給ひなまいだと諷ふを何か訳もなき事と聞居しが南無阿弥陀と申する間の人は弥陀地獄は遠からず愛念余念は外にもなし道も嶮岨剣の山追立々々其時涙に暮六つ観音勢至は跏趺の蓮華に打乗給へと云べきを児童の言誤り也と仏足を組て端座するを跏趺といふとぞ俗に蔵六[ザウロク]かくと云事也
橋の下の菖蒲
鎌倉頼朝時代に俗間の謡歌也ときけるは橋の下の菖蒲は折どもおられず刈ども刈られず伊藤殿土肥殿土肥が娘梶原源八助殿太郎殿是蒲の御曹子の御連枝なれど弱きにも強にも何の用に立給はぬを菖蒲の折どもおられずと云伊藤殿より下は大名権抦の人にてもてあつかひしと云心也とぞ予幼年の頃浪華にも此童謡を専ら諷ひし事有其時の文に木杭[キクヒ]隠し九年母橋の下の菖蒲刈ども刈れぬたい殿同鯛[ドヲノノー]の虫は軽業味噌ちつくり酒ちつくり呑でもお腹はたちやぬなやと云しが何の事を云しにやと思へば鎌倉時代の童謡の遺し也
地蔵の勧化
国々にての童謡いと多きもの也其内に国々の訛方言等言誤りて愈他国のものには解すべからず京摂と東都には其物は異にしてやゝ似たることまゝ有浪華に七月廿四日には子供持遊びの地蔵尊と鉦を土にて製したるを丸盆にのせ地蔵の勧化米ちとたんせと近隣の門々にたち米を乞ふ東都にて二月初午に土細工の狐を小さき画馬にのせ稲荷様に十二銅をおあげと子供口々に云て門々に立賽銭をとらす時には珍重〳〵と云とらせぬ内には貧乏やアイと高声に云て帰る春秋と時候はかわれど大約相同じ
木遣音頭
音頭掛声木遣りの類も種々ある物也上方にて物を運ぶ掛声にゑいさやちよふさと云京建仁寺の栄西長老鴨川より今の陀羅尼の名鐘を寺中へ運ぶ時栄西や長主[チヤウス]と云しより発る又京の大仏造営の時大石を運ぶに勢州路より大津迄引来る折の音頭に松坂越へたやつさと云しより遺ると云船歌馬士歌小室節の類いち〳〵数ふるに際限なかるべし
遠国の唱歌
中にも一種おかしきは浪華の七夕より八朔迄童女の一連に並びておんごくといへる物を諷ひ市中を歩行いつの頃より始まりしと云事を不知是童謡に類して歌数種有一二をいわば遠国[ヲンゴク]なはゝなはゝや遠国なさヨイ〳〵船は出て行帆かけて走る茶屋の娘は出て招く〔ハリヤリヤ〕ヤアトサナア〳〵爰は松坂越へたやつさ踊りもアリヤ〳〵サア〳〵よいヤサ抔思へば音頭より出たる童謡なるべし一置[イチオイ]てまわりやコチヤ市立ぬ天満なりやこそ市立まする二置てまわりやコチヤ庭はかぬ丁稚なりやこそ庭掃まする三置てまわりやコチヤ三味弾ぬ芸子なりやこそ三味ひきまする四置てまわりやコチヤ皺よらぬとしよりなりやこそ皺よりまする五置てまわりやコチヤ碁はうたぬ能衆なりやこそ碁を打まする六置て廻りやコチヤ艪はおさぬ船頭なりやこそ艪をおしまする七置て廻りやこちや質置ぬ貧乏なりやこそ質置きまする八置てまわりやコチヤ鉢わらぬ麁相なりやこそ鉢破まする【下略】さあてさて〳〵扨横堀の饂飩屋の子が心中をしたともふし母様男は誰じや男若ひ者米屋の手代【下略】扨も艶[ヤサ]しや蛍の虫は草の小影に身を焦すハツヤリヤさあさよひやさなど此類数種有
中にも京師は又是と同じふして異なるは男子のみにて竹螺を吹拍子木を首にかけうかその面〔大きなる丸面をあたまよりかむり〕大勢謡ひ連歩行事なり其文句にも数種有盆の十四日に廿日鼠へさへて元服させて髪結て牡丹餅売にやつたれば牡丹もちや売ずと昼寝して猫にとられてひんよいよほ又昆布屋の嚊が一枚紙惜んで昆布で開ふいてひりつくや〳〵など謡ふ又浪華にて童謡にお月様いくつ十三一つそりやまだ若ひこんど京へ登つてと謡ふを東都にてお月様いくつ十三七つと云何れが是なりや不知
鞠のかけ声
東都にて羽根突折一子に二子三わたし嫁子いつやの武蔵[ムサシ]七重の薬師九つ十を浪花にては一[ヒイ]や二[フウ]や三つに四つやと云手鞠を突に一[ヒト]ころ二ころ三[ミ]ごろ四ごろ五ごろ六ごろ七ごろ八ごろ九ごろ十ごろ十で豆腐屋のお内儀が三つ子を産しやつて一人の子は木綿屋へやつてモメン〳〵〳〵ヨまひとりの子は茶屋へやつて茶〳〵〳〵ヨまひとりの子は紙屋へやつて紙半帖もろて爺御に半枚母御に半枚跡に半枚遺つていろはと書て左義長へあげてとんどの道で喧嘩が有てわけ〳〵〳〵ヨと謡ひながら手鞠をつくなり又ハリヤ一反[イツタン]ハリヤニ反と突有是は蹴鞠の〔ヤリアヲウ〕の掛声より出るものならん
手鞠唄
十二月手鞠唄の唱歌は鄙陋なるものなれどこは天和貞享の頃浪華新町の廓中繁昌の節太夫天神に行儀躾方を教ふる師の作せしものとて紋日名寄にて一ヶ年の年中行事を集めしもの也百七十年の今に廃らず行わるゝもの也三絃に弦唄ふも正月より四五月迄にてすへは唄ふもの稀也じつと手に手を七五三[シメ]の内とて嗚呼よい弥生は指[ユビ]で悪晒落憎とフツツリもゝの節句卯月々々も後にや広く釈迦も御誕生道鏡増りの幟棹立通[ツウ]を失ふ萩月[ハアギヅキ]又とりかゝる二度めの彼岸などよく此長々しき文句を色文句によせての作は手際なる物なり
十二月万歳
京に京土産とも十二月万歳とも云物有是は色文句ならず唯年行事のみにて初春の寿祝ふ松飾表にさら〳〵新袴〔モノモウ〕大黒屋徳右衛門年始の御礼忝ひ礼者の外はストントン〳〵手鞠や拍子と諷ひ出しちよど三百六十豆の数皆礼者の事こそ目出たけれと終る迄いと興ある物なり
置銭一銖(大尽舞)
抑廓の始りはと諷ひ出す東都の大尽舞は近来流布随筆に委しければいわず此三つの歌は三都の風儀をしるに足るおもしろき物也此余時々流行のはやり歌も佳作の物は後々迄遺るあれども多くは其節うたふのみにて廃る物也是も其時々の人情を述はやり詞有て幼稚の時はやりし歌などフト歌へば昔慕しき物も有ておかしき物也流行詞は其当座のみにして後々は何の事を云しにや解せぬ物多し予幼年の頃より段々変化せしは置銭といふ事也誰々を相思ふと云男女の中を置銭と云しが多くは幼童の辞にて是をいわるゝと赤面したる物なりしを段々人気賢しく相なりて今時十歳未満の小童たりとも恥るけしきなくなりたり置銭は幼童の遊戯に六度穴打などに銭をもつて銭を打時我はうたずと銭を置[オキ]人に打せて勝敗を論ずるの詞也又沖に漂船のごとく恋の心の切なるをかけて沖船ならんとも云り
鋳懸駱駝
前老夫婦土瓶焼鍋の鋳懸とて市中を歩行職人有しを見て男女連立歩行を土瓶の鋳懸と異名を付天竺より渡りし獣牝牡の駱駝を見しより男女の連立を駱駝と呼変たり天保年間江南の妓家にて我思ふ恋路の話を云時は聴賃受賃を取る金一銖の定にて是のたまりし時芝居行或は食悦などにす是を市中へ移つて男女の色を一銖〳〵と異名せり
おつこち
又ツコチとも云東都の方言に都ての物を落たる事をおつこちたと云是口説落した又口説落されたとは古くいへる詞にて出家などの堕落せしを坊主落と云嵯峨野の女郎花に遍生の我落にきと人に語るな是落たと云詞の往昔よりとなへ来る証とすべき物也あの女には落たあの男には落たと云心よリヲツコチと変名せり遠国他邦の人の耳にはさぞ解すべからず
胡麻摺
上手を云とは口上手に云事にして油を云ともいへり東都にてはヲベツカを云と云近来是さへ胡麻すると云此名義委敷予が綺語文草に出たれば見べし流行詞はいと多くして中〳〵際限なかるべし昔の詞にいふてもおくれな小夜嵐何ぞいふてか幽に聞へる中興はやりしはそんならそふ猫にやん〔チヤカホン〕よふいわれた事じや何ぞと至つて近きは■子じや熱[アツ]〳〵などいかなる事より言出しか解らず此道の識者に問ふべし
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四谷鳶阿波座鴉
東都の俗四谷鳶と云浪華の阿波座鴉と云能対句なるべし奴僕の藤巻柄に手をかけ白眼いる空に初鰹を掻たる鳶の図有是四ツ谷鳶にして阿波座鴉は銭もゝたずと新町へうせて買〳〵と啼との俗謡より発るぞめきひやかしの異名なるべし松本五粒〔俳優祖松本幸四郎〕幡随院長兵衛のせりふに薮鴬は京育阿波座鴉は難波潟吉原雀を羽がひに付と連ね詞に云たるは何の心もなく三都の枕辞に冠したるならめ大声は俚耳に入らず論高ければ俗に通せずと聖賢の辞のむづかしきも詩歌連俳の雅言の通じがたきも一度戯場の俳優のせりふにいわせ浄瑠璃端唄の文句に入て耳に触るゝ時はいつか聞馴言馴て何の事とも弁へずかたこと交りにも云もの也君子危うきに近よらず其罪を憎んで其人を憎まず前車のくつがへるを見て後車のいましめを説或は哀別離苦の会者定離の唱ふ事を思へば戯場も道をしらせるの近径也
天王囃子天満巫子
爰に賎しき業なるものなれど古画〔浮世画也〕に遺りて今姿を見ぬものは東都に天狗の面を頭に戴き扇にて小さき板行をちらし居る図有是天王様は囃すがお好と云物貰ひにて浪華に躶身に茜木綿の前垂をして女のぼて髷を着〔テン〳〵〕天満のお神楽堂からお巫子が参りましたとて物貰ひの有しも卅年此方見へずなりぬ近来或好者家古画の懸想文の姿に出立正月元旦の朝夜深きより出てけそう文〳〵と売歩行しが買者は一人もなく古雅なる見付ぬ容に犬にほへつかれ五疋七疋に取まかれて困じ果て迯帰ると聞しがさも有べし奇は好むべからず異なる容はなすべからず
いろは譬
古き諺の中より撰出し幼童弄の骨牌に画を摺いろは譬と云物有是に数言有ていわば石の上にも三年否々三盃また三盃鰯の頭も信心がら石原を薬鑵一寸先は闇の夜などあれば一組〳〵に違ふたる有東都の譬又異也針の穴から天覗くを江戸にては葭のずいより天象を見る惣領甚六〔大前髪ゆびをくはへし画是江戸道外役者なり浪華にて云十五の涎くり〕京の夢大坂の夢など云譬也幼童の弄にさへ出す程の事なれば常々譬にも云事也
弄の名を異にす
言語は勿論此余幼童の弄にも呼名の変りし有上にてせゞ貝と云貝を江戸でで金砂子[キンシヤゴ]上にてむくろじ取と云を掠取[ムクドリ]小手鞠七つを取るを上にて勘弥手鞠〔もと江戸森田勘弥所作事にてとりしゆへ也〕江戸にては手玉取〔縮緬の小裂にて二寸計の袋を製中へ小豆を入れ縫ふ七色の製也〕弓矢毬打[ユミヤギツチヤウ]を弓破魔[ユミハマ]羽子板にて羽根を突を二人にて突をおよばね又やりはご突ばねと云纔に幼童の弄物にさへ名の異る事しるべし
寺子屋庵室
東都にて手跡の師へ幼童の手習に行始いろはを習ふはかわらず跡かな文章江戸往来かねめと云は遙に後に習わす婦童には都路とて江戸より京迄五十三次の名所々々を書し者を学ばす京摂にての京名所を習わすにかへたり上方手習の師匠男子には九々の割声或は小謡女子には百人一首女大学等をよませども東都にはよませず男女とも幼童を育てるには甚やりばなしなる所なり
付て云和州奈良にて手習の師の家をあじちと云愚考にあじちは是庵室の略語にて三都にて寺屋お寺とも同じ唱へなるべし高野の麓学文路[カブロ]も是に似たる名義ならん歌
投壼投扇興
漢土より渡りし投壷といへる弄
図の如きの壼へ箸の如の竹をほふり付壼の内へ立つ上に乗るに各名有て高手下手の遊戯有我朝の投扇興は是より出たるなるべし文化中大に流行して今稀に遺る源氏の巻々の名に准らへ五十四帖の香の図に思ひよりしにや風流なる遊び也予以前ふと是を五十三次に転じて譬はゞ
直[チヨク]に扇のもたれし時は原とか吉原とか富士の容と見夢の浮橋は瀬田か矢矧と見立て草津とか岡崎と呼扇のそれて山越残念といふべきを亡命残念といはんと戯れし事有可笑
茶佳否記餒甞会
大内の鶏合は闘鶏闘草[トウソウ]は草合菖蒲合菊合とてやん事なき方の翫弄にて草[クサ]箪笥といへるに入て闘す事也闘茶は近来煎茶の流行せし折専ら弄て闘香の式に倣ひ花月の式茶佳否記[チヤカブキ]などせしが果は新奇を巧てきゝ茶を止め土俵の内へ茶盆を仕こみ天地人と三枚の札にて行司双方へ茶をつぎ唐団[トウウチワ]を上て表徳[ヒヤウトク]を呼び茶組は正面の壁に張有左右の人は頤に褌を耳より懸呑より早く三枚の札の内是と思ふを出す行司勝の方へ団を上負の方は跡へひく勝者は五人びらい十人びらいにも及ぶ是も古しとて餒甞[アンナメ]会と云事を思ひ付たりいわば虎屋駿河屋東雲堂〔大手饅頭〕銭屋〔丹後〕など菓子に名高き家の餒を求め懸目何程に水何程と定煮て吸物椀に盛甞分[ナメワケ]て一二三四の式に当る当日の床には菊咲や露を家内の甞る程と書し月居の軸物を懸抔して戯れしが長くしては飽易く一両度にて止たりきあゝ痴なるかな腹のみ張ていと苦しき戯れなりかし
囲碁将棊
琴棊書画は貴人の翫弄なれば卑賎の者のすべきにあらねど中にも碁は本因坊棊は大橋とて家元有て賎しき者を此業に達する時段を免され姓名も記さるもの也摩迦羅大々将棋大正棋は名のみ聞ていまださしたるを見ず中将棋すらさす人少なく唯世上にもてはやすは小将棋也是を幼童にもたせば指方いくらも有て何の書にも遺らず十六武蔵は別に盤あれども先王詰[ヲウツメ]はさみ将棋駒の山崩[ヤマクヅシ]都詰[ミヤコヅメ]三挺並[テウナラビ]三枚飛廻[トビマワ]り将棋は道中双六に倣ひし物か三挺の駒をふつて賽にかへたり
立は十
横は五
逆立は廿表は一裏は無十二詰[ツメ]とは十二枚の駒にて王を囲ひ外に余りし駒は採つて囲ひの内に打也駒読五挺並など種々の手段有されども勝負にかゝわれば深くは樗蒲[チヨボ]攤打[ダウチ]に似かゝりて野鄙なるべし
祭将棊
俗に浪華には祭将棋とてさせる高手にあらぬどし此勝敗に食事を忘れ少しく勝の手あらわるゝ時は高声に鼻唄一口浄璃瑠など出るを最上の楽みなるべし是に限り地口合[ヂグチアヒ]云ありお手はと問れ銀桂町の夜店角銀一歩銀桂船子に力を合せ中飛[ナカビ]のうるめ仇なはし歩のちらし書おも白し頭も白し尾長鳥また待の綱かなどゝ現になつて云もの也此道を好ぬ人の口には親の死目にも得あうまひと識らるも此道の失なるべし
むべ山骨牌
歌軽多は続松と云て貝覆〔貝合せ〕とおなじく古く上々女﨟方の弄物也むべ山骨牌を見立絵に書たるは何人の作かしらねども中〳〵卑俗のせし物にては非ざるべし忍ぶる事のよはりもぞするの画に石川五右衛門忍述の図を書人こそしらねかわくまもなしに下女くる巻にて井の水を汲図われても末にあわんとぞ思ふお千代半兵衛の中に八百屋の婆立いる図などそれ〴〵俗に近く婦女子の目に付易き様に書り古き骨牌に謡曲の次第をフシ付にて書画には仕手の姿を画し有古きはやり歌の文句を文字に書合せて画し物も見たる事有唐山の水滸伝百八人を画し物革にて製せし札三枚計煙草入に製せしを先年長崎の俳友より見せし事有珍敷物也
仏像双六
双六も古き弄物にして今廃りたりとはいへど時代の蒔絵したる盤所々にあるを見ても以前流行せし事思ふべし公卿補任官位昇進双六有仏像地獄極楽双六有共に廻[マハ]り飛と混じたる有此仏像双六の中に餓鬼道の苦しみを書て血の池剣の山を廻りとゞは極楽浄土に入て蓮台に乗仏となるを上りとす此中に泊りといふベき所に永沈[ヤウチン]とて爰に当れば長く沈むとの意にて止りはたの者は賽をふつて極楽へ行ど永沈は其侭落る事を云未来永々奈落に沈むと云心にて此双六に限り永沈と云詞有りて仏書経文に見へぬ語なるを浄瑠璃の文句にわしやよふちんに逆ふたわいのとどふと臥す〔軍法富士見西行江口の里写画の愁〕など是双六の詞なるを仏語と思ひ誤る物也
道中双六
今幼童のもてあそぶは東海道五十三駅或は都名所など也廻り双六の中に飛[トブ]所有て東海道には大井川川留とて一順廻る内見合有京名所には島原出口の柳桶伏[ヲケフセ]有泊りと同じ道中双六は享保年間伊達染手綱〔近松門左衛門咲く恋女房の原本〕自然生三吉双六をする条あればいと古きよりの弄也としるべし
早口そゝり
世に早口そゝりと云は洒落浄瑠璃の新関[シンセキ]にて小田原外郎売の長〳〵とせし文を早口に弁じる事也端唄に言興寺[ゴンケウジ]とて有は此早口そゝりを集し物也先一二いわば天王寺の塔々念仏十[トウ]申たら仏になるといな是を息なしに十遍いふ也客一人に柿一つ客二人に柿二つ是を又息なしに客十人に柿十を迄云法性寺の入道前の関白太政大臣さん法性寺の入道前の関白太政大臣めといふとお腹を立なさるよつて今から法性寺の入道前の関白太政大臣さんと申ませふなア法性寺の入道前の関白太政大臣さんと是も息継ずに云事也孫兵衛後家〳〵〳〵是を合せて三孫兵衛後家ひつへき長へき干はじかみなた豆摘蓼粒山椒野撫子野石竹菊桐〳〵三菊桐是を合せて六菊桐向ふの長押の長薙刀は誰が長押の長薙刀ぞ兵部が屏風を刑部にかわせて刑部が持ずは刑部が坊主の屏風にしよ殿様の長袴若殿様の長袴武具馬具三武具馬具是を合せて六武具馬具のら如来〳〵三のら如来六のら如来是を合せて十ニ野等[ノラ]如来まだそれを合せて廿四のら如来蛙ひよこ〳〵三ひよこ〳〵合せてひよこ〳〵六ひよこ〳〵向ふの溝から鯲ちよつとによろりと書続れば実に際限なかるべしハテたわいもない
竹田機関
機関は竹田近江の戯場にて例年春毎に見せ阿蘭陀人来朝の時は見物させる事なり其頃の機関と云は唐児の人形に筆をもたせ氈の上に紙を置ば口上に随ひ福寿などの文字を書或は大きなる力士の躶木偶に階子差の曲持をさす又は皷を改見せて箱に入宙に真紅の紐にて釣口上にまかせ天皷の謡に合せ箱の中にて打などにて有し此機関の前芸として子供の役者に狂言をさせる是を竹田狂言とは呼たる也
大道具
卅年此かた機関一変して小さき木偶載[ノセ]たる台有少し間を置て岩山に樹水など飾りたる台を居て浄瑠璃又は唄にあはせ木偶の働き有て樹木折て橋となる木偶此上を伝ひて岩台に移り放れ業を見せる事を專らとし其台砕て檀尼鉾の類ひ又は神社の餝り付となる是らを前芸として次は厳島の回廊又は高野山の名所或は都の名所廻りとか号けて糶上せり下大道具を見せしも今は難波新地横堀新築地等にて見世物小家をかけ見する事にはなりけり
軽業放下師
軽業は多く宮寺の境内にて放下師の輩往来に銭を乞ひ仕たる物也独楽廻しなども手妻にても今は小屋を建高小屋物とて歌舞妓所作事等に似せて見世物の第一とはなれり予が幼年の頃は見世物といへは駝鳥猿猴猿人魚の干物海亀抔を云たりしが近世駱駝の後は見世物の名は細工物に混ぜり
細工見世物
文政の始天王寺外にて一田[イチダ]庄七籠細工にて涅槃像を見世物とせしより羽二重細工貝細工瀬戸物細工など大きなる細工ものを見せしより果は梅細工菊細工と四季の草木を細工ものになしけり予が幼年の頃は難波の躑躅野田の藤浦江の杜若三番の荻菊は高津の綿[メン]鉄天満の大源など四時の花を相観せしも今は見世物に位を奪われて風流日々に衰へたり
猿狂言、馬芸、力持
以前馬芸とて野村柳吉〔女馬のり〕橘宮丸等馬に乗て道成寺松風此兵衛などの所作を難波新地夕納涼にて見せたるが是も今は廃りて近世樋口矢多丸にて一変したり
猿の狂言女と熊の角力など古風となり葛籠抜[ツヾラヌケ]を始れば隣の小屋に壷抜釜抜の看板を出泥と清水の吹分を見すれば棒呑刀呑を始る歯ぶしと号て楊枝の先に数十貫の重石を付て噛上れば眼力とて両眼をむき出して十貫の銭をかける山雀に歌骨牌をとらせる様にはなりたり
木村与五郎土橋久太郎とて数百貫の重石を曲持して米の俵を足に履腹持中ためとて種々の曲持して関角觝にまけず威を張りしもいつの間にか廃り田舎の八幡天王の社前に貫目を彫たる石のみ遺れり
座敷影画
昔より廃らぬ物は座敷遊びに用ゆる影画なり硝子の画板を逆にはめて人物花鳥の働らき近江八景宮島金閣寺天神祭りなど古風にて品よき弄び也是も近来鳴物囃子を入写画と呼て四ツ谷怪談などをす甚下卑[ゲビ]たり座敷手妻座敷影画など古風なる所を愛すべきもの也
おどけ開帳
文化中一心寺にて嵯峨清涼寺の出開帳有て宝物の内牛の華曼の会説[エトキ]僧に呑龍と云弁者出て大に群集せりそれより呑龍堕落せしがおどけ開帳と号てわけもなき細工物にて仏像の作り物して阿坊陀羅経[アホダラケウ]とてなが〳〵と自作経文を唱ふ昔の志道軒に傚ふかわしらね共果は滑稽噺家に混じて道楽懺悔の願人坊に類す惜ひかな
子守歌
年々歳々流行に移り替るは世の習ひなれども古風を失なわぬ物は幼童の子守歌也「寐ん〳〵ころゝん寐んころや寐たらかゝ様へつれて行起たらおかめにとつてかまそ抔諷ひよふには国々の訛も出ぬれども唄の唱歌はかわらず「大坂道頓堀竹田の芝居銭は安ても面白ひ「お市こけてこひ菜種の中でサ菜種折らぬよふにこけてこひ「わしがちいさいときやお亀といふたがサ今は七村の庄屋の嫁とかく古風なれば聞よし平の忠盛白河法皇より懐胎の后を下され出生せし清盛なれば幼稚の時院の子〳〵と云て育しとは誠しからず思へども天神七代地神五代にも子守歌はなくて叶わじ
順礼歌
世に西国卅三所の観音を廻るに順礼歌とて詠歌と唱ふ物卅三首何人の作ともしれず文雅ある人は是を拙と笑へども歌のよしあしにかゝわらず古へより諷ひ来りて一文不通の人もおなじ節にて諷ふを聞ば経文を唱ふるこゝろ也畿内近国を廻るを西国と呼ぶは東国の人の詞にして第二番紀三井寺の歌にふるさとを遥々爰に紀三井寺花の都も近くなるらんとは関東の人の詠なるべしと云人もあり秩父坂東の外にも詠歌といふ物あれども順礼の唄わぬからは順礼歌は西国卅三所に限るべしたとへ歌は連続せずとも順礼歌は古風の諷ひ物と悟れば間違あらじ
潮来節
角力取節といへば「おゝせおせ〳〵下の関迄はと諷ひ新潟ぶしといへば新[ニ]潟出た時や泪で出たが今はにがたの風もいや潮来ぶしと聞ときはいかなる古風なる唄もやと予鹿島香取を遊歴の時潮来[イタコ]に遊びてもと歌を聞に「大きな陽茎の質流れいくら待ても受手がないヤツトセヨイ〳〵此唱歌也と聞て愛想尽たり
伊勢音頭
伊勢街道の音頭といへば大坂出てから早玉造笠を買なら深江が名所深江菅笠は古き名物にして万葉に古歌有り〔予が著述綺語文草に出す〕奈良より青越[アヲゴエ]山田松坂津椋本[ムクモト]窪田[クボタ]関より大津迄宿々駅々に音頭あれども委く諷ふ者なしよふ〳〵「伊勢の豊久野[トヨクノ]銭懸松よ【下略】坂はてる〳〵鈴鹿は曇る【下略】など人口に唱へり
馬士歌
馬上歌は負りやナアヱまける程ナアヱ長持や軽ひ「富士のナアヱ白雪ア旭で解けるナヱヽ娘ナア島田は寐てとけるナヱヽそふだか〳〵是を才領歌とも云木曽街道の馬士が諷ふは小諸節又追分節とも云又諷ひ方一流有木曽に桟大田の渡し和田と碓井がなけやよかろなど諷へり
船歌船頭歌
船歌といへば将軍家御船御成の時又は大名の御座船に諷ふて「めでた〳〵の和歌松さまよヱヽイ〳〵など謡ふなど古風を遺せり小豆島の船頭ども「爰はどこべやとなア船頭衆にとへば爰は須磨の浦敦盛の石塔ヨイ〳〵ヨヲイと澱川下船に謡ふも睡を誘ふよき伽なるべし
臼挽田植歌
田舎には臼挽歌田植歌は其国々の訛有りていと風流なる物から翁も奥の田植歌とほめ来山もよごれぬ物や歌ばかりとは詠ぜり
豊後節
都会に名のみ伝ふるは薩摩ぶし豊後ぶしなどにて其余国名を呼ぶは受領せし太夫の人名多く京摂の宮薗宮古路国太夫東都の一中加東肥前ぶしなど今は廃りて謡ふものなし
浄瑠璃節
浄瑠璃の東越前西筑後も今は混じて義太夫と惣名に呼冷泉表具は節の名となり東都に常磐津富本清元とて中興より発り是も惣名を浄瑠璃と唱へり京摂にては是を豊後と云是ら委敷は操年代記竹豊故事に有常磐津の事は近世出版の書声曲類纂に出たれば略して爰にもらせり
ちよんがれ節
歌祭文説経も古き物にて聞て鬼門の角屋敷とお染久松の頃は流行せしものなるべし説経がゝりとて今は節に遺りてちよぼくれちよんがれに同じちよんがれは小春紙治の紙尽し鎌倉山の佐野の隠れ家にのみ語りて女盗賊〔笠松峠〕尾張源内〔明石鉄炮〕順礼殺〔八鬼山峠〕などちよんがれぶし廃りて聞事を得ず六歌仙の喜撰法師の唱歌にヤレ〳〵〳〵〳〵愚僧が住家は京の巽の世を宇治山とは人は云也【下略】是のみ幼女の諷ひ物に遺れり
娘道成寺
娘道成寺の唱歌は元祖中村慶子始て今に廃せず是もと一つの唱歌ならず昔よりふしのよろしき文の佳なる物を此時集めて並べたる物也ふつゝり悋気せまいぞとの条は三勝半七長町の場の院本に有てお園がさわりの文句也かく当り文句のみ類聚にせし物ゆへ此唱歌に添削ならじとしるべし
歌系図
歌景図とて京摂の検校達[ケンギヤウタチ]調端唄[シラベハウタ]の作者は誰々と表徳をあらわせし書有中にも大石浮[ヲヽイシウキ]〔赤穂浪人内蔵助雅名〕晋其角〔元禄俳人〕柳里恭〔柳沢権太夫〕等の作せし物数多あり今時無学の人の諷ふ物から語路の違ひ手爾葉の誤りを論ぜず弾もし諷ひもする物から訳なき事を諷ふさぞ作調の故人達今弾所謳ふ所を聞ば歎ずべし悲むべし
雪の唱歌
近世北船場にて歌三絃に大関とか関脇とか云るゝ妙手の者九州地へ遊歴し糸竹を好める人の座敷へ請招ぜられ主の好を聞くに雪を望まる恋する人は罪深くと唫じければ主大に感じてそれさへ聞ばよし遉浪華に名を得たる人也と雪のみ弾て数金を恵まれたりと道々の好人もある物也遠国片鄙の人なりとて侮るベからず恋しき人は科ありとも迷ふ身からは見ゆべからず待宵後朝[キヌ〴〵]をかこつは恋の情也悪する人は罪深かりさればとて袖をかざして夫[ツマ]じやといふてとは実になりて興ならず片敷袖を褄と見しとの心にて謡ふべし紫女清女が古き物語のみやび詞を婦女子に謡わす物から齟齬のみにて聴もうるさし
青葉の解
青葉と云唱歌は六条の廓の比何都[ナニイチ]とて盲人有て日々廓中へ出稽古に行勾当になるべき官金なくて苦しむ何某の抱へ女青葉太夫も年々親方に借財のみ多くなる歎きの余り此盲人と密に契り共に死なんと廓を抜け出樫[カタギ]木原より丹波地さして走りしが女道にて心更りいかに勤の身の苦しきとて名もなき盲人と情死せん事好ましからず夜明ぬうちに帰るにしかじと情なくも盲人を捨て廓へ帰れり盲人かゝる事と露しらねば夜終[ヨスガラ]山中にて青葉〳〵と呼ども答へず良て夜明ければ往来の人に道を尋ね京に帰り密に青葉が事を問へばかわらず廓に居ると聞怒りに堪兼しかど盲人の詮方なく其薄情を演て作れる歌也こは情なの仕業やなさのみ人にはつらからで悲しみの泪まなこにさへぎりて青葉〳〵と呼べども浜の浜の松風【中略】声ばかりそよとばかりの便もがなと恨歎くぞ哀れなる此歌廓中にはやりて青葉は大に迷惑し其行方をしらずと云へり
謡曲を唱歌にす
端唄は謡曲より出しもの数多有海士八島鉄輪放下僧葵の上虫の音は松虫より出し西行桜石橋邯鄲の類ひ皆謡曲の文を潤色せしもの也道成寺は語りを一直[イツチヨク]せしもの也東都山田検校は琴唄に熊野を其侭に調ぶと聞兼てこの琴曲を聞たく思ふのみにて今に縁なくいと遺り惜し
綾鶴
綾鶴といへる唱歌は新町槌屋の綾鶴といへる太夫放庇せる事を諷ひ物に作られ音は幾世の浮世に響くと賦せり鳥辺山と時雨の松は心中道行の文のみにて情死せしにあらず依て祝儀の席にも弾けり是にも席によりて嫌忌ありて新艘船颪の酒席に八島を弾かず袖香炉はもと追善に作せし歌ゆへ弾初又は婚姻振舞の席にては弾ずともあるべきものなれ
鉤簾の戸
鉤簾[コス]の戸の唱歌に萍に思案の外の誘ふ水恋が浮世か浮世が恋か【下略】此諷ひ出しの文句は由平[ユウヘイ]の発句なり此後乙由の発句に萍やけふは向ふの岸に咲くと云は馴染重ねし遊女と中を裂れ田舎の親類に預けられしうちも女の事のみ案じて一年ばかりの年月を送る親もとより迎ひ来つてなが〳〵の勘気をゆるされ帰宅のよろこびに親類ともに芝居見物に行桟敷に居て向ふの桟敷を見れば死ね死なふと言かわせし女客の膝にもたれ余所の見る目も耻ず千痴の体乙由は遠目に是を見て売女の薄情を憎めども今更かへらず人の心の飛鳥川をかこち色情のあさましきを悟り此句を扇子に書て向ふ桟敷の女がもとへもたせやりしかば女鉄面皮なる身にもさすが耻かしくや有けん桟敷を辷り出たるとなり鉤簾の戸の唱歌其比の口調にしてなれりと云
西沢文庫皇都午睡初編 上の巻 終
西沢文庫皇都午睡初篇 中の巻
目次
一 万歳の唱歌
一 女達磨の画讃
一 正五九月
一 孫の手竹奴
一 粋と通と程の解
一 文七元結
一 八百屋お七
一 三井の家系
一 皷烏帽子装束
一 三十六町一里
一 伏見の里の考
一 庖丁刀
一 兵庫の蕪
一 二月堂の茶筌売
一 飲酒の十徳夏日七快
一 七艸薺を囃す詞
一 男色影間
一 松虫鈴虫
一 金岸の発句
一 曽呂利の画讃
一 懸鈎引墨
一 妓王妓女
一 仮面打の作名
一 扇子の指方
一 鯉鮒の地名
一 甑落月の客
一 燧袋
一 定家家隆
一 遊女町の銜
一 肖柏ノ貫賊に逢
一 鷹匠
一 向島の狸囃子
一 蝶番
一 折助亡六
一 水尾尽
一 宗鑑の物数寄
一 金春の太皷
一 小人の閑居
一 瓢軽者
一 医者の看板
一 杜鵑の蘇生
一 木曽の猿酒
一 鵙の草茎
一 蛸と螂に灸をすへる
一 熊野の大樹
一 閑間の御遊
一 六憎
一 謡曲の発明
一 曽我兄第六代御前
一 慶庵肝煎
一 大平の腹皷
一 山科のノ貫
一 陶淵明の菊
一 文宝の石
一 無芸の大食
一 竊香
一 宗禅の笛
一 隠居一枚起請
一 木端の火
一 煮染
一 雀の隼人
一 飛騨の篠魚
一 鵢鮨
一 鯖の酢
一 北野の連歌
一 茶人への諷諌
一 餝磨の搗染
一 太郎余一郎
一 猪口太郎
一 四方田四方八面
一 上米刎る
一 日披露
一 燈台元暗
一 富士の裾野
一 日想観
一 大雅堂霞樵
一 天明京大火
一 七里けつばい(反物麁物)
一 手枕の歌
一 板倉の明断
一 梓巫子
一 安徳帝忌
一 兜軍記
一 辻能狼籍
西沢文庫皇都午睡初編 中の巻
西沢綺語堂李叟著
万歳の唱歌
万歳は正月十四日男踏歌[ヲトウカ]十六日を女踏歌とて大内にて節会有殿上地下の輩催馬楽をうたひ舞かなづるより発り末の代に千秋万歳といひて余風遺れり今江戸にては三河万歳京摂には大和万歳とて早春に来れり唱歌は無住国師の作のよし云へり
七艸薺を囃す詞
正月七日七種の若菜を囃すは都鄙ともにする業なり六日の夜七種を敲くはやし詞に七草薺唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に七草薺と云つゝ七度敲ば四十九敲なり是は七曜九曜廿八宿五星と合せて四十九の星を祀なりと有職の人申されしとぞ
女達磨の画讃
何九年苦界十年花衣と云祇空の句ある女達磨と云画は英一蝶書始しと云こは新吉原中近江屋の抱に半太夫と云遊女有しが後に大伝馬町の商人へ縁付たり其家に朋友集りで物語の序に達磨の九年面壁の事言出けるにかの半太夫聞て九年の面壁の座禅は何程のことかは浮女の身の上こそ紋日もの日の心遣ひに昼夜店をはること面壁にかわる事なし達磨は九年我々が苦界は十年なれば達磨よりも悟道したりとて笑ひけるとぞ此話を一蝶が聞てやがて半身の達磨を傾城の顔に絵きたるが世上にはやり女達磨の源なりとぞ市川栢莚が画讃にそもさんか是こなさんは誰と前書して九年母も粋よりいでしあまみかなといふ句をよみたりしとぞ
男色影間
男色はもと天理にそむける邪滛にて在家出家の分なく皆いましむべし大明律に云以陰茎放入人之糞門者杖一百此刑の放とは無理にと云事無理業をすれば杖一百との義若衆は男色を売も相対なれば杖に不及か中富郎〔祖慶子富十郎〕と云男色暫時を金千疋の価を以て春宵を圧[ヲシ]たり暫時に千疋を臭淵に投る者必杖一千と淡々は云り〔俳諧師半時庵〕近世迄東都にて葭町京に宮川町浪華坂町に有て若衆野郎新部子[シンベコ]世外子[セグワイコ]影間抔多名有成長に及びては俳優の若女形となる娘方の内を新部子又制外子とも云也いまだ舞台に出ぬを影間といふ他国を飛めぐるを飛子[トビコ]とは呼ぶよし
正五九月
正五九月を三斎月三長月一切諸仏神通月三神変月共いひてもと仏家の詞には正五九月を何事にも忌て屠殺を禁ずるを今世俗祝ひ月と心得たるは僻事なるべし
松虫鈴虫
松虫の鳴声を知呂林古呂林といひ鈴虫の鳴声は鈴を振る如く里々林里々林と云世俗虫の名を取違へ松虫を鈴虫と云鈴虫を松虫と呼ならんと云り松虫の音は松風の凛々と響にちんちろりと鳴は鈴虫なり法師のふる鈴の音に似たればなり
孫の手竹奴
痒を抓の具を孫の手といへど麻姑の手とて麻姑と云仙人の手の爪は鳥の爪の如くなれば皆痒を抓によしと云又一名を木童子[モクドウジ]と云夏日閨具に用る抱籠を竹婦人とも竹奴[ヤツコ]とも云的対と云べし
金岸の発句
彼岸と云はもと仏語にて到彼岸と云事也春秋分の名とし暦に書くわへる事とはなりぬ晋子其角石摺の句帖に金[カ]の岸[キシ]とうたひ侍れど金岸[カノキシ]の二字諸経になしさらでは渡るかの岸と諷ふ時はこがねども彼岸に至るなるべしと前書して渡し船武士はたゞ乗る彼岸哉此帖の跋に元禄十丁丑年重九応山其尾需而温飽酔裏漫投毫晋其角と有俳諧師の墨帖珍らしければ爰に出せり
粋と通と程の解
遊里にすいと云は推量する心にて粋と書万事に委敷人と云義なり東都にて通と云も万事に通達する義なり近世又程と呼ぶ有り程が能ひ程を売るなど云出せり粋通とおなじ所より云出せしならん
曽呂利の画讃
曽呂利新左衛門自画讃と云もの世事百談に縮写せり上々様へあげる
か様に画て京みやげ祇園会やせんきまち〳〵ひくの山そろりと有珍らしければ爰に出す
文七元結
文七元結とて東都にて専ら用ひるは彼浪華の五雁金の侠士雁金文七を賞じて強きを云ふと思ふに文七はもと元結に製す杉原紙の印の名にして至つて古くより云よし隠し売女を地獄と云は清左衛門と云者始しゆへ箱根の地獄清左衛門に思ひよせ地獄と云ちよき船は船頭の長吉を約語せし事は予が綺語文草に委しければ爰に略す
懸鉤引墨
詩歌連俳に点を加へ又回文の書面にも点を懸る是を点と云は当らず懸鉤[ケンコウ]とも引墨[ヒキズミ]ともいへり懸鉤とはそのかたち翠簾の鉤の如く
すべしと也又引墨とは〆夕書状の封じめに書をいふとぞ
八百屋お七
八百屋お七は湯島の天満宮へ松竹梅の額を自書て奉納したりと世に云伝ふれど実は谷中感応寺の祖師堂に常在霊鷲山法華最第一と云額をお七が十一歳の時書て延宝四年辰春二月と落款せしを伝へ訛れり
扨罪を得し事は十六歳の事にて天和二年戌二月也葬所も駒込吉祥寺といへど実は小石川指谷町南縁山円乗寺といふ天台宗の寺也お七が法名は秋月妙栄天和二戌三月廿九日と石碑に彫あり天和笑委集と云書にお七が事詳に記せり
妓王妓女
城州嵯峨往生院の開山妓王妓女は江州野洲郡永原村の北中北村の出所にて恵那[ヱナ]九郎時長の娘也妓王法尼の往生は建久元年七月十五日と中北村の妓王堂に印せり盛衰記によれば妓王妓女が遁世は治承四年にて妓王廿一歳妓女十九歳閉[トヂ]四十七仏[ホトケ]十七と有然れば建久元年は妓王卅一歳也妓女廿九閉五十七仏廿七になるべし往生院にある四人の木像は古作とは見へず中興三誉利貞比丘尼宝永年中に彫刻させしものなるべし
三井の家系
三井越後守源高安は越後守高次の男にて伊勢の国安濃郡一色村に住し高安に男子四人有長子三郎助高時次男治郎兵衛某三男伝蔵某四男則兵衛高俊也高俊の長男三郎左衛門俊貞京に出て賈に服し三条室町に住す四男八郎兵衛高利も亦京に出て新町角に住す高利に男子十三人女子五人有勢州松坂及京江戸に三井と呼越後屋八郎右衛門とあるは此高利にて世産を治る術に妙を得たるなるべし然るに越後の回国松坂にて廃家[アバラヤ]に宿し庭の三つの井戸より金銀銭の精出て往事を告る回国是より三井と呼越後屋と名乗るを鼻祖とするなどは後人出る侭の説をもふけし事にて論ずるに足らずとしるべし
仮面打の作名
仮面工に日光弥勒夜叉と云は〔承平元年に翁三番叟を作〕次を山城の住人文蔵と云〔長元四年に歿す〕次を大和竹田住小牛清光[コウシキヨミツ]〔永徳二年に歿す〕次を越前大野住赤鶴吉成[シヤクヅルヨシナリ]法名は一透平安城四条住龍右衛門志重政[サクワンシゲマサ]〔応永十九年に歿す〕次を越中日水宗忠[ヒミノソウチウ]氷見[ヒミ]と計も称せり次に和泉貝塚住越智吉舟[ヲチヨシフネ]次に鎌倉住徳若忠政[トクワカタヾマサ]と云〔寛政二年に歿す〕次に三光法師〔もと越前平泉寺の住僧のち叡山に移り住〕是出目[デメ]助左衛門が父也とかや日光より三光迄を十作と云〔又実作とも云〕又越前一乗住福来政友[フクライマサトモ]〔暦応四年に歿す〕平安城住増阿弥久次[ゾウアミヒサツグ]〔文明十一年に歿す〕徳若春若[トクワカシユンワカ]は忠政の甥にて鎌倉に住す〔文亀元年に歿す〕大和住人石翁兵衛[イシワウビヤウヱ]〔享禄四年に歿す〕宝来千種[ホウライチクサ]と此六人を六作と称す出目助左衛門は〔大永七年亥に産れ元和二年九十歳にて歿す〕其五代を洞雲康隆[トウウンヤスタカ]八代を洞白[ドウハク]〔正徳五年歿す〕九代を洞水満喬[トウスイミツタカ]十代を洞雲満志[ミツモト]と云今は十四五代にも当れるよし
皷烏帽子装束
皷の胴の名所
経筒 乳ぶくら 如孤[ヂヨコ]といふと云なり
烏帽子の前へ靡たるは平礼[ヘイレイ]うしろへなびきたるは梨子打[ナシウチ]と云装束の袖にひだをとるを掻[カク]といふ也古き物語の書に袖掻合せとあるは是を云也
扇子の指方
扇子を随身するには常には手に持也懐中の時は柄の方を懐中へさし入る也右の方の腰にさすを笛指と云後へ指を矢筈指と云左の腰にさすはなき事なりと或有職の人申されしとぞ
三十六町一里
三十六町を一里とする事は鯉の鱗尾頭かけて三十六枚有鯉は里なれば是にかたどりて三十六町を一里とするとは付会の説也天に廿八宿存地に三十六禽有地霊の数を表として三十六町を一里とするにや又周易に一三五七九を天の陽数とし二四六八十を地の陰数とす六は地数の最中なれば地数に用ゆ六尺を一間とし六間を一段とし六十間を一町とし六々の数三十六町を一里とす
鯉鮒の地名
川魚に鯉鮒といへば鯉は司にして三都に表し駿府甲府の府中の符を書て鮒に当るかこは予が杜撰の癖考かもしらねど是につゞきて津と文字を書所は繁華の称なるべし摂津安濃津〔勢州〕大津〔江州〕皆入津の賑ひを賞ず草津〔江州上州〕などは入津の地ならねど旅人の往来多きを賞ず沼津〔駿河〕なども是につぐ識者にたゞすべし
伏見の里の考
城州の伏見は平安城を遙に伏拝の和訓にして大和菅原伏見が岡もならの都の頃帝都の方を拝せし所也難波の伏見の里は今の三津寺八幡の辺にて高台の帝都を伏拝し所也と云り中仙道の伏見は伊勢両宮の遥拝所か八幡のふし拝みなどゝ古書に見へたるも此類なるべし
甑落月の客
禁中にて月水のある女を手なしと云とぞ御調度に手をふるゝ事ならざれば手有てもなき如くなればかくいふにや世俗に手桶番と云も穢れを洗ひ通しにすると云心か御客と云は須磨の俚言にて月の御客と云謎なるよし因に云徒然草に出たる御産の時甑落[コシキヲト]しと云は御胞衣の滞りし時の咒と有も腰気[コシケ]落しと云事也東都にて手なしを猿猴坊とはいかなる所より呼ぶか其謂をしらず
庖丁刀
丁の字をよぼろと訓じて下部の者の事也仕丁使丁の類也火丁と云は一隊の飯をかしぐ者也俗に飯焚と云又庖厨の下部を庖丁と云其者の料理に用ゆる刀を庖丁刀と云俗に庖丁とのみ云り又料理する事をもいにしへより庖丁と云は古き物語の書にも見へたり
燧袋
燧袋は三角に縫もの也三角は火の形也火打は旅行には必らず持行又餞にも送りし物也神事火を改るによりて穢れたる火なりとも燧を用ひ火を打かけて清浄にする専用の物也又紙服[カミコ]に火打と云物を付燧袋の形は三角なる物ゆへ其形容を摹せしなるべし
兵庫の蕪
慈鎮和尚蕪菜を貰ひにやられたる折の狂歌に武士の射るやひやうづの蕪菜をよつぴきしめて十五束たべ扨ひやうづの蕪とは兵津は土佐の地名にて蕪菜の佳なる所のよしヒヤウズは矢の辞也はつしと立はたと当るへいふつと射るなど皆箭の詞なり
定家家隆
或人話の序に定家[サダイヱ]家隆[イヱタカ]と云ものなくて定家[テイガ]家隆[カリウ]とのみ称するは何のゆへぞと問尤らしき老人の答に古人を崇るにはあらわに名を称せず夫ゆへ訓を除て音を用といへり然らば何とて人丸[ジングワン]赤人[シヤクジン]とは称せざるやといへば老人答るに詞なかりし迚跡にて一座腹をかかへぬ
二月堂の茶筌売
奈良の二月堂にて昔は青竹にて麁末なる茶筌を売り老若男女詣たる印として求かへり是をもて茶を立客をもてなすこと南都の風なりしを今は此茶筌絶てなし青竹の茶筌の麁なるに茶を立て老を養ふことならわせとせしを今は価貴き器にて茶をして心を労し寿を縮る人少からず昔の人今の人と懸隔ある事かくの如し
遊女町の銜
遊女町をくつわと云は文字に亡八と書て所謂孝悌忠信礼義廉耻の道を亡ふよりの名也と説あれど又一説に昔吉原の浅草草に移されぬ前は今の伝馬町に廓を構へ丸く堀をほり其中に十文字に街をつけ是を娼家となし廻りに茶屋を置しと也中の通りを十文字にわけしゆへ銜町
の称是より出ると此説の方近からん歟
飲酒の十徳夏日七快
飲酒の十徳は礼を正し労をいとひ憂を忘れ欝をひらき気を廻らし病をさけ毒を解し人と親しみ縁を結び人寿を延ぶ又夏日の七快とは湯浴して髪を梳る掃除して打水したる枕の紙を新にしたる雨晴て月の出たる水を隔て燈火の写る浅き流れに魚の浮みたる月のさし入たる共に柳里恭の詞なりおもしろき文也
肖柏丿貫[ヘキクワン]賊に逢
壮丹花肖柏は西山に居られし時百金を賊に奪われ丿貫[ヘキクワン]は山科の草庵にて茶器を売たる銭七十貫を盗人に取られたり盗賊は金銀と衣服を奪ふ物なれば在俗の人は格別にして世を捨たる佗人華美の衣類と金銀は儲ふべからず家の調度もなるだけは麁なるをよしとす是賊を防がん第一の用意なるべし
鷹匠
昔鷹匠とて公家衆禁野[キンヤ]片野[カタノ]辺に出らるゝ園[ソノ]とは参議正三位基氏卿の流を云坊門とは権大納言宗通卿の流を云楊梅[ヤマモヽ]とは太宰大貳季行卿の流也但園の基氏卿は弓馬に達し鷹犬好み其妙を得て此流を持明院と云鷹犬の故実を記して十巻書と云秦[ハタ]下毛[シモツケ]両家は随身の鷹匠也此芸は百済の酒君より伝はり文安四年の頃波多野豊後守尚政[ナヲマサ]と云御所の鷹飼口訣を記し一色内蔵助親行[チカユキ]に伝ふ又蒙求臂鷹往来の作者松田左馬助元藤[モトフヂ]〔法名宗岑〕是は下毛[シモツケ]野武[ノタケ]氏[ウヂ]の弟子也と云又百済の米光由光[ベイコウユウコウ]の芸を伝へしは出羽守源斉頼[ナリヨリ]無双の鷹飼にて其芸武家に伝わり信濃国諏訪の贄鷹[ニヱタカ]下野国宇都宮の贄鷹等の徒皆此斉頼の流を相承す祢津神平が流は諏訪の贄鷹の派にて祢津左衛門尉道直[ミチナヲ]の子を神平貞直[サダナヲ]〔其子〕神平宗直[ムネナヲ]〔其子〕神平宗道[ムネミチ]〔其子〕神平敦宗[アツムネ]〔其子〕神平宗光[ムネミツ]〔大宮新蔵と云〕酒君の流と米光由光の流と祢津の家に一統し相承すと云宗光十五代美濃守信直[ノブナヲ]〔入道して松鴎軒常安〕此弟子に屋代越中守吉田多右衛門家元[イヱモト]熱田の鷹飼伊藤清六小笠原某羽根田某横沢某荒井豊前守平野道伯等皆新得発明する所有て各一家をなす是鷹飼流派の大概なり
太平の腹皷
狐は奸智有て疑ひ多き故に彼が邪にひがめる性を忌て人愛せず狸は癡鈍にして暗愚なれば人も憎まず予先年東都新場に寓居の頃夜陰に及びさも面白く太皷を打音一二町脇にて聞へり戯場町〔葺屋町堺町を云〕迄は八町有て鳴物聞ふべからず又浪華の如く市中にて鳴物囃子をなす如きを彼地は禁ぜる物から影間茶屋〔八丁堀に有今は廃してなし〕にて茶番狂言にて有かと思ふに毎晩〳〵深更に及び聞ふるゆへ或日渓斎英泉〔画工茅場町植木店に住む〕方にて此話に及ぶ英泉云是狸囃子とて九鬼丹波守屋〔新場中の橋東話の屋敷〕にて狸の囃す也屋敷の内にて聞てもやはり一二丁脇にて聞ふる也と太平の民は皷腹すと古語にもいへば狸囃子は則腹皷にて目出度例にや
向島の狸囃子
此後六ケ年目に又東都へ行浅草に住ふ戯場は薄暮に果して〔江戸にて芝居の果るをはねると云なり〕深更に太皷聞ふる様なし吉原十町余の道〔芝居町三町大手八町有〕にして中々聞ふる筈なし其上川を隔て〔隅田川也〕東に聞ゆ向島は小梅牛島寺島等にて葛西〔葛飾郡に東西有て云也〕の百姓なれば太皷の囃子深更あらん様なしと怪しみ乍ら其音を友として寝る事とはなりぬ是やはり狸囃子也と云又此近在に廿五座とか唱へて田舎の神事祭礼には社頭に家体を組古雅なる仮面を着て壬生狂言に似たる事をす其稽古を在々の若き者晴雨を論ぜず夜に至ればさらへるを向ふ島の狸囃子と唱ふとぞ八町堀は市中なれば真の狸の業也向ふ島は百姓の囃せるならんと思ひぬ土地に住ものは怪しむ事なし
山科の丿貫
山科の隠士丿貫[ヘキクワン]は利休と茶道を争ひ利休が媚ありて貴人に寵せられ諂多き事を常に怒り利休人の盛なるを知て其衰ふる所をしらず情欲は限りあり知れば身を全うし知らざれば禍を招けり蓮胤は蝸牛にひとしく家を洛中に曳我は蟹に似て他のほれる穴に宿せり暫しの生涯を名利の為に苦しむべきやと丿貫世を終るの年自書たる短冊を買得て灰となし風雅は身とともに終るとて残しぬ無量居士と号す
蝶番
枼[テウ]は双びて離れぬ物に用ふ蝶は双び飛ぶ鰈は双び行褋[コガケ]も左右の手を通し儿蝶[キチヤウ]も左右を打合すもの也鍱[テウツガヒ]は大約一つは打ず
上下に二つ打てば蝶番[テウツガ]ひと成りて一つうつおりは鍱[テウ]と計呼事ならん
陶淵明の菊
陶淵明は菊を翫ぶ祖の様に思ふは非なるべし菊を東籬の下に採とあれば摘採て薬用食用に充られしにて桓景が重陽に高きに登りて呑む酒に漬す類ひ成べし元稹が衆華の中に偏に菊を愛するにあらず此花開きて後更に花なしといへるもことに賞するにあらぬを云り菊は花の隠逸なる物と茂叔のいへるも唯叢中に交て見ゆるを哀と思ふなるべし今世の如く根を分ち一茎数十の金に代るは繁華の重畳せるもの也花も隠逸ならねば翫ぶ人も隠者ならず和名にはからよもぎといひ又翁草[ヲキナグサ]とも異名する也
折助亡六
東都にて武家に仕ふる僕を折助と云は折助と呼ぶ者ありての通称なるべし椿の花に詫助の名あるが如し又一名ガヱンと云は寒の冬も袷一点にて苦にならぬは火焔にもゆるが如しと云心にやグワヱンを詰てガヱンと云は東都の俗語也京摂にて是をモウロクと云是も仁義礼智忠孝の六を亡といふ心にて亡六ならんとも云又一説に城外へ用に出て暮六つ迄に帰らずば門の出入かなわねばもう六つが鳴つたか〳〵と耳を立るゆへもう六也といへるは少しく滑稽者の助言なるべし
文宝の石
湖上李笠翁〔李漁〕の語に机辺の翫物文宝の類ひを清煩悩といへり清の字下し得て面白しと閑田子蒿蹊は申されしと也
水尾尽
和歌に詠ずるみをつくし常につを濁りくを清て唱ふるは非色是は水尾串といふ事なればつは助字成べしさらばつを清みくを濁てみをつぐしと呼を音便ならんと云り
無芸の大食
世に言行に飾ある者を見えをすると譏れども見えは先礼の端也見へなきは不礼なる物也人は自負するをもて吾人ともに勤るは自負も亦道具也自負にも見えにも差別あるべし或人大酒を好東坡は竹なければ人をして俗ならしむるといへども我は劉伯倫李太白に倣ひて一生此世を過さんと思へりとて只酒飲事を一芸と自慢して外に何の能もなし能なし男が大酒したりとも何もおもしろき人とはすべからず劉伯倫李太白は唐士にして天下を治べき程の器量ある人なれども侫人上に有て賢者を退くる世なれば用ひられざるを知り自避て其国を去る時を憂ふる心より歎息しそを忘んとて飲酒なれば天下の酒客ともいふべし只酒好にて大酒する族は生酔の糟喰ひなり大酒大食は多く無芸の人に有り慎しむべし
宗鑑の物数寄
古田織部山崎宗鑑が宅へ茶の湯に行れ暮に及迄語られ打くつろぎ寝転びなどせられしまゝ御裾へ小袖にてもかけ上よといひしまゝ召遣ひの者広蓋に小袖をのせて織部殿にきせかけしにとめ木の香すぐれて匂ひしを織部殿申さるゝには宗鑑の物ずき是にてしれたり香はよき木程稀なる故いかにも少なく大切に聞にてこそ其誉も有此よき木をか様に沢山にくゆらせては香の意に叶わずといはれしと也
竊香
或貴人常に坊主共に空炷の伽羅をわらせらるゝ時四角に割て削屑は坊主共が配当しける事常也或時新参の小姓に此木をわれよと仰られければ御用始とて次に出四角に割て四面の割屑微塵も散さず割たる木の側に乗せて御前へ出しければ御機嫌損じていつも坊主共が割て出すとはかわり薼芥の如くむさくろしき仕方也坊主共割直せとある坊主例の如く割屑を配当して美しき所ばかりを差上ければ是こそと仰有て暫思惟して伽の人を召かばかりにも違ふ物歟と尋給ひければ伽医者申けるは坊主衆は屑を包置て次々の御用になすべき致方ならん御新参は律義真法に屑まで差出し候事お次御用の心いまだ到らざる也と申に笑わせ給ひ新参を召て坊主共は屑を盗むにぞあらん古人も竊香と書置侍れ責るに不及我はあほう也と御機嫌共に宜しかりけると也
金春の太皷
金春三郎左衛門は太皷の上手なりしが右の目あしかりしゆへ出端見にくし夫ゆへ自然と橋掛りの方へ顔曲りしと也其弟子真似て皆顔曲て打観世新九郎生れ付やみ癖やみ是も顔曲る也門人同じく曲て打幸清次郎かけ声甚あしゝ皷は上手也弟子共皷を似せる事叶わず声のあしきをまねる人々笑へば流儀也と答ふ西施が顰を倣ふ物也近来歌舞妓俳優に此徒甚多かりし
宗禅の笛
尾州のお抱へ笛に名を得たる森田庄兵衛〔後宗禅と云〕尾州にて御客の節松風の囃子有し時シテは喜多七太夫太皷葛[カド]の一郎兵衛小皷幸五郎治郎各支度出来ける時庄兵衛見へず御座敷より早く始よと度々仰下されけれども庄兵衛見へず諸所尋ける時程過てふら〳〵と出来れり皆々せり立いかゞ〳〵といはるれども少しも動せず二便滞れは業ならず頻りに腹もちあしくなりし故隠所へ行しなり只今腹くつろぎ過たり是にてもまだ笛は吹れず今少またれよと云元来庄兵衛は不足の質ゆへ各弥せきたち御催促度々にて上の御機嫌甚あしく弁もなき男かなとて呵りけれど猶々騒がず各も其せきにては気たかまりて必定松風の位には至るまじ今少し心を落し付て出たまへ尾張様の御機嫌に違へば御出入止らるゝ計り芸者の一芸を仕損ずるは一世のみならず末代迄の瑕瑾也とて烟草盆引よせけるに各あきれながらも尤也とて感じけると也此松風殊の外出来にて尾州侯にも委細聴し召庄兵衛に御褒美有しと也
小人の閑居
小人閑居して不善をなすとあれども小人ならずとも閑居して不善をなす者すくなからずされば独居の閑を楽しむ事はかたし大約は拠なく隠居する輩世間に多く自得して世薼を避思ひ捨て身を遁るゝ者は稀にして隠居しながら物を貪り世路に執着するは隠居に似て隠居にあらず隠宅に標札せる抔予是を顕居と呼べり世に顕れ居れば云也諸事古語に反して貞男両女にまみへずとて女房のみを貴しとする人もあれば真の隠居は予のみにて世間有来りの隠居は皆顕居なるべし山端の念仏堂の庵主正念坊の行水は淇園が雲萍雑志に見へたれば此人の書たる一枚起請と辞世を出す
隠居一枚起請
隠居一枚起請「もろこし我朝のもろ〳〵の智者達の致し申さるゝ隠遁の隠にもあらず又学問して道の心を悟りて致す隠遁にもあらず唯不用の者の為にも世の妨となるまじとさへ心得れば疑ひなく気楽なるぞと思ひとりて隠居するより外別の子細はさむらはず但し肝心の世渡りと申ことの候へども皆衣食住の内に籠り候也此外に欲深きことを存ぜば諸人の憐にもはづれ候べし仮令薦をかぶり糟糠を甞人の軒端に臥せるとも食ては寐食ては遊ぶ君が代の有難を忘れば身は安楽になりたりとも生た甲斐もあるまじく候穴かしこ」辞世「来て見ても来て見ても皆同じこと爰らでちよつと死で見よふか
瓢軽者
東都の俗言に物にこぞり戯るゝ侠者を瓢軽者と云豊太閣の出陣とさへ云ば千生瓢箪の指物を一番に持ゆくゆへ滑稽者流は云浪華にても馬鹿口を敲く者を又ひやうはくをいわしやると不通の老婆など云是瓢泊とて矢張瓢軽と同種か但し漂泊の身は軽きゆへ軽口とて口の軽きと身の軽きをかけて云かとも思へり
木端の火
物の役に立ぬを河童の屁と江戸では云へりかつぱは河童[カワワツパ]の略語にして京摂にて河太郎也此屁を聞し者も見し者もあるまじ是木端の火にして煮焚する程の間にもなるまじ俗に木端石と云は誤也木端は木のきり端にして時頼記の浄瑠璃にも炭の折か木の端かと云様な此坊主と有木の端則木端[コツパ]の事也
医者の看板
今京摂にて医者といへば僕に紺看板を着せ家々の印或は苗字の一字を染上る物を着す此始りは慶安中に由井の正雪門弟の輩途中にて駕にあへば他行なりとて早く知るゝ様にと由井の由の字を看板に染こませたると也東都には武家多く駕に乗る者も多きがゆへ此事有今時両三軒の病家を見舞藪医者僕に印付たる看板を着する事実に堪たり
煮染
食物の内煮染といへるは醤油にて煮さへすればにしめと心得たるは僻言のよし去る料理家に聞り松魚のだしをよく煮出して酒又醤油を化し煮べき品を分量して其汁を其品に煮付れば染る也是を煮染といふて十種あらば十遍に煮る先の余り汁にて次の物を焚時は鰹酒醤油の味ひ先の物に染て漉水にて煎るが如し
杜鵑の蘇生
信州高遠の者冬日薪を伐に山へ行切たる節木の中に郭公の死したるを見出し是は薬種にもなるべき物と持返り箱に入置しが其後忘れて翌年三月の末頃にかの箱をひらきしに件の郭公飛出て去りけり古歌に奥山の朽木に籠る郭公夏を待てや子には鳴らんともあれば秋より春迄は朽木の中に隠れ居るにや冥途の鳥と云ば再び蘇りしかもしるべからず
雀の隼人
高野山に時鳥の帰り後れたるが木の節穴などにかゞまり居てやゝ寒くなる時は得動かす餌食[エバミ]ももとより得せぬを雀がつどひて餌をあたへ来る年の夏に及ぶ迄養ふいと不思議なる事にて是を雀ほいとゝ云ほいとは乞食の事にて雀の為の食客と云事也とぞ
木曽の猿酒
岐蘇の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑たるがこは深山の木の股節穴などの中へ猿秋の木の実を拾ひ取運び置たる雨露の雫に熟し腐るを山賎見出して持返り麻の袋へ入絞りし物にて黒く濃して味渋みに甘きを兼ていかさま仙薬ともいふべき物也
飛騨の篠魚[サヽナ]
飛騨の高山の名物篠魚[サヽナ]と云魚は三尺余りの笹の節に生じる魚にて初夏の頃谷川に落る其味鱒の如く美味也と聞未魚とならざる内を篠の侭一枚持返り予に見せたる人有
か様なる容にて二尺七八寸もある笹の中程の節に三寸計の笋[タケノコ]付有自然と魚の刎たる形有てよみ鰯程の大きさ也笋の先には早鱗見へて尾先あらわれたり渓川を少し隔て高みに生ずと云り又外に此画を摸写して狂歌一首をそへ何翁とか落款せし摺物に暗記ながら慥「高山の谷間に生る篠魚こそさゝを進る肴にぞなる」七十何歳とか書有は高山の人也予考ふるに雪中に谷川も降り埋もれし頃魚此笹の笋へ子を産付置しが翌春雪解して谷川は低く流れ笹は遙の岡に有篠の子やゝ成長に及んで魚も共に成長して初夏に笋自然と落る時谷川に刎入て竹の皮を脱で游ぐならんと思へり非情の笹の節に有情の魚の産するも珍らしからずや愛すべき物なり
鵙の艸茎
鵙の草茎百舌鳥の早熱[ハヤニヱ]は度々見し事有鵙は虫けらを取て餌とすれば冬虫類の地中に入ては不自由なれば秋の末種々の虫を爪にかけて木の先に刺置冬の餌に当るを云予河州暗嶺の麓にて見しは蛙を梅の枝に貫きし也難波大黒庵の庭に有しは大なる蚰蜒にて実鳥類迚も賢しき物也「草茎はいつとりに来る梅の花」と奇淵叟の句は其時の唫にて有し
鵢鮓
鵢鮓[ミザゴズシ]は鵢と云鳥沖にて浮みゐる魚を爪にかけ海岸の巌に生たる藻を掻分て埋み置を海士の子藻の影より是を取食する也藻の上より取る時は重ねず漬る事なし下よりとる時はしけ日和の食料にとてかいやが上にも漬置物也とて海辺の者に聞たり
蛸と蟹に灸をすへる
九州地へ下る者の数日大船に乗て風待汐待の徒然に絶兼播州路にて三里の灸を居る次手求ある蛸の頭へ灸を大きくすへたるが熱に苦しみてや船中をかけ廻り這廻りして両足と覚しきを頭へ上て掻落せしを見て興に入又下の関にてかさみといへる蟹を求め甲へ灸をすへたれば苦しみ横這に這廻り泡を吹身を峙て鋏にて泡を切て甲の灸を消せしと聞しが無用の事ながら其物々に難を避る法あり万物の長たる者常〳〵それ〴〵の難を避る心構へなくては有べからず
鯖の鮓
京師にては祇園会には鯖の鮓を漬て客に出すまた鯖の鮓には塩加減第一也加減は米壱升に塩目四文目のわりに入れ飯に焚て至極能加減なりしを今にては塩目五文目入ても水嗅くて加減あしゝ諸人幸ひ好になりしか又塩のきゝの薄く成りしかと云に是全く左にあらず近世一統奢の境なれば前々の如く辛き塩の下鯖は用ざるゆへ也と京師の料理に心ある人の話にてしりたり
熊野の大樹
寛政六年の春紀州熊野の深山より卅里奥山へ御用木見立に行て榎の木の大木を見出しぬ是まで折に来る者もあれど唯山とのみ思ひしが此度大木なる事を見出し則人夫の杣人等其大さを積り大守へ上覧に奉りぬ一榎の木一株百廿抱へ〔六十丈なり〕丈高さ三百廿四五間〔百九十五丈余也〕枝三本に別れ南の方の枝凡八十二廻り丈にして〔四十一丈也〕宿り木一杉長さ七間半十二本有一椎長五間二尺七本有一檜長五間半十二本有り一黄楊長四間半九本有一松長さ四間半七本有一柳長さ四間半六本あり一竹十八本有一南天長さ二間半七本有右紀州表より書状にて申来る写し書余り珍敷ければ話の種共なるべき事ゆへ爰に出す
北野の連歌
北野の神前祈祷の連歌有し時かくなるものかさすらへの果との前句に此神のかへり北野に跡たれてと此付句を執筆書とむると同じく社頭震動して暫くやまざりつるは神も納受し玉ふにやと皆感じ申たるよし或人連歌の席に句を出しけしからず慢じたる顔付を見て脇より生天神〳〵と云て膝を突ければ余りなつかれぞ社壇がゆるぐといわれしゆへ一座腹をかゝへしとぞ
閑間の御遊
昔は貴人にしゞまの御遊と云事有人々つどひ給ひて種々と談話の中にひと度は無答にて戯れ給ふを云也とぞしゞまはしづまる間[マ]と云事を略し音便の詞にして閑を守る也壼矢五寸乃至一尺を度として物いふ時は鐘を打ならす今此わざ絶てなしとかや我〳〵の雑談にても互ひに語り聞などせる内燈火の消たる如く話のきるゝ事ありやゝ暫く無言にして興尽る事也貴人のしゞまの御遊はかゝる事のあるまじき為の用意と思わる後考をまつのみ
茶人への諷諌
利休居士が詞に貴き価の器物を愛するは心利欲に走るが故也欠たる摺鉢にても時の間に合ふを茶道の本意とすといへりされば茶道を好む者の他の手前をも弁へなく我習ひたる義のみ心得是こそ我流になくて叶わぬ品也と無益の器を高料に求め飾置は古道具店にもひとしくうるさき限り也数寄咄といふ物にも主人家居と道具に自負し客に云けるは我数寄屋の内によろしからざる物あらば詞に随ひ省べし遠慮なく云給われとありければ客は諂なき人にて家と云器といひ行届ざる所なけれど唯此内に其元一人なからまじかば風流雅境是に過たることはあらじと云りいとおもしろき諷諌なり
六憎
六憎とて憎むべき物六つあり金持て高ぶる程憎きはなく書を見ずして物識顔する程憎きはなく人に物をやりて恩にきせる程憎きはなく吝きほど憎きはなく欲深き程憎きはなく人をそぬむ程憎きはなし
餝磨の搗染
餝磨の搗染は播州餝磨郡餝磨の津細江町に紺屋多く昔より相続の家も有べけれど染法悉く伝へたる家はなきよし搗染は唯幾度も藍に染て臼にて搗唯厚く染たる成べし仍て臼にて搗をかつと云餅を搗飯[カチイヒ]と云にて知るべし濃き藍染の事也
謡曲の発明
奥州にみてぐらと云武家有彼舘にて能に鉄輪をしかかり恐しや御幣[ミテグラ]と云を行当り俄に直し恐しや胯[マタグラ]に三十番神おわしますとは浅猿しき神の居所やと笑ひぬ又或人三輪の謳にある夜の睦言[ムツゴト]に御身いかなる故によりとは作意もなき作りやうかな惣じて理のつまぬ文章やたゞ或夜の六つ時に御身いかなる上に乗と直したらばよからふとは作者いかい迷惑なるべし
太郎余一郎
昔は第一の惣領子を太郎次を次郎と云夫より三郎四郎より十郎まで名付十一人目は余一郎十二人目は余二郎と次第に名付る也とぞ十は成数なれば十郎よりあまると云意なるべし盛衰記に金子十郎家忠の弟金子与一郎那須十郎資隆の弟那須与一也余を与に作るは仮借也平惟茂を余五将軍と云も十五郎也源義経は第八子なるを九郎判官といへるは八郎為朝の成行よからざれば八郎を忌て九郎としたると云り
曽我兄弟六代御前
曽我の十郎は十男にあらず父河津に死別れ伊藤九郎祐清の弟として十郎祐成と呼び弟の五郎は北条を烏帽子親と頼み四郎義時を兄として五郎時宗也平家の六代御前は平貞盛忠盛清盛重盛維盛と第六代目に当るがゆへ然いふとぞ
猪口太郎
昔噺の桃太郎金太郎は惣領にて狂言の鈍太郎悪太郎も是におなじ沼太郎川太郎火[ホウ]太郎は其品によつて号し物か雲に丹波太郎あるが故に霧太郎を天狗の名に冠らしめたり東都の料理家に葛西太郎と呼砂糖漬に太郎梅と付しは梅は兄にて太郎とはしれたり是惣領は甘ひと云心より号なるべし卅年前何にでも太郎〳〵と呼て猪口太郎などゝ呼びしが重猪口の三つ或は五つ重の大なるものを然よびしなるべし
慶庵肝煎
肝煎口入する者を東都にて慶庵と云遊女の肝煎を女衒と云慶庵と云は江戸木挽町にて大和慶庵と云医師也同じ比伊達三郎兵衛は長谷川助右衛門と云浪人と三人申合せ男女婚姻の媒酌などして世を渡りぜげんと云は女衒[ジヨゲン]の転訛にて衒はうると読り三人共寛文中に悪事有て江戸を追ひ放されしと云其頃よりして人の世話するものを慶庵と云肝煎とは古き詞にて胸上之炎焦心中之肝是らよりいふ事ならん
四方田四方八面
明智光秀の臣に四方田但馬頭は四方田[ヨモダ]但馬頭と読江州に四方田と云地名あるよし又四方山の物語りに及ぶと云も山にあらず八面[ヤモ]と書て八方を八面[ヤヲモ]と読り四方八面[ヨモヤモ]の物語をするなど書べし
上米刎る
物の運上をとるをうはまへをとるうはまへを刎ると云は上米取とて口米をとる如く百石積たる船にて一俵をとり三俵積たる駄荷にても幾升をとると云が如く住吉神領として調進せしより云事也とぞ
七里けつぱい
俗語に忌嫌ふ事を七里けつぱいよせ付ぬと云は高野弘法大師行状記に七里結界と有るを転訛せし詞なるべし
商売往来は京師の手習師匠の作にして商売尽とも外題を置べきを庭訓往来などを倣ひて文通の往来ならぬに呼び来りしと物しる人は譏き其上端物麁物[ソブツ]の麁の字は衣の字にて衣通姫と書衣の字也織上たる侭の物を反物と云裂[タチ]たる物を衣物[ソブツ]と云よし付て云召使の者に時の衣服を給するを仕着とも四季施[シキセ]とも書り四季着[シキキセ]の約語なれば四季着[セ]と書をよしと云へり
日披露[ヒヾラ]
近世戯場の俳優又は浄瑠璃の会などの引手進物の目録を送る書付をびらと云ビラは披露の約語ラウを詰て披露とは云也いつ幾日より始ると云をひゞらと云は日披露[ヒビラ]と云事なるべし
手枕の歌
濃州岐阜の片辺にて人々或草庵につどひ連歌などし侍り庵主は六十もやゝ過るばかりの尼なりしがいみじく行ひすまして誠に塵を出し心の流石に敷島の道はひとつの癖と恵心僧都のよみおき給ひしごとく捨かねてやさしき人なりし連歌も満備して因に古歌などの物語しける中に一人の若輩の宗匠に問は雪ふれば木毎に花ぞ咲にけるいづれを梅と分て折らましといへる歌は梅といふ字を分て木毎にと巧みによまれたるよし申す人侍るはさこそといへば宗匠頭をうちふりて否々左は心得給ふな成程或説その事いひ出し侍れども鑿説にて歌はさやうに入[イレ]おがによむものにあらずむべ山風を嵐と云らんとよめる山風は嵐の字にかよひ又春のよの夢計なる手枕にかひなくたゝんとよめるは手枕に腕をいひかけたるなど一首の上の自然の逸興にて是を求めてよめるには非ずと語れば満座いづれも服膺の体に見へ侍りしかくて人々わかれ帰らんとせし折ふし雨のふりいでゝ蓑笠合羽やうの物もてるは先へ出一人二人は雨の具なくて彳み侍るを主の尼見てまづ〳〵留りて晴間を待給へ宿したまわんとても古稀の老尼が浮名もあるまじ苔の衣は唯ひとへかさねばうとし二人ねんなど戯るゝまゝ立どまりて又火桶かきまさぐり膝うちくつろげて語るに尼ぜが云先にそなたの問はせられし木毎に花の歌につきて宗匠の物語さこそとも思ひ侍れどかひなくたゝんの歌は千載集の詞書にもかひなをみすの下よりさし入たると有て且その歌の返しに忠家卿もいかゞかひなくとよみ給へばかひなをいひかけたるものと尼は思ひ侍れ夫につきて尼が物語の侍る雨水晴間待給ふ内語り侍らん申につけて恥かしながら且は懺悔のため且は出離の縁の善知識を尊む事に候へばはゞかりもあるまじ尼が出生は丹波の国の民の女なりしが十歳許の頃凶年相続し上疫癘流行し父母うちかさねみまかり伯母なるが許に養れ侍るに此伯母婿情なきものにてつゐに都の人商人にわたしやり島原といふ傾城町に売て小■となりつかへし始めは父母の事のみおもひ出古郷の恋しかりしばかりなりしが稚き心は愚なるものにて日毎に媚になれ花やかなる人の出入たちふるまひも羨敷いつしか芝蘭の室ならぬ婬乱の室に入て其香に染ぬるぞ浅ましき後には客をおくりむかへ偽て悦び偽て怨むるもはづかしとだに心付ざりし一夜を限りに去て再び来らざるも多き中に年をかさねてわすれず訪はれぬるも嬉しかりし或下京辺より通ひ来て是も一とせ許も馴たりし人の唐の文字よく書る有しに一日妾[ワラハ]が扇の白くしてさう〴〵しかりぬる一筆書て給われといひしを辞するやうもなくさら〳〵と書てたまわらぬ固女のよむべき文字ならねば何といふ事とたづねしかば一双玉手千人枕半点朱唇万客嘗といふ詩のよしいかなる事の心ぞと問しに是はぬしのごとき遊女を作れる詩なり一双の玉手とは一対といふ心にて左右の手のうつくしく玉をのべたるごとき腕も夜ごとにかわる口びるも張郎が妻と成李郎が妾となる身の万客来つて甞るとは作りて世に浅猿きものは傾城なれば是を憐て作れる詩也と語らるゝに初て心付身のほどの宿世おもわれ侍れど今更色にも出しと酒汲かわし物語などして夜ふかく客人は帰ぬるにつく〴〵思ひつゞくればたまたま人と生れながら士農工商の妻ともならで礼儀廉恥を忘るゝ属と成事よと胸うちふさがりて目もあわずいかにしてか此苦界を出て人倫に立入べきとゝざまかうざまと思ひめぐらせど女の思慮の白地に考得べき事かわかくて其日は引かづきてありしが夕かけて客人の来りぬるとて案内するまゝ今日は心地あしく髪だにも梳らずなど云しかどあながちに名をさして対面せんといひこし給へる客人にて従へるとの家主もあながちにいさむればしぶ〳〵に出行ぬ是までしれる人にもあらずしかも田舎人のふつゝかに見へ侍るいと興なくそこ〳〵に酒宴も過て閨に入しに枕のほとりに彼の扇の有つるを客人のひらき見たるに又胸つぶれて顔も紅葉する心地なれば奪んとせしをいなみて此筆の蹟こそいとうるわしけれ徴明が骨法を伝へし詩の心もあわれ深きをこそ書けれ誰が筆なるなどめでたりし翌朝はとく別れ侍しに夕方何心なくかの扇を開しにいと美き手にて
手枕にかすともなにかつらからん
おしむかいなき仮の此身を
と書添侍る誰がしわざかと思ふに夜べの客人の外にすべきものもなし去にても初の詩の心を引たがへて四大仮合の此身をすてゝこそ浮むせもあれとおしへたるも尊く遊女となれるは宿世の縁身を尽しなばおのづから道にも叶ふにやさらば今より仮の此身を惜まずして心は生死の外に出離せんと思ひつきぬ去にても此歌よめる人の心の尊くやさしかりけん如何なる人にや尋ねたく思ひけれどあやにくと其後はよすがなくて二年許過るに或夕暮案内しておとゝしのいつ〳〵一たびまみへたるばかりのよすがは今更云出し難くやと有しに嬉しく頓てむかへそれらの事をも語いでゝ其後は折々忘れずとぶらはれぬればわれも此人をこそ終のよすがと頼む心なりしまゝそのうち長へ約束の年月の過ぬれば伴われて此国加納と云所へ移り侍りて初て荊棘林を遁れて一農の妻と成ぬ彼主頗る心有りて情ふかくおしへ給わり二十年許先におくれ侍りて後かゝる身とはなりて爰に世をふるなり去にても古へ人の情のほど夫妻のむつみのみならずかくまで身を助け給わりぬるも尊く将詩を書る人もいかなる宿世の善知識にやかゝる事には導引給ひぬらんと忝なく忘がたく侍れば旦暮に回向して現世ならば安隠後世は無上菩提とゝぶらひ侍るなりと語るに雨もやみて道たど〳〵しかりし夕闇も月待出しかば人々は又かさねてを契りてかへりぬとぞ
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燈台元暗
享保の頃室鳩巣翁は江都駿河台に住て老後痿痺の疾ありて起居も心に叶わねば日夜衾枕をのみ親しみ日頃問来る門弟子に仁義の道を講ぜらるゝ中に世俗の諺に燈台もと暗しと云は世に何事にてもあれ外にはかくれなき事を其もとにて聞ば却て分明ならぬ様の事に云ならし孟子の道在邇而求諸遠といふ意にもかなひ申べきかと座客のひとりがいひければ又ひとり近代日本にていはゞ織田信長関東関西の諸国迄手をのばし討したがへられしかども手元に暗ふして明智に殺されしは燈台もとくらきに候わずやと倭漢の故事をひゐて云けるを翁聞てすべて比喩の語は義理のとりやうにて色々に申さるゝ物にて候此諺も各の申さるゝは燈台もと暗しをあしきかたにたとへらるゝに翁は又此諺をよろしき方に取なして韓退之が短檠の歌に長檠八尺空自長短檠二尺便且光と作れるごとく燭台も長きは燭のもと暗く短かきは燭のもとあかるし夜中に書をよみ字を写すやうの事には手もとを明らかにして其用をかなふる故に短を貴ぶにて候得ども一二尺の手燭にては此座上にてもくま〴〵のくらきを照しぬる事は難かるべししかればもとをあかるくしては遠きをてらし難く遠きをてらすは必もとくらきものとしるべし翁関尹子を見侍りしに吾道は処[ヲル]暗が如しよく明中の事を区画すといへり関尹子は関令尹喜が書也尹喜は老子の弟子にて道徳経五千言も此人の為にあらはせると也譬ば吾身くらがりに居て明りを見れば明りの事残りなく見ゆる也吾身あかりに居て暗を見ては一せつ見へぬ物ぞかしされば暗に居て明りを見るやうに己が智をふかくひそめ養て暗より明らかなるを生ずるやうにすればそれこそ真の明といふべけれもし己が材智にほこり聡明を尽して唯手もとのあかるきを専にせば但手もとの事のみ見へて下手の碁をうつが如し末の手は見へざる程に毎々是非をあやまる事も多かるべし
板倉の明断
近き頃故板倉周防守京師に留主たりし時訴訟をきかれしに己が材智のはやぎり声色の動なば我もそれに気乗し彼もそれに気奪はれ両造の辞を□ぜず双方の情を尽さゞる事あらんとて必障子を隔て態と手づから茶をひきなどし唯心のちらぬやうにして聴れしと也さすが近代の名人とはいひながらおのづから聖人の心にもかなへりそれゆへ曲直理を尽し聴断神に通じ人々畏服せざるはなし周防守ある時京の在家を通られしに或家に幼少の子出て遊びしがあれ周防こそ通らるれといひしを周防守馬上にて聞とがめて我不肖といへど上の御代官としてこゝにあれば京中村閭に住する者男女老弱をいはず我をかくおしくだしていふ事あるべからずしかるに此家の児輩かくいふは常に家人の我を恨みてかくいふを聞馴し故なるべし是は定めて子細あるべしとて其家主の名を聞せて通られしが翌日其家主を召よせて汝先年何にても訴訟したる事やある今尋ぬるは少しもきづかひなる事にてはなし有し様に申べしといはれしが始は何かと辞退しけるが再三問れて此上はかくさず申上候それの年某の月の事にて候父の配分の事に就て一類の者と争ひ候て訴へ候しが某者無実の事を申かけ候へども証人を多くこしらへ候て申出候故御聴断の上相手の勝に定り候其次第かやう〳〵とくはしく語るを下役人に命じて其年にあたりし簿案をくらせけるにすこしもたがひなかりしかば其上にていよ〳〵尋ねきはめて是はたしかに某が聴あやまりたる也いと残念なれどももはや年久しき事なれば今更すべきやうなし其配分の程某償て我過を謝すべしとて自分の金銀を出して其者へとらせられしとぞ周防守己が威勢をつのらず己が過失をかくさず我は常に晦に処て明を衒はず我は常に愚に処て智を先だてず其心公にして私なし誠に古今に有がたき明智といふべし今是等をもて此諺を考るに燭台は長くしてもとの暗にて其明おのづから遠きに及ぶ君子の道は闇然として日の明らかなるが如し若短うしてもとあかるければ其明わづかに近うしてやみぬ小人の道は的然として日をほろぶるがごとし此理をしめして明かなるものは必もとをくらうすといふ心にて燈台もとくらしといふにもあらむかし
富士の裾野
又爰に其意とは同じからねど一話有昔憲廟の御時或士人の好学ありけり其人按察使に命ぜられて畿内の郡県を巡りしが首途に臨て学問の師に贈言を乞しに其師此度道中にて富士山の下を通り給ん時よく裾野を見て行れ候へあれ程の山はあれ程の裾野なくてはたもつべからず都て山は上より土下りて下の肥厚なるにてこそ持候へ若上に嵩ありて下細く上大きにして下小さくば忽に崩れつべし此度上の御為をおぼさば只下を厚うするやうに御こゝろへ候へ此外に申べき事は候わずと云しとなん是易の剥ノ卦の意にていへるなるべし剥の卦上は艮にす艮は山なり下を坤にす坤は地なり是地上に山ある象なり山は高く上に位すれ共地は下に付て放れず是山は地を基本とする也人の上たる人上を剥落して下を厚うすれば邦安うして山の地上に安置するがごとしもし下を剥落して上にませば山在地上の象にそむく程にやがて危かるべしとなり
梓巫子
天王寺のはやし町は梓巫子のすめる処にして二季の彼岸には在所の人のこゝに来りてなき人の口を寄るとて梓の弓に其鬼神をまねき往事を泣く殊に二季の彼岸にひとしほあわれに覚ゆかしこのはやし町にすめる巫子の名の昔めきておかしければ書つく橘屋小女郎、隠居藤、黒格子の元家、栴檀の木の姉、藪の内の亀、舛屋女郎、藤屋の小女郎、黒格子の万、黒格子の嫁、此余にもあまたある中に黒格子殊に名高し
日想観
津の国天王寺の西の海つゞきを那古[ナゴ]の浦と云也春の入日は武庫の山の北に沈み冬至の短き頃の日は淡路島の頭に人給へり又二季の彼岸の中日といふには落日天王寺の大鳥居の中心にかゝて須磨明石の中間に入也是を日想観の大事と申て昔後白川の上皇と円光大師とともに此岸の落日を拝給ひし御跡を源空庵と申せしが今の一心寺也と申伝ふ又壬生の二位も此の辺りに庵を結び名古の浦の入日を見て七首の和歌を詠給ひし跡家隆塚とて遺れり慈鎮和尚天王寺の別当になり給ひし頃とかやいゝつたへたり
安徳帝忌
物の名も所によりてかわりけり難波の芦も伊勢の浜荻と或人売用に付享和年中長州に下り数日滞留しけるが都て上方と替りし事多き中にもまづ年頭より中元せつ句の礼勤るに銭一二文宛紙に封じて上書に金百疋と我姓名を記し是を家毎に置て廻るに先方も又かくの如く同前也礼式は固より節振舞法事髪置夷講の類何にても先より招かるゝ時はいつにても上下を着て行又其礼に行のも上下也開帳参り抔にても七分通りは上下着たる有也扨又赤間が関あたりは女に位有て俗に爺嚊[トヽカヽ]と云様子也先目上の内儀より同輩の妻女迄をおがうさんと云目下を姉[アネ]さんと云おがうさんはお后さまといふ事とぞ是往昔元暦の戦に平家打負西海の波に漂ひ此八島の沖にて安徳天皇を始二位の尼公公卿官女達に至る迄入水有しかども相残れる官女は此赤間にさまよひ世を渡る業も知らざれば人に雇われ或は身を売て世を渡りしかど流石賎しき漁師等に操を穢さん事を耻いとふ官女は塩或は漁船に釣する鮮魚貰ひ是を緋の袴を着乍ら天窓にいたゞき売ありきて営とせしかどもいつしか仕馴ぬ業にはか〴〵しからで如何して世を渡らんと途方に暮ていけるを辺りの寡暮しの漁師是を見てかゝる乏しき仕業にて乞食せんこと今目前也それよりは我々が宅へ来ていか様共身を過し給へとせちに乞ふて伴ひかへり御客やら妻やらにして敬ひける是によつてお后さま〳〵といひしより今も内室をお后様といひならはせになりしとぞ扨今に赤間が関の遊女は其頃身を売りし官女より始りし也依て毎年三月廿四日には安徳帝の正当忌日なれば家毎に遊女爰をはれと粧ひ襠姿にて阿弥陀寺に参り遊女毎に焼香を捻りて帰りぬ此日年中の大紋日にてあみだ寺は安徳帝其外入水の公家達の陵石塔ある寺也文化五年の夏祇園の練物に新屋小鶴と云芸子破れたる裾の緋の袴を履塩を折敷に入れ頭にいたゞきし体なりしが是かの官女に出立し也
大雅堂霞樵
大雅堂はもと嘉左衛門とて貨殖家也其業を悪み避て画工となり池野秋平と云又霞樵とも云其質雅にして聊も利にわしらず書もまめやかに殊に象得たり一日書林の許にて年頃望みし一書を見る恍然としてその価を問に価最貴し大雅云我にたくわへなし故に望を空しうす希は是が為に今より務て金を積ん積て後此価に足りなば我にたびけん去乍売物の事ならば其間に他に望む人もあるべし若さあらば我に知らせよと云書林云此書は高価なる物ゆへ容易に望人もあるまじ若あらばその由告申べしと約してそれより大雅は日頃に替り俄に物事を約にして年を経て望の通り金子溜已に価調ぬれば彼書林方へ走り行年頃の望み足りぬとて価を出し其書を我にたまへと云書林大に当惑して実も先年足下へ約せし事唯今存出せり其書は其後望人有て売遣はしぬ其時足下に約せし事を忘却して告ず罪多く今更如何ともする事あたはずと悲愧す大雅案に相違して愀然として申けるは我かく迄貧しき中にて金子拵しは此書の為なり既に価調て望を果ざるは天也苟も此金を他用につかわん様なし不如祇園の地に住からは恩謝の為に御社へ奉納せんにはと右の金子を残らず束ねて祇園へ奉納す是を世に伝へて大雅の廉潔を称じ倍此人の書画を世に翫ぶ惣じて常の風俗中華の唐人に似たり月明らかなる夜近江の守山を過るとて宇野氏が家を深更に敲く主人是を聞て時四更に及で励しく門を敲は唯ならず自分起て立出見れば大雅也いかにや深更の夜行をと問大雅答て近江のそこ〳〵へ罷りて月夜の面白さにうかれて夜行せり余り清明なれば我独り詠んも無下也足下を訪ひて夜とともに月を賞ぜんが為也とて主客内に入て酒を酌興じ明せしと宇野氏が物語也齢耳順に満ず歿す其妻玉蘭女も夫の雅にならつて風流也寡婦の後も扇面を書て鬻て世を渡れり是も今は歿したりとぞ
兜軍記
享保十七年九月竹本座浄瑠璃文耕堂長谷川千四作壇浦兜軍記二の口菊水下河原の講釈場関原甚内と仮名して阿古屋の兄井場の十蔵一幸[カズヨシ]母を養んが為講師をして其日を送る面体格好悪七兵衛景清によく似たるが故榛沢六郎組子をもつて召捕画姿にあらためるに景清にあらずよつて榛沢詫て縄手とき母を孝養の為辻講釈の業をすと聞て感じ殊に人立の商売を妨げしを気の毒に思ひ金子を母に恵むと出す十蔵是をいなみて景清に似たるは此身の不幸也何此金子を受んやとて受ず榛沢は是非にとある其時十蔵折角の御志無足にならじけふ縁日とて清水観音の賽銭箱菊水の辻に有母の無病息才を祈りの為奉納せんとて榛沢の見る前にて右の金子を賽銭箱へ打込む脚色有是則大雅の書を求めん為の金子を祇園の社へ奉納せし一話よりなる物也大雅は祇園の社地へ出し店して書画を認井場の十蔵は菊水の河原にて辻講釈を業とすと仕組あり都て此兜軍記は此頃の名誉の狂言にして一場毎に佳境有今三の口琴責のみを浄瑠璃歌舞妓ともに用ゐて名狂言なる事をしらずいと惜しむべき事也
天明京大火
天明八戊申年正月晦日京都大火は平安城開けて未曽聞の大変也抑平安城は桓武天皇延暦十三年より天明八年に至暦数九百九十五年其間に禁裏炎上数度に及び保元平治寿永元暦承久元弘建武明徳応仁永禄元亀等洛の兵火にも京中焼亡の事なし就中応仁の乱は前後百十余年諸国の武士京師に出花洛の荒廃此時なれ共兵火の為に京洛皆焦土となりし事を不聞其証には洛内の老樹乱を避て存在せる物多し而して御当家御治世後二百年の間に百有余年前下京タイウメ焼とやらん余程の火事なりと聞伝ふれども年久敷事ゆへ当時是をしる人なし其後三月廿日焼失をだに慥に覚たる人なし【本ノママ意義通ジ難シ】近くは八十一年以前宝永五子年三月八日の大火こそ古今稀有の事に申伝へたり其時禁裏炎上町数四百貳拾九町焼たり又五十九年以前西陣焼は町数百貳拾三町也今茲天明八年の大火は京洛中十にして九つの余焼畢ぬ正月晦日暁洛東橡[ドングリ]の辻子[ズシ]より焼出て翌二月朔日卯の下剋迄昼夜十三時の間に東西凡十八九町南北凡一里二三町焼町数凡千五六百町長延にして四拾四里余也猶焼出しより始終幷に心得咄等は万民千代の礎初午詣などゝて草紙に有ば略之今嘉永三まで六十三年になる也
辻能狼籍
元禄年間京町奉行に改のうつし京都町数千八百四拾七町〔千四百五十町は地子御免残りは年貢地也〕家数四万五千八百七十七軒と有其後百年を経る間に新地追々建続当時は凡京町数千軒爰に京都大火の前日正月廿八日和泉式部誠心院寺内にて堀井専助辻能を致居けるに邯鄲の能半過楽も終る頃帯刀の壮士四五人つか〳〵と這入て舞台へ上る見物こわいかにと見る所に能太夫共に舞或は着座の大臣の冠を落し理不尽狼籍甚しゆへに太夫其外役人も半途に楽屋へ迯入れば作り物台抔を踏砕きワツと叫び笑ひて何地ともなく去りぬ是何の所意たる事をしらず女童足弱の類は悉く迯去ぬれども壮者は去にてもいかなる事と始終を見んと皆挙りて見物しけるに如此是に依て其日の能はそれぎりにて相止ぬとて則東洞院六角下る町の某見て帰り是を語る大変なくば色々評判すべき事なれども其又翌日大変故に其段にてはなし誰か是を評ずる者なし怪異の事なりかしと幽遠雑話に出たり
西沢文庫皇都午睡初編 中の巻 終
西沢文庫皇都午睡初編 下の巻
目次
一 白氏文集
一 紹益吉野を悼
一 淡々の示致
一 軽卒者の連歌
一 十干十二支
一 金烏玉兎
一 定頼の和歌
一 和泉式部
一 大仏餅屋
一 江島屋其磧
一 市中は中を行
一 道路は左を行
一 毛抜鮓
一 一噌の笛
一 赤良の狂歌
一 藤公の笑疾
一 百翁の茶会
一 富士と達磨の画
一 長生殿の絵
一 月見の松
一 饂飩豆腐
一 李白仲麿を悼
一 支考の俳言
一 年中の雨
一 蕉雨の発句
一 行脚に句を買ふ
一 無名の短策
一 光次
一 内科外科
一 基俊歌を盗まる
一 よしにせよ
一 商人の学問立
一 短文の書状
一 国姓爺弟
一 自鳴鐘
一 大男小男
一 兼良の元服
一 夜詰の太皷
一 不出門行の詩
一 義孝の連歌
一 馘塚三所に有
一 徂徠の戯言
一 磯の浪
一 下谷の争論
一 狐川の名義
一 潘谷橋姫の考
一 そこにべ殿
一 名月は俳諧の題
一 辻能の道成寺
一 泊船寺住持
一 古今伝授
一 大仏の御首
一 七瀬川の秀句
一 芦辺殿の婢女
一 故人の句を詠
一 青砥の続松
一 山伏の徳政
一 三船の才
一 難波次郎
一 重衡盛長
一 罔両の歌
一 六徳牒記
一 内舎人老党
一 蕨風の子
一 馬の詠たる歌
一 かんにんの四字
一 条平内兵衛
一 馬術に雅なし
一 羯摩乗親の面
一 雅人の傑
一 南方鑷
一 竹田近江
一 春日野の虫
一 鴬白魚
一 頼政の亡魂
一 於菊虫
一 鹿の時立
一 猿蟹を嫌ふ
一 置皷
一 水引
一 鳥貝
一 放島の試み
一 はなじろ
一 和歌に師なし
一 南面の障子
一 差合くり
一 二万堂西鶴
一 三句の渉り
一 記録表紙
一 餓鬼つばた
一 兄弟の争ひ
一 仏は仏師
一 運慶の口伝
一 鴟鵂の文
一 長範の詠
一 日本に象を渉
一 清人発句を訳
一 師直の歌を訳
一 兼好を評す
一 勢語源語の評
一 解脱上人
一 西行の歌
一 幽斎の狂歌
一 信西豆
一 普賢像
一 楊貴妃桜
一 利休織部の詫
百六ヶ条
西沢文庫皇都午睡初編 下の巻
西沢綺語堂李叟著
白氏文集
嵯峨天皇河陽舘に御幸有て御製の詩句を参議篁に示し給ふ閉閣唯聞朝暮皷登楼遙望往来船所存申べきよし勅あるけるに篁が曰聖作いみじく遊され候但願くば遙に望の遙の字をかへて空望と改させ給はゞます〳〵絶唱と申べく候わんと申されけるに帝愕然として驚かせ給ひ汝もとより此両句を知れるやと仰られければ篁謹て聖作の一聯臣いかであらかじめ存じ候わんと答奉る帝重ねてのたまふは此二句は白楽天が句にてもとは空望とありしを汝が才を試みんが為仮に遙望とかへて示せしなり実に汝は白楽天と詩情相同じきもの也とて大に賞美したまへりとぞ此時白氏文集纔に一部渡りて官庫にあるのみにて世人いまだ見る事を得ざりければ篁もとよりしらるべきやうなかりしとぞ
紹益吉野を悼む
灰屋紹益は智恵小路上立売に住て和歌をたしみて貞徳と友たり亦蹴鞠茶事に委敷折には召れて高貴の席にも出ける事有とぞ若き時六条の廓に遊びよし野を根引せし時父の不興を受暫く下京に廬求めて夫婦住けり父一日他へ行し帰るさ雨降出ければ路傍の家に走り入て晴間を待此内には炉に釜を懸て閑雅の人の廬と見ゆ主の留主と思しくて女房のいと麗しきが此方へと請じつゝ薄茶を立て出しぬ其褄はづれより茶の手前迄所に見馴ざればいとゞ心おきせられ一礼をのべ雨も止たれば立帰りて次の日しか〴〵のよし人に語ればそれこそ令郎紹益の妾なれ其家は子息の隠宅よと告父はじめてしりて其奇偶を感悟し遂に紹益が勘気をゆるし吉野を引とりてめあはせしとぞ程遠からぬ下京に其子忍び居をもしらざるは其頃豪富なりし事しるべしと云り吉野は寛永八年六月二十二日に歿す本融院妙供と法号す此時紹益哀悼の歌は都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山に移して紹益が菩提寺は内野新地立本寺也紹益は八十一歳にして歿し元禄四年十一月十二日古継院紹益と法名す是をもて数ふれば吉野が歿年は紹益が二十歳の夏也然れば吉野紹益が婦となり程なく十七八歳にて身まかりし物なるべし紹益が玉を失へるの恨前の歌を吟じてもしるべし吉野カントウと蟹の盃の事は人口に膾炙して世に名高し
淡々の示教
俳諧師淡々〔半時庵〕門人富天に贈る示教に詩は鑓薙刀和歌は刀連歌は脇差俳諧は相口也並べて短刀は利遠く見をとりするや然れども一機よく胸を定め候へば時に望て至て功有為氏が舘にて□公を弑し荊軻は始皇の膝近く寄たり此時鑓長刀脇差ならば側へよる事なるまじ短刀を図に巻たればこそ一念存分はなしたり此時秦王の佩たる剣の長きよりたゞちに抜事あたわず夏無且が薬嚢なくば則終るべし長きとて頼まれず恐るべからず能つらぬき心を定め候得ば芸道何ぞ何をと云事なし唯見性たしかに其的を指べしあらく用ひ候へば俳諧は卑俗に落る事はやし嗜て高きに心を置ば神代の教へ倭朝の道はとゞむべき也されば中興俳道の祖花咲社[ハナサキシヤ]の貞徳季吟芭蕉翁其角引下陋老富天道統たり時今清得舎此秋押花[ジコンセイトクシヤコノアキヲウクワ]を以て業を行ふ点格並に家説の旧例式新古式本式及褒貶の絵摺物三つ物撰集笠着古式の会等普く教候上は能慎み克守り遠慮可有之候他門もとより正統有べし不知候へば不論候凡余る程は教候なれば日々執行の外は有間敷也序跋幷撰集三章の雪月花おもしろく候不才の病老文章も書忘れたり句は一句「稲の穂の如し芦の穂水かゞみ座の句初尾花と置たく覚ゆれども若々しからんと扣候竿秋へ几領を譲り候時は唯夜の花雨の芦と申侍りし此芦の穂は芦の芽の穂となりたると祝し候や鴬の人来〳〵といとはず怠らず一道の清暁梅咲冬春夏の実秋の紅葉のもみ出るがごとく束てかゞやき栄へたまへ半時庵ふ
軽卒者の連歌
或人連歌一順の月次などはやらすを浦山しく思ひ我もちと稽古せんと思ひ立宗匠する人にむかひ大体一句の仕立はいかなる心持にて工夫致し候わんやと尋ねるにされば此道を学んと思はゞいと深くも崩れよらぬ和歌の浦なれば詞短くきりたくば心をまがふ物哀れに華奢風流につく様に有べしと云彼人聞と同じく早合点参りて候一句申さん「首際や二季の彼岸に茶香杵と云たりして心はと問れされば水をわたるに首際に及ぶは深ければ他物の哀は二季の彼岸華奢風流なるは茶と香つくやうには餅つくきねと云れて宗匠返答なくて腹をかゝへぬ
十干十二支
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸を十干と唱へて子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥を十二支と呼ぶは当れり婦女子は十二のえとゝ云り五性にエト二つ宛有て十干を云也兄弟にて木の兄木の弟とて兄弟也十二支は別にして十のエトにて十二支をいふにはあらずとしるべし
金烏玉兎
月の中に兎を書日の中に鴉を画東西南北〔木金火水〕〔青白赤黒〕にて土と黄は中央也北は子の方にて南は午也東は卯にして西は酉也日月を東西に象りて月に東方卯の影移り日に西方酉の影移るを画しものなり是にて金烏玉兎のわけも明白也手ぢかきことなれども是をいへる人なかりしを百人禄といふ書に出たるより人しる事を得たり
定頼の和歌
権中納言定頼歌に巧みに能書の聞え有し人也一条院大堰川へ行幸有ける時定頼父の公任卿とともに帝の供奉として各歌よみて奉らるゝに公任卿の心に定頼よき歌をよまれかしと念じ居られしに講師次第に歌をよみ上る定頼の歌を公任耳をとめて聞れければ水もなく見へ渡るかな大井川とよみ上ければ余りに手筒なる事を云出されたると思ひて公任卿顔色かはりけるに岑の紅葉は雨とふれども詠終りければ公任卿思はずうちゑまれたりとぞ
和泉式部
和泉式部播磨書写山の性空上人に贈りたる歌拾遺集に入たりくらきよりくらき道にぞ入ぬべきはるかにてらせ山の端の月是は法華経に従冥入冥永不聞仏名といふ文あり其心を詠たるにて世に名高き歌也式部の本名を弁内侍と云り
大仏餅屋
京にて大仏餅流行し爰彼所にて商ふ中に四条畷に此饅頭を鬻げる近江上味[ジヤウミ]と云者有或時店先へ乞食来りて饅頭を十ばかり売りて給われと云に主人出来て非人には商ひせずと云乞食の云るは我等迚も同じ人也銭をもて買ふに商ひ物をいかで売ざるや此理りを聞べしとて詈りけれ共主人は聊挨拶もなくて居たりけるが詈る事の余り烈しければ主人店先へ出さらば其訳申聞すべし下に居れとて乞食に向ひ汝等ごとき乞食に売れぬと云其子細は乞食の身分としてか様な菓子を食んと思ふは不所存也無益なれども耳あらば聞置べしとて乞食が冠たる手拭を取らせ我商へる饅頭は尋常の製にあらず上品に造りて高貴の方へも奉る菓子也乞食の分際にて食べき品にあらず汝若吾家の菓子を食たくば人並々の者となりて後に求めに来るべし汝諸人の憐みを蒙り僅に露命を繋ぐ身を以て銭有は迚上菓子を食事のあるべきや世を恐れざる不届奴速に行べし須臾も店先を塞べからずといたく叱りて追立ければ乞食は頭を抱て迯去りぬと此商人一見識有人也
江島屋其磧
予が著述の伝奇作書に出せし江島屋其磧は八文字屋自笑が代作をせし市郎右衛門と云書林なるが始四条御旅町にて大仏餅鬻て業とすとあれば前に云近江上味の気象高き所相似たり江島屋其磧の菓子店近江上味にてはあるまじくや畷と御旅町と書誤りし歟とも思へり其積自笑と絶交して忰に書林をさせ自作の冊子を多く板せしに不幸にして売れず其磧が才自笑に増れども其名自笑が右に出る事あたはず幸不幸は是非なし
市中は中を行
路の竪横交りて曲る所は真中を行べし然らざれば曲る角にて人に行当り牛馬又は荷など持たる者に出会思わぬあやまちをす是互に向ふが見へざれば也纔二三歩をいとひて馬卒販夫の類ひは必曲る所を行物也こなたより心すべし
道路は左を行
路を行人互に左りによりて行は常の礼也斯すれば牛馬口付の者も其付たる方に当ればあやまちなし薩州にては夏は自日の照方へ行日陰を人に譲る冬は是に反すとぞ路を譲るの礼至れりといふべし宮寺の開帳に参詣道下向道と分たるは滞らせず怪我あやまちのなきよふの計らひ也
毛抜鮓
東都の鮓といへば皆握り鮓のみにして京摂の如く切鮓なし家体店〔上方にて云出し店也〕の製は格別安宅の松の鮓〔安宅は御舟蔵の地名松五郎鮓也〕両国与兵衛等の製は念の入たる物也竈河岸に笹巻鮓とて一宛笹の葉に巻て売家有此名を毛抜鮓と呼ぶ上方者の口に合へば毎度求めながら毛抜鮓とは魚の骨をよく抜たる故呼ぶかと思ひしによく考見ればよふ喰ふとの謎なるべしと悟りぬ
一噌の笛
故一噌又六或諸侯方にて能有し時融を吹しに俄に雷動しければ盤渉を改めて黄鐘に吹たり人々如何の事と云しに雷の調子盤渉調なる故吹かへると也道によつて賢し
赤良の狂歌
江戸数寄屋橋辺の或武家を恨みて其人の形を藁人形にて拵へ眼に大なる釘を打て其門に捨しを「のろふとて眼に大釘を打とても耳でなければきく筈はなしと四方の赤良祝ひ直しければ其後耳へ打て捨しかば「大釘を耳へ打たら耳潰れ聾になれば猶きかぬなれと詠けり扨其後又骸中へ惣釘にて打しを捨しかば「身うち皆釘を打とも何のきかふ糠に縁ある藁人形じやと赤良が句にてそののちは捨ずなりけり
藤公の笑疾
藤公時平笑疾あり一時朝廷にして此疾発りいかにもすべからず其日の政事は菅公にゆだねて退き給ふとなん不和にて権を争わるゝ敵手にあひて如此はさこそ止事得ざるべし五雑爼に陸子龍有笑疾古今一人のみといへるも同じかなたにても珍らしきなるべし唯世に笑中風哭中風といへる物有て是ら実におかしきにあらず悲しきにあらず内より催して詮かたなき也藤公も子龍も此甚しき物歟天神記と云浄瑠璃を増補して天満宮菜種御供の狂言の時菅公〔尾上菊五郎の祖梅幸〕流罪となり時平〔叶雛助小六玉〕独り紫宸殿に残り玄老の道真も課[ハカ]るに手なしはれ心地よいと笑ふを幕にしたるは此時平の笑疾を脚色したる物也今に笑ひ幕と云作者並木十助〔並木五瓶の師也〕歌舞妓狂言にも書見[シヨケン]だけの力はある物也
百翁の茶会
飛喜百翁[ヒキヒヤクヲウ]が利休を招きし時西瓜に砂糖をかけて出しければ利休砂糖のなき所を食て帰り門人にむかい百翁は人に饗応する事を弁へず我等に西瓜を出せしが砂糠をかけて出せり西瓜は西瓜の味みを持し物を似気なき振舞なりとて笑ひ侍りき
富士と達磨の画
ある人淇園に画を学ばん事を乞て僕画を学ばんと思ひ立しは他の物を画く事を求めずたゞ富士と達磨とのみを画きたしそれも上手とならん事を求めず富士はいかにも富士と見へ達磨はいかにも達磨と見ゆる様に画たしと云り此詞尋常に聞ゆれどもいとおもしろし何芸によらず此所をよく弁へぬる時は過不及あるべからず
長生殿の絵
白石先生陸奥洞巌老人へ長生殿不老門の画を望れし書翰のうちに長生殿裏春秋富不老門前日月遅は本朝の人の句にて候間画の景色も本朝の如く有度物に候昔本朝大内裏図のやうに東叡山の文珠楼門のごとく中に門ばかり候て左右に塀もなく候中門には格子も有之塀も左右に候か地取絵様のあら増如此なる望に候四時をこめ候へば春の方は春の諸木遅速を撰ばず秋の方は下より梢を見せ何れも雲やりの上下に見へ候様春には来燕秋には来鴈前に白鶴三つ計但し雛二つばかりも候わんか画様は真草行御交へ細密に賑やかなる所もさらりと仕候所も可有之候其段御筆意に任せ置候彩色も同じくは軽き方に可有之候歟俗に入俗を脱し候望に候額字の事板はいかにもひれは上の方隠し度候泥金可然候か春秋富日月遅は上の方四字づつ隠れ候心得に候下はつまりて上の明候がおもしろく可有之候か雪船の明朝にて画れ候富士三保の図中天に富士をいかにも根張広く雲頂より出候体にて殊外引下候て足柄箱根前は三保西は薩埵清見等の山々浦々を殊の外小さく書れ候それにて富士の三国に蟠り候体を其侭に見て奇代の物に候意匠の程感じ入候事に候不老門の図雲やりか隈どりにて中を書切候て殿も門もさのみ大からずして大なる心を含ませ度右の如くに存寄の図御目に懸候本朝の鴟吻[シフン]をくつがたと読来り候心得ぬことに存候に彼大内裏の絵に今の鯱と申ものとは以の外に違ひ候て沓の形にて候さればこそクツガタとは申と存候只今は制法を存候ものも是なく候不及是非に事に候か右は要文を摘書画は筆とる人のみならず書する人の心ばへも雅俗わかれて耻かしき物也
月見の松
いつの頃にか有けむ殿下の君立入の去る画工を召御襖に須磨の風景を画書べしと也即つかふまつりて参らせしに能出来たり但月見の松今二本足らでやと仰あり彼工は須磨の近き辺りに産れし者なればいかでか此処の事あやまりぬべきと思へども心済難く其後国に帰り須磨に至り月見の松を数ふるに十一本有我画て奉りしは九本也不思議にも恐入て御内の衆に伺ひしかども只打笑ひて語られず年を経て又承りしにいつの頃にか忍びの御遊ありてよく思召こめられし事と密に承りて驚入しと即其画工の物語なりしと也
饂飩豆腐
豆腐は太閤秀吉公朝鮮征伐の時生捕し朝鮮人の教へし物也唐土にて淮南王製し初しゆへ淮南王と云キラズを雪花菜といふとぞ其砌は豆腐に紅葉の形を付てかうやう〔紅葉 公用〕ならでは遣わぬと云しよし今は
やら
やら思ひ〳〵に付て定る事なし饂飩豆腐を細く切には刃物を左りへ〳〵と切て行くべし常の通り右へ切ては豆腐刃物に付砕くる也猶々細くせんと思ふ時は心太の如く突出す也尤湯を熱立し置其湯の中にて突出すかよしと云り
李白仲麿を悼
遣唐使の事をよつの船と歌にはよめり阿倍朝臣安麿を大使とし藤原宇合を副使として唐へつかわされける此時下道の真備〔後に吉備の大臣と云〕安倍の仲麿を留学生として遣わさる仲麿は唐朝の風をよろこびて唐に残り此後藤原清河を大使として大伴古麿と吉備公とを副使としてつかわされし時仲麿に命じて今度の遣唐使を接待せしめられたり清河日本へ帰らるゝ時仲麿も帰朝せんとて玄宗帝に暇を乞て帰られんとしたる時平生交を結びたる詩人文人に書残されたる仲麿の詩有文苑英華唐詩品彙にのせたり明州と云海辺にて海上の月をみてあまの原の歌をよまれ明州を出船せられたるにはからず海上にて難風にあひ安南国に漂着しければ清河と共に再び唐朝に入られぬ此時仲麿日本帰朝の海上にて難風にあひ溺れ死したりと唐土に風聞有ければ李白は哭して詩を作りし也其詩は日本晁卿辞帝都片帆百里繞蓬壼明月不帰沈碧海白雲秋色満蒼梧晁卿とは仲麿唐にて改名して朝衡と云ける朝の字と晁の字と其音通ずる故なるべし
支考の俳言
俳師支考の云月雪花郭公は君にもあらず父にもあらず我等が為の慰もの也糞とも云味噌とも云人参付子ともあがめて四季に心易き出入の者ともいふべし賞てよき時はほめおかしき時は譏ても遊ぶべし心に止めざれば気一物の人也とて月花も腹は立ぬ物也とぞ
年中の雨
信貴の毘沙門堂に四季連歌の句合有其中に五月雨に年中の雨降尽しと云句有何某の大納言聞し召れて何者の申たるにか此句の主を尋ぬべしとありける時高橋某その者を問ひければ彼あたりなる村長の申たる句也としれ消息して京へ出るならば参るべしとの事ゆへかの村長わざ〳〵京へ行御館へ上りしに逢ひて物語せんとて一間に通じ給へば風流の面白雲の上迄聞へけんこと社いと有難けれと云に大納言も四方の話有て扨尋給ふは年中の雨といへる趣向のおもしろく覚ゆるからに其句意を聞度侍れば逢申たりいかなる故事や有てかく申せしぞと有ければ村長答へて云やう別に故事と申も候わず只五月雨のきのふも降けふもふり続て翌も又斯降くらしなば一年の雨も降り尽しぬべきと思われ申たるより外所存なく候と申ければ面白く覚ゆる也とて入給ひぬ村長が帰りし後高橋出て尋ね参らせければ大納言の仰にさりとては麿が思ひしとは違へり五月雨には四時の如く雨のさま色々に降りけるゆへ春雨の淋しきにくらべ夏の夕立にたぐへ秋の雨の物凄きにかこち冬の雨の寒きにも譬へたり此事古き物語りにもあればそれをしりたる句にやとゆかしく尋ね侍れどもさはなくて只雨の降り尽すのみ作りし事故卑怯とは思ひ侍りぬと仰られし
蕉雨の発句
予が俳友信州の蕉雨以前四季の句書をこせし中に五月雨や時雨村雨春の雨と云句あり此殿の古き物語とあるは清女が枕の草紙にやあらん俳師鬼貫の云未熟の人の俳諧は春雨のと五文字を云出し時春雨先に出候といへば秋さめのと付かへ侍らんと云社うたてけれ春の月はくれ初るより朧立て物たゝぬけしき夏の月は灯を遠く置て詠め深し秋の月は窓に軒に海に川に野に山に詠有冬の月はひとむらの雲の雨こぼし行隙をてらしていそがし春の雨は物籠りて寂し夕立は気晴て涼し秋の雨は衾にて淋し冬の雨は底より淋し鴬の聞郭公は待佗るこそ詮なるべけれ四季折々の草木ひとつ〳〵弁ふべしと有蕉雨の句は則是なり大納言の話は古く蕉雨は近世の人なれば是非なけれど此句を彼大納言殿に見せたらば嘸かし褒美あらんものをいとのこりおし
行脚に句を買ふ
予が幼き頃俳友の一老人有暮三と云てさ迄聞へたる句もなき人なれど癖物にておかしき人也俳諧行脚一人来て暮三の方に宿り日毎に諸々の詞宗家を訪ひ一日俳席の通題に五月雨の佳句詠出一座の評よかりければ帰りて主人に語る其句は降中に降出す音や五月雨主人大に感じ古人五月雨の句数多あれどもかふも打付に詠たる句なし此句を我に売よといへども行脚はかゝる句を詠出ん為の修行者なれば売らじと云折節更衣の時節なれど旅の身なれば古着の侭にて容甚見苦し此句を我に売て新に衣を更よと一円金にて求め扨摺物をすらせ是にさる行脚より求たる句にと前書して降中にの句を社友に配り此摺物のちらばりし先だけは我句也他所では自身詠たる句なれば自由に書給へと云しもおかしからずや是ら風流の上の滑稽なるべし
無名の短策
源後頼朝臣は歌をよむに容易はよまず心を入て案じられ物に感ずる事ありてよき歌の出来たる時は是を書付置てさもと思ふ時出して人にも示されたり又人のいまだ読ぬ新奇の事をよみ出たる人也後頼常にいはるゝには和歌を判ずる者十徳を備ふるにあらざれば能わざる也いはゆる徳望門地明弁強記の類也と云り徳望とは人にめざゝれ仰がるゝ也門地は家柄なり明弁はあきらかにわかつ事強記は物覚へのつよき事也或時法性寺殿にて会有けるに俊頼参られたり兼昌講師にて歌よみあぐるに俊頼の歌に名を書れざりければしばし見合せて打しはぶきなどして御名はいかにとしのびやかにいひけるを只よみ給へと云れければ読上げる其歌は「うの花はみなしらがともみゆるかな賎が垣根もとしより〔俊頼/年寄〕にけり」と書たるを兼昌しきりにうなづき感じけりやがて此歌の中に我名をよみ入られたればわざと名は書れざりしと也
光次
小判壱歩判に光次の字有五世後藤徳乗が名乗也四郎兵衛家は世々大判座也徳乗在京の節御用あるよしにて江戸へ召れしに病気と申立名代に家来永井庄右衛門をさし下す此時初て小判を吹候様にとの事也庄右衛門下りて御用承り候まゝ直に庄右衛門を願候て小判座に取立後藤の名字を譲り後藤庄三郎と成今以て相続也徳乗初て承り候こと故光次の字を設け今に其侭にふく也
内科外科
医師に内科外科有料はしなをわかつて内外を別にして療治する也然れども内外元ひとつ也互にしらずんば有べからず
基俊歌を盗まる
藤原の基俊は生得文才ありて和歌をよくし又兼て詩をよくせられたれど人にほこりて当世を見下しとかくに人を批難することを好まれければそれに付てそしりを得らるゝ事多かりし或時人々和歌を詠じけるに基俊傍によりて深く歌を案じ入て我しらず声にあらわしてめざましき迄ちる紅葉かなと吟ぜられたるを其座に有ける顕仲入道是をもれ聞てかたわらに居たる右馬助何某が歌出来かねて歎くにさゝやきていはく早く此上の句をよみそへて出されよと教へられければ右馬助よろこびておしへのごとく上の句をよみそへて我歌としてさし出したり扨一座みなよみ果て披講の時右馬助もと下﨟たるにより先此歌を講じければ基俊聞て大に興さめたるけしきなるを顕仲ほゝゑみて聞居られたり扨次々に講じて上座の基俊の歌を講ずるに彼右馬助と同じ下の句なりければ顕仲わざとしらぬ顔にて会釈して右馬助はよく思ひよられたり歌仙たる基俊ぬしと同じ下の句なる事今日の名誉也と申されければ基俊は我歌を盗み聞れたるとは思はずしていよ〳〵不請[フシヤウ]のけしきなりし是も基俊兼て人々に中あしかりけるゆへあざむかれたる也
よしにせよ
物を無用といふ詞のかわりよしにせよと云はあら塩も戸ざしもよしや駿河なる清見が関は三保の松原此歌にて心得ぬべし三保の松原の面白きけしきを詠めゐば関に及ばず行ずとも清見が関はよしにせよとよめり
商人の学問立
江戸に材木商売の伏見屋才治郎と云者有常々学問だてせられしある時手代に物云付るとて深川松丸太長短下直調[シヤウグワンタチヨウタンゲジキテウ]と云しを手代は聞馴ぬ詞にて心得ざりしを汝文盲なりとて大に呵りしとかやかばかりの心ゆへ材木屋仲間及び隣家の人とも不和にて有しと也
短文の書状
さる強気の武士京に居て知音の僧へ遣したる書状に送り進ずる十八本松茸恐惶謹言又国への文に一筆啓上火の用心子供泣すな馬肥せ
と書おくられし武夫の実情あり只入用の専[セン]計かぞへたる是らも俳諧にとりて畳之上たる働ならずやと大江丸旧国は申されし也
国姓爺弟
長崎紙屋町田中七左衛門と云者は大明の鄭一官が子国姓爺が為には弟錦舎が為には伯父也父母ともに異朝にて韃靼人に殺されしにより渡海の訴状奉りて来朝せしは延宝七年八月の事なり
自鳴鐘
ある人時刻を知らん為にとて自鳴鐘を求めんとするを其妻是を止めて云けるは自鳴鐘の為にかへりて時を失ふこと多らん止給へといへばさあらば庭鳥を飼べしと云に其妻又止めて云けるは時刻は人の上にあり汐の満干も是とおなじかるべし自鳴鐘を便りとするは勤に怠る者の致す事也と夫を諌め終に鶏をも飼ずなりにき
大男小男
南部信濃侯国方より石力雲蔵[イシリキウンザウ]とて丈七尺五寸杉台右衛門とて長三尺一寸ある男を珍らしとて連給ひし雲蔵が右の袖口より台右衛門訇入て左の方へ抜出し誠に過不及の違ひ也在江戸の中邸にて人々に見せたまひしと也
兼良の元服
一条摂政兼良公十二歳にて御元服有し時虚空に何ともしれず怪しき声有て猿のかしらに烏帽子着せけりと聞へしかば頓て縁の方に走り出させ給ひて元服は未の時に傾てと付させたまへるとなん此公の御顔のかゝり猿に似させたまへる故なりとかや幼き時よりかゝる俊才ゆへにこそ著し給ふ書籍世に多く伝へり
夜詰の大皷
牧野長岡侯に仕へし吉田助六は大倉流の太皷をよく打数年泊り番の節革をよくほうじさめぬ様に帛紗に包み夜具の内に入れし也或夜君侯夜詰の節ふと謡を諷ひ給ひ夜が更ずば助六が一調を聴べきがもはや九つにもなるべし今より革など取よせ候は遅くなるべし残念也とのたまひしゆへ御所望に御座候はゞ仕るべきよし申上ければ急には革出来まじきかとありけるまゝ当番の節は急なる御用もはかり難かりしゆへ常に持参仕ると申て早速取出し打けるが一段よく出来しとて褒美なりける其後又所望有けるが一度は御用相立申候事故夫よりは泊り番ごとに持参不仕候と申ければ是も尤也所望のたびに間にあわばけつく珍らしかるまじとて弥賞美せられしよし此助六は和歌も心がけし者なれば常に雅なる咄しも有しと也
不出門行の詩
菅原道真公の右大臣の官職を停て太宰権帥に左遷せられかの地にても不出門行と云詩を作りて何方へも立出たまわず都府楼纔看瓦色観音寺只聴鐘声此一聯は白楽天が遺愛寺鐘欹枕聴香炉峯雪撥簾看と作りしにもまさりぬべしと昔の博士どもは賞じあへりとぞ
義孝の連歌
藤原義孝は謙徳公の三男にて或年一条院の御前にて人々連歌しけるに秋は只夕間暮こそたゞならねと云句の出来たりけるを人々声々に詠じてたび〳〵になりけれど是に付る人もなかりけるに義孝の少将十二歳なりけるが萩の土風萩の下露と付られければ人々驚て賞歎しあへり中務といふ歌よみの女房上東門院へ申上ければいとこまかなる下の句にて殊に有がたく聞ゆるは人丸赤人又昔のめでたかりし人々の再び生れたるならんと仰ありしよし中務もわたくしに申そへける萩のはに風をとづるゝゆふべには萩の下露置ぞましける此事を聞伝へて其頃は天下にやさしきわざ也と申あへりけるとぞ此義孝はのちに痘瘡の病にて失たまひ賀縁阿闍梨と申僧の夢に義孝昔契蓬莱宮裏月今遊極楽界中風とぞ誦したまひけると也此義孝の御子は能書の名高き侍従大納言行成卿也
馘塚三所に有
筑前国浜男と云所に耳塚有神功皇后三韓を討たまひし時其国人の馘を埋給ひし所是本朝馘塚の始にして此後源の義家朝臣奥州の戦ひに打勝河内国に馘塚を築き耳納寺を建らる是第二度也豊臣公京大仏に耳塚を築かれしは第三度也耳塚は左氏伝所謂京観也と云り
徂徠の戯言
正五九月に寺より祈祷の札とて持来れば徂徠先生其侭いたゞきて居間に張られしと也門人何とて札をはり給ふと問へば是も寺の役にて精を入れしもの也麁略にせんやと云れしと也
磯の浪
光源院殿京都四条の道場陣を取御座有し時夜九つの太皷を寝惚七つの時打けり公方より御使ありて番の僧を召す定て折檻に及びなんと震ふて参りければ様子御尋ね有つるにさん候深く睡り入目覚仰天仕ての故とありの侭申上ければ案の外御機嫌よくて「此寺の時のたいこは磯の浪おきしたびにぞ打といふなると狂歌を下されしと也
三条三光院殿十六歳の御時禁中にて懐旧と云題出たりつるに幼稚の御身には古今の難題なれば何とも読にくしとあれども一座皆面白き顔にみなし誰題を取かへよまんと云人なかりしに程近き我昔さへ恋しきに老はいかなるなみだなるらんと遊ばされしと也
下谷の争論
江都下谷にて或浪人蹲りて小便せしを侍二人話し乍爰を通り一人の侍浪人の刀に行当りしかどさらぬ体にて過行浪人思ふには此人見しらざれば意恨あるべき理なしとは自分の了簡なりとて跡より走り付只今 かゝる事候ひしが定て御心のある事にはあらじ但しいかなる事もやと尋ねければ誠にこまやかなる仰詞や只に御免あれと互に慇懃に礼を述て別れけりかの連は一町計り過て相待所へ侍追付件の荒増を語れば連人以の外気色をなしそれさまの事云せて聞しや何条討捨ざるや汝は腰の抜しとて散〳〵に詈りければ是は何事ぞや互ひに意恨のなき事なれば討果すべき謂なし夫に我を腰抜と云しは堪忍なりがたしとて双方抜合ひ火花をちらして討戦ひ互ひに手を負し所へ浪人町中の譟を聞駈つけて窺ひ見しに件の人血刀にすがり有ければこわいかなる故にやと近より事の要を問へばしか〴〵と答ふそれ遁さじと追かけ詞をかけ造作もなく切伏首を引提立帰り是見給へと有ければ斜ならずよろこび懇に礼を尽し我は喧嘩の相手なれば切腹すべしといへば浪人が曰そのもとは某也然らば互ひに刺違んと有しに町人打より押留奉行所に罷出一々の事訴へしかば委敷聞得させ上へ御伺有しにや是は喧嘩にはあらず乱心也何れも神妙の事也と仰有て済けり
狐川の名義
右は新著聞集の中の一話也此書寛延二巳年出板然れば百年余跡の話也新著聞集出板より十五年前享保廿年に苅萱桑門筑紫𨏍[イヱヅト]作者並木丈助の浄瑠璃狂言二の口狐川の渡し場にて玉屋与治鬼柳一角との口論を加藤重氏が扱ふて一腰づゝ刀を遣る場は此一話を潤色せしもの也此狐川の名義は古くより有て不解予が綺語文草に往古木津川〔一名泉川〕の流八幡の上に流れて木津根川とも云爰にある渡しゆへ木津根渡しとも呼やらんと例の癖考を記せしが如何あらん
潘谷橋姫の考
癖考の因に京の潘谷[シルタニ]は苦集滅道と古名を呼び俗に渋谷ともいへど蝉麿の詠是や此行も帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関とあるしるもしらぬもは潘谷の地名を読込みしにやあらん又宇治橋三の間の水汲場所にて川上へ建出せしは往古橋姫宮此橋上に有て宮の旧地也と云愚考委しく文草に出せしが故人の説にもれしは如何是も予が浅見にやあらん尋べし
そこにべ殿
備前の国岡山にそこにべと云魚有余国には稀なるよし大守浮田直家より芸州小早川隆景備中笠岡の城におわしける時彼魚を送らるゝ隆景近習の侍に仰夜中に備前そこにべが来し程に家老の衆に今朝ふるまふべき由申せとあれば彼者まわりて備前より夜前そこにべ殿御越にて候今朝振舞あり出仕あれとぞ申ける各慇懃に出立参らるゝに客とてはなく出たる膳部を見ればそこにべの汁なり右の様子を申されて大笑ひありし也
名月は俳諧の題
去る止事なき御方の説に名月の文字史記月令爾雅などにも見あたらず又源氏須磨の巻にこよひは八月十五夜にても有夕顔の巻に八月十五夜月のあきらか成とあり詩歌の題にも八月十五夜とあり邂逅明月とかけるは只月の清光なるを詠ず按るに入月十五夜を名月といへる事俳諧の家より云始て本邦の俗称となれるならひか良夜とはいつにても月のよき夜といふ事也たゞし中秋の十五夜は動のとれぬ良夜なるべし今更是を改がほなるもいかゞ心にこめてあるべしと仰られしと也
辻能の道成寺
能太夫橋本何某友人と二人古堀井専助が辻能を見物せらる其日は道成寺なりしを見ていかにも感心の体有しかば友の曰辻能はよく能に似たる事をして間を合す物とこそ承れいかにかく迄ほめ給ふやと云橋本の答にさら〳〵左様なる事にはあらず専助が道成寺始て見申せしが感心いふばかりなし今の世にて口利く太夫のうちに是程道成寺をこなすべき人あるまじく覚ゆる也其体はともあれ一体が我ものになり済してゐる也外のものをするとかわる事なし故にくつろき有て面白し道成寺の場数専助ほどつとめし者あらじ誰にてもあれすは道成寺なりと心の改まらぬ者あらじ是くつろぎを失ふ所なるべしと申されしと也書画をしたゝむるにも詩歌連俳にても其序に出で心あらたまらずくつろぎ有たきものなり
泊船寺住持
江戸品川泊船寺住持延宝七年十一月廿四日の夢に高僧来らせ汝は来年二月廿四日に身まかる也其心得あれとて詩を賦し示したまふ六十四年混世塵夢中不覚養残身不来不去是何者二月花開南谷春翌朝より此事を口癖の様に云れて明る庚申の年の元日の発句に見じ聞じいわぬがましじや申の年と云戯れて二月中旬より違例の心地にてさのみ悩む気もなく廿四日に六十四才にて正念に臨終せられし此人は常に大酒を好み仏道に愚に見へければ他の嘲りも多かりしかど心中にいかなる目出度事ありしやと人々慚愧しけり
古今伝授
将軍家光公の中院通村卿を召て古今伝授ありたきよし仰られしかど此義は公家の秘する所にて容易に武家に渡し難き道也思召とまらせたまへとて伝へおはさゞりしかば御心よからで三年帰洛御ゆるしなかりしに「行方に身をば誘はで夜な〳〵の袖に露とふむさしのゝ月と詠じたまへるを聞召ていと貴みうつくしみ給ひて都に帰したまへるとかや
大仏の御首
京百万遍回禄して後其地を東河原に移されし時釈迦の像大仏なれば御身を取放ち御首を車にて牽けるに日野大納言殿折しも格子より顔さし出し見給ひ只今釈迦の首を引はいかなる咎めされしぞと仰られしに其侭儀顔格子に取付て離れざれば大に驚きさま〳〵詫言したまひて漸々離れし忽日蓮宗を改め百万遍の中養春院の檀那となりたまひし釈迦堂は則大納言殿より建立したまひしと也
七瀬川の秀句
西行法師修行の時津の国七瀬川にて麥粉を喰ふとてしきりにむせられけるを馬上より侍の見つけ「此川はなゝせの河ときくものをお僧をみればむせわたるかな時に西行の返歌此川を七瀬の川ときく物を召たる馬はやせわたるかなと笑ひて別れし
芦辺殿の婢女
新古今に道のべに清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立どまりつれとは下野国の芦野と云所にて西行の詠たる歌とて今も柳有りて古跡と云いつの頃か芦野殿へ京より女の宮仕に参りて三とせ計勤て都へかへる時御餞どもいと興ありて其方の名をけふよりつれと替よと仰ありければ女とりあへずしばしとてこそと存候に御恵にひかれて三とせは立どまりつれと申上けるとぞ心あるそだちの女なりけり
故人の句を詠
古き歌を折よく誦し出たらむはあらたによめるよりも風情ありとや淀のあたりの杜宇宗盛の宇治の奉納など手柄有てきこゆと承る近頃尾張の人の妻の七とせまで腰たゝで有しが終に身まかりし時「4麥喰し雁と思へど別れかなと野水が句をつぶやきしはいと哀にして野水が作せるよりも情あつかりけると鳴海の蝶羅が物語也常に風流の心なき人も物の善悪に感じて思わず秀逸の句あり遠江の国に或人の子をうしなひて其一年の廻り来りし頃「4去年迄呵つた瓜も手向けり千万の哀を含ませ出したり
青砥の続松
北野通夜物語に昔青砥左衛門夜に入て出仕しけるにいつも燧袋に入て持たる銭十文誤つて滑川へ落したりけるをよし扨もあれかしとてこそ過行べかりしを其辺の人家へ人を走らせ銭五十文持せやりて続松を十抱買ふて是を燃しつゝ川を浚て終に十文の銭を求め得たりけるが十文の銭は只今求めずば水底に沈て長く失ぬべし五十文の銭は商人の手に渡りて永く失ず彼と我と何の差別かあるべき彼此六十文の銭を失はず豈天下の利にあらずやと云しとぞ五十文の銭を費して十文の銭を求るは小利大損と俗は云べけれど道理においてすべき所を考てする事なれば抜群の見識なくてはなるまじき事也商人と我と何の差別かあるべきと云るは楚人得之といふよりも其識量かさ大きなる事也其言行世に伝らざるこそ遺恨なれ
山伏の徳政
将軍天下を治め給ふ此御代に賢臣義士多き中に京都の所司代として訟を聴理非を決断せらるゝに富貴の人とてもへつらふ色なく貧賎の者とてもくだせる体なし然る間上下万民裁許を悦んで奇なる哉妙なるかなと讃嘆する人街に満り一滴舌上に通じて大海の塩味をしるとあれば其金語の端を云に余は知ぬべきや然る時越後にて山伏宿をかりぬ其節国主の迎ひに宿の主も罷出るに彼山伏のさしたる刀拵と云作りと云世にすぐれたる物なるを借りて行未宿に帰らざる間に一国徳政の札立けり去程に亭主帰りても刀をかへす事なし山伏堪へ兼しきりに乞ふ宿の主返事に其元の刀借りたる所実正也され共徳政の札立たる上は此刀も流れたる也さら〳〵帰すまじきと云出入になりければ双方江戸へ参り大相国の御前の沙汰になれり其砌京の所司代下向あり御前に侍られしが此裁許いかにと御錠あるを謹で造作もなき儀と存候幸ひ札の上にて亭主が借りたる刀を流し候はゞ又山伏がかりたる家をも皆山伏がに仕べきもの也と申上られしかば大相国御感甚かりしとぞ当意即妙の下知なるかな以正理之薬治訴訟之病挑憲法之燈照愁歎之闇といふ金言もよそならず
三船の才
大納言経信は博学多芸にして殊に和歌をよくせられしかば藤原公任と並びて世に称せらる白河院大堰川に行幸ありける日詩歌管絃の三の船をうかべて其道々の人を分てのせられけるに経信卿遅参の間主上の御けしき殊の外あしかりけるがしばし待れて参られたり此経信卿は詩も歌も管絃も三事ながら兼まなびたる人にて河の汀にひざまづきて何れの船なりともよせ候へといはれたるは時にとりていみじかりけりかくいわんとてわざと遅く参られたるなるべし扨管絃の船に乗て詩と歌とを献ぜられたり三船にのると云しは此事也先に大納言公任も三船にのられたる事有ければ此両人を三船の才人といひ伝へたり
難波次郎
平氏の士難波次郎が母は小松殿の乳人に仕へて厳直大慈二つながら全く歳六十にして故郷摂州難波に帰り住家極て貧しかりしが次郎常に母に仕ること恭謹にして農業のいとま薪を負て市に鬻身に被袴なしといへども母には滋味を尽せり後平家に仕へて邸を洛中に賜わり母を迎ふるに母行ずして云老嫗歳既に六十に余れり世に在の日少し汝今官に仕へ身を立家を起すの時至れり独の老嫗の為に心ひかれて奉公に懈らば忠を尽し名をなすの妨なるべし吾飲食だに足らば都へ出て栄耀にほこるの志なしとて迎への輩を洛に帰して自害して果たり次郎悲歎に堪ずして暫の暇を乞ひ故郷に帰り老母の亡跡を弔らひ洛に立帰りて清水寺に供養の塔を営みいよ〳〵忠勤をはげみ相国に仕へりと云り此事平家物語盛衰記などに見へずかゝる忠孝を挙ずしてさせる功もなき人のやうにしるし伝へたるこそ恨なれ無道の君に仕へたれば至孝誠忠二つながら埋もれたるはいと口惜き事ならずや
重衡盛長
平家盛りの比本三位重衡参内の折から帝より扇の地を賜わりける時郭公を一羽画たるを折らせられしにあやまちて鳥を切はなち尾のみ残りたるへ歌よめと仰有ける時さ月やみくらはし山の杜宇姿を人に見する物かはとよみたり又後藤兵衛尉盛長に平氏歿落の時重衡逢給ひて我馬を射られたり汝が馬を貸せよとありけるを盛長いなみて今我敵と戦ふの時也迯のび給ふには歩にても有なん是は雨夜の傘なり貸参らせんとて走り行て戦へりとぞ
罔両[カゲボシ]の歌
柳里恭が影法師の文に汝吾産れし時より吾側に在て暫し間も離るゝ事なしといへども我親にもあらず子にもあらず主にも召使にもあらず妻にもあらず乳人にもあらず只朝夕吾なすことのみして更に他の業をなさず悦ぶ事なく怒事なく憐む事なく楽む事なし思ふに目しゐたる者を友とすれば是を見せんとするに煩らひ耳しゐたる者を友とすれば是を聞せんとするに煩ひ唖を友とすれば是をさとさせんとするに煩ふ汝今吾有なるによりて汝が無を守るとも吾又汝が無によりて吾有を守る所をしらずそも〳〵汝は吾影なるかはた又人の影なるかと問へば返したる歌とて我影を我ぞと思ふ世の人にものいふ口はもたぬ影法師
六徳牒記
六徳牒記に云綾羅錦繍もて夜の物を造り薄ものすゞしに蚊のわづらわしきを避るは定紋に片意地はりて紙子に浅瀬を渡る事をしらざるなるべし土焼の火鉢ひとつは道具買も遺念なく紙もて作れる蚊帳一張紙屑かふ者の眸をうながすはともあれ盗人をして心を動さしむる事なかるべし薄紙一重に世塵をさけ湿をのぞきて寐冷せず風を入るゝ時は水浜にあるよりも涼しく書を見る時は蛍雪の窓よりも明しゐぎたなき姿を人に見せぬ計り夏候が妓衣の巧にもまされり昼は丸めて屏風の後へ投込み折目を正す世話もなし秋去冬来れば被りて霜雪のはげしきをも凌げば一物にして六用あり彼太宗が歌舞のからうたにはよらねど我是に名を与へて六徳の牒とよび道こそなけれど驚きたる山の奥にも思ひ入らず只此うちに延臥してやがて出じとは思ひそみけり
内舎人老党
内合人は人数多くて紛るゝが故に其姓を付て源内藤内平内善内伴内と云也天野藤内は藤原氏の内舎人也紀内行景は紀氏の内舎人也伊賀平内左衛門は平氏にて内舎人と左衛門尉を兼帯したる人也今世源内平内などゝ呼名につくは僻言也老党若党といふ名目は昔武士の党〔紀清両党の類〕の者の中に然るべき者を老党と云其次を若党と云は此余風なりとしるべし
蕨風の子
東都にて冬日の暖きを辻番の布子と云前句付に辻番の布子は西へ入給ふと有浪華にて小春頃に幼童の詞にヲヽ寒小寒猿のべゝ借つて着よ〔猿の甚兵衛とも云甚兵衛羽織とて所謂殿中羽織の事なり甚兵衛は始て着たる人名なるべし〕辻番の布子と品こそかわれ対句なるべし又寒風の吹もいとわで幼童の足袋もはかで朝の間に門に出て用水の氷を割雪を固めて兎を拵るなどを見て厥風[ワラビカゼ]の子と云是童[ワラベ]風の子の訛にて風の子とは夫婦の間の子なれば也といへり
馬の詠たる歌
少し仮名を読人の友に云けるは此程徒然草を見て遊ぶが面白ふ候よとありしかば其座に居たる者差出て搆へて口当りよしと思ふて多く参るなつれ〴〵草のあへ物も過れば毒じやと申せしよしか様な差出者古今の序を聴はづりて昔は花になく鴬水に栖蛙を始馬など迄歌をば詠たれば人倫たる身をうけながら五文字七文字のわかちさへしらぬは残念なる事やと歎くをあらやさしの心ばへや去ながら馬の読たる歌とはいまだ聞ず聞たしといへば世の中にさらぬ別のなくもがなちよもと祈る人の子の為是こそ馬の詠たる歌也否それは業平の歌にてはなきか念もなひ湯屋の謡にそも此歌と申は長岡に住給ふ老馬のよめる歌也と云たり
かんにんの四字
或人文盲なる者を意見して世の交りは他の事はいらず唯堪忍の二字をよく守るべしといへば文盲人は頭を傾けかんにんとは四字にて侍らずや御許には思し違なるべしかんにんと四字にて侍ると指をもて数へながらいへば意見せし人云愚昧の人かな堪忍とはたえしのぶと読て二字也といへば又頭を傾けてたえしのぶならば又一字ふえたり五字となり侍るべし何と仰有とも我等は四字と思侍れば四字にてかんにんは致し侍る也と云るに其人又云汝が如き愚昧の文盲は実に諭難し人に似て虫同様也己が侭にすべしと大にいきどほりければ文盲人笑つて何とも仰あるべし我等はかんにんの四字を知り侍れば悪口せられても少しも腹立侍らざる也とて笑ひ居しとぞ其智には及ぶべく其愚には及べからず
粂平内兵衛
浅草観音の寺内に粂の平内兵衛の石像有てよく人口に膾炙すれ共いつの頃の士何国の藩中と慥に書しものもなし内藤山城守の家中家富馬も二疋迄は繋しと也剛質にて力業を好み件の石像を存生の内に作らせ死後に印となすべしとて庭に居置しと也歴々の侍なれども石像拙なければ其跡卑し雅を学ばざる人の失知べし又品川東海寺沢庵和尚の石碑の辺りに丸き石いくらもまろばしあり道に転び出などせしまゝ自往来の足にかゝり石に銘なければ他所の者しらずといへど寺には別に帳有て南より何番目は某印北より何番目は某の印と詳に図せる由也
馬術に雅なし
昔より馬術に達したる人に学問ある人は稀なる由八条家に故実遺りたれども今伝ふる人なし大坪流の馬書も俗なる事多く詞古からず雲霞集には雅なる事少し有「さなみ「みさご鳥「遠山の月「桜かげなどは馬騎の口からは出まじき詞也近年に至りて「刎[ハネ]ぎり「もろあたり「放し刎など云は全く当時の馬乗り詞也馬の目所も「山合「小松原あつかふ目所甚詞卑し馬乗の内にも少文字の読る者は馬は余り上手の沙汰なし夫より末になりては只世間並の馬騎とはなれりとぞ
羯摩乗親の面
羯摩乗親は極て面打の上手なりけれども一年に一つは打ず性酒を好みて酔て舞ふ事を楽しむ老母の曰米の櫃蜘の菓をかけたり勤めて打べきにやとせめければ乗親驚てさあらば今日よりして懈らず打べしとて籠けゐが四五日を経て面を打て誂へたるかたへ持行料を持帰りて母に渡しければ母悦びてかく多くの金を得しは面いくつ打たるやと問に面は八つ打たれども心に叶わざるが七面あれば皆家に残せりとて取出し見せたり鬼女の仮面なりければ見るさへ恐しとて傍に置けり其夜盗人入て親子臥たるを伺ふを見て母かの鬼面を顔に覆ひて眼の穴より見ながらやよ盗人の入たるぞ乗親起よと云けるを盗人見てあとさけび驚何国ともなく迯失ぬとぞ
雅人の傑
遊楽は費なることに有費を省ば楽なし慰みは無益なる物に有無益をいとふ時は慰みなし面白きは危き所に有危きを避れば面白き事なし長生は労と食とに有労せずして食に過不及なければ命天然を終る事を得べし調度と人身と同じ多く遣へば損じ遣わざるも又損ぜりされば養生は過不及なきを守るべし病は不養生に有て世に気を屈託するもの常に病なきにあらず右は柳沢淇園の詞なり里恭は文学武術を始人の師たるに足る芸十六に及び中にも画は長ず近世畸人伝に悉しく出たれば云ず此人に対する人二人有彦根の森川許六是又俳諧に達し画を善す次で尾陽の横井也有なり此人画はならねども狂文には妙を得たり此三士ともなす事は違へども大約気象の同じき所有近世雅人の三傑と云べし
南方鑷
尾州名古屋の毛抜師の銘に南方と云あり諸葛亮孔明出師の表に深く不毛の地に入て今南方を定むと有て不毛といふより昔近衛殿下より下されし名なりと云其角の付句に毛抜にも名を給ふ君が世と有夏祭浪華鑑住吉の場の浄瑠璃の文談に其間に抜さいた髪抜ふと床の床机に上足打[アゲアシウチ]煙艸入から出す鑷もなんぼうふときせんさく也と有るも此南方鑷の事也
竹田近江
近松門左衛門国姓爺合戦といへる浄瑠璃を作して大当せし跡を猶面白き趣向もがなと枕を割て工夫に渡る其時の芝居主竹田近江云には作者の心にはさこそ存ぜらるべきかかく大当りの跡は大体すら〳〵としたる事をなして置るべし国姓爺にて余程の徳分あれば一二年不当りしたりとも我等式が給る程は沢山也其間は古き物にても出し候内には自然と能狂言も出候わん夫より上夫より上と趣向に趣向を重ねたらむ時は我業は尽果申さん只天然にまかされよと申たるは一道に秀たる者の詞諸道に通ぜり感ずべし
春日野の虫
南都の人松虫鈴虫を捉ふるに挑灯を携へて叢中に夜行けば其光によつて飛来ると云は昔の事にて当時虫を捉ふ者は竹を二本持昼行て薄を押分れば虫共驚て飛出るを捉ふ又飴を持行て捉ふとも中にも■智者は薄を根ごしに吾庭に植ゆ都てかゝる虫は薄の中に卵を残せばことしの卵来る年の秋に至りてかへりて声をなす吾庭にて生じたるをとりて籠にこめて売ればいと安し春日野にて虫も捉り薄も根こせば声格別によきと云り
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鴬白魚
東叡山の宮江戸の鴬には訛有とて京都の鴬数千羽を取寄て上野の山に放されしを年々卵をのこし今に上野の鴬は訛らぬよし鴬塚の名も是より呼桑名の城主白魚の種を品川に取寄られしより今白魚は東都第一の名物とはなりけり往古は嵐山へ芳野の桜を移し植させ奈良の都の八重桜を取寄せらる抔皆風雅の道を尽せり何れも優なる事にぞありけり
頼政の亡魂
蛍と云虫は腐草化して蛍となるとあれど年々卵を草の茎に残すを翌年初夏の頃自然とかへり飛かふよし故に石山は早く宇治は遅しと云萍或は藻にとまりて流るゝゆへなりと兎道にて扇の芝辺に飛かふを頼政の亡魂と云は俚言にして茅根化して蛍となるを誤りしものなりとぞ
お菊虫
駿河の町に蚊蜻蛉と云虫弥生半に飛廻り往来の鼻口へもはいらんばかり也是今川義元の亡魂也と里人はいへども風土によつて生ずるか是も茅根化して蚊蜻蛉となるにやあらんお菊虫とて女の後手に括られし姿の虫生ずるも其土地の風土に生ずる也播州皿屋鋪とて狂言にはすれど実は東都番町の事にて小畑孫市の室嫉妬深く神妙のお菊を井戸へ落し入て殺す其霊崇りをなす故甲州の知行所に菊寺とて一字を建ると新著聞集にあれ共青山の邸にての事なり故に狂言に青山鉄山お菊を殺すとも云り何れが実なるや不知
鹿の時立
南都春日野の鹿よく寝入居るもむくと起立て誰追わねども駈廻り戯るゆへ傍の鹿共に狂ふ是を鹿の時立とて春日明神鹿に乗移り遊戯し給ふ事と土人は云り雪の朝に駈廻る犬の如し猫鼠にも時々合手なきに戯狂ふ事まゝ有金魚腹を摺つて游ば三尾五尾是を追ふも皆故あるなるべし
猿蟹を嫌ふ
昔話に猿が島へ蟹の敵討に行事を綴る〔東都にては桃太郎なり〕猿は蟹を嫌ふ事甚しと聞り芸州宮島の回廊にて猿徒らをするを幼童ソレ蟹じや〳〵と云ばあわてふためきて回廊の上に駈登り鹿の通るを見ては鹿の脊へ飛乗山清水小流れ等の蟹の居そふなる所は鹿の脊にて越ると云思ふに磯端の小蟹は鳥類の羽虫人間の蚤虱に応じて嫌ふなるべし
置皷
置皷に四季有「子の日「桃花「あやめ「七夕「菊重等也花重と云置皷は月見小左衛門御城の御能務むる宵の夢に厳島弁才天枕上に立せ給ひ置皷を一通り夢裡に習ひ奉ると見て夜は明にけり感じて一手も忘れず翌日打ければ御機嫌斜ならず何と云置皷ぞ尋参れと御上意ありし時昨夜夢中に弁天より習ひ候とは申上がたく花重と申候と楽屋への上使に答へ奉りけるとぞ此置皷の留に「ハ「ハ「ハと三つ重ぬるより花重ねと当意に申上侍るよし是によつて幸の家には今に厳島弁才天を尊む此一名紅葉重ねとも云よし乱舞は必風雅なくては叶わず謡の文段わからずしては舞も謡ふも打も囃すも形の心づかいならんか
水引
秋草の中に水引草と云物は細く物を括る水引と云物に似たれば呼ぶ也色に赤有白有しまらしき草也扨水引と云は何によりて名を付しかと思へば素麺の名を切麺とも又水引餅とも云よし然らば素麺の形に似たればなり
鳥貝
鳥貝は鳰[カイツブリ]に化するがゆへに鳥貝也とも云又鵆の化したる貝なれば鳥貝也ともいへど其味鳥肉の如き噛しむる所有ゆへ云か併し月令に雀化して蛤となるとあればまんざら縁なき名ともいふべからず
放島の試み
放島の試といふは学生をこゝろみるに池の中島などにて詩文章を作らせる事也人に談合させまじき為也うつぼ物語に季房試の題を賜りてひとり船に乗られて出たりと有是放れ島のこゝろみ也
はなじろ
古き軍物語にはなじろに付合たるとあるは敵味方思ひもよらず出合て互ひに恟りして臆したる事を云にやはなじろは臆したる事也臆すれば鼻の白くなる也源氏物語におくしがちにはなじろめたる人多かりしと見へたり
和歌に師なし
文武の道もろ〳〵の芸能に至りても師となる程の人は其芸術をあまねく弟子に伝へんとすれども弟子の修行うすければ其道を受得ざる也されば物の上手下手になるは全く師のする事にあらず弟子の力にて上手にもなる事也仮令孔門の三千も聖人の弟子なれば皆賢人君子ともなるべきに纔に七十士中にも顔子九哲の如き是皆弟子の力なり或云京極中納言殿の和歌に師匠なしと宣ひけるよし此事よろづの事に渡るべきにや
南面の障子
権中納言定家卿は五条三位俊成卿の子にて我家にて歌をよまるゝに必南面の障子をひらかせて遠く外を望み衣を整へ正しく座してよまれたり此事を人に申されけるは常々心を清く正しくしてよみならわざれば高貴の御前にてよむ時心あはたゞしくしてよみあやまる事ありと申されしとぞ又申されけるは歌よまんと思ふ時には先白楽天が故郷有母秋風涙旅舘無人暮雨魂と作れる詩の句と又蘭省花時錦帳下廬山雨夜草庵中といふ句などを吟じて歌をよむ時は其歌自心深ししらべも高くよまる也とのたまへりとぞ
差合くり
晋其角常にいはれしは「好気根稽古のみつにくらぶれば好こそ物の上手なりけれ将棊の師大橋宗桂もつね〴〵此歌を誦し申されし俳諧に差合くりといはれむよりまづ句者といはれよ句集なりてさし合は自由なるべしとは尤の事也たとへば非常の時鳴物音曲今日より御免とあるを待兼て出さんはよからず一両日もさし置て扨可ならむ句者は此処につまりて外のものを作さむさしあひくりは六句め宛に松の句を出さめ笑ふべし
二万堂西鶴
井原西鶴は浮世物の作者にして俳諧は西山宗因の門人也浄璃璃作者近松門左衛門俳諧は西鶴にならへりと云西鶴住吉にて二万三千句を吐て夫より二万堂といへり住吉大矢数は貞享元年子六月五日也此時の矢見は其角也とあれども此年其角十六才也
三句の渉り
活々旧室曰俳諧一巻の変化は起承転の三つ又見聞志の三つを旨にとりて其場の働きにあるべしや昔太平記にいへる楠判官正成が討手として六波羅より須田高橋数万騎にてせめ下りしを正成方寸の謀にて散々に追散らし其跡へ宇都宮纔五百騎にて迎ひしかば楠はやく天王寺を迯て公綱に勝をとらせ扨近辺の山々浦々にて篝火を焚疑がわせ又骨折らずに追かへしたり是程面白き三句のわたりはあらじと語り申されたり
記録表紙
記録の書とは大納言を大糸言中将を中爿應永を応永元和を元禾嵯峨を山山醍醐を酉酉と書を云也釈家にても読誦を言言瓔珞を王王菩薩を■と書類を云我戯場にてもムリ升ムんせいなアなど書て通字とせり記録とは古く正しき名義なれどもわざと佐川田昌俊が製ならんかと俳諧して「日に当る喜六表紙屋水仙花と予が戯れしも卅年の昔也
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餓鬼つばた
松江雉舟が犬子集[イヌコシウ]に三条殿山崎宗鑑を召れ庭の杜若けふ翌と咲り思ふ程折とるべしと御許ある鑑何の心なく有がたしとて池の傍りに望み花を折公「宗鑑がすがたを見よや餓鬼つばたと仰らるゝ宗長やがて「呑むとすれど夏の沢水といまだ詞もひかぬうち「#くちなはに追れていづちかへるらんと鑑つかふまつりければ殊の外めで笑わせられ数の賜物ありしとぞ又支考が章平をつれて芳野山にあそび「歌書よりも軍書に悲し吉野山と申せしも貞徳紅梅千句に「公家は衰ふ元享のすえ正章「歌書よりも尺書[シヤクシヨ]を專にもてあそび可頼此付句を一つにして句となせり何れも風流の戯れ事今世の人の句を盗むなどの心とは同日の論にあらじ古書は常によく見て覚悟すべしとぞ
兄弟の争ひ
伊勢二見が浦に百姓兄弟山をあらそひて九鬼長門侯に訴へ侍りしにいかに下々なればとて兄弟づからかゝる非道なる公事をするふとゞき也仕方あるべしとて年経しかど埒明たまわず其間に双方より賄を運ぶ事数をしらずある時兄が方より物もち来りしを長門侯彼が聞様に此公事にて我は大なる徳付たり只いつ迄も済すまじきぞと宣ひしを彼者物越に聞て立帰り弟を呼び汝山に望あらば取べし殿の心かくこそあれ然らば争ひて何の益かあらんと云弟実もと思ひ其事止侍りし
仏は仏師
洛陽本満寺の日蓮の像は霊験ことにあらたにて同宗の輩崇敬浅からずある時像すこし損じたまふて仏師を呼しに仏師が曰此像を日蓮の像に改めよとの事に侍ふやと問ば住持は留主にて弟子僧数多寄合扨も文盲なる仏師の云事かな忝くも此尊影は北山芹生[セリヤウ]の里の土中に久しく法華経読誦の御声ありしかば此寺の開山声をしるべに堀たまへば有難や大聖人の尊像にておわせししらざるをしり顔になせる大悪人やと散〴〵に詈りければ仏師かたくてそれは各の僻事にて候是はまぎれもなき元三大師の影也と互に口論となり法師ども仏師が頭をわり内証にて事納めがたく所司代牧野佐渡侯にしか〴〵の事訴へしに仏師が申ところ証拠有やと宣へば仏師がいわく影の御首を破りて見たまひ良源とか慈恵とか記しあるべし若日蓮とあらば某が首刎たまへと申せば又住持にいかにと問せたまへば一言の返答なかりしゆへ其方より医師をかけ疵養生せさせよ職人の事なれば其日数を積り手間代急度わたされよと捌き給ひしまゝ内証より詫言し白銀廿枚送られしとや
運慶の口伝
仏師運慶が口伝に仏を作るには耳鼻をば先大きくすべし若耳鼻を十分能程に削ば後に小さく見ゆる時に大きくしたくても叶わず又口と目をば成丈小さくすべし若口を十分よき程にあくれば後に大きく見ゆる時小さくしたくても叶わずされば耳鼻は大きにし口目を小さくするを第一の口伝とするとぞ是はもと韓非子に出て宋の蘇頌が云し事也此木偶人を作る心得は何事にもわたるべしと駿台雑話に出たり
鴟鵂の文
或人鴟鵂[ミヽヅク]を畜てそれを囮にして鳥を捕けるに同じく殺生をする友達のもとよりみゝづくをかりに越けるが其文に鴟鵂を略してづくと書て其末にづくとはみゝづくの事にて候みゝづくと書候へば文字数多くこと長に成候故にづくと書候となが〳〵と断けり夫ならば始よりみゝづくと書かし文字を縮めんとて多くの文字をそへ詞を短くせんとて却て長くなる事は片腹痛し
長範の詠
高野西谷[ニシダニ]に入て熊坂長範蓮社の宝を奪ふの夜数多の盗賊を召連たり長範いかゞ思ひけん樹下岩上に休みて御山の霊妙の光を感じけるが寺に入て黄金を捧奉りて四面を拝し誓ひて永々賊徒此御山に入るまじ歿後の供養などしめやかに頼み鉄槌を借りて向ふ歯二枚欠て生前死後の思ひ出唯今得たりと筆走らせて則「たかの山峯の嵐ははげしくもこのはは残れ後のかたみに強盗長範と書けるとぞ交るも悟るもいましめも和歌にてぞすむ国なりける
日本に象を渉
南掌国十四年毎に象四隻を例貢す乾隆二十八年使を遣して大象一小家三つを進むと秋坪新語にみゆ乾隆二十八年は此方の宝暦十三年癸未也広南大泥国より日本へ象の渡りしは享保十四年乙酉なり大坂を通り京より江戸に行寛保の始迄江戸に育しとなり始渡りし頃は七尺計なりしが後は一丈五六尺に及びしと也
清人発句を訳
○東都俳諧師雪中庵蓼太が句に「さみだれやある夜ひそかに松の月といえるを清人程剣南が賞てこしけるを爰に出す撒密他列耶阿児要披促革尼麼子那次吉雪中庵蓼太蓼太先生者隠君子也都人土岐為侍従之流亜矣乙未春於崎陽客舘得俳諧歌一章言是先生所著僕不能読其国字故就訳士某得解則興在景中意在言外大非俗品可知蓋僕亦有所感也因賦一絶写其意傚顰之誚所不辞也長夏草堂寂連宵聴雨眠何時懸月色松影落庭前乾隆四十年孟夏月望後三日雲間程剣南」句のうへはとまれかくまれ俳諧の道唐土に聞へたるは雪中庵誉なるべし是安永四年乙未也是も七十余年の昔とはなりけり
師直の歌を訳
○高師直塩冶判官の妻に貽る「かへすさへ手にやふれけんと思ふにぞ我文ながら打もおかれずといふ歌を徂徠訳して我思美人貽之書美人不見棄庭除吾拾吾書帰十襲心謂美人手所触と訳せり
兼好を評す
室鳩巣兼好を評じて太平記に高師直が為に艶書を書し事を云其後伊賀守橘成忠が招きに仍て伊賀国に赴成忠が姫に通ぜし事園太暦に載たれば世に諂らひ色にふけり隠逸を好み名利をいとふといへども隠者の操ある人にあらずされど徒然に載る所仏法のさた好色の事を除て風景をのべ人情をかたり理趣ある事をしるせり中にも雑念をいましめて我心に主あらまじかばそこばくの事は入来らじと云懈怠をいましめて道を学する人夕には朝ある事を思わず朝には夕ある事を思わず只今の一念の上におゐてたゞちにすゝむべしといひ貝を覆ふ譬を引て万の事外にむきて求むべからずたゞ爰もとを正しくして前程をとふ事勿れと云松下の禅尼のあかり障子を張れし事を引て世を治る道倹約をもとゝする事を云高名の木登りが云し事を引てあやまちは危き程はなくして安き所になりてある事を云何れも簡要の旨にて聖賢の教にも叶ひぬべしと云り
勢語源語の評
儒道の人の口にかけては伊勢源氏の物語は淫乱を導く媒なれば年弱なる男女には禁じて見せまじき物也然るに薦紳[シンシン]家に源氏物語を我国の宝といへるは倭語の妙を得たるに心酔しての事なるべし是に註釈して毛詩に淫奔の詩を挙勧懲を示す如く人の戒世の教とするは俗にいふ扚子定木なるべし二南は修身斉家の本也雅頌は論道述徳の辞也国風はもとより里巷の男女各言情の詩なれば正も邪もあれども其邪と云も媒妎によらずして淫奔すると云計也何れか后妃を盗み継母寡嫂に淫する様の事やある伊勢源氏の如く邪淫の事云尽すにはあらず正を見ては自勧て邪を見ては自ら懲すぞかし伊勢源氏はいはゞ長恨歌西廂記などの品にて其冗長にして醜悪ある物也然るに聖人垂教の書に比して云は誠に氷炭薫蕕をひとしふするなるべしといへり
解脱上人
山の端にさそはゞいらん我も只憂世の塞に秋の夜の月解脱上人の世に随へば望あるに似たり俗にそむけば狂人の如しあなうの世の中や一身何れの処にかかくさんとかゝれしを右の歌に引合せて衣の袖を絞りにきとぞ
西行の歌
普光院殿の御詠に「面影はうつすもやさしとにかくに命は筆も及ざりけり「憂事も嬉しき事も過ぬればその時程は思わざりけり「すて果て身はなきものと思へども雪の降る日は寒くこそあれと西行はよめり
幽斎の狂歌
青海苔を煎豆に付たる菓子を太閤の御前へ出せしを幽斎公にむかわせ給ひ何と〳〵と御意ありし時「君が代は千代に八千代をさゞれ石のいわほとなりてこけのむす豆と申されければ興に入らせられしとぞ
信西豆
今新製豆とて京の町に売るはもと上京信西[シンセイ]の辻の尼寺にのみ製して大根菜の干葉を粉にして塩を加し煎豆にまぶして信西豆と云が原ぞと予が綺語文草にくわしく出せども幽斎公の狂歌の因みに爰にしるせる物なり是鑿説にはあらざるべし
普賢像
同書千本閻魔堂の前に咲く桜を普賢像と云は色白く花形世の常の花より大きなるゆへ普賢菩薩の乗給へる象の鼻に比して普賢像と呼しと云又一説には閻魔堂の次に普賢堂有し頃堂前に生ひし桜樹なれば普賢堂とも云とは塩尻に京の部に出せり此桜翌ひらくと見る時月の奉行所へ一枝送るを奉行所より牢屋鋪へ遣わす牢前に生て科人共に見せて春をしらせる是を牢屋の花見と云此盛りの内を閻魔堂にて壬生の如きの狂言をする事例なりと都はすべて風雅なる事あり
楊貴妃桜
東山東漸寺に泰山苻君と云桜は桜町中納言殿泰山苻君へ祈誓をかけられしゆへ号奈良の猿沢池の辺楊貴妃桜は興福寺の玄宗と云僧の寵愛せしより号ると云都て物の名を付るにも昔はいと風流也今時付る名は雅ならず唱いとむづかし
利休織部の詫
「何となく人にことばをかけ茶碗おしぬぐひつゝ茶をものませよまた「花をのみまつらん人に山里の雪間の草の春を見せばや利休はわびの本意にて此歌を常に吟じ心かくる友に迎ひては搆へて忘失せさせなん「契りありやしらぬ深山のふしくぬ木友となりぬる閨の埋火是は夢庵の歌にてあれども古田織部冬の夜つれ〴〵に吟ぜられしと也
西沢文庫皇都午睡初編 下の巻 終
西沢文庫皇都午睡二編 上の巻
目次
一 心太
一 安らひ花よ
一 盆踊
一 かん〳〵踊
一 造り物
一 瀬戸物細工
一 煙草入
一 絵馬の絵
一 神仏の興廃
一 出開帳
一 空鉄炮(葛城の奇談)
一 石川の洪水
一 復讐の次第
一 泉岳寺
一 魁の笋
一 皿の争ひ
一 通人の子
一 八坂の塔
一 鱶の鼾
一 蜆の夢
一 蜃気楼
一 検校
一 古き俄
一 国姓爺
一 清姫
一 新町橋
一 雪の五輪
一 鼻黒
一 砂持
一 若江の碑
一 御影参り
一 韓信を題せる歌
一 倉治の瀧
一 戯場の和歌
一 高野の玉川
一 猴に似た顔
一 朱買臣
一 狐戯るゝの詩
一 経声人を感ぜしむ
一 箔の小袖
一 妓家の星合
一 平語小曲
一 琵琶に落涙
一 雪中庵五世
一 来山が門松
一 句の新しみ
一 釣狐の異見
一 淀川の抱鯉
一 馬の餞
一 経信の和歌
一 高麗王の悪瘡
一 白龍網にかゝる
一 鼠喰の具足
一 匡房の強記
一 双魚扁鵲の文
一 孕句
一 懐剣の発句
一 流行詞は卑し
一 猫の飼やう
一 永井の肩衝
一 永井正宗
一 音曲の誉詞
一 古き文に有味
一 領巾振山
一 応挙の画
一 臥猪の真写
一 一蝶魚を鬻ぐ
一 鸚鵡籠を放る
一 遊女黄鳥を放す
一 臨写摹写
一 天龍川
一 行素夢常清
一 煙管筒の銘
西沢文庫皇都午睡二編 上の巻
西沢綺語堂李叟著
心太
曩に皇都午睡三巻に三百条の話を著はし其余れるものを爰に拾ひてまた三巻とす是やまた寐の夢なるべし晋子其角の句に殺された夢は誠か蚤の跡とはよく自在に読をふせたり予幼き頃此句を転じて松島の夢は誠か心太と戯れし事有角の句は夢に剣難にあひ驚覚れば蚤にせゝられし跡を云予は松島の絶景を感じ居れば起されて冷やかなる心太の出来しと持来るさまを云り一句の仕立同じけれど趣向は変れり是等を皇都の午睡と云べし付て云心太は今上製の物をスイトンと云下品なるをトコロテンと云是心太[コヽロブト]にて心太也水太もおなじ心なるべし
安らひ花よ
京師紫野今宮の花鎮祭にやすらひ花と踊り諷ふは人皆しれる事也是古くよりありと見へ寂蓮法師〔俊頼の弟子にして本名を定長と云〕建仁二年七月二十日今社[ミヤ]社士の家にてやすらひ花を詠ぜし歌有「高雄山あはれなりけるつとめかなやすらひ花と皷打なり又今踊の謡ふ歌に「やすらぎたるやすしやたるや安らひ花や花咲たるややすらひ花や富草の花や安らひ花や富をせはみくらの山に安らい花や此藤をなまへ安らひ花や此藤とならぬのせきと安らい花やいはしめ給へ安らい花やいはしとて千代振神の安らい花やみよとのにせんや安らい花やさけなへこなへやうにまろもいはれや安らい花やさけなへこなへやすらひ花やひくまなもあらかおなじくかへし歌「さなこをたび候とりたりなるや弥生によひにきてねなましかけやとりたらまじやたよりたましや今あらそはんねなまじ物をいまをよひ出てあなうしたくこひ〳〵」と諷へり
盆踊
年々初秋には盆踊りとて諸国の在に七夕より八朔まで幾日〳〵と日を定め牛頭天王とか八幡宮とか或は道場の庭とかにて篝を焚男女老若を撰まず踊りを催す中にも十五日十六日を大踊と呼ていと賑はしき物にて有りし都会の城下津々浦々にも有て各其国の音頭有て踊り振も又異なるべし京大坂にも昔は町踊とて有けれども天明の頃より此方は止て漸芝居にて年々盆替りには水狂言とて場の中へ水船を仕込み角力男達の狂言に水試合をして大切は大踊りとて子役は黒絽の腰巻羽織手拭を吉原かつぎにして千代の始の一踊り躍はありや〳〵黒羽【(織カ】踊りが所望じやが合点かと音頭の内につらりと並び〔ヲヽサヲサ〕がつてんじやと踊り始めとゞは渡したと云て這入る是より女形立役と種々の仕組踊雀踊など有て是もとゞは大踊とて惣座中思ひ〳〵の容にて踊りし物也今は此事なく市中に組踊と呼び舞の稽古屋の連中など呼るゝ者たま〳〵催有といへども衣裳引抜好みの揃となるなど歌舞妓の所作事に類せり遊所にも邂逅有といへども是におなじ皆古風廃りて踊はいつしかなくなりたり寺習屋の七夕に婦女子の踊りのみ遺れるとしるべし
かん〳〵踊り
勢州古市の女郎屋の踊りは彼地の名物なれば御師の方にて太々講中の人等はかならず古市の踊を見ねば帰国の土産にならずといへり博多踊は小女郎の狂言にのみ見ていまだ彼地に遊ばねばいはず潮来踊りは予が綺語文草に出して古市の下品なるもの也山城の北嵯峨の盆踊りはおちやめのとの端唄に遺りて葛籠帽子とて手拭を冠る名のよし近くは文政に長崎のかん〳〵踊とて唐人の姿して大きなる蛇をつかひ唐音めきたるおかしき歌にて踊りたるが踊りのふり覚易く仕易きゆへ大に流布せり其後天保山の川浚砂持等には踊りのさま掛声も一変して〔セツ〳〵コノ〳〵〕或は〔テウ〳〵〕まけなよ抔と云出せり皇都に此ふり移りて下のおかたにおまけなへ〔チヨイト〳〵〳〵〕などかけ声迄京師は物やわらか也と笑ふ者も多かり
造り物
祭礼開帳の折種々奉納寄進の物何にまれ造り物として飾も古き物と見へたり近世は奉納寄進の物は只竹馬地車に乗て運び作り物は別種と成りけり始は素人の小細工好など程よき物を集めて作り物をせしならん近来は形を思ひつけば人物の顔手足は大約木偶となり大江何某柳何某と人形師に誂らへ見世物の看板に類せりかゝる作り物を飾り見せ其神仏はいかゞ思ひ給ふやらんいぶかしき限りなり笑ふべし
瀬戸物細工
作り物に名を得たるは浪華西横堀の地蔵会に磁器店多く陶器瀬戸物一式にて作るに人物鳥獣生るが如し是古くより異形の瀬戸物来る時作り物の為にとて仲間中へ買取たくわへ置と也又か様なる物のほしきと思ふ物は兼て竃元へ誂らへ焼せ置事也と聞りさればこそ鎧兜など錦出金欄手の鉢皿の類にて拵るを見れば其物々にあはせ拵あるゆへさ迄奇とはいふべからず一頃又大きなる物を置すへて作り物とする事はやれり或は土蔵を三番叟の面箱とし帆綱の太きを紐にかけ下の釻は車の輪をつかふなど又大江橋の欄干を杉皮にてまき籠細工の葱帽子をつけ伊勢の宇治橋とし堂島の浜手にお杉お玉を雇ひ島の内大丸の屋根に富士山を拵らへるなど何れも仰山なる事を好めり皆細工物にして作り物とはいふべからずまして役者の似顔の人形など雇ひたるは見世物めきていと見苦し東都吉原の燈籠猿若町芝居顔見世の飾物は両側の屋根に種々の造り物をす是らは土地賑ひの為に人を呼物なれば神仏の正遷宮開帳などとは別の沙汰にて飾る人形又戯場によれる事なりとも差合あるまじく覚ゆるなり
煙草入
予以前より見たる造り物の中に手軽く出来よかりしは青物一式にて夕立雷をせしを見たり南瓜を雷の顔とし帯を鼻と角にし口は南瓜をくり抜たるが上下の歯と見ゆるは種を其侭に見たるなり小芋を親歯褌は真桑の皮に茄子の皮を交寅の皮の斑と見てつなぎ太皷は小西瓜を跡先切てずいきにてつなぎ太皷の撥は割頭[ワリガシラ]を両手にもたせ十八さゝげの雨をふらせ有しが其容より振のよさ是も大江何某などの細工にやあらん又一種夜着を畳みて煙草入とし対鋲のかな物は吉原枕を二つ並べ茶呑茶碗二つを鳩目とし鹿の子の細帯を紐に抜出し火入の底を抜緒〆にして座鋪たばこぼんの上下をはづし雀形の張たる屏風片々を煙管筒に見て斜に立かけ煙草盆は筒の金物にはめたる也閨の道式一種にて誠に無雑作なる作也是らを真の作り物ともいふべし
絵馬の絵
神社仏閣へ絵馬を納るはもと神には神馬を献ぜしが年に一二度の神事ならでは乗らぬ馬なれば数疋有ても益なかるべし馬の絵を画かせ或は木にて彫たる馬も奉納せしより絵馬と呼ぶよし近来遍額軌範とか云る書に出たる如く洛東清水和州初瀬芸州宮島などには古き額数多ありて其世々の容を見るには是にまさるはなし然し是好者家又は画師などには其道を学ぶ便ともなるべし尤清水寺に掛たる田村丸鈴鹿の鬼神退治などは其寺の来由を知らせ霊験等をしらせるなれば有べき筈也其神仏にも拘はらぬ武者絵などは願主の心いかゞあらん覚束なし筆遣に名高き弘法大師へ書の額は上らずして菅神へ大字真行草の額を納る又は弓箭神ならぬ所へ射術柔術剣法の額を掛るもあり中にも熊坂長範袴垂安輔など強盗の悪人の絵などまゝ有画師は願主の好によつて画けども奉納せる人はいかなる心にか有けんいぶかし
神仏の興廃
神仏にも興廃ありて何々の尊と敬む神は諸人近付なきやらして誰も参らず只通用のよきは八幡宮天満宮つゞいて多きは牛頭[ゴヅ]天王稲荷の社也仏も釈迦と阿弥陀はかはらねど勢至普賢は流行にをくれたり近来薬師はをくれの部にて観音はます〳〵盛ん也只金毘羅と妙見菩薩に人気塊り諸神諸菩薩は足元へも近よられず此二体は当時の花方なるべし
出開帳
余国はしらず浪華には弥生の頃諸所の神仏出開帳の時はまづ手寄の旅宿へつき開帳の場所を構へいつ幾日には場所へ移るその道筋は前々日より披露有て宝物霊仏の類ひを人夫にもたせ講中世話方前後に警固し神主別当の人々は乗物にのり静に行列して跡をさへと称す大阪市中の講中世話方より其組の挑灯或は猩々緋緋羅紗の幟をもたせ堂島雑喉場十二浜市場靱の世話方なくば湯豆腐に辛子なく毛のある所に毛なき心地して甚淋し十三反十五反の広き大幟の曲差[キヨクザシ]には肩車に乗りて差浄明の肩に立たる一来法師の威勢をふるへり小さき籠の長き柄をつけ散物〳〵と賽銭を乞ひ鉦を敲きて詠歌をとなへ齢七旬に及べる老婆の伊達なる衣裳を脱かけて双の手に扇をもち詠歌念仏に合せて遊戯する有是なん躍婆と云歓喜踊躍の念仏に傚ひ仏縁に導く方便かはしらねども乞食物貰ひの輩にひとしく相応に身をもてる人ならば其子孫子の頬よごしなるべし此出開帳の来る時はさも賑はしき物なるに開帳果て帰国の時終に諸人の送るを聞ず世俗に始有て終なしとは此事をいふなるべし此近年開帳迎ひの賑はしきを絶て見ず年々馬鹿の減るなるべし
空鉄炮(葛城の奇談)
爰に亦さも有そふなる虚言を云事を鉄砲也と云は空銃砲と云ならん夫より又焔焇嗅し共大砲を放すとも云り又一種嘘らしき事を聞ときは又例の出し物ならめなど云此詞何より出るか分らず以前出し物話とて真らしき咄口にて仕舞は落噺となる事はやれり一二を爰に出す河内国葛城山の麓に古き三面の石碑有中央に梅園中将殿と鐫左に愛宿主税右に船頭与次とか鐫て文字も苔に埋もれ誰訪べくもなき墓碑一基有土人に此謂を聞たる所梅園殿とて堂上方の子息諸国歌枕の望有て愛宿主税といへる郎党を連先都を立て大和路より芳野葛城を視巡り河内路へ赴きし所此土地の絶景中将殿の心にかなひ山寺に数日滞留せられしかど行衛遙けき旅なれば爰を立出和泉より便船して四国九国も見ん物と船出せしが阿波の鳴戸沖にて海賊に出合ひ主税にもたせたる旅用の百金を賊首奪はんとす主税は渡さじと争ふ隙に賊共中将殿を手込にする船子は見兼て是を支へ天間[テンマ]とか云小船の内へ中将殿を乗る間もけはしき浪にゆり上られ友綱きれて大船小船左右へひらき行衛も知れず成にけり主税は賊首と只二人金の財布を奪合ながら海の深みへ沈みしが生死もしれぬ身の行衛爰に又播州網干辺に住与次と云る船頭放蕩ぶらゐの悪者ありしが一度難風に合ひ既に洋中にて死べかりしを金毘羅権現に祈誓をかけ辛ふじて助かりしより生れ代りし如く善心となり或日小船に睡りて夢に主税の霊あらはれ足下の善心を見こみ頼あり我は梅園殿の家来にて去年鳴戸沖にて海賊の為めに百金の財布を奪合賊と共に海中に沈み此世を去れり然れども其金は波に漂ひ汐にゆられて此浦の彼所にとゞまる主君は小船に流されて今に存命河州葛城山の麓に閑居し我尋ね来るを待るゝ何卒海底の金子を取上主君に手渡し首尾能帰洛させてたべと忠義の魂魄あり〳〵と与次が夢に告けるにぞ与次夢さめて彼所に水入し潮に朽たる財布を取上数へ見れば百金ありかの中将に手渡しせんと直に河内に尋行人里遠き山寺にて梅園殿にめぐり合ひ夢にしらせし主税の頼み委敷告て百金を渡す期になり欲心生じ此金の半をわけて主君に渡し残る半は足下の世話代納め呉よと頼みにぜひなく爰迄尋来つたりいざ百金を分取にと金の包みに手をかくるを中将聞て暫しととゞめ遠路の所尋来て家来が託せし其金を渡し賜る志先以て祝着せりさりながら此金子は歌枕の路用にとて勿体なくも主上より恵み賜るものなれば私には進じがたし一旦之を天子へさし上首尾能帰洛せし時は五十金はさら〳〵いとはず百金も得さすべし苦労序に都迄送り届けて給かしと頼むもきかずあざ笑ひ己なればこそ幽霊に頼まれもすれ渡しもすれ百両ながらしてやろとは位倒れの安公家殿そふ味よふは釣られまひ半分わけが気にいらずば元の深みへ沈めて呉ふ海から取て持てゆけと傍若無人の喧嘩腰中将あはて押とゞめ腹立の段最もなれど此金子のなき時はいつの世にか帰洛せん何卒情に此金をと財布に手をかけ引戻せば生れ付たる強悪者エヽ彼是と面倒なむごいめ見せざ成まひと刀に手をかけ切らんとす中将ハツと飛しさりやれ聊爾すな先まてと留ても留らぬ非道の悪者一旦抜た此刃物納めたとてどふで科人ゆるしはせぬと突掛る中将今は詮方なく遁れんだけはと迯出す何国迄もと追行与次葛城山の半腹迄転つまろびつ迯行を遁さじ物と追掛る船頭が追ふて公家が山へ登るとは此ときより云始しとぞ
石川の洪水
文化の末頃珍らしき洪水にて河州は半水に流され人家はもとより牛馬まで大和川に流れ落大方ならぬ騒の頃河州石川村に一人の農夫あり又六と呼正直なる事天性の産れ付にやあらん人是を仏の亦六と称す其壁隣りに一個の悪漢農業はすこしもせず亦彦道と殺生のみに世を送る土右衛門と云有幸ひ此石河村はさせる水損もなけれど隣村は水につかり跡の騒ぎ大方ならずかゝる折にも悪者の彼土右衛門は時を得て日毎に石河大和川に行て水上より流れよる器財のむき熊手にかけて拾ひとり売代なしては酒食にかへ思はざる此洪水にて一もと手に取付して独り笑して川ばたに待居る内に川上より新らしき木地長持になひの棒を付しまゝ流れ来たり水練得たる土右衛門は熊手を掻込腰ぎりに流れへ這入りててふど引よせ静に堤へ引上つゝ見れば長持に錠おりたり定めて中には絹夜具か衣類のむきを詰たるなるべし我家へ運んで改めん片棒持す者がなと見ゆる向ふへ隣の又六堤の上を通るを呼かけ又六どこへと尋ぬれば向ひの嚊衆が癪気がつゝぱり薬買ふてと頼まれて求めて今が帰りがけと云に得たりと土右衛門が片棒かゝす早速の嘘是此長持はをれが伯母貴の大事の品物そちが内へ預けたと頼みにぜひなく持ていにしな難儀を助ける仏の又六片棒頼むとのせられてそりや幸ひと帰りみちかいていなふと肩を入れ土右衛門が内へ舁込んで癪の薬がひま取たと向ひの内へと走り行跡に笑坪の土右衛門が錠叩きあけ蓋とれば長持の底に蒲団を敷七十余歳の老母一人長病にやつれ苦痛の体外には七りん薬鍋茶碗と尿瓶も打返りあたら蒲団も湿付て得ならぬ臭気紛々たり土右衛門大に業をにやし此長持の重さでは一廉の金目じやと又六めを賞そやし持て帰つた甲斐もない死損ひの糞婆めうん〳〵うめいて居るからはどふで生てはゑいをるまいむだ骨折らせた其代り往生させて呉ふぞと熊手片手に独りごと壁の崩れの隣りから覗いて恟り又六がヤレ待しやれと飛で入り熊手引とり分入りて扨は又だましたの伯母貴の所の長持と聞て爰まで運んだが見れば病人の此婆様たゝき殺そふと云こなたの悪心病気で死ねば常業なれど敲殺せばこなたは科人ヤレ滅ぽうなと震ひ声土右衛門はゑせ笑何こんなひんこめを殺したとて下手人所か婆々めが悦び殺し助也よひ死旬邪魔さらさずとそこのけと云に又六あきれ果爰迄片棒舁たをれ手走[テバシ]り受るはしれた事婆様はこちへ連ていぬをれが貰ふた下されと云をつきほに土右衛門は夫程ほしか持ていね尿瓶も婆に付物じやと壁の穴よりほりやれば病苦の老娑を肩にかけ仏の慈悲者又六がよふ〳〵つれて我家に寝させ肉身の母の如く日々助抱のおろそかならねば両三日経て病人は少し病苦も忘れけん又六に素姓も告高安の近郷五ヶ村ばかりの庄屋の母十三ケ年が間の長病も躮や嫁子孫共まで余り大事にかけ過し医療に験なくばかり所に今度の洪水も病苦に人事を弁へねばいつ長持へ入れしかしらずどふして爰へ来し事ぞ終に相見ぬ此母を真実の親の様に介抱給はる実心の肝にしみしか十余年覚へぬ母の快さ爰はまづ何国にてこなたの御名は何と申すぞ此躮や孫子共は水に流されて何国にぞと過こし方の物語聞て又六小膝を叩き扨は高安の近郷某の母子よな此所へ来られし始はかよふ〳〵と云聞せ又高安郷は大方流れて今に住所も定らのよし聞ども夫にこそ仕様ありて屋根板二三束求かへり何付何某の老母は石河村又六が方に居るよし書て水上へ行折には是を数十枚づゝ流しけり洪水の騒も少し静りければ高安の何某母の行衛を案じながら水損の場所を見あるく所に屋根板に蚯蚓書ながら又六が住居に母のましますよししるせしを流れよるに知りて何某大によろこび家内親族打揃ひ駕籠を釣らせ迎ひに来て互に命の恙なきを悦び其上十余年の病気もをこたり全快の歓びとて又六へ百金の謝礼を送るに又六決して是を受ず何某の云此金子を受るは後世の人の為也と云又六何が故と問何某云兎角欲の世の中なれば以後のかたりぐさともなりて老母の介抱し百金を得たりといはゞ人皆是を真似るべしと理解にまかせ又六は然らば是にて橋なき所に橋をかけ供養にせんとよふ〳〵受る何某は母を駕にのせ厚く礼を述て帰りけり壁隣の土右衛門は是を聞又六が内へ来てあの婆は元洪水に流され来しを拾ひ取しは我等也然れば百金の金主は我なりすみやかに渡せとはたる又六云其時我なくばあの老母を殺すならん今日歎びの裏をかへして老母の敵とて足下を討ん我に悪心なきゆへ十余年の病苦を助かり理を解て百金を送れり何ぞ足下に渡さんやと此争ひに及びしかば一村の者庄屋年寄集りて此評議まち〳〵なりしを庄屋の曰元老婆は水上より流れ来たるなり然れば此百金の財布を大和川の落川へ投込べし何れなりとも水練を得たる者飛入て取上べしと皆々打連大和川へ行に水嵩は漸減りたる様見ゆれど水声喧しく四方山の物流れ来る事高きより谷底へ材木などを落すが如し淵には渦巻漲る水勢いとも危ふき水中へ庄屋は件の財布を打込土右衛門もとより水練を得たれば素裸に成つて水中へ飛入たり亦六は水音に驚き只忙然と詠居るを庄屋懐より百金を出し是こそ汝が金なり今打込みし財布には程よき小石を拾ふて入たり此水勢は土右衛門がいか程水練得たる共捜取る事難かるべし此間に早くと又六に金を持せて帰しければ一村の者あをぎ立庄屋の才智を感じける去程に土右衛門は浮つ沈みつ渦巻中へ入よと見へしが彼財布を取上て口にくはへ頭を漸顕はせてこなたの岸へ泳ぎ来るさま皆々呆れて扨も我慢の土右衛門も一ぱい喰ふてあの財布の石の入りしを金ぞと心得かづき上たる大馬鹿と口々そしれど漲る水音間遙に隔たれば聞べき様なく抜手を切泳ぎ来る内水上より三間ばかりの藁屋根屑家土右衛門の方へ流れ来る皆は手を打天罪【罸カ】にてあの屑家にて鼻でも打とて土右衛門の死ねかしと其財布は金ならず石を大事にくわへておるはいかいたわけと声々に詈る内に件の藁屋土右衛門が脊にどふと乗るそりやこそ今に死をらふとどよめく声の聞へてや土右衛門は頭をあげ屑家負ふたがおかしいか
復讎の次第
此頃国はどこそこにて敵討が有たとの事取引先より委敷記せし此書面姓名まで書ありとて半切に書有を出す其書にいはく
今井何某
野村何某
花むらさき
しづはた
和田見益
水口屋喜兵衛
宇源太
惣九郎
駄八
此今井と云は家中一番の美男にて同役野村何某と遊処に通ふ和田見益は牽頭医者にて水口屋は茶屋なり花紫は廓一番の全盛なるが今井と深き中となり野村はしづはたと云相方はあれど花紫に惚て蔭より口説ど手にいらぬを憤り恋の敵と医師と亭主に相談して駄八惣九郎と云悪者を駕舁に出立せ今井の若党宇源太主人の供に付来るを酒に酔せ夜深く屋鋪に用有とて花紫とよく寝入たる今井を駕に乗せ野村は途中に待伏して駄八惣九郎等と謀つて終に今井を討果せり宇源太は主人早帰れりと聞て駈戻れば主人今井は道にて死たりこは口惜と足ずりして屋敷へかへりか様〳〵と委細を語り其夜の人数の名を記し今井の後室と舎弟に見する舎弟何某追取刀にて敵を討んと駈出すを後室暫しと押とゞめ有まい事にはあらねども心を静めて此書付の字頭ばかりを読で見やと女ながらも武士の母たしなめられて宇源太が見せたる書面の頭字を読ば今野花しは水宇惣駄とか様な事をさも実らしく云て落す是を出し物語りと云り此余に噺もあれ共略しおもひ出る侭右に出せり
泉岳寺
東都無楽が三題噺と云を聞しが見物に何なり共題になる物を乞ふ見物所持の品を出す其品をもつて即席に作して話す事なり此後謎解坊主此即席をす今はよし此どゞいつ坊などみな即席を興とす右三題噺の題に江戸三芝居の狂言と題を出したる時の芝居の狂言忠臣蔵に廿四孝今一軒の狂言は忘れたり忠臣蔵は彼泉岳寺へ詣て義士の石碑を見て今に芝居にでもして諸人の賞ずるは全く大石始四十七士の忠義故也と念頭に拝み居る内其碑震動していと物凄き体なりければ扨は忠士の霊爰にあらはれ出るかと恐しく思はず迯出し江戸の方へ足早に帰る道にて思ふ様よしなき石碑を見て忠義をほめたるがゆへに一山の内のみ荒れて震動したりヤレ恐しとつぶやく向ふへ友達来たり何国へ行れしと問に泉岳寺へ詣し事を語り震動したる事を云友人笑ふて今珍敷地震ゆりたり扨は寺中にて地震にあひしを霊魂出ると思ひしならんたはけた人よと笑はれて扨はと心付ながらイヤ我見たるは地震にあらず石碑の影より亡霊のあらはれ出しに相違はなし四十余の墓碑が一時に声を発して義士〳〵と鳴出したと落せり
魁[ハシリ]の笋
廿四孝の外題を見て近所の友の物識りに廿四孝とは何の事をせし物ぞと問に友云唐土に廿四人の孝行者をすぐつて出す其内に郭巨孟宗など尤名高しそれを日本に引直して慈悲蔵横蔵などにせし物也とかたり聞す此者に一人の老母あり今迄は身持あしく親の事も苦にならざりしがふと此話を聞てより老年の母孝行にせでは叶はじと心づき内へ帰りて詞を改め母親の機嫌を問ふ母はいつも持あつかふいたづら者に似合ず詞も甚叮嚀なればいとゞ不審も晴やらず躮は母に何ぞ食物を御好あれ直に求めてさし上ふと云母はさのみ食好みもせねばふと思ひ出しまだ寒中にはならね共冬の笋よかるべしと四日市の青物やへ駈行小さき笋の魁[ハシリ]を買ひ帰つて直に煮て出し是は孝行の仕始めなればいざ召上れと進めけるにぞ母親大によろこびて少し喰ひ初物を喰ば七十五日命延はると聞ば残りの分はそなたたべやれといはるにぞ息子然らばお相伴と茶漬の菜に喰ければその味き事咽を飛口まら発して立上り母の残りの笋は只二きれか三切れ也中々是では堪えられずまそつと買て思入食せんソフレと駈出す息子を呼とめ先には母への孝行に求たるゆへ有もせふ四日市へ駈出してももうそふ〔孟宗〕はおじやるまひ
皿の争ひ
前編の咄の部に云旧観雑話の序は坂東岩子[ガンシ]の作せる咄にて行燈の上皿下皿とせり合昔より同じ皿に生れながら我下皿にのみなりいるは口惜しちと上下とかはるべしといへば上皿大に迷惑して上皿には受なく下皿には受の輪有是生れ付たる役目なれば今更替る事出来まじと云所詮下では済まじと御奉行所行燈美濃紙殿へ訴へければ燈心衆を左右にしたがへ上皿下皿が言分を聞てヤア申様が暗ひ〳〵まつと委しく掻立て参れ此一話を序にかへ次に三都の噺を集めたり覚居る分をこゝに出す
通人の子
江戸浅草蔵前の豪富の主人吉原のをいらんを根引して妻とせしが懐胎して十月に及び安産せし小児を見れば本田髷の大尽姿着物羽織に至る迄其頃はやりし好の仕立金拵への小脇差煙草入から紙入まで誠に美尽し善尽し党世仕立の大通人盥の湯を浴もせでずつと表へ駈出すゆへ番頭跡より付てゆけば北へさして足早に行るゝゆへ扨は観音様への申子なれば御参詣かと思ふに違ひ馬道より田町へかゝり土手の方へ急がるゝゆへ何ぼう親が通人でも今産れるやいな吉原へ駈出すとは呆れた物じやと言ながら番頭は袂をひかへ若旦那おまへはどこへお越じやなと尋ねに産子はふりかへりおぎやア〔扇屋〕〳〵
八坂の塔
京の者夜岡崎辺の畑に隠れ鴈鴨の下りるを捕らへ我腰帯へ首を通し凡十羽も取りしと思へば鴈鴨一度に羽敲して中空さして飛でゆくあれへ〳〵ともがけども羽風に連て段々と遙の空へ飛るゝひあいさこりやたまらじと一羽とり二羽三羽とつて放すにぞ帯はゆるんで追〳〵飛ぶ何でも平地へ下りたく思ひ両手をかけて何やら持ヤレ嬉しやと気のゆるみに鳥はのこらず飛去たり命限りとらへし物よく〳〵見れば九輪にて下は反ある瓦屋根去にても何国なるぞと気をしづめ月明りによく〳〵見れば八坂の塔の五重目の屋根の九輪に取付居れり転び落ては粉に砕けんさればとて下るに道なし助け舟〳〵と声の限り泣わめけばよふ〳〵近所の人集り人間の降る嵐[アラシ]でもなしどこから散て来た物と問ふにも答よふにも数丈隔てし塔の上下かれ是いえ内夜も明れば何分人を助る工夫中にも智恵者案じ出し万年坂の艾屋の艾の限り地に敷て是でたらぬと穂口やの火口も共に地へ敷て此上へ飛下りよと差図に上よりふし拝み穂口の上へ飛ければ体には恙なくふうわり落てたすかりしが両の眼より火が出しゆへ火口へ移つて焼死けり
鱶の鼾
浪華の北船場の豪商の丁稚二人魚は夜寝る物か寝ぬかとのせり合ひに一人は夜中泉水の金魚を見よ泳ぎ居るを見る時は寝ぬと云一人は又番頭殿がよふ寝る物じや鱶のよふな鼾を掻をるといわるれば魚はねる物に極まつたと互に争ふを奥の間より秘蔵娘のいと様が聞つけこりや寝る方が勝ならん床の間にかけてある懸物にさへ蛤が夢見て居る
蜆の夢
此話を出入の牽頭医者が聞付ていとの判断感じいると主人にむかひ蜃気楼の講釈よりいつそ今から安治川か尻なし沖へ見にゆかふと船に酒肴を取乗て夫婦娘に医者妼手代丁稚も打乗て伝法辺にて船をとめよく〳〵見れば虹の如く葛屋につゞく藁塀の内より見越の梅の盛り在所げしきの蜃気楼は前代未聞とふねより出て堀出し見たら蜆であつた
蜃気楼
とてもなら真の蜃気楼を見たき物と尻なし沖へ船を廻させ暫く見合す其内に烟りの如く金殿楼閣硝子細工の龍宮模様あり〳〵と立昇るにぞ是こそ誠のしん気楼といふ間もあらぜず一時にばた〳〵と崩れ出し微塵に散つたはこはいかに地震ではあるまひかと干潟を堀れば道理で蛤があくびして居たと是にて一つの噺に三つの落し有此余にも有たれど忘れたり
検校
桂文治の落し噺は臍の宿替と云書あれば爰に略すその後道具入の咄あれども多くは所作と道具を用ふれば事長くてくどき所あり此道具入の前に一つ二つ素咄をしたる中におかしきと思ふ分を爰に出す
或検校の妻弟子の何都とか云座頭と密通して検校の前も憚らず見苦しき事多かれど盲目なればしらず近所の事触の老婆検校を呼こみて是を告る検校も兼てそれとは推量しながら盲目の悲しさ詮方なく虫を殺し適片目にても明らかなれば安穏に置べきかと天王寺の庚申堂へ祈誓をかけ一七日が内井の端にて水を浴庚申堂へと参りけり三日目ばかりに妻はしり彼座頭をつれて跡より行主堂前にひざまつき一心不乱と願ふ跡より必聞て給[タベ]玉ふなと夫の祈誓をもどきつゝ念じて先へ帰りけるかくて検校一七ケ日の満願に又参詣の後より妻と座頭は跡付て天王寺へとこそ歩行ゆく検校堂前に拝居ればあた面倒と前なる茶店の奥をかり携へ来たる酒肴さゝへ開くもさし向ひ検校はかく共しらず念じをれば実青面金剛の利益にや両眼ともに始て開きあたりもしかと見へければ検校大に呆れ果ヤア扨は庚申の霊験にて両眼立どころに開きしかあら有難たや忝なやと天へも上る心地して堂のあたりを打詠かくあらんとは兼てより思ふに増たる御堂の尊さ是がかの紅絹猿[モミザル]か向ふに高きは天王寺の塔なるかと余りの嬉しさにゆる〳〵と爰等見物して帰らん物とまづ茶店へ腰打かけ煙草呑つゝ葭簀より奥の間をさし覗けば現在我女房と弟子の座頭が痴話の体生れて此方盲目の闇地を払ふけふの今女房や弟子とは夢にもしらずおなじ盲人とは言ひながら余所の女夫は睦まじいなアと此噺などは情深くして実有今時鄙陋の下がゝりの咄とは混ずべからず
古き俄
前編にも演たる俄と云も文化に俄選天保に俄天狗といふ書出たれどもそれにもれたる物を爰に云文句を覚へ落しを忘れたる有落しをしりて文句を覚へぬも有只趣向の佳なる物をしるせり屋根葺釘をくわへ鉄槌にて屋根の漏を葺かへゐる浄瑠璃にて天満に年ふる千早振ると紙治の茶屋場をかたると紙治の拵にて屋根の上へ来る屋根や恟りして盗人かと怪しむ爰は定て河庄で有ふちよと覗かしてくれと天窓[テンマド]よりあのマア痩た顔はいの文句になる屋根やどふして屋根から出て来たのじゃサア連て飛なら梅田か北野アヽ爰からどふして飛れる物かなど有て紙治窓から覗き侍客の姿を見て腹を立る屋根屋異見するとゞはいかなる天窓[テンマド]が見入しぞ銭もなき世の馬鹿じやなアといふ落し也
国姓爺
或は国姓爺楼門の道具置浄瑠璃有と唐人の肴屋出てよごいと云妻の女房楼門に駈上りの上るりにて上へ錦祥女出て肴や何がある日本より客人有上そふな物があるかと問ふ肴や豕の切売鰒のよひのもござります是置ませふかと立かゝるをヤレ豕と鉄炮放すなよなど有て錦祥女云日外味ひ肴と白い細ふ切た物をくた事があるが何であらふそりや日本の肴鯛と云魚と麺類をひとつに焚て鯛麺と云がそれでござりませふヲヽそれがたべたい有まいかどふしてそれがござりませふ三千余里向ふ迄取にやらねば喰われませぬヤレ情なや三千余里のあなたとや此世の鯛麺思ひたへ抔也落し覚へず
清姫
又日高川渡し場へ女鬘着てヲイ船頭さん〳〵と呼ぶ船頭欠伸仕ながら苫船より出て何じやと云今爰へ肴やはこぬか其肴売は今の先渡したそりや片眼かヘヲヽがんちの生節売じやその生ぶし売のがんちんに逢ひたいのじや早ふ船を出しておくれ是からむかふへ渡しても逢れまい今頃は日高屋でどふぢやうじ汁で一ぱいのんで居る時分じやそふしてお前何の用じやサアわしが小用する間風呂敷包をあの肴やに持てもらふたら其侭で迯をつた取かへさねば置ぬサア船をイヤもう日はくれる水は高し向ひがはへは出されぬ船が出せずば泳ひでなりとゆかにやならぬ蛇はおろか蚯蚓に成ても渡らにや置ぬおまへ蚯蚓になるかゑらい器用な姫じや器用姫じやなアそうして金でも包みに入て有たかアイ鏡袋に三歩二朱入れてあるもう二朱たしや両になる蛇[シヤ]でも蛇[ヘビ]にでもなつて渡らにや聞ぬ此落も忘れたれば略す
新町橋
新町橋の餝りつけ橋詰烟草やの親仁の腎虚の体にて烟草をほどき玉にしているヱイ〳〵の歌になり五郎八黒頭巾にて出て扨も〳〵今夜に限り黒船は頼母子の顔よせとて内にいず獄門にあふて川の起請を取帰さねばならぬとふと烟草やを見てちよと店先をかりまするサア〳〵お安い御用あなたは鎌倉やの若旦那じやござりませんかちとお烟草の御用を仰付下されませヲヽよし〳〵店の者らの烟草はおぬしの所のをかはせるかはりちと頼まれてはたもらぬか此通り手足がなへておりますれど勤まる用ならサア何でもない事じや聞てたも跡月晦日の晩に獄門の正兵衛といふ男にをれが深ふ言かはして居る姫の起請をとられたそれを今夜とりかへすには黒船を頼んだれどるすで間に合ぬゆへこなた黒船の姿になつて立引して起請を取返してもらわふと思ふてアヽめつそふもない茶筌組の親仁分いつも私の店へ来てもこふれ烟草屋なぞといかつい人どふしてあの男と立引がサアそこで是じやと懐より投頭巾と尺八を出してこれをこふ着てこふすると黒船じやと見へるそこでせりふはわしが教へるハテそれでも体がそふ自由にはなりませぬハテこふすればよいと二本杖を両の袖へくゝり付木偶の姿にし我も頭巾を廻し袖をくゝり人形遣ひの姿となつて腎虚親仁を立ておしへてこふれ若ひの一寸待てもらをふかいとせりふをいふては杖にてつかふ覚へぬのをいろ〳〵おしへて若旦那こりや何となされますハテ是が腎虚つかひじやとの落にて有けり
雪の五輪
山科雪の五輪と云外題の俄は其頃評よかりし影にて浄瑠璃人の心の奥深きより直にとなせお石のつめ合へとび去つた切たの文句の時ばた〳〵にてお石一間より出る力弥茶を汲出て母をなだめるせりふの合には奥にて上るりほしがる所は山々の時お石おこつてハイこちの息子にも方々から貰ひ手がござんすと立かゝるを力弥おさへてマア親人に何かの相談をなされませイヤ相談の出来ぬは折あしく夫由良之助は他行と始からるすつかふたよつて仕方がないといふ内小浪のさわりになる力弥聞て折角あの様に思ふている物などある内なさぬ中の娘故をよそにしたかと思われての文句を聞てモシ母人小浪はとなせ役の実の娘じやござりませんかヲヽありやまゝ母で本間の母親は三角赤飯と云ふ医者の娘で有たそふなモシこちの内で殺させては跡の迷惑イヤそりや如才ない小浪御寮を殺すに及ばぬ祝言さそふと云わいのヘヱヽしてどふなさるな聟引手が所望じやと云たれば定めて浪のひらとか何とかの名作を出そふそこで浪人と侮つてかよふな引手は望にないして〳〵何が御所望ぢやといふた時にはこなたの夫本蔵殿の白髪首がもらひたいそりや母人御無理じや鎌倉にいらるゝ本蔵殿の首が今云て今間にはあふまい殊に赤紙付で急飛脚にも出されまいハテマアそふいふて見ねばわからぬとせりふの内奥にて鶴の巣籠の文句になるアレ〳〵もふ御無用といはねばならぬ其跡が直に謡じや力弥そなた諷ふてたもイヱ私は一向存ませぬ剣術の稽古で謡などはついに諷ふた事はござりませぬヱヽ千秋万歳のとツイ一口諷へばよいじやそれでも私はヱヽ婚礼式の事をしらぬと云は謡ゐてい子じやのふと落しなり都て九段目の穴捜にて大体俄はかよふな作り方を是とせり今時の俄とは異にして是を坐敷にわかとは云けり
鼻黒
文化の始つかたに玉造稲荷正遷宮に付砂持有尤男女入交て運ぶ物から賑はしき事甚しく氏地ならぬ船場上町島の内迄も砂持の人数出て其中にて若き男婦女子に転合などせし者の鼻の先へ何者の仕業ともしれず墨を付あり砂持せぬ者は鼻黒じやと掛声をして運ぶ事也余り群集仕過して市中の男女昼は何しらぬ顔なれど夜になれば現になりて砂持に出るゆへ御公儀よりさし留とはなりけり其後夜深く大勢の人声にておもしろく鉦太皷にて囃し立門を通る銘々起出て門に出て見れば早一二町行過たる体也若き者共は跡より駈付見届んとすれば数丁かけ廻るのみにて終に其囃子を見ず是なん狐の宮上りとか前編に云東都の狸囃子の類なるべし
砂持
文政中朝日神明宮の砂持に素躶に越中褌を大道へ引ずるばかりにして駒下駄を履頭へ好みの行燈を冠り灯をともし数十人連立砂持の掛声して市中を夜深る迄踊り歩行事はやれり砂は持ずして頭の行燈の灯を消ざる様に踊るを是とせり是や軽の大臣が燈台鬼の故事より出たる物か後は是も火の用心あしきとて禁止となりけり中におかしきは朝夷三郎が姿になり紅隈[ベニクマ]の御酒の口を頭にさし甚平羽織を着て砂持をして朝夷甚平の砂持じやと云歩行しも有けり白中[シロナカ]と号して行燈は茶やの掛行燈生洲宿屋の行燈通ひ船の行燈とある限りをこしらへ褌駒下駄と三品揃へて其料さへ持参の者は其徒に入るゝ催主有しが禁止の時咎を蒙り長く預となりし者も有けり
若江の碑
天保の始頃河州若江村木村重成の墓へ参り何か幸ひを得たりと云て参詣の輩多く有しが後には群集する事夥しく法会開帳に殊ならず鎧兜武者と出だち雑兵陣笠にて数十人竹螺を吹鉦太皷にて参詣などせしかば近在の百姓は田をあらされ制すれども止まらず是も禁止となりて参詣の輩いち〳〵名所家名書とめられ預となるあり暫らくの内にて後はよふ〳〵参詣人も絶へたり惣体浪華の人気は根のなき草の如く何事によらず騒がしくこぞり安く飽安き人気にしてどこの稲荷かしこの占ひ又大師の夢想なりとてこぞりて群集すること一ヶ月を過ず
御影参り
伊勢参宮御影年は六十一ケ年目なりと云ふれしが明和六丑年より廻り年に当れりとて文政十二丑年の春誰云となく抜まいり〳〵と云出始阿波の国の参宮大坂へ来るより段々と抜出し近国近在は云に及ばず浪華市中一町内の人別半は参れり道中群集して宿もなく難渋なる事甚しと聞り尤御公儀より道中筋へはそれ〴〵の人歩を出され至つて幼少の者又は老人の輩は送り届給はるなど有諸所より御影施行とて旅の具食物の類ひ或は湯髪月代の施行は道中筋数多出たれど伊勢路にては宿を貸者なし商人百姓の家に迄泊人にてつまり大約は野宿する輩多くたま〳〵泊りたる者も夜中に朝飯くはせて宿を立すなど混雑夥し浪華の抜参宮は五月の末よふ〳〵に納りたれど遠国田舎は翌寅年の春になりても絶へざりけり一説には御祓の札を鳩にくゝりつけ放す時には空にて羽叩きして落す是を御祓のふりしと云せ未其時候ならざるに御影年とせし拵らへ事なりとも云しが然りや虚実はしるべからず
韓信を題せる歌
俊頼朝臣の「世中は憂身にそへる影なれやといふ歌を鏡の傀儡[クヾツ]どもが諷ひたるをいたり〳〵にけりなと喜れしを又永縁僧正が夫をうらやみて琵琶法師どもに物をとらせてかたらひ我詠たるいつも初音の心地こそすれといふ歌を爰被所にて諷はせけることあれ是の書にも出て俊頼朝臣の自然に思ひかけぬ者共の諷ひしは時にとりての面目なりけん寛政中扇矢数四十七本といへる狂言に由良之助と安兵衛が開城の場にて韓信の故事を引所にて「末終に海となるべき谷水もしばしこのはの下くゞるなりと韓信を題せる歌をいはせしかば人皆是を小沢廬庵の歌なりとしるもしらぬも人口にふれけり俊頼朝臣のためしをひかば廬庵には嘸面目ならんが比うたは盧庵にあらず伏見中書島の隠士学舟が歌にて誰か盧庵に語りしかば四句然らずとて直したるをいかに聞ひがめけん盧庵也と云ふらせし也我人以前自作の浄瑠璃端唄を忘れ果たる頃余所にて諷はるゝはいと嬉しき物にて永縁ならねど呼とめて物とらせたき心地せらるゝ事也
倉治の瀧
詩歌連俳とも故人の名誉の句どもを評するは其道々に遊ぶ人のみにて一文不通の者にまで覚へ和歌やら俳諧の発句やら何人の作ともしらず耳に馴させるは浄瑠璃歌舞妓端唄等に言入たる句也勿論手爾葉語路の誤りはあれど俗耳に通じ易く名所旧跡等にてもこぢつけ合点にて故人作者のはめたるも後にはそれを誠と心得相応に物も読たると思ふ人まで是を呼もの少からず予が著したる綺語文草にもいふたる須磨の若木の桜四天王寺の額などの如く物しる人も今更とがめず聞く事にはなりぬ宝暦中中村阿契が作の祇園祭礼信仰記三の口乳母侍従がせりふに大坂と云在所にて聞たれば岸野の里へはもふ一里と天下茶屋村は其頃いまだ呼ぬ名なれば岸の姫松をさして岸野の里ともふけし物也此愁ひの内にもすくへど露のたまきわると云文有たまきわるとは魂極ると書て万葉集にも出たる古言なり浄溜璃に遊べる輩何事か弁ふべからず又四の切金閣寺の場にて松永大膳雪姫に龍の画を望む時河内国慈眼寺の瀧のもとにて老人を手にかけしがとのせりふ有慈眼寺は今の野崎の観音にて瀑布はなく倉治村に瀧有是を一名源氏の瀧と土俗は呼べり白幡を流したらんと云より源氏の瀧と呼ぶと傍なる碑面にあれどもより所なき鑿説にて爰にもと興元寺と云寺有しが荒廃して跡方もなくなりしよしは河内誌に有り此興の字を失して元寺の瀧といふなるべし信仰記の作者は是を慈眼寺の瀧と思ひしより然脚色し物なるべし宝暦七年より今迄九十余年となれば野崎に瀧あらば其跡なりとも遺るべし是ら皆心得たる鑿説を源としてそれより案じかへる物なれば齟齬せる事多しとしるべし
戯場の和歌
雲井にまがふ沖つ白浪と云を宜山[ムベヤマ]骨牌に石川五右衛門公家の容に出たつを書るより木下蔭と云浄瑠璃につかひ大宮人はいかゞ見るらんとの宗任の歌を安達原の浄瑠璃に兄貞任のにせ勅使としりて梅の花とは見つれどもとかけたるなどこぢつけながら脚色とは是を言也和田合戦の四の切に荏柄の女房綱手の歎きを実朝の聞て海士の小船の詠歌成り竹取物語の三の切大江助千里入唐して父呉道子に逢ひ月見ればちゝ〔父〕に物こその歌をよむなど皆俳言ながら博識の人に聞せて頤をはづさせんとするの戯れ也強て文盲人に是を本説にせよとにはあらじかし
高野の玉川
此前編に演る如く端唄の袖香炉は或人の追善に作せし歌なれば今戯場にてもいはゞ腹切又は身代の時にこそつかふべけれさもなき色絵〔通言にて立役女形色情の事を云〕の時など唱はせるは笑ふに堪たり高野大師の玉川の歌は秋成が雨月物語と云作物にも論じたる如く和歌一首の中に毒と云事見へず又玉と号する物は何にまれ二なき佳品ならでは冠らすべからず毒ある清水に玉川とはいふべからず是も原は戯場伝奇に演たるを聞ひがめて云にやあらん「ちればこそいとゞ桜はめでたけれといへば腹切よとの謎となり身を捨てこそ浮む瀬もあれとの歌は覚悟きわめし時のせりふと皆戯場より世にしらるゝ歌とはなりけり
猴に似た顔
前編に云し豆蔵軽口の詞に儕が顔は猿に似たりといへば其者腹を立る中へ一人わけ入腹立の段尤なりそちの顔が猿に似たるにはあらず猿の顔がそちに似たる也と聞てそふ云るゝ時は腹立ずと暫思案してやはり同じ事也といかる道外をするは宋の拾遺録に出たる何尚子顔延之の故事より出せし事と思はる宋の何尚之といふ者と顔延之といふ者少より馴親て無二の朋友なり共に其容貌醜し何尚之常に顔延之を猴と呼ぶ顔延之も又何尚之を猴と呼ぶ或時二人連立西起と云所に遊ぶ顔延之既に行路人に問て曰吾二人何れか猿に似たると其人何尚子を指ていはくあれ程猴に似たるはなしと云顔延之大に悦て然らば吾はいかゞあると問その人答て曰君は乃真の猿也と云尚之延之ともに転倒て大に笑ひけると此語をひいて戯るゝ也諸葛謹の顔を馬に似たると呉の孫権の戯言せしも豊太閤を猴に似又犬に似たりとて猿面冠者犬面冠者と異名を呼しも同日の論なるべし
朱買臣
義経腰越状の浄瑠璃を予が伝奇作書にくわしく著せしが五斗は後藤祐乗の鐫工に妙を得しを借事実は太公望と朱買臣を潤色せし物なり覆水もとへ帰らぬ古事の如く朱買臣字は翁子初貧乏にして薪を樵て売常に書を誦妻其業に疎なるを責て暇をとり他に夫を求て住り買臣は独身に成て路を行々歌ふ妻後の夫と家に在て買臣が飢疲れ凍て衣の薄きを憐む後に買臣学問至りて会稽の太守となり駟馬の車に乗り高蓋を擎て呉郡の界に入る故の妻と夫道の掃除を致し砂を蒔水を洒ぐ買臣車を留て夫妻を後車に乗て会稽に連往て家の園に置食を給して養ふ妻耻悔て一日計り有て自ら縊死せり目貫師五斗兵衛は是より出たる作意也
狐戯るゝの詩
故事談に出たる堀河右府〔自注頭弁〕四条中納言〔定頼〕に経を習ふ其ころ上東門院に好色の女房有〔小式部内侍か〕堀河の右府四条中納言と共に此女を愛す或時右府先に此女房の局へ入ておはしける時納言又彼局を伺ふの所既に会合のよしをしり納言方便品をよみて帰る女其声を聞て感ずるに堪へず右府に背きて泣ば右府も亦枕をぬらし給ひぬ扨右府竊に思ふによろづ定頼に劣るべからざるに安からぬ事とて忽心を発して八軸を覚悟し給ふと有淫風の甚しき哉錦繍綺語花鳥の情を通ずるのみならず金口の宝典をもてすら女を誑惑する媒に用ゆ此頃の官女といふ者大方遊女の如く成しさま其世の書記を見てもしらる江村北海が虫の諌といふ著述に玉階草生じて奔々の鶉を蔵し上苑菊開きて綏々の狐戯るといへるはさる事也然れど定頼卿の経声の妙をいわん為か御堂殿車の内にて譬喩品を誦し給ひし時「門の外法の車の声聞ばと和泉式部の詠しも其声の麗はしかりし故なるべし
経声人を感ぜしむ
義経記に牛若と弁慶と清水の宝前にて経をよむに牛若の甲の声弁慶が乙の声に参詣の人々感じたりし旨を見てもしらるゝ経声の人を感動せしむる事此の如きは呂律に叶ふ故にや当地檗宗の経声明風の唐音にて節を付て唱ふる所はよく人を感ぜしむ是を歌唱のごとしとて誚る人もあれど本朝のいにしへも読やうの習ひありける事明風に譲らざるべし蛙鳴のごときを聞馴て昔を考へぬ人の謗りはうけがたかるべしと蒿蹊は申されし也
箔の小袖
鯛屋貞柳が詞に狂歌は箔の小袖に縄の帯仕たらんやうに有べしと云ふ亦雪中庵蓼太が云は俳諧は物の模様だてなる中に淋しみを聞せたらんこそよからめたとへば故団十郎が顔は赤く隈どりながら紙子着て楽屋に居たらむ様に有べしと是貞柳が教とおなじ又云俳諧も年よりては詞を伊達に遣ふ様に心がくべしさなくては物古びて静なる句も出ぬやうになる物なりされば妓家の長と言ひし中村富十郎〔慶子〕が心がけを心の師として我はする也と雪中庵のいわれしよし
妓家の星合
大江丸旧国或妓家にて星合の夜「七夕の今宵大ぼし力弥かなと詠たるを其頃の俳友此句は余りけやけくいかゞと評じけるに旧国の云東武雪中庵の付句に「おれも是から医者になる筈と云前句に雪中「ひそ〳〵と矢間千崎堀小寺と付られしが其席にて魚紋連丈など諌て云おもしろき句ながら浮世めき候まゝ間神崎などゝあらたむにやと蓼笑つて夫にては近き代の遠慮もあり実にはまりてもいかゞ也都て和朝の弄び源氏伊勢物語など上古の人あながちに尋ぬべからず其作者只詞花言葉を翫ぶべきのみと戸部尚書の奥書あり是らを云にあらねど俳事も八雲の末なれば主税とあらんには風流なし七夕のあふぼしとつゞけて力弥と洒落たる宗因の風致を思ふ計りひとゝせに数千の句を云捨る内の我なぐさみ也我にはゆるせとありし一つの癖と大様に見なし給はれかしと申されし事あり
平語小曲
平語小曲に云琵琶は生仏平家を歌ふて一時に鳴慶長元和の頃前田検校此技に巧也高楷訪月に相伝へて八世に及ぶと云寛政庚申の春上梓して二巻有節の名目節の象を爰に出す詢[クドキ]素声[シラコヱ]怒詢[イカリクドキ]〔拾下音トモ云〕下[サ]ゲシホリ詢強下[コハリサゲ]〔怒下ゲトモ云〕中音〔一ノ声二ノ声〕中ユリ長下ゲ初重中音〔二ノ声中ユリ〕半下ゲ初重歌〔下歌曲歌〕重初重三重〔四ツユリ一ノ声重ノ一ノ声〕折声[ヲリゴヱ]〔引捨引下ゲ〕下[クダ]リ〔二ノ声中ユリ〕峯声[ミネゴヱ]走三重指声[サシゴヱ]強声[ゴウノコヱ]拾[ヒロヒ]〔一ノ声突居〕右強[コバリ]中音[チウオン]読物[ヨミモノ]〔□□下音〕突居位[ツキスヱクライ]中音散位[チウオンチラシクライ]詢運[クドキハコビ]以上【中略】鱸魚[スヽキ]烽火大塔建立厳島御幸月見廻文実盛最期宇佐行幸生唼[イケヅキ]横笛志渡合戦平大納被流我身栄花阿古屋の松少将都還鵺五節沙汰祇園女御聖主臨幸太宰府落樋口被斬藤戸内侍所都入紺掻祇王卒都婆流蹉跎[アシヅリ]厳島還御文覚強行[アラギヤウ]喘涸声青山沙汰[セイザンサタ]忠度最期征夷将軍院宣戒文逆櫓泊瀬六代祝言紅葉の切以上卅六種也
琵琶に落涙
相州小田原北条の幕下佐野の城主天徳寺豪健の勇将なりしが或時琵琶法師を招て平家を語らせ聞けるにいまだ語らぬ先に法師に云けるは某は只哀れなる事を聞たし其心得にて語り候へといへば法師心得候とて佐々木四郎高綱が宇治川の先陣を語りけるに天徳寺哀れがりて雨雫と泣今一回聞度と云ば那須与市宗高が扇の的をかたりけるに天徳寺落涙数行に及び後日に家臣の輩に過し日の平家はいかゞ聞つると問ふに家臣共面白き事にて候但し我々共ひとつ心得ぬ事こそ候前後二曲ともに勇烈なる事にて哀なる方は少しも候はぬに君には御感涙に咽ばれて候いかゞの事と今に不審に存候といへば天徳寺今迄は各を頼もしく思ひ候しが今の一言にて扨〳〵力を落して候先佐々木が先陣をよく合点して見られよ頼朝舎弟の蒲冠者にも賜わらず寵臣の梶原にもたまわらぬ生唼を高綱に賜はるにあらずやされば其甲斐もなく此馬にて宇治川を先陣せずして人に先を越されなば必討死して再び帰るまじきと頼朝に暇乞して出ける其志を察して見られよ又那須の与市も大勢の中より撰ばれて只一騎陣頭に出しより馬を海中に乗入て的に向ふて至る迄源平両家鳴をしづめて是を見物するにもし射損じなば味方の名折たるべし馬上にて腹掻て海に入らんと覚悟したる心を察してみられ候へ武士の道程哀れなる物は候はず某は毎に戦場に臨ては高綱宗高が心にて鎗を取候ゆへ右の平家を聞時も両人の心を思ひやりて落涙に絶ざりし然るに各には哀になかりしと申さるゝに付て思ふに各の武辺は只一旦の勇気に任せて真実より出るにはなきにやと思われ候夫にては頼もしからずこそ候へと云しかば諸臣皆迷惑して辞なかりしとぞ
雪中庵五世
初雪中庵嵐雪〔姓は服部〕句を吟ずるに訛りては語路の運びあしく連衆にも聴へ兼て口惜しとて都に登り後々は少しも訛らずして執筆へ句を渡されしとぞ此二世史登三世蓼太四世完来五世対山元禄年中より今に連綿として東都深川に有
来山が門松
世に小西来山〔今宮十万堂〕が「門松やめいどの道の一里塚といふ句を禁忌也と云いかに新しき事をいはむとて風雅の罪人也と云人もあり是は来山がすみたる家の裏屋に住居せし者大晦日に身まかりける山が隣は家主にて不断は庭を通せしかど元日なれば翌こそと申裏の男はやもめにて遠き親類の取賄たれば早く葬りて仕舞たき心なるを山聞て気の毒がり我は世を遁れたる風人なればかまひなしと許して元日の夕方我家より野送りを出しやりての詠なるよしそれを罪人といふも又道を重んずるの謂にて殊勝とも云べけれど物は其時の様を能く考ていふべし来山翁が事跡は近世畸人伝にも出て御奉行の名さへしらずと牢中にてさへ詠ほどの畸人なれば歳旦とて何の遠慮かあらん
句の新しみ
都て句の新らしみと云は古より別に奇を求むる物にあらずある娘の子のいと寒かり□□に友どちとの咄に風も寒ひかして懐へ這入ると云が新らしみ也去は寒さは動かぬ所肌に通るは本情也懐に入ると云が新らしき也予が淀川の渡し場にて乗合の百姓と船頭の話に卅石も是から涼しふてよけれど蚊の乗るには困るとの詞を聞人船に乗れば蚊も乗ると云は新らしみ也とて句には作りぬ
釣狐の異見
城州宇治黄檗山万福禅寺は隠元和尚の開基なれば見物せんものと或西国の城主交代の節木幡より駕をまげて立寄給ひしに前にも参じ給ふ諸侯有て袴を取居緇衣に袈裟をかけ如意を持行道の僧中に交り経文を誦し給ふ有様を見て驚き肝をつぶし厚鬢に衣をかけて武士の有まじき容也と大笑し帰国有て後御国の黄檗派の和尚を招待あり各の宗旨には唐にて武士が三衣をかけて出家の真似をする者もありやとかの黄檗にての事を語り見兼候事也と申されける和尚云こなた様には常に狂言をお好のよししかも御上手と承り候左様にて候哉と問いかにもと仰有ければ然れば狂言の大事は釣狐と承り候畜生足は習ひ事のよし日外被成て見物の諸人感じ入今に其噂いたし候全く君は暫らく畜生の心になり正に狐にならずは勤がたしかの貴人も暫らく行道の中は釈迦の教を熟得して仏の心裡に叶ひ給ふなるべし然らば野狐の魂を似せんよりは行道の方増るべきか形より先其法其道を改め心裡をよせ候事大事也と答られければ城主則仏道を感じ大寺建立ありけると也嗚呼賢しき哉此禅僧
淀川の抱鯉
淀川にて鯉を取るに漁夫水中に入て鯉と並び居て脇へかひこみて浮み出るを抱鯉と云人を諫るの道も是に同じ始にあしき事としりつゝ共に交はり居てよき所にて善に趣かする事肝要なるべし人を異見するにも大約の人は其者の罪なる事を挙て異見するが故に容れざるなり先其人の功を挙て是を賞美しかゝる功をなしながらいかでか宜しからざる事に趣くやあたら功を失へりなどゝ善道に導びかば人かならずその理に伏すべしと云り
馬の餞
餞の字は説文に去を送ると云酒食を以て送る事とも註す詩経には道祖神を祭りて側にて飲とも註せり然るに此字を馬のはなむけとよむは去を送るにはあへど食に従ふ字義と詞とは大に異也馬の鼻むけとは旅立人の乗れる馬の鼻づらをこなたへしばし引むけて如此はやく帰り給へと祝ふ意也とは道理面白く覚ゆいづれ旅行をおくるなれば酒食をもておくるにもちひ来れり
経信の和歌
経信八条わたりに住れたる頃九月ばかりに月あかゝりける夜空を詠めて居られしに碪の音のほのかに聞へければ「からごろもうつ音きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかなといふ歌を吟ぜられけるに前栽のかたに北斗星前横旅雁南楼月下擣寒衣といふ白楽天が詩をまことに面白き声して高らかに詠ずるものあり誰ばかりの人にてかくめでたき声したらんと覚へて驚て見やられたるに其丈一丈あまりもあらんと覚へて髪のさかさまに主たる物に有けり是は朱雀門の鬼などにや有けんかの鬼はすきものにて此詩歌ともに公任卿の朗詠集に入られたれば宴歌を吟ぜられしに感じて其詩をうたひたるなるべし
高麗王の悪瘡
経信かく風流なるうへ事を決断するに甚すみやかなりしとぞ承暦四年高麗王悪瘡をやめるよしにて日本の名医丹波の雅忠を給はらんと乞申たう雅忠は後漢霊帝の裔にして正四位下主税頭丹波守たり高麗国王雅忠が医術のすぐれたる事を聞及び此度王則貞と云商人に書を言伝て太宰府に達す其書中に奉聖旨訪問貴国といふ文有ければ其文言礼を失ふを以て其贈物をかへさんやいかゞなど陣の座の定に及びてさま〴〵評議有けるに大納言経信卿其座へ遅く参られけるが高麗王悪瘡をやみて死なん事日本の為苦しからぬ事に侍りといはれたる一言に事定まり雅忠をつかはすべからずといふ事に成たり
白龍網にかゝる
又或所に野干を神体としたる社の有けるに其社のほとりにて狐を射たる者あり此射たる者の罪ありなしの事を陣の座にて評議有諸卿さま〴〵に論ぜられける中にて経信卿白龍も魚服すれば予且が密網にかゝれりとばかり申されけり是はいみじき神なりとも狐の容にて走り出たらんを射るに何の科かあらんと云心也こは唐土の故事にて龍が魚のすがたになりて波に戯れて浮び出たりけるに予且と云者の網を引けるにかゝりて悲しきめを見て大海にかへり龍王に訴へければ龍王いはく汝何とて魚の姿とはなりけるぞさればこそ網にはかゝりたれ今より後さる事をすまじき也と云り経信此故事を以て決断せられたる故彼狐を射たる者罪を免れたり
鼠喰の具足
平安城にて質に具足を置請むとする時にみれば鼠が糸を喰たり請主難儀に思ひ色々理をいふを歎きさらば利息なりともすこしは免されよと詫けるに質屋更に聞ず剰鼠を一つ殺して是が蔵に居て具足を喰ふたる科人なりしかる間成敗して候ともたせつかはす質置口惜き事に存じ所司代へ罷出初中後を具に申ければ多賀豊後下知せられけるやう扨は鼠は盗人也盗人の居たる家なる間闕所せよやとて家財悉く取質置に下されけるとぞ
匡房の強記
権中納言匡房はいとけなき時より人にすぐれて才智あり四歳にして書をよみならひ八歳にて史記漢書をよみ通し十一歳にて詩を作られたり其頃関白頼通公宇治の平等院を建給はんとて権大納言源師房卿とゝもに宇治に往て造営の地形の事などしめしあはさるゝに四足の大門を北面に建る例いにしへに有ける事にやと師房に問たまひけるに師房其例を覚悟せられざりければ大江成衡が子江冠者いまだ無官にて侍へど下官が車の後にのせて参り侍り彼若者はよく故事を覚へ居候まゝ誠に召出して問侍らんとて匡房に此よし申されければ匡房謹で答られけるは天竺には那蘭佗寺戒賢論師の住所震旦には西明寺円淵法師の道場日本には六波羅寺空也上人の建立何れも寺門北に向ひ候と申されければ頼通公大に其強記を歎賞せられたり
双魚扁鵲の文
此匡房後三条帝白河帝堀河帝三朝につかへて官位昇進せられけるにかの高麗の返牒をかゝしめられける其文の中に双魚難達鳳池之浪扁鵲豈入鶏林之雲といふ句有此句を人々聞伝へてめでのゝしりける此双魚と云は唐土にて魚の形に文を封ずる事有故書翰を双魚と云也鳳池とは禁中の御池の事也もろこしの名医の名扁鵲鶏林は高麗の別名也
孕句
世に孕句と云る有趣向うかびながらも句を惜みて其場をまつ今の世の懐剣弁当などゝいへるさもしき心とは同じ日に語るべからずむかし源の順楊貴妃帰唐帝思李婦人去漢皇情と兼てたしなみ侍りしが対雨窓月といふ題を得て此句を出せり津守の国基がうす墨にかく玉章と見ゆるかなの歌もおなじ伏柴の加賀白川の能因なども皆此類ひ也ばせを翁も浮世の果は皆小町也といふ句を久しく心にかけて品かはりたる恋をしてといふに出せりと雪中庵史登の話也〔嵐雪の二世蓼太の師也〕
懐剣の発句
淡々曰詩は薙刀和歌は刀連歌は脇差俳諧は懐剣也こゝろ切に思ひつむれば其利事早く始皇の胸先を刺にいたる刃長くば其所に至りがたからむか昔恋といふ題を玉はり「夏痩と問はれて袖のなみだ哉といひけむも即懐剣のきれ味也と
流行詞は卑し
雪中庵云句振は我生れの侭にして修行有たしつくろへるはいやみなり土地によらずして句に都ぶり有鄙ぶりあり高雄といふ遊女の或田舎人に異見しけるはそこには田舎にて歴々の御方也此程は江戸衆のはやり詞など似せ玉ふがいやみなり能男と金つかふ人とはやり詞に傾城は倦て居れば只ありのまゝなるが可愛也其有の侭なる人に愚なるはなき物也ゆめ〳〵にせ給ふなと申せしとなりかゝるあそびものゝうちにも名高きは心の置所格別也しからば風雅もおなじといわれし
猫の飼やう
淡々猫を飼けるに我喰ける飯野菜などを我器にて分ちかはし膳の脇にてくわせけり門人の曰先生余りなる不行跡の飼せられやうかな猫の癖あしく成候はんと淡笑て曰さればとよ初め二三疋の猫は随分と行儀に飼つけ首玉なども奇麗に諸事召使の女共の取計たりしが何国へか盗まれて十日と内の用にたゝず必竟美しく飼たつるゆへ人もほしがる也依て此猫は飼始しよりかくあしく育たる故一二度は盗まれたれども行儀あしきゆへ追かへされしとみゆ何れもよく御考候へ猫は所詮鼠の書物を荒すを防の役が専一也と見る時は余事に搆わず唯鼠の役といふ所が眼の付所也俳諧も又かくの如し爰が眼字それが其題の専といふ事を見定めたしとありし
永井の肩衝
永井善左衛門は後に道救と号数度戦場へ出て高名あれども軍功にほこらぬ男也越前を暇取浪人にて上州深谷に閑居の砌旗本の士より澱戸の茶入をもらひ秘蔵せしに召使の女落して打破ぬ道救大に腹を立叱りければ彼女迷惑して我鏡台の内よりふしの粉を入置たる壼を取出し其代りにあたふ道救是を取て役には立ずして是にて了簡して取らせんとて秘蔵もせず捨置たるを或時小堀遠江守ふと此壼を見て手を打て称美したり是唐物の肩衝に極り則永井肩衝と銘じ後には公方の御道具と成りけるとぞ
永井正宗
又道救は板倉伊賀守と懇意ゆへ将軍御上洛の砌直々御詫言申上御旗本に帰参させんと内意に任せ深谷を立て上京す道にて浪人と連になり尾州名古屋親類方へ立寄る間荷物を浪人に頼み先へ宮迄つかはす内彼浪人己が刀と道救が差替の刀と差替駈落す道救宮に来て大に驚くといへども詮方なしかの浪人が残し置たる錆刀を尻付に入て京着し板倉方へ落付勝重物語に将軍家御上洛に牢払申付るによりためし候刀脇差数十腰刃を付させ候と也道救是を聞て道中の次第をかたり彼浪人が刀も次手にためし見んとて刃を付させ見るに錆て分明ならねどねたばを合すに常の刀にあらず研屋が云此刀の刃味幾腰の中にも類ひ是なく候と云扨ためし者の中にふじみ有て不通に切れず彼刀にて切るに水もたまらず大切物也と誉る仍て錆を磨し見るに刀の出来常体ならず中心を弾落し見れば正宗と銘顕わる本阿弥一目見て押戴き正宗の出来物也と申に付是も公方へ上り永井正宗と呼べり
音曲の誉詞
音曲などを誉るにやう〳〵と云は洋々の字なるべし論語に洋々乎盈耳哉とあり孔子の楽をほめ云ひし詞なり
古き文に有味
平家物語は古き詞ありて耳遠きやうなれども幾返り見ても飽ず太平記は文勢はなやかに聞ゆれども数返見にくし况やそれより後の物語は二返とは見られず何にても面白きは古き文也
領巾振山
九州松浦のひれふる山は佐用姫が領巾を振て夫大友狭手彦が乗たる舟をまねきたる山也と云り領巾は女のかしらの飾にするものなり今の世にはありとも聞へずといへり
応挙の画
円山応挙〔主水〕若かりしとき野馬の草をはむところを図せり一老翁見て難じて云是盲馬也挙云其故甚麼翁云それ馬の草をくらわんとするや必先其目を閉是草に目を傷らんことをいとへば也此馬叢中に鼻づらをいれながらその両眼なを見ひらきてあり是盲馬にあらずして何ぞや挙深く其説を感じて画改めしと也
臥猪の真写
或人応挙に臥猪の画を乞ふ挙いまだ甞野猪の臥たるを見ず心に是を思ふ矢脊に老婆有薪を負て常に挙が家に来る応挙婆に問て曰儞野猪の臥たるを見たるか婆云山中邂逅是を視る挙云汝重ねて是を見ば早く吾に知らせよ篤く賞すべし婆諾して一月計り有て京に走り来て老婆が家のうしろなる竹篁の中に野猪臥居るよしを告挙が云儞先帰れ必しも驚すべからずと云て俄頃に酒食を携へ一両輩の門人を将て矢脊に至れば野猪は竹中に臥たり挙則筆を採て是を写し婆に謝して其夜家に帰り後是を清画して工描既に調ふ時に挙が家に鞍馬より来る一老翁有挙臥猪の事を思ふが故に野猪の臥たる所を見たるかと問翁云山中常に是を視る挙画する所の臥猪を示して此画如何翁熟視する事良久しくして云此画善といへども臥猪にあらず是病猪也挙驚きてその故を問翁云凡野猪の叢中に眠るや毛髪憤起四足屈幡自ら勢ひあり僕山中にして病猪を見たる事有実に此画の如し挙始て暁りて翁に臥猪の形容を問翁是を説事はなはだ詳也爰におゐて挙さきの画を捨て更に臥猪を図す工夫専ら翁が口伝によれり四五日有て矢脊の老婆来りぬ挙さきに見たりし野猪の事をとへば婆云あやしむべし彼野猪其翌朝竹中に死たり挙是を聞ていよ〳〵翁が卓見を感じ再び其音づれを待に一旬ばかりを経て翁来りぬ挙後に図する所の画幅を開きて是を見せしむ翁驚歎して云是真の臥猪也と挙よろこびあつく翁に謝す其画尤奇絶にして今猶京師某の家に秘蔵すと挙が画に心をもちゐし事斯の如し
一蝶魚を鬻ぐ
五无集の中にしまむろに茶を申こそ時雨かなといへる句はいかなる事にやと雪中庵にて夜話のせつ門人の尋けるに蓼太の曰此事先師史登の物語りに聞しは昔初代の英一蝶は其角なかよし然るに蝶故有て公の罪を蒙り伊豆の島に流さるに友人彼是別れをおしみ船場まで送りて信友の情をなす一蝶申けるはかゝる身の再び相見む事かたし是迄の御懇情いつの世にかは忘れ申さん我かの島の事を聞に大約の人魚をとり日に干乾かして江戸の便にひさぐと承る我も又さこそあらめ然らば魚の腮に木の葉やうの物をすこし宛入置べし若さやふの物の入たる干魚あらば蝶がなせる物よと思ひ給へかしといひて別れたり人々其舟影の見ゆるまで見送り其角はいとゞ胸塞りて立もさらでありし其後一とせばかり有て其角が僕日本橋の魚の店にて乾魚の有しを調へかへりかてぐさになさむとたわゝなる魚を火に灸りけるにむろといへる干魚の申に笹の葉の様の何ともしれがたきが一枚出たり残る魚共にも各同じやうに有しゆへ扨々島のやつらはをかしき事をなす物かなと笑ふを其角ふと寐耳に入りやをら起上り蝶が云し事を思ひ出し此乾魚は何方の島より参りし物かと其鬻げる問屋へ人走らせて尋けるに大かたは八丈大島より渡し申よしを申角爰に於て蝶がいひし詞を思ひ望友の情しきりに動き蝶が親しかりし友どちを集茶を入此干魚を出し是こそ蝶が申のこせし筐なれいまだ長らへかゝる業をなしけるよと皆〳〵そなたの方に向て遙に信友の情今更涙とゞめ兼たりしとぞ角が句も此時の事也と聞へし
鸚鵡籠を放る
応永の始頃細川右馬頭頼之は篤実の君子なれば政事の余暇には禅味を甘んじ嵯峨の天龍寺蕉賢道人を師として玄を談じ幽を問しむ一日法要の商量事終り寒暖の贈答過て頼之申出らるゝは柳営の御繁栄日に増て一天下徳風に偃す如くめでたけれ其上当世子義持君漸十歳にならせ給ふが才智世に超え器量ある挙止に見へさせ給へば誠に末頼母しく侍ると語られければ師も眉の霜を払ひ欣然として夫こそ海内の大幸なれ偖世子君にいかゞの才智と問はれしかば頼之謹て膝を屈しされば候聞し召過し春高麗国より舶来せしとて鸚鵡と云鳥を九州より下官に得させけるが此鳥は自余の鳥とは異にしてよく人語をなし且鳥獣の啼音をも真似侍るよし鸚鵡能言ども飛禽を離れずと礼記にも見え唐詩にも見及べど生たるを見る事なかりし物なれば御幼稚の御慰にもと世子君へ奉りしかば殊の外に愛思しめし架に繋ぎて飼せ給ひしに或朝いかがしたりけん其足皮の切れたるをしらで侍臣達の遣戸をやり蔀揚などせしかば彼鳥容易飛で出ぬアハと追出たれども行衛だに見送らず世子君の御秘蔵と云日本の地に二羽となき名鳥を逃したる咎軽からねば当役の者は既に自害に及ばんとせしを年老暫しと宥め譬へ死だりとて鳥の帰るべきにあらず唯公旨に任せてよとて恐れ〳〵世子君に其事具に啓せしかば良有て彼鳥千里の蒼海をわたつて唐土へ帰るべきかと仰出さる近習の年老否渠さ程の飛行成候はゞ舶来をまたずこゝらへも飛来り候はんに其事なければ彼方へも飛去候はずやと存奉ると啓しければ誠にしかり渠が小き翅にて波濤をば越がたかるべしさあらば日本に留りなん日本国は我御国なれば逃出だりとて惜むにたらず其逃したらん者さこそ恐入て居つらめ速出て見参せよとの御諚に当人は蘇生の思ひをなし扈従近習の人々もその寛仁を感じ奉りぬ末頼母しき賢慮頼之等が知命を過る齢にても及び難くこそ侍れと涙を流し語られければ道人微笑して苟に志学にも満させ給はぬ御心より其逃しつる人の患ひを察し給ひ異国へ帰るかかへらざるかと尋給ひし御心遣ひは深く感じ侍りぬ但し執権の其事を褒給ひて御身もかくは及ばじとの御辞は過差なるやうに聞え侍る千里の蒼海を越て帰らんやいなやと問せ給ふ時若異国へ帰るに治定せば彼逃したる人を罪なはれんやさあらば人間をもて禽鳥にかへ給ふべきや此国に居たらば惜からず異国に帰らば惜とある御心も弘きやうにて弘からぬ御心也御幼稚の御了簡にはさこそあらめ国政をとる御心には未可ならず珍禽奇獣国に育はず外典の内にも見えたれば唯逃したらん苦しからずと宣はんは最猶尊く侍るべし御慰にとて献ぜられたるはなを劣りたるやうに思ひ侍る併是は樹下石上の浮屠氏の了簡にて利世安民の家には用ひ難かるべきかしらねど兼て仏世不二の道理に御接心も候へば底意を残さず申侍ると宣ふにぞ頼之は垢染の程を慚愧して黙々として居られける
遊女黄鳥を放す
道人斯て宣く今の話につきて思ひ出せし一話有貧道若かりしころ諸国遍散して摂泉の沙界を通り侍りしに遠里小野の茶店に休らふ時其前を愛度粧ひし女輿に人々多く付副て通るを其辺より皆々出て見送り口口にめでのゝしる茶店の主語て此輿此所の乳守に但馬といへる遊所の人に幸せられて今伴はれぬるにて侍ると云まゝに誠に前世の善因のなす所なるべしと答しに主の云さにこそは有べけれど夫は三世了達の身ならねばしるべからず此女などは善果の覿面に至る人にて此但馬西国筋の豪富の人を客として折々通はせけるに家裏に黄鳥とやらむ唐土の鴬とやらん珍らかに美くしき鳥一番もて来て贈りぬ但馬悦び一日二日座右に置て詠めしが何とか思ひけん籠の戸を開きて飛せやりぬ其翌日彼客来り此体を見て大に驚きいかにあやまちて逃しけるぞと問しに但馬打笑ひて此程給はりし時は美敷珍らかなる鳥なれば目離せず見侍しが日を累て愛するまゝ鳥の心に成て思ひ侍るに外よりこそ美敷珍らかに思ひて愛れどもをのが心には愛せられんより野山を広み翔りありかん事を思ふべし我身の上も人より見たらば綾羅にまつはれ琴瑟を弄び暮していか計楽しからんやうなれども我身となりては苦しき世渡りなるを此身として此鳥を籠に入て愛ん事余りとは情なき事也と思ひし侭に自ら逃しやりぬる也君の御志を仇にするに似たれども君の賜りたるも自らが心を慰めよとの賜ものなれば飼て心よからざるより放て慊らんこそ御志に叶ふべしと思ひ君に窺ふにも及ばずかくの如しと語るに彼客大に仰天し彼鳥は近来初て渡りたる鳥にして価百金に及ぶ物なるを我なればこそ惜まず饋りたるを立処に逃したるは懼敷心の女也と去て再び来らざりけるよし然るに此事遠近に聞へ客人も繁かりしが近頃摂州の国士深く是を感じ今日しも価身して宿の妻となし給ふ也陰徳陽報眼前なる物をと覚侍ると語るに貧道も衣の袖を沾して陶淵明が月に対して白鵬を放てりしは賢者の上なれば驚に足らず賎しき遊女の身としてかく思ひよれるを五柳先生に勝れる物かと覚侍れば其人の後影を遙に拝して過行侍りし是らを思へばさきの御物語は第二義に落たるやうに覚へ侍るまま不図貶し奉うぬるは憚多きをゆるさせ給へと宣ふに頼之は頭を低て合掌するより外はなかりしとかや
臨写摹写
輟耕録に臨写は紙を傍に置て観て是を学ぶ摹写は薄紙をもて本書に覆ひて筆を用ゆといへるを訳文筌蹄に取違へて書れたりと或人見出せりさしもの徂徠氏なれどもかへりて大家の空覚へ成べし且豪傑人を詒くもまゝある例にて此老琵琵を転倒して琶琵とつかひて韻にかなはしめられたる詩有と或人のいへりき
天龍川
橘経亮の話に遠江の天龍河をあめなかのわたしと西行発心記に見ゆ龍の梵語那可と云故也さるを海道記に〔鴨長明と云は非なり〕あまみつ空の中河とあるは誤れりとなん
行素夢常清
留青広集といふ書に行素夢常清と出ればげに行ひのやうによりて夢をなすべければ夢もまた吾心にとへば恥かしき物也
煙管筒の銘
或人煙管筒に物書てよと乞ふに黄檗の隠元烟草を悪み給ふ偈に曰一管の狼烟呑復恰如炎口鬼神身当年鹿苑有此草不説五辛説六年と座禅看経の勤を空しくせるを悪み給ふならん二百年来もはら人の嗜む物となりて一たび吸ては忘れ難き故相思草ともいへり又何人の一聯かはしらねど烟草の箱に書付たるを見しに手拈姑娜千年草口吐蓬莱五色雲ともあれば「此草のなき世なりせば講釈師遊女も閨につきなかるまじと例の戯れを書て与へぬ嗚呼癡なるかな笑ふべし
西沢文庫皇都午睡二編 上の巻 終
西沢文庫皇都午睡二編 中の巻
目次
一 茶臼山
一 飛梅
一 雪花の争ひ
一 似雲聞書
一 香盆
一 阿閦寺
一 平家を評す
一 熊野の謡曲
一 去来の反古
一 釈智蔵
一 望月曇晴あり
一 絶景に句無
一 秋田の詠
一 けふの桜
一 香阿弥の蒔絵
一 夜暦を見る
一 かまへ太刀
一 室の名所
一 室の八島
一 絵島の石
一 菜種の御供
一 花扇
一 急流の心得
一 粟田祭
一 住吉の奇瑞
一 慶安の塵劫記
一 東海道の算用
一 粟津の冠者
一 広江寺の鐘
一 頭痛の占ひ
一 漂流の話
一 無人島
一 二島物語
一 影の膳
一 初午の句合
一 俳諧に学問いらず
一 西施が顰
一 鷹狩の始
一 小納言
一 天王寺の額
一 一河の流
一 燕子花を夏に定
一 初中後の子の日
一 反魂香
一 扇を鳴らす
一 十寸穗の薄
一 仁義を買ふ
一 空公行状の碑
一 湛空の和歌
一 泥中に尾を曳く亀
一 水車
一 常在法師
一 兎波上を走る
一 鵞は墨を費す
一 流水を枕とす
一 門に鳳の字を書
一 老の接木
一 肘笠袖笠
一 草庵集
一 画空言
一 千代能が歌
一 釈迦の法孫
一 味噌臭し
一 母子の訴へ
一 連歌の一直
一 如是院の米
一 戸津川の湯
一 座頭の茶挽
一 三輪の山もと
一 藍染川
一 煙草一銭
一 金の台子
一 妻敵討
一 聖人賢人
一 儒士の孝行
一 亀田窮楽
西沢文庫皇都午睡二編 中の巻
西沢綺語堂李叟著
茶臼山
慶長十九年の冬将軍家大坂の城へよせさせ給ふ時日本六十余州の軍兵一騎ものこらず出陣ある本陣は天王寺の茶臼山にて有しを何者やらん書て張りける「大将はみなもとうぢの茶臼山引まはされぬものゝふぞなき
飛梅
三百年前筑紫宰府の天神の飛梅天火に焼て再び花さかずこはそも浅ましき事也と人皆涙を流し知るも知らぬもあつまり思ひ〳〵の短冊をつけ参らする中に権校坊とて勇猛精進なる老僧のよめる歌こそ殊勝なれ「天をさへかけりし梅の根につかば土よりもなど花のひらけぬと短冊を木の枝に結ひて足をひかれければ即緑の色めきわたり花咲春にかへりし事よ人々感に堪てかの師門を神とも仏とも手を合て拝せしとかや
雪花の争ひ
比叡山にて北谷の児は雪に過たる物やあらんと愛せられ又南谷の児は花に増れる詠やあらんと興ぜられ後にはいさかひになり花をばあしく言ひちらし雪をばいな物にいひ遣わし雪の方よりは花を褒る狼籍の類をよせて勝んと云又花の方よりは雪を誉る虚気者を只はたいて退よと互ひにいかれる心しげし山の騒殊の外なりし西三条逍遥院殿伝へ聞し召れ態々山に御登有雪にめでられしも理り有「花ならばさかぬ梢も有べきに何にたとへん雪の曙花に心を染られしも尤ゆへ有「雪ならばいく度袖をはらはまし花の吹雪の志賀の山越自今以後勝劣を争はず中を直りて勤学あれと静めてこそお帰りありけれ
似雲聞書
似雲法師の聞書に鞍馬に詣る次手市原野の相しれる庵を訪しに折ふし雨気色なれば主傘を出し是持行給へとあるを未雨のふり出ざるにはかへつて邪魔なりといなみければ扨も悪しき心がけかなひとり旅のよき道連と思し給へといへりしは身にしみて覚へしと書れき
香盆
近年出板の畸人伝にあらはす所の今西行〔似雲〕と云は生国伊勢の人にて洛南嵯峨に住せり其ころ京師に何某といふ風雅人此さがの閑なるを愛して爰に来りて住居し茶の湯連歌に日を送りぬ或日京都の古道具屋にて香盆を金二歩に買古代の器なれば秘蔵しやがて茶会を催して両三人の朋友幷に今西行も招かれしが扨飯酒相済中立後炉の炭継かへ掃除調ひしらせの半鐘ににじり上りして先床の方丈より炉辺に至り銘々彼秘蔵の香盆を取上底迄も打返し見けるにいかゞしけん西行誤つて香盆を火中へ取落しけり是はと驚早速取上けれど炎盛んの中なれば余程焦たり是に依て西行はもとより主秘蔵の器物ゆへ今日始て自慢気にて出しける所斯の仕合ゆへ甚悦びざる面色あらわれ一座しらけて西行何共気の毒に思ひけれど詮方なく段々断をのべ暇告けれど主不肖〳〵の挨拶ゆへすごすごと立出しが去にても斯秘蔵せられし器を損じたる事返す〴〵も本意なく思ひ煩ひつゝ卅歩計出行しがふと浮出し事有にぞ立戻り主に向ひて扨々怪我とは申ながら麁忽いたし気の毒に存候ゆへ御断の種にもやと一首いたしたり「もしほ焼伊勢男の海士のしわざとてふたみの浦に煙立けりと云主聞て俄に機嫌直り扨々面白き御歌忝候迚もの事に御自筆にて書たまわらば忝しと云西行もよろこび即座に筆をとり書けり主此歌を金粉にして猶々秘蔵せられしが後主病死せられ茶を好む世継あらざれば茶器残らず売払ひしが伯父なる人かの香盆を所望せられ金十両に買とられしが今はいづこに有といふ事をしらず
阿閦[アシユク]寺
光明皇后貴賎をいわず千人に施浴し御自垢穢を洗浄し給へりし終りに癩疾の者到りしを猶いとはずさき〴〵の如く扱ひ給ひしかば忽阿閦[アシユク]如来と現れまししといふ事伝記に見へ今もなら坂に阿閦寺の名残をとゞめ癩疾の者長屋を建て住り彼故事によりてや施浴の勤進するよしの札も見ゆその奇瑞の虚実は論ぜず凡善を修するも功徳を行ふも其人の相応あるべし皇后の善は皇后の善有此后の御所為甚しからずや御女孝謙天皇の道鏡を寵したまひしも畢竟閨門の法度正しからざるに基する也
平家を評す
平家の一門に不和なる事なく况や一門の衆を殺す事なく家人一人も源氏へ降参の者なし盛衰記平家物語には関東の世の者ゆへに分外平家をばあしざまに申たるにて愚管抄続世継等を見ても清盛は殊勝なる所是ある人にて老後耄のいたす所是非に及ばずと白石は評ぜり平族は互に相妬相忌こと聞へず西海の沈没に及ぶまで功を争ひ身を遁るゝ所為なし頼朝の家風義朝其父を殺せしを基本にして親族の末迄相討て其系他人の手を借ずして亡ぶるには似ず世の諺に源氏の友喰ひといふは即是なりといへり
熊野の謡曲
謡曲ははかなき物にて事実詩文章を引けるに誤り多きは論ずるに足らねどたま〳〵又思ふべきことあり熊野といふ曲に熊野といふ女内府宗盛公に仕へしが故郷遠江の国池田の宿の母老病により暇をこへども許されず此度は哀なる文を送りて読聞せるに宗盛左様に心弱き身にまかせては叶ふまじと強て清水の花見に召供せられしが清水にて歌を詠たるに感じて暇をたびける時熊野が詞にかくて都に御供せば又もや御意のかはるべきたゞ此侭にお暇といへり此前後の文句にて内府の心ばへをしるべしもと此熊野の一条は平家物語に重衡のとらはれて東に下り給ふ道此熊野が許に宿り給ひしに付て此女もと都に登り宗盛に仕へし時「いかにせん都の春もをしけれどといふ歌よみしとて其ゆへをしるせる所に出たるを取て此謡曲を作り出て宗盛公の趣をよく考て作りしなるべし熊野は音に云は誤也熊野と呼べし
去来の反古
落柿舎去来が書さしたる反古に書ては消し又改めなどして定かに読がたしといへども漢文にて平家の士盛久のことを論じて既に刑せらるゝに臨て観世音の加護により刀折たれば命助かり頼朝卿の賞にあづかりしを謗りて不忠者といふ事義仲寺の文庫に納めしが盛久といふ人平語又盛衰記にも見へず只謡曲にのみ出たる事にて本拠なけれどもしある人ならば観世音の利益はさもあれ自助命を喜び頼朝の前に出て酒宴に預かり立まふべきかは上総五郎兵衛が身をやつし頼朝をねらひしに天地懸隔は勿論にて義経の妾静女が右大将の前にて詮方なく舞謳ひし時も昔を今になすよしもがなの古歌又よしの山峯のしら雪踏分て入にし人の跡ぞ恋しきと自の詠歌をうたひて大将を恐れず梶原源太がひそかに恋慕せしを忿り判官さかりにおわします世ならば汝達に言をもかはさんやと罵りしに比ておもへばいと悲しき振舞なり慈愛を蒙る観世音にむかひてもはづかしからずやとの論はおもしろく覚ゆ
釈智蔵
懐風藻に釈智蔵淡海帝の世唐国に遣学す師本朝に向ふ同伴陸に登りて経書を曝す師も又襟を開風に対して曰我も又経典の奥儀を曝涼と衆嘲笑て妖言とす試業に臨んで座に昇敷演す辞義浚遠音詞雅麗論じて蜂起すと雖応対流るゝ如し皆屈服し驚駭せざるといふ事なし帝是を嘉して僧正に拝す時に歳七十三西土の郝隆が七月七日に仰臥て腹中の書を曝すといへる故事は人よく知りてこなたの智蔵におきて事等しといへども隠れたるが惜くて記すとあり
望月曇晴あり
閑田子云大典長老対馬国にあられし時仲秋の月曇晴京と異なりし旨を語られしを六如上人葛原詩話に記されしが享和三亥の仲秋京師は十四夜曇望夜は雨降十六日は朝小雨ふりたれど漸々晴十山ハ夜の月清明也然るに河内国石川郡山田の人十四五の雨は同じく十六夜は初更過て晴たりと云又但馬豊岡の便には十四五六とも雨ふり十七夜始て空晴たりと云て「三よさ迄寐て立待の月夜かなと句を送れり対馬は地方遙に隔り朝鮮に隣たればさもあるべし河内但馬は空にては纔の間もあらじと思ふにかく計りの違ひあり翌文化元子年仲秋望日昼雨降薄暮より晴月明らかなりしを江戸橘千蔭よりの文に空曇夜更て少し晴しよし「暮るよりさやに都の望の月吾妻の空や汐曇りせしと云をこせり
絶景に句無
新井白石仙台の洞岩翁に贈られし書翰に中秋月を賞し来人当年三十年一夕も欠ず訪らひ候を悦び候人に酒後和韻もなり兼情字の韻一句を書ちらしつかはし候千里郊外中秋色三十年来故旧情と一聯のまゝにてあと先もなく目出度来年足し候はんと一興に備へ候と有中秋の賞一聯に情尽て止めて来年足さんとあるはいとおもしろし詩人も歌人も情意なきに強て詠ばよき句も出来ず月にむかひ花に遊び酒など汲時に御作いかになど問ふ人は僻也凡美景に向ひ勝地に至る時強て其趣をよみ出んとすべからず其気色を意にしめおけば題に望みて思ひ合してよきこといでくるものなりと或卿の仰ありしとぞ
秋田の詠
川北自然斎の云儀同三位実陰公の詠秋田の題に「あさ露に袖はまかせて小山田に遅稲干すべき日影をぞまつとあるは実に画の如し我嵯峨の庵室より望むに秋のあした霧をわけ露を凌ぎて姥も家婦も打群てきのふ刈とりし稲を捌あるは煙草くゆらしなどして日のさし昇るを待付て掛干趣き全く此御詠の如しよく実景を見とゞめ給ひし物と感ずと語られし
けふの桜
洛の諸九[シヨキウ]松島行脚の折剛力を案内の為に連ける元次郎と云七十五歳になる親仁風景のおもしろさにめでてやありけむ「命こそ宝の山の松島やとかく不風流の者だにも時に感じて自然とうかび詠出したるなり又奥州の二本松に俳諧すけるもの共桜のもとに酒くみかわし遊び居ける中へ百姓の出で酒飲せ給へと乞ふ発句致し申されなば振舞んと戯れしに此者しばらく案じて「きのふより翌よりけふの桜かなと云出されて興さめ人々是につゞくほつ句も出ざりけりとぞ
香阿弥の蒔絵
香阿弥勘右衛門と云蒔絵師堂上始大名衆へも御膝近く参る者にて人情の高低しらずと云事なく町人には至極の高情者と世人取はやし我も浅からぬ到り者と朝夕誇りける去大名御在国の時御自慢の御物好にて常にお気に入の勘右衛門に硯筥を仰付られ模様花鳥の匂ひ蒔絵の中に遠近の山川御誂通出来差上ければ御機嫌斜ならず勘右衛門を召出され其方古今の名人と世に誉らるゝ程有感心の至りと御称美有ければ外聞浅からぬ御意有難くと座を退ひて御家臣にむかひ唯今の御諚生々世々有がたく竊に袖に露滴りしめやかに存奉り候私儀も常々御家の事は毛頭疎かに存奉らず殊に文華の殿様他の御家とは格別に志を嗜奉りて此度の御用も神以て利益にかゝわり不申随分御道具になり候様にと一筆〳〵に魂を込候也と御一陣へ申候時殿御顔色甚損じ奥へ入らせ給ひ御家臣を御召有て唯今勘右衛門が其方へ申たる一言奇怪至極唯今より出入をとむべし領分へも入るべからずと聢と申渡すべしとの御意御家臣畏り奉候さりながらいかゞの事を申上候やらんと問ひ奉れば其方心得ぬとは不埒也寧盗臣を置べきや硯箱はいか計の価にて申付けるぞ役人共より聞取其上の価に一倍遣はすべし黄金の多少をいとわず必ず一倍勘右衛門に遣すべしさなくば折角工夫に渡りたる物好捨り道具にならず渠は大名を廻りて益を貧りてこそ渡世共云べし其上妙手なれば用る方にも重宝たるべし御家の此度の細工には神以て利益に拘はらぬと誓を立ていひ侍るに益なきに偽はあるまじ何ぞ渠等が無益の細工を誂らへ側に置事きたなく見るに心むさくて遣ふに時なし此度の硯箱にて三年ばかりも他の事なくて渡世致候などゝ申てこそ某が物好も興あるべし慰みても心よからん利欲の外と云道具は道具にならず推参の一言是に仍て出入をとめよと申付るとぞ仰付られける勘右衛門すご〳〵京へ帰り心をつめり魂を刺計りの思ひなれども是非なく出頭の医者へ打て此時町人の高情は何の役に立ぬ事皆下卑たる中にて云勝思ひ勝なり生得筋目ほど恥かしき物はなしかくばかりの赤面と思ふ赤面と云もまだ懲ずして我を我と思ふからぞ額に汗も流る也何分御出入留りては内外不立と頼けり三年ばかり経て医の執なしにて御赦免を得てもとの如く勘右衛門御出入申けるとぞ
夜暦を見る
夜暦を見る事を忌人有り中古物忌ひ多かりし代にも此説はなかりしが栄花物語に東三条兼家公一条天皇の東宮に立せ給ふにつきて円融帝の内勅にて祈などせさせ給ふ所に「女御殿に物さゞめき申させ給ひておほんとなぶらめしよせて暦御覧じて所々に御祈りの使ども立騒とあり
かまへ太刀
北越甲斐総州辺にて風神太刀を持と云より搆へ太刀と唱る風を俗鎌鼬と云此風の筋にあたる者は刃をもて裂たるごとく疵つく早く治せざれば死に及ぶ此事京摂にはなき事也と思ひしに京にて或家の下婢庭にて倒れたり介抱して正気に復して後見れば頬のわたり刀もて切たる如く疵付しとなん是則かまへだち也下総のある寺の小僧北風に当りて悩みしに古暦を霜にして付しかば忽治したると也此辺にては窓明り障子なども暦にて張れば此風入らずと云り
室の名所
室は紀の国室の浦は播磨室生[ムロフ]は大和室山は伊勢室野は備後室積[ムロヅミ]は周防俊頼朝臣の歌に筑前竈山を詠合されしかど船行の順路にて竈を過てとあれば疑なし証空上人の遊女を見給ふも爰也室戸は土佐にて法性の室戸ときけどゝいふ弘法大師の歌あれば証空上人の事に混ずる人もあらん土佐に室津といふ所有と土佐日記に見ゆ是は又別なるべし
室の八島
室の八島に立煙は古歌にも詠て下野国に小島の如く八ありて其廻りは低く池の如し今は水なし島の大さ何れも方二間計り杉少し宛生たり比島の廻りの池より水気烟の如く立昇るを賞じける也今は水なきゆへ烟もたゝずと貝原翁の日光紀行に記さる是一所の名にあらす島と号る所八村倶に都賀郡にて鯉が島高島萩島大川島卒島[ソシマ]曲島沖島仲島等也とぞ
絵島の石
淡路国絵島に出る石白くして人物花鳥恰も彫るが如し自然の物なり古人も此石を見出して絵島と号しにやあらん名によりて石の生すべきにはあらず昔より絵島と号る故を云ねばいと珍らにて記す
菜種の御供
北野天満宮二月廿五日の神供を菜種の御供といふは誤にて梅の御供也其故は平なる桶へ飯を高盛にして神前階上の八脚机の下へ供じ其机の上に香立と称じて小土器に白き紙をめぐらし三杵の米を満てそれに梅の小枝をさして奉る或は花はちりてなき年にあひ葉を生じ実を結びても同じく折て挿数は左四十二右三十三是男女の厄の年の数に准ふいつより初りいかなる故ともしられず是西京の神人より奉ると即神人の党の話也
花扇
年毎七月七日の朝陽明家より内へ奉らせたもふ花扇といふ物あり御使は匂ひといへる婢者にて勾当の内侍の御許へ御文あり長橋へもて参れるさまいと興ありて衣被着ごめ高き足駄をはき雨降らねども大傘をさしかけさせ自ら文箱を携へ下部二人従ひてひとり此大傘一人は花扇をもつ此下部も又助と何とかや此日の名は昔より定れりとぞ内にては小御所のおまへの御池にうかべて二星の御手向になし給ふとなんいつの頃より始りしといふ事定かならぬよしなり
急流の心得
河水溢るゝ時表は順行し底は逆流す河を渡る人心得べきこと也魚鳥は風に逆ひ水に逆ひて毛も鱗も順になる故に必逆風に飛び逆水に行又満水には大石も水上へ行もの也そのゆへは水波は砂を穿て石は動ざるものゆへ砂の穿たる所へ落返り段々上へ行也人の心づかぬことにて心得べきことと皆川淇園の話也
粟田祭
粟田祭は例年九月十五日なるが天明六年は国恤〔俗に御停止と云鳴物を制せらるゝ也〕の時にて霜月に延引せり此祭式に知恩院裏門前の上白川の流水に掛し独木橋を重き剣鋒をさして渡る事あり其夕霜深く置て只さへ細き橋の見るも危きをいかゞと人々思へるにその河涯に住る明田[アキタ]利右衛門と云る猿楽の笛師心を得て木屑を敷せしかば障なく渡たり仮初のことなれど時に取つての働を人々感じけり
徒然草に鎌倉にて中書王の御鞠ありし時地の温たれば木屑を敷たりしを人の褒ければ乾き砂やなかりけんと嘲けりしこと見へたれど此橋上は鋸屑ならでは用をなさず彼に増ること遠しと評せりとかや
住吉の奇瑞
後徳大寺左大臣実定公和歌に堪能の人にて道因法師人々をすゝめて住吉社に於て歌合せられし時此大臣大納言にておはせしが社頭の月といふ題にてよみたまひし歌「ふりにける松ものいはゞとひてまし昔もかくや住の江の月其歌合の判者は俊成卿なりしが殊に此歌を感心せられ外の人々も褒のゝしりたる事なりしに其頃徳大寺家の知行所筑紫の瀬高庄より貢米を都へつみのぼれる舟津の国に入らんとしけるに俄に難風吹出て既に其船くつがへらんとするに船人ども兎角防けれども今はかうよと見へたる時何国よりともしらず一人の老翁出来てかの舟を甲斐〴〵しく漕直せしかば大風高浪もさはらずして恙なく浮びければ船人共歓び怪みて翁は何国の人にてかく危ふかりし船を救ひ給わりしぞといへば翁の曰殿の松ものいはゞとよみ給ひし御歌の面白さに此あたりに住翁が参りたるよし申せと云て何国ともなく失けるぞふしぎ也住吉明神彼歌をめで給ひ現れ給ふ也とぞ
慶安の塵劫記
慶安二年京寺町通林長右衛門開板の塵劫記は纔に一小冊なれども当嘉永戌年迄二百有二年になり珍らしき算法有ば爰に出す跋に自是以前に有塵劫記は我愚のまめならざれば或はたらず或はしげきも有故に其違欠をたゞして今又新篇塵劫記と是を名付て板にひらく然れ共此書にも失ありなん自今以後世に行て算法の指南をなさん物可合符節者也としるせり
東海道の算用
京より江戸まで百廿里の間に銭一文並びに並べては何程有ぞと問合二万千六百貫文一里には百八十貫文一間には八十文宛並ぶ也江戸より京までの間に金一歩を一つ並びに並べては何程あるぞと問一歩の数合三千零六十三万二千七百廿八但一歩の長さ五分半にして右一歩桝にはかりては何程あるぞと問答曰四十二石八升二合二勺京より江戸まで百廿里の間に芥子一粒並びに並ぶる時は何程入ぞと問けし数六億七千三百九十二万粒是を桝にはかれば一石六斗八升四合八勺也但一寸にけし四十粒宛並ぶつもり也一升には四百万粒入つもり也芥子一億といふは長さ十七里廿九丁一間三尺五寸に並ぶ也江戸より京迄百廿里の間に一間に一人宛立つもりにしては人数何程あるぞと問答曰二十五万九千二百人金子の一歩を枡一升に何程入るぞといふ時答曰六千八百四歩入但一歩に付長さ五分半広三分半厚さ五厘のつもり也右一升の重但一つに付一匁一分七厘五毛のつもり也七貫九百九十四匁右銀につもり一つを十六匁がへにしては銀百八貫八百六十四匁金一歩一升を箔にのべては何程四方になるぞと問答曰八十二間三尺二寸六分一厘四方になる也下略是より銭算鼠算日本国男女の数など新奇無量の物を集たり今時算法の書には見及ばぬ所也金一歩の大きさ重を見ても其代の事を知るに足れり珍らしければ爰に出し置もの也
粟津の冠者
古事談に園城寺の鐘は龍宮の鐘也昔粟津の冠者と云勇者有一堂を建んと鉄を求めん為出雲に下る大風俄に発彼舟に入しかば乗船の輩泣叫びたる所へ小船一艘小童梶を取つて来り冠者一人のれといふ心得ねど乗移れば風浪忽に止む元船は爰に待べしと有て小船は海底に入ると思ふ間に龍宮に至る龍王出て従類多く敵の為に亡び我も又害せらるべし依て迎へ申也一矢射てたべと乞ふ冠者楼に昇つて待所に大蛇許多の眷属を卒て出来るを鏑矢にて口に射入れ舌の根射切て喉の下に射出す龍王深く歓びて冠者が一堂を作る為鐘に鋳べき鉄を乞ふ事をしつて龍宮寺に釣所の鐘をおろして是をあたふ冠者粟津にかへり広江寺を建鐘を掲る年移り変り件の寺破壊の後纔に法師一人鐘の主たりしが鎮守府将軍清衡砂金千両を三井寺の僧千人に施す三綱某五十人の分を乞集め五十両をもて広江寺の鐘を買ぬ広江寺は天台の末寺なれば後日に此事を漏聞て件の鐘主の法師を搦め湖に沈め今園城寺に釣所の鐘是也と有り
広江寺の鐘
紀州名草山紀三井寺の縁起も是に似よりて故事談に出たるも昔の作物語なるべきを潤色して田原藤太秀郷勢田の橋龍宮の乙姫に遇ひ托みによりて三上山の蜈蚣を退治せりと云種々の宝物をたしてとれども尽ぬ米俵有ゆへ俵藤太といふなどの説をもふけしは甚拙なし出雲の海にて龍宮に至りしと云はよし有勢田の橋より龍宮に赴くとは海と湖を混じて道理当らず叡山法師鐘を奪取に来て谷間にすてしも広江寺の鐘ならば奪帰す道理もあり何者が潤色せしか藤太秀郷は此説によつて名高し大きなる仕合せなるべし
頭痛の占ひ
故事談に花山院頭風を病せ給ひさま〴〵医療をましませど験なし阿部の晴明占て君前生にては止事なき行者にておはせしが大峯某の宿にて入滅あり前世の行徳によりて天子には生れ給へ共前生の髑髏巌の間に落はさまり雨風に動き今生かく痛ましめ給ふ也御首を取出して広き所へ置れ候はゞ癒給はんかとあるに人をやりて見せしめ給ふに違はざりしかば彼首を取出して御頭風永く癒させ給ふと記せり今世に伝ふ後白河法皇前生蓮華坊と云熊野山伏にて谷へ落て命を殞せり後柳の樹生出其頭を貰き風に動く毎に御頭を病せ給ふ故に其髑髏を埋め其柳をもて三十三間堂の棟木にし蓮華王院と云縁起は花山法皇の典故なるべし
漂流の話
宝暦八寅年冬泉州波有手[ハウテ]村直船頭[ジキセンドウ]佐市郎船五人乗にて紀州有田にて蜜柑を積江戸へ廻し十二月廿五日明舟にて江戸川口浦賀御改を受同廿九日同所出船晦日伊豆下田湊へ入津し宝暦九卯正月五日同国子浦へ入船同十一日出船十二日遠州貝塚前にて南風になり掛り居て十三日の夜出風にて走る処十四日暮六つ時紀州熊野九鬼島を見付しかど殊の外沖立地方へ寄兼いろ〳〵に働けどもけしからぬ風波にて同十五日朝より西風になり伊勢路へ流され同日暮六時参州大山を卅里程も沖へ出大風にて地方へ寄る事叶わず諸神へ祈誓をかけ伊豆地へ走り同十六日朝富士山遙に見へれども地方へより兼最早身命は此沖へすてしと覚悟し天命次第何方へ寄るべしと巽沖へ流され船中へ波もりこみ帆持がたく其上山は一円見る事なく渺々たる海上にて十七日十八日と両日流され暮方巽風になり地方へ寄せる積りにて走らす処十九日夜中走り廿日明方より大風にて沖へ流され廿一日昼時始て島を見付しゆへ船中の者ちからを得帆を少々持走らせ何国の島と考ても大風にて数日沖に居る事なれば何と云島やら方角もしれず船中水きれしゆへ水を求たく風間へ走り寄ても元船はより兼はし船をおろし島へ行んとせしに島より頻りにこへをかけ招くを見しに人やら鬼やら髪は女のごとく髭は胸まで届き真黒なる恐しき者両人招くゆへ聞及びし鬼界が島にやあらん俊寛僧都の幽霊かさもあらば一人ならんに二人居るは不思議也其うへ鬼界が島は西のはづれ長崎の沖東の方に有べき筈なしと皆々評議しながら水のほしさに恐れもなさず船を漕よせ磯近くなれば右の者海へ飛こみ船をめあてにおよぎつくこなたよりもしきりに押切漕よせれば彼両人船に取付其元は泉州波有手村佐市郎にてはなきやと云に心覚へあれば早速船へ助け乗せ子細を問へば六年以前宝暦四戌年十ニ月行衛なしになりし泉州相作[アイツクリ]村鍋や五郎兵衛船五人乗の内紀州海士郡加茂谷下津浦藤八と云水主今一人は讃州塩飽領の西島北の浜幸助と云者もとより心易くせし中なれば島の様子を聞く所一向何島ともしれず無人島にて同廿六日の朝島へ水を取に行同日七つ時元船に帰り日和次第地方へ帰り度仏神へ祈りしに巽風となり帆拵へする内沖の方より大勢はし船に取乗是も難風に逢ひしよしにて船を漕よせ乗移り此人数を尋ぬれば松平土佐守殿御手船にて十八人乗元船は乗はなしはし船にて来りしよし皆々打乗り色々働らき伊豆の国子浦湊へ同廿六日に着改吟味是ある所三百石計積船にて泉州波有手村直船頭佐市郎揖取徳兵衛水主与一郎同又次郎右四人乗也外にかしき三之助は船中にて病死なり助り帰り候藤八幸助両人の物語哀れともはかなしとも譬へがたなき話の次第代官所へ届の写し事長ければ略してあら増を記す
無人島
泉州箱作り浦直船頭五郎兵衛同水主文右衛門備前久四郎紀州下津浦藤八讃州塩飽幸助右五人乗にて宝暦四戌年十二月十二日紀州有田郡箕島浦にて商人荷物蜜柑積入尾州名古屋へ行積り出船し尾州勢田浦にて越年翌亥年正月七日出船同日志州浜島浦へ入津同十日朝出船の所大風にて同日八つ時安乗沖へ乗掛し所大風波にて双方より浪打こみ地方へ寄兼ぜひなく沖へ流され船中詮方なく神仏へ祈願をかくれど折々大風波にて帆柱有ては凌ぎがたく同十一日帆柱切折同十五日迄様々と憂目に逢ひ再び故郷へ帰る事も不定にて茫然として悲しみ居たるに十五日の朝ふと島を見付船中蘇生たる心地して仮柱帆繕らひ段々走りよせ同夜九つ時かの島近くなりたれ共磯際嶮岨にて元船より兼るゆへ乗り放しはし船にて島へ上らんとせしが磯ばたにてはし船を浪に反り倒され五人共海へ落入命から〴〵島へかけ上れ共夜中なれば方角も分り兼皆々濡身ながら一所により夜の明るを待兼しによふ〳〵夜も明け元船を尋ぬれど早跡方もなく風波の難は遁れても便りとすべき元船を失ひ手計にて足なき如く盲目の杖を失ひしよりも悲しく力落れど詮方なくもし人家にても有べくやと山をめぐれど元来無人島なれば只草木生茂しばかり廻りは凡二里余りの高山にて茱萸の木と芦萱のみにて諸木とては一切なく嶮岨なる岩山にて峯より始終烟り立登り中程迄も登る事成り難く元船はし船共翌日迄遙の沖に浪にゆられ形は少し見へしが大浪にて砕け後は粉もなくなり心細さ見る度に肝をひやし最早故郷へ帰る望は絶食物とては何もなく磯にて貝を拾ひ又山にて茱萸を取喰ひ水甚不自由なれば方々尋ね少し計りの谷水遙山の上にあるを見出しかけ登り夫を銘々手にて掬ひ呑朝夕を送るのみ南面は平地にてあなたの空よと詠めやり故郷のみなつかしく親妻子の事を思ひ生死の程も聞へねば嘸案じ煩はんものとおもひながら食事のせつろしさに取紛れ火の気はなし差当る難儀に故郷の事を忘るゝ計り或日文右衛門磯へ貝を取に行日暮ても帰らず尋ねても見へねば扨は浪にとられしか又は妻子を慕ひ身や投しかと皆さがせ共見へず無人島に住者五人いか程故郷を隔候かしらず心細く互ひに親共子とも思ひ合一人を千人とも万人とも思ふにかいなき此成行何れも肝にこたへ声を上て泣ばかり詮方なく破船の板を集めて岩間へ雨露のしのぎを拵へ茱萸も取尽し食物もなくなりしが二月の末と覚しき頃鴻の様なる鳥羽は白く足短き鳥此島へ下りしを幸ひ色々工夫し捕へ此鳥を船釘にて裂喰此卵大さ瓜の如きを食ひしところ逆上ければ以後は卵はくはず六月頃と覚しき頃磯ばたへ死骸一つ流れよるを見れば文右衛門の死骸なれば泣々山へ葬り七月頃五郎兵衛故郷の事を云出し不快の体三人の者さま〴〵看病に及べども薬はもとより湯を呑す事さへならねば次第に弱り顔色土の如く痩おとろへ此島の土となる事前世の業因ならん皆の衆は身を全ふして再び故郷へ立帰り親兄弟妻子にも逢給へもし我等が故郷へ便りあらば此詞を筐ともなしたべと頼み置終に息たへ果たれば三人は取乱し泣々是も葬れり又八月頃水主久四郎儀も五郎兵衛死後煩らひ出し故郷の事のみ言出し次第弱りに相果しかば都合三人死し残る二人は我身の上と思へばいとゞ心細く最早両人より外なけねば山へ行も磯へゆくも連立片時も放れし事もなく亥の年中に三人死しかの鬼界が島へ流されし俊寛の昔も嘸となげきしが此三人は五十余になり精気も弱く残る二人は年若なれば何卒存命一度は親達にも逢見ばやと互に力を付合心楽しみに憂年月を送りけるが茱萸は春秋両度ならではなく白羽島も四月頃より八月頃までは何方へ行か島へは戻らず其内は穴鳥[アナトリ]と勝手に呼びたる鳥をとり食事とする鳩程の大さにて鳴声は生れ子の如く岩穴に住鳥にて比島に烏多く宿るゆへ鳥夜明に鳴時は此鳥穴へ隠れ候をとつて食ふ事也又岩山へ登るには足痛み難儀に及び始は衣類を引さき足へまけどもつゞかず五郎兵衛生前に考萱の芽出しをよく打縄になへばよき縄になりしゆへわらぢを造り履物には事もかゝず刃物は船釘をつかひ扨三年目の正月頃廻舟一般難風に遇しと見へ帆柱も折たる船漂ひ来る天のあたへと声をかけ招けば此船も島へよりたきかいろ〳〵働漕寄れども大風にて吹飛し又沖の方へ流され影もかたちも見へずなり神仏にも見放されしかと浜辺に両人泣倒れしが心を取直し覚悟を極七日計り食事もせず断食すれども死もやらず只せつなき事ばかりゆへさすが故郷の親の事を思ひ命こそ物種此上は運に任せ便船の事を念じ一六の月と思へば浜辺にて汐こりを掻東を拝み今一度母に逢せたび給へと信神をこらし昼夜海の面を詠めやり暮すより他事なく其後八月頃食事に困り白鳥もこねば穴鳥を尋ねに行草萱生茂りたるを掻わけ〳〵這入たる所岩を切開凡十畳敷程も有べき穴を開き船板にて堅くしつらひ向ふに戸棚と覚しき物持仏等も有是はふしぎと段々改見るに古戸棚の内に茶碗と貳升鍋一つ有籾も少々あれど虫入にて性もなくなり五升鍋の内に五合桝に火打石共有炭殻も少々出候ゆへ直さま火を打色々才覚して燃し付五升鍋にて湯を沸し四年ぶりにて湯を呑是ぞ誠に天のあたへと悦び限りなく是迄火の気はなけねど暖気なる島にて寒中と覚しき頃が八月位の時候にて雪は降らず殊の外暑く此島へ鴬多く来るゆへ春をしり去寅の八月此岩穴を見付てより是に住居雨露を凌食物煮焼出来れども塩醤油なけねば潮にて煮て喰ひ生鳥を食からは遙に結搆とよろこび油じみたる土器有て火を燈したる体なれば色〳〵工夫をし貳升鍋にて白鳥の油を取綿をひねり火をともし持仏へも備へそこら見廻し候へば外の穴に輪切れたる桶を見出し葛にて輪を入桶手桶等も出来候へど人間の住家にてはあるまじ全く此者らの如く吹流されし者の住居と思はれ極月頃鳥類なく不自由の所磯へ尺許の伊勢海老三つ刎上りしに付取て食是日頃信じ奉る大神宮のあたへかと有がたく其味今に忘れ兼しよし其後正月も参るべく食物の手当に茱萸を取しが北の方は取尽し南の方へ行しに至極の船着なれば何卒爰へ船がな来れかしと両人信願をこめ山へ登り茱萸をとつて帰りかけし所南の沖の遙向ふに大船と覚しく段々島近く来るに付船と見さだめ両人は天へも上る心地して祈誓しあの船無難に此所へ吹寄たまへと大神宮を伏拝み暫らく目を閉ひらき見れば船は間近く来る嬉しさ夢ではなきやと我を忘れ大ごゑを出して招きし処此船も島ヘ志す体なればいよ〳〵力を得磯辺下り待たれ共先年も船来れど吹飛されし事有乗遅れてはいつの世にかは故郷へはなんと両人申合す隙もなく其侭飛込浸付声をかけ船へ乗移りしが両人の異形に恐れいかなる者と詞をかけられ人々を見るに六年以前蜜柑を積一所に江戸へ行候泉州の左市郎なれば名乗合何れも落付島の様子を物語り年月を問ふ所極月廿一日と思ふ所卯の正月廿一日にて日数卅日の覚へ違ひ也丸四年行衛しれずなりて都合六年とはなりけり此船に呑水なきゆへ両人案内して岩穴に貯へたる水にて粥を焚六年ぶりにて食たるに其味甘露の如く一口二口は通りしが跡は咽へ通らず全く丸五ヶ年の間米は一せつ食せぬゆへと思はる夫より船へ水を汲入翌廿二日帆を拵へる所へ松平土佐守殿手船千石積は破損に付はし船にて十八人乗組巽風に帆を引上皆々一統相働凡二百里程走れども山も見へず皆々唐へも行様に覚ヘ口々いへども左市が乾風にて来れば巽風にて帰る筈也と行々伊豆の子浦へ廿六日着船して船中の一統蘇りたる心地何にたとへん方もなし右の島に白鳥の油三升程残したれど余り嬉しさに取忘れしよし左市郎は右の鳥の干たるを二羽持かへりて人々に見せけると也
二島物語
正月廿六日より子浦にて御吟味中六十日ばかり逗留の内此噂諸所にてせしゆへ駿州の者一人藤八幸助に逢に来り話には右島の穴に先年其者の伯父遠州より千石船にて十八人乗難風に逢ひ其島へ船共打上られ岩の上にて破船に及び詮方なく船板にて囲ひ岩穴を切拡け諸道具を運び右の穴にて廿一年暮し候内籾一俵流れより夫を種として植弘め田地少々拵へ正月に植れば四五月頃米になり後には米も沢山にて茱萸鳥抔は食はず十八人のうち十五人は病死して三人残り居たる所廿一年目に大坂の富蔵と云船頭難風に逢ひ島より助け帰りし也此伯父は殊の外老人ゆへ其島にて帰る事不定なれば島にて定に入候よし右の跡は是なきやと尋ねに両人其節は心付ねども右の仁の詞にて思ひ合せば定に入たる体の塚もあり右岩穴に書物多く張付あれども両人とも無筆にて少しよみ書する五郎兵衛は先に死し後に岩穴を見付しゆへ読事を得ず駿州の者其書付には重ねて来たる者の為に島中に暮し方茱萸白鳥穴鳥等磯の貝を食物とする事油は白鳥にて取る事その外委細に書付有れ共無筆にては是非なき事也島にて入定せし者の甥は我也十八人岩穴に住しは大御所様御時代のよし八丈が島へも行二島物語と云写本になり右本の内白羽鳥を此者共あほふ鳥と異名を付候由伊豆より八丈島へ三百里八丈より右島へ又三百里伊豆相摸の境より巽の方の沖に当り人語離れし孤島也との話に付不思議はよふ〳〵晴れたるが去にても右十八人の者廿一年が間島にくらし十五人死して三人残るを思へば五人乗の内両人生残り丸四ケ年の島住居にて此度左市郎に助けられしは命冥加なる事なりとよろこび合しこそ道理なるべし
影の膳
両人御吟味相すみ両人別れて藤八は故郷紀州海士郡加茂谷下津浦へ五月三日の夜帰り親子対面の上母の悦び行衛なしになりたる忰六ヶ年ぶりにて拾ひしと限りなき歓び涙に三四日は傍も離れず詠居しとぞ藤八も又優曇華増りのよろこびにて島の話をせし内三年目の日に当りある夜夢に何方もしれず殊の外馳走になり目覚ても腹大きく幸助へ此儀を話せば幸助も同じ夢見て其朝は食事もせず有しが此度母の話に三年目に泣々三回忌の弔らひをし僧を呼び供養せしがかの島へ届き候かと互ひに話して悦びたり
御代官森久次郎殿屋敷へ召れ一宿して六ヶ年の物語を書写させ膳にすわりたる一尺計の鰺の焼物は頭より食飯は常体の一口程を十口程に喰給仕の者尋ぬれば久敷米を食せぬゆへ大口にはたべがたく島に居候内は病気はなし少々の事有ても薬はなし湯さへ呑ぬ仕合せなれば苦にもならず朝夕岩山を駈廻り漫々たる海上を詠めてもし便船もやと眼を配り身内少しも休まる間なく髪月代をせふとも思はず金銀のかしかりはなく色欲の道は絶へ明暮戸締りの苦もなし寒気は暖ゆへ凌よく暑気は難渋食事にをわれ何をくへば当らふとの心遣ひもなく見付次第に食雨の降る日は風浪を誘ひ難儀なれば貯へ置たる物を食折々けふは幾日とくりて草臥にころりと臥し誠に鬼ともいふべき姿にて此島には化物もなく天狗もなしよく〳〵の放れ島なれば天狗化物も我々が姿のすさまじきゆへ来ぬ物か然し又所の心になり候へば心も替るべきか思ひ出すも恐しく悲しく又嬉しく何国いかなる人の憂目も咄には聞伝へたれ共我と我身の命ある事又ふしぎに存候と此一書は亡兄鳳堂写し置たるをくだ〳〵しき所は文を略し荒増を出して一話に備るもの也
初午の句合
活々坊の云一座の宗匠は軍中の大将軍商家の番頭の心持にして一座作にほこる時はしづめ一席閑なれば又引立て句をなすべしひとゝせ初午奉納の画馬に連衆作に作をあらそひし跡へ桜川が「初午やゆらり〳〵と人通りとかく云出しかば格別きらびやかに出来ばへせし是死活のあしらひ也此一句ばかり聞たる人の何事もなき句也など評じたらんもの其場の差略あり是をおもへば発句ばかり書伝へていにしへ人の句を評せむは覚束なき事ならんかし
俳諧に学問いらず
蓮二曰俳諧は只物の本情にまかせて木のよろしきに遊ぶ也古式につながれ其粕を舐るまじきやたとへば八卦には離坤兊乾坎艮震巽とあるを易には乾兌離震巽坎艮坤といへばおなじ文字にて走る也走て善も悪きも其時に望ての事なるべし古人の格式は初心の人の為中品已上の俳諧は吾知りて吾するなれば一字一点の学問も入るべからず学問は階子也はやく登りていらぬとはしるべし下品の内走り過て階子ふみはづしたらんもいとあやうし
西施の顰
呉越春秋に西施は周の末越国の諸曁[シヨキ]といふ地の女にて絶世の美人也越王勾践の臣下范蠡が計にて西施を呉王夫差に献夫差その好色に惑て遂に国を傾くるに至るされば西施常に心を病て其眉を顰む其里の醜女ども常に夫の我を外にして西施を誉るを妬ていかなる容貌ぞとひそかに窺見て夫の好所は是なりとそれより心を押へ眉を顰て夫に近付ける程に弥醜して夫はもとより其里人は驚て門戸を閉て外に出ず是夭怪の所為なめりと魂を消けると云り荘子が寓言に棒心とて世の人の徳の本をも知らずして威儀を飾人を欺にたとへたり
鷹狩の始
仁徳帝の時秋九月依網の長倉の阿洱古異鳥を捕へて帝に献じて曰臣毎に網を張鳥を捕ふに未曽て此鳥の類ひを得ず故に是を献ずと帝百済国の酒の君を召て鳥を示しての給ふ是何の鳥ぞ酒の君対て曰此鳥多く百済に有馴てよく人に従ふことを得たり又捷ぐ飛て諸鳥を掠百済の俗此鳥を号て倶知と云今の世の鷹是也乃酒の君に授て養馴しむいまた幾時ならずして韋緡[アシカハ]に鈴を着て和泉国百舌野の御狩に居出て数多の雉を捕しむ此月甫て鷹井部を定らる故に其所を鷹井村と云とぞ
小納言
草廬云大納言中納言といへば少納言も小なるべき歟と思ひしに明和七寅年夏大旱にて諸国水涸たる時大和高市郡の一向宗の寺に井を堀て墓誌を取出したりそれに小納言伊奈卿とあり然れば昔は小と書たるべし少字も去声にて読めば小の意になれりとぞ
天王寺の額
三井寺寺門の記に天王寺の額は慶耀己講勅を奉じて書と見ゆ慶耀は慶暹と云人の弟子慶暹は祭主輔親の息にて歌仙也と同じく草廬の話なるよししかれば世に道風の筆といふ空海也といふも皆誤なるべし
一河の流
一河の流を汲み一樹の蔭に宿ると云事古文類語四の巻に隋の張郎子が詩に汲流一川接弥深屏雨一樹思殊親とあるが出所也鵜飼信興が珍書考の説も是に同じ
燕子花を夏に定
古歌の題集に燕子花を春の末に出し牡丹を首夏の物とすれど今見る所しからずいつも牡丹は春の末にして杜若は四月に咲出万葉集に橘に郭公をよみ合せし歌の終に天平十六年四月五日に大伴家持卿の詠あり「かきつばた衣にすりつけますら雄のきそひがりする月は来にけりきそひがりば薬猟[クスリガリ]とおなじく五月五日なれど万葉には卯月と五月との程に薬がりつかふる時にとあれば四月五日にあへり今時俳諧者流は杜若を夏とするは連歌の式によるか正に見る所に随ふが理ありといふべし
初中後の子の日
早春初子の日は小松曳の歌世々の集に有て誰もしりたる事也中の子乙の子を人余り不知後拾遺集雑四馬内侍の歌詞書も有「けふ中の子とはしらずやとて友達の許なりける人松を結びておこせて侍りければよめる「誰をけふまつとはいはんかく計忘るゝ中のねたげなるよに又おと子といふはうつぼ物語菊の宴の巻に「かくて后の宮の賀正月二十七日に出くるおと子になんつかうまつれりとあり
反魂香
漢の武帝の時李延年といふ者音律を得て善歌ふ常に侍して君恩を蒙る或時帝の前にて起て舞ふ歌に曰北方に佳人あり絶世にして独立す一顧れば人の城を傾け再び顧れば人の国を傾く寧知らず傾城と傾国と佳人再得がたしとうたふ武帝歎じての給ふ今善世に豈此の如きの人ありやと平陽公主の言李延年が妹也と武帝の召て見給ふに実に当時類なき美麗にしてしかも善舞曲をなせり是に於て恩寵を得て李夫人と称ぜらる親族みな禄を賜りて宮にすゝむ然ども李夫人早く卒しぬ武帝憐て其形を画に写して甘泉宮に置給へり方士李少翁と云者よく其神を致といひて九華帳の内に燈燭を照らし酒肉を陳ね反魂香を薫て夜密に武帝に見せしむ煙の中に李夫人の容髣髴として見る武帝いよ〳〵思ひ悲て詩を為て曰是邪非邪立て望ば偏に何ぞ姍々として其来ること遅きとの楽府に命糸竹に合せて歌はしめて思ひを慰め給へりとぞ
扇を鳴らす
信実朝臣の今物語に薩摩守忠度某の局によりて扇をたかくつかひけるを内より草葉にすだく虫の音よと云たればつかひ止たりといふ事見ゆ此歌はうつぼの藤原君の巻に「三のみこの御前ちかき松の木に蝉の声高く鳴折にかく聞へたまふ「かしがまし草葉にかゝる虫の音よわれだにものはいはでこそ思へ今物語にはすだくとかはれるのみ平家盛の頃はうつぼ物語あまねく行れて其歌などもそらに覚へたる人ありければこそ纔に二三句をいふより忠度もさとり給ひけめ
十寸穂の薄
長明の無名抄にますほのすゝきまそをの薄まそうの薄といふこと出てます穂は十寸穗にて其穂の一尺許ある也まそをは真麻也まそうはますはう也と見ゆ此まそうを蘇芳也といふことそは書誤にてさ也すはうも印本に誤てすわうと書りすほうにてすはの約なれば真すはう色のむね明白也
仁義を買ふ
戦国の馮煖は才智人に勝れたれど貧乏にて自身のすぎはひ成がたく孟甞君の食客也素より落魄たる者なれば朋輩も慢て常に麁菜なる食をあたへけりある時馮煖柱に寄添ふて剣を弾じて歌を諷ふて曰長鋏帰来乎食に魚なしと云甞君是を聞て器量ある者なればかゝる事をも云ならめと客人に具ふる如きの膳部を云付て食せたり頃ありて又長鋏帰来乎出るに車なしと謂ふ朋輩是を聞て奢たる事を云者かなとて笑あへり甞君は彼才ある者なるべしと思ひ車を与へ乗らしめたり又しばらく有て謡けるは長鋏帰来乎以て家を納る事なしと云聞者興をさまし余りなる事をいふ者哉此者は貪欲にて足ことを知らぬと悪みけり甞君は是をも咎めず其母の家に衣食を運せて乏しきことなく養ひたり其後甞君薛といふ所の民に貸置たる金銀を取収べしと馮煖にあまたの券契を持せて遣したり馮煖出さまに此債共を取聚て帰る時何にても買求る物はなきやと問ふ甞君の曰何にても我家に寡物あらば買来るべしと云馮煖薛に行て債の者共を呼集め此度甞君よりの仰にて今迄の債を汝らに賜るぞと券契を悉く焼捨たり民共悪き夢の覚たる思ひをなして悦びあへり斯て馮煖国に帰りて何にても寡ものを買へとの仰にて君の宮中を窺見るに七珍万宝いづれにつけても乏きことなし只寡ものは仁義のみなりよつて券を焼すてゝ仁義を大分に買て帰り侍ると云甞君心に入らねども道理にせまりて物をもいはずなりたり其後甞君斉王より薛の地を賜りて入部しだりければ薛の男女老若は街に踞て喜び合事限りなし甞君此ありさまを見て馮煖にむかひ云けるは其方以前に仁義を買たる験をば今こそ見つれとて感じけると也
空公行状の碑
嵯峨の二奪院に空公行状の碑めり今其碑前に円光大師御廟前と記せし石燈籠左右に二基を建たれば全く法然上人の塔となれり然るを先年ある人ひそかに此石を紙に摺写せるを見しにいかにもおぼろげなれど湛の字にて源にはあらず源空は此寺を作りて後やがて師湛空を請じて開山とすれば此塔湛空なるべき事明らけし何者かかく文字を書損ぜしめ強て法然上人の塔とせるや凡尊貴又徳者の墓を謬り伝ふる愚昧の土人の話は論にたらず爰に師弟の碑を紛らはすは点智の浮図氏の所為にして誠ににくむべし古仏寺の縁起なども甚だあやぶむべきもの多し其趣意人に信ぜしめんとしてかへりて嘲りをまねくもの歎くべし
湛空の和歌
湛空上人はさして歌人の名はなけれど古今著聞集に出たる歌などいとよろしき有湛空上人嵯峨二尊院にて涅槃会を行れける時人々五十二種の供物を備へけるに花の上に立て歌をよみて付けるに西音法師水瓶に桜を立て送るとて「如月の中のいつかはよはの月入にしあとの闇ぞかなしき返し湛空上人「%やみぢをばみだの光にまかせつゝ春の半の月は入にき又一首を添られける「会をてらす光りのもとを尋れば勢至ぼさちのいたゞきの瓶今の世腕をこきて歌よみだてをせる僧衆のよき歌よまんとかまへぬるに似ず折にふれて其思ひを述られて歌ざまの殊勝に調へるは其心術によるべし凡一宗を興し末世を化度せる程の徳ある人一向に詩歌のいできぬは少かるべし
泥中に尾を曳く亀
荘子荘は氏名は周字は子休楚国蒙県の人なり楚王荘子が徳を聞て贈物を遣し使者を立て国の宰相に用んとてめされたり荘子は濮水の辺に釣をたれて居たりしが何となく使者に向ひて楚国に神亀あり巳に三歳也今此亀を錦に包み笥に入れて廟堂に蔵るに此亀死して其骨を留て貴るゝがよからんや又生て泥中に尾を曳て遊ぶがよからんやと問使者聞て夫こそ生て泥中に遊ぶがよからめと云荘子が曰吾もさのごとし官に上りて寿を縮めんより釣をたれて命を延るぞとて使の者を帰しけり又或時荘子魚の水上に浮み豊に泳を見て是こそ魚の楽なれといふを恵子と云友聞て汝は魚にもあらずして魚の楽をいかんして知るやといひければ荘子こたへて汝は又我にもあらずして魚の楽を知りたるやらん我が胸中をいかんして知るらんといひけり
水車
良峯の安世は淳和帝の御弟にて広才達芸の人也天長六年に勅を奉り諸国の民に教へて水車を作らしめ農畊の資とせらる是和朝におゐて水車の権輿とぞ
常在法師
成源僧正は連歌を好む癖ありて其坊中の者共皆たしなみければ中間[チウゲン]法師の常在と云あやしの者まで心ありけり法性寺の花の盛に件の常在法師糸桜の許に彳み侍りけるを若き女房四五人花見て侍りけるが此法師を見てあれも人並に花見んとて有にやなんど嘲りつぶやき坊此花を一枝折てたびてんやといへりければ此法師うち案じて「山がつはおりこそしらね桜花さけば春かと思ふばかりぞと云かけたりければ笑ひつる女房どもいらふることなくあきれてぞたてりける
兎波上を走る
博物志に兎は望月にして孕み口中より子を吐といへち入月十五日夜月明らかなる水面を走りて感じて孕む此夜月闇ければ来年兎少也と云又一説に兎は雄の毳を舐りて孕み五月を経て口より子を生ずともいへり
鵞は墨を費す
晋の王義之字は逸少能書の名有常に鵞を愛す爰に山陰に道人あり其許に多くの鵞有義之是を買求んといふ道人の曰老子の著す所の黄庭経を書写して我にあたへられば鵞を贈んと云義之即写して是をあたへ鵞を得て籠に入て帰りたると也杜詩に鵞は義之の墨を費すとあるは是也
流水を枕とす
孫楚は材芸世に秀たる上弁舌殊に能足れり四十余歳に及べども立身せざれば世を捨て隠居せん事を欲し王済と云者に向ひて我は当に石に枕し流に潄んといはんとして誤て石に潄ぎ流に枕せんと云へり王済聞とがめて流は枕にすべからず石は潄べからずと云孫楚が曰流に枕するは世塵に濁りたる耳を洗んと欲す石に潄は不浄の食に染たる歯を礪んと欲すと誠にやさしき答也と晋書にいへり今流石と書て流石と読すは是也
門に鳳の字を書
世説新語に晋の呂安字は仲悌七賢の中の稽康と親しみ深く互に路を隔て遠しとせず交りしが或時稽康の留守に来れり兄の嵇喜家に有て強て内に入れよといへど稽康他行にては面白からずと立帰る時其門に鳳の字を書して去れり稽喜是を見て鳳は三百六十禽の長なれば我を重んじて帰りたるならんと悦び後に心を尋ぬれば呂安が心は嵇康や我に比ぶれは嵇喜が材智の拙き事几鳥の如にて相手に不足也と鳳の字は几の中に鳥を書たる字なればなり
老の接木
寛永の頃将軍家谷中の辺に御鷹狩有し時御かちにて爰かしこ御過がてに御覧まし〳〵けるが何某院とて真言寺有覚へず渡御有しに折ふし其時の住僧は早八旬に及んで庭に出てみつわぐみつゝ手づから接木して居けるが御供の人々をくれ奉りて御側に二人三人付奉りしを中々やん事なき御事をば思ひよらねばその侭背き居たりしを坊主何事するぞと仰られしを老僧心にあやしと思ひていとはしたなく接木するよと御いらへ申せしかば御笑ひ有て老僧が年にて今接木したり共其木の大きになる迄の命もしれがたし夫に左様に心を尽す事不用なるぞと上意ありしかば老僧御身は誰なればかく心なき事を聞ゆる物かなよく思ふて見給へ今此木ども接て置なば後住の代に至りて何れも大きになりぬべし然らば林も茂り寺も黒みなんと我は寺の為を思ふてする事也あながちに我一代に限るべき事かはといひしを聞し召て老僧が申こそ実も理なれとて御感有けり其程に御供の人々追〳〵来りつゝ御紋の御物ども多くつどひしかば老僧それに心得て大きに恐れて奥へ逃入しを御召出しありて物など賜りけるとなん
肘笠袖笠
顕昭の袖中抄にひぢがさの条有六帖に「妹が門行過かねつひぢがさの雨もふらなんあまがくれせん是は万葉集に「妹が門行過かねつひさかたの雨もふらぬかそをよしにせんとあるをやわらげたる歌也と云々こは和らげたるにはあらで誤たる成べし又催馬楽に「妹が門せなが門行過かねてやわがゆかばひぢがさの雨もふらなんしでの田長雨舎り笠やどりやどりてまからんしでの田をさ又源氏物語須磨に「風いみじく吹出て空かきくれぬ御稜もしはてず立騒たりひぢ笠雨とふりていとあはたゞしければ皆帰りたまひなんとするに笠も取あへずと云々万葉の歌を六帖に誤てより催馬楽も本の出所を考へず六帖により源氏物 語もまた催馬楽によりて文を成しと覚ゆひぢ笠雨といふ物あるべからずと断られしは遉の顕昭也綺語抄俊頼の無名抄童蒙抄共に俄に降る雨をいふと引れたり俄にてひぢを笠にするといふ也袖をかづくといふとあるも詞に付て説をなしたるにて肘を笠といふこと心得ぬ事也赤裸にて行人なりとも肘を笠にはなるべからず袖笠こそことわりなれ凡今の歌よみもいにしへによらず中世已後の説を宗とする人多し顕昭後契沖の復古なかりせば古学は埋れ果なん世の人顕昭の詠歌のなきをあなどり其説に拠ある事を考へず声にのみ吼るはいかにぞや
草庵集
探幽の書はうはべ軽くしてしかも千斤の力有学ぶ人は其力を得ることあたはず只うはべの軽きと形をのみ写すゆへに見るにたらず頓阿の草庵集もまさに然り今草庵集に倣ひて歌をよむ人美しきことは美くしくて力なきもの多し頓阿は然らず思ひ至らぬ隈なく心をめぐらして扨爰をと思ふ骨をやす〳〵と軽くつゞけし物ゆえ味へば限りなき風味出る也正に吾が題を得て思ひ得がたき時に当り此集を見るに誠にかうこそと思ふ常によみ流しては何とも心のとまらぬことにあたりて初て感服せらるゝは其趣意の行届たるゆへ也と蒿蹊申されし
画空言
伊勢国多気国司村親卿の撰多気窓蛍[タケマドノホタル]といふ書の中に昔東の京に俊明といふ絵かき有久我殿めでたきものに思して当家へ送られき北多気の別荘に絵書せけるに安芸守清盛勧請の八幡の社の体詞も及ばず書出しぬ是は度会延直が書たる絵の写なり然るに彼八幡は東向なるに海を後にあてゝ書たれば西向けるやう也いかゞと難じけるにされば絵空ごとゝはかゝるになんすべて絵図と申にはまさまに書ども唯かく事は必引違へたる例也と申せしをかしき哉かゝる世のことに才賢こきをもて此国にとゞまり三十貫の所みそのにてたびぬ故殿の御時の事也と此頃唯生写しといふこと行はるゝは古義にあらざるにや近来大森宗雲といふ人も只画を書がよしされど書がたければ心の及ぶ限り画に近く真に遠ざかるべしと其門人に示しけると也古風を知る人といふべしや
千代能が歌
如大尼と云は夢想国師の弟子にて世に伝ふる「しづのめがいたゞく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらずとよみし人也此初五字或は千代能がとも伝ふ是は如大尼の俗たりし時の名也実は自らがといへり夢想の筆記に出たりとその宗徒かたられぬ是にて穏なり
釈迦の法孫
元亨釈書の著者虎関禅師は其父微官なりしかば小僧の時官家の童子達と群遊ぶのついで其父の微官なるを恥かしめんとて各其系譜をいひて此溝をこゆべしと云り皆大中納言の息なりしかば也虎関心得て大聖釈迦仏の法孫師錬と高らかに呼はりて一番に飛越たれば皆いふことなくて止みしとぞ
味噌臭し
近来黄檗竺庵和尚嵯峨桂州和尚に語りて曰唐山に在し時は平生独参を服用す虚弱の故也しかるに本邦へ来ては味噌汁を喫するが為に独参に及ずと味噌の効を称揚し給ひしと也彼土には味噌なし長崎へ来る唐人が日本人はみそ臭しといふよし又彼地へ漂流せし者居留りて味噌を造り商ひて大に富たりといふ話も聞し也実に珍らしく味も一美なればさもありけんかし
母子の訴へ
京にて銀子三拾貫目持たる者命終る時妻に向ひ我先腹の男子六歳也十五迄は育て十五にならば銀子五百目渡し何国へも商ひに遣はすべし残る銀子は皆その方の侭にせよと遺言して書物を渡しぬ彼子既に十五になる時右の後家銀を五百目子にやり何国へも出よと云子さりとも難儀なる旨所司代へ申上る母と子を呼出し委細にいわせ聞て其町の年寄共に彼親の行跡はとあれば一同に世に越たる律義者又才覚も有公儀の御用を調べ町の重宝にて御座候へと所司代後家に問給ふ其銀子は元の如くありや中々あり扨は汝が夫日本一の思案者なりしぞかし其故は人の親として子に物の惜しからんや女房にとらするといはずば銀子を皆つかひすつべしと工夫の上にて云置たる也然る間後家にとらすると云し三十貫目をば子にやるべし子に遣はすと云ひし五百目をば後家に渡しそれを以て寺参の香花にあてそちは一円子に打かゝり心の侭に馳走せられ安々と世をおくれもし子があしらひあしく気にあはぬ事あらばこちへ知らせよ曲事に行なはんと下知有つれば聞者皆涙を流さぬはなかりき斯て座を立んとするに件の親の従弟たる老人とて書物を一通持て出所司代へ捧て云定めて一度は子と後家と出入あらん事疑なし是を上て申せ後家に云渡したるは始の日付也そちへ書置は日付後也と申せり今仰出さるゝ御下知を謹んで承らん為罷出たり親が存知たりし心底と御批判の趣少しも違はずと手を合せ礼して感じ下りたりとぞ
連歌の一直
連歌の席にて一句云出したるに執筆船が近ひ〳〵と云けるをとくと思案して「船でなし中くりあけた木に乗りてと一直しければ一座顔見合せ笑ひ暫しは堪ざりしとぞ
如是院の米
細川幽斎公の姉御前に宮河殿とかやいふて建仁寺の内如是院といふにおはせし事あり長岡越中守殿より大津にて米を百石参らすよしの文を見たまひて其返事に「御普請の役にもたゝぬ此尼が百の石をばいかでひくべきとありければげに理り也と則車にて送り給ひしとぞ
戸津川の湯
前の宮河殿子息雄長老頭痛の治ると聞戸津川へ湯治し給ひし時音づれとて人をつかはし給ふたよりに「御養生の湯入の心しづかなれやとつかはとして上りたまひぞ
座頭の茶挽
大名の扶持受る座頭有茶を挽せられしが呑で見給へば殊の外あらし大に機嫌そこねしに「あらくとも我とがのをとおぽすなよ茶磨に目なしひき手にもなし
三輪の山もと
泉州堺に山本雅楽とて小皷の上手有幽閑法印政所なりし時能ありかの雅楽を招きそちは三輪をうたれよ三輪の山もとゝあるなればと言下に忝なや殊によみて見ればうたなりと申せしはしほらしく聞へけり
藍染川
旅人在所の者に此河をば何とか云藍染川とこたふさらば是を染てたべとて手拭をさし出す則受取て水に入ひろげ渡す何とも色はつかぬのいや水色にそまり候はと云し
煙草一銭
煙草のひろまりしは色々の書に記して見へたり予が父弱年の頃高麗橋にて唐人の装束したる商人竹のきせるにて一服一銭宛にて人にのませたるよし常に語りぬと八水随筆に見へ又荻原泉阿弥の話に園殿下向の節殿中へ金入のたば粉入もたれしが甚賎しく見へしよし左も有べきか近き頃は大名も更紗抔袋にして持りのまで叶わぬものならば奉書などに包たるが貴人は雅なるべき也
金の台子
勢州阿野侯に金の台子有世に珍宝とす或時此釜の蓋失たり色々詮議すれ共不出不得止事君侯に告奉る然らば別に補へとなり其時細工人を集めて云付しがむくの金にすれば其物入多し銅にて作り金を着する時は格別心安し其段又君侯に申す侯是をゆるさず元の如く無垢にすべし此以後失間敷物にあらず其時金にあらずんば今迄金の器といはれし事偽になる然れば末代什器に瑕を付るものなりと宣ふ群臣感じて千金を出して其器を補ひしと也
妻歒討
北尾貞斎物語にむかし松平伊豆守殿仙台陸奥守殿へ浪人一人御頼にて三百石に呼出されし也此者何ぞ芸術ありやと伊豆守殿へ尋られしに伊豆守殿御答に家柄拙からぬ者にて相応の御用は可成にも相務可申候へども芸は申立候様なる事御座なく候然しながら長く召つかはれ候ても妻歒打の御暇など願候覆やうなる者にては無之候よし仰遣はされし由一段かはりたる御答のよし家中にて沙汰しけるとなり
聖人賢人
天野丈右衛門孟子を講じその上にて門人へ各も随分学問を精出し聖人迄はなりがたき事なれば何卒賢人になられよ予なども此年迄いまだ君子にも至らず併一生には君子迄には至るべし各は弱年の人々なれば出精次第にて賢人にならるべしといはれければ各拝謝して帰りしと也
儒士の孝行
或儒士其母に仕へて孝を尽すと思へ共猶母の意覚束なしいかにおもひ給らんしらまほしとものへ行まねして床下に隠れて伺ひしに婢とゝもに物語らひて今は某は何国迄行つらんけふは一日物堅からず心長閑也といへりしを聞て始て心付是より仕へのやうを改めしと也万につきて此心得有べき事也
亀田窮楽
亀田窮楽は京の鍛冶職也業に倦て是を去り市中の隠者となり書を善くすといへども麁墨麁筆を持てあたり合に書がゆへ嬰児の書習ひの如しされども筆画の自在なる事は云べからず彼書は何れを見ても大方麁紙薄墨なり常に酒を好みて門生謝物を送れば悦びず酒を贈れば大に喜んで是を受る寒暖の服も垢付破れて門生より取賄自今は都て家事を知らず門生の贈れる謝物を封の侭に溜置て際々に上り口へ並べ置掛取共来りて封を切夫々に秤にて掛取帰る米代とてもしか也封銀尽たる跡へ来る人には最早なし重ねては早く来給へと断る商人共皆合点して聊滞る事なし常に門生或はしるべの人来れば手づから酒瓶を携出て冷酒にて饗ず器あるに任せてむさき事類ひなし煙草盆の引出しより埃まぶれの柚子[ユベシ]を出し机上にて自分刻み客へ出す来る人いぶせくも是を肴にして酒を飲或所へ祭に呼れ行店先にて快く酒を酌かはし居けるを乞食門に立て浦山しげに詠め居たり窮楽是を見て我前にある盃をかの乞食にさす乞食いなみ憚りて酒を面桶へ受んとすさにては盃事にあらず此盃にてのむべしと云ば乞食此上はとく盃を戴ひて彼是おさへ抔して余念なし返盃の時乞食盃洗はんとするを止めて其侭それにで自分快く飲で次へ廻す列座の客大にあぐみ困りしとかや斯生涯安々楽しみて終りぬ隠君子といわんも恥ざるべし
西沢文庫皇都午睡二編 中の巻 終
西沢文庫皇都午睡二編 下の巻
目次
一 奢侈の咎
一 木賊苅
一 薪の能
一 堀池権兵衛
一 狐瓜を喰ふ
一 逆木柱
一 佐川田昌俊(苔の清水、筑間祭)
一 一枚起請
一 念仏無間
一 名人と功者
一 故人の句に似
一 松柏の節を顕す
一 良雄の放蕩
一 渡辺庄太夫
一 赤穂順従録
一 芝泉雑記
一 介石記の一話
一 復讐の落首
一 追悼の詩
一 昭君の額
一 義士筐の扇
一 碁打の言
一 渡辺綱の賛
一 九念面壁
一 筆道の論
一 宰予昼寝
一 妓女勝山
一 守武真筆の極
一 香の物
一 比叡の山ぶみ
一 小野の於通
一 座禅に妄想
一 鹿笛
一 松茸山
一 丸山権太左衛門
一 此木戸の錠
一 大廻し三段切
一 松の雪
一 了然禅尼
一 乞食女の歌
一 蛙の声を止む
一 しやの〳〵衣
一 木村重成
一 池上意三
一 金毘羅の神馬
一 応声虫
一 金蘭斎
一 四つ子を産
一 異形の観場
一 十一屋の妻
一 梅心の辞世
一 非人の詠歌
一 五字の題目
一 竪題横題
一 熊沢の和歌
一 曽呂利の狂歌
一 滑稽頓作
一 信綱三仁政
一 井上の詼諧(玉の簪)
一 角觗の句
一 世を覆ふ句
一 我に飽
一 俳席の心得
一 句より心を聞け
一 尊氏の和歌
一 鎌倉の初鰹
一 明慧上人
一 泰時の無欲
一 畠山重忠
一 藤房遁世
西沢文庫皇都午睡二編 下の巻
西沢綺語堂李叟著
奢侈の咎
元禄の頃京に中村某なる者奢侈に過て官の御咎を蒙り捉はれて東へ下る時大津にて宿りたる夜近き山に鹿の鳴をきゝて「寐ながらは是も奢りか鹿の声過奢者の罪を得て懲たる心ばへあはれ也亦其後浪華の巽何某といふ者同じく過奢にて召捕れ東へ趣く道にて「笑ふものわらはれてみよ花の旅といふ句をしたり誠に笑ふもの此まねは及ぶべからねど己が罪を省みざる志大におとれりとある人併せて評せしは理りに覚へしが此巽何某は事果て後京にすみて導引をせしが病人の按腹する間物陰にて妾に箏を弾しむ按腹は心を静めてなすべければといへりとぞ是は唐土にて蘇合楽を吹間に煉る薬を蘇合円といへる故事より思ひよれるよし生涯過奢の意止ざりしとぞ
木賊苅
中興梅若太夫と聞へしは四座の外にはあれど観金に名を争ひ猿楽に精神を加えける名誉なりしが或時信州を領し給ふ侯家にて家督の嘉儀に能有て一門衆家中は申に及ばず領分の民に迄許して見せしめ給ふ其日梅若は木賊刈舞ふべきよし上手の面白き事を舞ふなれば第一の壮観と貴賎息を凝して見物するにいざ〳〵木賊刈ふよと鎌もて其摸様をなす時かの見物のうちより何者やらん下手なる木賊の刈様かなと云て高らかに笑ひぬ席の奉行鳴高しと制し領知方の役人はいとゞけいめいし誰が云しとも知ざりき翌日大守それ〳〵の役人に命ぜられしは昨日能を譏たる事梅若太夫へ対し甚失礼也厳に詮議せば其者も知るべけれど元来下賎の者なれば場所をも弁へぬ也咎を行なはんも家督祝儀の故障なればと定式の謝礼の使者ヘ口上を添へ領分の百姓等旧例にて見物申付候事なれば田舎ものゝ無骨にて失礼の詞奇怪の至に候努々心に留られ候はでと慇懃に演られければ梅若慎んで謝義を拝答し偖かの能を譏り候者は御威光を以て御穿鑿下されさし越給り候様唯今参上の上相願べき存念の処御使者を幸に啓し奉る也と申せしかば使者其旨を復命す大守も止事を得ず下司に命有ければ陳ずる様もなく某郡某村何某と云老百姓と詳に尋出し急ぎ梅若が許へ人を副て送りぬ彼老百性は思慮もなく云出ぬる事殃となりいかなる憂目や見ると色を失ひ胸轟かしぬ頓て太夫出て昨日木賊刈を嘲りしは汝にこそと云に唯恐入て頭を地に付返答もせず太夫大に惘何の恐るゝ事やある我師伝を得て所作をなすといへども未誠の木賊を刈らず下手也と見し事謂有べしいかに刈が上手ぞと問しかば彼者初て心地つき扨も思ひもよらぬ仰事かな我は信濃の民にて名にあふ園原山の麓に生立若きより木賊を刈て業とし侍べるがこたび守の殿の御祝義に召れて御能とやらん拝み奉れども仰の忝きにいかなる事かと見侍れば身に旧く仕馴たる木賊苅の舞になんある扨は心ゆく見物也と見侍りしに木賊刈ふと鎌を右の手に持て左へ〳〵と刈らせらるゝは余りに拙なき御事にこそ尋常の草こそかくはかれ木賊をかく刈ときは皆半より上は裂上て真帆にはかれぬ也鎌を逆手に持て左より右へ掻切やうに刈候こそ木賊の刈やうなれと思ふが何心なく申出し事の恐多さよと猶懇々述ければ梅若大に感じ誠にかの老圃に問へとは此事也一時の師にこそとて酒肴をもてなし物とらせなどし付副し人にも厚謝詞を述て帰しぬ夫よりして渠が家にては二鎌は昔の如く刈後の一鎌を逆手に刈る業を入れるとこそ伝へぬ
薪の能
梅若太夫其後南都薪の能舞に登りて一夕西大寺まで用有まゝ行て帰る道夜に入夕月夜のほのかながらたどり〳〵も其業に心を凝機位を考行先に年いと老たる乞丐姿の杖にすがりてたどり行に頓て追付ぬ梅若歩を静めて跡より従ひ渠が容貌足の運び杖の突さま心をとめて見とめ二三町行しが尼が辻にて渠は南の方へ行んとしければしばしと呼とめ年老て嘸苦しくこそ物とらせんとて印籠の内より方金一顆取出して与へければ婆忝しと手に請しがいやとよ是は返し奉るべし我等が属にてかゝる貴き宝もちては罪うる事に侍る殿にもいかに豊なりとて程もなき事ぞ只一二の鵝目たうべよと云しにいやとよ然らず汝我に於て一時の師なれは其恩を謝する也と云に婆頭を振我殿の師たる事を覚へずと答ふ左にあらば語り聞すべし我は梅若といふ能太夫也今年薪の能に檜垣をつとむる筈にて旦暮其事のみ工夫する所汝が年老屈りて杖つき行さまかの檜垣の老女の能を舞んに感ずる所有汝はしらずとも我に得る事有は師に非や速に謝物を請よと聞へければ婆いよ〳〵頭打振その謝物ならばいよ〳〵請難し殿の猿楽覚束なかれ今婆が有さまにて工夫なしたまひ老女の能の妙は得給ふともさあらば鬼神の能は何を見て其玄微に至りたもふべき其御心よりは何事も枝葉にかゝはりて謡曲の文章に時代違を作り牽強付会の俗説どもを胸わるく思して彼の是のと改めんの計も出来ぬべし迚も是は慰事にて事実に用ゆべき物にも非ず白楽天を唐音にては諷はれぬ物から只家伝の節墨譜を深く修練し世々の舞の手の優なるを慕ひ給ふにはしかざるべし習ひ学べき師伝の書いくらも有べきを置て遠く外を需め給ふべからず歌舞妓物真似する者こそ賎さまを其侭に摸すをもて誉とすなれ貴人高位の慰に成べき為の能なれば卑き乞丐のさまを見写しになさばさこそ見苦しかるべし我はさまこそ賎しけれ心は殿に耻べうも候はずと流るゝ如く述けるに梅若大に閉口し思はず地上に頭を低て良涙を払しが去にても如何なる人ぞと問まほしく仰て見ればいつち行けん姿も見へず失ぬる事こそ不思議なれ
堀池権兵衛
先年或人京寺町を北へ上る時一老人袴をつけ杖を突て先へ行なるさま様体見ごとに寛にして威ある貴人かと思へば随侍の者なしされども平常の人とはかつて思はれずふしぎにも追付て面を見んとせしが下御霊の社地へ入てぬかづくさまいよ〳〵唯ならずさて傍より窺ひ面を挙しを見しが能太夫にて其頃名人の聞へ高き堀池権兵衛にて有しと也塘雨の筆記に観世太夫が切幕をきりて出し所を見しに其気満て一身の固すこしも透間なく容易立向ひがたく思はず声をかけて褒しと柳生但馬守殿仰られしとかけるも同日の談也此伎は体を守り煉る事なれば名誉の人に置ては自然に勇にも見ゆるはさること也茶事を翫ぶ人蹴鞠を弄ぶ人も又気を納め体を固ることゝかや書をよくするも亦然るべきか気より体、体より腕に及ぶべし
狐瓜を食ふ
東都の御瓜畠狐来りて瓜を取喰ひければ吏大に迷惑し吉川惟足に祈りて給はれとたのみしに惟足夫程の事にも及ばじとて何やらん書付て与へられしを其畠に建置しかば其夜よりとらざりしと是は「おのが名の作りを喰ふ狐かなといふ発句なりしとぞ此句は宗祇法師の句なりと以前よみたる書に有けり
逆木柱
京三条縄手の伊勢屋と云元結を商ふ者の家の造作せしより病者多く出きしかば卜者をたのみて筮させしに是は逆木柱の崇也といふ然れども其柱たやすく取かへがたかりしかば祈祷せんやと云あへる時或人吾祝ふべしとて「伊勢屋とは元ゆい一の家なればさかき柱も何か苦しきといへりしに不思議と是よりことなくなりしとぞ商売の元結に榊まで取合せしは面白し
塘雨云逆木柱といふことは元来巫祝のいふことにて新に家造する時など木を逆につかふことはかつてなし古家の建直しに本末の知れがたき木あれば世に安部晴明の判といふ五行
かく木に書て用る法也是本末始終なきよしの咒術也と古き工匠の説とかや
佐川田昌俊(苔の清水、筑間祭)
城州淀の城士佐川田昌俊は和歌の癖有て常に近衛三貌院殿を慕ひ奉り公も渠が風流を憐み玉ふ或時昌俊土産の一尾を奉るとて「折よくはまいらせたまへ二つ文字牛の角もじ奉る也とよみて添たれば公より魚の名のそれにはあらで翌のひるちと二つもじ牛の角文字と御返し給りけるも並々ならぬ御顧なるべし一年待花の題にて「芳野山花さく頃の朝な〳〵心にかゝる峯の白雲とよみしは古に耻ざる秀逸也とて口々に誦し筆ごとに写し洛陽是が為に紙の価を貴くすると云計也高く雲の上迄聞え叡感有て辱くも宸筆に其歌を扇の端に遊ばされたるを更衣達に給りしが淀の城主に縁有し女官の申請て送られたるを城主も悦び畏り給ひ昌俊を呼出てかゝる冥加なる事の侍れば汝が家の宝にせよとて賜りぬるを昌俊頂戴して涙を流し言語をもて申べき限りにあらずと頓て其席を退きしが私宅にも帰らず出行てその跡を闇しぬ城主をはじめ職々の役者親類知音に至る迄野山を分て索しかども終に在家をしらず和歌に執せるものなれば功成名遂て退の本意にて遁世ばしせし物なるべきと是に付ても風雅の名近国に響て賞歎せしとぞ聞へし此遙に後或僧吉野の山踏せんと六田山口より分登り発心門をばいつしか跡に見なし御船山蔵王堂を拝し猿の尾鷲の尾の名も珍らしく椿山躑躅の岡の時に逢たる所々も見廻りぬ彼円位上人の汲給ひし苔清水は是にやなど尋る傍にかたちばかり結びたる草の庵ありしばし疲をも休めんと立寄れは主は七旬ばかりの老翁の頭は花の雪を欺きたるが出合てこなたへと呼入ぬ浮世に遠き此山の奥と云殊に此清水の下に住給ふ御心のうちさこそ濁なき事と感じければいやとよさにも侍らね共草木は人のさがをいはねばと住つきぬる也など何くれと語りあひ春ながら山は寒しと詠しに違はずと真柴折くべて共に手さし伸て心置なき桑門同士の草鞋のまゝながら此山の昔物語に哀多く花に名高き事共云人麿が目に雪と見し古より代々の言葉の花さへ数々なる近年佐川田某が朝な〳〵なん花の色香を増ぬるよし都鄙もてはやし侍りしが客僧には何とか思ひ給ふらん此歌は定家卿の小倉山しぐるゝ頃の朝な〳〵を花によみ替たるに非や尤歌の等類とならぬとは都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散しく白河の関と頼政卿の詠るは能因が霞とともに立出でとよみし等類に非るよし俊恵法師も肯ひ歌合の判者も其沙汰なくて勝に成けるとかや佐川田氏の歌も心にかゝる峯の白雲とよめるわたり全く等類はまぬがれたるとは見へ侍れど古人の糟粕を免れざるべし然るに近世豪傑の歌人なく唯範摹にたがへずよみ出るを専要とし殊に定家卿をもて古今独歩の先達と尊信するより彼時雨るゝ頃の歌の体を摹せるを咸く感じて歌主の気骨を賞美せず剰天聴に達して叡感の上はかけても譏べき事に非ざれども和泉式部がくらきより闇き道にぞ入ぬべしとよみしは巧なれども経文の詞を其侭につゞけたれば企も及ぶべしひまこそなけれ芦の八重ぶきとよみしこそ尽く腹心よりよみ出たれば遙に増るべからむと古人は評し侍りぬれ是しかしながら歌道の衰微にして我人歎くべき事なるを是を事とし給ふ人々の軽忽にし給ふのみならず只和歌の事は堂上の家にあらざれば玄微に至りがたしと傲給ひ地下を賎んずる事は何ぞや夫堂上地下とは其もと職掌に依てわかるゝ所也中古以前百官その実ある世には其職殿上に侍すべき侍従内記などは高官に非れども必昇殿式部以下七省卿の如きは高官といへども故有て免されざれば昇殿せず昇るもの貴にあらず昇らざるもの必しも卑に非ず譬ば当時武家の奥向の役人との差別の如きのみ然るに末世に至つて昇殿せる人の子は追々昇殿す是を堂上の家とし昇殿せざる人の子はいつ迄も昇殿せずして是を地下の家とし其堂上より地下をみる事我臣僕の如くするより和歌の風も賎んずる事人丸赤人を何者と思ひ躬恒忠岑が官をしらざるや又和歌は上品なる芸ゆへ無位無官の人の野卑なる肺肝よりは出がたしといはゞ花に鳴鴬水にすむ蛙の声をきけばいきとしいけるものいづれか歌をよまざりけると書る貫之が詞も妄語なるべし翁が甞て思ふは佐川田氏かの吉野山の歌骨髄の詠には非るべし然るに叡感をかたじけなふして是に隋ひ奉れば道の衰を顕わすそれをことわらんとすれば勅に背く爰を思ひ歎て国に跡をくらませしものならんと語るうち鐘の御嶽のならん入相の声聞ゆるに驚て又こそと契りて帰りぬ後都にて人にかたるに佐川田昌俊こそ吉野の奥に庵結びて住と人の云なれもし自ら余所事のやうに語出たる身の上にやありけん其後尋ねんよすがなくて絶ぬる事こそ遺恨なれと聞へしも又人伝のものがたり也鳥酔の曰俳諧の付句は次の句主の為によきやうに心がくべしたとはゞ鞠のあしらい成べし猶さしあひ去嫌の多き物ありかの近江の筑間祭などいふ季は夏にして神祇也恋也名所也地名也句に依ては人倫俤などのさしあひ有むざと遣ふまじき季也と申されしは尤なる事也
一枚起請
書林何某煩らひて心地死すべく覚しに菩提所の和尚を請じ末期の安心を進むるあらましにて懇ろに後生の大事を述られけり何某むつかしき男にて有ければおもき枕をあげ様々のおしめし有難く存候也ひとつ御尋ね申度事の候は皆死候跡にて野送りの節御引導と申事有定て能所へ参る事を御教下さるゝ事にて候半んが折角仰聞られても其時は息たへ耳もなし生たる人のみ承り候あわれお情には只今仰下されたしと願ふ和尚すつくとたちて仏前にありける法然上人の一枚起請をとりよみ聞せ是有難き所へゆく道中記也と申さる病人大に悟り扨々結構なる道中記にてこそ候へ有難し〳〵と息の限り念仏し往生をとげゝるこそ是書林に対して題のうごかぬ所なるべし
念仏無間
河州の家中望月与市郎は代々日蓮宗にて殊に母は堅固の信者也江戸谷中に帰依の上人より末期におよび候時決定往生の一句伝へ申べしと常に云れしゆへ臨終の時上人を招きければ上人の曰それ一句といふは念仏を真実心に申たまへ大切の念仏を浄土宗は疎略に申ゆへ念仏無間とはいふ也決定して申せば往生は疑ひなしとすゝめられし時病人子息をよび我此年まで日蓮宗のつとめを誠と思ひし悔しさよ今既に死門に望んで俄に弥陀如来をたのむとも何条御恵あらん自らこそかくはありとも汝らは早く浄土宗になれ上人も今はいらず疾帰り給へ情なくたぶらかされし悲しさよとさん〴〵に云れて早々帰りし跡にて深川霊巌寺の和尚を招待しければ一念十念仏来迎の御勧化にて一向に念仏し正念に往生を遂られしと也与市郎早速宗旨を改侍りければ河州にて傍輩八人ともに浄智寺といふ浄土宗の旦那となりしと也
名人と功者
良能曰初心の修行はいかにも無分別につよきと思ふ程の句をする人上手名人の場へも至るべし初からおとなしく姿情調ひ侍る人は功者と云中途にて終るべしと細川公の耳底記にもしるさせ給へり都ての芸能みなかく有べし
故人の句に似
旧国曰発句を案ずるに心にうかび我に珍らしく認見るに思はず故人の趣向におなじ様なる句の出る物也是兼て聞感じ心裏にのこれる者か又は案其境に行合ふ物か故人の句に髣彿たる有皆好の道よりいづる物にして初心悪功の入たる人の他の趣向を盗みて一二字を入かゆる事などゝは混ずべからずとは古雪中庵の詞にて我近頃「後してや月の面も瘐女〔八重が句に似たり〕「飯蛸や朝紫のほとしほり〔巴人の句に似たり〕「水鳥の頭並べて旭かな〔布舟が句なり〕猶去秋句「ぼた餅や小豆のかたに秋の風と案じて我もおかしく人も珍らしと申ぬ其後ふと江戸の春来が東風流といへる集中に付合の句「ぼたもちはあづきのかたに秋の風と有しに驚句帳を脱したり故人の句に作者の違へるもまゝあり斯様の事にや有けむかし然れども常々に俳書を見て人の句をひらふ者と故人今人の句に同案の句をなすものとは一概に心得べからず人こそしるらめ我句の事を云にはあらず世情のあらまし述るもの也
松柏の節を顕す
ある人日赤穂の政務は大野氏上席にして時を得て万をはからひし程に民其聚歛に堪ず然るに事起りて城を除せらるゝに及びしかば民大に喜び餅など搗て賑はひしに大石氏出て事を謀り近来不時に借とられし金銀など皆それ〳〵に返弁せられしかば大に驚きて此城中に斯様なはからひする人もありしにやと面を改めしとかや是迄大石氏は一向用ひられず一とせの間には六七度もさしひかへなどの罪を蒙りしと也凡世に人なきにはあらず用ひる人なければ千里の駿馬も櫪に伏て終るを大石氏は雪霜の艱にあひて松柏の節を顕はせる成べし
良雄の放蕩
良雄在京中の所行は人皆爪弾をする計にて或智ある人も復讐の後すら評して彼は余りに人に誹謗せられて其言訳に事を発せし也とさへ言ひしと也かく計ならずは敵方に油断すべしや誚りによりてます〳〵其謀の深かりしを感ず又或人云山鹿甚五左衛門久治官の疑ひを蒙る事ありて赤穂に蟄してありしかば良雄是に付て儒学軍学をも学びしと也さもあらんかし
渡辺庄太夫
良雄或日伏見撞木町遊所にて酩酊に及び帰りがけ箱屋町の溝の端にて醉倒れ前後もしらず打臥たり此日細川越中侯の家中に渡辺庄太夫と云人主人越中侯公退に依て伏見の駅に御着の旨を京都所司代へ御届の為参られ帰るさ夜に入二更の頃此箱屋町を通られかの良雄を見られしに人体よき者ながら町中に打転がり傍[アタリ]も其身も反吐だらけとなり前後もしらず打臥たるに惘果詠居たるに饂飩屋来しゆへいかなる者ぞと問ふにうどん売答て此侍は山科の御隠居にて撞木町の御帰りと見へ候則内蔵之助殿と申庄太夫良雄が面へ唾吐かけて云其方事は赤穂の執権職として大録を戴き乍主人の生害剰へ我国断絶に及ぶ事いかゞ心得おるや此方事は細川家にて渡辺庄太夫六百石頂戴し数ならぬ小身者といへども恩義に置ては片時も忘るゝ事なし夫に何ぞや復讐の心もなくかく放蕩に遊所にふけり乱酒酩酊に及び大道に打臥居る事言語同断の人畜と詈り〳〵帰りぬ扨同年十二月十四日赤穂の義士良雄を始四十六士吉良の舘へ打入本望遂し後右の四十六士を四家の大名へお預ケ仰付られ中にも細川家は大家たるに依て内蔵之助を始十七人お預也則姓名の書付を御老中より渡さる越中侯畏り早々下城有て家来中召集られ甚もつて御称談有て後用人渡辺庄太夫に仰付らるゝは此度預る所の義士は実に忠臣の鏡たる勇士なれば我家の面目也去によつて其方受取に参り候はゞ表向は格別受取候はゞ随分大切に敬ひ麁略有べからずと呉々仰付られ姓名書を渡さる依て庄太夫是を請取披見するにその筆頭は大石内蔵之助と有庄太夫はつと吐息つきながら畏り奉り次へ立しが其侭屋敷へ立帰り切腹して相果しと也評に曰渡辺切腹の事主人の禄を戴きながら主人の用にも立ずして相果る事如何也と答て曰細川は代々の名家なれば渡辺氏などは九牛が一毛にてとにかく主家の名を穢すまじとの為也と云々内蔵之助は腰より下の短かき人にて祇園の社下河原辺毎度通られし時赤穂の家老〳〵と人皆ゆびさして笑ひしと也
赤穂順従録
右良雄復讐の書は数書有て渡辺の一事は遠幽雑記にて見る所也予東都にて茅場町薬師の当主より古き画巻の写しをかり一見せし事有復讐のせつ芝表へ引とりの図菱川師宣とか英一蝶とかの書しを写せし物と見へ至て古風なる物にて有し所々破れたる所もありし亦赤穂順従録とて廿五巻の写本細川家にての聞書をよせし物とて見しが内侍所四十巻とは余程珍らしき事有て萱野三平は大津にて切腹し主税切腹の刻限薄暮に至つて死骸を改めず葬りと云など他の書に見及ばぬ所也
芝泉雑記
亦芝泉雑記と外題せる合巻の古写本一冊花笠文京持来りて見しに泉岳寺の当主隣寺の住持と碁を囲み居し所へ復讐引とり住持驚きて用に立ず碁の朋友左仲〔姓氏忘れ覚へず〕といへる浪人と隣寺〔是も名忘れたり〕の住持との計らひにて寺中へ引とり門をかためて粥を焚て饗すなど有跡は其席にて左仲が手柄働の次第を聞書にせし物なり其文甚麁にしていかにも聞書と思はるゝ所もまゝ有けり
介石記の一話
亦一書介石記といへる五冊の写本を見たり此中を読うち思わず涙を落したる一話を爰に出す暗記なれば委細を云ず良雄始十七人の者細川侯に預られし其もてなし甚厳重にして朝飯後風呂に入れ肌の帯手拭は毎日十七宛出る湯より上れば昼飯其後酒始り日々料理山海の珍味を賜る碁盤将棊盤など出て近習同朋相手に出詩歌連俳などに楽しむ輩には料紙硯など結搆なるを出す良雄深く辞して何にまれ望の物は銘々乞ふ時に賜り余計の費は達て辞退に及ぶ程なく其年も暮て大晦日の夜に至る夜陰に至つて除夜の湯もすめばやがて広蓋に上着下着繻白絆紋付の上下足袋まで揃へて十七人の銘々に出し一陽来復の時なれば目出度新年を迎ふる様大守より此品を出さるゝ各々新に着かへ候へと有時良雄太守の厚き情を感じ是を辞せず近習に問て曰太守は今どの間に御座有て我々が間よりどの方角に当り候ぞや近習答て今宵は彼所に御座あれば此方角としめす良雄椽先に出て手水に清め太守の方にひれふして広蓋を捧げ厚く礼をのぶる事太守に向ふて云が如し是を見て十六人の輩いち〳〵手水に手を清め良雄のなせる如く一礼をのべ静に新衣を着かへて春を迎ふる所をよみて嗚呼誠の義士なるかなと思わず両眼に涙浮みて暫く止ず是其実情に感じ落涙せしなり何事のおわしますかわと円位法師の伊勢宮に詣て感涙せしも皆是情に感じて詠る也此書に文も飾らず有のまゝにしるせるを読に涙を催すは情に通ずるゆへ也かへす〴〵も此一話は年月立ても忘れず又もや涙を催しながら爰に出す事しかり
復讎の落首
浅野遺臣本所の屋舗へ討入しは元禄十五年極月十四日の夜也十五日の朝本意を達し芝泉岳寺へ引取けるが御公儀にても十五十六十七日は御清なれば言上もなかりつるが十八日に聞しめされて筋目よくいひ付よとの上意なりしとかや武家はいふに及ばず寺院在家ともおしなべて吉良殿の好みある者迄も扨々気味よき事しけるぞや誠に武士の為によき気付など思ひ〳〵の評議評定此人の行すへかくこそあらまほしけれと唇をかへさぬはなかりけり落首「あいたいといふと其侭取にけりを取上なき巳の年の首午の年の春の仰出しに金銀の公事沙汰去る巳の年迄の事は御取上なきまゝ相対してとるべしと有ければ夫によそへけり又「憚りておきに甲斐ある大石は細川水のとまりなるらん句のうちに隠岐甲斐細川水野をよみ入て御預けの大名衆へ下さるゝ事もありなんとかや誠に心ふかし又八景に作りて少将の夜の頚佐平の落涙遠方の批判泉岳寺の番僧など口ずさみ或は本所実盛と題して謡其外さま〴〵口にまかせし狂句ども陌に喧くして皆おかしけれど事繁ければ爰にもらしつ翌年二月四日切腹仰付られ追善の詩歌数多の中
追悼の詩
儒林林家某氏去歳季冬故少府監赤穂城主浅野長矩旧臣大石内蔵之助等四十六人異体同志報讐趨義今茲仲春初四日官裁不令各処死刑其志雖遂其性不全天乎命乎将時運乎難堪哀情収涙而作
関門突入蔑荊卿 易水風寒壮士情
炭唖形衰追予譲 薤歌涙滴挽田横
精誠貫日死何悔 義気抜山生太軽
四十六人斉伏刄 上天無意佐忠貞
亦句頭に大石良雄忠節名士といふ八字を冠案して四十六人の義臣等を追悼す叢林沙門亡名
大事一謀如響応 石堅盟会烈夫心
良籌運帳勝千里 雄力抜山擲万尋
忠仰君恩曽撫剣 節臨自殺也弾琴
名碑洲六何当杇 士女口伝遺恨深
号を句頭に冠案して浅野遺臣等を挽する韻をつぐ
大勲煌々新臣道 石針豈刺鉄石心
良譲在懐為殿最 雄雌鳴画勇追尋
忠宣伏剣不顧己 節応辞明預破琴
名翼四飛無処隠 士材尽奥又窮深
此義臣等先君におくれしより此かた野に明し武府に集り故郷に散じ心をつくし身を砕きし百千の謀いひもつきじ
昭君の額
大石良雄は都山科の辺に蟄居して「ものゝふのうきみのはての置所されどもてらす秋の夜の月など詠ぜしも日数へて冬も半の頃次男大三郎が八才許なるを伴ひて洛中の寺社など見廻り今宵は紫野のあたりに知人侍れば宿してなど思へば心閑に申の刻過る頃北野に至り神前に額突扨絵馬堂に彳て佐々木梶原が川渡し時致義秀が草摺引など指さして大三郎に見せしめ古への兵はかくこそ勇て世に名を知らるゝなど教へ聞へけるに黙頭てかたへの絵馬を指さしあの唐の女の琵琶を抱きて馬に乗り泣しめるはいかなる人ぞと問しかば是は唐土の王昭君と云し美人なりといへばそれは何ゆへかく馬にのり泣ながら何国へ行と問まゝに是は昔漢の帝へ単于といふ国の王使を遣して帝には三千の后を具し給ふよし其内を一人給らば好を結び長く貢を奉り命に背くまじと申せしに彼国は兵強き所なれば其詞仇とならば天下の乱となるべきまゝ頓て夫に事極りぬ扨三千の后の内つど〳〵帝も見覚へ給わず何れを何れと撰びがたければ画工に仰て各その顔容を書写させ中に就て醜からんを彼国へ遣わされんとの詔なりければ是を聞て後宮の后達我も〳〵と彼画工に贈物して賄賂ける中に昭君といへるは容貌衆に勝れたりければ虎を画て狗に類する筆にても劣るべきならねば其姿を憑て賄賂をおくらざりしに人の心は昔も今も変らず黄金多からざれば交り深からぬ習ひにて昭君が顔ばせをいと醜く書写せり帝其絵どもを御覧ずるに論ずるにも及ばず昭君に極りぬかくて帝昭君を召て見給ふに国色勝れたりしかば取替んと思しかど信を外国に失わん事を慎み給ひ終に昭君を彼国につかわされけりと也昭君はもとより琵琶の妙手なりしかば都の裏に抱き行馬上にも調べける其楽を王昭君と号て今聞人まで涙を流す事となれりされば詩にも昭君若贈黄金賂定是終身奉君王と作れりと語る時後の方に嗄びたる声して口惜き詩の誦しやうかなといふて過るをいかなる人かと■れば老たる宮法師の御灯の油をさして本社の方へ行にぞ有けるいといぶかしく昔或人此社へ詣でゝ東行南行雲渺々二月三月日遅々たりと誦せしかば内陣より妙なる御声してとさまにゆきかうさまにゆき雲はる〳〵如月弥生日うら〳〵とこそ吟ずべきにと宣ひしとぞ若や其たぐひに神の告玉へるにやと心にかゝれば徐に行て本社に至り宮守る僧の宿直所をさし覗けば夕暮近く参詣も絶へ外の宮司なども帰りてかの老法師のみ桐火桶まさぐりゐたるに幸と立寄て爰なる童のいとふ労れ侍る暫くいこはせ給へといへば易き事とて茶などあたへらるゝも嬉しく此御社の尊きありさまなどいひて扨今昭君の詩を吟ぜしを御僧の聞咎め給へるいと心にくし誠に朗詠集は古は音楽に合せて諷ひ今も猶雲の上には郢曲の遊びもおはしますよし我等などは田舎にて唯仮名の本よみ習へる事なれぼ都の人の御耳に左こそおかしと思しめしけんさるにても深き習ひは遙なることなれ今の詩はいかによめるがよき事に侍ると問へば思わずなる事聞咎させ給ふて汗漿の至りにこそ侍れ我等こそ猶遠き田舎の生れにて侍れば梁塵の雅声などは夢にだに聞侍らず只道理をもて案ずるにいさゝかの手にはにても事の意大に違ひて題の趣も作者の意もかくれ侍らん愚が思ひ侍るには昭君が画図に写されし時外の宮女の中にも昭君に劣らぬ美人いか計か有けんに今其名をだに知る人なし昭君独千歳に哀を残し辺風吹断秋心緒隴水流添夜涙行ありさまを今更見る心地して顔かたちのみか心のうちの正しく美かりし事誠に天下の美人といふべし譬ひ外に劣らぬ貌ありとてもかの黄金を贈りし心の醜さはいかで愛するに足べきや諺にも人は一代名は末代といへる如く利欲を離て名望を思はんにはしかじされば江相公も其心を含めて昭君もし黄金の賂を贈りなば定て是身を終るまで君王に奉るのみならんと作り賂を贈らねばこそかく末代に美名をのこしつれとの意を含ませて昭君が潔白を賛し給へるなるを足下の吟じ給ふやうにては昭君が清潔を過てるやうに心得給ふやうに侍れば不図難じ侍るなり凡今の代に仕ふる人を見侍るに其心得違あるも少なからず我才覚の及ばざる事はしらで天下の大官に昇らん事を好み彼方此方の画工をたのみて美しく彩色公卿の門に伺侯し形勢の途に奔走して僥倖に勢ひを得て武夫前に呵し従者途に塞がるをもて賢しめでたしと思へども道の心より見れば晏子が御者の顔付の浅猿く見をとりすれ桀紂は天下に王たれども人是を悪み夷斉は首陽に餓たれども人是を好[ヨミ]んず清盛の栄花ならんよりは正成が薄命なるぞ羨しき僧の利の為に法を説を売僧と云て卑しめ士の利の為に仕るを商奉公と云て譏る名利ふたつながら忘れてこそ道に近づくともいふべけれ至人は名もなく徳もなし猶可不可一条の道を得ば何ぞ是らを論ずるの労を待んやと云しに良雄内に思ひある身にしあれば其心に貶する如く覚へて涙袖にせきあへず感じいたりしがかくて夕梵近く響くに驚きて暇乞して出ぬ余りになつかしく貴さに重ねて尋侍りしかば其僧はいづち行けんしる人なしとかや
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義士筐の扇
昔義士有其妻の持たる扇とて骨をとり掛物にして秘蔵せしを見侍るに夫の手跡にて「つゝめども絶へぬ思ひになりにけり問ず語りのせまほしきかな其頃の日々かくも有べき事切なる心を感じ侍ると半時庵淡淡は述けり
碁打の言
碁を得たる人云碁は三つ置せて打にはいかやうに術を尽しても三百番の外なし二つ置ては六千番有先互先は数つもりがたし方量なし四つからは不論の事也と云し人有又碁聖の云如此の論はなき事也無下の事ども也とも申されし
渡辺綱の賛
又淡々が頼光綱にむかひ金札を渡す絵の賛に「綱立て綱が噂の雨夜かなとは晋子春雨の句也此絵はいまだ三条大宮へ打出ざる俤「島原へ寄なと笑ふ山かづら頼光ホヽ咲[ヱム]
九念面壁
爰に哀れをとゞめしは達磨大師にておわします九年面壁とて尊者名僧和漢相とも背けたる像を念じける愚案〔淡々〕大悟の祖九年の間壁にむかひて尻を腐らし悟りたるは至て不器用也思ふに九念面壁ならん三念一念即情頓話禅一二三と念じて二念にもとるは桑華の恒情なり教の要主也一機九念にして向ふ所は壁にても窓にても岩にても栢樹にても海も山も吹風も其時の心の的也されば二祖の的を得て数年嗜みたる箭を放されたり又芦葉の像とて芦の葉に乗たる達磨目痛き物色柳葉芦葉孤舟の一名也川上の観念誠に見性成仏異国の虚名ならん沢庵も芦葉の讃に至所信難しとは尊者の心裏をよく識りたるならん古賢禅師海印光にも達磨を責けり有難き事也
筆道の論
蒼頡に文字を教へたる鶏今飛来らば一字も読事あたはず別れの邪魔をして飛去るべし手跡も先祖は悪筆也追々手練の文字細工積り〳〵て風情日に増より和漢相とも筆の自由を感じ墨色を称じて其道に日を空しくせる者は眉を顰めて能書と呼也風雅の思ひ深からぬ人の手跡は額にも掛物にもつきなき物也自慢をいひ散らして聞苦しく浅まし因以謝肇衛画は書べしなどいへり清輔も其趣兼好も手など拙なからずはしり書とこそ書弄びたりといへば傍人云半時庵無筆同前の事にて筆道話し無用の事と笑ふ予云非也雲渓先生は能書の名有人なりしが予が書たる物を見て今天下の名筆は淡々也文字一行の俤誰か及ばんそのうへ一字々々を離見れば少も文字の道理なしもとより学ばざるものかくも有べし謝肇衛是を見ば其悦ぶべしと大笑ひ有けり長夜腹淋しく厨飯ありやと問ふ僕云有り何ぞ菜有るかと問ふ有と云何ぞと問ふ九年母三つ有と云此者鶏にだもおとれりと又大笑
宰予昼寝
宰予昼寝子曰朽木不可雕也【下略】よしや昼寝たればとてさほどに呵り散したもふはいかゞと若学者の顔赤めて云席に居合せとかく日本の道理に通じて我国の事よく〳〵学び給へ詰る所源氏のてにをはを能呑込候へば皆わかる成べし宰予昼いねたり〳〵〳〵と日々の事に読くだけば夫子の不機嫌皆わかりてあきらか也末摘花の発端に夕がほの事を書出して思へども猶あかざりしとはとかくあかざりし〳〵と何遍もくり返してよむ心也猶の字心をとむべし我国の事を埒明ずして遠き国ばかり尊み教るもいかゞの事ながら是又人の国を人々領するが如し源氏は金瓶梅の如しとは一円に源氏の道理分明ならざる也「やを万神も哀れと思ふらんをかせるつみのそれとなければ須磨の巻源氏の歌也此歌にて此物語の大切なる事は明らか也推ては日本の事は中々済かね候物也又韓退之云宰予昼寝奢侈を憎むの語ならん晝と畫と混雑の事か
妓女勝山
昔武陽に勝山と云妓有万人肝を縮め朱唇を窺ふもとより黄金用尽せども心を撓めず酒家の一夫に生涯いふ侭にしたがひ傅く或時夫狐にか仏にか誘われて逐電しけり乱るゝ髪も袖も袂も歯に咬歯に裂みちのくの方にやあらんと茨に身をさかれてよふ〳〵「秋風もはや吹絶て冬の夜の霜ぞ寒けきしら川の関とよみてもとゞり切払ひ山林深く入けるに忍の里人かた〴〵思ひとりて頻りに招じければ「来て帰る道しなければ山里に墨染衣いく代ふるとも又「糸竹の昔を今に引かへて嵐のみ聞く深山辺の里歌の風情はとにもかくにも真の心葉を重ねたるきやうさくうへならんと感ずべし
守武真筆の極
守武真筆の奥書六波羅密寺の辺りに与治兵衛といふ聾有常に古人の筆の癖を覚へ世に埋るゝ古人の誉をあらわす事間に髪を入ず人以て老を称ず守武の小色紙に句々書ならべたるを愛して宝ともてなす予是を望めば春宵一刻々々と笑ふ時有て今角倉の文庫にとゞまり正木のかづら俳諧の道の守たけき武士の心も和らぐべき一物なりけりと半時庵誌之
香の物
から漬と物を贈りたる人のもとへ淡々の送る文のうつしからの物といふ事いかなる名ぞと世に稀に論じける事有あら〳〵ならす或は糠に漬る物ゆへ糠の物と云又は大根を持て神に供すによつて神の物とこそ神々と云訓をかりたる成べしと皆たがへり禁中台盤所へ女房の局よりおかうを参らせよと呼時味噌を調じ侍る事上古今更也みそに漬たるをかうのものと云也香の字を下す事文字を用るの余情香はすべて清浄の心なるべし薫風あながち南より匂ひ来る事なけれども此類皆以て雅の要とする所ならん其かうに漬たるにあらで糖に塩を加へて大根を漬て家々民ぐさの朝夕の事とはなりぬ其中に群を出たる物あり称してから漬と云西域にあらずもろこしにあらずいかなるからぞ世のさまかゞやき栄して調度の俤真菜野菜も到て風情のこまやかなりけり頻の日歌月と云人よりかうの物を得たり其味いひがたし若此蘿蔔は筑紫何某の押領使が朝々好みたる土おほねにやあらんかしさあらば夜盗の来りけるともおぢおのゝく事もあらじや日をそへて乾けるは此うへの歎きなるべし
比叡の山ぶみ
春日空しからざるは皇都の人の心かりけり二人連にて叡山へ参る者蹴上の知昔の者の方へ立寄けふは大師へ詣候又帰りに立よるべしと云捨去りけるが暮過帰りに彼所へ一人立寄二人は跡におくれたり扨々今日は益もなき事に山坂をかけり候先は用意の割子もいつしか高観音にてたべ切湖の風こそ生臭く胸悪く叡山へ登り暮兼々必といひ約束の捨坊主が所へ行着けるに甚腹淋しく何成ともあたへられよといひければ菜飯に田楽こそし侍りけれと同宿米を洗ひ一人の男は豆腐を厚く薄く長く四角におかしき物にきりちや〳〵くりて焼ぬも焼たるも山折敷に打入強く荒々敷菜の切たるめしをむくつけなる鉢へ入て突出し生木の枝を折て箸にしていざ〳〵心まかせにまいれとて何やら名もしれぬ草々を引て醤油打かけ出してきよろりとして住持は仏と打つぶやき侍る扨々懲果候叡山殿かな跡より連が立寄候はゞさきへ立帰り腹を早くなをすとて飛で帰りしとお申たべと云ちらし立帰りける跡へ一人の男立寄けふは近年の楽しみ覚たる事あらば歌にてもよみたき事ばかり拙き身をこそ自ら慙候へ常々大津へ掛取に往来の時は左右の山も心にとゞめず木草も目にわたり候わず今日叡山参りと改て出立より常にむさく嗅く息どしかりし車牛の響も昔めき崩れかゝりし軒端のかづら山の霞伊勢戻りの一ふし耳にとゞまり俄に走井の水鏡心はづかしさ頻りにまして独打笑高観音にこりめしとり出し湖の春風空と水と一つになりて吹こす花の匂ひイヤハヤしばらく貴人の心になりぬ大師の御恵み先覚へ侍りて扨叡山に上り約せしお寺へ立寄ければ何の待もふけもあらずあら〳〵しき菜飯に不加減の田楽春草の芽のある限りひたし物にして強も進めもするにはあらでお住持は香盤の烟り絶さじと御仏につかへ申給ふ世に離れたる趣き給物の不加減却て世間寺の重味馳走には増て殊勝さいはんかたなし誠に王城の守護山と承り伝へ候にたがひなし有難く覚候又々暇あらば遠からず登山致たしさらば〳〵と云捨出けるとぞ両人の風雅のあるとなきとの違ひめ是非の論なき事也何芸に付ても上手下手の心的意箭各々斯の如し予例の老のひがみの心出来て両度芳野の花へは参りしかども馬上にて坂を登りたしと思ひたちて六田よりいかにも痩たる馬を借りて行李のもの引つけ見おろし見あげ恙なく蔵王堂に至り「芳野山世界の花は飲くらひと真実の風情世人を罵詈して下りぬ其後老友の方に一夜咄し侍る折ふし人々見し所の風色を語り出て吾もよし野の趣申出れば俳諧の詞宗といふ者其席に有て某も初て去年の春罷りけるもとより花はおもしろけれども茶屋もなく喰物もなく扨々不自由也と真顔にて申出けり此人叡山にも料理茶やあれかしとおもわるべし依て発句は申出さずなりにきと淡々の風話なりけらし
小野の於通
喜藤太といへる絹布商人有其頃小野のお通に仕へしちよといへる有於通は此時美濃につかへて渠は京より召具したる者にて粧よろし筆のさま拙なからず猶藤太を思ひぬ武門の厳しく目かちなるにつけて「浦山し人目なき野の蟋蟀[キリ〴〵ス]なくも心のまゝならぬ身とは詠けるを聞て於通便なく思ひ女に合せければたやすからず悦び洛外におかしく往けるが不幸の男にてとにつけ貧しくかくにつけ乏しかりければ常に夫婦の口たたかひのつのりて離別せんなど罵りけることのお通に聞へければ猶憂を知りて便をして稲の上五つ永楽一貫取添へちよが方へ章こまかに認めたる歌「とにかくに折ふしごとのたがひめをうらぶる中ぞ契りなりけると世のたすけより人の心の和らぐならひなれば又ことなく業にとり付続きしに其秋を過さず藤太は身まかりて女はいたく歎果して物狂ひとなり極めて五条の橋の辺にさまよひ月のある夜あらぬ夜もかの文を見ながら髪もさばき恐しげにしてうらぶる中ぞ契りなりけるとよみて泣入けるを文ひろげのちよとぞ呼わたりぬいつしか終る所知る人なし
座禅に妄想
六如上人曰座禅看経など心を静めんとする時かへつてさま〴〵の妄想思慮うかぶもの也是は即一分の散乱麁動の心しづまるによりて也と日の明らかにさす所に塵埃のたつが見ゆるにたとふべし常にも塵埃はたてども見へぬ也日の光をまちてことさらにたつにはあらずと閑田子は云り
鹿笛
近江八幡に佃房といへる俳諧師鹿笛をもてり形
かくの如し惣体木にて造る底は皮にて張黒漆にて塗れり吹時は左右の中指にて此底をしごくやうにすれば自由に音を出す是は信楽の猟師幸助と云者の与へしといへり此幸助此笛を吹事上手にて妻鹿の音を吹ば真にせまりて寄来らざる鹿稀也されども若思ふがごとく寄来らざる時は子鹿の音を吹には必よると語れりとぞ悲しむべし其態によりて親しく其情はしれども憐む事をしらず百舌鳥が衆鳥の声をまねびて其友かと思はせて執喰ふたぐひ成べし
松茸山
今の世松茸を守とて厳しく鉄砲を打猪鹿をおどしうち殺しもすもとより田の稲をあらすは追はでは叶わずされば猪鹿田に下りては追れ山に入ては追れ住所もなく食もなし松茸などは彼等に応じたる食なるを今世民の利を貪る事甚し領主もまた仮初の物にも運上の利を射るゆへに上下唯分寸の事にも眼を光らして探りもとむ其禍鳥獣に及ぶといへりしは耳に留りぬ
丸山権太左衛門
丸山権太左衛門が角力の高名はいふも更也全体心やさしく風流にして雪中二世史登の門に入俳諧の発句をなすある時連中の望にて我手のひらを墨にて紙に押形となし其かたわらへ「ひとつかみいざ参らせむ年の豆渠が身の丈六尺三寸七歩手のひら長さ七寸九歩あればよき祝の句也荒々敷業の者ながらかく風流なりしもいとやさしかりけるとぞ
此木戸の錠
大江丸云手爾波とゝのわざれば天地の神に叶わず我人ともに受する処有べし彼伊勢の団友讃岐の浦にて「なまこともならで果けり平家蟹との初案したゝめいまだ心行ぬ事のあればこそ其夜の夢にあまたの蟹にせめらるゝと見しかば再案「生海鼠ともならでさすがに平家也と是景清の謡にも叶ひたる手には自然と備わり句ぶりも格別也と我心中に腹せしかば心神ともに納る其夜はいさゝかの夢にも見ざりしとか又其角が「此木戸や錠のさゝれて冬の月是は平家物語のうちに此木戸は錠のさゝれて候ぞこなたへ【下略】「酢をさせば閻浮にかへるなまこかなとよまれし
大廻し三段切
細川玄旨法印の我も大廻し三段ぎれの仕よふは習たれどもいまだせぬ程にもはや一期すまじき也人のしらぬ事つよくしたがるは紛らかしの下手の事也「さればこそ花に思ひし野分かな紹巴が一段ほめて扨かやふの発句は重ねて御無用也さあれば人がしたがりてあしき也と耳底記に書給へり孔明が櫓の琴義経の鴨越それらは無拠なき事にやあらめ今時たま〳〵もの覚へたる人の三段切素[ス]秋などゝ好でいたさるゝは気の毒也と魚[ギヨ]紋のはなしにてありし
松の雪
伊勢の国何氏の娘に犬といへる者有本性やさしくて和歌を好めり後の朝の恋といへるに題して「きぬ〴〵のわかれの程の思ひでゝいまだにつらき鳥の声かな十三歳の齢元禄十年正月に身まかりけるがいとよく後世の営をも悟りてある僧を招き我亡名を松雪と賜われさりし頃松の雪といへる題にて歌よみ侍りけるとて「漣や志賀の浜松いつよりも今一しほの雪の曙死出路の糧に十念を授け得させたまへと懇ろに念仏し「もろともに朽なば朽よ永らへて残るもつらし仇しうき名のとよみて終りしと也程へて後此娘かゝる艶才のありし事いかなる便ありてか大内にきこしめされあまたの詠の中に五首とめさせけるとかや松の雪といへる題を案じわづらいて死せる人の再び来れるにやと人々云あへり
了然禅尼
了然禅尼は都の人にて大内に仕へ侍りしが婚姻の事人の媒しけるに子三四人も産なば暇たまわれと契約して嫁し行けり三十余歳の時迄男女三人設け夫よりしか〴〵の事を云ひ終に髪を剃衣を染臨済黄檗の諸禅林に入り参道隙なく務けり天和元年の冬編参の為にとて江戸に下り井上大和守殿の屋敷にありし白翁和尚に見へ法を受んと乞しかど顔容美きには人口恐れ有と宣ひしかば頓て立帰り火撹を焼額より両の頬に至るまで焼爛し和尚に参りしかば其懇志を深く感じ大法のこりなく付受有る時詩歌を賦して呈しけり
昔遊宮裡焼蘭麝 今入禅林燎面皮
四序流行更無跡 不知誰是箇中移
歌に「いける世に捨てたく身やうからまし終の薪と思はざりせば爛れたる疵頓て癒て少しも痕付ざりしも又奇特の事也江戸近き落合といふ所に自ら精舎を建立し一乗院と号し尼衆集め法を説しと也
乞食女の歌
寛文十二年四月上旬に洛東三条橋の下に廿歳余りの乞食の女自害してけりかたわらに書残せる一首有「ながらへは有つる程のうき世ぞと思へば残る言の葉もなしとありし事都に隠れなき事にて有難くも天上の御沙汰に迄及びて或貴き御方和せさせたまひて「言の葉は長し短し身の程を思へばぬるゝ袖の白露「なきと詫る其言の葉の残るさへ聞に泪の袖にあまれるさりとも和歌の徳いふも更也と聞人ごとに泪せきあへず侍りき
蛙の声を止む
大坂谷町筋八丁目願生寺超誉は随分の念仏の導師なりし此寺もとは草庵にて纔に三間四面の藁葺の一宇計なりしを今は仏殿方丈庫裡迄悉く成弁してけり修営の始に根なき松を二茎門境に植もし寺門繁栄せば此松成長すべしと自祝せられしに果して欝茂して今大木となれり又塩町に閑居の庵を占給ひしに庭の池の中に蛙群鳴て喧しかりければ十念を授て停止せられしに生涯の内は曽て鳴ざりし元禄九年八月十七日七十二歳にて予め滅後の葬式を営み前十一日より安養の聖像の数に入し事を覚へて貴く念仏して終りぬ
しやの〳〵衣
泉州堺の真言宗の僧常に酒をたしみて暫しも酔の醒る事なくて只戯れごとのみにて世をおくられし然れども泊然といさぎよくて祈祷今ぞかりければ人々崇みし此僧身まかりて後遺封を開き見るに寺と書籍とは甥の僧におくる金三百両は草履取に得さす出家の財宝は禍の基也衣服はそれ〴〵に与へ辞世に「世の中はしやの〳〵衣つゝてん〳〵てぐる坊主に残る松風
木村重成
大坂の城今を限りに見へし所に木村長門守風呂に入髪を洗ひて伽羅をたかせられし時江口の曲舞紅花の春のあしたを謡ひ余念なく小皷を打れしとぞ其次の日花やかなる討死せられし印を大将軍家康公御覧有て涙を流させ給ひ此若者討死を極め髪に香をとめ乍月代を剃ざりしと仰られしとかや其時髪をすき香を焼き女は江戸にて木原意運といへる外科の伯母にてありし老後まで常にかたられし
池上意三
池上意三大儒の誉れ世に聞へ十六歳にて水戸黄門公へ召出され和漢の万巻に眼を曝しいと美じき人にておはしき去る仏縁の有けるにや或時延命地蔵経を拝見して忽世の無常を悟り菩提心強く発りて大守へお暇乞ひ世になきものになし曽節と名を改め形を桑門にかへてけり都方に上りて童の風車を弄を見て「舞ば舞ふ舞はねばまはぬ風車是や我身の行衛なるらんと読てけり風車軒と申けりそのゝち勝尾寺二階堂に籠られしが九日目に及び思ひよりし事有て火定に入るべしとて薪あまた積せ我中より香烟を出すを合図に火をかけよと約束し辞世の詞とて「世の塵をはらひてのぼる勝尾山法の為には又かへりこんと読て入りぬ暫しが程念仏誦経の声聞へしが人々烟を見て火をかけしに山々谷々に充々参詣の輩同音に念仏し漸事静りて各々寄て見しに左の手に香炉を捧げ右の手に念珠をもたれし行儀すこしも乱れずおはせしと也
金毘羅の神馬
謝肇衛名利を好むは丈夫の事鬼神を好む子の事丈夫にして鬼神を信ずるは丈夫の気を失ふといへり凡理学家は云に及ばず少し文字をよみ書を手ならす人は神仏の妙を嘲りて婦女子の口実とする事珍らしからず然るにまさに閑田が視る所廿年前讃州金毘羅に詣し時常の神馬の外に駒一疋馬屋の外に繋げりいかにと思ひし折から詣でし人語らく此近き某の村に馬の難産に苦しめるを其主此御社へ祈願し平らかに産しめ給はゞ其駒は奉るべしと誓ひしがやがてやすく産れし後いとよき駒なれば惜む心出来て猶予せし間此駒自ら走りて此頃爰に来れり速に置べき屋なければかくの如しといへり
応声虫
塘雨云元文三年の頃四条坊門油小路の東に観場の催を業とする者有奥丹後の山里に農人の妻五十歳計にて応声虫の病あるよしを聞伝へて観場に出さんやと語らひしに行て二三日逗留せしがいかにも腹中に人声有て病人の声に応じて其詞の如くいふ事分明に聞ゆ其夫の物語に先年霜月に引連て六条詣せしに茶所にて休ふあいだ腹中にて物を言ひしかば諸人怪しみとやかくとふことのうるさく耻かしく覚へて其夜たゞちに帰へりしといへり
金蘭斎
近世畸人伝に出たる金蘭斎と云老荘者は腹中より声に応じて物いふと覚へたりされども是は只自ら覚ゆるのみにて他人きかず暫の間にて止みたりと馬杉亭安といふ老人の話成し由自のみ聞は気病にてもありけんかし
四つ子を産
備後神石郡袖辺町油屋久兵衛といふ者の妻四子を産り三子は男一子は女也四人目に産れしは髪黒く生歯悉く生じ頭に角二本有しかば恐しくて捨やりしに少も泣事なかりしかく四子を産る事は和漢ともにたぐひある事とかや
異形の観場
延宝六年に泉州堺の夷島に面三つ手足六つある赤子捨置たりしを大坂道頓堀観場師諸人に見せ侍べりしかゝる異形の者いにしへも折には有しとかや今年まで百七十三年になる道頓堀の見世物は思へば古き物にあらずや
十一屋の妻
大坂手島町十一屋宗佐といふ者の妻若き頃より書典を好み仏法を信仰し本性やさしくて慈愛ことに深かりし延宝八年四月十五日高野山に詣けるに前百日潔斎して道伴ひし尼を女人堂に残し置自らは兼て歯を白くし股引脚半鉢巻までものし二尺余の大脇差を横たへ奥院檀上谷々院々残りなく順礼し志恙なく下向せしと也天和二年に時疫を煩らひ既に臨終も遠からず見へし時此世の暇乞とて洗米御酒清らかに調へ日本国の神祇に備へ奉りて純一に称名し往生をとげけると也
梅心の辞世
阿州徳島に梅心とて俳諧など嗜し人有八十二歳になりし迄心身まめやかに有しが貞享四年六月九日にかたわらなる懐紙に「世は夢と見しまも夏の一夜かな「となふれば心涼しや南無あみだと二句書のこして一向に念仏しておわりぬ
非人の詠歌
元禄の始の頃都の非人歌よみけるとなん「ぬるまのみ人にかわらぬ身なれども浮世にかへす暁のかね「さむしろにおく露の身はきへやらで夜半の嵐の吹かひもなし誠の非人にやいぶかし
五字の題目
洛陽龍本寺日進上人御宸筆の題目を八条殿によつて願ひ奉られしに忝も仙洞後水尾の院妙法蓮華経の五字御宸筆染させたまへり日進重ねて南無の二字を添させてと願ひ奉りしとありければ五字の宸筆めしかへさせたまひて寸々にきらせ御前の火鉢にてやかせ給ひぬ五字の頭に南無の二字を置たる事いづれの経に証文あるや奏問申せと詔ありければ祖師日蓮始て此字を加えられしと勅答ありしかば此事かなはじとて止にき
竪題横題
昔水無瀬の上皇の仰に春夏の姿はふとく大きに秋冬の歌は細くからびて詠むべしと勅ありし我俳諧も是に倣ひ奉りて四季のほつくも其心をもて詠ぜむこそ本情にかなひ侍らむかしと淡々は申されけり
熊沢の和歌
熊沢先生始て藤樹先生にま見へられし時熊沢氏「みな人のまゐる社に神はなし心の内に神ぞましますといはれしを藤樹返しに「ちはやぶる神の社は月なれや参る心のうちにうつろふさすがの藤樹先生なり尊むべし是は藤樹の末孫中江久風といふ人の物がたり也とぞ
曽呂利の狂歌
曽呂利新左衛門は堺の町人にて豊臣秀吉公のお気に入狂歌をよくし御伽衆と成ける或時秀吉公諸士を集め何にても大きなる狂歌をよめと仰らるゝ時に福島左衛門仕りけるは「両国にはびこる梅の枝に啼て天地も響く鴬の声秀吉公御機嫌の体なりしが曽呂利一人是は甚だちいさき狂歌也と云に清正然らば其上もなき大なるをよみ候とて「須弥山に腰打かけて大空をぐつと呑ども咽にさはらずと詠けるに是こそ誠に大なる歌とて秀吉公始皆々感賞しけるに曽呂利まだ〴〵ちいさいと云清正すこしいかりて然らば是より大なるをよみ候へと云曽呂利心得候とて「須弥山を咽にさわらずのむ奴を眉毛のさきで突こかしけり満座臍を抱へて笑ひけるが秀吉公重ねて仰に此度は随分世話しく閙敷狂歌をよめとあるに曽呂利畏り奉り「俄雨薪はぬるゝ雨はもる我子めがせがむ瘡のかゆさよ秀吉公殊の外興じ給ひ何にても望みあらば申べし叶へとらせんとあるに曽呂利有難く存奉る然らば江州三井寺の石階の下より上迄五十一段御座候此下の段にて米壱粒を倍増に上まで下され候はゞ有難と申上る秀吉公笑わせ給ひ扨々ちいさき事を申かな望に任すべしとあれば曽呂利有難き段申上勘定人に算盤もたせ右一粒の米を倍増にして段々五十一段目迄置上見るに広大の石敷と成りしかば秀吉公笑わせ給ひ此石高を汝に渡さば日本の諸侯の知行三年の間断いわでは渡しがたしとて困り給ふとなり日本大名惣人数二百五十余人知行高凡千八百六拾万石余と云ふ
滑稽頓作
豊公ある時諸臣にむかわせ給ひて世に恐ろしき物は何ならむと仰ある君こそ恐しき物の頂上にて候と一同に申上たるに曽呂利が云御前様ほど恐しからぬ物はなし手柄をすれば御褒美有あしき行ひあれば罪をお糺し遊さるゝ善も悪きも我心にあれば君は恐しき物に是なしたゞ世に恐しき物といふは無分別者にとゞめたりと申上ければ公大に笑わせられ諸士もアツと口を閉たりしと也唐土の東方朔我朝にては杉本其後は曽呂利井上氏あつぱれの俳諧なりとあり
信綱三仁政
寛文の頃かとよ松平故伊豆守信綱執政の時千年以来金銭を尊てかく成たる風俗の後に出て京の大仏を鋳て銭とし天下を利益せられしこそ先にも跡にも聞ざる事なれ其卓識誠に古今に傑出すともいふべし重衡鎌倉に囚れし時父命によりて奈良の大仏を焼し事を大きなる罪悪とて自恐れて頼朝の前にても陳謝し京師にて法然に邂逅しても此事を云出して深く悔しは罪障懺悔の為とこそ思はれけめその愚暗是非もなき事也其後松永弾正が再び奈良の大仏を焼しを猛悪の信長さへ是を大罪と思わるればこそ松永が主君三好義長を弑し光源院殿を殺し奉りし大逆罪に並べて人のならぬ事を三つしたるとて弾正を耻しめられしぞかし嗚呼仏法の人心を蠧惑する事何ぞ爰に至るや御当家創業以後文明日に開けしゆへ伊豆守程の人も出るぞかし信綱善政多き中に天下の殉死を禁じ諸国の人質をやめ大仏を銭に鋳られし此三つをば世に大器量の事と賞するも宜也殉死を禁ぜられしは永く後世の害を除き人質を止られしは普く諸国の患を救ひ大仏を銭に鋳られしは大に古今の惑をとく天下後世に於て大功徳ありといふべし重衡などをしてきかしめばほとんど驚死にも至りつべしと鳩巣は申されし
井上の詼諧(玉の簪)
されば信綱の平易にて無造作なりしは世に類ひなき事にて有けり其頃井上新左衛門と云人は執政府の従事たりしが素直に文飾なきをもて伊豆守の為に愛せらる新左衛門常に詼諧を好みて其為人東方朔に似たりある時何方より鱈を献上しけるを御前に披露するとて伊豆守見届られしに鱈に塵つきてありしかば伊豆守気色損じて取次し人を呵られしを新左衛門傍に有しがいや鱈には塵ある筈にて候と云を伊豆守いかにととへば三番叟にちりやたらりと申候わずやといふ時に伊豆守聞て笑ひつゝ気色なをりて兎角物に念の入らぬ故にて候何事も念をいるゝにしくはなしと云れしを新左衛門各様には御念入候がよく候我等如き軽き者は余り念をいれ候へば却てあし事もある物にて候と云を伊豆守何が念をいれてあしきやうあるべきといはれければ其事に候昔唐の玄宗方士に命じて楊貴妃の有家を尋られしが方士蓬莱宮に到て貴妃にあひし程に帰りて此由を奏聞せんとて其証を乞しかば玉の簪を給わりけり然るを余り念過て是は世にたぐひ有べき物なりとて重ねて玄宗貴妃との密語を聞て還り報じければ一旦首尾はよかりしが玄宗方士を疑ひそめられしより思わるゝは此密語は貴妃と我ふたりより外他人しるべき事にあらず然るを方士しりてかく云は兼て貴妃に通じたるにやと終に方士を誅し給ひしと也前の玉の簪ばかりにて能候をあまり念を入たるゆへにかくのごとしといひければ又新左が例のそゞろごとをいふとて一座興に入てやみける此後天草の事出来て信綱命を奉じて行れしが不日に賊皆誅に伏して江戸へ帰着せられしに旅装のまゝ直に登城有しかば折ふし在城の面々残らず迎労しけり新左衛門も衆中に有けるを信綱早く見付てそこに語ることこそあれ今御前より罷りてとて御前へ出られやゝしばらく有て御前より退かれ衆中にて云れしは此度天草にて諸侯一度に賊塁へ向ふべしと約束定りて扨押よする時は某が本陣にて鐘を撞べし夫を合図に諸手の衆集るべしと云合て僉議の間日を経けるが某思ふには今夜にても賊方の者か又は馬鹿もの忍び入て鐘を撞て我衆を誤る事もあらむかと撞木を取よせて我側に置けるが又思ふには必撞木にも限るべからず鉄炮やうの物にても撞まじきにもあらずと鐘を地へおろさせ菰にて巻て置せたり然る所賊徒戦て思ひよらず俄に手合せ有ければさらば鐘を撞べしといふに上へ釣上菰をとく程に終に間に合ずしてたゞかかりに懸りて攻潰しけり其時かのいつぞや申されし方士蓬莱宮の物語はか様の事にこそと足下の事を思ひ出せしと話されし也是戯れに近き物語なれども信綱理にさとく人の言をすてず夫に只今馬よりおり御前へ出て天草の首尾を申上らるゝ折ふし常人ならば中々思ひもつけじたとひ思ひ付とも此節は扨やむべき事なるを只常の気色にて稠人広座の中共いはず我あやまちたりし事も有の侭に語られしにぞ伊豆守の心公にして器量の大なるもしられける世に古今の良相とするもげに理りと覚ゆるぞかし
角觗の句
享保改元の頃は浪華の俳諧いと盛んなりし鬼貫才麿野坡員九淡々祇空芳室布門昭簾白羽法策海音矩州瓢水来山など也其後俳諧にて能人情を尽すものは蓼太蕪村の両叟殊に妙有角力の句にても「大内の砂を土産やすまふ取蓼太是はかの古へ名かみの成衡さつまの氏長がたぐひにて田舎の家づとに守りのかわりに取帰るさまこけても砂といふおかしみを含めたり又「負まじきすもふを寝物語かな夜半妻にあひての情思ひ廻らすべし「白梅や北野の茶屋にすまひより夜半すもふの祖野見の宿祢も菅神の御先祖なればひとしほ道の信心もこもれる也是らの力にて風月花鳥の情をいひかなへたらむ道に手だれの程を思ふべし鳥虫のうへばかり凡にさつしやりて句作したらむは大方人形の笛吹やうならんとさる人はいへり
世を覆ふ句
世に秀逸の句あり貞宝の是は〳〵又貞柳のにくまれての狂歌などは物しらぬ作者をもしらぬ者までいひもてはやす也誠に世をおほふものなるべし是に次では淡々の口癖の芳野も春の暮毎には必いひ出す也是らこそ道に入たる本意なれかゝる一句も願わしき事にこそと鳴見の蝶羅はかたられし
我に飽
許六の曰皆人発句を案ずるに趣向より入たるものは格別の句は求めがたし姿より思ひよせたらむこそ能句はいづらめ又数多句を吐てきのふの我に飽者俳諧の上手也とは尤の事也
俳席の心得
白翁の咄に少しにても我より上手の人の有場席にては発句にても付句にても早く打出して指南をうくべし我より劣りたる人の中にしては一段しづめて大事に案ずべし又他国他門へ行てはあく迄も案入べし師の前上手の前にては案じるは無益也早く教を受べしいろ〳〵の心得徳ある事どもを聞事有と是俳諧にのぞむ第一の心得ならむ
句より心を聞け
周竹云発句に聞へがたき有らば其心をとふべし句のおもてより心のよき趣向あるもの也ばせを翁の門人に初心の人宿夕涼の句をいろ〳〵に案たれどよからず翁曰いざまづくつろぎたまへ我も臥なむと宣ふ然らばおゆるしじたらくにおれば涼しく候と翁の云今の詞則発句也「じだらくに居れば涼しき夕哉【宗次と有】又去来の「俤の愚にゆかし魂祭翁其心を問ふに祭る時は神在すが如しとやらん玉祭の奥なつかしく覚候と申翁云しからば其心すぐによろし「玉棚のおくなつかしや親の顔と直し七文字なつかしやとして下をけやけく親の顔としてよろしかるべしと都て其思ふ所直に句になる所をしらず深く思ひしづみかへつて心重く詞しぶる也と教給ひしと承る世上大方かくのごとし早く心を打出して師に教をうけるがよしと申されたり
尊氏の和歌
白牛曰ばせを翁の日はつれなくもの句は昔尊氏の歌とて「すまよりも明石のかたにあか〳〵と日はつれなくも秋風ぞふく此歌を兼ておかしと耳底にとめひとゝせ北国行脚の時北枝を尋ねて秋の風秋の山の推敲に枝が器をはかりたまひし是は何れの集に有歌やしらず
鎌倉の初鰹
連丈の曰人情をはくには其人をあく迄もうつし得ざればいかゞ也といひし何れ作力の入る物也「初松魚重衡みやり給ひけり「初鰹宗盛むづとまいりけむ「はつかつを高時食はで死したりける始は三位中将の狩野の助が饗応を仇にせられざるみやび中の句は八島の大臣のおろかにして人前を恥ざるさま末の一句は鎌倉の入道の田楽法師にもてなさゞる恨を遺せり「俳諧に古人なし魚に初鰹共に旧国の句也
明慧上人
鎌倉治世の後に至て北条泰時こそ漢の丙魏唐の姚宋にも恥しからぬ人にて吾国にはあまり比類なかるべし此人栂尾の明慧上人にあふて某不肖の身をもて重任に当り群下に臨み侍るいかゞして衆を治め争をやめ侍るべしと問われしに明慧只無欲に成給へといはれしを泰時かさねて某独り無欲に成候共群下何とて無欲に成候べきといはれけるに明慧下に目を付ずして御身先無欲に成て見給へといはれしを泰時深く信じて父義時死去の時所領財宝大かた諸弟に配分して其身は僅にたるばかりとられけるを二位の尼泰時に自分のとられやう余りすくなき事といはれしに某は家督をうけ候へば何の乏しき事もなく候只弟共のゆたかなるやうにとこそ思ひ候へといはれしかば二位の尼も感涙に及ばれしが其後年を逐て親族粛穆し鎌倉の武臣も感服しけり明慧浮屠なれども孔子の季康子にのたまひし苟子之不欲雖賞之不竊といふにかなへり泰時の明慧の一言を信用して鎌倉よく治まりしにて聖人の詞誣べからざる事をしるべし明慧もたゞうどにはあらざりけらし
泰時の無欲
偖泰時家督以後日毎に勤て公庁へ出てひねもす蹇々として庶務を治められしに群長を待事恭謹にして争を分ち訟を聴るゝ事明恕なりし事東鑑を見てしるべし泰時或時訟をきかれしに双方対决しけるが半に成て一方の相手忽理に服して只今迄己が申所をよしと思て候へばこそ争訟に及び候へども今日始て手前の非を覚悟いたして候此上はもはや一言申にも及ばずとて止ぬ泰時感じて此争は汝が負也理非によりて决断すべし但某今迄多くの訴を聞しか共即座に汝がごとく理に服するものを見ず是を賞せずして何をか賞すべきとて別に恩賞を行はれしが後は争訟もやうやく稀に成て訴庭も閑になりしとぞ
泰時の公明にして正しき事此一事にてもしられたり其孫謀のよき後嗣に及て時頼時宗何れも遺訓を守り成法に依て善政を勤られしかば四方の人心鎌倉に帰嚮せざるはなし北条氏皇朝の倍臣をもて天下の権を執て数代の安きを得たるは泰時の功といふべし世に時頼を泰時より賢明なるやうに称じぬるは早く高位を脱離して浮屠に帰し微行を好み下情を察せられしを奇特の事とこそいふらめ併しそれは道理をしらぬ人のいふ事也其身宗廟社稷の重きを承て自仏寺に逃れ微行を楽とする事やあるべき君徳を穢し治体を失へり人主の法とすべからず是にて見れば其治規摸近小にして遠大に昧かりけらし中々泰時に及ぶべき人にあらず
畠山重忠
其外鎌倉の人物を考るに上下ともにすべて取にたる人なかるべし幕下に数多の人材群集すといへども血気勇悍の人迄にて何れも粗暴無識也其中に独畠山重忠は勇力世にすぐれ古今の壮士といふばかりにてもなく志操潔白にして極めて正直の人也和田と並称するは其倫に非ず梶原が讒にあひし時誓文をもて陳謝せよといひしを重忠一生偽をいわねば今更誓文に及べきやうなしとてうけざりしかども頼朝も疑ひをのこさず梶原も怒を加へず是にてもとより忠信の上下に感孚する事をしるべし其上己が善に伐らず人の功を蔽はずおのづから寛厚長者の気象なん有けり当時諸将の中に求るに少しき似たる人もなし不幸にして三浦と同じく前後北条が為に殺さるこそいと口惜き事なれ其最期もさすがは他より一きは潔よく見へしぞかし爰に至て時政義時が悪天道にさかひ人望に背く其罪誅しても余り有もし泰時なかりせば北条家の滅びん事高時が時を待まじ独田楽入道をのみ罪すべからず
藤房遁世
建武中の人物にては縉紳家に藤原藤房韜鈐家に楠正成もとより輿論の帰する所也其人品をいはゞ藤房は公卿輔弼の臣たり正成は将帥禦侮の臣たり其材の大小をいはゞ正成の材藤房の及ぶ所に非ず藤房龍馬の諌は直言極諌朝廷を聳動す誠に朝陽の鳳鳴といふべし然れども正成恢復の功とは並論じがたし其上藤房は一諌の後国を去り世を遁れしが正成は其身国難に死するのみにあらず忠義代々家に伝へ天下あらはる当時誰か正成に比する人あるべき楠家の遣書とて流布する書あれど後人の偽作にして其為人委しき事はしれねど其しるき事は騒乱の始一城をもて天下を引受て始終少しも挫屈せざるにて其材量のたくましきを思ひはかるべし殊に仰慕すべきは天下一盛一衰の間名将勇士といへども時勢に付て反側を常とし朝夕をたもたざる中に独楠家のみ子孫累葉かたく遺訓を守り一門闔族心を一にして力を戮せ各身をもて国に報ひ三代の間一人も二心ある事を聞ず古今比類なかるべし正成徳沢深厚にしてながく人心を結ぶ事なからんにはいかでかくのごとくなるべき
正成韓信を評す
然るに世の尚論する人推尊で諸葛孔明に比するは両人何れも兵略をつとめ興復を謀り父子国事に死するも同じければ也されど孔明は臥龍也道徳を懐抱し功名を遺外し草芦にて一生を終らんとせしにはからざるに蜀の先主の三顧に遇て不得已して出て仕へしが一朝関趙が上に立て君臣魚水の如く成りしされば其出処伊尹呂望に近しとなん古人も論ず正成はもと功名科中の人也後醍醐帝笠置臨幸の時近国の名士を徴れし間正成も召に応じて参じけり是其出処孔明とは大きに異なる上恢復の後も尊氏義貞の下に列して専に任用せらるゝ事をきかず孔明をもて擬せば恐らくは其倫にあらじ其兵を用るも孔明は正大にして奇計を用ず節制の兵といふべし正成が敵を料り兵を用るは韓信に似たり韓信楚に寄食する時より既に項王の制し易をしり正成河内に家居する時より既に鎌倉の弱易をしるよりて韓信高祖を見て盛に項王の勇を称して其勇は恐るゝにたらざる事をいひ正成後醍醐帝に謁して盛に鎌倉の強を称して其強きは恃にたらざる事を云其後両人共に多くは籌策を用て勝を取し事掌握にあるが如し韓信は嚢沙背水敵を破り正成は鉤屏木偶敵を鏖にするを見べし両人の兵を用ふること一轍に出ざるかは何れも摧堅拉鋭といへど韓信が材は敏速に長じてよく攻いまだ其守るを聞ず正成が材は持重にたへてよく守るいまだ其攻を見ず韓信に城を守らしめばよく正成が如くならんか正成に敵を攻しめばよく韓信が如くならんか古人も攻守勢殊也といへばいかゞあるべき然れど韓信が兵は利欲の私にいでゝ一身の為にし正成が兵は忠義の公にいでゝ国家の為にす其底績の心おのづから同じからず昔河内の人の語りしは金剛山のほとりに南北の明神と号する祠有其中座を正成とす左右は孫子呉子也正成常に我天下に武功を立る事は孫呉の影なりといひしにより是を付祭するとぞ是にて今に正成が遺愛の民にある事をしるべし但正成かくのごとく絶倫の材をもて聖賢の道を学びずして孫呉が術のみ崇びしは遺恨と云べし湊川にて自殺するとて弟正季と最期の一念を語る事甚陋し
西沢文庫皇都午睡二編 下の巻 終
西沢文庫皇都午睡三編 上の巻
目次
一 冬籠
一 鐘撞の階子
一 名聞は罪深し
一 賊の母歌を詠む
一 大野氏の女
一 嵯峨の山住
一 源語の発明
一 嵯峨の奥
一 神道の受
一 橋の下
一 欲は身の毒
一 鼠大根
一 作魔地を失ふ
一 下手のなき世
一 火替の神事
一 天下の俳諧
一 武運の稽古
一 宇治丸
一 羊肝牛干
一 気違法斎
一 氏神正一位
一 七子の彫物
一 浅葱萠葱
一 ひやかし逃助
一 弁慶太皷持
一 角兵衛獅子
一 忰餓鬼
一 戎紙神在餅
一 看板の謎
一 代神楽
一 月待日待代待
一 盃の銘
一 瓦葺
一 七党八平氏八庄司
一 愛子の庄司
一 我国のかな付
一 雷除桑原
一 めりやす莫大小
一 鉄火味噌
一 自堕落者
一 蓮葉女
一 鵜の目鷹の目
一 桃鬼灯
一 蝸牛
一 箱入娘
一 蚊の喰ぬ咒ひ
一 鞦韆蜻蛉返り
一 道具と牛
一 惣嫁の出火
一 小倉色紙
一 友鵆貝尽
一 有楽翁の茶
一 秀吉門破
一 泣涕微笑
一 鎗中村
一 石川丈山
一 時平公の墳
【一 雪花図説】
一 位牌の和歌
一 鯉の差身
一 穢多の訴
一 狐草履を送る
一 弓に蜻蛉を付る
一 九郎仏
一 恵心僧都
一 道明法師
一 元政魚料理
一 火の見矢倉
一 宗紙の発句
一 幽霊の濡文
一 疫病神馬に乗
一 淀屋辰五郎
一 村井軍兵衛
一 国造の烏帽子
一 日本左衛門
一 鷹の尾筒
西沢文庫皇都午睡三編 上の巻
西沢綺語堂李叟著
冬籠
嘉永庚戌の初秋皇都午睡と題して三百有余条の話を書しが「ひや〳〵と壁を踏へて書寝かなと朱樹士朗叟が残暑をきかせし句に感じ第二編目二百二拾五条を著「皆人の昼寝の種と桃青翁が詠たる月の秋も過けり古き狂歌に「朝寝してまた昼寝して宵寝して其間〳〵は居睡りぞするとあれば寝通しにするが如し傾城の昼寝ぬ程に思ひつめとも折句にあれば迚もの昼寝つひでに宰予が昼寝に傚ひ又第三編目二百二十五条を著はしまた見たらすば四編五編と輯をつぎて綺語堂の多龍炉辺に机を引よせてまた寝の夢を結ばんと思ふ若うなさるゝ事あらば起したまへ
鐘撞の階子
立春の和歌には多く霞の立そむるを云或は氷の解るを詠ものなるべし尤年内立春の題なれども年の内に春は来にけりの詠は其頃の歌仙達もいまだ詠出ぬ新らしみならずや我俳諧にも「鐘撞の今年へ下りる階子哉〔句者の名不覚〕はよく詠得たりといふべし文化中江戸四方の狂歌連より出たる五十人一首に此鐘撞の句を狂歌に詠て有るを見しが狂歌にてはさして働なし発句十七言によくも心を詠こみたるを感ずる也江戸八朶園蓼松が出せし俳諧畸人伝に此句者の表徳を見しが忘れたり是に次て豊後の葵亭の句に「名月の翌は少き鴉かな予此句を感じ態〳〵文通して短策一葉乞求め今に珍蔵せり夜終清光に啼あかし茜さす東雲に至れど朝の如く啼群れぬ心を翌はすくなきと僅一句に述たる働き鐘撞明六つを鳴らして階子を下りれば一陽に来復せし心を述此二句とも誠に不易流行を兼古今の名句とも賞ずべしかゝる名句生涯に遺したきもの也
名聞は罪深し
或学匠の話に名聞を好むこと甚しき僧は女犯肉食よりも遙に罪深し女犯肉食は罪其身に止る名聞の罪は他に及ぶ昔ある相者人に語りて我息夭死相あり某日月必死すべしといへり然るに其朝に及びて常に変る事なければ彼話を聞たる者相の真なきを嘲りしに一夜とみに死したり爰に於て又実に相の疑ふべからざるを驚きしが能たづぬれば己が説の違へるを恥て竊に其子を殺害したると也吾命にもかへて悲しと思ふべき子を殺しても其術の名聞を思へるを説給へる仏の教誡なりとかや
賊の母歌を詠む
或者貧しくて母親を養ひがたきにつき盗をして捉へられし時其母悲しびてよめる「てらしませ神と君との恵にて親ゆへ闇に迷ふ我子を此歌官に聞えて死罪を免かれ追放されしとかや近き年頃のことゝかたる人ありき
大野氏の女
赤穂の難に不義にして逃走りし大野某が女東備梶浦某に嫁し居けるが此出奔の後何となく住居の裏の空地に隠居を営ける元来禄の分限よりも貧しかりけるにいまだ齢も老に及ばず無益の事なりと其妻諌けれども思ふよし有とて不肯扨良雄を始四十余士復讐の事遂て日を経ず此わたりへも其人数の名を録して売ありきし中に大野氏は見へず是迄はもし一旦謀とありて奔り此復讐を催しぬるにや共疑ひ思へりしに似たる名も見へねば其女も心地あしくかき籠て打臥けるに家主あらためていふべきことありと下婢をもて云越しければあやしみながら頭をかゝげなどして出来るを常に似ず席を改めて是迄貧しき世をとかく扱ひ給ひし心尽しいはん方なしさるに父国老の長に有ながら国難に臨て逃走りつひに復讐の人数にも見へず不義甚しきこといふべからず其方には罪なけれどもかゝる人の女に伴なはん事は士の道にあらず恥べしさればけふより縁をきるべししかはあれど返すべき家なければ兼てかゝる事もやと造り置し裏の亭にて生涯を送らるべし三人の子あれば彼等が供養せんは其道也吾は再び対面せじと先より召使し婢を添てかしこに籠しめ自老婆一人によろづまかなわせてこと女を近づけず人勤めて妻をも使ひたまへといへどもきかずもとの妻其身に罪あるにあらず義によりて遠ざけし也されば彼に妬ませては自も心よからずとて一生鰥にて果されしたま〳〵庭際を緩歩せらるゝを彼妻窺ひて言はかはさずとも見かはしもせんと障子など開けばやがて走りいりぬ妻も後は慎みて避けるとぞ此節操安きに似てかたきこと成べし
嵯峨の山住
三条西内大臣実澄公は逍遥称名二公の名誉を継給ひ倭歌の名世に高く文才の聞へ並びなかりし源氏物語は代々の貴翫にして天下の至宝なりと雲上竹園に於て枕事とし給はざるはなし本文幽玄にして意味深長なれば列世の先達各註釈をなし隠れたるを顕わし微なるを明にし給へり三条西家も代々是に御心を寄られ和漢の事跡文書を渉猟まし〳〵実澄公の御説は孟津抄にしるされ三条公は細流抄を述給ふ当内府君も数年御玩味のうへ父祖御二代の鈔の外に猶発明を得給ひて其名雲井をとゞろかしぬ晩年に官を辞し入道まし〳〵嵯峨の寂寞を甘んじ給ひ小倉山大井川の辺へたび〳〵行通ひ天龍臨川の蘭若に遊び野宮桂院の昔を尋ね給ひぬ一日中院町をよぎり為家卿の古墳時雨亭の旧跡など一見まし〳〵一の鳥居より南におれて落合といふあたりへ分入らんとし給ひしが山路嶮して容易登りがたかりければ折ふし傍の山間にかたちばかりむすびたる草の庵のあるに立寄やすらひ給へばあるじ七十許の男にてさながら法師とも見へずあやしき鶉衣着て居たりしが公の入来り給ふを見ても敢て驚くけしきもなく脚折たる几に何やらんやれたるふみのせて見て居たるを叟はいかなる文よみ侍ると尋ね給ふに光源氏物語なりと答へければかゝる山の奥に遁住てかの物語見る心のうちの尊さよなみ〳〵のしばふる人にはあらじと思して縁に尻うちかけさせ給ひさるにてもやさしき和主の心かなおのれなど若かりしより彼物語を学びて牛に汗する文どもを参へ考へ侍るにつけていと心深き事侍り叟が見侍るは本文計にてさこそ趣を得がたくこそと宣へばさればとよ年月をかさねて見侍れども喃々として読下す事だにはかどり侍らず此頃都に三条西内府君などは新たに抄解を加へて雲の上にも講じ給ふよしその人々の従者に成とも逢まみへて尋たき事のみ多けれど蹇る病有て麓にだにも下り侍らねば都の伝は思ひ切ぬる唯おのれが心に反覆玩味して人一たび是をよくすおのれ是を百たびせばなどかその意に通ぜざらんと思ふのみと答へければ公は我才名の山林までに及びしを悦び且翁が志の深きを感じ我こそは三条西実澄が致仕せるなれ斯相逢も宿世の縁にこそと仰ありければ彼翁大に驚き急ぎ座を蹂[ニジリ]下り遙に跪て今までの無礼死罪を免がれずと平臥するを従者に仰せて助け上させ給ひ我今官を辞し桑門の身となり山林の閑を味ふいさゝかも敬する事なかれさるにても汝が貧ふして源語を楽しむ志を感ず我おもふ人だにあらば東なる夷の里もむつまじきと聞ものをはか〴〵しき本もなくば追て貸てんなど仰あれば涙を流して恩を謝し偖もかゝる御恵に逢奉るも千歳の一遇老の命は雨の晴まも待がたし近頃恐れながら日頃うたがひ思ふ事一二問奉りたきと申せば夫こそ尤の事なれ行先いそぐべき処もなくおなじ山路のたのしみなれば此所にて休息ながら物語もせんと簀子の上にのぼり給へば翁は囲炉裏にむかひ清瀧の流れを釜に入小倉の松を折くべて梅山の茶を煎じて参らすれば湘水を汲て楚竹を焚にもまされりと公一入に感じ思しめし都の奢侈に惑ひてかゝる深山の奥の庵筧の水のとくよりも尋ざりぬぞ恨なると歎息数声に及ばせ給ふ
源語の発明
かくて翁が申やうはかの物語の発端にいづれの御時とかゝれたるはいかなる故にや公答曰これは伊勢集にいづれの御時にかありけん大御息所おわしますと書出せる筆法にて延喜の御時と書べきをおほめかしく書出たるものなり翁又問紅葉賀の巻におそろしくもかたじけなくもうれしくもあわれにもと書るはいかなる事ぞ公答曰是等は和文にめづらしき筆法にて式部が妙手のなす所家父既に賞美せり瑟兮僩兮赫兮喧兮といへる毛詩の語勢にも似たると宣ふ又問式部石山寺に通夜して中秋の夜水月を観じて物語の趣向うかみしをわすれぬ内にと仏前の般若経を本尊に申請て須磨明石の巻を書けるよし此事いかゞ公答云河海抄の序に既にかく見へて古くいひつたへたる事なれども古書にいまだ見当らず翁怏々[ワウ〳〵]として悦びざる色を顕し山住のあさましさは都の人にすかさるゝ事多しとひとりごちければ公の宣ふ我聊汝をすかせる事汝何をもて不満の色をあらわすと問給へば翁が云君は実澄公にてはおわせじ翁が詞に乗じ某と名乗て戯れ給へるならんもし左なくんば一樹の蔭の情をたれて今少こまやかなる事をもかたりきかせ給へ今宣ふ所は河海花鳥にも古く記して我等も稚き時人の許にて見し事ありて覚へ侍る高家三代の考勘のうちさぞかし珍敷発明やおわすらんといへば公大に当惑まし〳〵父祖三代の抄物数条の説少なきにあらざれども今問所の三箇条においては此外の発明なし汝また所存ありやとのたまへば翁が云それにたがふ事おわさずば翁が頑なるかうがへを少しく述侍るべしいづれの御時にと書るは長恨歌の発句に唐の玄宗の事を漢皇重色と書るより出る物ならん元来桐壺は長恨歌を俤にたてゝ書る巻なれば桐壼帝を玄宗に比し更衣を楊貴妃に准ぜる延喜とも桐壼の御門ともかゝでいづれの御時と書たる此意なくて叶まじ紅葉賀の巻におそろしくもかたじけなくもなど書る瑟兮僩兮の筆法とばかりのたまひては筆法はすめども文意はあきらかならず是は源氏の御心のうちにみづからの御身のうへのおそろしく御門の御事をかたじけなく冷泉院の生れ給へるをうれしく藤壷の御心を思しやればあはれなるをかく色々に思ひ給ふもの字四つにてあるべし賢慮いかゞならんといふに公大に閉口まし〳〵先賢いまだ発せざる所誠に珍説といふべし般若の裏へ書る事に付ても又私説ありやと問ひ給へば然り此事古く云伝へたりといへども一通り肯ひがたし式部草紙書べき立願に参籠しながら料紙の用意なかりしは麁忽といふべし思ふに釈迦一代の蔵経華厳の大乗は聾唖のごとくにて聴衆の耳に入らず阿含方等に至りて小乗乳酢の経を説給ひ衆生の機やゝとゝのひて小乗を誠とおもひ有相の法に着せる時般若濤汰の経を説かれて色即是空なりと今まで着せし有相有色は皆空なりと宣へりされば今まで有しを空と説るが般若経なるに源氏物語は寓言にして夢の浮橋のたとへのごとくもとなき所にかけわたして事を設たれば空即是色の法味にて般若のうらをかへして書初しなるべしや是又賢慮いかゞと問に公いよ〳〵閉口し給ひしが渠がごとき賎夫に詰られて我のみが父祖の名を汚さん事口惜と思しめしければ汝が考へ得る所力を用ゆるに似たり去ながらさやうの鑿説は縉紳家には用ひぬ事なり只穏なる一わたりに心得ぬるぞよきとのたまへば翁微笑て云公今更過[アヤマチ]をかざり給ふな堂上家に鑿説を嫌ひ給ふと宣へどもそれは中古乱世に道衰へ上代の事の明らかならざるより云出せる事にして久堅のあめあらがねの土とのみつゞくものと心得よと定家卿已来教来るもたゞ歌などによむ時はそれを瓢形なりと争はんもよしなけれど古書を註釈せんには少しも義理をよく弁じ作者の意をかくさぬやうにせん事専一なるべし兼良公の秘訣に子のこの餅の三つが一に左伝の絳県の答を引かれたる何とて是を鑿説とは捨たまわざる公三代の抄物もなき以前だに源氏はよまれし上はこと〴〵く無用の鑿説とやいふべき唯村老野翁に閉口をおしみて大道をあやまち給ふ事なかれ匹夫をも志を奪はざるは聖人の道なり此物語のうへは姑く舎て天下の政だに諌の皷を置批難の木を立て下民の詞を取用ひ給へるとこそ承りし今天下武家に帰して只文学にのみ募り給ふ身なればこそかく下情を蔽ひ給ふとも其害少からん若大臣天下の刑罸を行ひ給ひてかく威勢につのり給わば君を出して桀紂たらしめ給わんとはゞかる所なくのべければ公は面に汗してすべり出給へりとぞ
嵯峨の奥
入道前内府実澄公春服既成の頃ほひ花鳥の色音もゆかしく思して心置給わぬ近習の臣三人四人具せられ西の郊外に出給ひ大沢広沢の池を臨み名こその瀧の旧蹟も尋ねまほしくいづれの緒よりとよみしも松ものいはゞとひこましなど戯れつゝそことなく分行給ふに過し頃図らず立より源語の問答に及び給ひし隠者が事おぼし出てさるにても一見識の面白く殊に世を諂はぬ気象の忘れがたければけふもいざ立寄て問ばやと嵐亀の尾の花に背けてかの山道を攀給ふに頓て其庵に至り給ひぬ従者をも走らせず柴の扉押明て入給へば主は例の脚折たる机によりてしばし午睡し侍ちしを高らかに咳かせ給ふを驚て見上だるに忘るべくもあらぬ温良の御顔ばせなれば急ぎ机を押やりふつゝかなる足にてまろび出ぬ公莞爾と笑わせ給ひ「山里にひとり詠むる心こそ花の有代もしづかなるらんと宣へば日頃音せぬ人のとふらんとよめるも花なさけなるを先々こなたへと入奉り所に付たる木の実など参らせて何くれと語り給ひ公元来賎を軽んぜず翁も尊きを忘れて心の底を包み得ずはて〳〵はかの物語の事に及びて翁が云揚名の介ねの子の餅とのゐ物の袋を三箇の秘事とし侍る事何れの世よりの事にや甚不審全く式部が胸中に設たる事には非ず案ずるに後人解し難き事を考得るに高ぶり多く人のしらん事を惜みて我一人の才力に傲らん為なるべし古今伝授など云事も貫之躬恒が腹心にはあらず古の事を後世に伝へんには書に増る事有べからず夫に書外に伝有と云事肯ひがたし且明白の大道に隠し包むべき事有べきともおもへず聖人の道五帝三王より周公孔子に及び今此国に伝えて一毫の秘説なし仏家に顕密と分れて真言秘密の法あり是恐らくは竺土の妖術にして実に世を惑はし民の誣の法なるべし吾神道に神秘と称じて同じく唯授一人門外不出と珍重する事又怪しきの甚しきもの也神道は日本の大道也上一人より下兆民まで知らん事こそ有まほしけれ押て支那天竺に及ずとも惜む事有んや案ずるに神道と称ずるもの其権輿慥ならず先我国を神国と云事日本紀より文徳実録まで五部の書に見へず漸三代実録に至て初てしかいへりさればそれより先に神道と云る事些に一二ケ所に見へたれども神国の道と云事にはあらずして只大道の神にして測べからざるの称也然れば今の神道と云事は全く凡常の建立なれば老仏の異端よりも其見解狭少にして巫覡の小道に比すべきものならんさればこそ儒仏荘老の道は遠く吾国にわたりて信ずるものあれども我神道は他の国はさておき日域にさへ絶々に成行事全く楊墨が属なるべし然れども其狭少にして海外まで信ずべからざる事をば兼て作者も心得たるにや面授口決と辞を残しくま〴〵の覚束なき所をば神秘々伝と隠して奥深く思わするの謀なるべし是明白の論にして異論有べからずといへども吾国に生るゝもの其国を譏るに似たれば心あるものも皆覆て顕さぬ也夫をよき事として神学者流の強欲者是に謝物の数を極め何の伝は白銀何枚何の伝は黄金幾回とよき価を求めて伝へぬる事うらめやうらめや恨めしき道の末と成行も初め秘伝と定めし故なるべし夫に倣ふにや何事にも秘伝と云事有を思ふに軍旅の法及刀鎗の術などは互に勝負存亡を争ふものなれば人にしらせずこなたのみ知る事を尊ぶも有べし是既に六韜の六経に劣り王道の覇道に増れる所也中に就薬に秘法ある事更に信じ難し医は仁術にして人の危難を救ふ薬なれば一人も多く知らしめて此薬にて天下此病をして人を損ぜしめざらん事こそ有まほしきを家法家伝と秘するは鬻ぐものを少くして我一家に価を納ん事を思ふ悋情にて何ぞ仁者の心を論ずべき是又浅猿き事ならずや併公の尊意を伺ひ教誨を仰ぐと聞えしかば
神道の受
公点頭まし〳〵翁が申処的論と云べし然れども経学にのみ泥て国学に疎也故に巫覡の末術を見て神学の本道を窺ふに似たり且医家の秘薬真言の密法の事我も疑ひなきに非して曽てさる老宿に問し事有其人の云秘薬と云は人の肝を人胆を入及び胞衣等を入る薬は猥に伝る時は己がために人を害するに至るべし人中黄人中白其余穢悪の物を加ふる薬は病人是をしればいなむ心有かゝる配剤を秘薬と云て深く其剤を隠す今参蓍黄甘のみの薬を秘するは法に悋懎なるにして名利を貪るなり喪命堕胎薬をして愚悪の人に伝ふれば世間に大害有りこれらを秘法と云て又隠す真言家には有験の法を修す法に依て爰に利有てかしこに害の有あり増てや朝敵仏敵などをば調伏の法有此法をもて愚悪の人に伝る時は己に害ある人を調伏し己に利ある事をば他の害を厭わず行ふに至らん然らば師たるもの能門人の篤実を照して授くべき事なれば是全く秘するをもて道理とすべし刀鎗の術なども奥意は必勝の位なれば是又麁𤄃の人物に伝へば世に害有べし軍旅の法は尤翁が申ごとくならん扨神秘と云事は吾国の大道也夫をいかにと云に唐土は徳を以徳に譲と極て一天下の人皆帝王と成の国也日本は神代人皇血肉を伝て君は万世の君臣は末代の臣也然れば天子の事は天子限[ギリ]の神秘にして他人の窺ふべき事に非ず摂関の事は五家の神秘三公の事は清花槐家限[ギリ]の神秘にして是又他の窺ふべきに非ず征夷将軍は清和源氏家伝の神秘にして他姓の窺ふべき事に非りしを鎌倉将軍衰廃の頃北条家執権として補任を行ひしよりいつとなく人心をして権勢いたれば誰人も天下を掌握する事と覚へ夫より而下列国の群雄競ひ起て天下を争に及べりと雖織田豊臣の如きも終に青幕を捲けざるにてしるべしかくのごとくに掟たる国風なれば其社は其社の神秘此宮は此宮の神秘として他へ洩さず他を窺はぬを道とし夫に倣て百工百職も己々が家風を守るをもて神秘とする事恒の産ありて恒の心あるの教にして上下咸く其業を守りて争わず天下万々世安穏泰平の道ならずや然ども翁だに此趣は未知らざれば世俗知る人少く雲上月卿の家には各其職掌をこそ秘伝すべきに誤を伝えて是は歌道の家これは鞠道の家と技芸の上を珍重する事衰世の有様にて識者の嘲を恥ざる事にこそと宣へば翁大に感服し何か包まん今迄は尭舜の道のみ尊くて吾国の渠に及ばざらん事の恨めしかりき今図ざるに山棲へ珠履を忝ふし尊貌を拝するのみならず始て君子国の正道を聞事を得て所謂天の八重雲を科戸の風の吹払ひて蒼天を仰ぐ心地し侍ると聞ゆれば公も歎喜の御顔ばせにぞ見へ給ふ爰に所がら赤烏早く西山に没しぬれば又かさねてを契りをきてぞ出給ひける
橋の下
北野随念寺に寓居せる空心と云尼師疾病なる時生姜を需められしに若き尼生姜の皮をもさらで与へたれば莞爾として橋の下〳〵と独言して噛れたり是は古徳の垂戒に他の病を介抱する人は菩薩に供養する思ひして懇ろに看待すべし病人は橋下に臥る乞丐の病る思ひになりて意に叶はぬ事も忿恨を発すべからずとあるを此尼師思はれたる也とぞありがたき志にこそ侍り
欲は身の毒
鳥獣を殺すのあしきはしりて人の意を悩ましめあるひは其業を妨げ奪ふやうの術をなすことのあしきをしらぬ人もあり世に念仏者にて欲深しなどいふ人も有学者にも私の逞しき人も有道をもて私し人をあざむくは天刑をいかん
鼠大根
江南の橘江北にうつせば枳となるは土地を替れば尤さるべきことにして又仮染にも他の気にふるゝによりて気味を変ずることあり此頃近江伊吹山の蘿蔔を得たり象円く根の末細き尾のごとくなれば鼠大根と俗称す此物屎尿の力を借ず自然生にして辛辣比類なく調味を好む人は大に賞翫す然るに船をもて他方におくれば気味大に減ず陸路にては元のまゝ也と云り是水気に触る故なるべし
作魔地を失ふ
良能云人のよき句したらむに驚き我も負まじと思ふ心是即作魔也その日は其人に手柄をさせて遊ぶべし未来記にいへるかやうの時我も〳〵とあらそふ心いできたらむ己が俳諧の地まで失ふべしとかく承りながら余人はしらず大江丸此慢心度々出て修行の地をうしなひし事数度也後悔跡にかへらずよつてざんげして書置く也とあり
下手のなき世
信夫云何の道にても四十年計前かどに名人上手功者下手とわかり下手は下手なりに楽しみ年をつみて功者となり上手といはれ天然と名人の場へも至りし事也今は此下手に成ている者なくなりてむりおしに上手といふものになるゆへ名人といふものも出来ぬ様になりしと語られしも早廿余年の昔がたり也此下手になりてゐたる人こそ風流最上の人ならむに左様の人のなき世こそ恨なれ
火替の神事
夏の季寄に住吉の御祓火替と有て此火がへといふ事いまだ句にもむすばずや見あたらず是はとし毎の六月晦日住吉の神輿を堺の津大小路の南なる宿院〔一名名越の丘〕へ移し奉り夜に入てまた御本所へ還御なし奉る和泉の氏子堺の町人手毎に松明ともしつれて七堂の浜といふ所を廻り大和橋の北なる御輿の居石に休め奉る津の国の氏子住よしの郷民各挑灯をかゝげ迎奉り御こしを受取舁上奉れば和泉の方の松里一度に打消して闇を躍りかへるなり此祭を遙拝して紀の国和泉路淡路兵庫の湊西の宮尼ケ崎の浦々に漁どる者共の限りは磯辺に出て提灯を照らし笧火を焚つゞけ祭まいらすに和泉の方の火の光りの消るを期として各還御を拝し己々が浜辺の光りども消して家に入とかやされば此火の光りをせんぐりに目あてとし程遠き浦々島々迄もかくの如く祭るとか然れば境遠き道はかりがたき広大なる御はらひ也是を住吉火がへの神事と申奉る也和泉の人どもの家々にかへる時ははや夜半なれば秋のうつる折から誠に夏越しの正しき事是に増るはあらじとそ思われける「火を替るさかひの町や秋の風旧国
天下の俳諧
天和貞享には談林元禄の頃は正風宝永には其角が洒落正徳に不角が化調享保に沾州が比喩長水の五色墨乙由が伊勢風元文に淡々が浪華ぶり湖十が浮世などゝ流行すれど一人の俳諧にあらずして天下の俳諧なりと雪中庵蓼太は申されしと也
武運の稽古
駿河台の鳩巣先醒の庵へ或日若侍衆武芸の場より帰るさに来て例の文談に及べり翁云よう武芸は各の家業といふべければ常に稽古有べき事也但武芸と武運と何れが重き事と思ひ給へる翁は武芸より武運は重き事と思ひ侍る其故はいかに武芸に達したる人也とも武運尽なば何の詮かあらん長湫の合戦に森武蔵守は打物取て鬼武蔵といはれけれどもかけ出るとひとしく銃丸にあたりて即時に果ぬれば武芸も武勇も用ゆべきやうなく侍る然れば武運ありての武芸ならずや各武芸の稽古あらば先武運の稽古し給へかしさて武芸の稽古はそれ〴〵の師に問給はゞ委しかるべし武運の稽古におゐては芸術の師のしる事にては侍らずそれは翁などこそと語りのこしけるに翁の仰事には候へども武運の稽古と申事こそうけられ候わねもし稽古にて及ぶ事ならば誰か稽古せざるべきといへば翁頭打振ていや武蓮に稽古こそ侍れさらば承らむといへば翁各思案して見給へ運は何国より出る事にて侍る天より出るにあらずやされば世話にも運は天にありと申候とかく運をば天に祈るより外はなかるべし天の心に叶わんとならば天の好める事は何事ぞ悪める事は何事ぞと尋ぬべし翁つら〳〵天の好悪を案じ見るに天は仁を好で甚不仁を悪む信を好で甚不信を悪む其いはれを云に天はたゞ万物を生ずるを心とする故に古より今に至るまで年々人物を生じ〴〵てやむる事なし秋冬粛殺の気行わるゝといへども果して粛殺するには非ず生気を固うして根へ帰せしめ春を待えて又発生せんとなり易に生々之謂易といひ天地之大徳星といふは此事也天に有て物を生ずるは人に在ては人を愛するなり各是をもて見給はゞ天の仁を好て不仁をにくむといふ事疑ひなかるべし又信を好む事をいはゞ日月星辰の行度万古を経ても一日の如し日月の食を見給へ遙に大空の外なる事を爰もとにて推歩するに分秒迄もたがはず是に【過たるカ】慥なる事あるべきや天下の至信といふべし然れば人は外の事はしばらくさしおく只仁にして信にだにあらばおのづから天心に叶ふべし天心叶わゞなどか擁護なかるべきさりとてしばらく仁を行なひ仮に信を守りて其験あるべきとにはあらず是は平生にある事なり常に仁を好て人を損なわず常に仁を篤うして人を欺かずかくしつゝ歳月を積なば其誠天にこたへてはからざるに自然の冥助もありなんされば戦場にてもおのづから禍機に触ず矢石にもあたらざるべし翁が武運の稽古といふは是を申にてこそ侍れ老人の僻言と聞給ふべからずとあるに座中よりひとり翁にいひけるは武運の稽古と申事あたらしき事承りて感服し侍る今より此稽古忘れおこたるまじきにて候但世には仁にして信ある人に禍あるも有不仁不信なる人に福あるも有顔回は大賢なれ共貧窮にして夭し盗跖は大盗なれども富厚にして寿し翁のいへる武運の稽古も爰に至て少し疑はしうこそ候へ是はいかゞ心得侍べきにか候翁それ善をすれば福あり悪をすれば禍あるは是正理の前にて必定の事也それに幸あり不幸あるは時の仕合にて不定なる事也聖人は只正理を説給ふにて侍る不定の事をばいかで説給ふべき譬へば身に病なく長命ならんと思はゞ常に酒色を禁め養生するに有主君の気にあひ立身せんとおもはゞ職事を懈ずしてよく奉公するに有然るに養生よくても夭死する人有養生あしくても長命なる人有さればとて養生しても益なし養生せずしても害なしとはいふべきやよく奉公しても不幸にて立身せざる人有奉公よくせずしても幸にて立身する人有さればとて能奉公しても益なし奉公よくせずしても害なしとはいふべからず若養生しても益なしといひて日夜酒色を恣にせばやがて病死に至るべし奉公しても益なしといひて度〳〵職事に懈らばやがて黜罸せらるべし然れば養生は長命を得るの道奉公は立身を得るの道たるは是不易の理といふべし只歎かわしきは世俗の有様也専に身を利して人をそねみ偏に智を恃て詐り飾る自ら是を世を渡るよき計とこそ思ふらめど終には天に見捨られぬべし人として天に見捨られなどいかでよき事のあるべき翁若き時より世に時めく士大夫の邸宅を過て見るに三つ葉四葉に作り並べたるに歳々に諸寺諸山より捧げすゝめける武運長久の牌を門に釘せぬはなし然るに其家或は刑戮せられ或は子孫断絶して武運長久の牌は其侭門に有ながら主うせ家滅びて跡方もなく成行もあまた有是皆武運の稽古なき故にこそとおしはからるれ日頃稽古なくして祈祷厭勝の力にて武運を守らむと思ふ事愚なる限り也とあるに若士の人々も感服して帰りけるとぞ
宇治丸
宇治丸と云は鱣鮓にて価金百疋の由人々云伝へたり中は左様の価にては是なき事とぞ近年大坂中の島の何某と云富貴なる人出入の幇間を召連れ京都へ登り数日逗留の内或日宇治見物に行しにかの幇間が旦那宇治丸立とはいかゞと云にいかさま来たこそ幸ひよきに計らへと有に心得候とて菊屋とやらん料理屋へ至り尋ければ亭主出宇治丸御所望に候やと云にいかにも所望也と云に然らば奥へお通り下さるべしと座敷へ伴ひ扨家内の様子甚混雑の体にてやがて亭主上下を着し座敷へ出先以て大慶の段有難き旨一礼をのべそれより盃出取肴鉢もの類あれ是出せども鱣はかつてあらざればいかゞと思ひながらやゝ久しく待しに漸細き鱣二本焼て出したりされどもつゞいて持出る体もなけねば今少し沢山に出し候へといへば畏り候とて又余程ひま入りて三本焼て出しぬ是にて茶漬など喰ひ酒も納めて払の書付取らんといへば亭主御心持次第下さるべしと申に夫にては如何なれば是非直段聞せ候へと再三尋しかど兎角御心持次第と申ゆへかの幇間亭主を片隅へ呼び内分にて尋ねけるに是迄斯様なる格もあらんに心持といふは大体いか程なりやと亭主云是迄の格を申さば金廿両又卅両申受候至つて過分なる心持に申受候は五拾両も御座候といふに驚き夫は何故左様に高直にやと問ふにいかにも高直なる訳申さんと裏の小屋へ連行見せけるに大半切桶に鱣数杯有亭主ゆびざして云斯の如く宇治中の鱣を丸で買取申候去により宇治丸と申伝へ候此内にて纔三五本目利仕料理致し差上申候残りの鱣は此宇治川へ残らず放生致し候也右の様子に候へば施主の御方所望被成候事甚稀候得ば私祖父の代に両度親の代に一度御座候まゝにて私の代にては今日が初に候元より此儀に付口銭世話銭申受候儀は曽て是なく候只私の身に取つて外聞に候へばいか程にても御心持次第つかわさるべしとぞ申にぞ拠なく亭主を京都の宿へ連帰り数十金の金子を渡しかへされしと也
羊肝牛干
羊羹は羊の羹と書ども羊肝にて求肥は干牛[ヒギウ]の容に似たるゆへ転語したる也故に求肥と書松風と云菓子は表に罌粟をふり裏は模様なき故浦淋しと云心にて松風と名付し由春日野と付しは予が綺語文草にもしるし置しが物の名を付るはこゝろすべきにこそ有べし
気違法斎
気違ひよほうさいよと云詞は法界を言誤れるかと思ふにさにあらで元和年間常陸国に法斎と云る貴き僧有て太皷鉦の拍子を揃へ躍念仏を催ふして勧進を乞ふ是を法斎念仏とて古き書にも見へたり寛永のころ狂人の法師の躍念仏をまねて独り町々小路を走る幼童集りて気ちがひよほうさいよと言はやせりとぞ
氏神正一位
世俗に我生土[ウブスナ]神を我氏神と心得たるは誤なるべし氏神とは源氏に八幡平家に平野藤氏に春日などを云産すな神とは別なり神社に位階を授るは尊卑をわかつ為にはあらず正五位には田十二町正四位には田廿四町を奉らるゝ也正一位には田八十町の神領を寄付する也今稲荷といへば一歩の田もなく正一位と唱ふるこそいとおかしからずや
七子の彫物
絹に七子織有金具にも七子とて細点に彫しを云其紋の魚胎に似たるをもて名付しなるべし魚を古語に魚[ナ]といへば魚子[ナノコ]と云
浅葱萠葱
紫の朱を奪ふとは今の江戸紫を云にあらず昔の紫は今の蘇枋に似たるゆへ云浅黄は黄色の浅きにあらず葱の色を葱[ギ]と云て根葱[ネギ]、刈葱[カリギ]、分葱[ワケギ]又葱帽子[ギボウシ]とも書り然らば浅葱萠葱なる事明らけし
ひやかし逃助
吉原へ見物のみに行を素見と云俗にひやかしと云昔山谷に漉返しの紙を製する者紙の種を水に漬置その冷くる迄に行く廓の賑ひを見物しけるより出たる詞なるよし京摂に無銭にて戯場を見物するを青田[アヲタ]と云油虫とは別に意あるにあらず逃助[テウスケ]とは逃[テウ]はのがれ助はたすかると訓札銭場銭共に逃れ助と云心なるべし
弁慶太皷持
遊所戯場等へ無銭にて供するを江戸にてヲンブ、ヲブサルなど云是負れ行の心にて人に負るをおんぶと云御側さらずの機嫌取を弁慶と云は旦那を判官と云より号牽頭幇間を太皷持と云は紀州の和歌祭に雑賀囃子に重き鉦太皷を二人宛して持行いかなる力量あつても両方はもてず鉦をもつ者は太皷をもたず太皷もつ者は鉦をえもたぬと云謎々より名付しと云嗚呼ゆえあるかな
角兵衛獅子
京摂にて越後獅子と云を東都にて角兵衛獅子と云武蔵の国氷川神社に古き獅子頭有角に菊の紋付て銘に御免天下一角兵衛作之と彫有といへば角兵衛は古代の獅々頭の名工と見へたり
忰餓鬼
我子を忰といふ詞は痩枯[ヤセガレ]の略語にて人を卑め詈詞也餓鬼といへるも是に同じ今は貴賎とも我子を称する詞となれるは謙辞なり文字には忰と書今俗に躮又忰と書吾を憔悴枯槁と謙辞也と云夜豆加礼とてもとは奴僕の称也今自称して僕とも吾ともいふは我子を忰といふに同じ不侫野拙など皆謙辞の心ばへ也
戎紙神在餅
紙の隅の裁遺したる俗にゑびす紙と云りこは十月には諸神出雲の大社に集り給ふゆへ此月を神無月と云恵比須講は此月にするゆへ此神ばかりは出雲へ行給わねば神の立遺り紙の裁残りとを兼てゑびす紙とは云とかや出雲の国にては神在月とて家毎に餅を搗小豆と共に煮るよし是を神在餅と云京摂にては善哉餅と唱ふ誠は箭祭餅とて武家にては呼よし予戯れに云江戸にては汁粉と云も戎の名にて【我自刊我本戎の名に似寄とあり】比留児餅と唱へなば神在餅のよき対句なるべしと可笑
看板の謎
鏡の銘に天下一と鋳るは鋳手の自賞なるべし醴酒の看板に三国一とは醴酒は一夜酒ともいへば孝霊年間駿河の富士は一夜の内に顕ぜしと云心にて三国一と云なるべし饅頭を売る店に刎馬の看板を出せしとはあらうましと云昔の謎なるべし浪華に虎屋饅頭名高かければ猿屋とも猫屋とも付たるなるべし或人虎屋の向ひにて饅頭屋をせんに虎にまけぬ名を付呉と云虎屋に負ぬ名ならば国姓屋饅頭こそよからんとは宝暦ごろの洒落なるよし紙屋の門に笹を立竹牋の昔をしらせ湯屋の入口に矢を出おくは弓射と湯入の謎なるよし白粉屋の出箱に凸の形あるは中高な顔には白粉のよく移るを云昆布屋の看板に富士山は水からの謎なるよし山椒を昆布に巻て見ず辛との説は予が綺語文草に出せり今焼芋の行燈に八里半は九里に近き味ひをのべ十三里と書は九里四里味ひと云よし生焼を十里と云は五里五里じやと云よき悪口なり
代神楽
太々神楽といふことは代神楽にて講中の人々に代りて神楽を奏するがゆへ代神楽なるべし代大神楽と書べき也一万度の祓とて幣串を講中へ配るに串を入る箱を御はらひと唱ふるさへおかしきに千度一万度と云は仏家の経巻を誦す数を唱へて施主へ送る此巻数に倣て千度一万度の祓などとて幣串を祭主へ配る笑に絶たり
月待日待代待
巳待酉の待〔十一月酉の日に鷲大明神に詣〕月待日待庚申待廿三夜待廿六夜待などの待は俟の義にあらずまちはまつりの約語にして祭祀の義也子待は子祭巳待は巳祭なりと云り代まちも代祭と云事にて代参代垢離などの意なり祈念する人に代て祭の称なるべし
盃の銘
東都にて大盃の銘を武蔵野と云りこは酒盃大者曰武蔵野言は野見不尽之意也酒の多くて飲尽されぬを武蔵野の広くて野見尽されぬと云謎語なるよし聞けり
瓦葺
寺を瓦葺と云は往古貴人は皆檜皮葺を用ひ賎民は板屋茅葺などなれば和歌にも板屋もる月茅が軒端などよめり只寺院は壮麗を専らとすれば瓦葺に造りしなるべし蕉翁の吉野の発句に瓦葺もの先ふたつは是を詠ぜり
七党八平氏八庄司
武蔵の七党とは私市丹[シヒタン]児玉金子村山海老名須貝[スガイ]をいへり又坂東の八平氏とは平山稲毛長井榛沢榛谷都筑足立豊島等也紀伊の国熊野の八庄司と云は玉置[ヲキ]湯浅秋津芋瀬[イモガセ]真砂山本日出[ヒノデ]湯川等をいへり
愛子の庄司
道成寺の謡曲安珍清姫が事は古き畫巻物にも有て謡曲に清姫が父をまなごの庄司に作れりまなごは氏にあらで実は真砂なれども娘をふかく寵愛すると云心にて愛子の庄司と異名に呼かへしなるべし庄司娘を寵愛の余りと文句にも見へて明らけし
我国のかな付
漢字には日月と書て我国の詞には月日と読風雨と書て雨風と読山海を海山風波波風昼夜を夜昼夫婦を女夫東西を西東南北を北南と文字に反してかなを付たり
雷除桑原
桑原といふ所は昔菅家のしろし召たる所也延喜の霹靂その後度々雷の落たりしに此桑原には一度も落ず雷の災なかりしとかやゆへに京中の児女子雷の鳴時は桑原々々と云て咒しけると也
めりやす莫大小
手覆ひにめりやすと名付る物は一名莫大小と云て手のふとき細きによらず身にあふとの心也扨めりやすと云ふは原戯場の楽屋にて三味線の名目にして調子のめりやすきと云事を下略して名付ると云其三味の手長き有短き有かの手覆のめりやすは此三味線の手より名付しと知るべしめりやすは三味線の名にて唄の名にはあらず長き唄を長唄と云短き唄を女里家寿唄と云へり
鉄火味噌
金とさへ云ば鉄火も握り兼ぬと云心にてか袁彦道の党に素躶の者を鉄火博奕又鉄火打とも呼よし東都にて味噌の中へ種々の加薬の入しを鉄火味噌と云は京摂にて諸味の中へ大根など切込しを泥坊漬[ドロボウヅケ]と号るに同じ芝蝦の身を煮て細末し鮨の上に乗たるを鉄火鮓と云は身を崩しと云謎なるべし
自堕落者
東都にて泥坊と云は盗賊の異名にして京摂にて泥坊と云は放蕩者の異名とせり銅脈とは雁金[ガンキン]の名に呼び道落者とは京摂の泥坊に類す是自堕落者と同じく放蕩人の異名なるべし極銅とは極道落者の略語と思わる俗諺に仕事幽霊飯弁慶其癖夏痩寒ぼそりなんどいへる輩を云なるべし
蓮葉女
婦女子のおとなしからぬを蓮葉女と云事は西鶴が一代男に書有て長唄娘道成寺の文句に吾妻育ははすはな者じやへと故慶子〔俳優長中村富十郎〕が己を謙退の詞也此唄東都にては【浪華ヲ云フカ】にては都育と諷ふ此名は浪華の宿屋にて客馳走の為置たる女の名のよしにて今も竹の皮のなき田舎にては諸品を蓮の葉にて包藁にて括る下品なるを云也御伝馬とは刎るより号奴と云は爺嚊又は金平娘などに類し衒妻とは色を売る女を云なるべし発才とは賞たる詞なるを発才女郎とは卑賎の女の名と思ふは誤りなるべし
鵜の目鷹の目
目廉を付て人を見るを諺に鵜の目鷹の目と云二鳥は目の疾物ゆへ譬にいへると思ひしに硫黄に鵜の目鷹の目と云有て上品なる物を云と也硫黄の色の黄なる彼の鳥の目の色に似たるゆへなるべし
桃鬼灯
京摂の南蛮黍を東都にてとうもろこしと云是に限らず都ての物名を異にする物甚多し中にも夏中金魚の餌とする物江戸にてぼうふらと云京摂に云孑孑[ボウフリ]にあらず〔孑孑は俗にどりぶりと云壬生狂言の棒ふりに似たるゆへ云カ〕いわば上方に桃鬼灯[モヽホウヅキ]といへる虫に似たり此桃鬼灯の名義解らず桃の如く甘み有て鬼灯の如く苦み有て云か金魚ならねば味わかるまじく只色の薄赤きゆへ桃鬼灯と呼か識者の考をまつ
蝸牛
蝸牛を京摂にてはかたつむりでゝ虫俗にデン〳〵虫東都にては是をまい〳〵つぶれめい〳〵つぶれと云はいかなる心にて呼やらんいぶかし
箱入娘
今俗間に深窓に養ひかしづく娘を箱入娘と云は弥生雛祭の時婦女子の弄ぶ娘の木偶は箱に入あれば夫を云にやと思ひしに竹取物語に竹取の翁赫夜姫を竹の中に得て美しき事限りなくいと稚ければ箱に入れて養ふと云より箱入娘といふよし古き詞也
蚊の喰ぬ咒ひ
世俗に正月宝引などの戯れをなして蚊の咒と云は訳なき事也実に蚊の咒と云は幼女のもてあそぶ羽子板にて羽根を突を云也ゆへいかにと問に秋の始蜻蛉といふ虫出て蚊を好食ふ也羽根は木蓮子を羽根に付羽子板にて突上れば落る時蜻蛉の容有是蚊を恐しめん為也宝引双六〔道中双六〕などを蚊の食ぬ咒といふべからず
鞦韆蜻蛉返り
蜻蛉返りとは逆さまに落て下にて直になる事にて羽根羽子板にて突時突れて下に落る析則蜻蛉返りす又上巳の日大内にて鞦韆とて行なわる式には色〳〵あやぶ【どカ】りたる物を高き木の上より釣下す事を云是を鞦韆とも云世俗ぶらんこに釣下すなど云此事を云也
道具と牛
すべての器財を道具と云は仏語にて俗には器財を具足と云しを今道具とのみ云は仏語になづめるなるべしと或人いへり又家の棟木を牛と云は汗牛充棟と云事より誤り来りしなるべし
惣嫁の出火
寛政四子年五月十六日夜子の刻より同十七日酉の刻迄火元大坂七郎右衛門町二丁目塩屋弥兵衛浜納屋より出火の写町数八十九町家数二千百十八軒竈壱万五百四十二軒納屋百九十七ケ所土蔵百八十三ケ所穴蔵六十二ケ所橋九ケ所宮三ケ所道場九ケ所寺二十九ケ所蔵屋敷十五ケ所北組惣会所一ケ所銅座一ケ所俵物会所一ケ所西与力四軒東与力九軒東同心衆四十七軒御弓同心十軒御破損手代十軒川崎村家数四十一軒竈百九十一軒寺一ケ所北野村家数百十軒竃二百三十一軒寺一ケ寺曽根崎村家数四十一軒竃二百十六軒船場東西五百三十五間南北五十九間四尺天満東西五百三十四間南北五百五十一間四尺死人〔女一人男二人〕〆て三人也是辻君惣嫁の遺恨にて付火せし也と聞へし
小倉色紙
関白秀吉公小倉の色紙を集めて愛せらるゝに付新に数寄屋を建千の利休を招き給ふ相伴二三人有て四月下旬の事なれば風炉の茶の湯也各暁方に伺公す短檠に燈火となく有明の月床を照らす床の掛物を見れば郭公啼いる方を詠むれば唯有明の月ぞ残れると云ふ小倉の色紙のかけ物也諸人其作意を感じあへりとぞ
友鵆貝尽
世に貝程数品ある物はなし昔は金銀の如く重宝せしよし右は友千鳥と外題して尾陽藩中庵原氷室の両氏同国野間の内海温泉に遊びし紀行の中に海浜にて見たる貝の写し也此余いろ〳〵の名所など畫にも書有ておかしき書也
有楽翁の茶
大坂にて織田有楽老或二三人を茶に呼給ひしに貴人の茶なれば外人とは違ひ其上石燈籠の火をも見るべしとて未明より案内を申されければ歴々の人出て申けるは早々より御出有楽分て忝く存じらるべし老人の事に候へばいまだふせり炉に火をも入ず候先是へ御入候て御休なさるべしとて路次を明中路次の脇に小座敷のありけるに入て休息しけるに石燈籠の火幽に残る松風の音のみして暁方の事なれば物淋しく又は凄く思ふ折節人のうがひする声障子のあなたに聞へければあやしく思ひ居るに琵琶を調べ平家の小原御幸を語りける異なる上手なればいと面白く感に絶聴聞するに明ゆく空も名残おしく夜も明ければ今一句所望せばやとさゝやき居ける折節路次の潜を明て有楽よろこび出早々の御出忝なし老体の朝寐御免候へ嘸夜寒におわしつらんいざ御入候へとて何れも座入有けると也
彼平家語りけるは高山か小寺か両人の内なるべし
秀吉門破
織田公勢州浅香の城を攻給ふ城主大宮忍竹嫡子大之丞同九兵衛防戦す寄手の先手には木下藤吉郎也大宮大之丞は無双の弓勢ゆへ散々に射る箭藤吉郎が左の股に当るされ共藤吉郎是を事ともせずいよ〳〵進んで惣門を打破る信長公是を褒美して門を破る事朝比奈三郎にひとしとて其諱を返して義秀を秀義とぞのたまひけるされども義の字は公方義昭公を憚りて義を吉と改むる
泣涕微笑
治承元年五月十六日内府重盛の亭へ能登守教経弥平兵衛宗清悪七兵衛景清来りて夜話す三人云法皇御謀反の色有て大納言鹿が谷に来りて会合し給ふ由油断有べからずと云小松殿宣ふは此両条必ず推量しけるは疑ひよら起るといふと有しかば景清申は関東に頼朝有近頃は関東の武士背く事有御思慮有て然るべしと云内府宣ふは汝が詞理に当れり只恐るゝは関東尊むべきは法皇也と宣ふ景清は涕泣し宗清は微笑してけり小松殿教経に向ひ宣ふは両人の涕泣微笑の心を尋ね給ふ教経申けるは他の自【耳カ】目あり天の四智有と閉口す内府公又微笑していりぬ
鎗中村
中比摂津国半国の主松山新助と云人度々手柄を顕わしける其家老に中村新兵衛といふ者時の人毎に鎗中村といふ異名を付たり此者羽織は猩々緋兜は唐冠也何れの合戦にも敵味方是を見付てすわや例の猩々緋よ唐冠よとて未だ戦ずして敵兵敗北す其後或人強て所望しければ中村彼二品を与へける斯て或時の合戦に中村勢を寄手攻ければ中村を敵知らずして終に中村討死す是中村武具と勇を照合て敵を屈すしかし万夫不当の勇者なれども武具等にはかゝわるべからず
石川丈山
大坂の夏御陣に石川嘉右衛門重之抜駈して扨門の前にて城方の勇士佐々十右衛門幷に其家臣を打とる其功有といへども抜がけの科ゆるしがたきによつて幕府公より御勘気を蒙るよつて剃髪して丈山と号して都霊山に蟄居して歌を詠ずわたらじな蝉の小川は浅くとも老のなみよる影も恥かしとよみけり始め嘉右衛門駿府を出る時に清見寺説心和尚に暇乞せしに和尚申さるゝは戦場は幸ひに居士の願ふ所也と挨拶也嘉右衛門返答には此度籏本に三人も手をふさぐ者あらば一人は某なるべしと広言せしが果して詞の如し
時平公の墳
左大臣時平死去の前耳より蛇出てイツ〳〵と物云て又耳に入追付て死去也其後墳の辺りに出るゆへ種々供物を調へてすかせども退かず鳴弦をするに地中に鬨の声を作るゆへ又名香を焼んとすれば地中より陰霧起つて火消る供物を備ゆれば是を服す最前は三寸ばかりに有つるが備へ物を喰ひし後は一丈余りに成ていよ〳〵墳の辺に居るゆへ時平の嫡子中納言敦忠墳の上に一の社を建此内へ納んとすれども入らず先考の魂鬼穢れしと厳敷戸ざして置れぬ今の世に墳の上に卵塔を建る事是より始りし
位牌の和歌
北条時頼諸国の守護地頭の邪曲を考へんが為に諸国行脚し給ふ時摂州難波に至り給ふ時一宿し給ふ其主は尼にて其先頼朝公より忠勤せし難波六郎左衛門の末にて難波六郎兵衛と云しが早世して嗣子なく所領は小舅瓜生権之頭に押領せられ身の便なく賎の伏屋の住居をなす時頼公憐み給ひ其庵の仏壇の内に有し位牌の裏に一首を書与ふ其歌「難波潟汐干に遠き月影のまたもとの江に澄ざらめやは其後行脚の節鎌倉に帰り給ひて彼位牌を取寄瓜生が世帯を没収し尼の本領をそへて給わりぬ凡時頼公諸国を廻り給ふ間三ケ年非道の者をしるして帰り各決断の上夫々に賞罰を加へられしと也
鯉の差身
或人招請せられて行しに鯉の差身を出すかの客賞味して云亭主の饗応至つて深切也此鯉は淀の鯉なりと思ふ遠路の珍物一入かたじけなしと云亭主客をもふけて何の馳走なし是一種の馳走也しかし客早く淀の鯉の味知る事不思議也と云客の曰淀の鯉に一つの替り有外の鯉は煎酒に入て賞味するに煎酒濁る也淀の鯉は幾度入ても濁る事なしと答ふ諸人其博識を感ず評に曰鯉を籠入早瀬川に一夜置て調味すれば泥をはひて清く成ゆへ煎酒濁る事なしと爰をもつて発明せり淀川早瀬なるゆへ其流に住うちに魚泥を貯わへざるゆへに其汁濁らずといふ
穢多の訴
武州在にて百姓の数年飼たる牛死す主人彼牛土葬にせんとす日頃主人と心易き者の云此牛迚も土中へ埋るものならば革をはいで埋め給ふべしとすゝむ主人同心して彼牛の革をはいで其肉を土に埋む其後江戸の穢多頭長吏団左衛門此事を聞て畜類の皮をはぐは我組下の職也彼在の者我手下に付べしと使をもつて云渡す在所中大に迷惑していろ〳〵と詑さま〴〵と扱へども聞入ずして既に公儀へ訴へ団左衛門云私先祖より持伝へ候頼朝公よりの御教書に書有趣革をはぐ事全私手下に付申候事に候間早々右の村手下に付候様御取計らひ下され度よしを願ふ此事小笠原佐渡守畏つてさ候はゞ某心の侭に裁断仕度と有御老中成程其許心の侭に致被申べしと也佐渡守夫より団左衛門と彼百姓を私宅へ召寄られ段々聞届其上にて百姓によく聞け其法をしらぬとて団左衛門が頼朝公の掟をもつて法を立るゆへ其法は破られずさあれば団左衛門が手下に付べしと有団左衛門大によろこび百姓は迷惑す佐渡守重ねて申渡さるゝは彼百姓は元来権現様へ御奉公申上たる筋目なれば外人と替り有百姓を団左衛門が方へ引取事は罷ならず団左衛門が一党を彼百姓村の並びへ引越させ申べしかくの如くすれば頼朝公の掟も立権現様に御奉公申たる筋目も立なれば其通りに心得べしと申渡されける団左衛門大に迷惑して先達て申上候御願ひに少く間違の品も御座候間此度之儀は御免遊され下され彼願ひ御下げ下され候様にと御詑申に付其通り事済しとなり
狐草履を送る
狐火とて遠方より見るに青き火もへて消る事有或人の云我宅の野辺に度々ある事ゆへ考て見るに狐頭を上て息を吹度毎に火出る畢竟此光りにて蟇を取と見へて時々蛙の啼声すると忽止てしばらくして又光り出ると又一人の云は我予州に有し時我方へ出入する百姓ある夜厠に行其辺狐甚だ多くして火をともす一つの狐厠の外へ来し折彼百姓急に厠の内より出る狐おどろきて逃帰るとて何か物を落す百姓是を取てよく見るに骨の様なる物也不思議に思ひ箱に入て置しに其夜狐来りて戸外に云やう先程我落したる物を其許ひらい給へり早く帰し給われ其許に有て益なき物我方になくて叶わざる物也と云百姓云われ物を拾ひたれ共何なるや不知あれはいかなる物ぞと問ふ狐の云あれは火を澄す物也早く返し下されよとしきりに頼むゆへ百姓出してつかわしぬ狐悦びて帰り其後返報と見て時々草履を五六足宛椽の上に置て有扨々奇特なる事かなといふて過しが同村の者草履鞋を作り売る者有しが此狐の話を聞て彼百姓の方へ来り云様我らが作る所の草履折々四五足つゞ紛失せり尤人の盗むべき所にもあらずあやしみ思ひしが扨は狐が取其許へ進ずると見へたり我作る所の草履持参せりくらべ見るべしとて見くらべしに少しも違ひなく同じ作り草履也其時大笑ひせしと物語也
弓に蜻蛉を付る
人皇廿二代雄略天皇和州に皇居し給ひし頃御狩の時鹿を射給わんとて矢引つがひ給ふに虻来りて右の御肘に食付痛み甚しく既に矢を止んとし給ふ時蜻蛉飛来りて彼虻をくわへて去る是によつて恙なく鹿を射とめ給ふ其時天皇みことのりに宣ふは今日蜻蛉の功により鹿を得たり彼賞ずる為に武具の紋にとんぼを付べしと勅ありしより今に至つて弓道具にとんぼを付る事故実のよしなり
九郎仏
東照宮若き御時より日課の御念仏御けだひなく御具足の下へは必五条の袈裟をかけ給ひしとなり世の愚人か様の事を聞懦弱の事に沙汰せりとなり然れど神君の御深意には此度の御在陣も必死と思し召又其次の御出陣も必死と思し召なり是必死の戦ひより強はなし暗将の知る所にあらず御守本尊の阿弥陀如来有黒仏と号す香煙と染て黒きゆへ黒仏とのみ世人思えり左にあらず古へ義経の守本尊にて信仰有し故九郎仏と申也或時御酒宴に労れ給ひて御寝所に臥給ふに九郎仏枕上に立せ給ひ汝何とて今日我前へ来らざるや早々来るべしもし遅々せば災難有べしと也則御目覚早々御持仏堂に入らせ給ふとて御寝所を出させ給ふにいまだ御寝間の敷居を越させ給わらざるに御床の下より刄を以て御寝所を突上る扨こそとて御家臣に命じて椽の下を捜さしめ給ふに果して一人をからめ捕て見るに小四郎といふ者也此者御傍に召仕れし者也いかなる事にて斯の如きぞと尋ねさせ給ふに元来武田方の者にて君を討奉らん為に偽つて仕へ奉り近付候得どもかくまで御運強くわたらせ給ふに付て武田の微運の程口惜く存候とて落涙す神君感じさせ給ひて古への予譲にもおとらぬ忠臣也あたら士を害せんもいかゞ也帰し申べしと仰られ青銅壱貫文下されて甲州へ返し給ふ彼九郎仏は江戸増上寺に有と云々
恵心僧都
源信僧都博学殊勝の名高く禁庭にめされて僧都に任ぜらる源信法力の高きを悦びて老母のかたへ文を認め任官の名誉を告らる嘸母の悦び給ふべしと推せられしに老母殊の外此事を恨み歌を詠て送られける「後の世を法の橋とも頼みしに世渡る僧となるぞ悲しき源信此歌に感じて富貴を願わず唯貧窮ならではぼだい心も怠たると語り仏像を作るにも此尊体の仏力によつて信心の人貧乏ならしめんと念ず故に源信の作仏を所持して念ずる人は貧賎也とかや源信は世に云恵心僧都の事也
道明法師
昔比叡山の碩学道明法師禁中に来りて御祈祷をなす御簾の隙より和泉式部見染てしきりに恋慕の気生じて道明方へ行其事を通じて密通し式部歌を詠ず「出てほせ今宵計の月影にふか〳〵ぬらす恋の袂を道明法師返歌に「出ずとも情のあらば影さして心をてらす有明の月其夜は終夜契り翌日夜法華経を読誦す片隅に怪敷入座して法華経を聴聞す道明あやしみ何者と問ふ彼者いふやう我は北野天神也和僧は法華経の権者也よつて法華読誦の時は諸神影向ありて聴聞あるゆへ我々如きの末座の神は近付がたし過し夜和僧和泉式部と契りて身穢れしゆへ今宵諸神影向なし幸ひ今宵は我近付て法華経を思ふ侭に聴聞すと也是より道明浅猿しく思ふて好色の念を断しと也
元政魚料理
深草の元政上人は日蓮宗を尊んで等【篤カ】学にして殊勝の人池元来井伊家に仕へしと也詩をよくし歌を好り老母に仕ゆる事至つて孝心也老人の召仕ひし女ならでは取扱ひあしかるべしとて自目利して抱ゆべしとて随分美なる女の若きをかゝゆ又老母の身養生の為とて魚を調へて自料理して老母にやしなふ然れども自今の行状弟子中への法式はいかにも厳密にして猥なる事なし去によつてさしも口さがなき京都なれども一人も元政を誹謗なりとそしる者なし元政老年の後中風を病時の人中症院と唱ふ元来仏を作る事上手也中風のゝちは常に手ふるひけれども仏をばよく作らる小刀を持て木にあつる迄は手ふるひけれども木を取て小刀をあてる時はふるひ止みしと云然るに紀州頼宣公の御母公養珠院殿法華経を御信仰ゆへ和歌山へ御まねき有て御対面有其時は御前にても中風ゆへとて安座御免有しと也元政辞世に「鷲の峯にてるてふ月の影の間にかりにあらわれかりに隠るゝ
火の見矢倉
大久保七兵衛殿火の見矢倉は外の火の見より甚だ高し或夜番人の首引抜て有其後彼火の見をば台は残し矢倉より上は打折ぬそれより外々の並にすると云綱吉公御代に何にても火の見矢倉の上にて怪敷事あらば書付て言上すべしと仰出されたりよつていろ〳〵の怪敷事を書付て上るに付段々怪敷事ありしと也其後怪敷事は申上るに及ばずと又々仰出されて後は不思議の事もすくなくなりしよし番人の機によつて生ずるなるべし
宗祇の発句
或人の云藤原の義孝の歌に「#君が為おしからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな此歌の心は逢ざる前は君が為には大切なる命にてもおしまぬ心なりしが逢ふてはいよ〳〵思ひ深くなりしゆへ命さへあらば又逢ふ事も有べしなれば始おしまざりし命さへ今はかへつて命長かれと祈る心に替りしと也命さへといふ此さへの字此歌の眼字也おしからぬ物がおしくなりしといふて外の事はいはねども其内にこもる宗祇がほつくに「限りさへ似たる花なき桜かな是もさへの字大切の文字也外の花はしぼみ又は色替り落花などして見る所なれ共桜ばかりは日数の限りありてちる所の奇麗に見事なるとても外の花の似よる事ならずましてや盛りの頃は外の花に増りて一しほ見事なる事いふに及ばす其筈也ちる時さへ余花の及ばぬ物をといふ心也然れば此さへの字にて初中後の見事さをいひおゝせたる発句にて妙なる事義孝の歌に同じかるべし
幽霊の濡文
大坂にて或町人の女房死して翌晩より彼女房の幽霊持仏の前にあらはる家内恐れ騒ぐ事夥しく是によつて檀那寺へ行て此事を頼み何卒御手段を以て此後出止候やうなし給われと云住持是を聞て今夜我行てためすべしと約束し其夜彼家にゆき家内の人々を遠ざけ只一人持仏の間に座す案の如く暮過より幽霊出て忽然として彳む僧其様子を見るに彼幽霊持仏の天井を見詰め外を見ずしばらくして消失せり僧思ふよふ扨は此天井に心の残る事有と推量して密に天井の板をはづし見ればかなぶみ多く有是は女房存在の内不義をし密夫より来りたる文也扨は此事人に見付られては汚名世に聞へん事を恥臨終に心にかゝりたると見へたりと思ひ一々細かに切さきて納めさあらぬ顔にて座せし所へ出仰の通り幽霊顕れ出しゆへ重ねて出ざる様致し候まゝ御安堵あれといひ帰りたり果して夫より出ざりしと也
疫病神馬に乗る
中頃伊勢に住ける馬士夕暮に馬を曳て我家に帰る時に一人怪敷男来りて其馬をかせといふ馬士いふは此馬は今朝より遣ひ宿に帰りて休息させんと思ふ也と彼男がいふ我を乗ては少しも馬に労れなしぜひ借るべしといふ其景色何とやらん物凄く覚へければ辞しがたく馬を貸すあやしき男大に悦びて馬に打乗りて行彼男語つて曰我は疫病の神也此せつ疫神方々へ廻りて疫気を人の家にうつしてなやます奸侫邪悪の人を先とす其方の家へも行んと思へど馬を借りたる報恩に此度其方の姓名を消べし今宵より鎌田村七兵衛が方へ赴也鎌田村の入口まで馬に乗り形は掻消ごとく失にけり馬士恐ろしく早々帰り翌日何となく鎌田村七兵衛方へ見廻に行て問ひければ七兵衛女房がいふ前夜より夫七兵衛大熱病を煩らひ前後不覚の体にて候といふ馬士内に入て様子を伺ふにきのふの怪敷男七兵衛が傍に居他人には見へず馬士計りの目に見ゆる扨疫神七兵衛が口に手を入て腸をだん〳〵と引出し井戸ばたに持行水を汲んで洗ふ事数遍也其後又はらわたを七兵衛が口より出し疫神団扇を持て七兵衛をあほぐ馬士をふと見て早く帰れと仕方するゆへ馬士は早々帰る其後七兵衛は病死せり其外家内大に煩らひ又は病死し世上以の外疫病はやり人多く死すに馬士の家内のみは安穏也しとかや
淀屋辰五郎
淀屋辰五郎の家滅亡の起りは辰五郎遊里通ひ世の取沙汰をも憚らず家内の納も麁略なりければ母是を愁ひ兼て親しき老医有利害を解辰五郎を諌めければ合点行しか遊戯を止むる母大に悦び老医に礼詞をのべ猶礼謝として家に持伝わる茶壼を送る此老医茶事を好まず商人に売る夫より諸所の手に渡りて流布する内公役人何某といふ者此壼の事公聞に訴へ此壼先年公儀より御尋の茶壷也其時は手前所持仕らずと偽り隠し置候段不届と御咎あり其外彼是によつて辰五郎は追放せらるよつて家めつきやくしけるしかし此壼ばかりにあらね共畢竟此壼御咎の第一となりし事時節の不幸也辰五郎は後三郎右衛門と云元来八幡の侍也
村井軍兵衛
村井軍兵衛は江戸にて朋輩を打殺し首尾よく立退御籏本何某に匿れ居たり五月頃芝居を見物に行しに瓜を商ふ者六人軍兵衛を取かこみ討んとす是前に討し朋輩の一族仇を報わんとて姿を変じ待掛たる也軍兵衛六人を合手にして五人を斬伏一人酒桶の影に隠れ居るを酒桶ともに切殺したり此刀は備前祐定の刀也此節切先少し折たれども至極の業物ゆへ軍兵衛秘蔵して後年迄も先の折たる侭差料にする由両度の働を籏本衆より紀君頼宣卿へ申上る其上軍兵衛剣術功者と沙汰有によつて紀君軍兵衛を二百石遣わされて大番に召出さる或時南龍院公御前へ軍兵衛を召さる軍兵衛畏つて出御尋の答は御手廻りの面々を御除下さるべしとて公と両吟にて申上るは私儀剣術手練仕らずしかし心は誰にも勝気にて御座候夫故か人に負申さず候か様の儀は人の承り候ては気にて勝者と存候て武家にても武芸の稽古油断になり候間両吟にて申上候といひしよし
国造の烏帽子
肥後国阿蘇の宮神主は国造といふ国造の職を受るより其職を退ぞくまでは外の人には言語をまじへず対面もせず只下人又は下手の社人に事を談ずるのみ也諸人は国造の神前へ出らるゝを見る計也然るに氏子一人用事に付京都へ赴に此者いふ様いつも国造殿の神前へ出らるゝを見れば兀たる烏帽子を着て出らるゝ体甚気の毒なる事いはんかたなし此度よき序なれば是を持行修覆させんとて国造の家司に告て烏帽子を修覆させんと乞ふ国造の家司此事を神職に告る国造満悦して奇特千万也とて餞別として銀壱貫目を彼男に送る彼男思ふ様夥しき餞別也此銀にては烏帽子何百も買べきにと思ひながら返すも不礼と受納して旅立扨京に着して用事を達し其後烏帽子やへ行て国造の烏帽子を出し修覆せん事を談ず烏帽子屋是をよく見ていふ扨此烏帽子は余人の烏帽子にあらず是を着する人は肥後国阿曽の宮の神主計也と彼男横手を打て扨々よく知つたり其通也といふ扨亭主我いまだ烏帽子を見ずしかし家の伝授の一つにして書物の内に図法有と云彼男いよ〳〵修覆を頼むべし料はいか程と問亭主がいふ是はつくろひをなすも新しく折たつるも同じ直段也其価拾四貫目と云彼男肝を消しいかにして折とても大概程の知れたる物也夫ならば天子将軍の御冠はいか程の価なりや亭主いふ尤上々の御冠烏帽子は外の割には下直也又是を折立るは我々一人にて七日の間に仕立るゆへ何の雑作もなししかるに是にばくだいの料を取るはいわれの有事に候我々此烏帽子を折事是限りにて一代所業をやむるゆへ外の家職人となる也ゆへに拾四貫目を外の商ひの元手銀となす故也と云此詞を聞て国造の大層なる餞別の心を得たり扨拾四貫目の銀子に当惑して先一度古郷に帰り一家中へ相談しよふ〳〵銀子を調へ又々京都へ登り烏帽子を折らせて事済けるとぞ
日本左衛門
延享三年丙寅の冬日本左衛門といふ者人相書を以て御尋有ける此者本名は浜島庄兵衛といふて盗賊の張本也いろ〳〵と御吟味あれども出ず然るに梶井の宮御門跡に仕ゆる中村左膳と云新参者有又中村順助【我自刊我本中村吟助と有り】といふ者有と訴へて云日本左衛門事は中村左膳よく存申べし元来左膳は浜島が同類にて候と云是によりて早速官夫【府カ】より中村をめし囲ひへ入置て拷門に及べり中村が云成程前かたは浜島と我厚く交りし也其後中絶して梶井御門跡に仕ふるゆへかつて浜島が行衛をしらずと断れども役人決してゆるさずやはり其侭囲ひに入置けり然るに京町奉行所へ美服を着し金拵の大小をさして出る者有役所は判断も済て役人銘々宅へ帰りし跡にて残りし小役人其者の訴へを聞に彼男云やう某は御たづねの浜島庄兵衛異名は日本左衛門と申者にて候と云是を聞て役所以の外騒立取逃さぬ様に用意す浜島いふやう何れも何やら騒がしき様に相見へ候是は定て某を取逃さぬ御用心と存候かならず御心遣ひ被成まじく候逃んと思はゞ斯様に名乗て出候わず品により自身出る仕合に候へばゆめ〳〵逃走る事は候はず且又改て盗賊の御吟味にも及ばず其ゆへはいかにも某事盗賊の大将を致せり然れ共世人難儀に及びしよふの儀はいたさずまづ金子三千両より下の物を盗みたる事は御座なく手下の者に下知してとらせ候是迄身を隠し候へ共此頃承り候へば中村左膳に某が有家を御尋のよし彼は前方は入魂に致し候得共近来は某が行衛は曽て存候まじさあらば某ゆへ罪なき左膳難儀に及び候段聞捨がたく終には露顕する身に候得ば名乗出御仕置を相待候といふ是によつて浜島を揚り屋へ入れ其後江戸へ送られけり牢輿にも乗せず駕の戸ひらき御紋付の長持を跡に持せ夜に入ば御紋付の提灯を出し旅宿にては上下着用の者膳の給仕など出させたり其後数日をへて遠州見付の町放れにて浜島以下四人獄門にかけらる浜島は初中後緞子繻子の類ひ着用しけると也
鷹の尾筒
将軍吉宗公より岡部美濃守に御鷹拝領仰付られ家中何某御鷹を拝見して扨て〳〵尾筒の見事なる事と云一座の面々云馬は尾筒とも云べし鷹を尾筒といふは珍敷詞と笑ふ其後は彼人さへ見れば云出して笑ふ後々は異名にして尾筒殿といふ彼何某は口おしく思へ共詮かたなしと打過ける其後在所岸和田へ帰りても尾筒の沙汰止ず何某私宅へ帰りて愁ひたる色あるゆへ家室是を見て何を愁ひ給ふと問ふ何某かの尾筒の事をいひ誠に面目なしと語る内室の云笑ひ給ふ人々の文盲也慈鎮和尚の鷹百首の内に「はし鷹の尾筒の上に置露は万の鳥の涙なるらんとよみ給へば尾筒といふべき事也と云何某大に悦びて彼歌をいひ出して前日の恥辱を清めしと也
西沢文庫皇都午睡三編 上の巻 終
西沢文庫皇都午睡三編 中の巻
目次
一 北山寿庵
一 要枢は蝕ず
一 蛮名
一 鵺の考
一 江口泊
一 陣兵羽織
一 南畝の辞世
一 牛の懸物
一 饅頭の名
一 正通の詩
一 往古の七種
一 漏刻の博士
一 貝原の書籍
一 大守三介
一 武林の八介
一 月卿雲客
一 法性寺の執行
一 瀧口帯刀
一 対句頓語
一 長谷雄の句
一 善光寺の号
一 歌の病
一 山家の秋月
一 錣曳
一 蝙蝠
一 東の家土産
一 婦女の強気
一 侠者は昔の事
一 名物に濃味無
一 婦人の情
一 八瀬や小原女
一 言葉の変
一 古着市
一 屋号不呼
一 金相場
一 樽代節句銭
一 地面持
一 土蔵造
一 左官仕事
一 橋数少し
一 毎日法会
一 昔の人数
一 京の人別
一 茶店中宿
一 引越蕎麥
一 三都の商人
一 河岸の船宿
一 辻駕籠
一 四季の売物
一 銭湯
一 厠便所
一 雑具の名
一 食物の異名
一 諸品の変名
西沢文庫皇都午睡三編 中の巻
西沢綺語堂李叟著
北山寿庵
北山寿庵は広学淳実也諸国を廻りし北国にて津浪有其所に了海といふ禅僧有諸人浪の来るを恐れてふるひわな〃けり了海は是天命也とて座禅をなす其内に高浪打来つて大海に打入又砂の上に死骸打上る扨浪静まりて諸人集り是を療治する諸医良薬を用ゆれども其験なし時に寿庵に療治をたのむ寿庵其死骸の傍に行脈を見て退けり諸人何れも薬を用ひ給われと云寿庵云斯の如く天命をしつて死する人何ぞ薬を用ひ蘇生する事を願わんや是天命に背く也といふ是によつて諸人其高論を感ず是よりして寿庵名を諸人にしらる其後寿庵紀君頼宣卿に仕ふ若山の諸士を療治するに霜月頃一人の士煩ふ諸医時疫也と云寿庵是を食滞也とて平胃散を用ひ四五貼用ひて後黒き物を瀉す寿庵其黒糞を考へ見てもしおばこ菜は食せざるや此時病人手を拍て当四月頃おばこを食せり夫より以後何とやらん腹合あしく覚へ候得共久しき事ゆへ夫とは心付ず候と云寿庵是正しく四月に食せしおばこの滞りし也とていよ〳〵四味の平胃散を用ひて病気次第に平癒せし也又石田何某久しく煩らひ腰立ず諸医手を尽せども治せず寿庵に見する寿庵脈を見て疝気也三和散を用ゆべしといふ石田申は只今迄疝気と諸人見立られ三和散を用ひたれど其験なし三和散ならば無用と云其時寿庵大ひに笑ふて足下は鉄炮の妙手にて人々に其術を教へらるゝと聞に其心得にては鉄炮の理にもくらかるべしと云石田いかれる色にて其意趣を問寿庵申されしは鉄炮を打におなじ筒同じ薬同じ間数にて足下の鉄炮はよくあたり弟子衆の打鉄炮はあたらず是は手練の業によりて彼と我との間数道具の釣合の覚悟による所也薬も又斯のごとく同じ病ひ同じ薬にても其調合の人の少しの匕加減によつて病に的中するとはづるゝ事是療治の功と不功とによる也何れの医師の調合も一同と極むが則是におなじ同じ鉄炮同じ薬にて打とも上手はよくあたり下手は当りがたし是に同じかるべし爰を以て鉄炮の理も拙からんと察すと云其時石田殆んど心服して寿庵が三和散を服する事四十日程にして病は根を断忽平癒しけるとぞ
要枢は蝕ず
高貴の人は日々美食に飽て安逸に住するがゆへ多くは種々の病有て短命也農を業とする百姓は平日麁食をなして日々耕作に身体を働かしむる故に無病長寿の者多し爰を以て流水腐らず要枢蝕ずとは古人も云り此意を五色墨の蓮之といふ者の句に精出せば氷る間もなし水車とは申き
蛮名
都て蛮国の名にイギリスヱウロツパ抔と云又商人の持るゾンカラスポウトルなど奇妙称呼なり往年平賀源内が持る平日の道具へさま〴〵の蛮名を戯れに名付たる中にも風流の蚊払ひを製たりくる〳〵と振廻せば蚊悉く取れる器也是を号てマアストカアトルと呼たりしは面白き蛮名也とて其頃評判せしが其後万年糊とて紙にて糊を包み隅の穴より押出して遣ふに蛮名をオストデ-ル又泣上戸をヱフトホユル又物覚のわるき人をスポントワースルなど号し者有みな源内にもとつくなるべし
鵺の考
頼政の射たりし恠鳥を鵺といふ是に種々の説あれども屋越の蟇目を修せられしならん屋越の蟇目と云は天地四隅を射る也四隅の形容を表じて丑寅未申辰巳戌亥を取て頭は猿胴は虎尾は蛇扨亥の形なきゆへに猪の早太といへる郎等の名を入たる物と思わると理斎随筆に有おもしろき考也
江口泊
西行法師心を雲水にひとしくして国々をあまねく廻り暮つかたに津の国江口の青楼に一夜をあかさんと乞ければ若き遊君出て此所の掟なれば独旅はとめざるよしを申侍りけるに「世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿りを借む君かなと詠れしかば彼遊君返しに「世をいとふ人としきけば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞと聞えてやがて留けるとかや予以前此事を思ひ出て「西行も江口の君をひやかして一夜を和歌の二首泊りせりと戯れし事有此頃は賎の女などもいとやさしき事どもにこそ
陣兵羽織
世に甚兵衛羽織とて袖のなき羽織今云殿中羽織と同じき物甚平と云者が製し始たるかとも思ひ居しが是は陣兵羽織にて大将軍は陣羽織を着せらるれど雑兵など寒気の頃は綿入の袖なし羽織なりと着ざれば堪がたかるべし其時の着用にて陣兵羽織なるべしと例の僻案を出せり又勘六とて麻の着物に綿を入しは寒六とて暑寒を兼る心より号しといへども是は簡略の云誤りにもあらんかといよ〳〵僻案を増しけり戯場の衣裳に雑兵の着物は木綿に金の摺込を着する是を彼党の通言に銀蝿と云いかにも銀蝿の色合よく名付し物といへども是も陣兵軍兵の二つ内を横訛りて銀蝿ともいふならんと思わる
南畝の辞世
蜀山人杏華園南畝寝惚太田覃字子耟通称直次郎後改七左衛門といふ人々知る所也死して白山本念寺に葬すかねて先生自ら戒名を杏華園心逸日休居士と考へ置しと也文政六癸未年四月六日死す此本念寺に北山山本信有先生の墓有此寺に蜀山人かつて北山先生を悼し自筆の詩歌有詩は略「我もまたおしつけ行て苔のした長夜すがら語りあかさん又辞世は「時鳥鳴つるかた身初松魚春と夏との入相の鐘北山南畝両先生の名の対せるも亦おかしからずや
牛の懸物
或人云今より卅年も跡のことにて東海道水口宿本陣の主好者にて貴人の宿り給ふ床の間に並々の軸ものはかけられずと画絹大幅の無地の懸物に相応の表装して懸置たり或時紀伊公爰に宿らせ給ひ床のかけ物白ければ自ら筆をとらせられ牛の画を画御落款遊ばれける其後水野出羽侯京摂御巡見の折宿らるゝに付此かけ物を見て何の画ぞと亭主を呼て御尋有即牛の画なるよしを申す出羽侯賛すべしとて牛の画を書れたそふなと書て自分の姓名を書けり此後薩州の大守泊りの時又かけ置しを御覧じて又賛を添られたり其賛は牛の画を書れたそふなと書れたそふなと有是は又能書の聞へある方なれば亭主大に秘蔵して是三君にて事足れり此上は書れては宝にならずと今並々の諸侯方の宿には此軸ものはかけずと云実にそれなりやしらずといへ共聞し侭に爰にしるす
饅頭の名
東鑑に将軍家より十字を給ふといふ事有諸道の博士に御尋有けれ共知らざるよしを申す鎌倉の僧に御尋有ければ饅頭の事也と申す饅頭を四つに割に刀を入る故に十字と云とぞ
正通の詩
楠正通関東下向の時近江の湖を眺て一句を得たり蒼波路遠雲千里と此対句を賦せんと按じ煩ふ趣向うかばす道すがら意を砕き箱根山に至りし時に正通が娘歌を詠じて「道遠く雲井見るべき深山路にまたとも聞ぬ鳥の一声正通是を聞て忽対句を得て曰白霧山深鳥一声と右のこと十訓抄著聞集江淡抄等に見へたり嵯峨の釈迦を取来りし奝然といふ僧入宋して此句を我作とて鳥一声を虫一声雲千里を霞千里と直して見せければ宋人曰甚可也惜らくは虫を鳥とし霞を雲とせらればいよ〳〵可ならんと云しとぞ
往古の七種
正月七日の七種は稲麥豆粟小豆黍小麥此七種を以奉る事也夫故に七種と書てなゝくさと訓ずる也宇多天皇の御時改て芹薺鼠麴草〔一名母子草〕蘩仏の座〔一名田平子〕菘〔青菘〕蘿蔔〔大根〕右七草を用ひられし他古は上の子の日に奉りし所七つの字に依て七日を用る事とはなりしとぞ
漏刻の博士
漏刻の博士季親は周易博士にて其道世に覚有ければ風月の方にはことなる聞へ無りけり或時文亭の聯句の座にのぞみ沈淪したるを宗徒の儒者有けるが是を見て侮りけるにや閉口後来客と上の句を云たりければ含陰先達儒と季親付たりければ座にがりて詞なかりしとぞ
貝原の書籍
天正の頃より今に至りて段々文明になり鴻儒の人々多く出て著述の書数多ある中に貝原先生白石先生の著したる書籍ほど益多きはなし高遠の事は暫らくさし置て我々が今日身の為心得になる事共多し書の頭書を標註と云又頭書のある所を上方と云何れも唐本に有唐の今世の印行の雑書に首書を標註とは云はずして鼈頭と云俗説也正証としがたし不可用又留別寄別我他所へ行時詩を人に贈るを留別と云人は留り我は行時也詩を留て別るゝ也人の他へ行時我より人に送るを寄別と云人は行我は留る時也我より人に寄て別るゝ也又日光の当るを陽の影あたらぬ所を陰の陰と云誰も知る所なれど手近き事もよく心得になる様しるせり
大守三介
任官して国名を付く内に常陸上野上総は大国たるゆへ此三国に限りては親王家のみ任ぜられ親王は都に居ます事なれば任国に介を置給ふ俗是を称じて三介と云て常陸介上総介とは名乗る也守となのる事叶わずされば此三国をば大守と称す今おしなべて他国の諸侯を某の大守などゝしるすはあたらざる事とぞ
武林の八介
武林の八介といふは下総に千葉介上総に上総介相摸に三浦介伊豆に狩野介出羽に秋田城之介加賀に富樫介遠江に井伊介讃岐に大内介是を云也
月卿雲客
月卿といふは公卿をさす雲客といふは殿上人をさす是は則天子に仕奉るよりいへる也宮中を雲井とも云扨公卿といへるは摂政関白左右の大臣内大臣也卿といへるは三位以上の人を云也雲客と云は四位以下の殿上人を云是は昇殿をば許されたれ共いまだ三位に至らぬ四五位たる人を云とぞ右職原の書にみえたり
法性寺の執行
東山法性寺の執行俊寛僧都とあるはすべて寺務別当共に一寺の統領也されども所によりて名付ることかはる也高野山にては検校といひ山門にては座主といひ東寺にては長者と云勤修寺又三井寺にては長吏と云法性寺には執行といふ是異名同義也何れもその寺の長也
瀧口帯刀
北面の侍とあるは院中警衛の士也禁中にはなし是は人皇七十二代白河院の御時院中に武勇すぐれたる者を差置る禁中には瀧口といひ院中には北面と云東宮には帯刀といふ字を異にして義は同じき也又西面といへるありし是は八十二代後鳥羽院に始る近世は絶たりと北面にも上下有今院中守護し奉る者位は四位までに至るといへり
対句頓語
五百羅漢渡川則是一千影〔源君美〕丈六弥陀越山纔見八丈光伯憐後素庭前月〔白石〕奪紅日下霞〔霍楼〕当時以名対とする也駒引銭〔白石〕虫噛米〔霍楼〕青葉紅葉〔白石〕細根大根〔玄岱〕と対し又山猫〔傀儡師事〕と云によき対有やと尋られしに海鼠と答られしはよき頓語也或人夢と思とは何とかわかち侍るべきと言しに鳴鳳卿の答へに昼は思ふ夜は夢と面白き対話なるべし
長谷雄の句
俗に云知つたぶりを云男俳諧の付句に「そもさんか浅草寺の十夜鉦といへる句をなして点を取に点者申越けるはそもさんかは禅也浅草寺は天台也十夜鉦は浄土也御句いかゞと非言せられしと也かゝる人いくらも有て以前予がしる者に一文不通の癖に発句合に加り故人の句集より出して其侭にいるゝ点者も故人の句ともしらずに抜事有て相応に手柄有其者友に対して我古き句集より句を出すに其角嵐雪らは上手と見へていつも抜れと下手はばせをといふ人也此人の句を出してついど抜たるがないと大笑ひをさせしばせををにごらずはせをと云其角をそのかどと云男なればさも有べし
善光寺の号
信濃の善光寺には七月十四日十五日十六日の間に犀川より必龍燈上る西の方山際樹木の梢を伝ひ〳〵て御堂の南西の破風にかゝると也御堂は八つ棟造りにて鐘木造りともいふ也四方に破風あり南北廿五間東西十三間也此寺に四つの寺号有て南面をば南命山無量寺東の方を定額山善光寺西の方は不捨山浄土寺北の方を北嶺山雲上寺といふとぞ世人善光寺のみ覚へて外の寺号はしらざる者多しとぞ
歌の病
「さかざらんものとはなしに桜花おもかげにのみまたき立らむ是は延喜十三年亭子院の歌合にてらんの字二つ有との事にて病に定らる「あふまでとせめて命の惜ければ恋こそ人の命なりけり是は長元八年三十講の歌合の歌なりけれど命の詞二つあれ共沙汰なく勝にけり同詞の病なれ共歌がらよくなりぬれば聞とがめざるにや人の有様も是らにて心得べし平生の行ひよければ少しのあやまちは人とがめす
山家の秋月
十訓抄に遍照寺にて山家秋月といふ事を人々詠ける其中に範長朝臣若き蔵人の時「住人もなき山里の秋の夜は月の光りも淋しかりけり件の草案共を正二位権中納言定頼取て父の公任卿の出家して居給ひける北山長谷といふ所へ遣したりければ範長の歌を深く感ぜられ後歌のはしに範長誰人哉和歌得其体を自筆に書付られたり範長喜びに堪ずして其草案を乞取て錦の袋に入て宝物としられけると也
錣曳
八島の戦ひに悪七兵衛景清三尾谷十郎家清が兜の錣を無手と掴て曳や〳〵と引合たりしが終に鉢付の板より錣を引切たりと古へは甲の鉢に折釘の如きものを打てそれに錣をかけはづしにしたるもの也景清が引切りしも此折釘を引切しなるべし糸にておどしたるは中々切る事あるべからずと也
蝙蝠
扇は昔蝙蝠を見て初て製す蝙蝠をかはほり蚊喰[カクヒ]鳥ともいふ近江国にては蚊鳥共いふとぞ衣笠内大臣の歌に「日くるれは軒にとびかふかはほりのあふぎの風も涼しかりけるかはほりは蚊を屠るといふ意にて号とも徂徠翁は厠守也と井守屋守と同じとぞ
東の家土産
或人冬籠の徒然を慰めよと吾妻の家土産と題せし双紙を二冊貸くれけり早速巨燵によりかゝり是を見るに文化十三子年三月中旬より旅立して伊勢路より東都に赴き帰路に日光より善光寺岐蘇街道を経て水無月の初に帰路したる安心斎五福と云る人の紀行にして名所古跡は画図道中記に書尽しあれば珍らしからねど関東と京摂との詞の変り唱への違ふ事を筆まめに書て婦女子の為に示されしなるべし僅の滞留によくも思ひ出て書たるものと感心せりされども其端書にも断り有て中々広き彼地の事悉く尽す事あたはず又日々夜々に移り替る流行あれば只其頃目前見当りし所を述ると有不侫は再度の東行に以上五ケ年彼地に居れば何事によらず始のうちは珍敷書付置んとも思ひしかど後には彼土地の詞になれてさまで控置程の事もなく捨置しが今此書を見れば文化十三子年より卅五年になれば其唱への違ふも多く又見残し書落したるも少なからずさればとてか様なる俗言を何の書に書伝ふる事もなければ世間しらずの婦女子にはよき土産なるべし予は又五ケ年の内見来り聞来る事の多ければ綺語文草十二巻の内に三都の事をあらかた出し此皇都午睡にも思ひ出す侭書付置ども此五福子の吾妻の家土産より当時に移りかわりし事又もれたるをしるして未彼地に遊ばぬ若人達又世間見ずの婦子にも読せ笑草にもなれかしと別に巻を分ちて三都異言と題し有のまゝに書かけしが是も皇都午睡の内ならめと此巻に書込侍りぬ是より末下の巻終り迄三都の詞の変りを述る物也天地の流行は日々夜々に変る習ひいわんや繁華の東都なれば四五年も立ば又此文と唱への変る事もあるべし後々同志の方是に継て書入らるゝ時は彼地に遊ぶ人の一助ともなるべし
婦女の強気
扨第一東都の婦人は京摂より見れば遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに京摂に云爺嚊におなじく亭主より女房がた一段上位にて女に勢ひを付たる土地なりお屋鋪方は格別市中にも男八九分にしてよふやく女は一二分也それゆへ自と女強く女の子を産ば器量よければ勿論醜女には何なりと芸を付屋鋪〳〵へ奉公に出すがゆへ小娘の内より気ばかりつよく自然と女は少きがゆへ女房に威勢奪はれ亭主は多く誤りがち也是一体を云にあらず先々是が多ひと云也扨此内へ奉公に来る下女などは地の者は珍らしく五里十里の近在より来て江戸見習ふ物なれば我身分も顧ず自然と大ふうな事のみを云て憎まれるやつ也先世間をしらぬ女は世界に土地といへば江戸ばかりと心得中にも愚のはなはだしきは京摂の者に物を云にお前の在にこふいふ物が有ますか抔云者有其時又京摂の芸なし猿江戸見てこねば男でないと当なしに駈出し道中も喰ふや喰ずに難儀してよふ〳〵すこしの近付に逢判じてもらひ半季奉公する輩是を聞とまつ黒になつて腹を立お前の在とは何事勿体なくも摂州大坂何町何丁目とか又山城の国平安城何条何の辻上る所など云てもあつちにはちよつともこたへず京も大坂も一所と心得長崎者も四国の者も惣一体に上方者と一口にいわるれば是に合点の行様には蘇秦張儀が弁を以てもいつかな〳〵通ずべからず又聞てからが真実に受ぬ筈伊賀や大和の山椒売迄が京とか大坂とかにて掛屋鋪の何が所もある大金持の若旦那色狂ひにて勘気をうけこふした身の上になつたのと空鉄炮ばかり放すがゆへ百人に一人本間ものが有ても贋物の方へ巻込まれて云甲斐はなかるべし中分以下の下女下男の争ひは大かた是なり男のぼせ上つて鼻血をたらし争ひに云かつても仕舞は主人のおかみ様が出て夫程能い上方には居なくして江戸で半季渡りの奉公をせなくてもの事さネ工といはれてはどふ有ても負公事なるべし
侠者は昔の事
次に云は江戸は侠気の強き土地にて人に物を頼まれ世話を仕出せば命にかけても世話を仕抜ゆへ江戸ツ子といふて幡随長兵衛そこのけじやといふは遙昔の事にてかならず嘘にもその様な人が有ふとは思わぬがよし大坂でも昔は有たか浪華男と云てあたまに血の多き者が有たと見へて薄情なものを京詞をいふ者じやといひたるが段々と世がひらけていにかけて門口へ出るを送り出て御時分じや御茶漬上つてお出被成とは大坂でも江戸でも一統に云様になつたればあながち京詞とはいふべからず然れども夫一事に拘わらず薄情に口先ばかりで上手を云はどふしても本家根元だけで京の人が上手也江戸は土地も広ければ尋ねたらありもせふが当時はやらぬと見へて一向見当らず其替り詞戦ひもせず人をこなしてかゝる事もなくなつたり旧は上方野郎の毛斉六のと糞おろしに悪口をいふたが江戸子の気性を見せるには相応に銭が入事なれば天保已来此悪口とんとはやらず誰云合すとなしに上方衆は物言ひが艶しいなどゝ褒てかゝつて何ぞ奢らせるさんだん中々利口な物とはなりけりかういふ事は人しれず京都へ祝儀持て習ひに来る者が有かもしれぬ扨江戸子は甚だすくなひものにて二親共に江戸産れの中に出来たは真の江戸子なれどそふいふ者はかへつて遠国又は在所へ引籠り二親の内何れぞ江戸の者なれば相手は皆他国の者也然れば大方が斑といふ者にて江戸子一歩斑三歩残り六歩は皆他国在郷ものゝ寄合の中にて江戸へ出会して出生せしなればやはり田舎子也それが生長するとおらア江戸子だ〳〵といふからはイヤハや何とも詞なし
名物に濃味無
又有三都に限らず見物して帰つて其土地の事を咄しげに都だけある諸事に不自由なく結搆な土地じやと誉る人は其地に福有な親類が有てその家より諸所に案内しられたか又は路用沢山に余る計もち案内しつたる者をめしつれ日にも費にも搆わず実に保養見物に往たる人也当なしの駈落我栖んだ土地にさへ不義理だらけに世間せまくせふ事なしに古ひ近付の居るをあてに道中切つめたやうな路用にて気抜がてらに駈出して川支に路用を切らし荷物【持カ】したり野宿したりしてよふ〳〵向ふへ往た所其お人は何年先に死で跡は粉もない抔と聞てそれから難行苦行苔の行■ふつて命から〴〵帰り扨もどこそこの国は聞た程にもないせふもない所じや見る物とては何にもないまた喰物がもみなひ抔と能く利口顔にいふやつ也遠国の山中へ往たらば蒔く程金銭が有ても不自由な物があれども三都に限つて銭金さへ出せば着物喰ひ物遊び事何一つ出来ぬと云事はなしそれにないといふは懐に有べきものがないゆへ也又銭金に不自在なくても広ひ三都五日や十日の滞留して土地の案内もしらずに兼て噂に聞及んだ名物の行燈をめあてに喰てかへり喰物評判を人中でするは僻言の最上なるべし名にうてた名物にあまり好味な物はないと心得たまふべし先景がよいとか安いとかいつても出来合せであるか此三つを名物とはいふ也銭安な喰物でも腹の減つてある折は咽を飛ばかり味く腹の大きなる時はいかな高直な評判高き喰物にても味よからず又商ふ家にも年中日々の事なれば出来加減のよき日不加減の日もあるべし邂逅一度試みてそれを定規とはなるべからずまして懐中乏しく飲ず喰ずにいかなる絶景も目につかず命から〴〵帰りし物其土地の善悪云べからずあしくいふと我恥を振舞ふにあたるべし予三都を衣食住の三つに見立て綺語文草に著せしが衣は京を一として二に江戸三に大坂也食は江戸一にて二は大坂三に京也住は一大坂に二京三江戸なるべし委敷評は文草を見べし
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婦人の情
家づとに浪華の芦も伊勢の浜荻と所かわれば自ら生るゝ人の気魚鳥の味さへかわれば増て况や物の名や言葉の齟齬する事は天地自然の断にこそ有らめ唯かわらぬ物は人間五常の道男女の色塩と鶏卵の味ひなるべし三都を始め何国の遠国にても男の形りと風俗容儀はかわらねど婦人は国所により又は士農工商によりて物いひ髪の結よふ衣服の好み風俗万端大同小異の違ひあり違わぬ所は物事に行届かぬと偏執つよく互ひに人の非を上て蔭にて嘲り笑ふ事は何国の浦にても変らず同じ世に住女なれば諺に云不身持の儒者が医者の不養生譏るに同じく是紺やの白袴にて猿の尻笑ひといふ類ひなるべし
九州長崎辺の婦人は五六十歳まで眉毛も剃らず又関東の女は上方の男の如く立ながら小便するなどの事を京大坂の女に噂すれば腹筋をよる事なれ共そは東路と筑紫潟千里の道を隔つれば左も有べし纔京と大坂と一夜の船の隔あるにさへ大坂の温ひは京で暖ひ京のきつひは大坂のゑらひ買ふて来るは調へて来る江戸にては買つて来る上方の借つて来るは江戸で借りて来る大坂の大きひは京でいつかい江戸で恐ろしい大坂でどゑらひは京で仰山江戸では大騒大坂のそふじやさかひは京のそじやけんど江戸ではそうだによつて大坂のこつちへおこしや京で爰へ来しや京でどこあたりといふを大坂では向ふなぞといふが如く又御所方の女中は豆腐屋へ行にも被に惣縫の小袖或は暑中にてもあつ綿を戴き江戸お屋鋪方の女中は葵づとひねりづとにて寒中でも頭はむき出し猶又町家の内儀を大坂にてはお家さん京では名を呼び江戸にては御上様上方の御寮人と云を江戸では御新造都て関東にては人の名を呼にさんと刎る事なく様といふ也三郁の隔なれば其筈にてもあらんか毎日花の都へ入込て華奢風流の都人を相手に見習ふて居る京の田舎の片ほとり八瀬や小原女の形り姿裙は膝切に脛高くかゝげて脚袢を足の向ふにて合せ足半[アシナカ]とか呼て足の半よりなき藁草履をはき年のゆかぬ小娘の時分から馬を牽牛を追ひ首には台輪を置て柴黒木或は葱いりやんせんかいなアなどと売歩行さまいと艶しくもあれど又年とりし女は長階子打盤横槌の類ひ又は酒樽醤油樽種々の荒物を買ふて帰り二十貫目余の重きを苦なしに戴くさまを見れば興覚る心地せらるゝ又物言ひも自らその荒き質に準らひて和御寮行かよノウ旦那殿よノウなどゝ巽上りの音声にてさもぶこつ也又男を八瀬の外良[ゲラ]と唱へて皆惣髪にて髷も結わず髻[モトヾリ]をくゝりて巻立公卿方の冠下同前にて歯は鉄漿を黒々と染恰も公家の姿にして業は百姓山がつを兼山に入て樵をなし柴を荷ひ内に居て飯を焚世帯をし女は日々京の町へ稼に出るゆへ此地の婦人が他を譏るに男一人得養わぬ女が何になる物かなどゝいふよし都て女は外を働き男は内を治る土地の習わし也亭主は皆若狭の和泉のと国名を付名跡を我子に譲り六七十歳になれば漸に元服して何右衛門何兵衛と名付る也とぞ角力取にあらず医者にあらず琉球人の下官に髣髴[サモニタリ]女は八瀬小原のみにもあらで高雄の近在に梅が畑と唱へる辺よりも出て皆々頭に帽子を当たり木綿にいろ〳〵の縫有て是には各深き由緒有事のよし伝へ聞り
八瀬や小原女
家づとに五福といふ人以前叡山より下りて鞍馬山へ廻りて京への帰るさ此八瀬村にて駕籠を借りたる事を記せり古今珍らしく今に思ひ出しては独笑を催すと有てまづ八瀬村下り口の坂本と云茶屋にて駕籠を頼みしに此辺の者は終に駕籠など舁たる事なしと断を漸頼みて若者両人を雇ひ隣家にて古き打上かごを借り持来りたるが其駕籠の棒乗物の如く両端を同じ程に出し扨杖といへば樫の丸太作りにて先程太く中々おもき杖と見ゆるを衝駕籠にて鞍馬迄二里半計の山坂を唯一肩にて飛が如くに行り杖を立肩をかへるといふ事なし肩をかへざるはいかにといふに右に云丸太の杖を以て右の肩より駕籠の棒をくじき持て一二町づゝ柴を荷ひたる如くにして左りの肩を休める事ゆへ何里往ても肩をかへず杖を立ず行がゆへその早き事早打駕籠同前也両掛持も供人も息なしには困り入たるよし京より纔二三里の里にても斯まで物事の違ふよしを書り是は京に限るべからずいかなる遠国にても道中筋は御大名の通行あるがゆへ馬駕籠の便利はよけれど三都とも二三里片脇へ行ば誰しも是には困る物也予小田原より熱海迄駕籠にて行しに駕籠の価最高し箱根八里の打こしより倍も取なり道は七里なれど道申筋は替駕籠有て箱根にても四里いて戻る時は駕籠舁に便利よきゆへ価少し安くても行り熱海などの入込みは替駕籠なけねば七里行て七里帰るに甚難所なれば二日がけになれば価高く取也其時駕籠舁幸ひにて向ふより浦賀御奉行伊豆の下田伊東熱海など巡見の帰りに出合ひ吉浜の樵杣人等役にとられ駕籠を舁来れり此所道のふりわけなれば駕籠をかへり今迄は小田原の駕舁にてよく舁ども人は甚あしく吉浜の樵は朴訥にて形[ナリ]こそ賎しけれども誠によき者ら也扨駕籠を舁は甚下手にて乗心はあしけれどもかの八瀬の駕籠の如く嶮しき山路海ばたの岩の上などを飛越へる事自由也日々重き薪柴のたぐひを持山坂なれたるゆへ也馬にても東海道中仙道は自由也一時木曽の宮の腰にて雨催ふして風烈しければ心せき茶屋にて馬を拵へさせし所馬雌にて馬方も十七八の女也簑笠にていれば男やら女やらわかるべからず茶屋の店より馬に乗る所世話する者も女也藪原の駅を過て鳥井峠の絶頂まで三里の余の道を日の七つ時より追ふて行還りは又藪原にて荷物にても付て帰り夜四つにもなるべし纔三百文位の銭をもふけんとて十七八の女一人雨風を事ともせず行事也三都の女はいかなる果報の有事やらん我身に埒の明ぬ事はいわず人の蔭ごとのみいひ立罵るは勿体なき事ならん此世にて極楽世界へ生れたる同前のくらしなれば死しては地獄の釜の底敷ならんと思ひやるべし
言葉の変
江戸は日本国の人の寄場にて言葉も田舎在郷の訛りをよせて拵らへたる物ゆへ江戸言葉と云事は甚だすくなし其内関東八州の男女多きがゆへそれを皆取合せたる詞にて世俗に是を江戸詞とは云也古風を守り叮嚀に云詞もあり大体京摂の言葉をつめて短くいふがならはせの風儀とはなりけり京都にても上京と下京と少し宛の言葉も変り有大坂にても三郷にて大同小異あれば是は又四国九州中国の寄場なれば安治川辺の者は西国の詞に馴れ上町玉造の者は大和伊賀伊勢の詞に移り堺の者は紀州和泉路の詞に通じ天満の者は丹波丹後の言葉も交るべし遠国他境の人の開語のわかり兼るは各々生れた所の国言葉にて諸方の人を相手にする都会の者が其国言葉に付合ふて云を訛りとは云也笑ふべき事にはあらず凡三都の者程訛る者はなし能々心を付て聞べし江戸にて浜側を川岸と云略語勿論也大坂にて川岸[ガンギ]とも云是も略語にて少し変りたる也京に町[マチ]と呼ぶ所多くて町[テウ]と唱ふる所すくなし江戸は町と云方多くて町と呼ぶはすくなし大坂は町[テウ]と町[マチ]と相半なるべし江戸にて町並よき所にていわば駿河町白銀町大伝馬町石町小田原町瀬戸物町本船町伊勢町堺町葺屋町尾張町木挽町などとて丁と呼かた多し室町田町田原町中興出来し猿若町など町と呼ぶ所も少なからねど町といふより丁といふ方開語に走るゆへ丁と云方多しとしるべし京にて麩屋町お旅町宮川町先斗町とよん所なきを丁を呼び跡は町と呼ぶ方多きとしるべし大坂は半分づゝ取合せたれば改いはず扨江戸にて日本橋と走る大坂にては日本橋[ニツポンバシ]と叮嚀に云江戸は短かく詰て云を是とする所なれば日本橋通りと云をまだ略して通りと計にて通用させ通り二町目三町目抔と呼来れり諸事かよふに詰て云土地なるゆへ京摂者の愚癡なる言葉に根から葉からどふもかふもなる物じやない腹が立て〳〵忌々敷ふ怪体糞[ケタイクソ]が悪ふて腹わたが煮くり返つてなぞと長く詞をつゞけて云ば直に口まねをして笑わるゝ事也十返舎が膝栗毛などにも京談と唱へてむりむたいに長くいわせて京摂者の気の長さを誣れり講稗噺仕[ハナシ]【我自刊本噺家】などにても皆是をいひ出して笑ひを取れり誰しも始のうちは所贔負国贔負にてあの様にむりに云ずともの事也とも思ふが習ふより馴るとやら後々は成程言葉の延る所あれば早く埒のあく分別にて付合ふとなしに詰て走る也され共世間一統の通用は仕難し気障りなる事を気障[キザ]と詰雨合羽を桐油[トユ]と略しぶらり提灯を只ぶらと計云さればとて略して詰るばかりにてもなし京大坂より叮嚀に云事もあり尤流行詞は日々夜々に変化して何国にても所限りにて仕舞ふ事なれど大坂では鰻をうと計云京にては長と唱ふ大坂にて泥亀を丸[マル]と計いへば川千鳥と洒落るもあれど江戸の俗は御叮嚀に鰻泥亀と唱へり鶏[ニハトリ]を柏[カシハ]などゝ决していわず猪鹿の肉を京摂にてろくと云山鯨と変名すれど江戸にてはもゝんぢい又もゝんがアと云文華日にひらけて牡丹紅葉など呼ぶ事とはなりぬ此類甚多し思ひ出るに任せ追々云べし
古着市
江戸の町幅広き事大坂の堺筋三つ四つも寄たる程也狭き所が京の三条四条通り程有別して日本橋通りは諸侯方の行違ひ牛馬車力共弥が上に通行すれども往来こずみ滞る事なく通るにて広き事推量すべし扨魚市場は小田原町新場の二ケ所有て大坂雑喉場の仰山なるもの江戸橋を中に置て両所に別れり是を河岸の魚と云江戸橋の詰に御魚屋[オナヤ]と唱へて御本丸西の丸其外諸大名屋鋪方へ持運ぶ会所有此ニケ所の魚市は江戸市中のまん中にて南には芝に生魚市有北には千住に川魚市深川より貝のむき身を売り出す事夥し青物市塩物干物類の市は中央に日本橋南詰に立て其余方角にわかつて所々に有富永町には毎朝古手の市有て大道へ両側より莚を敷古手類を仕わけて引拡げ買手は江戸中の古手屋にて素人も中に交れり又古着古小裂解ものゝ類を竹馬にくゝり付町々を荷ひ売するもの数多有都て江戸にては古手と云わず古着と云着類の外に古き物を古手とはいへど古着とばかり唱ふるは江戸の方が尤なるべし
屋号不呼
江戸にて問屋[トイヤ]を問屋[トンヤ]と云商人店[ミセ]を店[タナ]といふ呉服店薬種店など諸事店といふ借家もおなじく店[タナ]と云借家人を店子[タナコ]と云裏借家を裏店[ウラダナ]と家主を店主家守を大屋町年寄と会所はなし惣年寄を名主と云大屋の寄所を番屋と云下役を番太郎と呼て荒物糊焼芋の類を売らせ辻番家の番をさせる事也御公儀へ差上る諸書付人別帳にも何町何屋何兵衛支配借家何屋何兵衛抔と上方の如く家号を記さず唯何町何兵衛店何兵衛と計にて筆数のすくなき事を是とす苗字を唱ふる町人も多くあれど公儀には通らずよく〳〵由緒ある家ならば【ではカ】苗字を呼事はなしそれゆへ家名やら苗字やら通り名やらわからぬ面白き呼名まゝ有り上方の料理屋の通り名の如し畢竟は上へ通らぬ事ゆへ出たらめの付次第なるべし
金相場
金は通用六十目と定て相場はなし銭の相場も四日市にて夜分銭小売屋寄合云合せる計にて大きなる高下はなし一文目といへば百八文也金一両六貫五百文二朱八百十二文にてとりやりすれば甚だすみやかなるもの也何によらず買物をして勘定をととへば何両何歩に銭何百何十文といふゆへ小細の算用なくて世話なし也丁銀小玉は町家の女子供は終に見しらぬ物が多く秤は掛目の物を売る内より外になし二文の渡し船の所には小銭二文づゝ向ふに並べ有四文銭一文出して向ふの二文つりに取る湯銭を以前十文の折も銭取場に二文づゝ小銭並べ有けり近来当百銭出来てより宮寺の門前に並びいる乞食或ひは坊主など只銭百文つなぎ合せて莚の上に出しあり小銭四文銭遣ひ切らせし人に両替する事也自由なる事夥し是ら都会の証拠なるべし
樽代節句銭
江戸は勿論五里七里脇の城下に畳一間と云は五尺八寸なり半間は二尺九寸也京摂の如く京間といひて六尺三寸の畳は曽てなし猶裏店は五尺間もあり裏家は大かた一方口にて誠に箱を横に並べたるが如し裏店行抜の路次は昔はとんとなかりし所前方目黒行人坂より出火して江戸御府内大方焼て焼死したる者多かりしゆへ御公儀より御下知有て今は抜ろうじ沢山にあれど何れも其路次の狭き事漸々に身を横にして通る位中々上方の如く緩やかなる事なし扨裏表とも借家の分には宿替変宅を江戸にて引越と云上方にて家を借時印を入るを彼地にては樽代と唱へ家の大小によれども裏借家にて金一歩表屋にては小さき家にても二歩三歩は樽代に出す事也最上がたの式と云にあらず変宅度毎に流れて仕舞ふ事なり中にも繁昌な町柄には樽代三両五両もとらるゝなり上方の格にて腰かけがわりに一二月借らふと云ても樽代におされて毎度宿替は出来ぬ事也火事に焼出されし者は先樽代を第一番に入て仮宅をする事也上方の町内月別町入用とて借家人にとるを江戸にては節句銭とて家相応に大屋より集る事ならわせ也近頃御趣意後此樽代を御政道有しかど矢張旧の如し何分身分相応に金銭の手放せず寐た間も用意をしておかねばならぬ土地なり
地面持
五福子曰江戸にても場所がらにはよるべけれど日本橋辺にて予が知己なる川井何某の居宅の屋鋪は表口五間裏行十間夫も右に云狭一間也それに建家はさつぱり別にして地面計の沽券が七千両なるよし是も今といふて望時には中々八九千両にても得がたきよし右らの地面を借手より建家して住居する事也右川井何某の地面に表家裏店とも四五軒有て人数凡五六十人住居する是らを以ても江戸の繁昌なる事思ひしらるゝと也上方の抱屋敷持の如く江戸にては地面持といひて遠方諸国よりも多く持居て其町内には家主の名代有大坂にての支配人家守の如し建家は皆住居人が地面をかりて建て住なり又地面をかり家を建て人に貸して居るも有是を店主と云此振合ゆへ人の身上をいふに家持の掛屋敷持のとはいわず地面持の大地面幾らあるなんど云也借家に故障出来しても又火難等の愁も家持の損にして地面持の難儀にはならず然るに井戸ばかりは地主よりのまかなひ也所々によりておかしき仕来りもある物也
土蔵造
町並家建の様子は大坂とは大に替りたり大抵は京都に類して一軒〳〵別建也尤端町場末には長家続きの家もあれどよき場所には町々十に七八軒程は居宅店共皆土蔵作り也其仕様の丈夫なる事表口は裏白の引戸を惣銅にて包み一二の書付して何枚も引〆戸の合せ目には雌雄の深面■凸[フカシヤクリ]にして目塗土を沢山用意し裏口の方は常の観音開也二階も表化粧窓の所を大窓の両開四枚開などに立派に仕立たる物から宛がら土蔵に住心地にて何とやら欝陶敷もの也是も馴ればさ迄苦にもせぬよし併し暑中は暑さ甚しく思わるゝ也橋筋通り筋の中の往来を中通りと云京都の間[アイ]の町と云に同じ狭き家は通り庭の内少なく往来門口より履物を脱持て表の間に置奥へ通るなどいわば芝居の世話場門口の体也年々歳々御触出し有が故通り筋合通りは大方瓦葺とはなれど端々は叩屋根多く風除の為細き竹にて屋根板の散らぬ様に伏て手頃な石瓦の割を置たり中位の場所は表側のみ瓦葺にて裏手は瓦葺たるは珍らしまして場末は瓦一寸もふかず也然し予先年下りて再度の下りに見れば僅四五年之内に瓦葺余程ふへたり追々開けて後々は京大坂同様になるべし
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左官仕事
大名小路諸侯方のお上屋鋪は勿論所々の中屋敷下屋敷迄立派なる事夥しくそれ〴〵の好みはまづ防火の為大かた土蔵作りしつくひ仕立多し大名方にて我劣らじと善美を尽したれば見事さ筆紙に尽しがたし神社仏閣にも惣土蔵造りの伽藍有御柱[ミツケバシラ]象鼻計にても左官の手間雑費何程の事ならんやと思わる全体町家の家居にもとかく石灰細工多く瓦葺も一枚々々厚しつくひにて竪横に閉棟は勿論のし重ねにて鬼板鬼瓦又は軒別の境目の家根仕切と云もの是は上方には曽てなく尾州名古屋辺より適々に見受て江都にては専ら有物なるが仕切の軒瓦を鬼板の如く大きにして色々の模様を付しつくい仕立にして甚だ立派なる物也元来江都の作事は火早き場所なるゆへにや近来出来の普請ほど猶々左官仕立の作事多し譬へば大工手間百人かゝれば左官手間三百人もかゝると思わる上方にて江戸黒と云本磨の黒塗又彩色入の絵壁など尤奇麗なる事也左官もおのづから数に馴て上手に塗れり土蔵多き事町家裏々に有うへ河岸は大方土蔵にて建続きたりしかし上方の如く大土蔵は稀にして凡二三間口の小蔵にて何れも褄を往来の方へ向けひしと並べ建たり往来の正面と裏手川の方とに家号又は店印定紋などをしつくいにて置上に立派にあやどる兎角表を立派にするは武家方の風儀自然と移るならんか都て建家普請に壁はすくなく板の方多し壁土の直段高直にて座敷廻りの壁にても上方の如く下塗中塗上塗などと歩あつくなれば高直なるゆへ大体上の分中塗にて勝手廻りは壁下地泥にて薄く塗れば直に板を張る也厠は勿論上方の様に壁塗なく皆板囲ひ也京摂浜納屋の惣厠の如し勝手の流元の下しつくいは稀にて皆板を敷水はけよき様こうばいを付たり銭湯〔上方の風呂や〕の上り場尤板計にて敷詰し也よつて火事の節は悉く焼て壁土薄きがゆへ皆燃る事也壁土の価貴きゆへ自然と板囲ひ多く焼易きとしるべし
橋数少し
江戸絵図にてもしらるゝ海に添ふ所は南東なれど東は深川本所と並びて遥東へ突出たる土地ゆへよふやく南の方一方なれどもかな川川崎品川高縄と東南は皆海にて芝より先江戸の川口にして築地御浜御殿永代橋の辺は大坂安治川口に似たり深川より東木場の辺は大坂の堀々に同じ永代より川上にかゝれば新大橋両国橋遙か隔てゝ東橋[アヅマバシ]と大川にかゝる橋四つ也間々には渡し船有江戸を過て川上には千住大橋有爰より今土の辺迄を墨田川と云夫より宮戸川と云川下永代にて海に入る也此川大よふ南北に貫ぬき昔は西は武蔵東は下総にて有しが今は東西とも武蔵の国にて東に中川戸根川と云大川二流有其戸根川限りに武総の国境となれり故に深川本所に橋は甚だ多しなれども大きなる橋はすくなし江戸前〔大川より西手御城より東手〕にも堀々有て橋相応に多しされども土地の広き割には川すくなく橋もすくなし又大坂ほど橋数多き所も他国には珍らしかるべし
毎日法会
元来江戸は日本国中の集会の大都会なれば人数は多き筈也尤大通り所々広小路などは往来人にてつまり有て田舎もの始めて此地の人通りを見ては年に一度とか二度とかの大法会でもござるのかと尋るもおかし江戸贔負の土地自慢するものゝ口にかけては仰山なる上にまた嵩をかけて両国橋上には年中朝より暮まで鑓百筋と馬百疋に往来千人宛は絶る事なしといへり是も余り仰山過れど先日本橋両岸通り南北へ四五丁程宛四日市京橋辺両国橋両岸浅草見付より観音前下谷より上野広小路市ヶ谷御門より四ッ谷新宿高縄大木戸辺などの往来群集の中に物売店は大道のまん中に並び大名の通行女中達の乗物廻り駄荷付の牛馬辻駕籠の行返り車力牛曳を始として士農工商男女老若のざは〳〵と通る物から少し物を見んと思わば連の者にははぐれる也年中晴雨を論ぜず此位の繁昌なれば京の御忌詣東寺の御影供初午の稲荷詣大坂二季の彼岸参今宮の十日戎或ひは諸所の開帳などの如くの人群集毎日斯の如くなればまして祭礼などの紋日の群集思ひやるべし然し日の内の賑ひに事かへ夜は甚だ淋しくて尤夜市夜店なども有所も昼の一割も人出ず尤十月朔日より二月晦日まで辻々の木戸〔上方にての門也〕門しまりて潜りより出入すれば淋しき事又思ひやるべし火事有て大火となれば木戸〳〵を開く〔八百屋お七狂言にあり〕浅草観音の境内明六つの門明より暮六つの門しまり迄は一万人の人絶ずと云実に往来の人群集計り見に下りてもよき見物なるべし
昔の人数
五福子の紀行に寛政三亥年五月御勘定奉行より江戸宗旨人別書のうつしを借りて出し有江戸町数千六百七十八町家数十万八千軒人数五十三万五千七百十人外に出家二万六千九十人山伏三千八十一人祢宜九百人此外に吉原廓中八千九百四十人右惣人数合せて五十七万四千七百二十一人右の外に武家方人数二億三万八千三百九十人惣都合して二億零六十一万三千百十一人右は宗旨御帳面表慥に在江戸の人別也此外に当座〳〵に日本国より諸大名方お屋鋪へ到着の人々並に業用見物に市中へ入込む滞留の人数は中々大造にして其数計知りがたかるべし然らば先右の慥にしれたる二億零六十一万三千百十一人日々食料の費一日分玄米一升づゝとして此米高二十万六千百三十一石一斗一升也此代金一石壱両にして二十万六千三十一両余となれば中々にも能く思ひ見れば仰山なる事にあらずやとしるせり
京の人別
元禄年間京町奉行所の写しを予先年より写し置所京都町数千八百四十七町〔此内千四百五十町は地子御免残り年貢地也〕家数四万五千八百七十七軒とあれば其後百余年を経る間に新地追々建続既に天明八年の大焼の頃凡京町数二千有余と見へたり其頃の発句に若水や京中くまん八千軒と有右天明八年より此かた六十三年になれば又々町数家数も増減あるべし江戸の人別帳は寛政三年なれば今年まで六十年になれり是又町数家数いか程ふへたるやらん計り難し
京都より大坂は人数多く大坂より江戸は各別に人数多き繁昌なる所ゆへ諸事人の心の我雑なると騒々敷は理の当然也としるべし皇都に長袖と職人多く大坂は商人多く江戸は武家のみ多し夫故京都は風儀神妙にして和らかに華奢なるを本体として男子にも婦女の風儀有大坂は唯我雑にて花やかに陽気なる事を好み任侠の気風有東都は表向立派を好み気情強きと思へば根もなく又心も解易き処有て其土地抦広く人多ければ自と堕弱なる所も有人国記には武州の人気は活達にして強気也譬へば敗軍にも屈せず再戦に大功を立んとの志有としるべし
茶店中宿
京摂に目馴ぬ物は江戸の市中の商人店と並び居る茶店也大坂にていはゞ高麗橋にも本町筋にも茶店有が如し堺筋松屋町筋といふ様なる通り筋には一町に五軒も七軒も有其さま表の間は落間多く床儿几腰掛に絵莚を敷中央に朱塗の竈に真鍮の鑵子をかけ環は渦巻にして三尺計も高く巻あげ暖簾軒釣の提灯には信楽寿釻菊なんど通り名を紅にてしるし娘女房は奇麗に拵らへ客毎に始は素湯に香煎を入出て次にお煮花とて相応の茶を汲出て客あしらいは世事よく誠に馴たる物也神社仏院の門前などならば京摂にも有て珍らしくもあらねど町の只中に数軒あれば珍らしき也爰に又四季とも得意有て馴染の茶店へいて客も休む事也譬はゞ大坂にて天満のはづれに住人堺の町に近付有何か用事有ていついつかに逢ふべき事有何れ一方より行時は其日に帰る事ならざれば双方より約束して今宮で逢ふとか日本橋にて逢わふかと云おり誰それの茶屋は信楽とか山吹とかにて待ているべしとて尋来る也双方爰にて咄合をして料理屋へ行とかして別れて帰る中宿なれば状通にても此茶店へ出し置時は早速に届ゆへ便利よく馴染の内に長く待居ても退屈なし増て若ひ者等遊山抔に行相談事には屈竟の寄場也御趣意前には諸々手寄の遊所へ行に此店にて駕にのり帰りにも又駕にて爰へつくするに用事あれば此家迄言ひ置有など誠に自在と云べし五福子是らの訳をしらねば只茶を飲せる計と心得られしやふしぎそふに書たり
引越蕎麥
京摂にて饂飩蕎麥を商ふ家は饂飩の方を題とせるにや饂飩屋と云東都は蕎麥を題とするゆへ悉くそばやと云也扨加役ものにても唱へ大に違ひのつぺいしつぽく抔とは唱へずてんぷらそば鴨南蛮霰花巻などと呼て数種有それを只誂らへれば皆蕎麥題也饂飩を好まば饂飩にて南蛮とかてんぷらとか誂らへぬ時は蕎麥屋といへば皆そばにする事也蕎麥に二種有カケモリと有カケはぶつ掛モリは小青楼に猪口にだしをつぎ出す也食物の咄に饂飩蕎麥を始に出すは野鄙なる事なれど旅する者は先安直なる事より喰ひ始る物故第一番に是をのする前に云宿替引越しの節上方の宿茶とて付木を配る事なく江戸は悉く蕎麥を配る事也蕎麥屋もよく心得て付合は何軒大家は〔家主〕どこそこと皆配りて後其代いくら〳〵と取に来る誠に無雑作也奉公人の親判をもて来る是も蕎麥にて済也こちより親元へ判取にやる是にも蕎麥也目出度につけ悲しみに付皆蕎麥にて仕来りとはなりけり是ら馴てはおかしからね共始の内は独笑する事也
三都の商人
扨立延たる貨食屋には京摂の如く女給仕に出て是を仲居と呼ず女子衆也今御趣意後はなくなりたれども女郎屋の掛引する女を軽子と云也町々の仲衆を江戸にては車方を車力といひ荷を運ぶ者も軽子と云扨も此上料理屋は格別中より下の料理屋煮売屋居酒屋蕎麥屋芝居茶屋惣一統に女をつかわず皆荒男の若ひ者が運ぶ事也見た目は女気なけねば我雑の様なれ共其男皆物いひは甚だ譁しく叮嚀也中にも芝居茶屋の土間〔上方の場〕桟敷へ案内或ひは食物を持通ふも皆男子の役にて大坂のお茶子などゝ違ひて気転よく利て便利甚よろし此余商人にても物いひ叮嚀にしてすこしの物を売るにもぶせふなる詞は遣わず夫といふが武家大臣方軽き形りにて出らるゝゆへ朝夕是に相手馴しと思わる京都にては都て女の商人多くいわば直段何程と聞て半直段に付ても怒る事今なく少しお買なされてとある故少し付上る夫では夫では売れませぬもふ少し〳〵と今もまける様に云てとゞの仕舞は始の言直よりすこし引て売る事也買手後には根にまけて高く買ふ也是皆土地の風儀にて物事和らかに気長風也大坂はまた一流有て気短く直段の付よふ違へば直にそんな直ならばこつちへ買ます余所にあるか尋ねてござれ抔といらぬお世話にぽん〳〵と云ふを土地の風儀とせり又買ふ者もそふすげなくぽん〳〵云ふ所は代呂物が能ひか直段が安ひか口銭薄ければあの様に口立派に云と心得得心して買ふて帰る諸事の掛合斯の如し依て一口商ひとて是を大坂のならわせとする江戸の商人とくらぶれば大坂の商人と物いひつかふど存在なり余り叮嚀にいふ者は懸直有と云るなど三都によつて皆それ〴〵癖あれば土地に馴る迄はおかしき様な物也
河岸の船宿
江戸町内河岸〔浜側〕ばたに船着とて大坂の茶船屋の如きいと多く浜がわより半町計内町にも有前に云茶店と同じく床几腰かけ出し有て入口に家号の行燈を出し棚に煙草盆火縄箱を並らべ客来てどこ迄と云ば言下にさあ御出なされと船宿女房或は娘など煙草盆に火を入船迄案内する船直に出すさやうなら御機嫌よくと見送る其手都合のよき事感心なるもの也御趣意前諸々の遊所へ行には皆此船宿より案内する事にて馴染の大事の客となれば船宿の亭主又は女房同船して向ふにての掛引勘定向船宿よりして入用〆て客衆より船宿へとる事也船中の酒肴も船宿より言ひ付て乗せ行誠に自由なる事なりしに今此儀なく只船計りの事とはなりぬ船に大坂とは唱へ違ふは先大坂の紅梅など呼はなし何市丸大御座などは何人乗り屋形船と云小船にては屋根船にたり三挺網船釣船猪牙小船と有船は何にて行先はどこといへば船賃いくらと家々にて定り有此猪牙船の異名は綺語文草江戸の部にも記せしが享保の頃長吉と云船頭よくさしたるゆへ長吉船名代となり其略語也猪の牙の如きなるゆへ猪牙と云とは湯桶読にて後に拵らへたる字なるべし
辻駕籠
江戸通り筋の木戸々々〔大坂の門也〕の見付々々に辻駕籠とて駕籠に尻かけ往来を見かけ次第駕籠へ〳〵旦那かごへと呼び居る駕籠屋と云も一町に五軒と七軒はなき所なき所なし門口に駕籠と行燈に記し是又船宿とおなじく何時でも直に出る也其余辻々に右云如く出張するを辻駕籠とは云也道中の雲助にはあらずいわば江戸裏店より出る駕籠舁也川端近くへ用有ば船にて行とも山の手在所道には駕籠の便利よければ老人病人など駕籠借らんと思ふ時勝手よろし又直段は大体極り有て道中の雲助の如き余り余計にむさぼる事なし辻駕籠の得意とする者は遊所通ひ也四里四方ある江戸の地に遊所なく深川本所根津谷中麻布赤坂なんど遊所諸所に有けれども当時禁止となりていよ〳〵不自由なれば南に品川宿西に内藤新宿板橋北に吉原千住と此五ケ所也何れも日本橋より二里半三里に余る道なれば行計にも隙どれば纔の隙に駕籠にて駈行帰りにも又其地より駕籠にて駈戻るゆへ辻駕籠大に流行るなるべし駕籠賃の相対も京摂の如く直切小切するにも及ばず四文銭何本とか南鐐とか埒早く乗ると直に駈出す事誠に宙を走るが如し人立多き四つ辻にてもヱイハアと掛声して腰をひねり肩には茶呑茶碗に水一杯入て乗せ行とも溢るゝ事もあらじと思ふ計りに駈行也是又能練れたるもの也駕籠舁寒中にも肌をぬぎ入墨見事にして手を尽したる武者絵抔あり物々とて駕籠舁などに入墨有は勇ましく見よき物也間には駕籠の垂を颪ありとも見付〳〵にては手早く垂を上て走れり吉原大門口品川入口新宿入口には夜明前より駕へ〳〵と声をかけ数十人控へり是は右に云江戸へ帰りをのせる也又町駕籠には垂駕のみにあらずあんぼつ引戸なぞとて大小望の如く有船駕籠是程に自由なる所他国には有べからず
四季の売物
江都市中店並びの様子は間口一ぱいに代呂物を飾り大坂白粉屋が書林の如く白紙の箱をわくに掘て店先の往来へ出し売物の品と我名所を記し何商売の小売屋にても本家根元問屋などゝ書たりたとへばきせる問屋薬種問屋日本一家江戸本店正銘正本家などゝ書様皆仰山也先煙草屋などは名葉いろ〳〵有れ共国分館二種をおもとして売也小売も刻みしまゝをわけて目をかけ売京摂の如く捌たるを玉崩れ有とて別に売れり酒は貧乏樽とて安き樽に入れ樽代共にいくらとて売日毎に売得意は徳利也菓子屋は大方折の方多く饅頭羊羹にても折入の方多し鮨にても折入也蝋燭の櫃売は格別いか程余計買ふ共一挺々々紙にて巻有四の五のといわず何ぼの蝋燭何挺と云が如し仏事等勤る内へ油一升とか二升とか油小樽に入て遣ひ物とする是調法にて京摂には珍らしかるべし鰹節など進物にするに箱入の方多し正月注進の内〔元日より七日迄〕扇箱買わふ〳〵と呼で年玉扇幷に台を買歩行ものいと多く吉原芝居町などへは蝋燭の流れ買わふ〳〵共云歩行有四月の初蚊屋や萠黄の蚊帳とて大小母衣蚊屋の竹ども売歩行此売声は別に声よき者を雇ふて売ると云初夏には簾葭襖を売歩行五月雨頃は竹どゆふを割て掛る計にせしを一間計より三間迄を何本もかたげて売歩行誠に自由なる事いわん方なし酢売麴売を始京摂にて売歩行ぬ物を悉く売る事所のならわせにて妙也中にも自由のよきは朝々歯磨楊枝を売物一軒〳〵お早ふ〳〵と挨拶して廻る一日も楊枝歯磨きるゝと云事なし是に皆野師の【我自刊本是を売者とあり】廻り場得意場有とぞ是らの事いち〳〵記さんには実に際限なかるべしされど認るうち思ひ出せる分は追ひ〳〵に解べし
銭湯
自由の足る中に自由なると江戸に限つて直の安き物は湯と髪月代也外に安き物といへば下肴〔鰯こわた芝海老蛤馬鹿浅蜊むき身〕焼芋此外は一切高直也尤物によるべけれど大坂にて諸品を買ふ割には京都は一割より一割半高く江戸は又京都より一割半二割も高し大坂と江戸にて三割四割は高直なりとしるべし都て江都は武蔵野の果にて広々たる平地の上海近きゆへにや常に風強く土和らかにして泥埃り立所也京摂の如く往来へ打水せんにも水不自由なるゆへ市中のどぶ〔上方の溝也〕の水を打故香甚だしく乾けば風にて吹散らす故男女共冬は別して縮緬の頬冠りをせし上手拭にて口の辺りを括れり京摂の如く丸綿帽子櫛出し煉の上ケ帽子頬冠り綿は至て稀也故に日毎に湯へ入らねば叶わぬ様にする也其風呂を内にて沸す家屋敷方奥向は格別町家の大家にても風呂場ある住居はいと珍らしき事也旅籠屋にも風呂は沸さず客は銭湯へ行事にして町家豪商の内儀娘たり共残らず銭湯へ行をならわせとして聊恥る事なし湯屋は大体一町に二軒宛は丈夫に有京摂の如く扇湯桜湯大和湯なぞとは呼ず町名を上に付て湯と呼也いわば檜物町の湯とか葺屋町の湯とか扨湯屋の門口に男湯女湯と並び有て此二つの入口をば入し所の真中に内の方をむき銭取場有爰一所にて男女湯とも兼帯の番也歯磨楊枝膏薬の類銭取場にて取次あり此傍に二階へ上る大段階子有二階は男湯のみにて高欄付二階より往来を見おろす座敷には隔なく碁将棊の関屋【刊我本席屋に作る】に似たり中央に二階番頭素湯を釜にたぎらせ客の顔を見れば煎花を拵へもち来る前に菓子羊羹鮓など重に入有爪取鋏櫛抔傍に置有贅沢者はずつと這入て二階へ行二階に着物脱入る戸棚有是へ脱湯代と手拭を持階子を下りて銭を置入湯して二階へ上つてゆるりと骸を乾かす茶を持来る菓子を喰茶をのみ爪など取てゆるりとして着物を着る前にいふ茶店にて休まんより遙安上りにてゆるりとす近辺の若もの勤番の侍衆抔は此二階にて遊び碁将棊盤有て温泉湯治場の如し又家内大勢の内は男女共幾人と定てふせたるも有未明より夜五つ迄上り湯とて汲出し次第湯は湯舟に沸有風呂は中狭く底深く腰かけなし此湯熱くして骸しめす計也外へ出て洗ふがゆへ中は暗くて昼にても顔は見へぬくらひなり扨爰に三助と呼びて脊を流す男有晦日〳〵に祝儀を銭取番へやれば其客来ると拍子木を打勝手より来て留桶とて此客等計につかふ飯櫃なる大桶に溢るゝ計湯を汲平生の小桶二つにも湯を汲て置事也客は風呂より出て此桶の所にて洗ふ内三助脊を流しに来るたま〳〵行者は小桶より遣わす事なし幼子などつれ行近所の衆は此大桶の中へ子供を入置て親は小桶にて洗ふも有湯上りに又もとの如く湯を汲んで出し有是らを思へば上方の湯は上り湯は夕方ならではなくいぢましく思わる尤下にも二階にも其辺のよせとて噺講釈見世物の類の番付を張どこで切たのはつたの火事芝居の噂を聞ふなら銭湯に増事なし朔日節句紋日にはおひねりとて十二文紙に包んで持行也桃湯とて桃の葉を湯に焚て入る此日もはやり【やはりカ】おひねり也右云如きなれば豪商の内たりとも家丙にて風呂を焚ず第一火の用心の為二には勘定也風呂場焚場湯殿を江戸間一坪半も塞がれば此店ちん一間に一歩にては上らず桶釜の損じ薪炭高直なれば皆々銭湯へゆくとしるべし又江戸前髪結床は別に安ひと云は只叮嚀也首筋耳の穴鼻の穴迄細き剃刀にて自在に剃る也毛剃叮嚀に漉て渡す床主又剃刀にて清剃して漉事凡四五遍にてあかもふけもなき迄漉夫より油〔上方の鬢付也〕を付て又漉てより結ふなれば京摂の存在なる髪月代とは雲泥の相違也哀れ京摂もこふ有たき物なりかし
厠便所
扨も彼地の潔ぎよき事は船と駕籠潔白なる事は湯と髪月代に限る也よき事をのみ云ばかりにては異ならず京摂もの困るものは雪隠と小便所也男すら迷惑なるに京摂者の婦人は嘸々困るべし雪隠に板囲ひ多くもと下に壼をふせし所はなく大方船板にて拵らへし箱也上り段低く戸は肘壷を打しはなく其上厠へ這入り居る者外よりよく見へる計裙の方少し隠るゝ計也小便所別に有所もあれど大体厠と兼帯也辻々に小便所稀にあれ共只はぢきの板計にて地内へしみこますなれば其辺に散乱して嗅気甚し百姓下屎は取にくれども小便は取に来らずそれゆへ自然と垂流し也故に男子は往来の透を見て格子先あるひは裏口とおぼしき所などへする事也それも〔鳥居を書きあり〕此所へ小便無用の張札有てはづみし折は甚迷惑する事也犬猫のなきがら幾日立ども取捨る事なし小便と犬猫の骸は京摂の如く用に立ぬと聞けり犬は下肴の腸を喰ひ厠へ入て糞をくらへば其皮用に立ぬと云が左様なる訳あるか猫とり犬ひらひと云賊有との噂を聞ず下屎は大屋へ先金をかけて取る事と見へ大屋の息子で糞喰らへ抔悪口の時に聞り下がゝりの話次手に江戸では河太郎と云を河童[カツパ]といふ河童[カハワツパ]の略也物の用に立ぬ者を河童の屁のよふな男だと誣る是は木端の火にて京摂のこけら木屑の火は用にたゝぬ事を誤つてかつぱのへと云也とぞ上方の消炭殼消燃[オキ]を焚落し切炭を佐倉炭此至つて駄ものを駱駝炭と云也割木は惣名に薪と云なり扨も小便を寵愛するは京の事也矢脊小原など遠方へ持かへるは樽詰にし日々菜でせう蕪でせうなぞと野菜の物と替て直切小切する悪口は十返舎が膝栗毛に書たれば世間に名高し大坂にても適々往来の小便桶へ婦人の小便する事老婆幼稚の者は人目も恥ねど若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず江戸は下女に至る迄も小便たごなけねばよん所なくかはしらねど皆厠へ行ゆへ是だけは東都の女の方勝公事也京にても浪華にても芸子閨婦が送り迎ひの下男下女を待せて往来で小便せぬは余程色気を含みしゆへ也老若といわず往来の小便所に女は遠慮あるべき事也上州信州在の女は立はだかつて腰を突出してするがおかしくて泊りし宿にてそれをいゝ出し笑へば此辺でしやがんで〔上方にてつくばる事也〕小便すると縁付が遅ひとて嫌らへりと云所々にて種々の忌嫌らひありと思へば臍にお煎花が沸けり以後下がゝりの噺しなし穴かしこ〳〵
雑具の名
座敷廻りの道具をいわば京都第一にして諸品器用に立派なる事也箪笥仏壇戸棚の類ひ戸障子襖に至る迄善尽し美尽して割には価も安けれど都て手薄く不断沢山につかふには為あしかるべし膳碗折敷手道具の類も是におなじ尤上つがたに有昔道具は格別の事也大坂は見ため不束にして手丈夫なるを愛せり江都は又火早き土地ゆへか諸道具は其日〳〵の用を弁じる計にて飾りの道具は見たくてもなき位也是も諸大名奥向は格別の沙汰也中道具にても上つがたよりの払ひ物など出ればよきは至つてのよきもの下は至つての麁末なる物にて中にも荒道具の類極々麁相なる物多し相応の暮しの商人には袖箪笥一つあらば極上也跡は脊負ひ葛籠を人数程あればよきと見へたり故に仏壇金屏風重箪笥なんどに美を尽す事を好まず男女ともちいさき持もの鏡袋煙草入などを金に飽して持て寵愛す扨勝手廻りの雑具は誠に麁相也竈は多く黒塗にて三つべついが大家の分也通例は二つべついに大和風呂走り本を流しもとと云水壼は水瓶とて価高きゆへ船板にて製したる箱に水を湛る是にて大勢の客来をする人と人物は有合と世の諺に違わず夫にても済もの也尤茶棚の庭戸棚のと並べ立たる住居なし是は中位の暮しかたの内の評也かるがゆへに空地に植木泉水など絶てなく家建詰たれば也場末端々に至りては空地植込もなきにはあらねど御府内繁昌の所抦は大かたが是也まづ思ひ出るにまかせ物の名の違ひし事をいわば上方のいかきをざる切藁をたはし飯櫃をおはち飯台[ハンダイ]を膳箱斉とふを飯だい片手桶をさるぼ壼を瓶土瓶[ドヒン]を土瓶[ドビン]と濁つていふ蓮木を摺子木神折敷を組入桶の輪を桶のたがなどゝ道具は道具言語食物と部わけのしたき物なれど数多き事ゆへ遊所芝居の事は次の巻に出して此所は諸事混雑して思ひ出るまゝにしるせば重なるも有跡より思ひ出書もあり其心にて読み給ふべし
食物の異名
江戸近国にて茶粥と餅茶[モチチヤ]を食する者なく尤製法さへもしらぬ位也粥といへば白粥也正月十五日の小豆粥には餅を入れず砂糖を皿に入て出す岡入[ヲカイレ]して喰ふ事也正月の雑煎は菜を入てすまし也餅に小餅なく切餅也お餝をおそなへ油揚を胡麻揚飛龍臼[ヒリヤウウス]を雁もどき味噌赤白とあれども朝々食する味噌汁は中味噌也是をおみおつけすましはおしたじ味噌にても金山寺の類ひを甞物醤油を下地[シタジ]蕪[カブラ]を株[カブ]水菜を糸菜ずいきを芋殻実蜆[ミシヾミ]をふり蜆南瓜を唐茄子茄子田楽を鴫焼生節をなまりぶし太刀魚を太刀の魚隠見豆を藤豆名古屋鰒を塩さいふぐさいらをさんまはつのみをまぐろ〔きわだ上かしき中しび下〕刻牛房を削り牛房煎付肴を煮付焚合物[タキアハセ]を味煮ごろ煎を煮ころばし同肴を泥亀煮菓子碗の類を碗盛夏は是を茶碗盛柿を樽抜熟柿をさわし柿揚物を天麩羅又金ぷら善哉を汁粉〔白玉入也〕餅の入たを田舎汁粉薄皮餅を今坂餅数の子の水に漬たるを冷かし鰈をひらめ摺身をはんべん魚の田楽を魚田鮮魚[アタラシキウヲ]を無塩座禅豆を煮豆鍋焼を諸事鍋と計り加役鍋鮟鱇鍋白魚鍋鴨鍋と云類ひ也合せ酒を割酒
諸品の変名
又小売するを樽割番傘を大黒傘下駄を足駄履物直しを雪踏直し又でい〳〵とも云中風をよい〳〵ひがらめをすがめちんばをびつこがんちをめつかち手なべをてんぼ明盲を明じい出歯を反歯月役を猿猴坊男根をちんぼこ陰門をおまんこ置銭を色惚たをおつこち糸様をお嬢様お家様をお上様男の子を坊様姥をばゞア御寮人を御新造貧乏人のきたな口に娘を尼男子を餓鬼女子をめろのがきおてんばめらふあまつちよなどゝも云也按摩をもみ療治奉公人口入を慶庵肝煎を世衒隠売女白ゆもじと云を地獄是も文草に記しあれど旧清左衛門と云もの是を始たるゆへ地獄清左衛門と云は箱根熱海に清左衛門と云湯有東都には此名通り惣嫁をば地獄と云也上方にて十五の涎くりと云を江都にて惣領甚六と云それより取て半道役者の名に付たる也口入の慶庵も始めし折の人名也下女の通り名をお三どんといふ是は上方で宵から睡るお清どんの類也下男にお科と云も惣名也信濃より出る奉公人なるゆへ然呼ぶ惣嫁を夜鷹屋敷者の下男を折助とも火怨とも云大坂にて耄碌と云類也老耄をもふろくしたと云子を抱寐さすにだれかした〳〵と云所を誰がよヲ〳〵人の【子をカ】愛するにもアヽいゝ坊様だネヱおとゝ様にもおかゝ様にもよく似ていさつせる事はいのうなぞと口上手をいふやつ也此追従をおべつかと云しが近世胡麻すると流行詞に変名をしけり委くは文草に出たりまた合点でほめそやしておだてる事をおひやると云子が産れると聞進物をするいまだ名を聞ぬゆへ御出生様と書て送る是は大坂にては余りかゝぬ事にて江戸の方正しゝと云べし子を脊に負ふ事をおんぶしてあげませふと云負れるをおぶさると云芝居遊所へ引つきにて只ゆく事をおんぶとも云ぞめきをひやかしと云尻からげを尻端折と云走るを駈る中分以下の我母でも余所の老母にてもお袋と云中老が女を姉御親類内の子供をあのこ〳〵と云むかふからも伯父様と云幼稚の者はちやんと云わるさを徒らほたへるをしやれる灸すへるを赤団子をすよふかと子供を威す男女とも子供の内を小僧〳〵といふ給金取は其事なけれど年季の奉公人は正月七月十六日には一日養父入に帰らす悪口に年季野郎と云足のきびすを屈所[カヽト]そげの立しをとげが立たと紫蘇をちそと云せく事を大急暇の入る事をお間がござります意地穢なきをあたじけない気のちいさいをけちな界性のないをいくぢがない見られぬ風俗をみぢめなざま見ろ追付[ヲイツク]取付[トリツク]喰付[クヒツク]などもおつつくとつつくくつつく宜しふは宜しくよふなりましたよくなりましたきつふはきつく括るはしばる結ぶはいわへる述懐を述懐観音を親音怪談をかいだん李冠[リクワン]【をカ】りかん喧嘩をけんか順気のよしあしを陽気がよい悪ひと云火事をかじ薬鑵をやかん菓子をかし一貫を一かん芝居をしばやすばくをすばく強ひ事をおつかないあぶなきをけんのん胆の太ひを度胸がよいいら〳〵するをせつかち何ぼをいくら大きいは強気替つた事をおつな事夜前を昨晩滅相なを飛んだ事仰山を結搆な家の付物を雑作盗人を泥坊知つた顔をするを生聞暇の入るをおつくうなあほうをべら坊鰹節をおかゝ細いと云をこまかい太ひを荒ひ味ないはまづい是は〳〵をおや〳〵馬鹿者をとんちき無益をむだ落るをおつこちる仕方のなき物を難作[ナンサク]物又困り一向をいつそ丸でをづぶ荷なふをかつぐ脊負て行をしよつて行おふごを天秤棒つとをたぼ髷をまげ髪先を刷毛先凧[イカ]をたこ登[ノボ]すを上る湿病[シツカキ]を瘡つ掻砕をこわすつぶれるをこわれる私をわつちヲヽすかんをいやだ【ねカ】ヱ行過者を高懐ものあばずれするなをふざけなアんな帰るをけへる這入をへゑるそちがと云を手前がそふせいをそふしろきつふはきつく也行をあゆむそふでないと云をどふして〳〵何[ナア]にと上方に引ぱるを走つてナニ〳〵賢を利口頓とをさつぱり頃合を恰好下直に付たを安上り初めてをお初によい暮しをいひお住居な瓜を丸瓜わなるをどやぐこそばいをこそぐつたい辛気なをじれたい身をもがくをじれるあどないをあどけないしどのなきをしだらがないもゝほうづきをほうぶらぜゝ具を金砂子むくろじをむくかんや【刊我本、むくらんじ】手鞠取を手玉取る手鞠唄を鞠唄手製のおこしを豆煎舞の師匠を踊の師匠端唄を上方唄又めりやす倒者をどんだくれすめをしらぬ酒の酔をずぶ六すこし酔しを生酔久しい物じやをお株をいふと云也お前はいつもそんな事すると云をばお前に限る都て上方にて夫々憚りお世話様御面倒様などを有難ふと計にて済す也お暇申ますと云をハイさやうならと計りよしにしませふをよしましよよしてくんねへよしにせいをよせへ〳〵厳敷を素敵乞食にマア往ておくれを無よと計葬礼を弔らひ石塔場を卵塔婆色着[イロキ]を施主地べたを地下[ぢびた]蒸を吹す門を城戸竹箒を竹ぼうき雷を雷様悋気を甚助妬むをそねむ法界悋気を岡焼餅みすぼらしきをそぼろ甲斐なきをやるせがなひ鉢山[ハチヤマ]を箱植[ハコウヱ]犬猫を畜生少しをちよつぴり舐[ネブ]つて見いを甞て見い女乞食の三味線引て来るを女太夫巫子[ミコ]をいち子京摂の猿など呼役人を岡つ曳影画を写し画怪談をおばけ噺仕[ハナシヽ]を噺家忠七を豆蔵又おでゞ子とも云浄瑠璃を義太夫江戸出来の道行を浄瑠璃一文もないと云を四文もない一文銭を小銭四文銭を大銭百文銭を当百頼母子を無尽好な物にて銭遣ふを道楽いわば女道楽着物道楽と云也かく書つゞくれば実に千言万句際限もなけれども是にもれたるは次の巻に著はすべし是を東都の者に読聞しなばヲヤ〳〵あの人も奇特な人だなアかう知れたる事を書ずともの事だと笑ふべし
西沢文庫皇都午睡三編 中の巻 終
西沢文庫皇都午睡三編 下の巻
目次
一 流行言葉
一 婦人の髪
一 戯場の方言
一 貨食店の名
一 京摂の古遊所
一 深川の古遊所
一 吉原遊び
一 品川宿
一 内藤新宿
一 板橋千住
一 廻し床
一 通と野暮、持る持ぬの論
【一 遊所の惣評】
一 訛の惣評
西沢文庫皇都午睡三編 下の巻
西沢綺語堂李叟著
流行言葉
絹木綿の文庫を四つ手といひ脚半をはゞき家の付物を造作と唱へ二焚食[フタタキメシ]をおぢやと呼ぶなど悉く呼名の違ふ筈前に云如く東都の人の口にかくれば京も大坂もひとつ国の様に心得る其京と大坂との言語いか程か違ひ物の唱も違はゞ三十石の乗合に毎度此論を聞こと也され共京の者の物静にそろ〳〵と大坂を誣る大坂者は頭に血多く口やかましく大音にてのゝしる故先大坂が言ひ勝た様也江戸とても貴き人々には聊も言葉は替りたる事なき物也いはゞ文通書状に書送るに江戸なればとて訛りを入て書送事あるまじそれにても通る所を見れば前巻に演るは皆中より下賎の言葉也確としたる書籍に記さずしるさゞれども事をかゝず尤貴人方にも言の延縮云ひ放しなどには各国の詞を持生れ給ふなれば少しの事は有うちなれ三都と詞をわけて云時には江戸計は耳立て聞え京大坂とはさまで替りたる詞もなし是も詞の延縮引か放すかといふ計の違ひなるべし少しくいはゞ京の浅[アサ]瓜は大坂の白瓜、かぼちやを南京、でかいをどゑらい、出来物【刊我本腫物】をでんぼ、目疣[イボ]を目ばつこ、辻子[ズシ]を小路[セウジ]、あんばいよしを田楽、おつかきを十能、道の上る下るを東へ行とか南へ入とか、せんどを何べんも、いつかいを大きい、くじたくさんをおこしたおこさぬ、ちろりをたんぽ、此余沢山にあるべけれど五音の清濁呂律の運びの違ひにていふ程の詞通ぜずして年老の人に聞ねばしれぬといふ程は絶てなし門々を商人の売歩行声などは其所〳〵にて売る物なれば其地の者さへ何を売るやらんと見届てしる事也京にて蜆を売る声にめヱ〳〵と売氷魚[ヒガ]魦[イサヽ]などは大坂になけねば適に上京などしたる者解すべからず皇都の人大坂へ下らば物売声は嘸解せぬ者多からん江戸上製菓子屋に京都御菓子と印せる所多くして京大坂は長崎御菓子と印せば長崎にては又京都菓子と云大坂には煙草入きせるは大方江戸産物といへば江戸にては何かの物を下り〳〵とて皆大坂の物と呼で売る然れば都会の地は名前をかる事御互ひ也是より京と大坂と別にわけず江戸人の思ふ如く一つ国の如くにして上方の事を云べし大坂に流行詞絶ずして追々に詞変れり京摂ともに旧より文花ひらけたる土地なれども近来ます〳〵開けたり言語に銭金はいらぬと心得都ての詞を高情に云也いはゞ誰それを調伏して誰々聞て大逆鱗などと洒落の言葉に天子将軍家に云ひ賜ふ詞を遣ふ其上医者の諸生の詞を聞はづり専ら漢語をつかひのぼすはの腰が痛むのと素人らしくいわいで逆上の気味じやの疝の業か殊の外腰痛するのと大路次操り此太夫が聞てあきれそふ也漢語遣ひ荒くなりて安ふ落下つた者は先生也直しを見ても垣外[カイト]を見ても是先生〳〵と云ば本間の先生は穢多や垣外と同格にいはれる事也そこで易者などが負ぬ気になつて我内から貼札するに何々大先生と我手にて書て出す大だけが官位昇進の心なるべし所詮斯ふ言葉が高ふなつたれば三都のいきすぎ者に茗荷飯を十年も続けて喰さねばもとへは戻らぬ也子供でも賢ひ子じやといへば嬉しうなく才子じやと聞と嬉しがる時節とはなりけり不仕合な男が斯ふ薄命では叶わぬ日夜歎息の外なしじや抔といはれてからは此方より何とも挨拶の仕よふもなくなれりそふ若手の調口が高ひから老人の物しらずが夫に付合ふて片言を多く遣ひ血に交はれば赤ふなるけふは暑寒の御見舞に参りましたの御朱印後は世の中がめつきりつまりました抔とどてもない鄙言をいひ出す馬鹿ながらにも老人の事ゆゑそりやこふじやといはれはせず道風の朗詠集也と笑ふて仕舞ふより仕方なし爰に又よひ事もあり江戸に似合はぬおまんま、おみおつけ、おつかさん、おとつさんとて何事によらずおの字を付る京は素より何にでもおの字を付てお米がお釜になどと乞食が若衆を口説よふな詞つきに聞へるが是も古きより叮嚀に云なれば甚宜し大坂は古浄瑠璃の子供のせりふにもとゝさまの名は阿波の十郎兵衛かゝさんの名はお弓と申ますと云程なれば我らが子供の時分は専らとゝさん嚊さんにて有しがいつの程にかおかあさんおとつさんと官位昇進しけりそれも身を持た下人大勢つかふて暮す内は旧からおとつさんおかあさんといひしが是も前に云先生と同格で裏住の子がそふいへば乞食の子迄がおとつ様おかあ様になつたるは何と口が高ふなつたではないか役者に親方と云は座頭一人太夫といふは立女形一人にて有しを今は惣座中親方と太夫様になつたり銭払ひの中女形中通り迄親方となれば今に稲荷町の親方も出来そふな物也旦那といふも呼んで貰ふてとんと嬉しうない時節也諸事が下から上つて来る物ばかりにて上の手に旧からいる者はさりとは迷惑せらるべし扨も流行詞は又一種別にて触書も廻らねど銘々いはねばならぬよふに云がおかしき物也ゑらい■子じやは至つて新物也以前の南京じやなアと同意なるべし何じやいふているはおゆるしじやなアちと気じやなア一朱〳〵駱駝づれでよふいわれた事じやちやかぽんそんならそうかよふなはやり詞は多く色里芝居より弘まる事也中にも大熱くなぞとはどこから出るやら是もとは病人のたわことより出たるなるべし扨もはやり詞といへば昔からないでもなくいふてもおくれぬ小夜あらししよんがいなア松坂こへたヱなども其昔のはやり詞なるべし子守歌勧進の詠歌などにも我ら子供の時分に聞たがふしが替りて諷ひかたに大同小異有念仏題目和讃にも人々の唱へ方によりてか年々すこし宛かわるやうに聞へり中にも片腹いたきは市中の相応なお内儀やお家様とか呼れる人が芝居の楽屋詞や遊所の下女が云ひはやらす詞を聞なれてわからぬなりに云改らるゝは情なし少し爰にのするぼ【ぽカ】ん〳〵と云をどん〳〵と云金棒ひくといふをじやりひく駈落したをどろ〳〵くわすだまつているをだんまり向ふのわからぬ事を黒幕、相談にならぬ事を咄にならぬ、うぬが手にあわぬ者を人が悪ひ、内証のかひ物を用内[ヨウナイ]、聞賃を受代[ウケシロ]なんど素人の若手合がいふをよひ事に心得役者か芝居者の女房気取になつていはるゝはさりとは受られぬ物也町は町らしく昔の詞にいふ通り古風にいひたき物也其身ばかりにあらず亭主の顔が詠らるゝ娘子供がそれを手本にいひならふと【はヵ】さりとは下策なる物也さればとておやま買して芸子立牽頭物よんで上菓子たべてなども余り古風なれば能程に有たき事也けふも旦那の散財じや位はよかるべしかかよふ申せばハテいらぬお世話ゑらい■子じやと云るべし
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婦人の髪
扨江戸男髪の風は特に流行有て一概にはいわれねど武家にはいろ〳〵かわつたる古風な髪も有町人は大方銀杏計上方の如く丸髷二つ折などは見当らず上方にても今のんこと云髷珍らしく江戸に本田は屋敷方に適々見受る計也女髪は将軍家の奥女中の風儀は別段の事にて他家にて其風を写す事は御法度のよし御三家始め御大名方にても其屋敷〳〵にて異容あればあれはどの屋敷是は何れの屋敷の女中也と彼地にては委しき人は見ても知るゝと也町方女の髪は齢の高下に拘わらず大方丸髷とて勝山のちいさく根低く押へつけたる様也鬢も上は小さくまつ直に横へ張出したる也鬢付を多く付ずざんぐりと捌がち也月に三度計髪を洗ふをならわせとする也笄も短かきをさし大坂の如く四角に厚きは用ひず簪なども短くして薄手にて甚だ質素也常に多く櫛をさゝず他行にても鼈甲の厚櫛を用ひず御趣意前にても朝鮮の櫛かんざしなりしが当時は粉塗の木櫛専ら也上方の如く白粉べた〳〵と塗事なく至つて薄く目立ぬをよしとす元来女は男めきたる気性有所の故なるべし惣体あたまのかけ物髷くゝり笄さし込の類は幼年の間計にて十二三以上の娘子は見受ず他出にも帽子冠り物を着ずむき出し也大坂の丸綿帽子の如く見物所にて後より目障りにならでよし途中にては黒ちりめん一重の頬冠りのまゝ着る也町家婦人薄化粧したるもあれど大かたはせぬがち也京江戸御所方屋敷方には老女に至る迄粧ひはすれど京江戸とも一体化粧は薄き方也大坂ほど化粧する所は他国にては珍らし見物所にて野辺鏡取出して自慢らしくせらるゝは実に見苦しき物也三都の遊所にても大坂は全体拵はで過る也京江戸は目立ぬ様にするを風儀とせり江戸の女は右いふ如く質素なる故器量よき者はそれでもよけれど不器量の上にあたまがじみなると若い女か婆々様か少しくらき所にては取違へるよう也
女用の煙管煙草入扇紙袋履物に至る迄大方男持のすこし小さきを用ふる也煙草入は腰にさして扇は帯の後にさしはき物は草履をはかず女雪踏鼻緒は以前は天鵝絨にて有たれど今は革鼻緒真田打等也子供の髪を早く置事此地に限れり三才の盆刺より先合鬘[ガツソウ]を置男女ともに同じ此がつそう【のカ】中を又剃
あたまの皿に斯様に置も有扶持【取力】となる前表を祝する也とぞまた前髪の所も
三ケ月形りに残すあり唐子作りは絶てなし扨着物は縫上げして半振袖にして袖口八掛等に赤き裂[キレ]を付ず花色萠ぎ樺色等の絹を摸様なしに大人も同前の仕立多しそれにかわりて十三四位の娘子の他所行には緋縮緬板締等のばつちをはかせあたまも男髷前髪仕立にして尻高くからげさせ後の帯に挟む又女の惣名をたぼと云〔男より云詞也〕十三四より廿頃迄を新造と云廿より卅二三才迄を中年増と云夫より上を年増と唱へ極年をお袋とも婆々アとも云也女の帯の結び様竪に結びて帯の両端を上下へ引出し尤も強くしめる也抱へ帯は丸で本帯の下にて結ぶ故外からは見へぬ也上方の如く本帯の次に見へる様に結ばず内にては大方が一つ結びに引通したるまゝ也帯をするとはいはず帯をしめると云也平生の着物は譬へ綿服にても四五寸計も裾を長く引ずらせ着て居る故近所隣へ一寸其侭にて出る時には褄をかい取して出る是則お上様の印にて下女はつい丈に着てゐる也上方にては端々の遊女が近所歩行するに似たり扨裾長に着た上へ前垂を放さず前垂を前掛と云ひ木綿立に二巾にて丈を畳へ一二寸もかゝる位細長き製にて近所歩行にたぐり上て帯に挟む也他出にも摸様ものゝ小袖は珍らしく縞物多く跡は無地也三四月頃一つ着又は袷頃に他出すれば薄綿にして重ね着にて出る帯に上方の様にしんを入れず鯨帯と云て昼夜帯多し扨縞物染色の好等は年々歳々流行物有て確とした事は記されず以前予が彼地へ行し頃は大名縞大はやりにて男女共に夏冬をいはず着はやらせしが上方にても四五十年前大に流行しよし大名に絣の入りしを田沼縞と云たるよし此大名縞は予が当推量かもしらねど白の筋を鎗と見て大名の供先鑓幾筋も並びしかと思わるがいかゞあらん上方にても以前より流行物を思へば松坂縞より郡山すりはがし染色にても路考茶璃寛茶伊予染或は鳶色紋付とはやり茶色【裏カ】がやんで【刊我本鳶色鉄納戸茶裏が止で】花色裏になるかと思へば羽織の製の長いがお医者計りに残つて跡は残らす短ふなる八つふじの摸様がうせると麻がたが流行など誰いひ合すとなく是が移り替る都会の流行と云也上方は此廿年計り綿結城はやつて余の縞は皆廃りたり此綿結城は不易の都也今宝山縞じやの女帯に金花桟のと云てはどこの店にも余計にあるまじ况んや東都の流行移る事の早き替る事のすみやかさ再度の下りには大名縞は一寸もはやらずまして御趣意此方何かにさつぱりと改まつて能い物は高直ゆへそふ行渡らず不断着にていはゞ男女を云ず綿結城夏は銚子縮少し上物でめいせん色はかわいろ【刊我本樺色とあり併し本書原本頭書に樺色とあらず革色なりとあり】襟でも裏でも合羽でも革色ならぬものはなし萠黄に黒みの掛つた色也又どんな色に替るか此六七年跡まで立横縞がはやつたと見へ弁慶の物を着ぬと江戸ツ子らしうない抔といふて流行らせる人気也扨も我等男のしらぬ事乍ら都ての物のかわりしを少しく爰に出す上方にて云八掛を裾廻し人形袖を八つ口、前垂を前掛根子谷[ネコヤ]紬を二子、唐奥[トウオク]縞を唐桟、川越にて織る奥縞を川唐[カハト]、檳郎子[ビンロウジ]木綿を桟留、八王寺衿袖口にするを黒八丈、生平をさいて湯具を褌、裾除を仕掛【刊我本八王子を黒八丈裾除は蹴出とあり】丹前を掻巻どてらとも江戸腹当を具足腹当抔中々いろ〳〵覚へべくもあらず書尽す事あたわず跡はよきにさつして其風儀の違ふをしるべし
戯場の方言
扨も芝居事をいへば是は又我等の業体なれば委敷記せば中々二冊や三冊には書たるべからずまづ荒増を申べし表のかゝり小屋根なしにずつと上迄立のぼせに二階口あたりへかけはづしにて看板を毎朝あげて夕方はおろす也当時猿若町の姿にていへば南北に並び南のはし一町目中村勘三郎座北へ二町目市村羽左衛門座三町目北の端河原崎権之助座也是は三軒共西側にて東側一町目に薩摩座二町目に結城座と二軒浄瑠璃芝居也大坂の稲荷座摩ぐらゐの小屋也扨本芝居三軒共南のはしにて木戸口有其隣一間半勘定場表面に有そこを仕切場と唱へ隣に這入口有其次は矢筈格子の戸をはめ何枚も有内間中[まなか]計這入る門有此前へ高き床几を置上に土間番とは上方にて云木戸也是がサアごらふじませ〳〵などといへ共上方のよふに木戸札など売る事なし此前に看板見てゐる者を引こんで旦那ごらふじませぬかといふて勧る者を河童と云なぜかつぱといへば人を引ずり込といふ謎也近頃の川柳に姥が池が埋まつて河童が出とは是をいひしもの也扨木戸口を直に行ば芸裏桟敷の通り道也【刊我本に芸裏桟敷の後通道也とあり】此故に一筋楽屋へ通る道有上方の様に奈落なけねば役者出這入は是を行が故桟敷の後とは二筋になりある也此取合板にて肩より上あらき格子連子にして有花道は戸やより筋違に二間計有てそれより本舞台へまつ直に花道を付たる物也舞台と云は上方は略にて江戸の方本舞台也なぜといへば双方にて場二軒並び宛内らへ引込で本舞台は能舞台の如く向ふへ突出し有上にて少し引こめて能舞台の通りの破風餝り有幕は此向ふへ突出したるだけ引が故に西方桟敷からは幕の内よく見へる也扨旧地にては芝居北側に有たれば芸表の方〔大坂にて西場の方〕是東也芸裏〔大坂にて東方〕是西也其例を以て今三軒とも東場桟敷を上とする也西桟敷場ども大坂の東同前也爰に又役者ひいきの客などは好んで芸裏西の下桟敷へ行と其後を役者が通つてかの連子から挨拶して行などすれば裏表に花道ある様な利窟で余計見られると云金太郎也楽屋裏にも向ひ両隣皆茶屋也楽屋口三軒共北のはしに有是は這入ると直に板間にて履物ならず舞台の方へ行は北に有り楽屋口に稲荷物とて若立役〔上方にても至極下役者〕居れり風呂場次に囃子町とて囃子方つらりと並び次に作者部屋に狂言方居る一段高みに頭取部屋有此次衣裳部屋是より舞台の方へ廻つて小道具部屋桟敷の後通り道筋也頭取部屋の前に仮階子有て中二階には女形ばかり也三階へ上る立役敵役大部屋にて西方に囲ふて座頭書出し役者別部屋に扣へる其余は皆大部屋にてしきる事なし故に上方の様にのろ〳〵と素人見物に行事ならざる也其三階の舞台の方に隔の板有そこより内へ這入れば惣竹の上へ葭をのせ舞台の上より向ふ桟敷の上迄天井はり有是を惣名日覆と云也雪をふらせ又桜をちらし月の出這入り等は此日覆の上よりつかへばどんな上へ行ふとまゝ也又舞台の下大ぜりと花道中程一人ぜりだけは奈落あり楽屋一方口にて穴倉の如し戸屋の方へゆけず地低ふして水涌て長雨の当座など困る事有三座太夫元を旦那と称して京摂の座元とは違ひ至極尊敬する事也年八には大公儀へ拝礼に出て顔見せと正月元日仕初とには翁を勤る事例格也一町目三町目には間に役者ならねば銀主計る役也二町目は役者なれば帳元興行人也両町は帳元あれども京摂にての大勘定の上格也次に大札と云役有大坂にての頭の上格也跡の手代を当番と云木戸とは格違へど東西桟敷番土間番火縄木戸芸者と云もの有て替り毎看板出しの日には木戸口の高みに上つて役者の声色をかけ合或は一人にてもする事也看板出しの日櫓下と唱へ絵入番付を町々へ売歩行扨初日二日目あたりは一向入なし三日目より評判よき狂言ならば入多くなる月々晦日と十四日が上方の節季なれば六節季とも常と同じく芝居は節季休と云事なしはやる狂言はいつ迄もする事也扨舞台せまく楽屋も下は甚だせまし舞台橋掛りはなし今よふ〳〵横に成つて通る位の出這入り口出来たり此後口は囃子方の居所也ゆへに囃子を下座と云道具立は正面三間の間にて両方は一間宛程よりなし遠見打抜の道具などはなしたま〳〵拵らへても甚だ麁末の物にして少し道具張込し折は大道具大仕かけ抔と仰山に書出す事也扨も狂言によりて芸表〔当時北方〕十あたりの下桟敷より出口を拵らへ花道へずつと板を渡して役者是を通つて本花道へ来て本舞台へ来る也鏡山女行列の出など是也戸屋花道を揚幕と云大坂の桟敷前の出孫と云場を高土間とも高場とも云場は総体深くしてへきり【仕切のことカ】は見物の肩のあたりに有此へきり甚だ広し此下行抜也狂言は三座とも夜の内に七福神、大江山、甲子待などとて上方花盗人、炮■割のよふな事をして一切【刊我本やうなるを稲荷町若衆計りにて一切】次に中通り計にて稽古修行の為にする一ぺん一ぺん書狂言にて一場有其次に八枚の役者又仕こみの狂言有て此幕切だんまりにて始めて能い役者が出る也朝五つ半四つ時也それより四建目五建目と段々に有てもし切狂言あれば前狂言大詰として跡二番目と云也此中に所作事あれば是を浄瑠璃と云大坂の浄瑠璃狂言を義太夫狂言と云也十月晦日前には表町裏町の茶屋共惣一統二階へ餝り物とていろ〳〵の人形を餝りて大坂にて近世はやる砂持正遷宮の折の造り物同様に種々さま〴〵の飾り物有釣枝毛氈暖簾等にて餝り立甚だ賑わし霜月朔日茶屋より町々の得意先へ鴨の身と切餅を折に詰配り役者の内では朔日来る人毎に鴨雑煮をくはせる事定例也町方より此餝り物を見に来て群集する也年中の内冬は陰気なるゆへ是ばかりは御公儀より御免にて夜に入ても灯を上させ賑わしく群集させる也此余囃子鳴物等京摂と呼ごへ違ふ事数多有といへども今迄訓蒙図会等に委しければ爰に略す御趣意前には宮地芝居と唱へ湯島天神社内市ケ谷八幡社内芝の神明社地等に田舎座の狂言有たれども皆々御さしとめにて大歌舞妓は此三座浄瑠璃座は二座より外になし五福子の紀行に日比此広き繁昌の大江戸の地には芝居は十軒もなけねば行当るまじと書有素人了簡には尤なる事也今芝口の人や四ツ谷赤坂あたりの人芝居を見よふと思へば三四里の道を行日暮に果て又三四里帰る事扨々大儀なる物也以前旧地の頃は雨降りには芝居誠によく入たれど当時は俄雨は障りにならねど二三日も降りつゞく雨と見れば遠方の見物大儀なるゆへ誠によく入て有る芝居にても入落る天気さへよければ又もとの如く大入となる町方にて堺町葺屋町なぞとは呼ばず勘三とか市村とか河原崎とか呼で評判をする也狂言初りにも果にも櫓の上にてトテ〳〵と太皷敲く事は絶てなしトテ〳〵太皷をかんから太皷とて軽業なぞでなくては敲かず芝居舞台にて大太皷をどん〴〵と敲く事也角力にても門々へ敲き廻る事一頃京大坂の富興行しらしに来る通り也此太皷に甚だむつかしき因縁有て御城の時を打外に大太皷打事は芝居三軒と角力とばかり也とぞ扨果るといわす刎ると云也見物のほめごゑは京摂とはさつぱり違ふなりイヨ成駒やア、成田やア、有難いぞ、高麗やア、大和やア、親仁の侭だぜ、ヤンヤ〳〵上方役者を先所馴る迄は下りイ〳〵と云てほめる也別に名をいわず二町目の下り三町目の下りと云ふよふな心也常に門々を飴をうるを下り〳〵と云て売歩行紋には
皆渦を書有上方役者は飴とおなじ皆下り〳〵と云也上方の割子弁当を幕の内と云上方にて三つ鉢女夫肴を三つ物二つ物乃至五つ物抔と云唄三味せんのゆるし物と取ちがへそふ也聞馴る迄はおかしき事幾分も有て独笑する也
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貨食店の名
扨も料理屋といへば是又年々歳々流行あれば確と定規には云かたけれどもまづ荒増を申べし評判の鳥越八百善と云る料理屋は以前は客の誂らへによりて好きな事が出来たれど当時は内で客をせず精進料理の仕出し屋となりけり町にて三十人五十人の法事仏事あれど眺らへると朱黒青漆とか膳碗家具の類迄残らず取揃へ引菓子に至る迄揃へて送り膳の提箱も向ふより持来て勝手混雑なく誠に便利よろし諸道具は火早き所ゆへ内に有共遣わず皆誂へる事也因に云京摂とかわつた事は百回忌五十回忌などは馴染の人なきゆへ上方のよふに張込ず死んだ当座の方馳走也茶の子にても一周忌より三回忌は軽く七年十三年を段々先程心易くして当座を叮嚀に勤成丈け張込む所也火早き所ゆへ近所の付合にても三年七年のたつ時は変り易きなるべし是らは上方より江戸の方能き差略也と思ふ也扨当時料理に名高きは深川八幡前平清是は極贅沢也八幡社地に二軒茶屋向ふ島に大七武蔵屋平岩〔昔は葛井太郎と云し也〕小梅に小倉庵今戸に金波楼大七出店川口〔お直とて通り名也〕橋場に柳屋尾花屋〔深川仲町名代の女郎屋也爰に移〕甲子屋千束に田川屋〔駐春亭とも云〕両国柳橋に梅川万八〔是は書画会舞さらへ等の席〕玄冶店に杉坂〔坂東三津五郎役者を引く是也〕爰らを上の分として中分の繁昌なる料理屋頗る多し少しくいはゞ青物町讚岐屋下谷の浜田屋同町鍋屋王子の海老屋、扇屋、雑司谷に茗荷屋浅草に万年屋、鱣屋で極々上は筋違見付外深川屋、駒形の中村屋、鳥越の重箱うなぎ、浅草に奴鱣、水戸橋鱣屋、南で狐鰻、霊岸じまの大黒屋、尾張町鈴木、親仁橋の大和田、人形町の和田、深川の荒井鰻など也茶漬屋で通りの山吹宇治の里笹岡両国にて五色、淡雪、蓬莱浅草菊屋など中々書出したらば際限なし此余薔麥屋居酒屋なんど始め名代の鮓やてんぷら屋など数へる時は一町内に半分の余は喰物屋なり予が三都の見立に食の第一に見立しが中々食物是程に自在なる所は見ぬ唐土にもあるまじく思はるゝ也
京摂の古遊所
扨遊所といへば各若き折は絶へずうぬが遊びに行所が面白く馴染もおほく段々近付の顔がふへいわばうぬが相方に一度や二度あわずとも遊んで帰らるゝ所にして価の高き程余計面白いともいはれぬもの也先手近く大坂にていへば御趣意前迄は実に遊所が多過る也いかに我等の様な能楽人にても悉く遊所廻りは出来べからず一に新町九軒にて太夫天神と有ても其余に店付女郎送り込より下は阿波座吉原塀の側と直段の高下有二に島の内道頓堀是又女郎は伯人古名は風呂屋の垢摺女芸子の古名は茶立女と呼て廓中には女郎の方を買はやらせ芸子はいはゞ座持也島の内は芸子の方を買はやらせて伯人は二段に下る此島の内と位を争ふは北の新地也是は又島の内程にははでにはなけねども堂島中の島を引受れば客の種も違ひしつくりと遊ぶ場所也次に堀江是はまた一風立て気性も外々の遊所より異なる所有て女郎にても金猫銀猫二座の一本付などとて深き口授有次に坂町は女郎よくて芸子はさまで名高くもなく是は又芸者と若衆をおもとせし所次は難波新地是は又広き場所にて小茶屋多く其わりには置屋はたゞ五六軒にて以前は繁昌の所なりけり爰に又芸子のよき種有て官位昇進すれば坂町を飛こして島の内へも出される芸子多かりし是に続きて北の新屋敷生玉馬場先天満霊府是らを位の順なるべし扨名に呼ぶ物の終に遊んだ事もなけれど遊所女郎屋のある場所といつぱ右にもれたるは勝曼尼寺、のど町、上塩町、真田山神主前、新宅、梅がえ、【刊我本、こつぽり下原網笠茶屋、羅漢前、大根畑羅城門新堀びんしよ】堀江六町目、薬師裏、いろは裏、新川、溝の側、坂町裏、南新屋敷、髭剃、高津新地、築地なんど遊所ならぬ所もなく浜側には辻君有市中には白ゆもじとて隠売女あり石町には町芸子などざつと書出しても此位の遊所あれば市中の若ひ者に湿病[しつびやう]の多かりし筈也今悉く御禁止となり新町曽根崎幸町九郎右衛門町難波新地五ケ所とはなつたれど五ケ所が繁昌するかと見ればさ迄にもなく市中の色事がはづんで密男や下女はらますが多ひかと思へばさ程にもなきからは腎水の不作にて沸かぬかたしなみが能ふなつたか小遣ひ金が不自由なか何れ此内に相違あるまじ
京都にても其通り第一位の島原はもとから今の位の繁昌さにて二に祇園新地といへど此又遊所が幾所にわかれてあるやら中々広大もなき物也川東と称して極上代物を取扱ふ所は祇園町、富永町、末吉町、東石垣等を云ふ也宮川町、西石垣、先斗町有東に膳所裏縄手に蛍二条新地檀王下、【刊我本檀王の下に八軒とあり】下河原、安井前、五条坂、六波羅裏、橋下と数ふれば川より東は山手へかけて寺と宮と遊所とにて詰つてある也西では内野新地、五番町、壬生などとて所々に色町有て河原には惣嫁小屋有伏見に墨染、撞木町、中書島、大津に四の宮、柴屋町、八町の根婦迄数ふるに際限なく道中宿駅は格別洛中洛外の遊所止つて春夏は蛙の声をきゝ秋冬は狐火のもゆるを見る島原廓中一ケ所にきめたるは中々誰やらの業じや云てぼやけども其道の商売往来にのらぬ者の親や親方の金取出させてもふける者らこそ詰らぬかしらねど子を持下人大勢つかふ人らにはいか程の安心やら夫を有難ひ事じやと悦ぶものゝないと云は誠にめふがしらずとも云べし商売の不景気は遊所が有てもなふても売れぬ物は売ぬ也あながち遊所の減つたからではなし物しらぬ人は世が不景気なから火事さへゆかぬとはけしからぬ言ぐさ先で繁昌するかしらねどふけい気な所で度々火事に出あふたら夫こそ宿なしの物貰らひとなるべし世の中の小言をいはず我商売をじつと守つていれば遅ひか早ひか繁昌の世の中となるべし
深川の古遊所
江戸の地は前にも演る如く三都の内にも人数第一に多き所なれば御趣意前にても御政道厳しく御府内に限つて遊所は一ケ所もなく銭湯さへ男女とわけて猥がはしき事を禁じて吉原の廓ももと今の高砂町、浪花町あたりに有たるを当時の処へ替地仰付られてからもふ二百年にもなる事今に大門通りと云は前かた吉原の大門の有た筋の古名残れり我等先年始て下りし時はまだ遊所が方々に有て一遍通りは遊んで置ねば普く人情を察する事かたし抔とよい加減な理窟を付て遊んで見しが其年の暮に皆取払ひ仰付られて今は跡方もなくなりたりそこで思へばアヽよい時に遊んで置た事じや今一遍行とふてもいかれぬ事じやと自慢らしく云も馬鹿也親の死目にあふたのとは違ふ往てもよし往ずとも済事也さり乍ら其時往かぬからとて金が延てあるかといへばどちらみち其時分からの金はなし見ただけ遊んだだけが徳なるべし当時遺つてある吉原、品川、新宿、千住、板橋の外に深川に数ケ所有けり極上が仲町、大新地、小新地、石場、裾継お旅町、弁天、常盤町、松井町、安い所があひる、網打場、本所鐘つき堂、八町堀、影間茶屋、麻布市兵衛町、赤坂麥飯、根津谷中、湯島の影間、浅草堂前などとて御府内をはづれると有たるも上方の様に数百軒有所はなし一所に十軒か二十軒迄也其かはりに女郎屋の外に案内をする茶屋有り女郎屋が十軒もあれば茶屋は卅軒も有道理也前に云船宿よりつれて行客も有女郎屋といへば何れも屋体大きく奉公人の二三十人宛はある也茶屋は何れも夫婦下女とかにて四五人ぐらし也是ゆへ上方の格とはころりつと違ふ事也先遊ばんと思ふ時は此茶屋へ行どこにいゝ女郎があると云事を聞てそこへ案内させる事也三人連の内一人外の女郎屋になじみあればわかれてそこへ案内させて泊り翌かへりがけに茶屋にて出合ひ連立て帰る也又仲町は女郎より芸者遊びをおもとする所にして芸者の置屋を見番といふ子供芸者を羽織と云是は二人一組として芸者一人の料にて二人来る也羽織とは腰より下は売らぬといふ謎也地前にて出るをでへしと云仕替に出すを鞍がへと云町の牽頭を野幇間[タイコ]と云幇間を男芸者と云仲町に限る通言は中興中本と唱へる書に委しければ略す粋書も中興のは佳作稀也京伝の作仕掛文庫、二筋道、虎の巻、粋好伝の頃の作おもしろく実に其他に遊ぶが如し為永春水、鼻山人等の作は一向見所なし中にも八幡鐘は此地のきぬ〴〵に遣ひ京の建仁寺の陀羅尼、大坂北の新地の寒山寺鐘に同じ
吉原の遊び
吉原は東都第一の廓今さら云までにも及ばねど昔繁昌せし地なるべし諺に吉原は女郎千人客一万人と積りし所のよしさすれば客十人に女郎一人なるべし今は中々五人づゝにも当るべからずされども旧そふいふ割なれば女郎一人に客一人宛にて毎日一年内続けばよけれどそふ絶ず客人の来るにもあらず亦廓中五丁町なれども御府内の地の割なれば八町計は丈夫に有矢張通り筋は三筋にわかり先日本堤は山谷より曲つて八町有是は古へ千住川のきれこまぬ様用意に築し土手なるゆへ日本国中の大小名に仰付られ築たるゆへ日本堤と云よし浅草の方より行には馬道より田町にかゝり山谷より四丁目大門口へも四丁位中央にて日本堤へ出る事也此田町は南側茶屋也爰より廓中へ案内させて行客あり又山谷は今戸橋迄一町の間を堀と云船宿也船にて爰へ来て船宿よりも廓内の案内をさせる客あり日本堤を直に行は千束金杉根岸の方へ行道也山谷より八丁目に左の方へ下りる是を衣紋坂と云也時に右手に高札場あつて武家たりとも鎗ならず馬駕籠ならず抔制札有是より大門口迄の茶屋を五十軒と唱へる同じく案内する茶屋也爰を七曲りとも云道すこし曲り有て大門口を入る正面仲の町とて往来広く両側皆茶屋計也店をおろし絵莚敷物敷つめ二階表座鋪には高欄手摺付にて往来を見おろし下より広き段階子をかけ大体茶屋は間口二間半三間也仲の町突当に秋葉常燈明高燈籠有是より双方へ道有両方の筋へ行仲の町より江戸町一丁目二丁目又京町すみ町など呼て揚屋町女郎屋軒並びに有是も広き筋にて大道まん中に溝有此上へ見事成る用水桶覆に揚屋の名を印して是を天水桶と云店つき女郎を見るには右側を先にとか左側を先にか見廻る也扨仲の町の両方の筋を西河岸又伏見町とて是は安女郎屋町也夫も双方とも内側計にて外側は高塀此外大溝にて廓外也口は大門口一方よりなし女郎駈落等をさせぬ仕方也翹あらばしらず大門口より外出る所いつかななし扨も女郎は高下を論ぜず近所遊びには出す事をせず年中部屋か店の間より他行ならず籠の鳥かや恨めしきとは是也廓中紋日は細見の図にも有てよく人のしる処なれば深くはいわず年の暮門松飾は仲の町軒毎に有て雪など積れば山の如し誠に仙境へ入るとも思ふ心地す揚屋の門々にもりつぱに門松を建る也二月廿日過より仲の町大道まん中へ下より少し土手を築上桜の樹植て花盛り頃誠に麗わし盆は燈籠とて仲の町茶屋家々好の燈籠人形造り物又見事也続いて俄とて女芸者男芸者種々の所作踊り等を仲の町茶屋の門をして廻りて妙也代神楽二度の月見戎講などは揚屋にて家々にするなれば仲の町さしての事なし此紋日〳〵は勿論晴雨を論ぜず夕方には客有内もなき内も茶屋の女房娘など店先に出て待受る客来れば二階へ上て男芸者女芸者来つて表二階に客つかへれば下の表にて騒ぐ仲の町張りのおいらんと云は皆お職の飛切にて新造禿を随がへ向ふに箱燈灯を一対もたせ好みの襠[ウチカケ]にて仲の町へ練り出す先に右側を通れば後には左側を通る中にて茶屋の亭主女房など挨拶に出てちとおかけなどゝいへば此店に腰をかけ往来の方を流しめに見て長ききせるにて煙草のむ客衆の来た来ぬの噂は付そいの新造よりいわせるのみにて詞数甚だ少なしおいらん買始ての人は此時お顔を拝み置て茶屋より揚屋へいひ込む也扨此仲の町ばりに出るおいらんは家々に五人も十人も有る物ではなく多く三四人跡は二人一人といふ位にて此次を昼三とは云也昼夜三歩と云心なるべし然し一概にはいへず昼貳歩で夜も貳歩有昼壱歩貳朱で夜貳歩もありそれは細見の口に
こんな事書てある処に印し有直が違ふとて直切られもせず扨仲の町へ出られぬ分は店をはると云て昼店夕店とて姿を吟じて店の格子の内につらりと並ぶ事也此時店清攬[ミセスカカキ]とて新造禿がチヤンラ〳〵〳〵と三味線をひくとは芝居ではすれども是も古風なりとてか今では余りひかせる内もなき也扨仲の町ばりの客は其時見定め其次の女郎を見立に行は茶屋男に提灯もたせ家別に覗ひて格子先より面像を見届て気に入た女郎ある内へ上る事也此余田町、山谷、五十軒より案内させて行も是に同じされ共それはお職のおいらん買の客はすくなし先茶屋といへば仲の町からでないと聞た所の名が悪し極上の遊びは茶屋よりおいらん方へ尋にやるよろしひ何時でもと返事が有と其席の芸者男女とも茶屋女房付添ひずつと其揚屋へ行御客様だといつて大段階子を上り先見付の大座敷へ通し又改て酒宴になる所へ揚屋の内に又家付の芸者有それが出て客人の俳名とか表徳とかを仲の町の芸者よりよく聞取て何なりと一寸突出しの歌諷ふておかしくもないに追従笑などして少しく座敷になりかける所へ彼おいらん其間へ来て客人の隣へ座して酒事になる時移れば仲の町の芸者は引取跡あつさり飲んで閨へ廻るとなるとおいらんの座敷へ案内する各々部屋は二間宛有て仰山な夜具敷有り向ふは床の間、違ひ棚、重箪笥、立琴、双六盤などを餝衣桁に昼の襠をかけ有次の間に岩永火鉢に真鍮の茶瓶素湯ちん〳〵と沸有ずつと体の埋るゝ計の重ね夜具の上へ上る上着を脱せ帯をとる抔は皆新造がする也紙入、提物、扇子の類ひ羽織もたゝんで違ひ棚へちよんとすへる酔過たれば袖の梅など諸事粋書和印の文句の通りおいらんは手水へでもいたか見へず寝た顔して聞ていると次の間にて最前の肴るいを戸棚の小鉢重鉢の類へ入ておはちにおまんま取よせ置てもし客の咳払ひ抔が聞へるとこふしておけばお客がのちにお茶漬の時勝手がいひと聞へる様に云て又よその間へでも持ていて喰ふやつ也翌朝早く仲の町へかへつて朝腹直しにて飲で返るも有だゝうつて一日仲の町で遊んで晩に又出かける事も有芸者は翌朝どふなさつたか昨晩はなぞと出て来る直にひつ付蛸也祝儀〳〵におつたをされて重き紙入も忽軽くなる也夫より早くかへつて又出直すがよし二回目はまだゆるされるが三度目は惣花とて其揚屋々々に格式有て茶屋の亭主か女房に相談の上馴染金を出す也そふなると誰々の客人也と極印つきになる事也そふする内に其揚屋の内に買ふて見たいと思ふ女郎有ても買われず仕方なしに我仏と念じ奉つて今迄のおいらんを買通す也外の揚屋の女郎になじみ先の馴染のおいらん方へ御不沙汰になるを新造でも聞出すと向ふから大門口に張番などして朝かへらふとするをとつかまへられ連てかへられ悪くすると荒事をくわされ甚だ外聞を失ふやつ也是は極上の部也中は茶屋から案内せられ二度目は茶屋なしに直に女郎屋へ行格子から一寸物いふてマア這入れで這入ると揚屋の男是は入らつしやれませと二階へ上る茶屋は都て二朱に付百文とか二百文とかの世話代を揚屋より取茶屋なしに行と揚屋の男のもふけとなるゆへゑらくちよん〳〵といふて世話をやくやつ也其かわりに酒事すんで閨へ廻る時ヘイお勤をといふて勘定を取にくる書付を見れば滅法界に酒が入たか女郎代には付掛は出来ぬが酒肴は書て来次第なれば飛だ目にあつたと思ひ乍らも払ふやつ也是中位の所是が下は甚だ多くして西河岸なんどは貳朱店ゆへ物いひはしたなく座敷〳〵騒がしく一時〳〵に時でござい〳〵と拍子木を打廻るゆへ其度毎には女郎親方の前へ判取に行といふ言立にて余計させては跡を煩らふゆへ傍輩の部屋へ寝に行やつ也是を田舎客がおこつて番の男を呼つけなまりちらけて女郎の不足を云其いひ草爰の内は旅籠やかそれにしては枕が二つあるがどふした物だ一人寝なら勤をかへせ脇の女郎屋へ行のと遠いからねぢかけるも搆わず女郎は外でよく寝ていて起されてヱヽいめいめしい摺子木やらうだとぼやき乍ら出て来て客の顔詠めて此客人は何だな何もそんなにどなる事はありませぬわな来よふが遅くなつたはわつちがわるかつたこらへておくれよ抔といはれると海鼠に藁で直にぐにや〳〵となる男笑つてさやうなら御ゆるりと出て行跡は寂寞として物音聞へず是らがまだ下の上也女郎が客をふるといふは遙昔の事にて中々ふる事はなし然し爰に論有ふるといふは□□で降るの也□□□計が勤めではなし双方惚あふて咄のもてる時にはあながち□□□計でなし女房きどりにもなつて合ふべし邪魔なすかぬ客だと思へば物数いはずと早ふ□□てしまひ跡からだをそむけてよく寝るかそれも寝ささぬ時には右田舎客のよふにほつておいて脇へ行やつ也紋日物日にこそよく売る女郎は廻し座敷とて女郎一人に客二人はとれども今時は中々そふ客が大勢ないから我床の内をはづすのは廻し座敷にて他の客にはさら〳〵なし朋輩の部屋へ寝に行也紋日物日は仕方なしこちはふらてん【我自刊本たま〳〵】に買ふ向ふには正月は誰盆は誰と不断馴染の客有て往も行ずとも約束通りの金をとられている客あればとうてさしつかへる事有其時女郎が上手じやと始から打出して乃至あちらの馴染の客は御屋敷だから早く帰らつしゃるから其跡で直にくるから待て居ておくれよどふも間が悪くてなどと初会から色気取になつていはれると夫でもおらいやだけへるなどともいはれずいて来さつしいよしない苦労をさせるなアチヤランと歌になる時の立役気取になる物也そふ立こかしにする女郎などは古狸のこつ長也下のぶんは深く其道をしらざれど咄にも毎度きく癡情は推量にも書る物也宵にお勤といふ折に出すのは邪魔だ翌の事と延して女郎をゑじめて立ふりさせたりそれが出来ぬと友達内へ手紙を書て無心にやりそれも埒明ぬ時は奴質[ヤツコジチ]とて物置納屋へほりこまれとゞは始末やとて其人を引とつて身のまわりはいで取り価にかへて算用する廓中に長屋と云ひ三ケ月長屋何長屋とて百宛にて夜鷹小屋同前の細き路次の片側に並び有所へ這入る由当時なけねど浅草堂前鐘撞堂網打場麻布など是に同じき所の由是を鉄炮店と云也扨此廓中の名物といつぱ竹村の菓子、堅巻煎餅、最中、双葉屋の羊羹、山屋豆腐、甘露梅と云は京摂の太郎梅也仲の町茶屋家々にて手製にして客先へ配る也男芸者は大体常盤津、富本、清元を語る故何太夫とて太夫名也長き羽織を着て頗横抦也一寸当ぶりにて権兵衛が種蒔位を舞ひ狂歌発句の地口位を云て花をせしめる也女芸者各酒を能く飲む事長鯨の百川を吸ふが如しよつて鯨者[げいしや]と近頃の中本にはこぢ付たりおいらんはおいらなれど京伝は老乱[ヲイラン]とこぢ付予は於の字を不用より於不用[ヲイラン]とこぢ付たり【我自刊本おいらんはおいらにて新造禿よりおいらが所の太夫様といふ心にて新町の太夫をばあんた天神をまんたといふにおなじ心なりとあり】地廻りとは廓中の若い者の頭にて喧嘩等を一番に分入る也上方のぞめきを冷かしと云是も鳥越に昔紙漉の職人大勢住て紙種を水に漬湿る内を廓へいて店付をぞめき来る内紙が冷けると云通語なるよし文草にも記置たり都て北里廓中に限る辞甚多しざんすは新町のなまし也是又いと沢あれど諸書に委しければ略す元来吉原女郎は諸国より抱集しとは云物の越後者至て多し其国々の訛りを消んが為吉原育里訛りとて一家の口調を立し物也今岡場所〔外々の遊所を云〕へ鞍がへに出るも有故其詞をつかふが故客の輩もつい夫をまねて廓詞やら【我自刊本吉原詞やら江戸詞やら】混じる事とはなりけり予は別に馴染の女郎このもしからず只揚屋の容体座敷の様子など見て置ねば著述の為に不自由なる故同じ揚屋へ二三度も行し事あれ是と揚屋をかへて遊び見しが先一二をいはゞ岡本、岡田屋、玉屋彦太郎、尾張屋、久喜、万字抔也是は何れも大店とて当時盛んの女郎多し何れも座敷の建方に大同小異あるのみにて差て変りし事なし久喜、万字抔は亭主甚闊達を好むと見え大座敷より次の座敷へ大廊下を架し仰山にはでなる普請也お職のおいらん京都より抱へ入れしもの甚だ多し日々の雑費入用などを思へば芝居一軒位の人数掛りて夥しき暮し也客も余程なけねば勘定あふまじと思わる扨も此五軒抔は芝居役者などは決して客にせずそれと見れば茶屋へ断りかへす事也夫故町人とか郷士とかに化て行事也役者など彼地へ着まだ人のしらぬ内にちよつと化ていて試みをするは出来れど舞台へ出るとさつぱりと相手にならぬ也客の贔負にて酒事には誘はれて仲の町茶屋へは行女郎屋亭主又は女房役者を贔負にする者夫は勝手と云ていはば亭主の間にいて咄して遊ぶ事也心易くても【我自刊本仲の町茶屋へ行事まゝありまた揚屋の亭主女房らの贔負役者は勝手とて亭主の居間へいで話して遊ぶ事ありいかほど心易くても】女郎の間へは通す事なし是に付ては種々無量の話もあれど書出せば実に際限なし深川の有し時分は当時の通人と称【すヵ】る人は仲町のみを愛して吉原を野暮などいつて能々遠国の客などを連行常に深川遊びの方はづみしを深川なくなりてより廓中へ行ふより外仕方なき故通も不通も吉原計と成りぬ大坂にて新町を滛乱国と云て島の内を粋がつて遊び所とせしと同日の論にて有し也今芝居は近辺へ移り芝居町〔三町〕土手〔八町〕吉原〔五町〕なれば皆済拾六町なればひとつ廓にすむが如し昔吉原も御府内に有て芝居も御府内に有し頃は芝居へ行ふか吉原へ行ふかと云ふ心にて思案橋とていまだに古名遺りし橋も有大坂の東堀の思案橋は何の思案をせし所やら名儀わからずいといぶかし吉原の古図抔みれば六法丹前とて古風な姿を画し有其頃専ら流行し成べし丹前とは丹後侯の屋敷前に湯屋有て浮世風呂など呼で湯女とか垢摺女とかを連て遊ぶ事ありしゆゑ丹後前と云を略して丹前と云六法ふるとは肩の行の短かひ着物に両手をふり大小長刀を十字にさす故四本脇へ出る両手を入て六法となるとは京伝種彦あたりの書物に出たるが確とそふかとも定め難き説なれどマアそこら成べし廓の者を蛮[クツワ]と云は仁義礼智忠信孝悌の八を亡なせし族とて亡八[クツハ]とも云又能くとつては大坂新町開発人木村又次郎豊太閤より瓢簞の馬印と馬の轡を拝領せしゆへとも云が近来八水随筆とて享保前に大坂御城番に見へしお人の随筆には旧吉原の頃は地形を丸く取つて真中に町を十文字に取り揚屋町として廻りに茶屋を住せし故
かやふな形ちにて有し故轡也とあるが是も尤とも思はる都て物事に正しき物は何の書にもひかへあれどか様の事は覚へても覚へずともの事ゆへ書し物なく後人色々の考へを付て書事ゆへ道理に当つたるをよしとしてそれにする事也
品川宿
品川宿は東海道の咽首なれば又陽気なる事此上なし高縄より茶屋有て〔案内茶屋也〕品川宿の中央に小橋有夫より上は女郎銭店橋より下は大店也女郎屋は何れも大きく浜側の方は掾先より品川沖を見晴らし遙向ふに上総房州の遠山見へて夜は白魚を取笧火ちらつき漁船に網有釣あり夏は納涼によく絶景也女郎は十文目にて雑用は別也先茶屋より白丁とて白の大徳利を提て女郎屋へ案内して芸者を呼〔女郎屋〳〵に芸者有〕台の物〔肴也大台小台と有〕を取酒宴始る内女郎出て向ふへ並ぶおりやあの子身共はあの女なぞと見立すみ酒事一寸有て次へ出改て酒宴の席につき部屋も随分吉原にまけねば夜具も北里及べからず【我自刊本部屋も随分吉原にまけねど夜具は北里に及ぶべからずとあり】先吉原はおいらんの見識高きは勿論なれど中位の女迄が上を見習ひ少し見識ばる気味合有品川新宿始外々には其見識なけねば早く馴染遠慮有間敷初心な者も早くこなしてかゝる気味合あれば下策にして賑やか也爰も役者芸者は照らして客にする事なし女郎屋頗る多し中にも土蔵相摸、大湊屋抔名高し岡側の家は後に御殿山をひかへ浜側は裏に海をひかへ往来は奥州出羽より江戸を過て京西国へ赴く旅人下る人は九州西国中国幾内の国々より行旅人共参宮金びら大山参り富士詣鎌倉大磯の遊歴やら箱根の湯治参勤交代の大小名貴賎を論ぜず通行すれば賑敷事此上なし表の間は板敷にて玄関構へ片店は勘定場にて泊り衆の大名籏本衆の名札を張中庭泉水廊下を架し琴三味線の音など聞へ道中女郎屋の冠たるべし名物は鮮魚をおもとし品川海苔柳鯲白魚貝のむき身の類
内藤新宿
次に内藤新宿と言は大城のま西に当つて甲府及び青梅街道の咽首なれば是又賑敷事限りなし女郎宿屋も家居広く茶屋も甚だ多けれど旧内藤侯の屋鋪地にて内藤新宿と呼山手にて田舎街道なれば百姓の通行多く適に奇麗なる往来は堀の内詣の通るのみ裏手は多く藪か畑か崖地にして閑静也客は武家出家多くして表構へは品川に同じ直も上は十文目にて銭店〔六百文四百文〕と交りて住り引手茶屋が酒肴を取よせ遊ぶ事也品川にも爰にも大店には風呂場仰山に建て銭湯の如く客に入らせる上方には余り無かた也次に板橋宿是は又中仙道木曽街道の咽首なれど品川とは一口にいはれず至極陰気也女郎屋も余程下品にして皆銭店にて遣中筋女郎屋と同じ
板橋千住
次に千住は奥州街道咽首にして板橋よりは宿も広く家居遙に奇麗也大千住小千住とて大橋を中に置て南北に分り小千住の方を掃部宿共云ふ此傍に小塚原とて仕置成敗場有ゆへ土俗こつかつぱらとも云女郎銭店〔六百四百〕也江戸のま北なる故浅草辺の者らは吉原の安女郎を買わんより此千住の方よいなどゝ唱へて繁昌する也一体の女郎に何も変りし事はなけね共岡場所宿場の女郎共は殺伐にして賎しき事限りなし都て銭店の所は暑中蚊帳を垂る時節は薄綿の夜着是をかいまきとて敷物は比翼ござとて細き寐ござを二枚つづきとして縁をつけ敷す冷気に赴けば蚊帳を取置夜具と替る事也爰らに又贅沢有て定めの外に百文増にて夜具の上[ジヤウ]をきせる也大坂卅石の如し一笑に堪たり予が文草にも書しかど一笑話なれば爰にもしるす吉原の女郎客衆へ手紙を送るも仲の町花盛りとか燈籠俄などの事を書て賑わしければそれ見物がてらにちと〳〵おこしなどと書おくるを常とす千住の女郎に文m送る程の事もあるまじければ馴染の客へ送る文に菜種も今を盛りにてよき磔[ハリツケ]火炙[ヒアブリ]もおわしまし候まゝちと〳〵御入らせと書送るならんと悪口をいへりさもあるべし去んぬる未の三四月頃にて有しが岩井杜若故人となり其弔ひに押上の御寺へ葬式有て予も馴染の人故送りしが帳場は三座の作者狂言方の受取ゆへ此人数跡にて吾妻の森に名代の鯰のすつぽん煮を売る家有そこにて酒を始て皆々酩酊の上予にいづこぞ奢らせんと付随ふ者凡十一人我ともに十二人也兼て此千住あたりの遊びも滑稽ならんと思ふ上多人数なれば吉原にては中々安上りに上るべからず銭店の遊びは天窓からしれてあれば先千住行と相談極り中にも年がらや天窓役ゆく鶴屋南北頭取と成り向島より橋場の渡し迄に鬮をこしらへ十二人の者にひかせ誰一誰二と番定り扨一の鬮を引たる者は女郎屋にて十二人よしあしを論ぜず並ばせて一の鬮の者一番に此女と思ふを取選り取らする事也二より段々〳〵相方定める此内あの女をと思ひても末の鬮に引当つた物は選り屑を取る事也内談にて取かゆる事をゆるさずと言渡すと皆々一統に妙也とよろこび扨宿場より取よせる酒は悪酒にして高料也と頭ぶんよりいひ出し酒屋へより五升とか七升とか樽に詰させ外に肴を誂らへ渓斎英泉子〔画師也故人と成る〕の親類と聞しゆへ若竹といへる女郎屋へ行芸者一組呼で酒を始向ふへ十二人の女郎並ばせ一の鬮の者より段々に女郎を定させ我隣り〳〵へ並ばせて酒宴となり肴には何なりと一芸をさせる事にて戯れしが古今滑稽の司也と其時の者は後に迄是をいひ出しては笑ひしがか様な悪ふざけの遊びにはこふいふ場所は妙也吉原にては見識有て何か女郎の方より故障を云出し出ぬ者有り色気をはなれ様子をせずば見ためが奇麗かきたなきかにて遊戯滑稽は多かりし江戸近くには右の五ケ所より遊所女郎屋といふ物絶てなく浅草より三里東北に松戸と云有又四里東に船橋と云有何れも田舎の宿場にしてどこかむさくろしく東海道品川宿の上の宿に川崎と云有それを入て遊所八景といふ戯書を江戸にてせしが誰にかあたへて覚へねば爰に略す以前深川中町大新地小新地弁天裾継[スソツギ]根津谷中等へも遊びに行しが本の土地よりかわりしのみにてさせる珍説と思ふ事なく只上方とは茶屋揚屋の変りの有て女郎は内に置すへ客の方から二階へ上て呉るか呉ぬかといふが習ひにて上方のよふにちと呼んでくれのあなた方は土地におなじみもたんと有ふがお事かけの節はなどゝせりふ打事は絶てなく裏表の相違なるべし
廻し床
或京摂の人予に難じて曰右の遊所の話にては紋日物日にても常々でも客二人と三人さし支へし時は廻し床とて現に脇外の客と寐に行をきよろりと閨屋に只一人寐てまじくじ〳〵と待てゐるは馬鹿〳〵しき物ならずや予答へて京摂の如く花と号して切売をせねばさもあるべき事也上方の女郎を呼にやると今一寸余所へ花に往てじやといへば客あるにあらずや尤なじみの客には座敷計といふもあれど先十人が九人は客に往かば逢ふべし然らば一昼夜かけて五軒へ花に往かば五人に逢ふべし江戸の方客にあふ事廻し有とても数十人の廻し床なく二人せいさへ三人なるべし数すくなくなれば其情深かるべしと又難じてさるからに逢ふ時呼て買ふ他の客と寐る間の花は買ず答へて夫こそ客の薄情ならずや江戸の方闊達にて心広といふべし扨其廻し床も前に云ふ如く実に客あるやらないやらわかりし事なく先友達と三人連れにて揚屋へ行く隣座敷とか向ひ座敷とか近くに銘々の間を構へて聞居れば其客深切らしく世辞よく是は為になる客で有ふとかどこか好な所が有れば中々そは〳〵と出歩行ず初会よりしみ〴〵と咄しのもてる物也同じつれにても其相方の女に好れぬと不奉公してよそへ寐に行冷たいふとんに独まじくぢするからこりや廻し床へ這入ていやアがるといろ〳〵と気が廻り廊下をばた〳〵と上草履の音が聞へるとうせたなと思ひ狸寐入して待て居ると外の間の女郎にて此間の女郎来る共客寐入りしと思へば起そふより朋輩の方へ寐に行などする也
通と野暮、持る持ぬの論
翌日三人返りがけに直に評判する事にておまへは夕アもてたネといへば先□□□□ひでも夜とも咄しごへしてひとつに寐てゐた物がもてたると独り捨置れたはふられた様な物也そこで先の女郎が朋友の手前を餝り述懐をいふとふられたと思はれ【るカ】からもていでももてた顔をする是江戸者女郎買に行人の習ひ也是は見へ坊と云てまけおしみを云なりさする時には何がな女の気にいる様な咄しをして御機嫌をとるにしくはなし手水にも行ずげら〳〵笑ふて聞居るこふした翌日はもてなんだ朋友にさもこのもしく思わるゝといふだけが徳也その上アヽ夕ベの女は嬉しがり上つておらア寐かけるとこそぐつて起したり何か咄しを仕かけて一寸も寐させぬからけふは睡くつてならねへなどゝ受させるやつ也難じる人又曰そふいふ意味深長なる事も有べしされどもおれは上方の方が面白ひ江戸の事は聞てもとんと好もしくなひと答へて誰しもそふした物なれど郷に入ては郷に随がへにて彼地に馴て見ると廻し床有と思へば猶々意気張有ておもしろく一寸も狂言を透さず幕なし狂言を見せる格でさま〴〵あやなし外の客の間へやらぬさんだん頗る面白み有て大かた是にて身上を叩き上る事としるべし何分若盛りには一遍は凝る事も有べし物の哀は是よりぞしるとあれば捨られぬ物なれど跡先を弁へ段々と年がよるととんとおもしろふなく此女に惚られふとも通人粋人じやとほめてほしうもなく勤をひかせて女房にせふとも思ふ望なく本によん所なき付合で女郎芸者を合手に遊んでいると茶屋場で敵討の望のない由良之助が遊んでいるよふで正味といへば金を大小つかふだけが損也錦城が書れし梧窓漫筆の中に女郎買遊所狂ひをする人は金銀の冥加に尽る計でない物事が自由過るゆへ果報を取越して後流浪をする也と其訳は酒といへば酒此肴はいかぬこふいふ物といへば肴を取かへ此女よりあの女などゝ注文に応じて帰りには泥草履でもちよんと直してくれるから畢竟場所こそかわれ将軍様とも同じ身持ゆへ奢侈僭上とて物の十分過るを天より憎み給ふゆへとぞさも有べぎ事学力の有人の考は又妙也秋成が癖物語には京摂にて金持の粋な息子芸子や女郎に腹売て程のよい事揃へをして可愛がられるつもりの所其芸子や女郎衆が役者が好でその方へはけしからぬ心底を尽すと聞出しおれが是程にして遊ばすのに役者を身にしておれを皮するとは心得ぬ鬢付屋じやの李冠のとよい男な役者は死んで今の役者らから見るとおれの方がよつ程よい男じやのになアと段々深ふ聞合せたら其息子より役者の方が金を余計つかふよつてじやと書てあるが是らは試に動かぬ穴にてその役者さへ今は中々部銭貸や大法師よりも勘定高ひ時節若ひかた〴〵能々慎んで必ず程がよひおかたじやの粋なおかたじやのいわれ給ふな昔はよいお人じやが不仕合な誰それはいま〳〵しい憎てらしいやつじやが仕合よふて金を持ているといひしが今はいま〳〵しい憎てらしいと人に憎まれている者にねつから金がない人多き時節それによいお人じや結搆なと云れては流浪してくへぬ筈と心得給へ嘘ではなし
訛の惣評
此余に東海道岐蘇路を始め三都の近国近在の事を言出せば中々おかしき事詞の違ひ諸品の物の唱への替る事夥しくあれども此書は三都の事を一寸挙て云て見たるのみなれば何事も略していはず上方の詞の古き悪口に「大根とはねべき文字は刎もせず刎ず共よきごぼう牛房[ゴンボウ]ともいへば上方にても云誤る事は甚多し江戸の人がそうしてからこふしてからと云を聞ては京摂者は口まねをして笑ふがこつちの者にいはすとよつてと云そふしたよつてこふしたよつてと云也よつてとからとはどちらが古ひ詞じやと問はれるとからの方が古言也文屋の康秀の歌にも吹からに秋の草木のしほるればと有吹よつてとはマアいはぬからはからの方道理に叶ふといふべしさり乍ら江戸は土地ひらけてより新らしきゆへ諸国の田舎詞計を集めしゆへ賎しと有て上野の宮様は前方京より鴬を取よせ上野の山へ数千羽放し給ふ京の訛りのない鴬の種が今に残つて代々上野の鴬は妙音じやとも云ひ又雪中庵嵐雪は俳諧の席にて人の句のとり渡しに訛りが有ては口惜いと京大坂へ三四年も詞直しに来られたともいふ増て中興浄瑠璃の宮戸太夫は江戸産なれど上方で詞直して常の詞にも江戸の訛りは一寸もないと感心させる名人も有然らばどふ云ても詞は京摂が能いに相違なく江戸詞は悪いのではない江戸でも貴人高位は勿論真の江戸産れの身を持た人は詞に余計のかわりめはなき物也我等長らく彼地に居たれど終にそらつかふた事なし京摂にいる折も同じ詞にて贈答しけりまして芝居の正本など書にも江戸詞には書ぬ也それでも通るから也予が知る聾の画人浪華の豪富の供をして身延か江戸日光あたりを見物して帰国せしが一寸も訛なし聞ぬからはいはぬ筈也是程正直なるはなし五福子の書に曰日本を人間の体にたとへていはゞ五幾内は胸腹にして四境へよく通じ安く又何れの地の詞風儀にても移り易し江戸へいつても長崎へいても一二月かの地にいればいつしか移り染る他国の人は然らず幼年より京大坂へ出て居る人にても国訛り出て直りがたし然らば江戸より東は頭の如く紀州と越路は両手に属し中国四国九州は腰より脚共譬はゞいかにとある最なる説也予又先年浪華の或大医に戯れて難問しけるには京師は四神相応の地にして王城の地なれど時々地震大雷の災あり東武は繁栄都会の地なれど常に風強く出火の災あるはいかにと大医答へて京の地震江戸の失火人間の体にていはゞ脈処也と大笑ひせしが五福子の譬へによく似合ふたりける戯事を述るもふと吾妻の家づとゝ云書を見るより思ひ付て俗々たる事乍ら文を飾らず有のまゝに筆に任せて婦女子の夜話の一笑共成れかしと書記す事になん
西沢文庫皇都午睡三編 下の巻 終