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【 水谷不倒 西沢一鳳小伝 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
西沢一鳳小伝
水谷不倒撰
新群書類従 第一 pp.1-10
西沢一鳳は浪華の書肆にして、通称を正本屋利助といふ。狂言綺語堂。李叟は其の別号なり。俳名は秋声庵蒼々、後に滄々と改む。享和二年、大阪に生る。
元禄より享保の間、浮世草子浄瑠璃の作者にして、兼ねて其の版元たる西沢一風こと正本屋九左衛門は、実に一鳳が曽祖父なり。一風の父は太兵衛と称し、大阪上久宝寺町三丁目に住へり。然れども其の家業等詳ならず。西沢の家名の聞えしは一風の代にあり。一風寛文五年に生れ、京阪文学の全盛を極めたる時に際し、其の思想に養はれ、文才おのづから煥発し、西鶴を祖述しては浮世草子を著し、近松を学びては浄瑠璃を作し、これを刊行し、これを拘欄にかけて、文名一時に盛なりき。
宝永は西鶴の影響を受け、好色本の最も流行したる時なり。其の著者一二にして足らずといへども、就中自笑一風の名高し。而して自笑は自らこれを作せしにあらず、其磧をして代作せしめ、自笑自らら名を署して己れが書店より刊行したり。これ所謂八文字屋ものにして、浮世草子、正本筋書、評判記等其の類少なからず。一風はさながら自笑の如し、自ら著作をなし、これを其の店より刊行せり。正本屋九左衛門は大阪の八文字屋八左衛門なりき。一風が都の錦の落魄を助けて、其の文名を成さしめたる如き、或は新作を招致して盛に出版したるが如き、当時八文字屋等同業者に対する競争の態度として、経営苦心の跡を見るべきなり。一風は文才に於て、世才に於て両ながら兼備へたり。中興の祖といふべし。
一風享保十五年に歿し、其の子に利兵衛、其の孫に利右衛門ありて其の家業を継げり。一風の代、家を心斎橋南四丁目西側に移し、利兵衛に至り更に内本町二丁目に移転せり。利右衛門また祖父に似て文才あり。俳名を一鳳と呼び、狂歌堂真顔等と交りぬ。当時(明和安永頃)浄瑠璃漸く廃れ歌舞妓ひとり繁昌し、浄瑠璃には新作も稀にして歌舞妓には新脚本続出しぬ。狂言作者には奈河亀助、並木五瓶、近松徳三、辰岡万作等の秀才あり。利右衛門は是等の人々と交り、且時勢の推移に鑑み、歌舞妓書類を集め、これを貸与して劇道の発達を助けしかば、作者俳優間に尊敬せられ、新作狂言の内読本読には、座頭と席を並べてこれを聞き、狂言の筋立に容喙し、これを取捨し添削するの株となれり。
利右衛門は又当時の習慣として、狂言の筋書即ち台帳は、作者俳優等芝居関係者の外は見るを得ざりしを遺憾とし、これを写本に仕立、楽屋通言例へば一(てんがき)ト(とがき)等一々註解を加へ、貸本となし、素人の数寄者に読ましめたり。これ京阪に於て狂言筋書を貸本にしたる嚆矢とぞ。爾来筋書の愛読者を増加し、遂にはこれを刊行するものさへ出で来にけり。今普通根本と称して、暁鐘成等の編輯せる拙き似顔絵入の版本あり。其の数二三十種に下らず。其のうち江戸狂言は僅に南北もの一二種に過ぎざれど、大阪の脚本は並木正三の作をはじめ、当時の名狂言は大概収められざるはなし。
利右衛門に男子二人あり。長を利兵衛といひ、俳名鳳堂、西沢の家を継げり。次を利助といふ。これ西沢文庫の著者一鳳なり。父といひ曽祖父といひ、浪華文芸に貢献少なからざる家に成長し、利助は遺伝と感化とによりて、幼き時より芝居を好み、歌舞妓書に眼を曝し、早く既に劇道の故実に精通したり。
然るに父利右衛門は、文化九年に世を去りしかば、家督は兄の利兵衛これを継ぎぬ。利助は父が一鳳の名を襲ぎて、西沢一鳳軒と号し、自らは堺筋清水町に居をトし、正本屋と貸本業を営み、傍ら狂言の筋立をなし、これを舞台にかけしむるを無二の楽としけり。然れども一鳳は名利の為めにするものにあらず、全く物数寄によるものなれば、自然と劇界に重きを致し、最初は決して自家の名を出さゞりしも、後には本道に入るの已を得ざるに至り、スケの名義にて名を番付面に掲げしことも屡〃あり。
当時浪華俳優には梅玉最も勢力あり。自ら金沢龍玉と名乗りて作者を兼ねし程なれば、狂言作者を視ることさながら奴僕の如く、殆ど彼れと衝突せざるものなかりしが、一鳳に対しては遉の梅玉も敬意を払ひ、殊に晩年は一鳳が意見を好く容れたりといふ。七代目は、天保の改革に、驕奢の故を以て江戸を追放せられ、爾後数年間浪華に流寓せしこと人の知るところなるが、一鳳また屡〃彼れの為めに筆を執りしことあり。
天保十二年の春一鳳は江戸に遊び、市村座に客たり。同年十月同座の焼失せしかば、暫時河原崎座に寄寓せしが、間もなく帰阪して『言狂作書』三巻を著はしぬ。弘化四年市村座の聘に応じ、再び江戸に下り、同座の帳元沢田なるものゝ隣家に居をトし、三年が間東都の客となれり。
是より先、兄鳳堂天保十一年に死去し、正本屋の業は殆ど一鳳の手に帰しぬ。然れども一鳳は此の頃漸く劇作に忙しく、また屡〃諸方に漫遊し、家事を見るの暇なければ、義弟に本屋利助の家名を譲り自ら祖父が芳名を慕ふの余り、西沢九左衛門と改め、且退隠の志切なりしかば、
臍の緒を落して四十九左衛門
是より先きは生きたゞけ徳
との狂詠あり。同年冬東都を辞して浪華に帰り、爾来劇作をなさず、專ら著述に従事せり。今左に挙げたる著書は、多く此の間に成りしものにして、『皇都午睡』の如きは、江戸客舎中の漫筆なりといふ。
一 伝奇作書 七編 二十一巻
一 皇都午睡 三編 九巻
一 脚色余録 三編 九巻
一 綺語文草 四編 十二巻
一 讃仏乗 二編 六巻
一 徒然文題 三巻
一 内外謡曲句集 三巻
一 勢語句抄 三巻
一 綺語堂発句集 一巻
一 忠臣蔵類聚大成 四十八巻
一 源平類聚大成 十八巻
一 当世栄花物語 十八巻
以上は一鳳の著書中に散見する書目を挙げたるものにして、其の冊数百五十一巻の多きに及べり。然れども『忠臣蔵類聚大成』以下はいづれも浄瑠璃及び狂言の筋書等を集めたるものにして著述といふべからず。『徒然文題』以下四種の書は俳句集なり。されば一鳳が生涯の事業として、殊に其の心を籠めたる歌舞妓、浄瑠璃に関する随筆は、『伝奇作書』『脚色余録』の全部と『皇都午睡』『綺語文草』『讃仏乗』の一部分なり。其の著書を繙けば、著者は紙上に躍如として、さながら其の人に接するの思ひあり。悉く自家の経験の筆録にして或意味にて、其の著書は一鳳の自伝といふを得べし。著書中に現はれたる一鳳は、少しも飾り気なく、能く諧謔を弄し、時としては人を罵倒することあり。然れども又毫も邪気なくまことに親むべし。自らは長く劇界に携はりしも、金の為めにもあらねば、名の為めにもあらず、全く好事に尽せしことは一鳳自ら誇るところなり。曽祖父一風豊竹座の作者として、爾来同座の正本を刊行せしかば、一鳳は素より東贔負にして、一風を近松に比し、『北条時頼記』を『国姓爺合戦』に比し、賞揚至らざるなし。此の自負心は、やがて一鳳を作りしなり。一鳳当時俳優跋扈して、作者道の地に墜ちたるを慨し、奈河亀助の見識を説き、金井三笑の威力を賞揚するなど、狂言作者の為めに、万丈の気を吐くものといふべし。当時の狂言作者は素より一鳳の眼中にあらず。其の李叟と称したるは、幼名を利蔵と呼びしに因れりと弁解しあれども、一鳳は恐らく我国の李笠翁を以て任じたるものなるべし。『声曲類纂』の誤謬を指摘し、殊に馬琴が『簑笠雨談』の杜撰を論じたる精細痛快を極めたり。さすが傲頑なる馬琴、一鳳の為めには面皮を剥れたるやの感あり。
嘉永五年十二月二日、一鳳は是等多数の著書を遺して、遂に不帰の客となりぬ。時に享年五十一歳なり。