見たこと聞いたこと

坂東簑助 文楽 2巻2号

  

 六七年前松屋町の鴻池別邸で(注1)、亡くなつた道八さんの三味線で、阿古屋を織太夫さんが語つた、ツレ弾きは団六さんだった。聴く者は二三十人で古靱さんや、亡くなつた栄三さんも居られた。阿古屋の琴責は芝居でも出るし、私も一度重忠をした事もあるが、たいして面白いものだとは思つて居なかつた、が此聴いた阿古屋の面白かつた事、特に三曲の所で私はボロボロ涙 こぼしてしまつた。その時私の伴れに京都の若い茶人が居た。此人は別に浄瑠璃を好きと云ふ判けではなかつた、私に伴れられて行つたと言ふだけなのだ、が此人も泣いて居た。浄瑠璃には否応なしに泣かせると云つた種類のものもあるが、そう言ふものには私等は余り泣けない筈だが、あの「阿古屋」の三曲、琴のあひだ、三味線のあひだ、胡弓のあひだ、皆別々にちがつた泣かされ方だつた、その晩食事をしながら道八さんに、今日は三曲ですつかり泣かされました、と言ふと、あれは泣いて貰へる様に成つてるのです、あの三曲でお客さんに泣いて貰へなければ重忠もゆるしてくれませんし、もし同情してもらえなければ、あとの重忠の詞がうそに成ります、しかしそうは言ふても私も未だ師匠(団平)の真似で本当には出来てません、と言はれた。其時皆であの三曲で泣かないのは岩永だけだらうと笑つた。が浄瑠璃をそう度々聴いた事のない人までがあの三曲(特別悲劇的事件もなにも無い)だけで泣いたと言ふ事は考へさせられる事である。

 それから一昨年だつたか京都で(注2)、仙糸さんの三味線で「五天竺の悉多太子難行」の段をたしか雛太夫さんだつたかが語つた、此時も浄瑠璃の三味線と言ふものに驚かされた、それは何と書いていゝか私には書けないが、第一太夫の雛さんのお稽古も大変だつたらうと思ふが、雛さんがふだんの十倍も大きな(内容の)太夫になられたやうな気がした、そしてその、間と足取と息の面白さ、三味線がいち/\口をきいて文章の裏に隠されたものまで表現して行く素晴らしさ。その日何か急用で家内が私をさがしに会場へ来て偶然此一段を聴いたのださうだ、そして浄瑠璃がすんで私を見付けるといきなり用事を忘れて、大変なものをはからず聴かせていたゞきました、あのお三味線は何んと言ふ方ですか、と興奮してきいた位だ、その晩古靱さんも御一緒で、いろ/\お話を伺つた時、いゝ気持に酔はれた仙糸さんが、あんな私等の三味線、あれ真似事だすがな、師匠のはなあ、もしあんた……、と言はれたのもつい此間のやうに思はれる、仙糸さんの三味線でいろ/\聞かせていただきたかつたものや、出来たら一度踊らせて貰ひたいと思つた事もあつた、がそれももう出来なくなつた。

 道八さん、仙糸さん、栄三さん此お三人に直接お話をきく事が出来ただけでも自分は幸せだと思つている。 −−−(以下略)

 

注1:『芸十夜』p184-185参照

注2:昭和19年10月30日第6回観照会