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【 煙亭記 塵外居放談 】
(2023.01.19)
提供者:ね太郎
太棹 128号 16ページ
塵外居放談
煙亭記
人形の栄三を紋下に古靭とならべること
今度東上の文楽引越興行を観聴して、当然近く作らねばならぬ紋下は、太夫陣のピカ一、古靱太夫と並べて、人形の栄三を据えたい、といふ結論を得た。その理由などくど〳〵と説き立てる必要もないほど、明々白々である。嘗て名人玉造が太夫三絃と並んで、三人紋下の地位に据つた前例もあり、栄三の芸の力が傑出してゐるからである。大判事、待つ玉、甘輝、稲荷明神、孫右衛門、良弁僧正、太郎冠者、光秀、お辻、又平、尾上、熊谷、十次兵衛、と数へ立てるまでもなく、或は所謂腹芸であり、或は芸の巾の大きい事、精神の籠つてゐる事、迫力のある事殊に、志渡寺のお辻や、長局の尾上の如き、彼れが三宅周太郎氏との対談に聴くまでもなく、女形に造詣の深い事、昔執つた杵柄を発揮して、眼ある見物を驚かした事、更らに文五郎と並んで踊つた二人禿の如き、全然役者が違うの感を深からしめた事等々によつて、他の追従を許さゞるものがあるからである。営業関係者の営利万能の人々でも、最早その位な事は解つてゐる筈である。切符が売れる売れないで、芸に目を蔽うて、表彰すべきを表彰せざる不都合を敢てするものとも思へない。内々お給金は他へ沢山廻してもよい、日本の人形浄瑠璃最高の栄誉は此の際、真の技芸あるものに与ふべき゜ではあるまいか、今度など、文楽引越興行に、若し、栄三が居なかつたら、我等は恐らく、古靱を一二度聴くだけで、必らず行かなかつたらう、とおもふ。茲に敢て栄三を人形の紋下に推す事を提唱する。
寺子屋の『睨みつけられ』松王説に異議
第一回の古靱の寺子屋で、門口の寺子の呼出しに当り、初日に都新聞の安藤君が観て来ての評に曰く『詮義に及ばぬ連れうせうとにらみつけられ』を津太夫は言葉で語つてゐたが、勿論古靱太夫は松王で語つてゐるにも拘はらず、玉幸の玄蕃は眉を上げて頭を振つてをり、栄三の松王は黙つてゐる。即ち床では松王で語り乍ら人形では玄蕃がこれを取つてゐる』と書いてあつた。これを読んだ我れ等は「おやつ」とおもつた。我れ等は津太夫と同じくこれはそれこそ「勿論」玄蕃のものであると信じてゐた。安藤君が『敢て本文を詮索する迄もなく』と断つて書いてゐる「本文」によれば益すそれは玄蕃のものと言はざるを得ず、これを松王のものと考へることはどうしても出来ない。その『うぬらが伜の事まで身共が知つた事か』は寺子の首実験をするなどはまだ思ひも付かなかつた時の玄蕃の詞である。松王は安藤君が證拠に引いた『首見る役は松王丸』で、唯だ子供の顔を見てイヤ〳〵をすればよいのである。中啓であたまを叩いたり、付き飛ばしたりするのは総て玄蕃の仕事になつてゐる。殊に安藤君が圏点をつけた『睨みつけられ』は「られ」といふから、明かにそれは寺子の方の地合でなければならぬのもアハヽである。処がだ、全く処がだ、我れ等は安藤君のこの評を読んでサテ、五日目の最終日に気をつけて見てゐると、驚くべし、安藤君の御指示の通り玉幸の玄蕃はニユーツと澄ましてゐて、栄三の松王が、きまり悪るさうに、ちよいと頭を振り肩を聳かして、睨む形ちをしたでは無いか。都新聞と安藤鶴夫の権威(?)は大したものである。アノ評判記によつて、栄三と玉幸と古靱太夫と三人が、楽屋に鼻を揃へて如何なる塩梅に話し合ひをして古来の型及び本文の明白な指定--とまではないが--を破つて、改め(実は改悪と云ひたい)られたか、第一、松王が小さくなつて甚だ困る。これなどを栄三、三宅周太郎の対談で伺ひたかつた位のものである。此の上は岡田蝶花形先生を煩はして、一つ研究して頂いたら、どぢやろか、とおもふ。老耄した我れ等の頑冥さを納得させるやうな御高説を得たいものである。
本格も糞もない芸能連日の大景気に驚く
勧進帳の弁慶の台詞ぢや無いが、世は末世に及ぶといへど、芸能だけは本格的でありたい、などゝ今時真面目に開き直れば、莫迦にされる位のものだ。文楽だらうが、人形浄瑠璃だらうが、もう、何でも可いのである。安藤君の--又た引合ひに出して相済まぬが--都新聞の評にしてからが、あんまり専問的で、何だか判らないといふ相当な芸界の廊下鳶の囀りを聴いた。全くの話しで、あの連日の大景気に値する今度の文楽に……古靱太夫と、栄三と、清六と、仙糸を除いてあとに何がある?安藤君に、斧とも久太とも言はれなかつた連中、若くはコツピドクやツつけられた某々が、盛んに喝采を浴び、切符の数を捌いてゐるのである。摂津大掾、大隅太夫の昔までに及ばず、貴田の越路や、先代の南部すら全然知らない連中が、今や場内に溢れてゐるのである。新陳代謝である。この現象は、啻に文楽ばかりでば無い、演劇然り、釈界然り、落語然りである。どうともなれ!勝手にさらせーである。
実は、少々真面目に、初回から六回まで疳にさはつたり、気のついた「あれやこれや」に付いて、芸評なり注意なりを話すつもりであつたのだが『勝手にさらせ』と喝破したら、もうその元気は無くなつてしまつた。さらば!