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【 斎藤拳三 新橋演舞場の文楽 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 128号 2ページ
 
新橋演舞場の文楽 斎藤拳三
 
 三位一体と云はれて居る人形芝居は、どの一部門が崩壊してもたちまち急速度に品質を低下させてしまう、厄介な弱体芸術である。其の危機は世人の杞憂してゐる人形遣よりも太夫の部門から来た、津、土佐、駒の亡き寂しさは僅かに残つた古靱太夫を一人光らせるよりも、むしろ古靱太夫の光を消す逆功果をさへ皮肉にも見せて居るではないか。今後の文楽は古靱太夫の出し物を非常に吟味すべきである。亦瑕瑾はあつても独得の長所を持つ大隅太夫をもつと重要視すべきである。
 あんなに駄羅々々引張つて語られては重い人形は持って居られない、此れは人形遣の云ひ分である。
 連中の稽古ばかりして居ては弾き合せも出来ない、此れは太夫の言葉である。
 あんなに犠牲に弾いてやつて撫育しても、少し売り出してくればすぐ安い三味線と組んで地方巡業に行つてしまう、此れは三味線弾きの苦情である。
 人形芝居を愛する若い人は、どうか三業を一部門に片寄らずに観賞して望しいと思ふ。一日増しに色あせて行く文楽へ、一人でも早く若人を送り込みたいのが私の観賞記の念願であり又目的である。
 
  古靱太夫の寺子屋と小兵吉の戸浪 (七月二日)
 近松半二の傑作妹背山の三段目では両床中背山を弾く吉五郎の三絃が群を抜いて居る、斯道で云ふ本山(背山)は西風、或は染太夫風とも云ふべき重厚沈痛に弾いてこそ、下山(妹山)の東風とも云ふべき春太夫風の演出がひきたつて来る。半二一流のパラレリズムの技巧は斯くした伝統を厳守尊重してこそ永遠の未来に生きられる、吉五郎の弱腕を云ふ人ならば私は異論はない、然し廊下の下馬評とはいへ、東京での相当な人から私は余りにも無理な批評を聞いた故敢て一言する。
 人形では栄三の大判事が立派だ、久我之助が腹を切つてから柱に寄ちて河向を伺ふ条りは幕切れの両手に首を持つた幕切れと共に人形独特で面白い、雛流しになつて熊手と小柄を縄につけて投げるのもいゝ、然し吉野川の流れが上流だけが幕開きに流れたり、腰元が雛鳥より立派な着付だつたり、相変らず人形芝居の演出はメチヤ〳〵である、人形は素朴遅鈍の舞台装置が望しい。
 次の堀川は前の南部太夫が少々重苦しいが進境著しく、特に言葉にいゝ箇所がある、「こちらも此処で」の後一寸笑つて「往生いたそ」など一例である。古靱太夫の次に重責を負つてゐる大隅太夫に後半だけを語らせるのは当人には気の毒なまずい企画である。これはサラリとして居て結構だつた、「本真に読ましやれ」なども面白かつた、絃の重造はもつと勉強しないと清二郎に追立てられる。
 人形は玉蔵の与次郎が醜悪である、小便をして来るには唖然とする、「羊羹饅頭生肴」の件でバタ〳〵足拍子の入るのも困る、蚤を取るのも「腹助けで」で飯を食ふのも馬鹿〳〵しい。紋十郎のお俊は伝兵衛の来た時の足取りなど流石にいゝ箇所もあるが「人の落目の」の辺でキセルを使つた後母の髪をなぜつけるのは悪い型である。栄三郎の伝兵衛は「頼むぞと」の処が馬鹿に悪い、今のまゝでは若手だけの人形はもう見る価値がない。
 古靱太夫の寺子屋は今度は「色青ざめ」と「呼出し」が少々前年と変つてゐた様に思ふ、流石に小供の中の大人で楽々と楽しめた。
 人形は小兵吉の戸浪がすばらしい「寺参り」と云ひなをす件、「けしとむ内」の下を向つて身体をふせる形「極楽の境」の気組等久々に造詣の程を見せた。毎度の文五郎の千代も「どうまあ家へ」で松王にすがる辺りなど相変らずいゝ。悪いのは玉蔵の源蔵で「打守りゐたりしが」で若君と小太郎を見比べるのは醜悪である、最後に小太郎の背をさするのは何の為か解らぬ、「胸とどろかす」の時は引込んでしまつて無台に誰も居ないなど乱棒である。
 
   大隅太夫の獅子ヶ城と古靱太夫の新口村 (七月六日)
 東京では度々評判だけで実現を見なかつた国姓爺合戦が楼門から紅流しまで出た、然も私の大好きな楼門が、此処を得意とした駒太夫の死後、端場の不得意な南部太夫と伊達太夫の一日変りで出たが、これは、せめて呂太夫に語らせて仙糸の三絃を楽しむ案の方がいゝのではなからうか。南部と伊達は音声の明快な点で、私の未来に希望の持てる太夫であるが、端場の修業の期間が短か過ぎる。人形も平凡で「石火矢打つはダツタン風」で老一貫が和藤内を抱く様に極る件が特異である。
 大隅太夫の獅子ヶ城は久々に大隅の長所の出た佳き聞きものであつた、春子太夫に依つて縫承された先代大隅の演出法を其の相三味線の新左衛門に学んだとか、此れこそ義太夫節の古典の勉強の益々重大を鮮かに証明するものである。大隅太夫は古靱太夫とは全く正反対に独自の解釈を微塵も加へさせたくない、無器用な善き素材を持つ大隅が未来への大成は、懐しき古浄瑠璃の姿でなくて何であらう。劈頭の官女の言葉からもう大丈夫の感があつた、「知らせてたべ母上」など佳き音使いである。
 栄三の甘輝は待ち合せの出から此の人の品位が物を言つた、亦文五郎の母も左手だけで使ふ得意な役に高齢を気づかう最後感も手伝つて見ごたへがした。紋十郎の錦祥女が紅流しで腹をさぐる仕草は無くもがなである、こんな大時代な人形劇は紅をといて流すだけでいゝ、後の場で手負ひになつて出て来て始めて紅と見せたのは血であつたと云ふトリツクで十分だと思ふ。余談に渡るが筆者は合邦の玉手御前なども、前半は俊徳丸に対する真の恋、後半其れは総てを欺く悲壮な継子愛で差支へないと思ふ。
 古靱太夫の新口村は私には非常に面白かつた、此の曲の風格を頑に哀艶情痴の道行ものとせず、一種の世話浄瑠璃とする解釈は必ずしも存在価値のないものでは無いと思ふ、只難を云へば此の人の世話浄瑠璃に何時も影を見せる堅苦しさと理智が付きまとふ点である、もう一歩突込んで云へば自分自身の声の艶麗さにあきたらずして憂愁に自然語り込んでしまう反省感である、これは大物の三段目を語る場合は其の反対の方向へも作用する、即ち彼の崇拝する三代目大隅、組筆の実力主義に高き理想を置く結果、其の生一本の芸術至上主義の良心は自己の小音非力を嫌悪して、時には肉体的に無理な音使いとなつて聴者を苦吟にさへおとしいれる、これは古靱愛好者と非信者とを真二つにさへする、増して頑な古浄瑠璃万能主義者に理解を持たせぬのは全く致し方がない、此処に筆者が悲劇役者古靱を義太夫節の志士として高く評価する由因がある。
 其の新口村は素人に帰つたやうな女郎言葉でない「大事ないかや」がせつぱつまつた梅川を出していゝ、忠兵衛の「雪が降るそうな」がうまい「孫右衛門は老足の休み〳〵」がうまい独創の呼吸使ひで「指しせられ笑はれたら」から「親子じやもの」まで実にいゝ足取りで語る。
 文五郎の梅川は「嬉しう御座んしやう」や「顔つれ〳〵」の件に誰にも見られぬ持味がある、孫右衛門の眼かくしを梅川が取るのも結構な案である、唯自分に用のない件になるとすぐ引込んでしまうのはよくない事である。栄三の孫右衛門は「早う往生」の処で、襟巻を取るのが此度初めての様な気がした。
 古靱太夫のすぐ後に織太夫の合邦があるのは、太夫にも聴者にも迷惑な企画の建て方で注意を要する。「影さへ」から改名の七五三太夫が綱造の絃で語る。
 綱造が高座に復活した事は結構である、此んな速射砲の様に手の廻る強腕の三絃が理智的な三絃の多い今の文楽に一人異色に存在する事も結構である、綱造の主張を決して曲げない態度も結構である、七五三太夫が根元からやりなほそうとする努力にも敬意を捧げるに吝でない。此の上は只七五三太夫の情熱的持続と大成を待つばかりだ、筆者も紙上から綱造に厳格な育成と指導を斯道の為願つておこう、そして東大寺の様な端場も弾いてやつて欲しい、只、今後の七五三太夫の功罪が半分は綱造の責任にある事を約して芸評には触れない事とする。
 人形は門造の合邦が案外結構で「まだ俊徳様と夫婦になりたい」の件など玉蔵の様にクサ味がなく結構だ、「拝み廻れば」の件で玉手を払ひのける仕草も面白い、紋十郎の玉手も婆の「うそか」の辺り、平気で頭布をいじつてるのが案外面白かつた。紋十郎も師匠文五郎の長所と短所を識別するだけの頭が望しい、今の処では玉石混合である。
 
   仙糸と清六 (七月十三日)
 良弁杉の由来は壼坂などと同様の幼稚な作品で、只作曲の妙と演出法の正格だけで存在価値を辛うじて、見出し得るものであらう。此の曲などこそ古靱太夫一代で亡んでしまつても決して惜しく安い様な気がする、然し楽器、太棹三味線から流れ出る不思議な魅力は桜の宮物狂ひを弾く仙糸と、二月堂を弾く清六に、二代、三代の団平、或は六代広助又三代清六あたりの亡霊が亡び行く義太夫節の伴奏音楽に心を残し、成仏し得ずして二人に乗り移つたかと思はれる程の妙を極めて居る。
 筆者は遇然此の日のマチネーに行つて、呂太夫の寺子屋を弾く仙糸に何の感銘も得なかつたにもかゝはらず、桜の宮は全く別人の如く道行弾きの本領を発揮してゐるのに驚嘆した、此の人位長短の甚しい三絃も亦めずらしい。
 清六にしても二月堂冒頭の大三重を始めとして、良弁の出のメリヤスに至るまで実に頭の下る演技である、特に、二の昔、吟の声を主とする作曲を事も無げに弾いて、留め撥一つで無双の強腕の片鱗を見せるのも床しい。
 古靱太夫の良弁杉は上品典雅で、今度の東上中最も楽々と長所の出て居る語りものにもかゝはらず、一番興味をひかなかつたのは作の悪い為でもあらうか。
 人形では東大寺に出る番僧雲弥坊を遣ふ玉市の頭がもげるかと思はれる程クリ〳〵廻す場当りと、二月堂で良弁が杉に張つてある書状を持参する様命じる処で、其の言葉の云ひきらぬ内に飛び出して行く不行儀な黒衣に反省を求めたい、其の心なしな演技は此の場の気分をメチャ〳〵にしてしまつた。
 次の太功記尼ケ崎は伊達太夫の日で「其の骨柄」など真ともに大きく、初菊の泣きなど美事で此の人として上出来だが、相変らず祝ゲンや初ギクとテツが耳立つて困る、吉兵衛あたりを稽古台として必死の勉強を祈る。南部太夫と共に文楽の前途を荷ふ重責のある事を切に自覚すべきである。後半の相生太夫は甚だ平凡で、吉五郎の絃も此の役場だと弱腕が耳に付いて迫力が無い。
 人形では玉蔵の十次郎の遣ひ方が相変らす臭く「どう急がるゝものぞいの」の件など扇の動し方が荒く、顔をかくす様な気分が出ない、光秀と操は何時もの栄三、文五郎で操は「取付くしま」の後向きが特にうまい、栄三郎の初菊も形が丸つこくて可憐な味がない、人形劇独特の舞台面としては、さつきの死体を中央に上方に初菊下方に光秀が合唱して、久吉が加藤と下方、舟底に居る段切れ近くの型が特異で面白い。
 次が大隅太夫の婆の件りを抜いた野崎村で、年一度の上京興行などには厳封すべき不得意の語りものである、言葉には先代ゆづりのサラリとしたうまさはあるが地合がまるで不消化である、大隅太夫自心の解釈が無器用に先代張りの良き無器用の遺産を一つ一つ打ちこはして居る、御当人としても年一回の東京出開帳に語りたいものは数多くあるであらう。清二郎の三絃は三味線弾きの総てを具備した良き素質は見えるが吉兵衛式にカケ声がうるさい、此れも有望な清二郎としては研究課題である。、
 人形は門造の久作がうまい、「互に眼と眼に知らせ合ひ」の件りで、久松お染の顔を見ず下を向いて泣いて居るのは敬服である、お光の綿帽子を取つた件も久作の気持ちがよく流露して居て結構である。文作のお染はなか〳〵いゝ箇所のある人なのにもかゝはらずあのお染の出は臭気粉々であつた。
   大隅太夫の志渡寺と古靭太夫の重の井 (七月廿日)
 第一の十種香のカケ合は伊達の八重垣姫、浜の勝頼、雛の濡衣以下余りにもバラ〳〵で若手の開幕劇としても、無台監督式な古老の三絃を配すべきであらう。先年伊達の八重垣姫大隅の勝頼で友次郎の弾いた十種香は非常に結構なものだつた事を憶ひ出した。
 人形は光之助の濡衣が、隠当な遣ひ方であつた、「ついなれそめに」の件りなど、扇で静かに顔をかくすだけなのは感服である。
 次の志渡寺は近来での面白い人形劇だつた。雛太夫、喜代之助の端場からしてよかつた、奥の大隅太夫は久々に本領を発揮して雨続きの時雨空に日本晴れを見る感じである、冒頭の門弟団右衛門の追従口の言葉から痛快を極め、呼吸もつんで居り足取りも見事だつた、「盃とつて」以下の森口も雄大険悪で坊太郎をふまへての笑ひなど大きく、後半の相生も上出来で、特に吉五郎の三絃がお辻のクドキに見事な持味を出して純旧文楽系統三絃の香味を心ゆくばかり味う事が出来た。人形も皆上出来で久々で女形を遣ふ栄三のお辻が「馬の稽古よ学問よ」の後に足拍子を入れただけのシツトリした遣ひ方を見せた、一体現今の文楽の人形は全く足拍子の乱用乱発である。人形の足拍子はかく一段のクライマックスにのみ聞いてこそ始めて官能的な功果を生むのである。玉蔵の森口も久々に荒物使いらしい特色を発揮して、左に大刀を抜いて内記に突き付けた形、「其れは亦なぜな」で刀をふりかぶつた見得など手強くて手に汗をにぎつた、門造の内記も神妙である。
 次の戦陣訓は三勇士などと共にいつそ罪がなくつて、三人片輪や紅葉狩よりも見てゐられる。失礼ながら東京には結構な長唄や常盤津があり、菊五郎、三津五郎の如き舞踊の名手がほとんど毎月見られるのである、何もこれを御苦労様に義太夫節に翻訳して聞かせて頂く必要もなし、亦名手菊五郎の踊りを栄三、文五郎に代行して頂く事もないと思ふが如何。年に一度の文楽である、文楽でなくては見られぬ人形独特のものを見せて頂きたい、此の種のものを演ずる場合人形遣ひはも少し天日を恐れていゝと思ふ。
 恋女房染分手綱道中双六は織太夫応召で相生太夫の代役だが、幼稚で人形芝居としては相当面白い不思議なもので、今度ほとんど役らしい役のない政亀の弥左右衛門がキチンとして居て結構だつた。
 古靱太夫の子別れは他の人が美麗で派手にいく箇所程皮肉に心理描写で行く演出で、法善寺の津太夫が小言悪声ながら独特のウレイのきく語り方が見事に此の一段を物にした歴史的事実もしのばれて面白かつた。
 「なぜ尋常に育たぬ」や「母はこうは生み付けぬ」など「御切腹」などと共に耳に残るうまさであつた。馬子唄を寂しくウレイに語るのも独特で面白く「あんまり遠慮過ぎます」や「馬方こそすれ」など新案の香味があつた、古靱太夫としてはうまく考へた演出法だと思ふ。
 人形も文五郎の重の井が最初に三吉にすがり付かれる件は荒れてゐて驚く気持の方がおろそかだが、「此処ヘこい与之助」で下手向に三吉の顔を見ず愁に沈む件は、幕切れの三吉を鏡にうつして後向きに極る形と共に堂々たる好演技であつた。
 余談に渡るが、文五郎の女形は何処かに荒物使ひらしい箇所があり、反対に栄三の荒物は何か女形使ひらしいしとやかきがあると思ふ。大詰に南部、呂半分づゝの壼坂がある、沢市の着付が例の裏地にモミの赤が丸見へで不快であつた。
 
   古靭太夫の長局と栄三の尾上(七月廿三目)
 妹背山の道行で感じる事は人形より常盤津を使ふ歌舞伎の方がぐつと面白い事である、私には今の文楽の若手の人形遣ひの演技は信用がおけないので根本的に歌舞伎と人形との比較論は出来ないが、人形でさへあれば人間より何でも面白いと云ふ論者には私は反対である、従て歌舞伎を全然見ないで人形だけ礼讃して居る人も真の文楽知己ではないと思ふ。
 次が松竹の大好きな吃又で、これは亡き土佐太夫が伊達から土佐太夫襲名の出し物で、此の時あたりを一転機として土佐太夫の芸風が一種の言葉語りとして大転向をした歴史的の語り物で私は非常に期待して居たが、毎年々々根気よく津太夫にのみ語らせてる間に土佐は隠退してしまつたのである、私は多分此度は大隅太夫で出る事と思つて居た処、思つた通り大隅が初役として語るのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。大隅は将監の言葉がうまく勿論増補のサシスセソがある方の台本なので、カキクケコのあとにホヤと入れて語つて居たが結構だつた。先代が得意のものだけに初役ながらよく知つて居て、御当人お自慢の野崎村などよりは有難かつた。大隅太夫はあまり語りつけないものゝ方がかへつて整然として居るやうである。
 毎度の栄三、文五郎の又平お徳は結構で、此度は手水鉢に絵像が抜けてから何時もの行燈式でなく甘く出来て居た。
 半分づゝ語る紙治は前半の相生、後半の呂太夫共に平凡で吉五郎、仙糸共に振はず。人形も政亀の治兵衛が「門送り」でのれん口へ来た辺に僅に和事らしい人形の肩の動きが見られた位で、小兵吉のおさんも昨年よりぐつと衰へて居て暖簾口へ入る後向きの形や、引込みの小春とキミ合になる件などに僅に老熟した味を見せたのみだつた。
 加賀見山の廊下は織太夫代役の雛太夫だつたが、此処では珍らしい門造の岩藤が面白かつた、先代門造の型と云ふ肱でお初を突くのも亦あくどく、つねるのも稚拙な人形劇らしかつた。玉蔵の弾正も敵役だけに結構であつた。
 ついでながら此の役場で特に耳に残つてゐるのは故人綴太夫と駒太夫の端場のうまい人だつた事で、特に綴は加賀見山の廊下と帯屋の六角堂がうまく同師を追憶の意味で付記させて頂く。
 古靱太夫の長局は例の如く土佐太夫などが平凡な遺物分けのタレ場と「影みゆるまで見送りて」以下のお初を出してからのクドキが此の人一流のサラリとしたしめやかさで流石である。「吐息つき」の後の一呼吸引いて「テモ恐ろしい」となる件や「憎くさ」が気の弱い尾上らしいのも耳に残るうまさである、天明三年に初代住太夫が江戸みやげに下阪した初版本に「そなたの父御は武士と聞いたが」が再版から「父御も」と間違つたのをチヤンと訂正して居るのは真面目な此の人らしい、医学博士岡田蝶花形氏は浄曲研究でうんと賞めた方がいゝと思ふ。
 亡き土佐太夫のうまさは「サア供しやと何げなき」の条り、烏啼きの前後、お初のカケ込む足取り等にあつた、一つ一つ拾うと可成に粗雑でありながら一段を通していかにも長局らしかつたのは、彼がやはり一種の義太夫節を力で語る太夫だつたのである。
 話は余談に渡つて恐れ入るが、義太夫を語る人の義太夫評位不健全不健康なものはないと思ふ、土佐を賞するもの古靱をくさし、古靱をたゝへるもの土佐をゼロとする、恰も源平の争ひか、民政、政友の対立である。
 長局一段の面白味は忠臣蔵四段目と同様、尾上お初主従の泣くにも泣けぬ語るにも語れぬくやしさにある、一人になつてからお初はなぜ打あけてくれぬと泣き悲しみ、お初を無理に使ひにやつた後尾上は其れと云はぬ心をお初にわびて居る玄人の云ふ風、たとへば摂津大掾の風、大隅の風と云ふも、音使ひ語り風にしろ其の精心は全く同一で、唯、己の肉体条件を中心とした見解の表と裏、右と左の差であらう。
 話が甚だ脱線したが、本題に戻つて古靱太夫の義太夫趣味或は芸風としたら、お初の話の糸口の浄瑠璃の話を聞く尾上は始めはもつと気の無い迷惑なこしらへが望しい、此れは千本桜すしやで権太の無心を聞いた母親の「そりや何で」と同様始めは気の無い様子でありたいと思ふが如何。古靱太夫の義太夫に欠けて居る点は呑気、無雑作、粗雑、何げなさ、馬鹿々々しさと云つた部類の表現であらう。
 栄三の尾上は上品典雅で「昨日の意恨」の条りのうまさ、長局での品位是こそ栄三の最上の傑作であらう。一体栄三は女形出の人改此の頃の様に荒物ばかり持たされると気迫を欠く場合が非常に多く、此れも筆者は栄三あれば何でもいゝ様に云ふ若先生方とは少々反対である。
 文五郎のお初は玉手御前と共に此の人の代表的悪作で少々閉口である、尾上の「さとられまじ」の時についと尾上の後にる意気が文五郎一流にうまいのみだ。
 次の伊達太夫の宿屋は改名披露に語ったものだけあつて此の人としては佳作である。
 
   古靭太夫の引窓と其の人形(七月廿六日)
 時間短縮のやかましいのに文楽は一体出し物が多過ぎる、此の日も第一の五条橋と第四の紅葉狩は全く蛇足の出し物である。
 第二の傾城阿波の鳴戸は呂太夫には不適当な出し物で本人にも気の毒である。紋十郎のお弓も「振りかへり」でビシヤリ戸を締めてしまうのは文章の意味から見てどうかと思ふ。一体大隅以下の太夫には長所短所などば少しも計算に入れず、全く御都合主義出た所勝負に語り物をあてがつて居るとしか見へない。
 評者は今日何を語るかを知らずに或る太夫の組見で来て居る人にも会つた、亦ツメの人形同様の軽い役一役を遣ふ人形遣ひの組見で来て居る人にも出合つた、これでは口上を云ふ人やお囃しの組見でもする方が余程意味があるであらう。
 熊谷陣屋の後半を語る大隅太夫になつて始めて文楽らしくなる、が此の日の大隅は意外にも相模のクドキが結構で、かへつて大いに期待した弥陀六のタテ言葉など甚だ振はず、亡き津太夫を憶ふの情切々であつた。一体大隅の浄瑠璃は一クサリ、或は一部分を区切り区切りに語つて居る感じで、熊谷陣屋一段を語つて居る一貫した気迫がない、此の点若き三絃清二郎の方がぐつと陣屋一段を弾いて居る感じである。
 筆者の如き大隅贔屓が一例が「おどり出で」の如き一段中の部分的妙味を辛うじて楽んだ位で、あれでは未知のプアンを引き付ける事は、到底出来まいと思ふ、あゝ一枚一枚に湯を呑んで居ては聴手の方で呼吸をつめる事が出来ない、あれならゴムの管へ水を通して見台の脇へでもかけておいて連続的に吸つてる方がいゝ。
 講談界の名人宝井馬琴は高弟の琴凌が、あれだけの名手でありながら高座で湯ばかり呑んでるのを見て、講談を休み休み読むと罵倒して高座から鉄瓶をかくしてしまつた事があつた。
 栄三の熊谷も気迫がない、特に藤の方へする物語りが女房にばかり聞かせてるのを、大阪の若いウルサ方がよくだまつてるのが不思儀な位だ。
 陣屋一段の人形の善き演出としては「飛びのきうやまい」で相模が藤の方と熊谷の間に後向きに極る件と「言上す」で扇を首の上にのせて相模をふまへ藤の方を制札でおさへた怪奇の形である。
 文五郎の藤の方は、「せまりながら」で刀を持つて泣く条りと「一間へ」で藤の方を止める条りで老熟したうまさを見せた。門造に弥陀六の大役が付いたが案外平凡でこれは玉次郎が結構だつた。一度栄三の弥陀六を見たいが熊谷がないので困る其れ程人形芝居は末期的なのである。
 第五の引窓は文五郎のお早が月見の仕度をして居る良き幕開きの端場を雛太夫が語つていよ〳〵古靱太夫の持場となる。
 此の一段の風とも称すべき特性は間の特に多い事である、然も前半母親の泣きの間を決して三味線が弾かないのも特異な演出法である、老母の「罰あたりめ」で始めて三絃が老母の涙の伴奏を聞かすのである。
 古靱太夫は実によく其の間とカワリを鮮かに演る、此の人の非力も技巧も少しも影を見せない、あの広い演舞場に一人の聞手もなく唯一人うつとりと楽んで語り捨て居るのは将に旱天に滋雨の感じである。おそらく数ある古靱太夫の傑作中の第一位に位するもので、是こそ越路太夫の在世中から良弁杉と共に紋下越路の堅畳に肉迫して次の時代の紋下を約束させた語りものであつた。
 「袖はかわかぬ」あたりから「かへつて思ひをかけまする」あたり、東京人よ、古靱太夫の居る間に義太夫を聴けと叫びたい思ひだつた。筆者はお早親子が長五郎の髪を剃つて居る間の妙味に亦一年間会へぬ哀寂感をしみ〴〵と感じて久々に良き浄瑠璃に酔ふ事が出来た。
 人形も佳作揃ひで、一番あぶない玉蔵の濡髪さへ無難で「日が暮れたれば」の条りの栄三の与兵衛「味な事を」の件の文五郎のお早の妙、全六日間を通じての渾然たる一幕であつた。
 大切りの曲輪文章は南部太夫がよき素質を見せて嬉しかつた。