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【 斉藤拳三 追憶二題 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 125号 9ページ
 追憶二題
      斉藤拳三
  駒太夫のこと
 三月卅一日に豊竹駒太夫が死んだ。文楽の人形浄瑠璃を愛する者にとつて最も手痛く感じる事はゆはゆる三位一体と云はれて居る三業中一つの部門が急に少くなる事である、其は取りもなをさす其の滅亡の危機を急速に早めるからである。 或る一部の人は人形遣の危機のみを説いて居る、私はあへて此れを否定する者では決してないが、太夫の無くなる事は三絃に比して数から云つても約半数位程しかない無人の内で誠に心細い限りである。
 先年私は下阪した時四ツ橋の本城で忠臣蔵の通しの時、此の人の役場の四段目を中途から文字太夫が変つた事があつた、其の時から私は無気味な予感があつた。,
 昨年明治座へ真打として上京した時、新口村や紙治の上出来だつた時将に死花であると某友人と話し合つたものだ、私の不吉な予感の的中した事を私は限りなく悲むものである。
其時四の変り以後の此の人の語り物に寺子屋や、すし屋が選ばれた時駒太夫贔屓の某氏の怒つてゐるのを「駒贔屓に取つ懐しい思ひ出になるから」となだめた事もはつきり思ひ出された。
 義太夫名曲選第二回に選ばれた先代萩御殿も私は止むない所用で聴き損じたのであつた、駒太夫は音量が少く芸風も品位を欠いて厳格に論じたら一種の端場語りであらう。
然し盲人ながら人一倍の努力と一種一流の音使ひの妙は、次第に影を消して行ぐ大太夫の凋落と相待つて孤城落日の感ある文楽座では古靱に次ぐ語り手として堂々たる存在と成つて居た。
 然し盲人の悲しさには何としても勇壮悲壮な英雄の出て来る場面などは何としても同感が無いらしく宿命的な盲人声と相待つてよくなかつた、が情痴の世界となると独特のあだつぽい名調子は絶妙な音使ひと相待つて滴るばかりの情趣をただよはせた、酒屋の「聞いて居るさの障子より」の件など夕やけの空をうつとりと見とれる様な哀艶な情調を聴かせてくれた。
 流石に本格的な修業をして来た人だけあつて、寺子屋の「呼出し」や忠六の「ところの猟人三人連れ」などの件、一種古風なツメの人形らしい語り方であつたと思ふ。
 私は不思議と只の一回だけ此の人と話しをした事がある。
 四五年前太棹肚の富取君から「実は熱心な駒太夫贔負の人があつてどうも松竹では駒太夫を上京させないので残念がつてゐる、其の人が駒太夫を万一呼ぶ事が出来れば費用は何程でも出すから、太棹社の主催で駒太夫を聴く会をやつて見たらと云はれてゐる」との話だつた。
 丁度私は文楽座見物に下阪したので、どうせものぐさな富取君の事だから積極的な運動は仕ないだらうから一つ逢つて聞いて見やうと思つたので、滞在中寸暇があつたので宿屋の女中に案内させて此の人の自宅へ押しかけたのだつた。
 妻女らしい人が出て来たが、此方は帝劇の受付で顔を知つて居るが先方は知つてるはずはなく、あぶなく門前払になる所だつた。
 でも私が色々説明すると漸く納得してくれて上つて会つてくれとの話だつた。
 やがて暫らくすると妻女に手を引かれて駒太夫が出て来た。顔色の悪い見るから痛々しい姿で私は全く恐縮して会見した事を後悔した、処が亦これが妻女よりも数倍説明するのに難物で結論的に云ふと「東京に其んな私の贔屓があると云ふ事は信じられない」と云ふ、にべもない半兵衛のやうな拶挨だつた、妻女の方はよく解つてくれたらしく非常に気の毒がつてお菓子をつつんでくれたりして叮嚀に門口外まで送り出してくれた、
 結局駒太夫の説では今後其の話は東京の妹弟子の冨之助を経由しての話にしてくれ、吾々な紋下の許可がない以上は何うする事も出来ぬからとの事だつた。
 旅宿へ帰る電車の中でも吾が愛する豊竹駒太夫を試問した事を悔いる心がひし〳〵と胸を打つて、旅慣れぬ私は妙に家が恋しくなつて仕方がなかつた、これも今では懐しい思ひ出である。
 最後の放送を聴き損じた駒太夫は何と縁のうすき事よ、会へば悲しき駒太夫なればこそである。
 
   竹本土佐太夫を憶ふ
 四月三日は私は何時にたく朝寝をして居た、「大変だよ土佐太夫が死んだよ」と云ふ娘の持つて来た新聞に顔をなでられて私はバネ仕かけの様にはね起きた、「しまつた」と私は心の中でさけんだ、病気とも知らずに昨日出した私の手紙はまだ天下茶屋の弔問の客で混雑して居るであらう彼の宅へはまだ届かない時間だつたのである。
 新聞はこの大太夫の死を二日午後二時病名は尿毒症と報じて居る。
 思へば昨年夏のことだ、一週間目位には必ず手紙を寄こす土佐師から余り音沙汰がないので、私は伊原青々園博士に安否を問い合せた事があつた。
 伊原先生からはすぐ返事があつて、「南は時々血尿の出る事があり病院へ入院した処、何でもなくもう退院したらうと思ふ」との事だつた、翌日すぐ土佐師から「入院した病院の先生が上京してしまつて退屈して困つた」との事だつた、此の時分から恐るべき尿毒症は胚胎してい泥ものであらう。
 七十九歳の高齢でも土佐太夫ばかりは私は死と云ふ事を決して想像した事はなかつた、三月十五日に来た絶筆の手紙にも義太夫名曲選の放送も四月中旬に延した事や、来月の土佐会の事や六月は日本橋倶楽部の伊達子改め土佐広の口上に上京するから逢つて色々話さうなどと元気な文面だつた、大阪に生れて永年彼の芸風に深い理解のある或る先輩は云つた。「土佐太夫論を書くには土佐にとつては斉藤程適当な男はない、土佐太夫は晩年程芸も人間も見ちがへる程善くなつて居る、斉藤は丁度善くなつてからの土佐きり知らないから」と、此れは将に私にとつても土佐太夫にとつても知己の言葉であらう。
 永年彼の相三味線を勤めた七代目吉兵衛はかつて私に云つた。「土佐太夫の芸は三段に変化して居る、文楽入座以前、文楽入座より土佐太夫改名まで及び其の以後と、其の内で私は摂津大掾風に演らふとした第二期が一番悪いと思ふ」と。
 幸なる哉私は伊達太夫の晩年は記憶がなく、亦あつたとしても今でさへも無い私の理解力の尚ゼロな時代である、土佐太夫となつてからの南馬太郎氏なら私は東京の演出は全部聴いたと云つてもいゝ。
 或る文楽の三味線某氏は云つた。「土佐さんは改名の吃又以来丸で役者が上つてしまひました」と、幸にも私は其れ以後の土佐太夫より知らないのである。
 私に義太夫節の妙味を教へてくれた人は越路太夫でも弥太夫でもなく、全く古靱太夫と土佐太夫であつた、特に大文字屋、酒や、紙治、封印切り、帯屋の如き世話ものの妙は全く土佐太夫あつてのものであつた。
 土佐太夫の突然の死に逢つてつく〴〵思ひ出されるのは芸人は死ぬまで引退してはいけない事である、此の人なども松竹をはなれて自由な身体になれば、いろ〳〵斯道の為につくせると云つてゐたが事実はかへつてさうではなかつた。
 結局引退後はラジオ放送に寄る、佐太村、壺坂、長局、桜時雨の四段と井上伊三郎氏宅で語つた紙治と、其他では土佐会で語つた白石噺のカケ合の惣六位のものだつたらう。
 友次郎にしても隠退の間に歳をとつたのだつた。
 土佐太夫なども放送に出る前一週間位の意地組は実に大変なもので、私などには手紙で「聴き所は何処だとか」或は「昨日は一度吉兵衛と合せて見た」とか丸で素人がおサライに出るような事を楽しく書いて寄こすのだつた。
 私方も其の時は前からマイクの調子を調べて置いて熱心に聴き入つたものだが、何時も出来ばえはすばらしかつた。
 床へ上る一時間前まで切符売りや連中の稽古をして居て真の芸が出来る筈がないと思ふ。土佐太夫に関しては余りに書きたい事が多く余りにも突然の死で何から筆にしていいか頭が少しも統一しない、いづれ次号にでも少し落付いてから稿を改めて書かせて項きたいと思ふ。最後の放送の桜時雨が余りに美事だつたのと「もう四五年たつと伊達太夫を立派に仕込むのだ、今急に猛稽古を演ると逃げていつてしまふから」などと云つた言葉に余り信をおいたので私も茫然として悲しみの言葉さへ出ない仕末である。
 翁の数ある手紙でも整理して行く内に何か読んで頂きたい事がうかんで來るであらう。