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【 斎藤拳三 四ツ橋、文楽座、見物記 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 100号 12ページ
四ツ橋、文楽座、見物記
 
  斉藤拳三 
 
 十月十五日、十六日の両日、大阪四ツ橋の文楽の本城を始めて見物した。地下室の無い小じんまりした二階建の小屋である。
 浄瑠璃芝居を味ふ専門に作られた小屋だけあつて、吾々の様な東京人で、盛夏のむし暑い季節に駄々広い歌舞伎や東劇で、毎年人形芝居を見なれた者にとつては、全く爽冷の好期に楽々と声の響き通る、本場所で聞く人形芝居は全く別天地の様な感がある。
 文楽上京の人形浄瑠璃地獄の感が全く無い、私は人形浄瑠璃愛好者に限り、つく〴〵大阪人の幸福を思つた。
 特に太夫の床はすぐ見物席の前にあつて、丁度吾々が寄席の高座に持つ親しみと云つた感じが、太夫にも人形使にも持てる、これも嬉しい事の一つであつた。
 唯一つあきれるのは、場内唯一の食堂の南一温泉料理の不味で高い事である。私は金一円也のお膳と、金五十銭也の親子丼を食べたが、此れは田舎料理で全く閉口である。商売上手の松竹にも似ず、東京の様に場内に投書函の設備も無いから紙上から改良を希望して置く。
 狂言はそんな訳で、第一の忠臣蔵から第三の契情倭荘子まで、三時から十時廿分まで見物しても何等の疲労も感じない。
 売店では番付を売つてるのが東京と変つている、此れも吾々には心持ちよい。
 二日共、太夫、三味線の連中はあつたが人形使ひの連中は無かつた。出使ひも東京程演らない、此れも結構であゐ。
 大序は和泉の直義、長尾の師直、源、の顔世竹太夫の若狭常子の判官である。
 人形は玉幸の師直、栄三郎の若狭で『早いわ〳〵』を演つて居る、此れは歌舞伎が此の頃演らないだけに残したい。
 殿中は大隅、広助、師直を玉次郎が使つて居る、懐しかつた。然し判官を追ひかける件は代役である。
 土佐太夫の説によると、若狭之助は相当腹のある人物で、鶴ケ岡であれ程怒つても帰宅して本蔵に相談する余裕のある人、判官は思はず抜刀したが、お家断絶と云ふ杞憂の為に師直を打ち損ずる人、と云ふ点に力点を置く可きで有ると云ふ。一度此の人の健在中に三段目を聞きたいものである。
 四段目は駒太夫、清二郎、此の人の口に合はぬものらしく不出来である。血圧亢進の為当日は「力弥御意を承り」から文字太夫が変つてしまつたが、かへつて後半の方が面白かつた。
 友次郎の説によると四段目の判官はすつかり腹の出来てる人で、石堂とは相許し合つた仲で、上使受が済むと思はず『御酒一つ』と親友らしい言葉使ひが出る。薬師寺は尚、むかついてくると云ふ腹でやる可きだとの由。亦絃としての難所は石堂の『緩々として』テンチン『立帰る』のチンをほろりと一掬の涙を落す様に弾くデリケートの呼吸だとの由である。
 此れも此の人の健在中に聴きたいものである。人形は栄三の由良之助が相変らず美事な他、紋十郎の判官が、東京所演より数段の進歩のある事を特筆する。
 ニツ玉は和泉太夫、重造である。此の人の口に逢はぬものらしい。
 一体私は五段目の人形芝居の演出には大反対である。与市兵衛はあの一生懸命の場所で何故「松がへ」なんてシャレを云ふのだらう。
 あの悪ジヤレは、彦六座の方から文楽へ流れ込んだものらしい。亦何故定九郎は原作通り、オーイ〳〵と与市兵衛を追いかけて来てユスリにならないのだらう。あれでは金を取る為に与市兵衛を殺すのではなく、丸で殺人道楽とでも云ふ男である。亦何故人形は仲蔵改良の黒紋付の着付だけを踏襲するのだらう。
 あんな五段目ならば時間節約の今日抜いてしまふ方がいゝ。
 裏門、俗に「落ち合ひ」と云ふ、此れは源太夫、吉弥である。久し振りで吉弥を聞く、結構である。人形は何時もの栄三文五郎のおかる勘平にめずらしく門造が伴内を使ふ。
 六ツ目は身売りが綴太夫、新左衛門。腹切りが津太夫、綱造。劇場の関係かどれも東京で聴くよりも渾然として居る。
 人形は小兵吉がおかやを使つてるが、四段目の石堂とは別人の感で旨い。門造の郷右衛門も非常な傑作で『見後る涙』の件で、人形独特の足拍子を入れて、おかやと郷右衛門と二人で乗るのは人形浄瑠璃愛好者の心を打つ。
 又此の郷右衛門は、政亀の千崎と二人で『おとなへば』の件を門口で二人で正面向に一列に極る、丁度歌舞伎の菊畑の虎蔵と智恵内、或は車引の梅王と桜丸の様な意気である。
 人形は斯う云ふ人形独特の技巧を丁寧に研究復活してこそ存在価値がある。
 七段目のかけ合は大隅の由良之助、伊達のおかる、呂太夫の平右衛門、叶の糸である。
 T氏の説によると、現今語り方のくずれた代表的なものは七ツ目のおかるださうである。
 摂津大掾などは田舎娘の『はや廓なれて』と云つた情が、いかにもあふれて居たさうである。今のは丸でお姫様か夕霧太夫の様だと慨歎して居た。一流の太夫の一考を煩したい。
 人形は折角栄三が由良之助を使ふのに『おのれ末社ども、めれんになさで』の件など省略されてしまつて見所が少い。
 淡路の八造と云ふ人の考案による、此件で手拭を人形に使つて入る由良之助などを空想して居る吾々などには永遠の夢である。
 次が此の度下阪の眼目、古靱太夫初役の玉藻前旭袂の三段目である。
 古靱太夫の説では『表から演れと言はれて仕方なく引受ましたが、私は此の浄瑠璃はきらひです。前に余り多くの大家が演りつくして居ります。一層演るのなら、増補のでなく原本の方で演ればよかつたと後悔して居ります』と。師の説の如く、現今の道春館は寛政四年(宝暦元年か)浪岡橘平、浅田一鳥、安田蛙桂、合作の原作の二段目にあたる。此の方では道忠館の段となつて居る。
 二段目の金藤次は全然立役で、二段目で姫の首を打つて帰つてしまふ。後に不如帰の歌の書いてある扇面を残して行くので、桂姫の実父である事が解る。三段目以下は其功によつて郡代となつた金藤次は、王子の悪事を諌めながら鬱々として本意なき日を送る内、益々つのる悪業に実子を殺した実意を明して自害して王子に諌言する、王子は殺生石となつて、玄能和尚となつた采女之助の為に得度せらるゝので終る。文化三年に梅枝軒、佐川藤太によつて、三段目一場で金藤次だけは解決のつく様に改作せられたものである。
 成程上品過る位な古靱太夫の芸風では、現作の方が柄にある様である。然し御当人が悪声と謙遜して居る程前半は悪くない。後室も二人の姫も中々味がある、技巧的な哀寂感をよく出して居た。清六の糸も、いかにも清六式に弾く点が将来性を思はせる。
 人形の方は大失敗である。第一玉蔵の金藤次は最初から全然底を破つて居る、後室の物語りを聞いてから、桂姫ばかり見てるのは失敗である。義太夫が愁で語つてないのに、愁の思ひ入れをしたら、人形芝居は根本からこはれてしまふと思ふ。紋十郎の初花姫も『立聴くとも』で一寸出るだけなのは大いに悪い。あの場合、後室と金藤次の物語りを両方の居間から姉妹が同時に立聴きすると云ふ絵面が、あくまで人形芝居の約束であるべきはずである。人形使ひは義太夫の文句の意味だけでも、太夫や三味線から聞く可きであらう。
 前に桂姫が恋わずらひをして居て、初花姫を采女之助と思ひ違へる端場が付いて居る、文字太夫は吉左の糸でよく語つていた。第三の契情倭荘子、蝶の道行は、安政二年三月の清水町浜芝居以後、埋れて居るものだけあつてつまらないものである。