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【 斎藤拳三 文楽座通ひ四日間 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 98号 2ページ
文楽座通ひ四日間
  斉藤拳三 太棹
 七月十三日の都新聞紙上に安藤君は、東京の文楽フアンは常に季節的に最悪の条件の基に、観賞しなければならない宿命にある事を論じて居た。
 全く同感で有る。特に私などは遠隔の僻地に住む関係上、三日目、四日目の文楽座通ひは可成の苦痛で、一日位は必ず健康を害する日が有つた。学校をエスケープして新富座の大入場に、当時二十五銭の弁当を買ふ金さへ削いて入場料に替へた昔を思ふと、東京の師匠連が絹上布に白足袋の美服に、贔屓の御連中と冷麦酒で談笑の内に観覧する太平無事な姿を見出す事は余りいゝ気はしない。
 安藤君よ余りに文楽を怒るな。
 君は私より十五歳の年少である、人形浄瑠璃の死に水を取つて貰ひたいと思つてる君に、君の怒り文章を読む時私の心は妙に暗い。
 フアンの心は弱い「あと何年の寿命だろふ」「年に一度の東上だ」と思ふと、二十余年前の自分と何等の変化もなく四日間を楽しく通ひ続けた。出し物の不満も、土佐太夫、吉兵衛友次郎、仙糸、吉弥、無き寂しさも何時か忘れて、近年になき古靱太夫の快調と、人形使ひの一人も欠けてないのを喜んで居る、昔ながらの自分だつたのである。
  第一回 七月三日見物
 古靱太夫の弁慶上使は、此の前の歌舞伎座で発病直前の不出来に引換へ、此の度は近年にない美声であつた。此の人の御所三は、地味で「鎌倉殿の難題を……」の様な、他の人で聞くと平凡無味な箇所で思案にくれる弁慶を色濃く出すのと、信夫の落入りの辺に素直な哀寂感を出すのが特色である。其れと此の度は「恋人も驚きて」以下のエエエを踊らないのが清六との新演出である、成程と敬服する。
 只故先代清六在世当時に比して声量の衰へをかくす為か、下の音で云ふ箇所が多く、其の為弁慶が剛快味を欠き、如何にも陰気なのを難とする。栄三の弁慶は流石に玉蔵より動かないで味が有る。
 津太夫の寺子屋は簡素、古風にサラ〳〵語るのを長所とする、一時代前の義太夫を聴く感が心気よい。
 綱造の絃は腕の強さは現役中第一人者だが、情味の感じられないのを難とする。然し此れは紋下を弾く最高峰としての厳正な批評で、先日の東京連の妹背山の三味線などに比すれば大人と子供程の差である。
 玉蔵の松王は愁嘆場で扇を落して鼻紙を使ふ件が面白い。、文五郎の千代も待ち合せの件が人形独特の技巧で面白い。栄三の源藏は「打てば響けの内には夫婦」で下手柱による件が他の人にない甘さである。政亀の戸浪は手拭を使ひ過ぎはしないかしら。
 錣太夫の酒屋は未だかつて出逢つた事の無い程、めずらしく声を痛めて居て不振だつた。新左衛門の絃は音も撥も小さいが相変らずいゝ音色である。 綴太夫は新左衛門を相三味線としてあくまで離さない点が偉い。新左衛門も高齢七十四歳右の耳が悪いと聴く、其れならば太夫が左側に座つて独特の形で語つて後世の美談としたいものだ。私は真険に此の説を両師に建策する。人形は玉次郎の宗岸が傑作である。此の人も今度が最後かも知れない。
 新織太夫の逆艪は新境著しく、此の逆艪は津太夫系でなく故弥太夫系である。絃の新団六も腕は強し、音はよし、三絃新進中の偉材である。私は世評に反して此の二人の文楽復座を喜ぶものである。要は早く古靱を脱却する様精進して欲しい。
 人形は栄三の松右衛門が良く、権四郎を持上げて上座になをす件など人形独持である。寿式三番叟と団子売は観覧税である。
   第二回、七月六日見物
 若手連かけ合の妹背山の道行は期待が多き過て面白くなかつた。此の場の人形も平凡である。次の壼坂、此の人形もつまらない。
 栄三の沢市は口三味線の件を立留って演る。然し此れは団平が歩きながら演る様に、手を付けたと私は聞いてる。此れは栄三の思ひ違ひではなからふか。小泉君の御意見は如何。次の連獅子は観覧税。
 日吉丸稚桜、小牧山城中の段、中、相生太夫、道八、弾く太夫の一人でも有る間は、死ぬまで高座は隠退しないと壮語する道八老に私は敬意を表する。其の絃も丁寧過る難はあつても美しく手強い。此の人も七十四歳の高齢である。若い人は注目傾聴してやつて欲しい。
 文楽の二の変りは此処へ来て始めて勢気が出て来る。
 私は世評と反対に津太夫の小牧山の切りを奥深く聴いた。時代に捨てられかゝる此の浄瑠璃の大時代、大甘な趣向は津太夫の朴訥、雄大、無器用な芸によつて世に出た感が深い。其の五郎助も手強く、大きい。私は津太夫四つの出し物中此れを取る。
 人形は文五郎のお政が非常な傑作である。ともすると品位を欠く此の人の肩はずし物中、芸質に合つて居る。最初の酔体など特に見事である。
 古靱太夫の堀川は野崎村と共に世話物中の二大佳作である書置きの件の独持の甘さ、「亦明日」の味のあるいゝ方、特に此の度は与次郎の言葉に色々新しい試みがあつた。
 一例が、お俊を呼ぶ件に、始めはトン狂な大声で二度目を小声で二度に云ふ件等である。唯「戸口を明くれば走り行く」は私は反対である。在来の「走りよる」にしたい。あの場合家中の騒動を気ずかつてるお俊が、与次郎に戸口をあけられて逃げて行く筈がない。私の無謀な独断によれば、岡田翠雨氏の摂津大掾への忠告から後世此の型が出来たのではなからふか。私には「走り行く」は、お俊が恋人が来てるのではずかしいと云ふ意味に聞へて反対である。安藤君あたり、此の説は如何。
 栄三の与次郎は不感服である。お俊と母親との会話中飯を食ふのは悪落ちが来て浄瑠璃の邪魔になる。菊五郎でも吉右衛門でも、与次郎はあすごで素直に二人の話を聞いてるだけである。待ち合せにする程の仕草でもあるまいから省略にかぎる。
 此度の大隅太夫では赤垣出立を取るより外はない。私の贔屓の大隅のスランプも可成長い。其の相三味線が芳之助、道八寛次郎、広助と転々するのも贔屓にとつては不安此上もない。
 大器晩成居士、もうそろ〳〵晩成に着手して頂きたいものだ。
 此の人形は平凡である。
    第三回 七月九日見物
 加賀見山旧錦絵の草履打の段は岩藤が呂太夫の日だつた。此れは仲々の上出来で叶の糸もよかつた。
 此の場の人形は仲々結構で、桜花燗漫たる鶴岡社頭に岩藤尾上が腰元と日傘をさして並んでる幕開きは、歌舞伎に比して如何にも原始的で味が深く、人形美をいぢりこはして居ない方の第一のものと云へる。
 「いやか」で岩藤が人形の女形にはめずらしい可愛らしい足を出して下座の太鼓の音で極る件も面白いし、幕切れに「明日は我身も消て行く」で尾上が腰元の肩に打ちのめされた様にもたれて本つりが這入る。懐から紫の布につゝんだ草履を出して見て泣きながら籠にスーツと入つてしまふ幕切れも味深いものがある。
 其れに先代玉蔵の死後全然女形を使はなくなつた栄三が、文五郎がお初に出る関係上か、尾上を使ふのは政亀の岩藤と共に此れも今年が最後かとの感も手伝つて貴重に見物した。
 次の廊下は錣太夫新左衛門で非常な傑作だつた。錣太夫もこんな端場を語ると如何にも昔の太夫らしい味があつていゝ特に腰元が甘い。弾正も結構であつた。新左衛門の糸も義太夫節、三絃の最後の立端場弾きの特長を心行くばかりに発揮する点、実に水際だつて居る。土佐太夫、文楽を去つて綴太夫の端場は其の帯屋に於ける六角堂が最終かと思つたのに、今日の廊下を聴いた事を喜ぶ。
 古靱太夫の長局は始めて聴いたが、尾上が一人舞台になつてからの後段になつて、品物は小さくても紋下らしい芸質を発露する。特に此度の様な声に難のない時に此の感が深い。
 津太夫の沼津は衰への少しも無いのが昔ながらに嬉しい。此の度は平作が玉次郎でなく門造だが、結構だつた。
 次の大江山の戻橋は観覧税。
 松竹大好物の摂州合邦ヶ辻下の巻は、前半が相生太夫、道八、後半が織太夫、団六の日だつた。道八の絃は新左衛門と反対に、間を要する時代物を弾いてる時最も特色が出る。先日の妹背山の大判事の出の様な場合が其れである。先日東京で、清水町と松葉屋以上の妹背山を聴いたが、道八のは亦其れ以上である。
 相生太夫も進境が見へて嬉しい。.
 先日私は某氏から意外なニュースを聴いた。新織太夫は玉手御前は最後まで俊徳丸を恋して居る。即ち邪恋を精算して死ぬとの新解釈だとの事である。
 私は全く唖然とした。暗然とした。其れならば古靱帥の身辺は益々寂しい。
 団平の合邦の猛練習に卒倒した三代目大隅太夫は迷府で此れを聴いたら再び卒倒するだらう。皮肉にも其の織太夫が合邦の後半を語るのである。私は電報用紙をふところにして息を詰め堅唾を呑んで玉手に聴き入つた。天、幸にも有望の新人を捨て給はず、無事に語り終つた。私の眼の中には光るものが有つた。私は、つばめ太夫を熱愛する田中煙亭翁に「ツバメ、シス」と電報を打たずに済んだのである。織太夫よ、東京市外、世田ヶ谷に田中煙亭ある事を忘れ給ふな。
 団六には、三代目清六の「玉手は気丈の身がまへ」以下段切れまでのレコードを聴く事をお勧めする。人形は合邦に限り小兵吉の合邦に栄三の玉手御前、或は玉次郎の合邦に、小兵吉の玉手御前で見たい希望を私は常に持つて居る。
   第四回 七月十一日見物、
 昨年九段目抜きの忠臣蔵を出して東京の素義連中からうんとお小言を食べた為か、此の度は一、二、五と七を半分抜いて九段目、打入りと通して出した。
 お客様の御注意は何でも承ります、などと表面甘い事は云ふものゝ、素人の云ふ事などは馬耳東風で、頑固、自尊の興業師の此の度の狂言の建て方は素直過ぎて笑止の感が深い。が何にしても結構な事である。
 三段目では門造の師直は昨年の栄三より敵役に使ふのを一興とする。紋十郎の判官は師匠の悪口の間真妙に平服して居るのはおかしい、一考を要する。
 義太夫の方で演る「御酒参つた」の前に演る笑を、歌舞伎では言葉の後で演る。此れは先人研究家が誰も書いて居ないと思ふから特に付記して置く。菊五郎だと怒気をおしかくして、ふるへながらの笑が殺気立つて見物に通つて美事である。
 裏門は栄三の勘平、文五郎のお軽、共に哀艶切実な人形美を見せる。此度の文五郎ではお軽とお政が代表的な結構さである。あの段切れの人形独特の足拍子も、二人の中人欠けても、梅幸に死なれた羽左衛門、菊次郎に死なれた菊五郎になるのかと思ふと、亦しても、文楽の愛好者は別れに行つてやつて望しい様な気がする。
 四段目では贔屓の大隅、亦してもエラーの様な気がする、「もの也」など甘くない。
 此の場の人形は面白くない、玉蔵の石堂など立役らしくない感がある。
 小兵吉の郷右衛門は忠臣蔵人形中の傑作で、此人が不遇の内に造詣の深さを見せる役として感服するが、花献上の座る位置の九太夫の下手、郷右衛門の上手はおかしいと思ふ。「後に続いて斧九太夫」の文章は出て来る説明の文章で、座席の説明では無いと思ふが如何。
 唯、人形の力弥は由良之助の小刀を持ちそへたり、段切れに顔世の手を引いたり色々の仕事を演る、使ふ栄三郎亦真妙に使つて居る。霞ヶ関の段は観覧税である。時間節約の為なら食つてしまふに限る。我等は何時も此処の太夫に気の毒でたまらない。
 栄三も老齢である。あのくだらない引込みは休ませておきたく思ふ。
 六段目身売りの段。
 誰のを聴いても勘平が来てから少しもシンミリしない。婆の「指切れ髪切れ」のホロリとする言葉も甘く語つたのを聞かない。
 古靱太夫の六段目。三宅周太郎氏は、古靱太夫の四段目は買つてるが六段目は買つて居ない。が私は古靱の六ツ目は四ツ目と共に非常な傑作だと前から思つて居る。
 忠臣蔵が出ると何処をあてがはれても得をするのが古靱太夫で、土佐太夫と津太夫は何処をあてがはれても得色が出ない様な気が、私は昔からして居る、(但し土佐のお軽は結構)今度の六ツ目などは非常に結構だと思ふ。
 おかやの「あんまりあきれて」や「殺された事じやまで」勘平の「はつとばかりに」や「熱湯の汗を流し」郷右衛門の「情けなきは」と「理を責むれば」此の六箇所が此の度の小新演出と云ひ得ると思ふ。
 七段目は大省略で語る太夫に気の毒なので評なし。
 人形も由良助はいゝ所を省略されてしまつて気の毒である。
 平右衛門は九太夫を差し上げた人形独特の大時代な見得が面白いが、赤い裏地の見えるのは目ざわりで困る。其れと玉幸の平右衛門は義太夫の文句より仕草が早過る様に思ふ。
 八段目は義太夫道行中の主座を占めるものの一つ、何としても此の太棹節の合奏を聞く事は愉快至極である。
 此処で私は一説がある。新左衛門のやうな文楽中最もいゝ音色だが一寸少音である人を連れ弾のタテに使ふ事は、聴く方の側から見ると不経済の様な気がしないでもない。
 然しこれは若手のお稽古台としてと云ふ建前からならば其れは亦別問題である。
 津太夫の九段目。
 此の人の九段目を其の沼津の如く、最も津太夫の長所の出る語り物と云ふならば、一寸私は反対である。私ども素人でも其の至難中の至難とする前半の約束、後半の語り場、其の口伝は色々に聞かされて居る。然し、二代、三代の越路、大隅さへ聞かぬものが、其の能書だけならべても仕方がない。
 大正十二年秋、越路急休による初役以来、最も多く此れを上演して居る櫓下の、此の度の東京に於ける一生一代を聞くべく私は日参した。特に其の千秋楽は、初日に大出来の理由で知遇に報ゆる為か近江清華氏を招待したさうである。私は此れを芸界の一佳話として読者に紹介したい。
 芸人は己れの芸を知る人の為に総てを捧げて欵しい。津太夫の今日ある誠に此の善き芸術感に因をなしてる為であらふ
 御座なりばかり云つて、祝儀ばかりあてにする芸人の末路程不便なものはない。
 此の度は本蔵はもう玉次郎には使へないと見へる、寂しい事である。
 九段目の段切れは歌舞伎がめちや〳〵に冒涜して居る為か人形浄瑠璃の其れは美しい。文五郎の戸無瀬が本蔵の落入りに姿を消す事も私は老齢故に深く其れを責めない。
 然しこれは七十一歳の高齢で常に幕ごと出ず張りに大役を持つてる為にである。
 決して偉い人形使ひは其の特権が有ると云ふ為では断じてない。
 文楽座付の老人連よ。身体を大切に来年も、一人も欠けず上京する様に、私は心に祈つて一人寂しく八王子行の終電車に乗つた。
 今にも降り出しそうな、星一つ見えない空合だつた。