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【 『忠九』不上演是非 -順不同- 】
(2023.01.19)
提供者:ね太郎
太棹 87号 17ページ
『忠九』不上演是非 -順不同-
額田六福
非常に楽みにしてゐたんですが、俗事繁雑を極めて遂に見物出来ませんでした。従つて貴問に御返事する資格の一部を欠いてゐる様です、但し、『通し』と称しても、今頃では原作全部を演る事は殆どありません。目に角を立てゝ怒つてみる程の気がしません。
たゞこの九段目に人形がないと本当の味の出憎い狂言丈けに、惜しかつたと思ひます。
白石實三
ほんとうに画龍の点晴なきものと存じます。
岡鬼太郎
阪地にては摂津、大隅、東京にては綾瀬、生駒の没後、山科の語れる太夫はありません。名人上手を以て自他共に許す人にしても、九段目をと望まれて「まだ存じません」と辞退するのは、決して恥にならぬとさへ昔から言はれてゐる斯道の重い語り物、今の世にその九段目を語る人のあるのが寧ろ怖ろしい事です。
高安月郊
忠臣蔵は竹田出雲の作となつてゐるが、実際筆を執つたのは九段目で、四段目は松洛、六段目は千柳である。それに近頃は歌舞伎でも浄瑠璃でも多く茶屋場までゞ、山科は稀に一段だけ出す様になつたが、外の場を省いてもあの場を出さずば出雲の為にも、全体の為にも済まぬ訳である。筋の上には不合理の点はあるが、それはあれに限らず、節にも見た目にも佳所はあり、初演には一番好評を博した。今でも津太夫、古靱太夫どちらにも相当であるから、今後は前の方を略しても是非彼所まで出さずば、古典劇同様そんな事から衰への一端になるに違ひない。
笹川臨風
芝居の「忠臣藏」通しにも、九段目を抜かすことが有る様です。これは無論時間の都合からと思はれます、人形芝居は芝居でやらない場も見せてくれるので、大いに発明する所もありますから、既に通しと名乗つた上は上演するのが至当と存じます。然し相当に時間も要します以上、割愛するのも亦已むを得ないかも知れません。
一体文楽の出し物も、文楽の云ひ分は立たないので、松竹で勝手に極めることになつてゐるのは、文楽関係者から常た聞いて居るところです。従つて或場面の抜き差しも恐らく文楽一座の意志ではなくして、松竹の営業方針から出てゐるだらうと思ひます、彦山権現などは文楽座から屡々出すのですが、松竹は之を取上げず常に、「先代萩」「寺子屋」「紙治」のやうな世間向きのする物ばかり上演させてゐます。既に営業方針とあらば文楽は唯々諾々するより外はありません、九段目抜きも恐らく営業方針から来てゐるのではありますまいか。無論時間関係のあることは争はれません、ですから之を以て文楽を責むるのは酷に失するのではありますまいか。
徳田秋声
貴命の如く、忠臣蔵の通しを出す以上、九段目を除くのは無意味だと考へます。私見では九段目を津太夫が語るべきだと思ひます。一体に東京に於ける最近の出し物は余り安価すぎて、だれてゐる様です。たとへば「良弁杉」のやうなものは緞帳芝居の出し物で、ドラマとしては低級なものですが,よくあれを出すのは何ういふ訳でせうか。私も津太夫の九段目を聞きたいと思つたのですが、失望しました。尤も津太夫は九段目に限つた事でもありませんけれど、文楽も人形を持つて来るやうになつてからは、古典的な好い物をやらなくなつてしまつたやうです。
伊原青々園
真に浄瑠璃を味ふ人からいへば、九段目を抜いたるは眼目を取去りたるも同然と存じ候、しかし一般の客からいへば忠臣蔵の通しを演ずる以上は第一に筋の面白みを味ふことに重きを置くべく候、そのために歌舞伎で七段目どまりにすると同じやうにする次第と存候。
尚その上に九段目を加へれば申分なけれど、忠臣蔵だけでは一般の客が飽きる故、別のものを演ずるのも興行政策として無理なきか、要するに真の好き人と一般の客と両天秤をかけるゆゑ、斯くの如き不都合が生ずるにて候。これは浄瑠璃のみならず歌舞伎も同様に候。何とかしてタマには真の好き人ばかりのための興行こそ望ましく候。
長谷川伸 宅
御手紙拝受致し候へど主人事只今旅行中にて帰京は月末の予定に候間、締切日まで間に合ひ兼ねる事と存候。
安部豊
忠臣蔵を出して日延べをすると聞いた際、九段目を誰が語るであらう、津か土佐か古靱かと一番の楽しみにしてゐたのでありますが、後に八段目までと知つて非常に力を落しました。近来本格の九段目を聴き得ないので、今度こそはと大いに期待をかけたのであります。殊に忠臣蔵通しと銘打つ以上は、是非九段目を出すべきもので、之を除くは恰も強き心臓を取去るのと同じであります。勿論二時間余もかゝるために締出しに合つたのでせうが、それならあんな詰らない二段目あたりを喰つて了へばよさそうなもの。何としても九段目を出さなかつたことは大失態で、吾等は甚だ不満に絶えないのであります。
小寺融吉
先日は失礼しました、又、雑誌を有難う存じました。さて御尋ねの件ですが、九段目のない忠臣蔵は首のない忠臣蔵と云ふ見方は一応尤もですが、それは云はば古い見方です、今の時世から云へば排斥されなければなりません、そんな事を云つてるから義太夫は衰へ、文楽座は政府の補助金が必要になるのですね、歌舞伎では以前から七段目までの忠臣蔵をやり、又九段目だけを中幕にやつてゐるではありませんか、これに対して苦情を云ふ人は多少はゐても一般見物は何とも思ひはしません、又、かういふ事も考へられる、現在の津太夫以上の例へば越路太夫のやうな人が、一人なり二人なり三人なりゐれば現在の東京人を前に廻して九段目を入れた忠臣蔵がやれるのではないか。越路太夫だけの(実力の事は小生には分らぬが)人気が津太夫にあれば、津太夫の九段目といふので、それを御目あての客が殺到するのではないでせうか、九段目ヌキの忠臣蔵を出す松竹に対して一部の人から云ひ分があるのなら、松竹の方でも、云ひ分があるのではないでせうか、然し問題は大多数のお客が、どういふ態度を示すかであります。
山崎紫紅
津太夫といふ人が有るのにどうした事かと云へる。古靱あたりにやらせて見たらよかつたと思ふ、紋十郎に勘平を遣はせるより面白かつたらう。土佐太夫に勘平腹切を語らせたのは不服であつた、五回までよいものを聞いたあと、これでもうあの太夫に親しまれないといふ最後に六段目を持つて来られたのは自他共に損の卦ではなかつたか。忠臣蔵の通しも二段目あたりは一般は喜んで居ました、とにかく時間のないことだけが九段目抜きになつた一つの云分けであらう。
宮尾しげを
近頃の松竹の立方は何でも首だけあつて足のない、足のあつて首のない芝居を見せるのが特徴です。いつも乍らですが文楽東上といふと野崎、太十、堀川、酒屋等といふのがお定り、もつとも今度のは土佐の隠退があるので例外とみても満足に聞き見るものがない、私の知人の老人だが、これはこの前聞きましたからと云ふ調子で、此間の明治座へは二度しか聞きに行つてない、即ち立方が営業本位であつて、無い事を示してゐる国性爺の如きものや、二十四孝の通しでも出せばいゝが、国性爺は人形の道具がかゝると云ふから東京では出さないと言ふ、いゝ品物だが金が掛るといふわけである、さういふ品物は、二度替りを、一回にして、第一回、第二回に居据りで見せてもいゝではないかと思ふ。第一回は中程へ、第二回は終りに立てれば、第一回の人は見たくなくば帰るであらう。さういふ意味で、忠臣蔵でも、目新しい場面が出たので、九段目が出なくなつたのであらうから、第二回へ九段目以後や、他の物赤垣でも神崎でもつけて出せばよかつたと思ふ。松竹の文楽に対する狂言立方の研究をして貰ひたい事は万人の声である事を力説する。
三宅孤軒
忠臣藏は「四段目」まで見たゞけですからお答ひ出来ません。
前田曙山
画龍に点晴を欠いて、盲蛇に堕する事無くんぱ、通し狂言に九段目を略するも又可なるかと存じ候。由来独参湯の処方、其主要なる一味を除いて、果して覿面の効果あるや否やを知らず候。
伊藤痴遊
御照会の一条は実に論外の沙汰也、僕は一日を費して行く気にはなれず、中止致し候程也。
従て土佐引退の記念としては、いよいよ以て奇怪千万の儀と存候
此以上申上る必要なしと存候
本山荻舟
好むと好まないとに拘らす、営利興行である以上、時の景気に引きずられるのはやむを得ず、殊に興行主たる松竹が、歌舞伎劇によつて擡頭し、現経営の主要体としてゐる限り、歌舞伎風の狂言立方に接近せしめられることも、また実際問題としてやむを得ないことだと思ふ。勿論松竹のその方針をよろしといふにはあらず、張交ぜ屏風のやうな立方は、歌舞伎の世界ですら、苦々しいことなのだから、況んや文楽に於てをやといふことになるのは当然だけれど、現在歌舞伎の方でも『忠臣蔵』の通しといひながら、九段目の出ないのは当然の如くなつてゐる今日、この弊風を打破するには、文楽が(一)松竹の羈絆を脱するか(二)松竹をリードするほどの勢力を養ふかの外あるまい。私達はもう匙を投げてゐるといつてよい。しかし、どうかして救へるものならば、愛好者並に支持者が、贔屓の引倒しでなく、先づ真に自覚して、擁護も鞭撻すると同時に、文楽の当事者自身としても、真に自覚奮勇して、少くとも末節に拘泥する固陋性からは、脱却しなければならない。一例を挙げれば、どんな太夫でも良心的でさへあれば、歌舞伎の床を勤めても差支へないし、経済的に恵まれることの薄い人形遣ひは、たとへ流派の異つた演芸の舞台へも、進んで出るべきだと思ふ。それが自分の芸術を、一般に弘布する所以であり、真に優れた芸術ならば、自然に斯界全体の勢力を、扶植する機縁にもなるのではないか。一歩でも文楽を離れたら、直ちに退転するやうな芸術なら、惜くもなければ大した芸術でもない。
佐藤惣之助
御説の如く九段目なき忠臣蔵をいかにして通して聴き得べきや、江戸ツ児は気が短いから四五段聴かしたらよろしいやろといふ風に仕掛けられては果して愉しみに聴きにゆくは馬鹿者に候これでは如何にも阿呆らしうて耳の皮がよぢれ申可候。