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【 安藤鶴夫 「人形」の精神に就て--芝居雑記-- 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 66号 2ページ
「人形」の精神に就て--芝居雑記--
                     安藤鶴夫
 --「堪へかねて駈出る合邦、娘が髪引ツ掴みぐつと差込む氷の切先」これは怒りに堪へかねた合邦が、十年以来蚤一匹殺さぬ手で、娘の玉手を殺さうといふ、「摂州合邦辻」下の巻、最高頂の場面である。
 合邦が栄三、玉手が文五郎、明治座の八月、むし暑い晩のことである。
 この合邦が、身も世もなく怒りに震へて述懐してゐる間、玉手が立身で刺されて苦しんでゐるのだが、文五郎は、後の納戸の暖簾をあけて、黒衣を着た弟子に、大きな団扇で煽がしてゐる。
 この玉手の人形の手伝ひ、足は弟子の文之助、左遣ひは「しんたる夜の道」から「引立てく無理やりに納戸へ」迄の前半が政亀、後半が玉米である。この玉米はひどい近眼だが、あれ程、一念籠めて刺されたものが、手負ひになつて、よくもまあかうも動けるものだと呆れ返る程、左右前後に動き乍ら、文五郎はわざ〳〵顔を向けて何度も、この手伝ひに文句をいつてゐる。
 玉手が本心に打明けた後、鮑の貝に肝臓の生血を取つて、俊徳丸に飲まさうといふ件で、合邦が憎いと思った張合ひだからこそ、切りも突きも出來たのだが、今はもう心底可愛い娘を、どうして酷しくそんなことが出来るものかと、奴の入平と譲り合ひ、とゞ、玉手が、「エヽ未練な用捨」となる迄、文五郎は舞台にゐない。黒衣を着た人形遣ひが、玉手の胴に右手を入れて、代りに遣つてゐるのである。
 この二の替り、「酒屋」で、文五郎のお園。段切り近く、心中に行く三勝と半七が、格子の外迄別れにきての愁嘆で、こゝは、当然舞台下手の二人に譲つてしまふ筈の場面だが、抱えたおつうを、宗岸や半兵衛に見せて廻つたり、最後に姑の傍へ坐つて、床の三味線の調子に合はせて、おつうの人形をぴよこ〳〵と動かしてゐる。その動かし方といふものは、恰度その三味線の節が、チャリ風に拍子をつけていへば、さう聞えるのだが、まるで文五郎は「はツどつこいどつこいどつこいなツと」といふ風に、調子をとつて動かしてゐた。
 --昭和六年七月、おなじ明治座に、土佐太夫、吉兵衛で「酒屋」が出た時、私は文五郎のお園の型を取つた。近頃、大歌舞伎では「酒屋」を全然上演しないので、これは一寸他に必要なことがあつたので、四日間通ひ詰めて、「子故にくらむ黄昏時」のお園の出から、段切り迄、微細にその型をノートに取つた。が、驚いた。ある件では、毎日文五郎は全然違つた型をする。例へば段切りだが、ある時は「歎きにうづむ我家の内」といふ文句で、親達を残した侭、づん〳〵正面の納戸へ入つてしまふ。さうかと思ふと、姑におつうを見せ乍らあやしてゐて、そのまゝ幕になつたり、おつうを抱いて、容席に後向きで立身、幕の降りきる時分に腰を落してみたり、その他、これも三味線の調子に合はせて、おつうを立たせて歩かしてみたり、仕たい放題のことをしてゐる。いつたい三勝とか半七には、人形遣ひでも若手が廻るので、舞台正面で文五郎ぐらゐの位置のものが、かう迄ちよこまかと小刀細工をしてみせては、自然格子外の二人より、お園の方に気をとられてしまふ。かういふ件は、歌舞伎と違つて、余計な動きなどせずに、全然表の三勝と半七に舞台を譲つてしまつて、人形は不動でゐるべきで、そこに歌舞伎でない人形本来の面白さがある筈である。ところが、文五郎の所謂組見、お札を売つた日に限つて、必ず文五郎のお園は幕切れ迄舞台にゐて、例の通りちよこまかと小細工をしてゐる。人形の座頭である栄三といふ、正しい人形遣ひが合邦に廻つて、玉手を遣ふ場合でさへ、文五郎は以上のやうに勝手気侭なことをしてゐるのだ。況てこの「酒屋」で、玉次郎とか小兵吉の宗岸、玉松とか門造の半兵衛、それに玉七の女房では、幕切れ迄のほんの二三分の間が待ちきれずに、づん〳〵一人で納戸へ入つてしまふぐらゐの不貞振りは、文五郎にとつては当然なことなのであらう。
 この七月から八月へかけて十日間、歌舞伎座で打つた文楽座の引越興行が、暑さの加減で避暑に行きそびれた連中に、吉例のお札を無理にも押しつけて売つた結果、千秋楽には、思ひもかけない当り祝ひ迄出た。その上景気の後で、恰度浪花節と新国劇との間に、五日間、小屋があくといふ明治座へ、芸題二回替りで、例の松竹の一つ覚え、図に乗つてやつた太夫三味線の中堅興行のうち、以上はその第一回の「合邦」と、二の替りの「酒屋」に就てだけの、文五郎の玉手とお園のほんの一例を取りあげたものである。
 いつたら際限がない。敢て文五郎の芸そのものに就てはこゝでいふまい。
 料簡である。芸人の料簡である。これ程人を嘗めた、これ程人を馬鹿にした芸人は、乞食芸の浪花節にも万歳の芸人にもゐまい。
 日本演劇に於て、最も尊重され、その保存にさま〴〵な考慮を払はれてゐる人形浄瑠璃といふ、この厳粛な芸術に於てこれ程迄に、凡そ根拠のない、出たとこ勝負の軽薄な人形遣ひが、別書出しといふ、座頭の栄三と殆ど違ひのない位置にゐるのだから、言語道断、全く憎みても余りある存在といふべきである。
 而も、この文五郎が、一度下手の小幕をあけて出てくると、観客は一斉に拍手をする。だいいち一段のうちに、あゝ迄何度もやるものではないさうだが、はツと掛声をして後向きの型をすると、観客は、てもなく、なんて巧いんだらうと歎声をあげる--。
 荒ものゝ人形ならとにかく、女の人形を遣つてゐて、文五郎、紋十郎のやうに、いち〳〵掛声を掛けるのは、人形浄瑠璃には断じて許されないことなのである。芸力の不足のために、掛声をして観客の注意を牽き、無暗に後向きの型をみせては、人形遣ひ自身が、右手を自分の腰にやつて見得をする。これでは人形を見せるといふより、寧ろ人形遣ひ自身を見せるといふことに他ならない。
 いつたい、東京の松竹社長が、人形の出遣ひが好きで、始めから終り迄、ほんの一寸した端場ぐらゐを除いて、全部出遣ひにさせる。人形遣ひの値打ちは、あの黒い頭巾に顔を隠し、黒衣を着て、人形遣ひ自身を、その中に消して遣ふところに尊い価値があるのだ。
 あの人形遣ひの黒衣は、腰のところを赤い紐で結んでゐたものだが、栄三が、赤い色では、観客に目立つて邪魔になるといふので、現在のやうに、その紐も全部黒に改められたのである。これもほんの余談的な一例だが、栄三が如何に正しい精神の人形遣ひであるかは解らう。派手な肩衣をつけて、楽屋で油を塗つたり、顔にクリームをつけたりして、芸以外の余計な神経を使ふ出遣ひが、仮りに道行とか景事ものなら知らず、どれだけ舞台にさま〴〵な邪魔ものを、含む結果となるかはいふを俟つまい。元来、日本の芝居では、黒は無を意味する約束がある。栄三の黒衣改革の精神は、すぐさま以て人形遣ひが、舞台に、人形に、少しでも邪魔にならないやうにといふ、人形浄瑠璃本来の正しい精神から行はれたといふことが出来る。この一事からでも、女の人形遣ひの掛声が、如何に邪道であるかは、当然理解される筈である。
 この文五郎や紋十郎に拍手を送り、感歎を惜しまない観客の眼は。団栗だと嘲笑されてもそれは止むを得ないことである。
 文五郎の弟子に、文作といふ若い人形遣ひがある。おなじ「合邦」で浅香姫を遣つてゐたが、その二日目に、人形の右手に手拭を持つて、自分の顔を拭いた。人形の右手には、恰度手首のところに指皮と称する皮がついてゐて、こゝに人形遣ひの右手の人差指をいれて、物を持つ仕掛になつてゐるのだが、つまり、この浅香姫は、正面を向いて、少し俯向き加減にしてゐ乍ら、突然、その浅香姫を遣つてゐる人形遣ひの顔を、突拍子もなく、浅春姫の人形の右手が拭いたわけになるのである。人形遣ひが、舞台で汗を拭くにしても、栄三などは殆ど気のつかないうちに、急いで人形の陰に自分の顔を隠すやうにして拭いてゐる。而も、その遣つてゐる人形は、少しも体がくづれない。国宝人形浄瑠璃を如何に保存すべきかなどといつてゐる現在、若手の人形遣ひに、かういふ恐るべきバチルスがゐるのだ。
 おなじく文五郎の弟子に、人気者の紋十郎がゐる。歌舞伎座の第一回の追出しに「五条橋」が出た。紋十郎が牛若で、二日目からは是非花道から出してくれと、楽屋の主任に頼んださうであるが、これは三日とも花道を使はないで、舞台下手から出てきてゐた。その後、「戻橋」が出て、紋十郎の若菜である。が、たうとう思ひが叶つて花道を使つた。即ち若菜の出で、花道にぱつとライトが入ると、せり出しである。見現しになつて、鬼になり、頭の毛を振り乍ら、これが綱と一緒に御叮嚀にも、舞台前面のシゲ桟を通り越して、花道の七三までやつてくる。
 花道を使ふなではない。可成以前から人形でも花道の使はれてゐる例はある。近い例が、去年の「勧進帳」で、栄三の難度の引込みに、或は「千本桜」の道行で、狐忠信の出に、おなじく栄三が狐を遣つて花道から出る。が弁慶は、栄三の芸の迫力によつて、見事この花道の引込みを生かしたのである、狐は栄三以前からも、花道から出るといふ前例もある。が、牛若が、どういふわけで、花道から出なければならないのであらう?そこには、たゞ紋十郎が、自分に箔をつけたいばかりの、人気を狙つたさもしい芸人の乞食根性ばかりしかないのだ。
 殊に、今度「累」の土橋を見て、しみ〴〵さう思つたことだが、この土橋は本手摺といふ,歌舞伎の所謂二重の位置が土手になつてゐて。人形はこの土手から前へは観客に近づかない。これは昭和二年、京都の南庭で見た時もさう思つたが、じつに人形に魅力があつた。人形の頭は、傍で見たのでは決して魅力のないもので、舞台で遠く離れてゐて、始めて美しく生き〳〵とした魅力が感じられるものである。花道を使ふのが邪道であるといふことは、伝統にないから、などといふことではなく、昔からの人形遣ひが、既にこの人形のいはゞ欠点を知つてゐて、殊更、観客に近づかないやうにしてゐたのだと思ふ。かういふ点、有繋古人は自らを知つてゐる。
 伝統の尊い所以は、幾時代かの永い間に、洗練に洗練を加へた挙句、出来上つた一つの掟であるからで、敢て人形浄瑠璃といはず、何にせよその本来のものを深く考へる時、伝統は決して空虚なものでない筈だ。
 その人形の魅力を破壊して迄、殊更花道を使ひたがるといふ紋十郎の料簡が、人形浄瑠璃を滅亡させるものでなくてなんであらう。
 文五郎が、弟子の紋十郎に、時に見兼て注意をすると、これが受けるのだから仕様がないといふさうである。眞實の価値でない、愚昧なる観客による空虚な人気といふものが、どこ迄、芸道を毒するのであらうか。
 この「戻橋」の時、日本大学の学生が、紋十郎の後援会といふものやつてゐた。尤も、法政の文楽研究会でも、去年紋十郎に人形の講演をやらせたらしいから、あんまり口巾つたいことはいへないが。
 紋十郎の弟子に、紋司といふ人形遣ひがゐる。去年歌舞伎座で「御殿」が出て、文五郎の政岡に、千松をこの紋司が遣った。
 政岡が鶴千代を励ますために、我子のことを「千松などは叶はぬく」といふ件で、下手に座つてゐる千松が、悔しがつて右手を目ににあてゝ、顔をゆすつて泣いた。
 雀の唄が終つて、狆が出る。政岡がその狆に、毒味をさせるために、おすべりの御膳を食べさせると、鶴喜代が羨ましがつて「乳母おりやアノ狆になりたい」といふ、政岡が悲しさを堪へかねて、お家騒動の述懐をするうち、千松が狆を膝の上に抱きあげる。こゝ迄はいゝ。ところがこの千松、狆の口についてゐる飯粒を取つちやあ、ちよこ〳〵食べ始めたものである。
 つい先刻「お腹が空いてひもじう無い」だの、「名に負ふ武士の胤なりき」などといつてゐる床の土佐太夫こそいゝ面の皮である?何処の世界に狆の口から飯粒を取つて食べる千松がある?嘗て私はかういふ千松を見たことがない。
 文楽座の人気者の頭に、ツメと称する人形の頭がある、歌舞伎でいふ「その他大勢」といふ役どこの人形で、このツメが屡々ちよこまかと、主要な人形の邪魔をして小煩いことがある。この紋司は、背が一寸片輪じみてちいさいので、黒衣を着てゐても、はつきり紋司の遣つてゐるのは解るのだが、主要な人形の動きを邪魔するツメの人形が、殆ど例外なくこの紋司である。最近のいゝ例が「妹背山」の竹雀の官女である。初日に余りこの官女がいゝ気になつてふざけるので、歌舞伎座の表から注意してきたといふ。団栗眼玉の張本人に迄、目に余つたのだから、如何にちよこまかと動いたかは解らう。
 以上は、ほんの思ひつくまゝの一例だが、文五郎を始め、紋十郎、文作、紋司といふ、この一統の流す害毒が、どれ程人形浄瑠璃にとつて、文楽座にとつて、恐るべきものであるかは、今度文楽座が東上した時、改めて正しい眼玉で、まつたうな精神で確められたいと思ふ。
 現在の、人形ばかりを中心にした文楽座の研究は、まさしく邪道である。人形浄瑠璃研究の九分通りは、その浄瑠璃にあるべき筈で、人形に眩惑されて、本来の義太夫を等閑に付してゐる研究態度は、毛唐が文楽座に対する関心と少しの変りもない。義太夫を理解することなしに、人形浄瑠璃研究などとは一場の笑話である。
 元来、人形は極く特殊なもの以外、技芸、ある程度に達した人形遣ひなら、誰が遣つたところで、さしたる違ひはないものである。況て、せい〴〵佐和利の件ぐらゐで、あとは殆ど動ぎの限定されてゐる女の人形などに、研究などといふがものはないのだ。
 今度の「寺子屋」の松王で、栄三は今迄と違つた型をした。今迄は、首実検で松王が「ムウ、これや菅秀才の首討つたは」で、すぐ首桶の蓋を閉めたのを、今度は、玄蕃の「かくまうた科赦してくれる」で、始めて蓋をすることに改められてゐる。それまでぢいつと玄蕃の態度をみてゐるのだ。これは栄三の案である。なんといふ正しい案であらうか。松王の性根を理解した、実に正しい演出である。「首討つたは」で蓋を閉めては、まだ〳〵松王の性根にあざといものがある。首をその侭前に置いてゐて、それも決して殊更にではなく、玄蕃の態度をぢいつと目を引いて注意してゐる。玄蕃が贋首にのせられてから、始めて静に首桶の蓋をする。
 芸といふのは、飽迄、栄三のこの正しい精神を以てなされねばならない。
 誰が遣つてもたいした違ひのないといふのは、その人形の型に就ていふことで、「いゝ型をする」ぐらゐなら、人形遣ひにとつて、先づ一寸した稽古で出来るのである。
 いゝ人形遣ひとは、決していゝ型ばかりをする人形遣ひではない。要はその人形を遣ふ精神にある。
 人形浄瑠璃に関心を持ち、少しでもその保存を思ふならば、まさしくこの点をこそ注意して、改めて文楽座を見直さねばならない。(八月)--『法政文学昭和九年十一月号掲載』
 
 (後記)この一文は、去年「法政文学」の爲為に書いたものであります。
 近頃、各大学に、人形浄瑠璃の研究が盛になりましたが、それは殆ど人形だけに対する魅力からなので、大変心細くもなりましたし、また石割松太郎氏などから、東京の連中は「団栗眼玉」だ、「椎茸耳」だと、軽蔑されてゐる事を、慨歎して、この一文を草した次第であります。
 「東京は」と限られる事は、僕の江戸ツ児魂が許しません。団栗眼玉や椎茸耳は決して東京ばかりとは限られません。都合のいゝ時ばかり本場と称してゐる大阪で、文楽座がどれだけ対遇をされてゐるか。これ程に、この立派な芸を疲弊させ、名人も生れさせないやうにしてしまつたのは、将に本場の大阪の罪で、団栗眼玉と椎茸耳の大親玉は、実に大阪に他なりません。が、こゝで落語の「祇園会」みたいな真似は止めませう。
 要は、もう一度、はツきり文楽座を見直して頂きたい事で、正しい芸には心から拍手を、正しくない芸には嘲笑を、そして飽迄正しい芸人に、変な僻みを起させず、素直に真つたうに育てゝゆく事を、僕はもう一度いひたいと思ひます。
 今こそ、空虚でない、人形浄瑠璃の真の価値値を、はツきり掴む時ではないでせうか。(昭和十年七月末)