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【 名士義太夫観 】

(2023.01.18)
提供者:ね太郎
 太棹 1号 8ページ
名士義太夫観(受信順)
 
一、お聴きになつた義太夫の御感想。
一、繊細のもの(例ば紙治の如き)と雄大のもの(太十の如き)と何れが御好きですか。
二、御聴きになつた折の思出。
 
   近松秋江
 私共中国地方では、義太夫と申さず、ただ単に浄瑠璃と呼びならはしてゐました。その浄瑠璃は私にとりて、ほとんどクラドルソング、揺籠歌でありました。私の父は、私が七八歳の頃宵のうちから蚊帳の中に入つて寝てゐますと、その蚊帳の外で夕涼みの席で、よく浄瑠璃を稽古してゐたのを記憶してゐます。
 語り物は、政岡忠義、寺小屋などが得意であつたやうです。子供は子供に興味を持つもので、よく私の直ぐ上の兄などと「その菓子ほしいと、ひつ捉み……」などいつて笑ひながら、人の持つてゐる菓子を不意に奪ひ取つて口の中に放り込みながら「その菓子ほしいと引捉み」といつて笑つてゐました。
 私の父の所によく来た、いはば父の子分のやうな人間で面白い人間がありました。その人間はよく阿漕を語つてゐました。
 「ひらと平との読み違え、ぬいで棄てたる笠じるし」といふところを、何度やり直してゐました。
 私も生活が楽な境涯であつたら、浄瑠璃-義太夫情調に浸つて老後を送りたいと思ひます。
 義太夫のある物を聴いてゐると、不思議に古の京阪が上品なものに思はれます。
 
   巖谷小波
一、何を聞いても一時間以上になると少々閉口致します。
二、私はやはり世話物の方が時代物より好きです。
三、第一と同じです。
 
  佐藤紅緑
一、義太夫は語るもので唄ふものでないと、昔から通人が言ふ、だが今日に於ては語る義太夫が衰へて唄ふ方が流行するだらう。散文が切詰めれば詩になり、詩は音楽になる。将来の義太夫はもつと楽音的に進まねばならぬ。
二、繊細と雄大の区別は当らず、近松の毛剃は雄大なれども亦繊細なり、要するに小生は双方を好む。近松翁の作は聞いて面白く、人形に合せ見て更らに面白い。竹田出雲の作は聞くよりも人形と並せ見る方が面白い。近松翁は詩味豊かで、竹田翁は舞台の実演に成功して居る、前者は音楽的であり、後者は「動き」を主とす。
三、文楽座の保存は日本現下の一大急務である。啻に文芸上の問題でない、国家の大問題である。
 
  馬場孤蝶
一、明治二十年頃から二十八年頃までが東京での女義太夫全盛期(従つて公衆的に云へば義太夫そのものゝ全盛期)であつた。摂津大掾の越路、及び大隅等が東京で大いに迎ひられたのも此の時代である。その時代の若い公衆に取つては、落語及び江戸音楽では余りに洒落過ぎてゐて、耳遠いものであつたので、義太夫が決して古い音楽(文学)として観られたのではなかつたのだ。而るに、今の大衆は言文一致の文章でなければ読めないのだから、かういふ大衆には、義太夫は余りに高等芸術過ぎてゐる。今の大衆には浪花節以上のものは解らない。又これを他の方面から観ると、何にしろ義太夫に表はれてゐる思想は、今日ではもう古いものだから、一般の若い人々の心を動すには足らぬ。つまり、義太夫(三味線音楽歌舞伎も同様)は少数の愛好者の間に保存されることになるであらう。
二、時代物より世話物の方を面白しと思ふ。好んで聞くものは「新口」「吉田屋」「堀川」などなり。但し「太十」は三味線の手の雄渾なるを面白しと思ふ。
三、明治二十三、四年頃かと思ふが、摂津大掾(当時越路)を数回聴いたことがある。その時分の越路はもう幾分音量が減つてゐたといはれてゐたにも抱らず、実に美音であつた。「御殿」の「お末のわざ」以下のところの節廻しのよかつたことは今に忘れ得ない。「謙信館」も無論如何にも美しい語りであつた。その時越路の直ぐ前を語つた路太夫といふのがあつた。これは声量がなかつたに抱らず、言葉のところの実にうまい太夫であつた。此の太夫の「河庄」の語り方の全く写実的で面白かつたことは今も尚ほ耳底に残つてゐる。その時分綾瀬といふもう余程老年の太夫があつたが、この人はからだを少しも動かさず、見台を叩きなどは少しもしない非常に上品な語り口であつた、それが古風な上品な語り方といふのであつたらう。
 
   岡鬼太郎
 先日は遠路御来訪下され候処不在にて失礼仕候其後更に御手紙にて御問合せに接し候については早速御返事可差上筈の処微恙療養の為め豆相地方へ旅行昨夜帰宅仕候まゝ延引誠に恐入り候、偖御問合せの儀に候が小生が義太夫に興味を持ち候は大隅太夫世盛りの頃までにて其後は少しも聴きに参らず今更とかう申すべき資格も存じ寄りも無御座候まゝ乍折角御催しの上より御省き被下度右御返事旁々御願ひまで。
 
   白石実三
 私は幼時義太夫と常盤津をほんの少々稽古しましたが、学生時代は映画のない時代とて寄席は第一の娯楽、二ヶ月にわたり連夜、ワラ店などへかよひました。昇之助の時代でしたが、朝重党でした。彼女の「柳」「堀川」など、又、彼女の二重眼蓋の媚を含んだ艶なしほらしい眼ざしなど、いまに耳目を去りません。
 好ましいもの非常に多う御座いますが、「柳」「堀川]「油屋おこん」「新口」好ましいものはいくらもあります。
 くらうと〳〵といひますが、東京の娘義太夫にも非常に取柄がありませう。とにかく、義太夫の一人で、日本のウオーカル、ミユーデイクとして、大な価値をおきたく思ひます。長唄などもよいでせうがローマンスの歌曲として、依然、義太夫に価値をおきたく思ひます。
 
   額田六福
 太棹発刊の由、我々デン党双手をあげて賛成、祝意を表します。
 当年の私の健康は義太夫によつて得たやうなものです。東京へ来てからは、いゝ師匠を知る機会がないので中止してゐます。
 聞いても語つても大時代物です、世話はどうもいけません。従つて女義太夫はごめん、やつぱり文楽がいゝです。
 
   伊原青々園
 拝復折角の御尋ねに候へども改めて申上げる事これなく候。
 
   畑耕一
 八九歳の頃文楽座で摂津大掾(その頃越路)の「堀川」をきいた事があります。子供心に繊美な声だなと思ひました。それから道頓堀のどこの座でしたか、仁左衛門(その頃我当)と、我童(その頃土之助)等の出語りで、子役ばかり「野崎」をやつた事がありました。語りよりも役者のお道楽と云ふ事と土之助の美しいので、女に人気のあつた事を今でも記憶してゐます。
 
   山崎紫紅
一、近来にては二代目越路がよく、その前にては綾翁になつた綾瀬太夫をよく聞いたものでした。うまい人のは面白く、まづい人のはつまらないといふだけのこと。
二、どちらもよい、区別をつけろといふのは無理。
三、古靱の安達三、殊に切りになつてあの調子で雄大に語つたのを思ひ出す。
 
   猿山儀三郎
一、父が義太夫が好きなものですから、幼い時から子守唄のやうにいろ〳〵なのを聞いてゐました。絵本太閤記「尼ケ崎の段」とか、傾城阿波の鳴門「順礼の段」とか、お染久松「野崎村の段」とか、梅の由兵衛迎ひの駕籠「聚楽町の段」とか……。父は玄人の域を越えてむしろ黒人だなぞとよく噂されました。そんなわけで、村芝居がかゝると、得意になつて出語をやつたものです。三味線も少しはやりました。これが父の唯一の道楽でした。
 父のおはこは「本朝二十四孝」と「義経千本桜」で、従つてこの二つは私の印象の最も深いものです。とまれ義太夫を聞くと、若かつた父と自分の少年がなつかしく思ひ出されてたまりません。
二、極く甘いものが好きで、伊達娘恋緋鹿子、明烏六花曙、娘景清八島日記、絵本太閣記、お染久松、おしゆん伝兵衛とかですが名家の方々のをあまり聞いてゐませんから、これから芳河士さんのお伴をして日本の郷土と人をよく歌つた義太夫を、大いに拝聴するつもりでをります。
 
   上司小剣
一、義太夫は一種の蔭芝居で蓄音器によつて音楽を聴くのと、稍〃似通つた点があります。いろ〳〵の人物の言葉が同一人の口により出るのは、活きた蓄音器ですが、最新の進歩した蓄音器から出る音楽ほどにうまくは行かないでも、とにかく人間がやるのですから、舞台に出てゐる人物(人形にしても)の想像はよくつきます。さうして、芝居と云ふものが見たくなくなつた今日でも、上手な義太夫なら聴いてもよいと云ふ気がしてゐます。しかし、新旧を通じて、劇といふものには、唾液を吐きかけたくもないと思ふまで、芝居見物の興味を失つた私は、近頃縁に繋がる義太夫にも、とかく気が向きません。ただ一ケ月に一度ぐらい蓄音器によつて、源太夫あたりを聴くことがあるくらゐです。聴いてゐると同じ蔭芝居でも、ラヂオドラマよりは義太夫の方が、さすがにズツトよい。
二、繊細なものゝ方が、概して好きです。
三、繊細なものではないが、呂昇の「日向島」を二十年も前に、本郷の若竹で徳田秋声君と一緒に聴いたのが、いつまでも耳に残つてゐます。其の後あまり誰れも語らぬものだから、でもありませうか。
 
   長谷川伸
一、紙治だつて、封切だつて、陣八だつて、太十だつて、節がある為に作を没分曉にされては耐らない。頭でわかつてゐて表現の出来ないのは、大分いゝ方として私は嫌はない。よき頭をよく表現してくれゝば、渋い物でも何でも、好きで極はめはしません。
二、少年の頃は古い〳〵播摩太夫の崇拝者でしたが、其の後はコレといふ崇拝者も持つ機縁がないので、随つてだれの何といふやうな好みもなく、思ひ出もありません。先の大隅太夫だけは極く部分的に耳の底のどこかに残つてゐて、外の人のを聴く時の邪魔になります。お尋ねとはみんな違つた事ばかりいふやうですが、ツレのはいるものは大抵、当分のジャズだつたと思ふやうに此頃なつてゐます。どうも義太夫の節、三味線は歴史的過去では確にジャズであつた。尠くとも同様の傾向を持つた事と思はれます。
 
   金森鉋瓜
一、私は、義太夫の文句が大好きで、いろ〳〵見て面白いと思つてゐますが、語りはあまり聞いたことがありませんから、別に感想といふ程のものはありません。ただ小清はうまいなアと思ったきりです。
二、私は酒屋のさはり、今頃は半七さん、の所が大好きです。三味線は、柳、朝顔、の大井川などです。
三、小清の壺阪は、今でも頭へ残つてゐます。
 
  小酒井不木
一、越路太夫の「酒屋」が耳に残て居ります。朝重が好きでした。呂昇もわるくありません。先日土佐太夫の「朝顔日記」をきいて、いゝと思ひました。
二、つや物を好みます。身体の虚弱なせいかも知れません。ことに「さわり」を好みます。
三、先代大隅太夫の「堀川」のレコードをかけて喜んで居りますが、摂津大掾や大隅太夫を若いうちにきいて置かなかつたことを残念に思ひます。先日名古屋の「文楽」を見て、何となく寂しい思ひが致しました。この方面の天才は出ないものでせうか。
 
   土田杏村
 もう殆ど一昔になりますが、私が京都へ来た頃、京都に人形浄瑠璃がありました。私はよくそれを見にいつたものです。もうそれもなくなつて、人形は文楽へ行かなければならなくなりましたが、(その文楽座も焼けましたが)斯うしたものをどうかして保存したいと思ひます。
 義太夫で聞くのも好きです。東京で学生生活をしてゐた頃、本郷の何と云ふ座ですか、大学の前の白山によつた方にある寄席で、朝重をきいたのが不思議に今記憶に浮んで来ます。
 繊細のものと雄大なものと、どちらが好きといふことはありません。そのときの自分の生活によります。
  
   高木斐川
一、我が国在来の耳に訴へる芸術としては、何と言つても義太夫が一番洗練されたものと思ひます。あの太棹の力のこもつた、巾と深みと、何とも言へない旨味のある、それでゐて随分複雑な音曲にしつくりはまつて、或は強く、或は弱く、或は細く、或は緩く、或は急に、義理と人情のもつれを、千変万化の節まはしで語り出されるとき、私は、いつも哀愁を含んだ歓喜に浸つて、言ひ知れぬ感激を覚えます。
二、繊細なものには繊細な味ひがあり、雄大なものには雄大な趣があつて、私は何れをも棄てることが出来ません。といふよりも、実はそんな風に分けて、好き嫌ひを定めたくないのです。浄瑠璃の質とその節の優れたものは、何んなものでも好きなのです。
三、私は学生時代から義太夫が好きでした。と言つて女義太夫を追ひまはすほどの「何うする連」になつた覚えもありませんが、女義では友之助や素行や綾之助や小土佐などはよく聞いたものでした。だが松太郎の糸で朝太夫の艶物を聞くのは殊に嬉しかつたものです。大阪の人達のは殆んど聞いたことがありません。それでは余り好きでもなく、義太夫を云々する資格がないと云はれるかも知れませんが、それは已むを得ません。自分では今でも義太夫に対して一種の愛着を感じてゐます。時々、胸のすつきりするやうないゝのが聞きたいと思ふほどです。ラヂオでは時々聞きますが、何うも寄席で聞くやうな訳にはゆかぬのが残念です。御計画は着々進めていただきたいものです。