東京義太夫席起原雑記(二)

 
○語物番組を摺出す事
明治十九年竹本越路太夫上京して茅場町宮松亭に興行(かゝり)し時、桃色紙に語物(かたりもの)の番組を印刷し裏に種々(いろ/\)の広告をも記載して客に出したるが抑なり

○高座を廻舞台となす事
人形芝居にては太夫の高座を廻舞台となす事従前之れあり既に新声舘なども廻舞台に拵らへあれど普通寄席の高座をブン廻しにせしは昨年改築せし浅草花川戸の東橋亭を以て嚆矢(はじめ)とす

○懐中物用心札の事
懐中物用心の札は其以前は疎末なる紙に書て場内の柱などに張出し是とて無き寄席もありしが明治廿九年の頃よりして各席一定の御用心と勘亭流に書たる下へ紙入、煙草入、時計、簪、銭入などを画きし立派なる絵比羅を張り出す事となれり
【義太夫雑誌 10:19】
 
東京義太夫席起原雑記(三) 花鳥庵主人
 
○五銭木戸銭の事
一昨二十七年の頃、綾瀬太夫、播磨太夫と分離して綾瀬は綾之助を助に置き女義太夫の一座と合せし時よりぞ五銭といふ木戸銭は始まりける、其後上京する太夫にして女太夫を前に据へる一座は総て五銭と相場が定まりたる如く弥生といひ路(みち)といひ調(しらべ)といひ何れも木戸銭は五銭なり

○女義太夫の束髪
高座に上る女義太夫の頭髪(かみ)は大低島田、銀杏返し、天神髷、桃割、三ツ輪、唐人髷、扨は水髪の櫛巻、鍋一の圓髷などもある中に往々和様折衷的の束髪を見る事あり、女太夫が束髪にて高座に上る事は実に去る明治廿二年に上京せし豊竹小緑に始まりしものなり

【義太夫雑誌 15:25】