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【 豊竹古靱太夫 偲ぶ奥津城(一)~(三) 】

(2023.03.13)
提供者:ね太郎
 浄瑠璃雑誌 308号-310号
 
 《掲載写真については冊子『偲ぶ奥津城』の当該頁を示した》
 
  偲ふ奥津城序の言葉
私等が日頃其名だけを聞てゐる斯道の大家名匠が永久に眠る奥津城を親しく探ね究めたいといふ心は斯の道の人が多分に持てるらるゝ事と思はれます。しかし広汎に渉る地域と全然不明であるといふ難所に打つかつて困惑するのは斯うした心を持つた人の誰しも嘗めた事と思ひます。二代三代と其の名跡を継承し伝統を踏んで来たわれ〳〵が其代々の名匠の霊を祀るは必然の事であらねばなりませぬ。初代竹本綱太夫師の墓碑は南地法善寺に在るよし聞き及びたるも遺跡荒廃して長年月間所在判明せず遺憾に堪へざりしに去ぬる昭和三年先代津太夫師の十七回忌法要の折不思議にも東壁隅に其遺跡を発見し得たるは寔に奇縁と申すべく早速修法要営み度き旨法善寺に通じたるも当時同墓地は区画整理されつゝある趣で今日に及び漸く改修致しました。偶々其の整理中に十数余の無縁碑出で甚しく壊れ居たるを克く調査せしに、計らずも初代豊竹鐘太夫、二代目吉田文三郎、富沢藤次郎諸師等先覚者の墓石なりしため是また修覆を加へ此程全くこれ等十三基の墓碑改修を終りました。幾星霜の間雨に曝され、風に荒され誰の眼にも映らず埋もれてゐたものが斯うして打揃ふて発見し得られたるは全く奇縁と申す外なく爰に謹んで英霊を祀る次第であります。これに就ては松竹の白井会長並びに兄弟子たる竹本津太夫及び鶴沢清六諸氏の御厚情を煩はしたことを深く感謝致します。
昭和六年十一月廿一日 南地法善寺に於て
   二代目豊竹古靱太夫
 
 
 俗名竹本綱太夫墓  安永五丙申年十月十三日死去 
 初代並に通称平野屋嘉助の文字は昭和六年竹本津太夫豊竹古靱太夫、鶴沢清六相寄り改修建立の時彫入れたるものなり
【写真 冊子四頁】
 
二代目故太夫の門人通称平野屋嘉助又は新路次嘉助綱太夫とも云へり宝暦十一辛巳正月廿日初日安部清明倭言葉の時始めて出座し引続き勤め宝暦十四年改元明和と成り同六年乙丑十二月近江源氏先陣館九ツ目切佐々木隠れ家の段を勤め大当り同八年妹脊山婦女庭訓芝六住家の段にて是又大評判、同九年改元安永と成る同二年癸巳二月より堀江市の側芝居にて摂州合邦辻下の巻を演じ復又大当り暫時此の座に出勤後道頓堀東の芝居へ出勤その後持病引籠り保養中同五年の秋但馬城の崎音声へ湯治に赴き養生の上一先帰阪の途中十月十三日死去す。別葉妹脊山婦女庭訓の番付は鶴沢又蔵出勤の際のものにて綱太夫死後百五十六年を経過せり。
 
 
俗名 鶴沢又蔵 釈教円 安永七年戊戌年六月十三日死去
【写真 冊子六頁】
 
鶴澤又蔵は初代鶴沢文蔵の門人にて大阪住人、初代又蔵なり宝暦の末より出座し明和の頃天晴立者と成り明和八年正月廿八日妹脊山婦女庭訓書卸しの際には師文蔵と共に節附に従事し大に名前を発揚せりと聞く死後百五十四年を経過せり
 (次の番付参照)
 
明和八年辛卯年正月二十八日、十三鐘絹掛柳妹脊山婦女庭訓五段続き竹本座書卸当時の太夫役割(別葉初代竹本綱太夫、鶴沢又蔵墓碑参看)
【写真 冊子八頁】
 
 
十三鐘絹掛柳妹脊山婦女庭訓書卸し当時の二枚続き番付、専ら人形の配役を記せるものなり
【写真 冊子九頁】
 
 
二代目竹本綱太夫墓 (明治十二年十月六代目竹本綱太夫建之)
【写真 冊子一〇頁】
 
二代目竹本網太夫は京都住竹本式太夫(通称酢屋)の門人にて京猪之熊仏光寺上る所に住居し津の国屋甚兵衛迚織物業を営み若き頃より浄瑠璃を好み素人にて天晴の語り手也後に四代目竹本紋太夫を名乗り安永二癸巳年八月道頓堀西の芝居新作島原千畳敷の時始めて阪地出座後知因有り二代目を襲名す、演物山箱根霊験躄仇討瀧の段は古今の大当りなりしといふ右の外数々の語り物みな好評なりし文化二年乙丑歳八月十六日五十八歳にて歿す(百二十九年前)此墓碑は六代目綱太夫が大阪法善寺境内に建てしものなるが京都の墓碑を知つての事か不明なり。
 
京都にある 二代目竹本綱太夫墓
【写真 冊子一二頁】
 
碑は京都北山真如堂鈴声山極楽寺と号する鐘楼横に門ありこゝを入て直ちに左側に土壁あり、猪飼敬所先生墓域の西南高壁下角に位し西南角に南面せるものこれなり、正面に法名最勝軒奏誉道雅禅定門、側面に辞世あり。
辞世
ゐの熊綱太夫
朝顔の身の あきをしる ゆうべかな
 
二代目竹本綱太夫得意物書卸し当時の箱根霊現躄仇討番付
【写真 冊子一三頁】
(前項墓碑写真説明書参看)
 
 
豊竹岡太夫墓
【写真 冊子一四頁】
 
此墓碑は六代目竹本網太夫の建設せしものにして六代目は一時豊竹岡太夫と師弟の縁を結びし事あり、依て其の師恩に報る為め明治十二年十月これを建立したるものなり。
法名並に逝去年月は不明
嘉永四年岡太夫江戸より帰阪し座摩社内芝居へ出勤す(当時番付写真参照)鶴沢清六とあるは初代にて座摩の芝居の時は岡太夫を弾き出勤せり
 
 
嘉永四年辛亥三月座摩社内芝居に於ける絵本大功記番付
【写真 冊子六頁】
尼ケ崎の段 豊竹綱太夫・三味線初代鶴沢清六
 
偲ぶ奥津城(二) 浄瑠璃雑誌309号
 豊竹古靱太夫
 
 
俗名 竹本上総太夫 声誉音弘覚睡信士 寛延三年四月十六日 歿
【写真 冊子一七頁】
 
播磨少掾門人にして大阪住居なり元文六年辛酉正月十四日初日伊豆院宣源氏鑑此  て出座竹本紋太夫と名乗り一段目口と五段目を持役す、(此年改元寛保と成り同三年延享と改元さる 其後漸次に出世 延享四年丁卯 月十三日初日にて東の芝居へ出勤し初代豊竹 太夫と改名す、此時役場は裾重紅梅服の上の巻切なり、寛延二年己巳十一月廿八日より源平布引瀧二段目切と三段目中を務め好評を受く後退座竹本座へ復帰し又竹本と改姓す上総太夫死去一ケ年以前の番付参照死去年代より当昭和六年迄百八十二年経過す。
 
 
寛延二年四月十八日竹本座に於て粟島譜嫁入雛形五段続
 書卸し当時の太夫役割
【写真 冊子一九頁】
 
 
同「粟島譜嫁入雛形」の二枚番付(人形役割の部)
【写真 冊子二〇頁】
 
 
俗名 竹本組太夫 法名 真山宗清信士 宝暦九己卯年閏七月十二日死去
【写真 冊子二一頁】
 
二世竹本政太夫の門人にて宝暦三癸酉歳五月愛護雅名歌勝鬨の時始めて竹本座に出づ通称大阪屋利助と云ふ人呼んで利助組太夫とて是初代也七年間勤続して死去、富沢藤治郎師と同じ(日高川入相花王)の番付参照
死去より昭和六年迄百七十三年を経過す
 
 
俗名 富沢藤治郎 法名 釈 浄栄信士 宝暦十二壬午五月二十一日死去
【写真 冊子二三頁】
 
富沢の祖哥仙の門人にて大阪住人なり、 享保 七年壬子十二月道頓堀伊藤出羽椽芝居に於ける前内裏島都遷の時始めて出座す爾来修行追々進み宝暦二年壬申十一月西の座にて伊達錦五十四郡(書卸し)を勤め立三絃野沢喜八郎退座に付同三年癸酉正月五日より同座にて愛護雅名歌勝鬨の時立三絃となり夫より引続出座同十一年辛巳十一月古戦場鐘掛松を勤めて退座し病気保養中段々重態に陥り遂に卒す
死去より昭和六年迄百七十年経過す出勤当時の番付
(日高川入相花王)参照
 
初代竹本祖太夫・富沢勝治郎墓碑参照
【写真 冊子二五頁】
 
 
俗名なじ伊事 鶴沢文治墓 法名 釈浄音 明和七庚寅十一月十二日卒(天明二年十二回忌建之)
【写真 冊子二六頁】
 
寛延二年頃より宝暦年間の立者也明和七年正月京都芝居名代都万太夫座本、扇谷和歌太夫座狂言忠孝大磯通しの時立三味線として出勤したるが後病気にて死去
死去年代より昭和六年迄百六十二年経過す
 
 
南無三宝正三之墓 安永二年二月十七日死去 行年四十四
 
法名 浄誉達雲とも亦当誉三居士ともある如何や 通称高砂屋平右衛門といふ
【写真 冊子二八頁】
 
道頓堀芝居茶屋和泉屋の忰幼名久太郎幼にして並木宗輔の門人となり初め和泉屋正三とて作者となり歌舞伎狂言作者の名人、生涯七十四番の狂菅に悉く其の妙手を現はす浪花道頓堀宗右衛門町に住し菓子商を営めりと云ふ、浄瑠璃著作も数多く師並木宗輔が一の谷嫩軍記を書き卸し中途にして斃るゝや其跡をつぎ宝暦二年十一月迄豊竹座々付作者となる、後又歌舞伎に替りて安永二年二月十七日和布苅神事を執筆中南無三宝と呶鳴つて瞑目せり
作者生活三十年と云ふ。死去より昭和六年迄百五十八年経過す
 
並木正三の画像
【写真 冊子二九頁】
天明五年三十三回忌記念出版(並木正三狂言 より採る)
 
 
偲ぶ奥津城(三) 豊竹古靱太夫 浄瑠璃雑誌310号
 
初代 豊竹鐘太夫墓 法名 理学院誠誉一音響利信士 安永八年乙未八月二十日歿す 行年五十歳
【写真 冊子三一頁】
 
筑前少掾の門弟にして大阪釣鐘町硯石屋なり浄瑠璃に熱心にて商業を捨て延享四年卯三月四日初日東の芝居万戸将軍唐土日記の時初めて出座し序中と道行五段目を勤む其後追々重き役を勤め好評を受け其語物の内特に記す可き外題中明和三年丙戌正月十四日より西の座へ出勒し本朝二十四孝三の口と四段目の切を勤め大歓迎され同年十月十六日より大平記忠臣講釈の道行(シテ)五ツ目掛合七ツ日切喜内住家の段を勤め是又好評、同六年己丑十二月九日より近江源氏先陣舘書卸し第二の奥と八冊目の切盛綱首実検の段を勤め古今稀なる大当り同七年庚寅五月二十二日より太平頭鍪飾七冊目の切と九ツ目掛合を勤む此時右浄瑠璃禁止を命ぜられ六月十六日限りにて中止す為に正本出ず如何なる文章の物なるや不詳なりしが後年当時の番付並に人形役割を見て考察するに現在の鎌倉三代記と同一なるものゝ如し故に鐘太夫の役割七ツ目切は現今上演の絹川村三浦別れの段なり(為参考上演当時番附写真二葉添付)【写真 冊子三四頁-三五頁】
斯の如く浄瑠璃中至難なる語り物数々相勤其都度大好評を得しは其の名音と非凡極りなき芸力を所有せし事確に推測し得5て尚ほ余りあり其後数々の名曲を上演し明和九年に改元あり安永元となる同年江戸へ赴き同二年同三年六月迄彼地に於て続いて出勤し同七月帰阪八月市の側へ出勤、十三日より花襷会稽褐布染、同四年乙未正日同所に於て軍術出口柳二の替りと外題も定まり居りしが去冬より病気にて当正月には段々重り遂に死去せらる惜む可き哉
逝去当年より昭和六年迄百五十年を経過す
浪速叢書に左の如き記述あり近江源氏太平頭鍪飾 五月廿二日初  六月十六日差留め被仰候夫故正本不出後年鎌倉三代記と云ふ古浄瑠璃の外題を用ひ今に翫ぶ都て此世界は差構有之南蛮鉄後藤目貫を義経腰越状とする類ひ多し
 
男徳斎墓 寛政九年丁巳閏七月十日 法命 釈宗円
【写真 冊子三六頁】
 
 
二代目政太夫の門弟にして通称堺屋さん右衛門と云ふ、宝暦九年九月大平記菊水之巻の時初めて出座初名竹本岬太夫と名乗る、夫れより修行怠りなく追々出世、同十二年七月竹本座に於て恋女房染分手綱(二度目上演)の時初代竹本咲太夫と改名し続いて追々出世立者となる、同十四年明和と改元さる、同三年本朝二十四孝書卸しの時に化物屋敷之段を勤めて評判好く同八年妹脊山書卸しの時序切と受領の段又々好評、後改元して安永となり天明と改元さる、同元年九月堀江西の芝居にて竹本男徳斎と改名す、同三年四月二十七日より竹本座西の芝居伊賀越道中双六書卸しの時沼津之段口半段と伏見の里の段を勤め同七月曾根崎の芝居を勤め後暫く休座す其の内病気にて遂に黄泉の客となる。尚死去年代より昭和六年迄百四十九年を経過す
 
(竹本男徳斎出勤当時の番付)
【写真 冊子三八頁】
 
 
前冠子嗣吉田文三郎 法名栄元院名誉顕道信士
寛政二年未十歳庚申戌十二月四日罹病而歿 寿五十有九
【写真 冊子三九頁】
 
此の吉田文三郎は二代目也、初代文三郎師の息にして幼名を八之助と云ふ、寛政元年八月興行仮名手本忠臣蔵書卸しの時父に ひ初めて吉田文吾と名乗出座力弥を勤む、栴檀は嫩より芳しと初舞台より名人の聞えあり続いて出勤後宝暦九年九月太平記菊水之巻上演の時三郎兵衛と改名す、同十年正月父文三郎死去の後座頭となる、同十一年十月興行に二代目吉田文三郎名跡を相続し真に操りの中興なりと云ふ後江戸へ下り同十三年帰阪西の座へ出勤す、後改元明和となる又江戸へ出勤暫く滞在同七年父の十三回忌に帰阪西の座へ再出勤、同九年改元安永となり同十年改元天明となる、同六年十月興行彦山権現の時病気欠勤共の後同九年改元寛政となる同二年十二月養生の効なく遂に死去す。
 
浪速叢書を見るに(手袋と云ふ物は冠子より初む、木偶の胴串に小さき釘ちてこれに絹裂の袋に葛粉を包み置き手の汗を去る故首を遣ふに自由なり)とあり、尚死去より当時年代昭和六年迄百四十九年を経過す
二代目吉田文三郎死去八年前道頓堀東の芝居へ出勤所作事 娘道成寺)出遣の番付写真参照
【写真 冊子四二頁】
 
吉田家元祖の初代吉田文三郎の墓を探して居るうちに初代のはなくてこゝに掲げた二代目吉田文三郎(息子)の墓が現はれました
初代吉田文三郎は宝暦十年庚辰正月十九日死去 法名 至誠院心誉回深宗雪居士と称す。
 
 
俗名豊竹礒太夫 法名 一宅院浄立信士 寛政四子歳三月二十日死去
【写真 冊子四三頁】
 
二代目此太夫の門弟にて通称庄吉と呼ぶ安永の初め頃より出て同六年正月狂言端手姿鎌倉文談の時より役場を預り追々出世す後ち改元あつて天明となる同七年十月道頓堀竹田の芝居にて大功艶書台の時竹本礒太夫にて勤め(初名不明)役豊竹姓を名乗る後寛政と改元其の後阿波の座へ出勤同三年冬帰阪し其後芝居出勤なく寛政四年子三月二十日卒す
尚死去年代より昭和六年迄百四十年を経過す