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【 石割松太郎 劇評の劇評 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
劇評の劇評
 石割松太郎
 演芸月刊 第二十四輯 pp 14-16 1931.6.1
 
 
 ◇暫くこの欄を休んだ。本誌の命数が尽きて、この号が終りだ。終りに再びこの欄の復活でもあるまいかと思つたが、--いはで已み難いので一筆最後にモノする。
 ◇大毎の高原慶三氏が、文楽座評で土佐太夫の「佐太村」を評して、「地合に少々難があるが」--と漫然と云つてゐる。私は高原氏の土佐太夫評に常に服さないものである。氏の他の太夫の評は、まだしも事々しく論らふ程でもないが、氏の土佐太夫評になると、馬鹿〳〵しく見当が違つて来るのは、どういふものだらうか。不思議だ!
 ◇今度の「桜丸切腹」もその一つだ。私の観方、聴き方は別項にあるから、読者は参照されたい。私の高原氏の評に服さないのは「地合に難がある」と難じ、その代りに「後半の切腹になつてから綿々として哀切」といつてゐる。「難」のある地合を明示してほしいものだ。
 ◇私は土佐太夫の難は、地合よりは桜丸にあると思ふ、いつもは詞がうまい土太佐夫だが、この切に限り、地合はいゝが桜丸の詞が言語同断だ、桜丸といふ人物を忘れてゐる。牛飼舎人の桜丸が高貴の人物になつてゐる。--「舎人」をその分に応じた牛飼ひでやれといふのではない--こゝの三の切に若し齊世の宮が出たら、どう語るだらうかと心配する位だ。即ち桜丸が身分を忘れて齊世の宮のやうな語り口になつてゐるのを難とする。
 ◇この三の切がいふまでもない、桜丸の出で、純然たる「東風」になつてゐる。この土佐太夫の地合を「難」とするのならば「難」とする処を明示してほしい。桜丸の詞を難じないで、「地合に少々の難」を聴く、その人の耳を私は断然疑ふものだ。どんな「耳」なのだらうか。クラゲか、節穴のやうな風通しのいゝ耳?
 ◇もう一つ言ひたい事は、これは劇評ではないが、この程大毎の講堂で、白木屋の人形展の付属として人形芝居の講演会があつた。通りすがりに、この由の立招牌を見て、桐竹門造の芸談があるといふので、「門造」を聴かうとして入る。
 ◇と、聴きともない木谷蓬吟氏の「人形芝居華やかなりし頃」といふ講演がある。氏の所説と私の調査する処とは事々に違つてゐるので、聴かうとは思はなかつたが、あやにく私に耳があつたので、つい聴えた。
 ◇すると、どうしても一言述べねば腹ふくるゝ始末となつた。--
 ◇蓬吟氏は、人形浄るりの初期、「慶長の人形」を土偶であると断じてゐる。最もこれは通俗的の講演だから、その出典をこゝで聴かない事をかれこれいふのでないが、「慶長の頃の人形」を、尽く「土偶」であると断ずる蓬吟氏の大胆なのに敬服する。私は反対の意見を持つてゐるものである。又反対の文証を持つてゐるものだ。氏が「土偶」と断ずる典拠を知りたいものだ。後学のために。
 ◇いつか蓮吟氏は二代義太夫の名を中紅屋(ちゆ・もみや)長四郎といつてゐるのを聞いたので、その典拠を聞訊すと「ちゆ・もみや」と確かに私のノートに書いてあります。「もみ」に上中下があつて、その「中」の「もみ」屋であつたのは確かですと言つてゐた事がある。--一寸私は呆れた。
 ◇「ちゆ・もみや」といふ所見を、手の届く限り探して私は「声曲類纂」や「瑠璃本記」にフリ仮名を見付けたが、「中等」の「紅布」の專門屋といふ意味を私は信じないものなのだ。「慶長の土偶」も蓬吟氏のノートに、確かに書いてある事だらうと察する。
 ◇太夫と人形遣ひとの社会上の位置の相異を、「斯道の習慣」だと説明してゐた。--何故この「習慣」が生れた?を説かずして、「習慣」と断じ去る処、ノートにあるといふ一埒と同じ?
 ◇近松が都万太夫座を退いて竹本座へ移つたのは、当時の脚本は口立てで、作者は筋だけの仕事、近松はその咳唾玉を為す能文を舞台にそのまゝ演ずる事を希望する余り、浄るりに走つたといふ意味の事を蓬吟氏は説く。--浅薄無比、これが大阪の近松通と謳はれる人かと思ふと、しみ〴〵と「大阪の恥辱」を感じて身柱が寒うなつた。
 ◇近松の文章は音楽的である--その証拠に、近松の作は詞と地合とが混淆して言ひ知れぬ名文を為す、他の浄るり作家は、詞と地合とは截然としてゐる、詞は「セリフ」地合は「ト書き」といふ風だ、だから近松は音楽的、他は非音楽的と説く。--近松と同時代の錦文流、紀海音を御覧なさい。古浄るりの或る種のものを御覧なさい、こんな独断は事実に吻合しない。私は近松を音楽的でないといふのではない。理由をこゝに求むる事が、事実に反すると私はいふのだ。事実でない事を、平気で独断で推論を進めて行く、傍若無人の態度を見ると、蓬吟氏は、「空論病」に罹つてゐるとしか見えない。事実を見よ、事実を顧みよ。多くの近松時代乃至その先日の浄るりを比較せよ、事実は蓬吟説を裏書しないのである。
 ◇「人形浄るり」と「人形芝居」とを「氏の用語例」で截然と分ち、近松は「人形浄るり」出雲以下は「人形芝居」と断ずる。これは氏の用語例だから、そのまゝ請容れるとして、蓬吟氏は「だから近松のは「芝居」にはならぬやうに作してある」と断ずる。敬服した。こんな論理を平気で推論して行く処、傍若無人にあらずして何ぞ。偉なる哉、大なる哉逢吟氏の近松論や。
 ◇蓬吟氏の話を聴いてゐると、豊竹座といふものは、人形浄るりから、全然没却されてゐるのも一興。それはいゝとして、「人形芝居」(蓬吟氏の用語例)の「浄るり」は、実は非音楽的の「台帳」だ、だから、「歌舞伎」には到底対抗が出来ず、歌舞伎の擡頭で人形芝居は潰滅した。--といつてゐる。お目出度い話だ。人形浄るりの退転を歌舞伎の擡頭にのみ原因付けてゐるなど、天下は泰平だよ。
 ◇もう一つ蓬吟氏は、竹田出雲(千前軒)を以て、竹本座の座本として活動した唯一の人の如く、何の疑点もなく説いてゐるが、安心してさう説けるだらうか知らん。--世はさま〴〵。だが、一知半解のこんな多くの誤りを世間に伝ふる事は、大きな罪悪だとまで私は思つてゐる。蓬吟氏が著「文楽今昔譚」が誤りだらけであると同じく、この一宵の講演のイカものなのに、私はこの講堂を出て痛嘆した。
 ◇私のいふ処に誤りがあらば反駿してほしい。そして教ふる処があつてほしい。本誌は、この号で終焉とするが蓬吟氏が、この私の反駁に答へらるゝならば、本誌の臨時号を特に出して、いつでも応答しよう、--といふ事を申添へておく。(石割松太郎記)