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【 石割松太郎 古靱の「道明寺」 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
古靱の「道明寺」-五月の文楽座-
 石割松太郎
 演芸月刊 第二十四輯 pp 6-10 1931.6.1
 
 
 「菅原」の通し、切に「新口村」が付いてゐる。久々の通し狂言ならば、丁度出し物もいゝ「菅原」だ、ほんとに本格的に通し狂言の名実を備へたら一層よかつたらう。さすれば下品な「新口村」を聴かずにすんだものを惜しい事だ。
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「加茂堤」背丈の違つた人々が、いろ〳〵にてんやわんやに語る掛合といふもの、とんと芸が至らない。個人々々には相当語る人もあるが、これでは纏まらない。加茂の背景が水彩画のやうな明朗な書割、これも情趣を破る一因だ。
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 二段目の口から漸く浄るりらしい、つばめ太夫に叶の絃。宜く語る、そつくり師匠古靱写し「折檻の杖争ふ」などがその一例。「打たるゝおとどい、打つ母」「持つた〳〵と目に持つた」などがつばめのいゝ処を披瀝する。全体としては若いだけに覚寿がむつかしいが、太郎をよく語つた。悪い方の例では「太郎様いつの間に」が人形と共に混乱、誰の詞だか耳だけでは立田とは解らなかつた。
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 次の「東天紅」は大隅と道八。この種の端場を語ると大隅も立派、破綻を出さないでいゝ、この人も太郎と兵衛とをよく語つた。わけて東天紅の条を道八の三味線と共に面白くきく。難をいふと密事を聞いた立田の「いはいでは又こちらがいふてはあちらが」が、もつと〳〵立田の心持を出してほしい、喰足らなかつたのと「伜息は絶えたか」の「息ア」といつてるのは(?或は聞えるのか)何れにしろ浄るりには禁物だ、はつきりと「は」といつてほしい。
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切は古靭に清六。今度の「菅原」は役割はよく割れてゐていゝが、中にこの古靱が一等の出来を示してゐる。浄るりが後になる程脂が乗つて来る、咽が開いて来る「老母、さすが河内郡領」あたりから浄るりは冴えて来る。この二段目で覚寿がよければ本物、その覚寿を滅法よく語つた。その上に菅相丞がよいのだから、後半は近来にない「道明寺」--「相手は姑アアわしが手にかけた」などが詞では落着きを十分見せてゐる「何んの〳〵といふ目に涙」など情景が至り尽した。相丞との名残は技巧の極致を示し且つ人情の誠、惻々として人を動かした。例へば「立よる袖を引留め」から「子鳥が啼けば親鳥も」は上品な浄るり、突込まないで聴くものをして泣かしめたのは古靱の手柄だ。このあたりの「技巧」と「芸の誠実」とを拾ふに遑がないほどうまかつた。その上例の一シラブルをも等閑に付せないのと、音遣ひのうまさで、詞、節の末までもハツキリとするのを褒める。例へば「孫は得見いで」などハツキリと聴かしたのは快よい、古靱の浄るりのいゝ得色だ。当今「得、見いで」など耳だけで判るやう語れる太夫を他に見ない。
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 人形では栄三の菅相丞、頭抜けていゝ。木像とのけぢめをハツキリと心持を遣つた点「雲龍雨を降せし」の条、「身は荒磯」の条では古靱の浄瑠璃と清六の三味線と栄三の人形とがパチリと芸の至上境を見せて「土師村道明寺に残る」までの栄三の木像をカセにして伯母との名残を惜しむ科は、当今歌舞伎にもこれだけの相丞はあるまい。見てゐて遣つてゐる当人の自信のほども窺はれるほど、シツカリと遣つた。 また、輝国が伏籠に手をかけるを止め、栄三の相丞が袖を籠にバラリご覆ふあたりは、赤の小袖と紫の相丞の袖と栄三の芸で絵巻物を見るやうな「優美」--古靱の浄瑠璃の節を十分に語らして、人形の科介が充実してゐるなど、全く栄三の手柄だ。
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 覚寿は文五郎で「杖折檻」で障子の蔭から、もう杖をふり上げて来る情がよかつたが、文五郎はどうしても世話の人、人形の動きの多い人、相丞との名残はよかつたが「河内郡領の武芸のかたみの残されし後室」にはへだたりがある。玉松の太郎、立田を無理に殺させられる処は一寸太郎といふ人物の味を出した。
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 「車先」は富太夫で簾内。浅黄幕が落ちると車揚、吉田の社頭、人形本位の一場であり且つかういふ場の掛合は同じ掛合でも派手でいゝ、当然の事。相生の松王、南部の梅王、源路の桜丸、絃は吉弥である。相生が太く咽を痛めてゐた。時平の例の笑ひでこの場の締結りがつくのだが、鏡の時平に人間離れのした公卿悪といふ妖怪味がない、「時平の笑」が写実基調である事に誤りがある。人形は一通り。
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 茶筌酒は駒太夫、絃重造--私の好みからいふと、この切より何よりも「菅原」では「道明寺」とこの「茶筌酒」とが好きで耐らぬ浄るり。いろ〳〵な古名人の話も伝へ聞いたが、私の耳にしたうちでは--私如き年少者では死んだ弥太夫の茶筌酒が耳に忘れられない。白太夫はチヤリぢやない、ほんとの気さくぢやない、あの切の悲しみを胸に鬱結した七十の祝ひの過ぐるまでの気さくさ、それまでの表面の気軽さだ、この予感が弥太夫の白太夫には漂うてゐた。この点に駒太夫は欠ける処があるのがおしい。然し「この場だけ」の浄瑠璃はよく語つた「おらにあやかりや」「顔は残らず揃うてあれ」など浄瑠璃はうまかつた。重造の三味もその通り。白太夫の肚を弾く事を心掛けてほしい。
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「喧嘩場」は島太夫に猿太郎のを聴いたが、この場を夫太では和泉、相生、島この三人、絃は綱右、友右、清二郎に、この猿太郎の毎日替りにしたのは競演、奨励の意味でいゝ。島太夫の浄瑠璃悪くはないが往々言語の明晰を欠く事をこの太夫に注意したい。例へば「食ふ扶持が碌な扶持か鉄丸を食す」など「又は堪へ袋のやぶれかぶれ」などがその一例だ。この太夫の浄瑠璃の味を私は採る--或は器は小さいか知らぬが、修業のある浄瑠璃だが、今一段の明朗さを望みたい。
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 佐太村は土佐太夫に吉兵衛。語り古るしノドにタコのある語り場ゆゑか、老巧といはんよりは「感興」がない「老巧な技巧」が生んだ芸術上の押へ切れない「感興」がなくば繰返し繰返す古典浄瑠璃などはその末は「魯縞を穿つ」事さへ出来まい、この「芸」の上に存する常に新たなる衝動力は古典に新たな生力を吹込むものだ、鴻毛を漂はす能はずなどいはるゝは「衝風の末方」だ、芸は常に「衝風」たるべし「強弩」たるべしだ。この意味において土佐の佐太村に「感興」の一段高まるものがほしい、且つ詞に節に接頭語、接尾語が入るのがかう聴かされる一因か。--例へば「菅原の御家没落、是非なき次第……」を「……没落、チエチエ是非もなき」と語る、又は「折れた桜、定業と諦めて」を「定業ぢや」と語つてゐる。丸本に還元して語り易い後世の入れ詞は厳重に刪除するのが今日の浄るりの語り口の一方法だと私は考へる。
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 人形では小兵吉の白太夫が嶄然として光る「茶筌酒」の軽さ、訴訟を受ける親の慈悲、桜丸切腹の悲壮を助けてよく遣つた。が、小兵吉の科介に一つ合点のゆかぬ点がある--即ち「介錯は親がする、……コレこの刀で介錯すれば……」で鉦撞木で桜丸を介錯する形を演るのは浅薄だ、「鉦を敲く」事が白太夫の謂ふ「介錯」なのだから、鉦撞木で介錯の形をするのは履違ひ、「利即是弥陀号」と鉦を鳴らす事が介錯なのだ。一心に鉦敲く処に白太夫の面目がある。古来の型でもこんなのは今の人形には、「形」もだが、「丸本の本文」を第一とせよといひたい。
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 「寺入」は文字太夫、絃は代役の清二郎。浄瑠璃に落著がない。例へば千代の「どのお子で御座りますぞ」などもつと〳〵千代の肚を語つてほしい。跡追ふのかなどももつと〳〵工風がほしい。浄るりはうはの空で、文字通り唄ふばかりのものではない筈だ。
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 「松王首実検」は紋下津太夫。概していふと前半が平凡、後半がやゝ脂が乗つて来る。この紋下いつも語込んで行くとよくなる。その最もよかつたのは松王の述懐で「世上の口にかゝる」から「持つべきものは」などに真情が吐露された。難をいふと、「早く討て、とく斬れ」が両人の詞である事がハツキリ出ない。もう一つ津太夫に不服なのは「御不審尤も……」の松王の詞を「御不審な尤も」と語つてゐるのは「時代」すぎる、この場合の松王はグツト砕けた内輪咄になるのだから「御不審な」など「な」を入れてわざ〳〵時代にせずに、この身の上話には世話味を持たせてほしい、原作にも「な」はないのだから。
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 小太郎の死際を松王に語る源蔵の詞に「いさぎよう首さしのべ」「アノ逃隠れも致さずにナ、につこりと笑うて……」の一条は本来源蔵は正直に小太郎の死際を語つてゐるものだらうか、多少の粉飾をして松王の愁ひをせめて軽からしめんために善意ながら小太郎を褒めて、ウソをいふのだらうか、或はそこまで穿鑿は不用だらうかとこの浄るりを聴くたびに、太夫の語る肚を聞いてみたいと、私はいつも思つてゐるのだが、今度の津太夫のこゝを聴いて「逃げ隠れもいたさずにナ」と松王に負被ぶせられたので源蔵は余儀なく「につこり笑うて」と善意のウソをいつてゐるやうな感じがした、これは私だけの感じだらうか。--決定的にどう語るのがいゝとは、私は今判断を下す何の根抵をも、正直、持たないで疑問にしてゐるが、その道の先達に聞きたい。尤も摂津大椽がこの浄瑠璃で「内で存分ほえたでないか」の「ほえた」は松王は舎人だ、舎人は牛飼ひだから「ほえた」といふ詞を使ふ処に作者の用意の周到な処があるといつたと伝へるやうないりほがな愚論は聞きたくない。
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 人形では栄三の松王が立派、殊に玄蕃を上手に見送つて--といふより我が子の死を見送つて、源蔵と顔を見合せ、気を換へてツと駕へ入るこの松王に千万無量の悲嘆が読めた。文五郎の千代は例の「連れて帰りましよ」の油断を見せぬ処無類。が、松王に「御夫婦の手前もある」と叱られて上手あちら向きにグツと坐はる科介はこゝの千代としては悪い、感心の出来ない一くさりだ。
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 玉次郎の源蔵は穏当。が、実検で戸浪に脇差を渡すのは小細工、成駒屋にある悪い型だ。政亀の戸浪実検の時の意気込は大層よかつたが、中途で引込む、それもあの狭い屋台だから咎めないが、二度目に千代の「いつにない跡追うて」の条でノレンを分けて何気なく出て来る政亀の気の無さは全く困る、引込んで次の部屋で様子聞いて泣いてゐた位の科介--眼を袖口で押へてゐる位の科介がほしい、ノホヽンで暖簾を分けて出て来るのを見ると、この戸浪長丁場にうんで台所で摘み食でもしてゐたやうで、愛想が尽きる、--こゝら辺りの人形の中堅の人がもつと舞台を懸命にお勤めなさい。気の入れ方が足らぬ。
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 切が「新口村」錣に新左衛門、整はぬ浄るり。忠三の嬶は阿呆ぢやないのだ、田舎ものでいゝ、あの大きな声は浄るりを下品にする。錣の声量だ「門口はたとしめ」「爰は剣の中」などは十分語れさうだが拙い--こゝら辺りに見馴れぬ女中」などもつと〳〵技巧がありさうなものだ、「養ひ親の妙閑」をわざと大きな声で忠兵衛に聞かさうはちと頓狂、作の肚を上辷りに語る事を非難する。人形は紋十郎の梅川、扇太郎の忠兵衛、一人々々では共に相当遣ひながら、二人の間の情合が全くなくてハダ〳〵、駈落するまでの男女の仲を紋も扇も忘れてゐるのは怪しかる話だ(三日目見物)
【追記】この文楽座評を、私が大阪時事新報の紙上へ、三日続きで掲げた。その後文楽座に所用あつて、十五日目と廿日目との二度の舞台を飛び〳〵に一見したところ、小兵吉の白太夫が、鉦撞木で介錯をする条で立上つて、撞木を振上げ、気を換へて、左手で鉦を持ち桜丸の耳元で鉦を叩いてゐる事に改まつてゐた。私が述べた事を正統に解釈して改めた事を、満足に思つて見た。どうぞ芸人達は、今後とも我々の言ふ処に服さない点がある時は遠慮は、芸事に禁物だ。ドシ〳〵と言つて、お互ひに研磋の機会の多い事を望んでおく。
 また政亀の戸浪の二度の出も改めて、悲しみと女の情のある遣ひ方をしてゐたのを、後に見て、これも注意を容るゝ処となつたのを嬉しく思つた。(廿一日記す)