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【 石割松太郎 珍しい千本の四段目 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
珍しい千本の四段目-三月の文楽座-
  石割松太郎
 演芸月刊 第二十二輯 昭和六年四月一日 pp.9-16
 
 
 いろ〳〵な舞台、いろ〳〵な演芸に接して終演後、私は未だ嘗て只の一度も演者に対して拍手喝采を贈つた事がない。それは無条件で認容される技芸に接した事がないといふ事になる。拍手に条件を現はす事の不可能であるためだ。
 ところで、この三月の文楽座を一聴して私は次狂言の「義経千本桜」の川連館を聴き終り睹終つて、私の掌は覚えず--或は生れて初めて--拍手の経験をした、手を拍き終つて私はハツと吾れに返つた、しまつた!私の拍手した意味が私の手の鳴る音で、現はせなかつたものを、私は私の意と違ふ事を私の掌が行つたと心づいた。即ちこれは拍手の意味を十分現はす方法のない事を後悔する念だ「紙屋」の治兵衛が涙のやうなものだ。
 そんな事は何うでもいゝ、とにかく栄三の人形忠信とつばめ太夫の浄瑠璃とが覚えす私の掌を拍たしめたといふ事は、彼ら二人の芸--或はその芸道に対する熱が私を陶酔境に導いたといつていゝ--それでいゝ、それで十分だが、然し决して彼らの技芸が最上のものだとは言はない。が、舞台の精進芸の熱に同感を表せざるをえなかつたといふ方が適切な言現はし方であるかも知れない。
 尤も私は嘗て十數年前長唄研精会の小三郎の「時雨西行」を聴いて拍手する意志がありながら、陶酔の心境が永く続いて、手を拍つ機会を失つた経験がある。又同じ小三郎の「二人椀久」を聴いて拍手したかつたが、条件を現はす事の不可能でヤメた事がある。然るに「川連館」で私は初めて拍手喝采を舞台に贈つたのだ。
   ◇
 私が拍手した意を少し説明したい。
 今度の文楽座は「饅頭娘」「鎌腹」広助襲名披露の千本の「道行」「川連館」と並んでゐる、この並べ方は恐らく文楽座が四ツ橋に再建以来初めて、人と狂言との運用の妥当を得た並べ方である、何人の考へか或はヒヨツクリ狂言の駒をおき変へてゐるうちにパーミテイシヨン、コンビネーシヨンの偶然の結果かも知れぬが、真に配列の妙を得た狂言の選定だ、--が唯怨むらくは切の「明烏」が選択を誤つた。こゝに南部太夫を用ゐようとする人間の故為なる意図の働きが不自然にかうさせたのが疵だ。
 かう一順眺めると我らの興味は断然古靱の「川連館」に繋がる。処が古靱は初日以来全く声が出ないで休場してつばめ太夫が代役を承つてゐる。--いつも出る狂言の代役は太した苦痛でもない--苦痛どころかこれが若手太夫の「登龍門」となり若い「我れと思はん」芸人の覇気の吐かせどこ、容易に得られない千載一遇の好機なのだが「川連館」なといふ珍らしい出し物になると不時に容易に代る太夫はあるまい--古靱太夫の代役をその弟子といふ関係からつばめ太夫が殆んど専門に代つてゐる--が今度の代役はつばめのためには難役であらうが、又彼が日頃の伎倆を見る試金石でもある。
 番付を逆算すると大正二年二月に染太夫が出した限り文楽座に川連館が上演してゐない。今の若い太夫にオイそれと代役が出来るほど耳にある狂言ではない。
 この「川連館」を恐らく二三度の急稽古であれだけ語つて除けたつばめ太夫の芸、といはんより私はこの人の明敏なる頭の働きとあの熱とを涙ぐましいまでに買つたのである。これで日頃の浄瑠璃のテクニツクに対する彼の研究が仇おろそかでない事を証明されるこの点を双手を挙げて褒めたい--私が拍手した条件の半ばはこゝにある。
 その上に「川連館」を聴いて御覧なさい、所謂政太夫物としての特色が随処にある、--斯の道でいふ難物の「播磨地」の連続である、申すまでもないこの浄るりが延享四年十一月に書卸されて竹本座の手摺にかゝつた時に、政太夫が二段目の切とこの四段切の「川連館」を語つてゐる、政太夫の全力を注いだのはこの「川連館」の忠信であつたらう、その所謂狐詞であつたらう
 そして案外「川連館」には語る太夫が掴みどこを見つけて、その一点に集力して見物を引付けるといふ「峠」がないといふのが、この浄るりの余りに出ない一つの理由であらう。一段丸こかしに全勢力を傾注せねばならぬ、そして所謂「山」がない、或は尽くが「山」であるといふ難物。それに人間ならぬ狐の人情(?)に妖味がなくてはなるまい。その上に伝統的には「播磨地」といふ節が付纒つてゐる、この「川連館」を相当に、あの急な代役であれだけに聴かしたのは、つばめ太夫の大きな手柄であると私は再び褒める。
 つばめの浄るりが完全なものであるといふのでない事は固よりだ、若々しい、生々しくて、聴苦しい処の多かつたのも事実だが、あの芸に対する熱を買つておやりなさい、あの透徹した頭脳を買つておやりなさいと、私は文楽座の新しきフアンのために切に勧めるのである。
 例へば世に類なき「初音の鼓」「畜生よ野良狐と人間ではおつしやれ共」「縁の下より延上り……」などよく語つた一例、「我親を慕ふほど……云々」に人間ならぬ一種の人外の人情とでもいふかヘンな味を、よく語つたのも丸本の精神をよく会得してゐるつばめ太夫の手柄である。
   ◇
 つばめに与へた拍手の残りの半分は私は栄三の「忠信」の人形のために掌の痛いほど拍いても後悔しない。
   ◇
浄るりと人形とは心身の関係、車の両輪の如しと常に言ひつゞけた。が、浄るりに素浄るりといふ変態の存在が出来てから、浄るりが主で、人形が従のやうな形をとつた時代もが、その発達の歴史のうちにはある。が、この「千本桜」は人形全盛の時代の産物である言葉を換へると、初代吉田文三郎が日本の人形芝居に全力を注ぎ、一人で切つて廻してゐた竹本座時代の所産である。それについて人形浄るり史上いろ〳〵な挿話が伝へられてゐる「人形華やかなりし頃」の絶頂の作品だ。
 例へばこの語り場の主太夫である政太夫の紋所である源氏車をとつて「忠信」の衣裳の模様に用ゐた、今日尚「忠信」と「源氏車」とを引離す事の出来ないほどの伝統を作つてゐるなどがその一例だ。
   ◇
 かういふ伝統的に意義の多い「千本桜」の四段目が、今日の如く人形偏重--又それが斯道のために正当である今日の人形浄るり時代に「川連館」の復活上演を見た事は喜ばしい事である。浄るりを主にし、人形を従とする見境からは、この結論は出来ないが、それは誤つた考へ方である。
 この時代にこの語り物の復活は当然の事で、四ツ橋文楽座再建以来狂言選択の当を得たといふ私の意はこゝにある。
   ◇
 そして「忠信」を遣つた栄三はその吉田を姓としてゐる流祖文三郎の流をよく汲んで遣つてゐる、人形遣の早替りはいかに鮮やかにしても、実は一種のケレンに過ぎない、又栄三が今度やつてゐる下手に設へた鼓師の傍なる黒塗りの小鼓の小筥抜けの芸当も鮮やかではあるが、ケレンに過ぎない、華やかなこの舞台を人形の早替りによつて一層華やかにはしてゐるが、それは実は子供だましの営業政策に過ぎない。やつて悪い事はないが、人形の本質的のものではない。
 私が栄三の「忠信」を称讃しておかないのは、早替りの鮮麗をいふのでなく狐忠信の人形をいふのである。
 例へば、鼓に別れを告げる処で浄瑠璃の「我が親鼓に打向ひかはす詞のしり声涙ながらの暇乞ひ」の条りで白綸子に火炎の模様「紅白だんだらの丸くけ、頭はすさのを」といふ約束で三段にかゝつての遣ひぶり、そしてその人形の後姿は、蓋し理窟を超越した「人形美」の極致だ。
 もう一つ「わが子狐不便さ余つて幾度か引かるゝ心を胴慾……」の子狐を思ふしぐさ、栄三の傑作。こゝの「人外の情」「ヘンなグロテスクなしかも細かい味」は歌舞伎の舞台に見る事の出来ない人形美の極致のもう一つの例だ
 もう一つ拾ひ上ぐると「身もだへしどうと伏して叫ぶは大和国の源九郎狐と言伝へし……」の条りで思ひ切つてコロリと伏し四足を天に冲して獣の心を現はしてゐるこれなどは、「人形」にのみ許された--人形のみが持つ芸の味だ。
   ◇
 尤もこゝに至るまで、七度ばかりの早替りの絢燗な舞台を見せて、こゝまで看客を引張つて来るから、見物席の感触は耳はお留守だ、従つてこの四段目などは浄瑠璃としては素浄瑠璃の形式を許すまい。それだけに、現代に復活する人形浄瑠璃の一典型だと私はいふのである。
   ◇
 元来人形浄るりは「カブキ」と異り、過去の物語りの再現に端を発したのがその歴史的の意義である。故に人形浄るりは「時代物」「怪奇物」が主であつて、その時代々々に精々引つけても「時代世話」が関の山であつたのが、例の「心中物」--「真世話」に一転機を来たした。そして一曲を五段に分けて語るといふ浄曲の「黄金律」を打破つたのであるが、結局「真世話」は変態の一形式となつて、本来の人形浄るりは五段の時代物が本体となつて今日に至つてゐる。されば後世脚色の複雑なる長篇が出来ても、「五段の黄金律」は儼存された。そして「立端場」といふ語り場が出来た。そして段数には数へ入れられない事となつた。
 この形式は何を語るかといふと、「真世話」のリヤリスチツクよりは「時代物」のロマンチツクが概言して人形浄るりの本題である、本筋の内容であるといふ事を証明してゐる。
 私の芸評が思はず人形浄るりの本質的のお話に脱線したやうであるが、私の謂ふ意は文楽座が今後現代に相応して出来るだけその寿命を長からしめんとするには、理窟つぽい現代だからといふ考へから、リヤルな語り物に即するよりは、丁度今度の「川連館」が選ばれたが如く、古い狂言を復活するならば人形本位の現代離れのした、この種の狂言に選択の目安を置く事が正統な見解である事を申述べようとするのでるある。
 「川連館」が千本の「道行」が広助襲名のためにたま〳〵選ばれ、その引つゞきで「偶然の成行」から無自覚に「川連館」を選んだのでないといふ事を、将来に期したいのが私の存意である。
 そして代役ながらつばめ太夫の熱演と栄三の妥当なる解釈とその演出と大努力とを私は大に買ふのである。
 が、栄三の狐忠信で唯二つよして貰ひたい事がある、その一つは後の狐の出で、春霞が空から下りて狐の縫ぐるみで現はれる時に、春霞が引上げられると霞の下にモヂの巻いたのがあつてスル〳〵と解ける、これで狐をモヂを通して見せうとする工風は面白いやうだが、小道具的の小細工だ、例へばギー〳〵と竹ゴマを鳴して月と雲とを見せる古風な照る月を反射照明で大に見せようすると同じアナクロニズムだ。
 もう一つは幕切れの狐の縫ぐるみを持つての宙乗りは詰らぬ、およしなさい。早替りまではいゝがこゝまでやつてはケレンの演りすぎ、それよりは、上手へ狐が飛んで行かうとする、いゝ形を見せた方が効果的の舞台である。この二つが千慮の一失--否二失。
   ◇
 この「川連館」の端場は駒太夫と重造いつもの駒よりは稽古が足りないか--喰ひ足らぬ木賊のかゝらぬ浄るりを聞いた。が静の物語りの内「八幡山崎小倉の里……」に駒太夫らしいいゝ処を聴く。
   ◇「道行は」土佐の静、錣の忠信、三味は広助を立に新左衛門、仙糸、--吉兵衛を豆クヒに贅を尽した広助襲名の出し物。人形は文五郎栄三で八島の物語りを新広助と新左衛門の助演で床と舞台とのいゝ調和を見せて豪華に聴かせた。
   ◇
 忠信以外の人形では文五郎の道行の静が例の如くいゝ形を見せたが、切の静が物足らない。政亀の忠信「難儀の最中静御前……云々」の秦者の声の大切な処で気が抜けたのはどうしたものか、注意を要する。
   ◇
 「川連館」を呼物として、今度の前狂言は大隅の「饅頭娘」この人の口に相応はしい語り物である。初役と聞いたが相当の出来を見せた。政右衛門に今一段の腹を見せてほしい。例へば酒に託した心の表裏が十分に得心がゆかない「袴はとけど胸とけぬ」など拙い、政右衛門の詞で五右衛門との間の「どう致したか」「飽きました」など十分でない。
 大隅のいゝのを拾ふと「思ひは富士の郡山」などが情がよく出てゐた。五右衛門は少々騒々しきに過ぎるが「鬼を欺く政右衛門……」からが、この太夫の素質である純真なところが、この五右衛門の境地と相通じて五右衛門の心境がよく写された。
 三味線の道八、随所に立派な腕を見せる、三味線を弾かずに「人物」を弾き「事件」を弾いてゆく。言葉を換へると三味線を弾かずに浄瑠璃の魂を弾いて見せた。例へば、おのちの出で「綿帽子に腰より上は埋もれて」の道八などうまいものであつた。
   ◇
 この端場の口は聴き落した、次の相生、絃友造から聴いたが、一通り。
   ◇
 大広間--歌舞伎ならば奉書試合、こゝは例のイヤな掛合、和泉太夫の政右衛門位をとつて思慮ありげの人物が出たのはいゝ。つばめの大内記落着と大名の品位はいゝが「若狭之助」といふ評は蓋し適評、一徹短慮に見ゆるのがその疵であらう。政右衛門に惚込んでゐる「明察」が「一徹」に聴こゆるのが悪いのであらう。
 林左衛門は長尾で、この敵役の底のうま味が皆無、富太夫の五右衛門は人柄が違ふ。
   ◇
 前狂言の人形では、文五郎のお谷が浄るりの文句よりは、出足が先んじてゐる、文五郎は、お谷に限らぬ科の殆ど凡てが文句よりは早い、床と舞台とはもつと厳密にピタリと相合うて然るべきである。又「御背中でも揉んで上げい」で五右衛門の後ろに廻り「腹の立つ波」で五右衛門の頭を叩く人形の科に往々あるナンセンス味、さう咎むべきではないかも知れぬが、一度位でいゝ、こんな科の度々繰返されるのはつまらぬ事だ。もう一つ、おのちの綿帽子をとると「どこに置いても邪魔にならぬよい女房」ぶりに、お谷は今までの悲しみに引替へて、只呆れに呆れるていゝと思ふが、文五郎は笑ひこける、度々笑ひこけるのはどうあらう、お谷のこの場合「笑ふ」のが人情だらうか--人形の昔からの型は或ひはこゝで笑ふ事になつてゐても、もう今日の看客を前にして笑ふのはどうあらう。人形のしぐさが必ずしも昔の型をそのまゝの踏襲がいゝ事だらうか考へものだ、型の精神は尊重すべく、型の形式は一定不動のものではあるまい、寧ろ今日では大に型の整理を必要とする。
   ◇
 この事については人形としては余ほどの重大問題であるからその業者もよく〳〵熟考をしてほしいが、例へば私はくどいほどいふが「忠臣蔵」の九段目の例の「ほしがる処は山々」がそれだ。この戸無瀬のせりふを小浪にいふを正常な解釈だと私は主張する(ソレは本文の文意から考へてもさうだ)が、恐らくその業者は「面当てにいふのが、昔からの型だ」と考へてゐようが、それが誤りだ。業者のいふ昔とは「いつの昔」をいふのかを聞いてみたい。高々摂津大椽、大隅太夫(先代)の当時を昔というてゐるのだらう、稍々遡つても五代春太夫の「昔」であらう。摂津大隅が既に誤つてゐるこのくだりの如きは歌舞伎に九段目が移されて化政度にこんな悪趣味な科が歌舞伎畑に生れたのを、人形の方では嘲けり嗤つてゐた時代がある事が文献に明かに残つてゐる。それかいつしか歌舞伎の型が、浄るりに逆輸入をして、お石にかけて面当てにいふ事がいつのほどにか普通の如くになつた。これは歌舞伎全盛の余波だ。この中古(忠臣蔵の芸歴を主としての)の誤りを「昔からの科」だといふのは誤りぢやあるまいか。「昔から」といふその「昔」の内容をその業者はもつと〳〵遡つて穿繋をして研究して貰ひたい--今の人形浄るりで、「人形」も「浄るり」も「昔の型」の研究とその適当なる取捨が第一の仕事。それから整埋されたる型の保存が第二の仕事だ。高々春太夫、摂津、大隅時代の型を金科玉条とする事は危険が多い事を知らねばならぬ。
 これは、一例で、この文五郎のお谷の笑ひこける科も「昔から」といふ条件でそのまゝ許さるべきでないだらう。
 「乳母もういのふとやんちや声、ヲヽ是は娘とした事が……」の条りで、紋太郎の乳母が手で科がある、「ヲヽこれ娘」で小兵吉の柴垣にもシグサがあるこれは矢ツ張り文句に添うて前後があつてほしい、或は紋太郎の乳母は科がなくていゝのではあるまいか、さうでないと紋太郎の科が「ヲヽ是は娘とした事が」の文句の科として見らるゝ事になるから、乳母が柴垣に見えて舞台が混乱する(二日目見物)かういふ風に乳母と柴垣の如く接続したる文句で舞台の混淆の恐れのある場合は、その人形々々の考へ方が全体に考へ及ぶべきであらう--これは人形にいつもある混乱だが、たま〳〵の適例ゆゑ明かに茲に指摘しておく。
   ◇
 人形の活躍は大広間にある、玉松の大内記と栄三の政右衛門の伝授は面白く見た。玉松の大内記はよく遣つた、長槍を遣ふに鮮やか、殊に「即刀三ケの大事」の玉松の槍は尤も鮮やか〳〵。
   ◇
 中狂言の「鎌腹」端場が文字太夫の筈が、これも休場。相生太夫が代役、相生の真面目一方、まだゆとりのない芸だけに堅くなつて弥作が語れない。
   ◇
 切が津太夫、少々咽を痛めてゐたが初めから弥作がよく出た、弥作は津太夫に打つてつけた性格、如実に語れたし、弥作の味が十分。蓋し津太夫の第一の傑作だらう。弥作のいゝ事は前々からであったが、今度では七太夫も十分に語れた。あの小さい貪欲が面白く聴かれた。例を挙ぐるまでもないが、七太夫と揉合ふ処「待つて下さりませ〳〵、エ、放しおらぬか」が津太夫、友次郎、栄三の弥作、玉松の七太夫とピタリとイキが合ひ、毛筋一本の隙もない立派な出来。もう一つ津太夫のよかつたのは、鉄砲放してから「もう叶はぬ〳〵」の弥作の真情を吐露して余す処がない。が、和助が十分に語れてゐないのは、これは津太夫のせいよりはこの作が悪い、和助が書足らないのが原因だらう。
   ◇
 切が「山名屋」1これは今度の列べ方では狂言の選択が悪いから客席の興味を引止められない。南部太夫の出し物で浦里がさして感興を引かぬ。同じ悲惨なやうな雪責めだが、「山名屋」はもつと〳〵はんなりとした浄るりでなくばなるまい「責め苦」の深刻よりは変態的のエロチシズムが、この作の眼目であるとすると、語り口も、もつとはんなりとしてほしい。島太夫の彦六でやう〳〵と救はれてゐる--或は彦六に浚はれてゐるのを見ても浦里がもつとしつかり〳〵。貴鳳のおかやにもつと露骨な底意地の悪い処が入用。お辰はキリツとしたイキな女でなくばならぬが、源路太夫のを聴いてゐると、とんと野暮天、こんなで折角の「山名屋」島の彦六にもつて行かれた。