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【 石割松太郎 栄三と小兵吉-二月の文楽座- 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
栄三と小兵吉-二月の文楽座-
 石割松太郎
 演芸月刊 第二十一輯 pp 6-10 1931.3.1
 
 
 如月の文楽座のいゝ出来を太夫、三味線、人形の三業に亘つて引くるめていふと栄三の熊谷と小兵吉の岩根御前との二役である。元来人形浄るりを見るに、浄るりと人形の何れに偏してもならぬ、耳と眼とは等分にその鑑賞対象に働きかけねばならぬ、歌舞伎の舞台を見るよりは、この意味からか、私は文楽座の一日に二倍の疲労を常に覚ゆるのである。
 が、何としてか意識してもその通りに等分に働きかける事が出来ずに鑑賞力は常に耳に七分の労力がかゝつてゐるやうである、そして人形の動作よりも浄るりの巧拙に心引かるゝのが常である。これは私一人の心的状態でなくして、昔からの人形浄瑠璃に対する日本人の態度であるらしい、それは古来残存してゐる「人形浄瑠璃の評判記」を克明に調べると、この傾向がハツキリとする。
 歌舞伎の舞台はこれに反する、芝居は「見」に行く、人形浄るりは「聴」きに行くといふ言葉が卑近にこれを説明して余りある。--が、今日の文楽座は、そろ〴〵「人形浄るり」を観に行く人が多くなつた。それにかぶれたわけでないが如月の文楽は人形が嶄然と光つた、--といふよりは浄るりに聴くぎころが少かつた。
   ◇
 人形--就中、栄三の「熊谷」は私は度々ものに記したが、現今の人形と歌舞伎に持つ「熊谷」のうちで最上級のものであるといふも溢美の賛辞ではないと思ふ。
   ◇
 歌舞伎でいふなら鴈治郞は「陣屋」は出来ても組討は出来ない、吉右衛門は組討は出来ても「陣屋」がダメだ、中車がまづ「組討」も「陣屋」も出来るが、それだけ前二者に比して何れにも不足がある。--と見て来ると私は栄三の熊谷を人形、歌舞伎を通じて当今熊谷の第一におくものである。
   ◇
 栄三の熊谷は「組討」では小太郎の首を落さうとして後ろに廻つた処と戦捷の裏にひそむ淋しさ、味気なさが幕切れの馬の口をとつた立姿によく出てゐる、「陣屋」では物語の心持が常によく出てゐるのと、その妥当なる解に基くその科を尊重する。
 そして今度の栄三は物語ではいつもの科を更に改めてゐる--いつもの物語りで栄三の科の特長は「心にかゝるは母人の御事で」正面を向いて扇を開き右手で顔を隠しながら言葉は、藤の方、目と心は女房相模の方に向く、即ち人形に横目を引いてゐる--物語の内容に相応しようと企てゝゐる。
 この科を今度の熊谷では栄三は「早首取れよ熊谷」でこの扇の科をして、後の「御涙をうかめ給ひ父は波濤へ……」で人形をクルリと上手藤の方に真向きに、見物席には側面を見せて「心にかゝるは母人の御事、きのふにかはる雲井の空……」で只右に目を引いて尻目に相模を見るといふ科に更めてゐる。元来空々しい我子のこの物語を敦盛として藤の方にしてゐるといふ熊谷の心持が、「底を割るとか」「芝居を演じすぎる」とかいふ程度でなく、かう科を更め演じてゐる今度の「熊谷」を私は如月興行中の文楽座の殊功だと賛称する。
   ◇
 もう一つこの陣屋の相模の文五郎が「折節風に誘はれて」の処で、相模がピタと上手に真向きになつて、これも看客には側を見せ、小太郎の首を抱へて名残りを惜む一科があつて、三段へ首を持つて行く、いつもは芝居がすむと首には無関心なのが、この一しぐさで十分最後まで相模の情が利いて行届いて見せた。
 栄三、文五郎の両人の行届いた舞台を今度の「熊谷」に見た事を特筆する。
 ◇
 浄瑠璃では陣門は聴かず、「組討」の大隅から聴く、嘗て大隅のこゝを聴いた時に、その語り口が三段目になつてゐたのを、私は太く非難したのを覚えてゐる、今度も堂々として三段目のつもりの語り口、これでは三段目が語れなくなる、即ち次の「陣屋」との取合せが付かない--といふのが型尊重の心持。
 が、更に飜つて考へると、今日の浄瑠璃が何とも出来なくなつた幾百年同じやうに琴柱に膠してゐるものとなつたのは、浄瑠璃を五段に分ちて浄瑠璃の格を定めて厳守してゐる点からこの一定不動が起る。即ち流祖竹本義太夫の師井上播磨がどんな浄瑠璃でも五段に分つたといふ事から起因してゐると歴史的に見ていゝ。これが厳守される間は浄るりは保存に便であるが、変化は少からう。この点を打壊はしたものが大隅のこの行方の組討だ、或はもつと適切にいふと道八のこの「組討」だ。浄るりの保存の上からいふと、正に異端者、変化を求むる進歩的態度(?)といへば、強ひていへるが、こゝに大きな危険の存在する事を見遁してはならぬ、純正保存の立場から見て独創はあるかは知らぬが、私はこの語り口には賛成が出来ない、モノの善悪、出来の良否には拘らない。
   ◇
 この場の扇太郎の玉織姫、よく気を入れて演じた、熊谷の名のりを聴いてムク〳〵と敦盛の名に慕ひよる処大によい。
   ◇ 毎日替りだが、私の聴いた「熊谷桜」はつばめ太夫に絃仙糸、前途の有望をつばめは弥々裏書をした、立派な「熊谷桜」申分なし、浄るりにコクが出来堂々たるものがある。
   ◇
 「陣屋」は津太夫、絃友次郎、奥になるほどよく弥陀六がよく出来たのと、案外相模の情が上乗の出来は近来の手柄、難をいへば、首実検で直実過りしか」が突込みすぎる(一)「コリや弥兵衛」の出が鮮やかでない(二)「……いふ男でえす、ハ……誠や諺に」のハ……は勿論義経の「ハ……」だが弥陀六と義経のちやんぽんの「ハ……」となつた事(三)段切の「さらば」がぞんざいでグツと引締らなかつた(四)などが津太夫の欠点。
   ◇
 こゝの人形では栄三の巧いのは前述の如くだが、栄三の一つの疵は「十六年も一昔」で蓮生は兜を膝に持つたまゝ伏目でヂツと思入れをしてゐたが、私は宙空をふつと見上ぐる処にこゝの心持の人情がありはしないかと思ふ。玉松の弥陀六、義経の「母常盤……」の詞の中ヂツと立つてゐる処に却つて宗清が出て、三段にかゝつては、線が荒いだけで見劣りがする。
 光之助の軍次は実に悪い、相模に莨盆を渡すところから梶原に従うて入るのに軍次の心持が出ない、梶原の従者のやうだ。梶原を案内する陣屋の者である心が全く見えないは心すべきだ。
 玉七の義経も詞について身体を前後に振るのみで若々しい義経の気品が全く出ない、紋十郎の藤の方--このもたれる難役をよく遣つた、熊谷に斬かゝる処よりもあとの我子でない首を見てからの紋十郎がよかつた事は、この人の芸にヒレの出来た事を証拠立てるものだ。
   ◇
 次が「油屋」である、「新版歌祭文」といふと、直ぐに「野崎村」の華やかなうちに哀愁の深い舞台を想ひ出すほど、この浄瑠璃は「野崎村」が代表化してしまつた。
 「袂の白絞」と「妹脊門松」に粉本を得て「歌祭文」は近松半二の手によつて脚色されたゞけ半二の傑作のみでない、浄瑠璃でも有数の作であるが「野崎村」が有名なだけに「油屋」は今日では珍しい語り物となつて了つた。
 近年文楽座でも滅多に出ない、大正九年三月に古靱が語つてゐるが、私はその時の記憶が全くない、私の「看劇日記」を探し求めたがどういふものか記す処がないのに見て、私は聴落したものらしい、従つて私にとつて珍らしく--珍らしいといふ点で面白く聴いた。復興後の文楽座において、古靱が珍らしい出し物に努力し、その語り物の幅員の拡張を頻に努めてゐる事はよい事である。舞台効果の如何に拘らず、寧ろ大胆な位に珍らしいもの、復活、--或は廃曲の再演を期すべきであらう。
 唯この復活に対して注意すべき目安は、人形偏重の目今の時世に鑑みて、人形の動き--人形舞台の効果を期すべき余地の多ければ多いほど、文楽座の将来の語り物として妥当な選択といふべきである事を忘れてはならぬ。
 この点からいふと今度の「飯椀」などはさほどに人形は舞台的に効果が少い、が然し語り物としては太夫の食指の大いに動くべき珍しいものといはねばならぬ。
   ◇ 古靱の出来からいへば、勘六がよく出来た、又久松と乳母お庄との人情の機微が細かく出てゐる。
 この浄るりがその仲間で、「飯碗」の俚称を以て呼ばるゝやうに、実に浄るりの常套である。「悪番頭」型の小助と勘六との間に取扱はるゝ盛切りの「飯椀」この浄るりの重点がある。こゝに重点があるだけに小助が飛抜けて軽く悪番頭だが「憎む」程度でない「アノ番頭」の色が出ねばならぬが古靱の失敗はこゝにあつた、小助がよく出来ると、この「油屋」はもつと〳〵面白かつた筈だ。
 この「油屋」に要求さるゝものは「枯れ切つた味」である、こゝに古靱の足らぬものがある、例へば「喰ふないやい」の面白味が「枯れた」味に伴ふ芸であるのが半減された。
   ◇
 この端場が駒太夫、絃重造、いつも端場で成功する駒は今度も「油屋」の端場は成功した。
   ◇
 人形では栄三の小助も、古靱と同じなやみに陥る、剽軽な「アノ番頭」が十分でない。玉松の勘六は出色の出来、弥陀六よりは数等の出来を見せた、小兵吉の乳母は年配が年をとりすぎる難が科に多いが、久松を思ふ一念が、母でもない主でない、主人としては骨肉の愛が染み出るやうな点がよく写せた、こゝに「乳母」といふ慈愛と主人の幼君といふ尊敬とが混淆して見せたのは偉い。
 文作の久松と扇太郎のお染とが色模様--小助の戸口での間--をもつと〳〵工風を要する、余りに幼稚だ、従来の人形特有の型なのだらうが、もう今日の人形はこゝらに若手の細心な工風を要求する、尤も小助の芸を盗まぬ程度である事は申すまでもない。
 政亀のお勝--さばき役の後家らしさがこの人の芸風にはまる。
   ◇
 切が「中将姫」--出し物としていゝものでない、もう継子いぢめが主題であるこの種の浄瑠璃は、出すなら切だけで沢山だ、端場は当然カツトすべきであらう、まして、この中将姫の端場は継子いぢめを見せるといふだけで切も口も同巧異曲、作からして今日出す端場でない。錣と絃新左衛紋。岩根御前が手強一方で往々にして身分が聴いてゐて分らなくなる、本文にもある「春日の君を育て上げたこの岩根」の性根はどこまでも持つてもらひたい。
 切は土佐太夫、こんな浄るりは図抜けた美声で聴く者をして陶酔境に導くべきであらう、土佐近来の老境に入つたに拘らず美しく出来た。中将姫よりは父豊成公にお公卿さんらしい人品の高い所の、いたんで破らずの哀愁がよく出た。そして姫に対しての心の遠慮がよく出たのは近来の豊成公である。
   ◇
 文五郎の中将姫、さして演処のないもたれる役をよく遣つた小兵吉の岩根御前は絶妙、品位も落さず手強くもあり、割竹で姫の首を押へてさいなむあしり悽絶、栄三の熊谷と共に今度の文楽座の双璧である。
 紋十郎の桐の谷、玉七の浮舟、土佐の浄瑠璃の混淆か人形の混淆か--原型は究めず、内輪を話して解けてからか鮮晰を欠いた憾みがある。
 打出しの「ひばり山」は南部の姫、嘉藤太は相生でさしたる聴かせ処も見せ処もなく終る。