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【 石割松太郎 霜月の文楽座-九段目を欠く変態忠臣蔵 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
霜月の文楽座-九段目を欠く変態忠臣蔵
   石割松太郎
 演芸月刊 第18輯  昭和五年十一廿日 pp.15-18, 23
 
 
 今日の歌舞伎で、「忠臣蔵」を出しても必ずしも山科や、討入を要求しない。が、人形浄るりにおいて九段目を欠如してゐる忠臣蔵は、変態だ。こゝが歌舞伎と人形浄るりの保存或は上演に際してけぢめのある焦点である。然るに文楽座の当事者は大序から茶屋場まで演じて、これをわざ〳〵「本格的」の興行だと吹聴し、又新聞の記事も亦そのまゝ「本格的」の忠臣蔵だと報じてゐる。私は文楽座の当事者の良心の欠乏を九段目の欠如よりもまざ〴〵と見せつけられて、新聞記事の無反省を痛嘆する。それが「宣伝」の名によつて許さるゝならば、「宣伝」と「詐偽」との距離はさう遠くはないやうだ。    ◇  大序は掛合、絃が叶である。昔は「大序」は狂言の第一始りで、諸忽に付すべきものでないといふので相当の太夫三味線が出勤してゐるが、中古、大序は稽古場となつた。これを清水町の団平の妻ちか女の書いたものを見ると、「忠臣蔵」は特に大序が大切だといふので団平自ら朝の早くから大序の三味線を弾いてゐる。そんな事に関係はないのであらうが、今度の大序を斯道の老手鶴沢叶が弾くといふ事を聞いてこの場を聞落すまじとしたが、遅刻したのは残念であつた。    ◇  桃井邸の口は長子、絃寛市。申すほどの事なし。  この切を文字太夫、勝平。若狭之助の前半はまづいゝが、こゝの若狭之助は決心の臍を決めてもゐるし、本蔵に本心を打明けてゐるうちに、漸層的に持前の癇癖がつのつて来ねばウソだ。然るにこみ上ぐる無念が現はれてゐない。本蔵はこの若狭に甘く肩すかしを食はす「誠忠なる老獪さ」がどうも皆無。勝平の絃、いゝのか悪いか私には分らぬ。まだ〳〵青くて意が尽せないだけはハツキリと聴える。浄るりの三味線は伴奏でなくて、浄るりの「意[こゝろ]を弾」かねばなるまい。  人形で玉次郎の本蔵、松を剪つて、グツト二度まで鯉口を確かりと納める科に本蔵の意持をよく現はしてゐたが「ムヽよう訳を仰言つた」あたりの本蔵の「誠忠なる老獪」さがこの人にも乏しい。紋十郎の若狭之助、今度は立役に廻つてゐる、いゝ一つの修業だが、「思込んだる無念の涙」と床で語つてゐるのにボウとしてゐるのは、大将どうした。    ◇  進物は島太夫、絃友平。一通りの出来、強いていへば、わざど可笑し味を造らうとしない処。その尋常さをよしとする。人形ではこの場の紋十郎の伴内わざと駕の鼻棒に顔を打つけるなどこの人だけの科ではないが、もうこんなのはカツトして若い人は、ほんとの伴内のをかしみを出してほしい。この点からいふと、この七月の扇太郎の朝顔の祐仙をとる。現在の文楽人形部屋の若手で紋十郎、扇太郎の両人は共に将来の舞台を背負ふ人だ、この両人に深い興味を持つて、その月々の芸を私は眺めるものである。    ◇  駒太夫の「殿中」、無類。殊に師直がよく出来た。作意からいつて思切つて下卑びていゝのだが、余まり下卑るのも聴いて不快を感ずるが、駒太夫はそれらの心の構へがなくして、語つて行くうちに師直を自然に、この好色な貪欲な師直が描出された。重造の絃これに伴うてよく弾いた。人形で小兵吉の師直、舞台一杯に我がもの顔の驕慢なところがよく、判官を眼下に見る舌長な風丰をよく遣つた。駒と小兵吉とで「殿中」の面白さが倍加した。    ◇  裏門は相生太夫、絃芳之助。真面目に語つて一通り、その真面目さが禍して伴内が軽くない。その伴内に茶の字尽しなどは断然よしたがよい。茶屋場の上げませうの駄洒落もこれと同じである。まだ上げませうに辛辣味でもあらば御愛嬌だが、貴鳳と鏡との長々しい駄酒落は愛嬌にもならない。苦々しい沙汰だ。これで時間の都合で九段目が出せないといふのである。思はざるの甚しき。文楽当事者の一考を煩したい。尤も九段目がどうなのか、知らない無鉄砲ほど強いものはない。蛇に怯ぢない盲目が文楽座を左右してゐるのだから恐ろしい事だ。    ◇  四段目が、紋下の津太夫、絃友次郎。津太夫個人としては、九段目に廻らねばならぬ苦しさよりは四段目に納まつてゐる方が成績がよい。が、「紋下津太夫」としての責任、姑券はどうなるのか一考を煩したい。尤も津太夫個人は四、六、九段目を津太夫、土佐太夫、古靱太夫三人の毎日替り案を提出したが、松竹がこれを採用しなかつたといふ事である。問題は九段目を出さないといふ松竹の真意が何処にあるかに存する。九段目語りが無いといふ松竹の意ならば、松竹の遣り方は不言実行に太夫に対する不信認の表白だ。又三人毎日替りを提案した津太夫は、紋下の自信の欠如を明々白々に暴露してゐる。その案を採用しない松竹に対して抗議が出来ない所に太夫の非力が厳存する。文楽が風前の燈火の如き真因は実は茲にある。扇ヶ谷が津太夫がよく語つたといふ事は少しも名誉な事ぢやない。が、津のこの段は九太夫がよかつた、郷右衛門と九太夫の間が真によかつた。腹切つてからの判官が拙い、手負の言葉が作り過ぎる。絃の友次郎流石は友次郎、あの音色、あの間、寔や傑作。    ◇  霞ヶ関は綾太夫と友若(?)十年一日の如し。人形では栄三の由良之助、判官の切腹では一通りであつたが、こゝでは由良之助の貫録十分。堂々たる城代。人形の品位で押通したのは偉いが、提灯の紋を切る科はどうあらう。歌舞伎でもする事だが、この場の栄三の由良之助は他の科に小刀細工らしいところが微塵ないのだから、こんな科も廃してやつてほしい。と、いふものゝこゝの由良之助が人形では一等の出来。玉松の判官、切腹の前後によく気が入つてゐた。    ◇  濡合羽、源路太夫、絃綱右衛門。朗らかないゝ声だが、味といふものが無い。「二つ玉」がつばめ太夫、絃勝市。新進抜擢のいゝ傾向である。十分に力を籠めて熱心に演じてゐる。が、定九郎に院本のふくらみが乏しい。今様の歌舞伎になりたがるのは一考を要する。浄るりの定九郎がほしい。人形で定九郎が、小石を探して刀を屍体に打込む科が存してゐる院本である事を忘れてはならぬ。玉幸の定九郎、人形で型をそのまゝに大事に存して、さして惨酷な厭な思ひをさせないところに、この人の「昭和の人形遣」らしい腕を示した事をとる、政亀は弥五郎、門造は与市兵衛、栄三の勘平は一通り。    ◇  身売りは南部太夫、絃吉弥。これも大々抜擢。が、この人の声があつておかるに情がない、すか〳〵する、手触りが荒い。色気が無い。「遣るものか遣らぬものか分別して下さんせ」などがズン〳〵素通りをする。抜擢さるゝ今だ、一段の努力を望む。このまゝに推移すると、身分以上の語り場が、修業に何の用をもなさぬ事になる。戒心を要するは今だぞ。    ◇  勘平の切腹、古靱太夫、絃清六。勘平の前半、悶々の情に堪へないところ実にうまい。次に婆々がいゝ。こゝ続けて婆々に成功してゐる。「引窓」の婆々を一等とし、次が今度の与市兵衛の女房、三番が小よしだ。歌舞伎と浄るりとを通じて私の記憶にあるおかやは、第一死んだ蟹十郎が無類だつた。以来いゝ婆々に邂逅つた事がないが、今度の古靱の婆々を蟹十郎の次におきたい。語出しの、財布をチラと見てもしやの心に雲がかゝりながら、「親の身でさへ」のこの一条、婆々の真情をさらけ出して看客の心をまづ引掴んだのは老手。只勘平の後半が感心出来ぬ、悲痛な情を心に蔵してゐる間がよくて、後になつて浄るりに衰へを感ずる。清六の三味線簡明直截。    ◇  人形では玉七の婆々が駕を見送つての戸口がよく出来た。扇ケ谷でこの人は石堂を遣つてゐるが廉々がハツキリしなかつたが、この婆々で見直した。栄三の勘平当代の勘平役者。「身の誤りに勘平も」は床とともに、手に汗を握らした。小兵吉の郷右衛門と政亀の千崎弥五郎の二人侍立派、勘平が二人を止めるところ、いつも舞台が混乱するが、今度は手順がよく整然としてゐた    ◇  茶屋場、掛合、由良之助が土佐、武道言葉に耳さわりが多かつたが、堂々たる由良之助、只柔らかみが欠ける。さの太夫の力弥若輩すぎる、もつともつと努力が必要。錣のおかる、いつも程の厭味がなかつた、いつもほどの当て節が少なかつた。予期したよりはサラリとしたおかる。だが、その濃艶々姿は往々にして武家奉公の腰元であつた気位が皆無である。例の「ヤア〳〵これはまアほんかいの」依然厭味だ。大隅太夫の平右衛門、一杯に突張つてもやらず、調子に工風もなく引立たない。カツキリとしない。その上第一の欠点は純然たる世話の言葉であるのはどうあらう。足軽でも「三人扶持」と由良之助が云つてゐるのだ。寺子屋で源蔵の世話味を私は賞したが、平右衛門の世話味は有難くない。貴鳳の九太夫と蛸肴の条りで由良之助と九太夫とのイキが合はず漸層的に高まつて来るこの場の面白味を欠いた。    ◇  絃の前半は吉兵衛、後半は新左衛門であつた。聞くところによると、道八と新左衛門と隔日の交替であるといふ事である。この事を聞いて私は松竹とその芸人の雇傭関係に再び大きな疑問がある。嘗て本誌でこの問題に触れて「日残り」に関して書いたが、今度こゝに再び定まつたる太夫が出てゐてその合三味線が、隔日出勤、従つて収入が半減されてゐるといふ今日の時代に逆行の奇怪なる実例に逢着してゐる。私はこれは別項で少し述べるところがあり、松竹と芸人との関係につき世間の注意を惹き、且つ芸人自らの自覚を促したい。--(尤も別項にこの事を述べてあるが頁数の都合で、本号には載れず次号になるかも知れぬ。)読者は別項(或は次号)に注意されたい。    ◇  人形では栄三の由良之助、柔らかみがあつて、貫録があつて、品位を柔らかみのために犠牲にせす立派だ。文五郎のおかるもこの場になつて燦然として光る。延鏡をとつて文読む後姿、いつもの通り絶妙。二階から落す簪が歌舞伎の平打と違ひ赤い玉、それが小袖が黒の紋付である由良之助の髷に仮りにさゝれる、この一点の紅が、この場の情景を柔らかくし、人形でなくば見られぬ風情を点出する、うまく考へられた型だ。その他一通り。--これで追出しなのだが、事実お客は立てない、切るべからざる処で終演にしてゐるのだ、浄るりを知ると知らぬに拘らず「もうしまひかいな」とつぶやく多くの人を椅子席に見る。何んと無茶な人形の忠臣蔵を見るものかな。(十一日目見物)