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【 石割松太郎 古靱太夫の「引窓」 --文楽座の盆替り-- 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
古靱太夫の「引窓」
--文楽座の盆替り--
石割松太郎
演芸月刊 昭和五年九月廿日 pp.17-20
打続けた文楽座が、八月を若手の掌に委して、近来稀に見る熱のある興行を見せたあとを受けて九月の盆替りを「新秋特別興行」としてゐる。この盆替りを何故「特別興行」といふかといふに、紋下、庵の元老の両太夫が休んでゐるからの「特別」らしいが、時間の上において、この特別興行は、近い将来の文楽座の陣容を暗示したものと見ていゝ。
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ついこの間、京の人形芝居の専門雑誌、南江氏の「マリオネツト」の第三号に、現文楽座の改革意見を徴せられたので、私は露骨に歯に衣を着せない文楽座内部の改革意見の一端を申述べた。その私の謂ふ改革内容が丁度今度の所謂「新秋特別興行」と符節を合するやうな陣容であつたのに、私は稍々満足の意を表する。が、文楽座の施設は、所謂「特別」でこれが常態でないが、今度のこの陣容、即ち古靱太夫を文楽座の第一線に立たすことが、早ければ早いだけ、後進の道は拓けるのである。
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大毎の演芸子はこの報道に付加へて紋下が病気でもないに休場するのは異例だといつてゐるが、穴勝さうとのみはいへまい。この筆法だと、八月の興行陣容にも非難が加へられねばならぬ事になる。隆々の勢を得た松島文楽座時代の越路太夫に対する、その師匠で紋下であつた四代目春太夫の晩年の美しい態度などは、真に後進に道を拓く「道」を暗示してゐる。--この事については大分申したい実例も沢山あるが、そは他日の事にしよう。一つは、「マリオネツト」に私が説いたところを再び説く繁を避けたいからである。
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前狂言が、「八陣」で、浪花の入江を例のカケ合、--無法たる斯道を毒するとも、何の益をも齎らさない例の掛合だ。私の見物した日は、正清が鏡太夫、--浄るりの世界に唯一つ持つグロテクスな英雄に仕立て上げた人間ばなれのした正清、でありながら、写実味が相当なくばらぬ正清はむつかしい難物らしい。鏡の正清では何とも請容れられない。人形が栄三であるだけに、又人形の方では、段切れに船を廻はして舳に立たせて大きい舞台を見せるだけに鏡の正清の、例の笑ひが締らない、技巧も拙い。近いところで、私の耳にあるのでは亡くなるつい前に語つてゐた死んだ弥太夫が、あの難声、あの老いた出ない声で正清の笑ひが、御霊の文楽座を圧倒した事の記憶がまざ〳〵と甦る。浄るりの大小、技巧の巧拙がこゝにある。老練なる故弥太夫と修業中の鏡とを比較しようといふのではないが、余りにへだたりがありすぎた事が遺憾である。鏡必すしも前途に望がないとはいはないが、こんな風に正清を掛合で語つてゐては到底鏡のみに限らぬ、進歩発達の路がないのではあるまいか。例へば、鏡の正清と、源治の雛絹とでは芸の調和がとれてゐない、これが一つ。今一つカケ合で、且つ毎日の役替りで、正清が鏡であつたり、長尾太夫であつたりする事は人形との呼吸も一考すべきで、自然人形の舞台にも呼吸の合はない事が多くなる。二重の不調和を毎日繰返へしてゐる事は、決していゝ事でない、人形の舞台を益々粗笨にする傾向を生むばかりである。これ一つに掛合にすべからざる語り場を無理無体に掛合にする弊から生れる、調和を破る人形芝居の恐ろしい悪弊だ、この掛合といふ悪制度が、新文楽座再興以来の癌であらう。手術の施す余地のあるうちにメスを揮はぬと斯道のためにはとんだ事にならうか。
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主計の助早打はつばめ太夫に勝市で、掛合から解放されて面白く聴いた。どう語つてもさう大したものではないが纏つてゐた。人形では門造の大内義弘が、浄るりにあるこの種の智謀の士らしいところがいゝ。玉松の灘右衛門が、只の船頭になりたがるのは考へものだ、後藤だといふ底は割らないでも「実は」の品位がほしい。
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正清の本城が大隅太夫に、道八。度々いふが大隅太夫の不得手な語り物が、いつもこの太夫に配されてゐる。そして実はこの太夫を光らさうとする意図が松竹側にあつて、いつもその結果は反対に動くのは一種の皮肉だ。が、それは十分予想される事を、文楽座の当事者は予想しないのだ。これを贔屓の引倒しといふ。詮ずるところ、文楽の当事者が浄るりを知らないのだ。浄るりを知らないで狂言を立て、語り場を配するからの錯誤である。狂人に刃を持たしたやうなものだ。その人身御供に上つてゐるのが今のところ大隅太夫である。一応は大隅のものゝやうに思はるゝが八陣などは、決して大隅のものぢやない。雛絹の難声、そのクドキなど困つた。然らば正清がいゝかといふにさうはいかない。こゝに太夫の真の語り口を聴いてやらねばならぬ。前興行の寺子屋が悪るかつたが、まだ源蔵に特色があつた、こゝに拾ひどころがあつたが、「八陣」になると拾ひどころも、救ひどころもない。全く大隅太夫は仕打に殺されてゐる。
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丁度歌舞伎の世界でいふと豊田屋、寿三郎が大隅の地位だ。寿三郎を光らさうための第一劇場が寿三郎を一ヶ年に亘つて殺してゐた。歌舞伎浄るりに亘つて大隅と寿三郎がほんとに贔屓の引倒し。これは何によつて来るか、結果は同じだが、原因は違ふ、前者は太夫の語り口を知らない、浄るりが分らないといふ文楽当事者の無知から来り、後者は、寿三郎の劇団養成と、極端なる営利と二足の草鞋を履いてゐる錯誤からだ。そして虻蜂取らずに、贔負の引倒しでとう〴〵寿三郎の劇団は解散した。
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「引窓」の口が貴鳳太夫、毎日役替りのために、新文楽座になつて九ケ月、私は初めて貴鳳太夫を聴いた。相も変らぬ拙さ--といふより浄るりの品位がない、下素ばつたこの人の浄るりの疵はこれが第一、例へば「長崎の相撲に……永う御目にかゝりますまい」などの相模言葉にイヤミが多い。
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その切が古靱太夫、清六。今度の聴き物はこれ一つ。当人も得意と自信もあらう、落付があり、情意を尽して面白く聴かした。--古靱の浄るりに、うまいが面白くなかつたといふのが往々にしてある。こゝ数年前までの古靱の浄るりは、「往々にして」でなく殆んど凡てがうまいが面白くない浄るりであつた。イヤに語格の正しいのみの文法家の文章であつた。が、近来の古靱は文法家の面白い文章を書く。今日尚破格の面白味は求められないが、洗髪を新藁で結へた伝法な美人の姿はないが、浮世絵の美はないが、土佐風の絵巻物の面白味、楷書の端麗な面白味が、その浄るりに出て来たのが近来の古靱である。
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今度の「引窓」などがその一例である。私は試みに古靱が数年前に吹込んだ「引窓」一段のレコードによつて昔の古靭の姿を、文楽見物の前夜蓄音器で二度ばかり、聴きどころを三度ばかり聴いて翌日文楽座の桟敷に坐つたのである。勿論レコードをそのまゝに信じようとはしないが、数年前の「引窓」と、今日文楽に聴く「引窓」とでは、雲泥の差を認めた。如実に古靱の芸の進境の跡を両々相対して眺めたのである。
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殊に今度は婆々をよく語つたので、この一段が完壁に近いまでに聴かれた。例へば銀一包を出し絵姿を売れといふ、十次兵衛の言葉になつて、「ムウ母者人、廿年以前……その御子息は堅固でござるか」「与兵衛村々へ渡すその絵姿」とつゞく与平の言葉と婆々の言葉との間といひ、他を顧みないで、絵姿を売れと押していふ婆々の言葉は何ともいへずよかつた。又婆々の「七十に近い親持て」も語る者の肺腑から出る言葉であつた。
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いつも私が「堀川」を聴くと望む事だが、お俊が客への義理を説くとお俊の母が飜然として廓の義理に考へ及んで「娘の手前面目ない」からの母の心に私は泣きたいといふのであるが、「堀川」のこゝで泣かしてくれた太夫が一人もない。が、丁度この「堀川」と趣向、情境を等しくする、「引窓」の長五郎の辞で「ようお礼を仰言れや……未来の十次兵衛殿に立ますまいがの」で婆々が「ヲヽ誤つた長五郎」となるこの一条りの今度の古靱の浄るりで、私は覚えず泣かされた。久しく芝居、浄るりで泣けなかつた私が、今度久しぶりで眼鏡を曇らした。始終批判的な理智的にのみ舞台を見る癖が、永年養はれたが故に、舞台をそのまゝに、請容れられなかつた「芝居見物」として不幸な習慣の私の眼に涙を見せたのは、古靱の芸の力、芸の真実がかうさせたといへる。
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人形では、小兵吉の婆々が、「七十近い……」の処などが目に立つていゝ婆々を見せた。栄三の十次兵衛も当込まないで、時代世話のあたりも芝居よりはづつといゝ。空々しい鴈治郎の与平よりも栄三の与平に真実味が多い。玉松の長五郎も、「アヽ申し、誤りました〳〵」で婆々の膝にそつと手を置く情味がよく出た。文五郎のお早も他人に邪魔にならない様によく遣つてゐたのは舞台の統一の上からいゝ。総じて床も人形も緊張して面白い舞台を見せた
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次が「壷坂」錣。新左衛門が休場で団六が代つた。一生懸命に豊かな音声で語り面白かるべき筈が、太夫が節に捉はれて、浄るりを語らない。その節を当てようとする。そして今度の錣は、それほどに節で当てられない。差引詮ずると、真実のない空疎な浄るりを聴いたことになる。この意味において錣はその浄るりの立て直しが急務ぢやあるまいか。文楽の次の時代は錣と大隅の天下になる事も遠い将来ではあるまい。その二人が揃ひも揃つて近来の打続いて不出来、邪道に踏込んでゐることは、どういつたらいゝだらうか。が、まだ大隅の方は、その結果は予断を許さないが、立直しに向ひつゝあるやうだが、錣は依然として旧阿蒙、悟るべきは今だらう。迂曲しても本街道へ出るのは今日を措いては、もう日があるまい。人形の沢市は政亀で、案外手堅い。お里は文五郎で賑やか、が、これにも真実味がもつとほしい。
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切が「新口村」で又カケ合、ウンザリする。相生の忠兵衛、島の孫右衛門。梅川は南部の持役。島の孫右衛門が一等よい。人形では扇太郎の忠兵衛と紋十郎の梅川の夫婦役者のイキが舞台で合はないのはどうしたものか、人形がバラ〳〵になつてはならぬ筈、この罪は共通である。(二日目見物)