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【 石割松太郎 劇評の劇評 (第14輯) 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
劇評の劇評
石割松太郎
演芸月刊 第14輯 昭和五年七月廿日 pp.13-15
◇七月は道頓堀に歌舞伎がなく、喜劇に新国劇だから、劇評が払底。この欄で料理する肴がない筈だが、私の机上の盆には切抜がある。或は「劇評の劇評」といふには当るまいが、このまゝの題号で物を申さうとする。
◇去月廿九日の大毎サンデー・セクシヨンに「文楽・人形」といふ題の木村荘八氏の一文を読む。「写実過る背景」といふ内で文楽舞台の写実背景を悪だといつてるのは尤もの御説、全然同感である。あの幕の色合もいけぬといはれるこれも賛成。処で私の腑に落ちぬのは次の一文だ。
いつか見た「八百屋お七」のお七嬢が黄八丈を着てゐなかつた、これも気になります。昔から娘八丈と通つたもの、むざ〳〵変易は困ります。(原文のまゝ)
◇とある。これが画家の論だからをかしい。木村氏はどう戸迷うてゐるのか。私は寡聞にして未だ嘗てお七の黄八丈など見た事がない。お七が黄八丈を着た芝居が東京にありますか。大阪ぢや人形でも芝居でもどんな田舎芝居でもお七は黄八丈を着ない。時代的の考証でいふと、八百屋お七の最初の作は宝永。紀海音の「恋緋桜」の出来たのが享保です。こんな時代に大体黄八丈といふ品物がありますか、安永度になつて初めて黄八丈が珍しく流行つたから、白子屋お駒の人形に黄八丈を着せた。それで「恋娘昔八丈」。
◇お七が黄八丈では溜つたものでない。「むざ〳〵変易は困ります」と木村氏はいふが、私は東京の田舎者が上方へ来て利いた風な事をいふのは困りますと申上げる。
◇その木村荘八氏が、文楽で嬉しい随一は通し狂言を見られる事だといふその一例が「本朝廿四孝」の筍掘りから見られる事だといふ「筍掘り」は一体幾段目か、御存じか、上方へ来た田舎者の利いた風な事は困ります、全く。
◇もう一つ利いた風な事を拾ふと「道八の三味線など糸はワキ芸でありながら天晴れと思ひます」といふが、糸はワキ芸といふ事は何といふ意味か、浄るりの三味線は伴奏ぢやありません哥沢の三味線とは性質が今日では異ふワキ芸の意味が曖昧だが伴奏だといふやうな心持でワキ芸といふならば、とんでもない事である。こんな耳で浄るりを聴かうといふのは全く困ります。
◇同じ木村荘八氏が又つゞいて「操つりの妙所」といふ題をおいて、次のやうな一文がある。
沼津でもお米に対して重兵衛が色仕掛で兄妹の情を見せるくだり、人間では普通の色事としか見えないのが人形の加減でいゝ塩梅になります。(原文のまゝ)
といつてゐる。これが人形の特長だ人形の妙所だといふのだから溜らぬ。浄るりと芝居とではテキストが違つてゐます、今更こんな講釈をするがものでもないが、芝居の重兵衛のこの前半浄るりでいふ小揚の間と後半とでは役どころが違ふのがお芝居の手法。これを生一本な浄るりと一所くたにしてそれが人形浄るりの特色だなどゝいふといかに専門でない、絵が専門でも少しは劇画も描かうといふ人の御人体にもかゝはり、それでは全く困ります。操人形の妙所がこんな所にあると文中にあるやうに喧伝されると人形浄るりのため甚だ以て迷惑で、全く困ります。利いた風な事はおよしなさい。
◇最後に木村氏は「東京興行の出しものが毎年々々いつもきまつてゐる。見物をあまり甘く見て貰ひたくない」(原文のまゝ)--出し物のいつも〳〵同じやうなのは甘く見るのではない、他に理由があるが、同じものを幾度見てもかう籔睨みばかりしてゐるところを見ると甘く見られるのが当然の事でせう。「一言苦言をいつておきませう」と仰有る。東京の田舎者の利いた風なのには全く困りますよ、「一言苦言をいつておきませう。」
◇同じ大毎の文芸欄に木谷蓬吟氏が「あすの義太夫」といふ一文で、例の新作論を繰返へしτゐる。新作論についてはイヤ程反駁したからけふは書かぬが。その内に、「伴奏となる三味線の節づけも時代にぴつたりあふやうに簡単で、明朗なものでありさへすれば悪くない」(原文のまゝ)といつてゐるが、浄るりの三味線を伴奏だとこの人もいつてゐる。これが近松の研究者で浄るり語りの息子なんだからね。簡単にして明朗なるチヨンガレの三味線にするのがいゝ事なのでせう。分らず屋もこゝまで来ると一寸気楽だらう。
◇三宅周太郎氏の「文楽之研究」といふ新刊を見る。その序文に「この著書はどこ迄も「研究」であつて文楽の歴史でない、或は人形浄るりの歴史でない」と断りが書いてある。歴史を離れて古典の「研究」があるだらうか。まづ第一にこの点が開巻第一の不服だ--その次に「自然その道の玄人といふやうな人々には……この一冊を手に触れないでおいて頂く方が好都合である」といふ。然し文楽座の何かに関心を持たれる人々、又は人形浄るりの芸術的検討を要求せられる人々、即ち玄人や専門家以外の方方には逆に一人でも多く目を通して頂きたい(原文のまゝ)といつてゐる。玄人でない私は「人形浄るりの芸術的検討を要求してゐる」一人として私は早速に貪るが如くにこの著を読んだが、不思議なる事、事実でない事の沢山に蓬着した。事実でない事を基礎にして芸術的の検討とやらが成立つだらうか。それは心ゆつくりと、他日著者に教へを乞はうと思ふが、歴史でないといふ著者が「初代古靱太夫の斬殺事件」を書いてゐる。--但し事実小説の逆輸入の--これが著者の見解によると歴史の部に入らぬと見える。大椽を説き大隅を語つても、歴史でないさうな。そして著者によると「研究」といふ事はその現在状態の「礼讃」といふ事と同意義であるらしい不思議な事に至る所に私は蓬着する。現在の文楽の人々を、初めから最上級の芸術的のものとして、研究の対象にしてゐる。これが「研究」といふものだといふ事を、私は初めてこの著によつて教へられた。有難い事だ。
◇口絵の内に(第四十九)千九百廿五年フランスのアルベエル・メエボンといふ人の著書から操人形の古図を逆輸入をしてゐる。そして説明には、「よく古書にある絵だが」(原文のまゝ)といふ一句だけある。見るとその絵が人倫訓蒙図彙と手近かな声曲類纂にある図だ。この仏蘭西の著者は声曲類纂から複製をしてゐるのである。世の中は変な事になつて来たものだ。
◇この三宅氏の態度調子だと、今に日本では「俺のおやぢの戒名を忘れたんだ--なんだがよく聞いた戒名だが忘れたから、英独仏伊露の"GENEALOGY"を片つぱしから取調べたがとう〳〵解らなかつた」と得意になつて語る阿呆が出て来る事だらう。
◇
もう一つ可笑しい話がある。去る文楽の高名な太夫が、「和、訓、栞。といふ本はどんな本でせう」と私に訊く。突拍子もない問ひなので「エイ」と顔を見てゐると、「実は三宅周太郎さんが受領の事が書いてあるといふので手紙で尋ねて見えたが、太夫の方では一向知らぬ本です」といふ自問自答、私は可笑しくなつて、又馬鹿〳〵しくて、ソレには答へずに話頭を転じた。丁度中学の五年にゐる私の甥が学校帰りに遊びに来たらしく階下に話声が聞えたので、私は書斎から降りて、「『和訓栞』といふ本を知つてるかい」と試みに聞いてみる。「伯父さん、昔の辞林でせう旧臭い……」と甥は中学生らしい生意気な口を利いてゐた。これはお笑ひ草。
◇
大阪日日の淡海二の替の劇評に「雨」を評して「玉川の芸者だつた女、祇園の名妓だつた所が一つもない」と書いてある。玉川春江といふ女優いかにも舞台にそぐはぬ淡海の舞台を常に悪くするとも善くする事の滅多にない悪い女優ぶり。この「雨」でも芸者上りといふ所の微塵ない事は日日の評者と同感だが、この雨の脚本に「祇園の名妓」とも何ともいつてゐないのに、日日の評者はどうして「祇園の名妓」と断定するか、栄三の店員と銀波の床屋の若者との間に「先斗町に出てゐた」といふ意味だけの噂話があるだけだ。事詰らぬ一寸した不注意なミステークにすぎぬだけだが、非難の根底を誤つてゐるから評者の態度を不真面目とする。又同じ評中「怪」の盗人を淡海と太郎としてゐるが、太郎でなく楽太だ、楽太の頓馬があつてこの「怪」が生きてゐるそれを太郎だとしてゐる、こんな評を見る度びに不真面目か投やりかを、人の事だが気にかゝる。(石割松太郎記)