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【 石割松太郎 松竹、白井松次郎氏に与ふ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
松竹、白井松次郎氏に与ふ
   石割松太郎
 演芸月刊 第13輯  昭和五年六月廿日 pp.6-12
 
 
 この世界的の不況時に当つて、貴下がモツトーとせらるゝ如く、「道頓堀に不景気なし」とか、松竹興行土地建物株式会社のために、満腹の慶賀の意を表し、劇界独占を貴下のために祝すると共に、大阪劇壇のために呪咀の意を声明しておきます。
 ところで、今この公開状を貴下に致す所以は、「喧嘩過ぎての棒ちぎれ」の事件が、端なくも、今月の文楽座において貴下の実行さるゝ処が、この棒ちぎれの結末を事実に見せてゐる事の、この機会において、私は再び「喧嘩過ぎて」の「喧嘩」に撚りを戻して貴意を得たいのです。
 日本全国の劇界を掌握さるゝ多忙なる貴下は、もう多分御忘れだらうと思ふから、事の曲折を初めから申述べておきます。
   ◇
 事の起りは、昭和二年十月の雑誌「演芸画報」において私が「人形浄るり史素材蒐集について」といふ一文を投じ「人形」の歴史的資料蒐集の機関として九日会といふものを組織したことを書きました。そしてこの文中私は、
 松竹の文楽に対する興行方針に愛想が尽きたから--といつて松竹は営利会社であるから頼みにならない。「その日暮し」の松竹によつて人形浄るりの保存を計らうなどは樹によつて魚を得るよりも尚至難な事である。
といふ意味の事を申述べた。此事は私は今でも訂正する必要を認めない、真実かう思ひ、又その実例をいつでも、いくらでも公言することが出来るのです。そして又この昭和二年十月以来も、以前も幾度となく人形浄るりといふ大阪特有の郷土芸術を無みする松竹の態度--その営利一点ばりの、眼中営利以外に「芸術的良心」のない事を度々述べて来ました事は、貴下の十分知らるゝ処でせう。
  ◇
 すると、一日貴下は、目下大阪日々新聞社々会部長の職にある富田泰彦氏を介して、人形浄るりに就いて「貴意を得たい」といふ伝言があつて、貴下と富田氏と私とが会見しましたことは、物覚えのいゝ貴下の記憶に新たなる事だと思ひます。
   ◇
 この時です、貴下と私は人形浄るりの将来について、斯道のために私は私の存じ寄りを述べました、すると貴下は「解りました。が、今日御互ひに隔意なく人形浄るりについて話したことは、もう決して活字にはして下さるな、私もこの場限り人に話しませぬ」といふ意味の事を貴下は申された。私はそれを諒としたのでした。
   ◇
 越えてその翌月即ち昭和二年十一月の「演芸画報」を見ると、
  人形浄るりの経営に就て   白井松次郎
といふ一文がある。営利会社の一社長としての高説を、私は初めて承りました。が、その文中にて実に貴下は、自ら私に約束せられた事を破つてゐられる一事がある。それはかうです。
 端場を食つてしまつて、いゝ処だけ見るといふことになると此度ばかりでせめて古典の妙味を聴かうとする方々に不満を与へて芝居のやうにズン〳〵切つて行くわけにはまゐりません。時間を短かくすることはいまの人員では到底役が割りきれません。とかう申すと「それならば一段を三つぐらいに分けて分担さればいゝではないか」といふお説になりましたがこれは殆んど太夫を殺してしまふものです、幼少の頃から多年の修業を積んでやつと一人前にならうとする楽しみは一段を語り終せたいが為めの修業であります、巧い拙いは問題外として一段語り終せる力だけが既に太夫としての誇りであります。たとへ一時間何十分または、二時間に及ぼうとも叮嚀に語り終せるところが文楽座の太夫としての特権であるかぎりこれは断じてつぶされません。……
と、貴下は「画報」誌上で天下に公言された事は貴下は恐らく御忘れはないでせう。万一御忘れならば、昭和二年十一月の「演芸画報」の貴下署名の一文を、今一度読返へさるゝがいゝ。
   ◇
 問題はこゝです。この一段を二つ乃至三つに分けるといふ事は、他の誰人もこの時以前に発表してゐません。私が富田泰彦氏仲介の許に貴下に逢ふた時に、私が述べた時間短縮に対する一方法なのです。即ちこの会合の内容はこの場ぎりの事にして下さいと貴下がいうた内容なのです。貴下はこの会合の話を活字にしてくれなといつた、その貴下が、平然として自ら画報の翌月に、天下にかう公言し自ら言つた事を裏切つてゐる。此記事を見た時に、私は不愉快なる感じと一杯喰はされた不満の情に駆られたのでした。
   ◇
 早速、この事を仲介の富田氏と、新町演舞場の温習会の披露の席で邂逅した時に話すと、富田氏も、いかにもあれは「白井氏が非紳士的です」と言つたことを、私はまざ〳〵と記憶してゐます。私は「画報」のその翌月に貴下の不都合なる一文に対して反駁を加へる心積りをしてゐました。--ところが、忘れもせぬこの新町温習会初日(昭和二年十一月七日)の夜、温習会を見物して帰宅し、この貴下への詰問の一文を書きかけたのでしたが、夜半に及び、尚申したい事が胸に悶へて、長い初冬の夜も、東が白らみかけたので、筆を擱いて床に就きました。そして翌十一月八日正午前眠りから醒めて顔を洗はうとした時に、私は怖しいものに直面したのです。それは発作的に脳溢血に冒かされたのでした。爾来ニケ月といふもの病床に、天井を眺めて暮しました。そのため貴下への詰問の一文が、とう〳〵稿半ばにして、今でも私の手文庫の闇に恨を呑んでゐるのです。
   ◇
 私が前掲で「喧嘩すぎての棒ちぎれ」と申しましたのはこの意味で、この私の胸につかえた一埒は今日まで、このまゝに持越して来ました。機会を逸してしまつたのです。この「喧嘩」に今改めて花を咲かさうと、私はいふのでなくして、今月今日--三年目に巡り巡つて、貴下は私が申した一段を二つ乃至三つに切つて語る事を、右の貴下署名の一文を忘れたかの如く文楽座で貴下は実行してゐる。即ち「廿四孝」の三段目において、四段目において、又「沼津」において私の説の前に叩頭膝を折つて兜を脱いでゐるのを見て、私はニヤリと只貴下の顔を見返へして笑ひたいのです。が、貴下とは相会ふ機会もあ句ませんからニヤリと笑ふつもりで、この一文を書きます。
   ◇
 尤も貴下が富田氏のいふ「非紳士的の行動」に出られたから、私は私の病怠るとともに、筆に口に、私としては鋭く、--当夜の会見の模様としては、今に一言もしませんが、私の説の内容は三年間口を酸くし、筆を禿して説いて来ました。それは貴下も御存じのところです。
   ◇
 で、私の今日のこの一文は、その貴下の非紳士的の行動を詰らうとするには、もう「時」が私の感情を洗ひ流して了ひ又その私の感情に水を注しましたから申す要もないのですが、私の説の前に兜を脱いだ貴下は、一体「画報」の一文をどう取扱はれようとするのかを聴きたいのです。
 貴下は一段を一太夫が語る事を文楽座の太夫の特権だといつてゐられます。--この貴下の公言する特権を、貴下は自ら蹂躙してゐる。既に自ら言つた事を踏みにぢつてゐる。--と見ていゝのですか--こゝが聴きどころだ。
 一時間かゝらうが二時間かゝらうが構はんこの特権を断じてつぶしませんと、貴下は世間に公言された。--といふ事は文楽座の太夫達に公約された事です。その公約を平然として無視していゝものなのでせうか。貴下に伺ひたいのはこの点です。
   ◇
 かう私がいふと、貴下のせりふは聴かなくても解つてゐます。その当時はさうであつたが、三年後の今日では時世が変つてゐる、既に十二時乃至一時の開場が今日では三時になつてゐる、二時間乃至三時間の時間の短縮は時世の要求ですから仕方がない--と貴下は答へられるに相違がない。私はかう貴下のために一応の代弁をしてみるが--さうは言はせない。
   ◇
 貴下は、一段を分割して語らす事は、「太夫を殺すものだ」といつてゐる。三年前には殺す方法である分割が、二時間乃至三時間の興行時間の短縮のために「殺すもの」でなくなり、特権を剥脱したものでないといふ理由と理論とはどこから湧いて来るのですかを、ハツキリと貴下の口乃至貴下の筆で聴きたいのです。どうです。
   ◇
 貴下は[太夫の特権」を剥脱したのでない「時世」だといふならば、随分長い間の貴下の興行知識も案外眼先の見えない節穴のやうな心眼を持つてゐられるものであることを私は断言したい。三年足らずの昭和二年の末には、一時間でも二時間でもといつた貴下が--又「断じてつぶしません」と太夫達に公約した言葉を、天下に言明した言葉を貴下は立派に反古にしてゐる。
 私は元来分割論者です。恐らく三年前に分割論を公言した人は私以外にありますまい。私が分割論を大毎の演芸欄に書いた時に、所謂幕内の玄人筋は一言の許に笑つたのです。去る高名な太夫などは、「素人は仕方がないものだ」と眉を顰めたさうです。が、これは又聴きですから、私はその太夫の名を公表しません。その太夫が易々として今日、貴下のいふ「太夫の特権」を蹂躙されても一言もいはず諾々として貴下のいふまゝになつてゐます。
   ◇
 問題はこゝです、私は元来分割論の本家ですから、分割が悪いといふのでは勿論ない、公約を無視して顧みない貴下の態度を陋とし、易々諾々たる太夫の無気力を嗤ひたいのです。そして「断じてつぶしません」といつた貴下の言明は、そのまゝでいゝものなのでせうかと一言伺ひたいのです。
   ◇
 再び問題はこゝです。--かくの如く公約を平然として無視する貴下の態度は、近来益々酷しく弥々横暴を極めてゐます。その原因は恐らく東西の劇界を、--帝劇の興行権を獲得せられた事を以て完全にモノポライズされたといふ貴下の意識の争はれぬ一つの現はれだと私は見てゐます多年辛酸を嘗めて、幾浮沈を重ねて来た今日、貴下は完全に劇界を独占された事によつてホツと一イキ吐いたのでせう。そしてその横暴が益々火の手を加へ、貴下の胸中に、「横暴」が頭を擡げて来たのでせう。
   ◇
 事の大小に拘らず、この貴下の横暴の影がしば〳〵眼に余るほど見えて来ました。最も小さい話の--些事ながら貴下の横暴の一例を如実に茲に述べてみます。貴下はこれを横暴だと思はないのかといふ事を、私は貴下に問ひたいのです。
   ◇
 京家--故中村雀右衛門が、貴下の舞台で死ました。其遺族が、目下細々と旅館営業をしてゐる、そして貴下の情味の一滴の露だに及んでゐない事は貴下のつとに知らるゝところ。この雀右衛門の遺子の章景は貴下の舞台に立つ将来の未知数なる一俳優です。この章景に先代からの弟子が幾人かあります。その一人なる芝芸雀は、貴下の傘下にある一人の俳優ですが、この程、章景の手についてゐては、働く事も稀れであるといふ理由で林長三郎の預り弟子となる事の承諾を、人を以て京家に求めて来ました京家ではこれを承諾したのですが遺族は、故人在世の当時を忍んで、弟子も離るゝ淋しさに愚痴を滾した。この事を私が貴下の使はれ人に話をしたのを、貴下が聴いて京家の遺族を眼の敵の如くに憎悪視し、今後一切芝芸雀といふ一子役上りを舞台に使ふなと、奥役に一命を下されたさうです。--これは私が貴下の奥役から聴いたところですが、事実の誤りはありますまいな。--と一応ダメを押しておきます。
   ◇
 この事を聴いて、私は京家の為めよかれと、思うて云ふた事が、芝芸雀といふ子役上りの生活を奪ふ事となつたのを悲しんだのです。そして聴くところによると貴下は、京家の弟子は今後、章景が舞台に出ねば使つてはならぬと厳命を下されたさうです。即ち、師匠が舞台に出ねばその所属の弟子は一切使はぬといふ事に極める。--といふ松竹の内規を奥役から聴いたから、私は生活を奪はれたる芝芸雀を哀れに思うて、一旦話のあつた林長三郎を、その楽屋に訪ねて、この一埒を話して預り弟子たる事の承諾をえました。即ち中断された預り弟子の一埒を、私が足を運んで纏めたのです。
   ◇
 私が何故長三郎に改めて預り弟子たる事を依頼したかといふと、師匠が舞台へ出れば、弟子も使ふといふ松竹の内規を知つたから、長三郎に預り弟子たる事の承諾をえば、芝芸雀の生活は安全であると思うたからです。これが理の当然です。
 然るに貴下は、これを拒まれたさうである。そして事実において、六月中座において章景が、「いろは新助」の丁稚で舞台を稼いでゐる。されば京家の弟子は尽く何かの舞台を稼いでゐます。が、芝芸雀は依然として六月は休場して失業してゐます。即ち前述の貴下の感情に触れて、その日の口糊さへもが自分の腕で過ごせぬ事になつてゐます。言葉を換へると貴下の御機嫌に逆うたから失業してゐるといふわけです。即ち大阪の俳優は貴下の感情一つの為めに生活を左右されてゐるのです。
   ◇
 そして芝芸雀を、その家において面倒を見てゐる同優の後援者である京四条近江屋の主人が、度々このために足を運んで舞台に働けるやう、迫つて来るのです。貴下はこの事実を知られないか知らぬが、この事は何んと見ていゝか私は近江屋の主人に答へました、芝芸雀失業の原因は、前述の如く白井氏の根性の曲つてゐるのが原因である。これをどうせよといふのかと反問したのです。
 問題はこゝだ。
 芝芸雀を使ふ使はぬは貴下の随意です。それを私が茲で問題にするのではない事を改めてしかと言明します。私は人の生活を奪ふ事を気の毒に思ひ、林長三郎に預り弟子たる事を依頼した、而して当の本人の長三郎は快く承諾したに拘らず、貴下は感情の上において蟠る処ありて、これを拒んでゐるといふ事である。が、さ様なる横暴なる事がありえる事かと私は問ひたいのです。
 即ちその結果はかういふ事になる。--
 大阪の俳優は、その弟子さへもを貴下の感情如何によつて自由にする事が出来ない。弟子を預る事さへも出来ない--といふ結果を見る。
 即ち大阪の俳優は、本人が承知しτも、貴下の感情の赴くまゝに意志を束縛されて貴下のいふまゝにならねばならぬといふ事になる。--これが横暴でなくして何んであるか。
 私の問題だといふのはこゝの事です。使ふ使はぬは、お前さんの勝手だ。が、預り弟子たる事を拒む理由が、本人以外の貴下にどうしてそんな権能が与へられてゐるのかを私は聴きたいのです。貴下に聴かうとするのは、この点です。
   ◇
 前掲のこの二つの実例によつて、完全に日本の劇界を独占した貴下は、或は知らず〳〵においてか、この横暴を今日白昼敢てしてゐるのです。
 これのみに限らぬ。貴下の感情のまゝに--荒らぶる感情のまゝに、暴威を揮はるゝ大阪劇壇は禍ひなるかなと、私は断言します。これが嘘といふならば、前掲の繋がりからして松竹横暴の幾多の実例を京家の遺族と貴下との昨夏から結んで解けない紛糾の真相を、太陽の下に晒して世間の正義ある批判に訴へたいと私は思ひます。私の「演芸月刊」は微力ですから、且つ私の個人雑誌であるといふが故に、私は他に方法を選み幸ひ正義の味方である去る天下の刊行物によりて、京家を離れて、即ち京家の依囑によつてゞなく、私自身の自由なる批判の立場において、貴下と見ゆる機会のある事を欣ぶものです。私の説く処に不満があり、貴下の名誉を毀くるところあらば、私は甘じて黒白を裁かるゝ天下の法廷において貴下と見えようと思ひます。--が、前掲の浄るりの分割は、「演芸画報」の昭和二年十一月号を一覧すれば、すぐ是非曲直の分る事です。貴下がお忘れならば貴下は早速同号を閲読して御覧なさい。そしてこの「月刊」の読者には、私の言ふ処に誤りがあるか、公明にして正大なる御批判を下されたい事を囑望するものです。