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【 石割松太郎 文楽座の「妹脊山」 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
文楽座の「妹脊山」
  石割松太郎
 演芸月刊 第十輯 昭和五年三月廿日 pp.19-23
 
 
 ◇文楽座の「妹脊山」
 四ツ橋に復活興行以来、文楽座は今度で三興行である。更生のこの新築文楽座に、こゝ幾年にも、見なかつた場取りに困難する程、--仮令それが組見の事件興行であつても、新築以来、毎興行三十余日を満員で続けえた事は人形浄瑠璃のために同慶に堪へない。その原因がどこにあつたにしろ、従来の「文楽のお客」以外の、見物が多い事は認めねばならぬ。この看客をどれだけ人形芝居に繋留めるかゞ問題だ。人形浄瑠璃の運命について、現今の大阪の歌舞伎の舞台において、相当交渉のある考察もあるが、今二三ケ月の「文楽の事業」を見てから私は発現したいと思ふ。
   ◇
 それよりも今は、更生第三次興行の三月の文楽座における興味を持たれた中狂言「妹脊山」山の段から、私の思のところを披歴する。
   ◇
 この三興行に当つて、掛合演出を、私は極力無意義であると高唱してゐるが妹脊山の山の段ばかりは当然の事でこの曲などは掛合であつて、更らに面白味が増してゐる。申すまでもなく、この作は近松半二の傑作たるのみならず、明和の昔において再興の竹本座を克く興隆に向ふ一転機を与へた由緒ある作である上に、大判事は染太夫、定高は、初代春太夫が女武道をよく語り終せたといふ因念のある語り物。この春太夫は大阪で初めて「矢口」のお舟を語つて名誉の舞台を残した人で、堺の出身である。浄瑠璃中の若い女で私の一等好きなお舟を語つたのが、春太夫で、同郷の宜のある堺の出身で、私の最も好む「妹脊山」の初演もこの春太夫が定高を語つた、そして竹本座の再興が、この「妹脊山」のために出来たといつていゝといふ二重にも三重にも好きな、私にとつて好ましい「妹脊山」が出たのであるから、私の興味はこの「山の段」に繋がれた。
   ◇
 私の記憶を呼起すと、摂津大椽引退前の明冶末に、この妹脊山が出た時に摂津の定高、南部の雛鳥、越路の大判事だつたと思ふ、大椽はこの山の定高と御殿とを語つてゐたが、「竹に雀」の条に、実に感心した事を覚えてゐる。今にハツキリとそのうまさが耳底に残つてゐる。もう少し逆ると摂津津の定高に先代津太夫の大判事が絶妙の技を聴かせたといふ事である。
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 今度の大判事は津太夫、定高は土佐太夫、こ我之助の古靱、雛鳥の錣、腰元が新しいさの太夫である。
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 大判事と定高を比較してみると、辞のうまい人だけに勝味は定高にある。大判事の津太夫は語り込んで行くうちにはうま味の出る人であるが、山の段の如く辞の取やりになると、損の罫に廻はる人で、極めて聴劣る。この前に弁天座で山が出た時にも、私はハツキリと申述べたと心得るが、近松半二がこの狂言を左右シンメトリカルの舞台に技巧を尽して書いてある。そして一場の括りどこ--扇で云へばシツカリとした要がなくばならぬ。それは大判事が握つてゐる筈であるが、今度の山は妹山と脊山とがバラ〳〵になるやうに感受される。詳しくいへばシンメトリカルの二つの舞台が、「ヤア雛鳥が首討つたか」「こ我殿は腹切つてか」といふ大判事と定高の辞でグツと一つの舞台に纏り、再び離れて、二度目には、「吉野の川の水盃、桜の林の大島台」でこの二つの舞台が又ピタリと一つに融合し、天地は豁然と開けたやうな心持しかもその内に底知れぬ二つの哀愁が華やかな桜の林の島台のうちに漂うてゐるといふのが、この作の演出上の力点である。そして、最後の大判事の辞である「今雛鳥と改めて親が許して尽未来、五百生まで変らぬ夫婦……高声に閻魔の庁を名乗つて通れ」がグイと刺された利き釘でなくばならぬ。そしてそれは大判事を語る太夫の仕事である。この点に津太夫の用意が足らなかつた。そのために今度の「山の段」がそれほどの舞台効果がなかつた。
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 この前の弁天座では舞台の幅が広かつたので、「ヤア雛鳥の首討つてか」のイキがピタリと合はなかつたが、今度は舞台が人形舞台に相当してゐただけに、太夫のイキも人形のイキも、初日を見物したのだが、至極よく合つた。然し、最後の利き釘の「閻魔の庁を名乗つて通れ」の一句に津太夫の力がピントを逸してゐた。そのために、この二つの舞台を一つに締め括くる気魄が乏しかつたから、この一場をまんまとだらけさした。
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 今一つ津太夫の為めにいひたい事はこの前にも私が感じた事だが、掛合ものになると、--今度の大判事の如きがそれで、津太夫の辞がせりふになりはしないか。これは私がいつも所作事の舞台に言ひつゞけてゐるが、それほど人の注意を惹かないので、私は不思議に思ひ、遺憾に思ふ事だが、例へば義太夫地の所作事の舞台は、俳優のせりふは義太夫から出てほしい。常磐津地ならば常磐津のせりふになつてほしい。清元地ならば清元のせりふにならぬと舞台の調和がとれぬといふのが、私のいはうとする処である。
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 丁度、今中座で演じてゐる常磐津の「山姥」で、三田の仕の延若のせりふが常磐津離れがしてゐるから、この「山姥」の舞台は延若のために調和を破られてゐる。延寿太夫の「かさね」は渾然たる芸術的の舞台だがあの累なり与左衛門が、梅幸羽左衛門の仮声でなくていゝが、あのせりふ廻はし、あの活殺を外にしては、恐らく「累」の舞台は見てゐられまい。素で語る時の延寿太夫の辞を参照されたい。
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 今一例をいふと、今の常磐津の家元文字太夫は、節はとにかくとして辞のうまい人だといふのが世間の批判だが私はこれに反対する。文字太夫の節は今は措いて問はないが、私は文字太夫の常磐津の辞は拙いといふ、世評とは反対の事をいひたい。その謂ふ意は、家元の辞は常磐津の辞でなく歌舞伎の仮声だといふのだ。常磐津で歌舞伎の仮声を遣ふのは拙いといつて差支があるまいぢやないか。--同じ事が津太夫の今度の大判事にいへると思ふ。その一例が「一生の名残女の面、一目見て何故死なぬ」の一条の如き、「女の面見てな。な。な、ぜ死なぬ」といふ風の言ひ廻はしである。私はこの一くだりを辞でなくてせりふだといふ、歌舞伎の仮声だといふのである。
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 今一つ太夫三味線人形の三業について共同の失敗は例の「吉野の川の水盃桜の林の大島台」から舞台の模様がバラリと変つて華やかに、しかも一抹の哀愁がその底に流れてゐるといふ舞台の変転が、この作の演出に要求せねばならぬ事は前に述べたが、これは今度の舞台に太夫にも三味線にも人形にもその気配がないのは実に遺憾であつた
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 錣の雛鳥、あの声量とあの豊かなる調子を持ちながら雛鳥の下品なる事、酒屋のお園と変りがない、堀川のお俊と変りがない。所謂王代物であるといふ点が微塵もない。古靱のこ我之助、手堅い一方で、こ久之助の「若さ」を欠いてゐる。
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 人形では文五郎の定高、流石に形にうまい。栄三の大判事は形容ばかりに走らず人物を内面的に遣はうとしてゐる近来の栄三の傾向が、今度の大判事にもハツキリと見せてゐる。いつもの形だが、柱に靠りかゝつた中腰の形や桜の枝を散らさずに川へ投げる刹那に克くその心持を出してゐた。雛道具を流す条でいつも人形では、庭の竹のさらえで掻寄せてゐるが、歌舞伎でやる刀の小尻で掻寄せる方が、見た目がいゝ、こんなのは人形のしきたりを捨てゝも歌舞伎のやり口を真似て面白いと思ふかどうか。刀の小尻を使つてゐるから、流れ寄る首には携緒に小づかを結へて引寄せるのが自然の手順だと思ふがどうか。
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 政亀のこ我之助もくすんでゐる。紋十郎の雛鳥はこの人の身分でこゝで遜色を見せぬのは偉いが、動きすぎると品位を落す点が見える。
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 背景は、段々と写実に傾き「絵」を忘れて来るのは困る、この前興行の国性爺の紅流しもさうだつたが、浮世絵の骨法を忘れて水彩画か油画の手法が見える。こんどの山で巻瀧がなくて平らな水の流れは舞台の情趣が違ひはせぬか。意識して古風にやつても「時」の力はともすればさうはさせないのだが放漫にしておくと飛んだ事になる。これは文楽当事者の考ふべき事だと思ふ
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 「山」一段で思はす紙を費やしたので他は端折る。--
 「良弁杉」1志賀の里はつばめ太夫が病気欠勤で相生太夫が代つてゐた、この人の浄瑠璃の素直さを私はとりたい。厭味のないのをよしとする。
 この場の背景に茶畑に四人ばかり切出しの茶摘み女を出してゐたが言語道断、いつか道頓堀で背景に鳥の群立つてゐるところがあつたのを私は難じたが、前に動く人形なり俳優を持つて動かぬ切出しの人物や動物を見せるのは舞台の幻想を破る基である。何の効果もないにこれらの虞あるものを舞台に出す必要がどこにあるか。
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 桜の宮物狂は駒太夫その他の例の掛合、掛合なるが故に聴く気になれない相生太夫の東大寺があつて「二月堂」が古靱太夫、いつものこの人の語り口、一言一言を克明にハツキリと語つて行くと、この作の冗慢さが弥が上にハツキリと見えるので、作の疵が現はになる。節付は名人の団平だが、作はその妻女のちか女。多少の文字のあつた女であらうが、かういふ長いものになると疵だらけの文章、それは古靱の知つた事ではないが、団平が優れたる作家を獲なかつた事は返へす〴〵も浄瑠璃界のためにおしい。団平に優れたる作家を配することが出来たらば、彼の新作は「壷坂」や「良弁杉」や「大阪落城」や「猿ケ島」の如き駄作に無用の精力を浪費せすに、大作を残したらうと遺憾に堪へない。
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 古靱が一言一句ハツキリと牙彫のやうに語つて行くと言つたが、前の「山」の段で言落した事で、土佐太夫が定高のくだりで「……跡に置くほど涙の種侍女ども其一式残らず川へ流灌頂」といふのが幾度聴いても「流れ官女」と聴える。いつかも「悪所通ひ」が、何度聴き直しても「悪女通ひ」と聴えた事があつたが、濁ると澄むとで意味ががらりと異つて聴え、又詰めると延びるのでも意味が違ふ。これを長唄の場合に例をとると、小三郎の唄を聴いて一言一句に疑義を挟む余地のない--かう聴いたがかうか知らんといふ事が一度もない。語り物唄ひ物はまづかうありたい。
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 こゝで、越路と弦阿弥との七回忌の口上がある。浄るりの方では珍しい口上の一幕だけに、一くだり〳〵いふ各太夫の口上に節が付いてゐて聴苦しい物々で、口上などは、やつぱり素で述べてほしい、わけて鶴尾太夫の技巧に富んだ衒気満々の口上は厭味だ。
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 七回忌追善の狂言は「空也念仏」といふ、今流行のナンセンス物、先代友次郎の節付を、今の友次郎が補修したものだと耳聞したが、全く詰らない出し物、恐らく時間が短くて、追善の意を致し太夫、三味線をはかす工風のみの出し物だらうが、聴いてゐると気恥しい心地がする。末尾に「何とかして江戸堀の」とか「松屋町」などの拙劣なる入文句は誰の加筆か知らぬが、もう少し芸術的の良心があつてほしい。
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 切狂言が「野崎村」大隅太夫と道八である。これは亦近来にない悪いザラ〳〵とした手触りの野崎を聴くものである。嘗て大隅の「壷坂」を聴いて悪いのに驚いた事がある。又一の谷の「組討」を聴いて勝手の違つた組討に面喰つた事があつたが、今度の「野崎」は悪さにおいて「壷坂」に一層輪をかけた出来損ねである。
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 按ふにこの罪は三味線の道八の指導ぶりにありはしないか。組討の悪かつたのは、道八の指導が間違つてゐたのだと、私はハツキリとその時に思つたのだが、今度もさうだ。一例が大隅の声で、あの咽喉で、「恨みのたけを友禅の」の条りをあゝいふ風に三味線を弾かれて語れるだらうか、私は疑問とする。この野崎で、悪いのがお染第一、お光第二、婆々第三、殆んど完膚ないまでに聴き苦しい野崎は一寸類がない
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 前興行の弁慶の大隅の成功は半ば道八の功にあるとともに、「野崎」はその逆を真実とする。人形は皆一通り。