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【 石割松太郎 文楽座の怪しい記念出版 木谷蓬吟氏に続いて問ふ 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
文楽座の怪しい記念出版 木谷蓬吟氏に続いて問ふ
石割松太郎
演芸月刊 第九輯 pp 10-13 1930.2.20
わたくしは前号において、文楽座が新築復活芽出度門出を記念せんがために、出版された木谷蓬吟氏著の「文楽今昔譚」について、著者のこの著を為した態度について、学究者のあるまじき不埒を指摘して問ふところがあつた更らに細説に亘つて問はんとして一読するに及んで、益々愛想が尽きた杜撰といはうか、何といはう? 私はその言葉を知らない程誤謬と独断と疎漏とが続出して応接に逞がない。
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この蓬吟氏の著に、松竹の白井松次郎、大谷竹次郎両氏は、巻頭に名を連ねて、
「その豊富なる識見に拠る内容は、もつて斯道後世に貴重なる文献を為すことゝ思考いたします。」
と言つてゐる文楽座の記念出版である人は、恐らくこれを無条件に信じ、「後世貴重なる文献」となるであらう。御尤もだ。私はこの誤謬だらけの「文楽今昔譚」が「後世貴重なる文献」となる事を虞るゝ余りに、敢て再び、著者木谷氏の答ヘを聴かうとして、茲に筆を執るのである。
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この著者の態度の不純は、この著に添へたる「文楽座興行年表」と、音楽学校編の「邦楽年表」とを比較して前輯に私は問ふところがあつたが、更らに詳細に、この書の年表を点検調査するに及んで、殆んど「邦楽年表」の内から、文楽座の興行と目すべきものを、謄写したに止まるといふ証左が歴然として挙つて来たことを、私は著者の為めに、否学界のために悲しむものだ。私は前号においてこれを「剽窃」とはいはぬが」と私の筆を遠慮しておいたが、今日私は寧ろ音楽学校編の年表の抜書であることを報告せねばならぬことを悲しむものだ。
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実例を以ていふと、音楽学校の年表に誤れるのをそのまゝ踏襲して、木谷氏が誤つてゐるのは何を物語つてゐるか。音楽学校のに脱漏してゐるのは、木谷氏のにも脱漏してゐる。こは敷写しにあらずして何ぞや。--例へば天保八年十一月七日の「伽藍先代萩」その他の興行を記して居るが、これは事実は十二月二日の興行である。これを音楽学校の年表は誤つてゐる。その誤りをそのまゝ踏襲してゐる。或は一ケ月位の誤りは「誤りを踏襲した」のでなくて、単なる誤りだらうといふ弁護説があるかも知れぬが、こんな例が外にもあるのは何う弁護するか、いつも同じ誤りを偶然に重ぬるものだらうか今一つこの天保八年の興行に限つてさうはいへない大きな理由がある。木谷氏も本文において記してゐる如く、これは例の説教讃語座といふものゝ公事沙汰があつて、文楽座は永らく休座した。その暁に勝公事を以て再開した文楽座としては記念すべき一つの重い興行であつたのだ。忘れようとして忘れられない百万塔のやうなこの興行の月日は、只の興行の月日とは事が異ふ。この興行の月日をしも他人の編著の誤りそのまゝを踏襲して顧みないことにまづ私は、不審を打つのだ。
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こんな事の例はいくつもある。そして又安政三年十月興行及び翌年の正月には三代清七が死んでゐるのが、生きてゐる事になつてゐる。これも清七が死んで、初代団平が初めて長門太夫の合三味線となつたといふ忘れられない興行だが平気で誤謬を重ねてゐる。
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まだ〳〵ある。が、こんな誤りを正してゐると「月刊」の紙がこれのみに尽きてしまひさうだから、まづこれだけを実例とし。他は必要に応じて幾何でも記してみせよう。
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更らにこの記念出版の不深切なる一例は、第一頁の櫓下の看板は、まづ説明かなくとも解るものとして、浄るり八功神の写真が何等の説明もなく投込まれてゐる。この八功神は説明がなくばまづ解らぬ代物だ。著者は何と思ふ不深切の譏は免れまい。
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本文に入つて、初代竹本義太夫が天狗鼻の百姓であつたから、素人浄るりを「天狗」と称するに至つたといふ事が書いてある。尤も著者の想像、思付きのやうな筆付で書いてあるが、これを読んで実は私は、「文楽今昔譚」を机上に擲つたのだが、再び拾つて読み続けたのだ。が、実はかういふ風に一頁一頁に見て行くと独断と誤謬とが各頁にある。九頁の「義太夫の霊夢」などいふ俗説巷談にも恥しいものが採用されてゐる。三味線の起原にも説かれる俗説だ。厳島神社になつたり、浅草観音堂になつたりする霊夢だ。此種の許多ある芸的伝説を、かく真面目に採用してあるのだから、略この書の価値が大抵の者でも判断が付かうと思ふ。嘸かし松竹の所謂「後世に貴重なる文献を残す」ことだらうと嗤はざるをえない
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こゝまで書いてもう、私は馬鹿〳〵しくなつたから、目をつぶつて木谷氏のこの「文楽今昔譚」を聞いてみる。そしてその見開きの二頁にどんな事が書いてあるかを見よう--といふ一挙に総てを律するといふ方法を採つてみる。
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五〇頁が開かれた。この頁には因講の起原が書いてあるが、どうも服しかぬる。木谷氏は竹田出雲のいふ「廿日会」と因講とを結付けてゐるが、これは初めから性質の異なる二つの会合だ寛政九年三月に因講の事が記録に出てゐる事は、木谷氏の説く如くだが、この記録を按じてみると、流祖義太夫の伊勢講から、同業組合に発達したのが因講で、一派の師匠が芸道のための会合であつた二十日会とは全然異るものであることは、木谷氏のいふ寛政三年の記録を見てハツキリと解る。私が因講の歴史を探求したのと、木谷氏のと同じ材料を探しえて、その言ふところの各自に異つてゐるのに、一寸興味を引く。私は因講の歴史と、この天保度の説経讃語座の一件は、昨年の夏「演芸画報」に認めた。そして近く春陽堂からこれらを収録して「人形芝居雑話」として出版さるゝ事となつてゐるから私が私の出版物を広告するやうでをかしいが、興味を持たるゝ方は、木谷氏の説と合せ読んでほしい。と私は立合演説を望んでおく。
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だが、それ等は各自の議論で、何れが雌雄か解らぬといふ人あらば、動かす事の出来ぬ事実の問題を今一つ私は此頁の前後から指摘してみよう。木谷蓬吟氏は、文楽座といふ座名の出来たのは、「明治四年九月からだ」(四九頁)といつてゐるが、是れも誤り、文楽座の称号は明治五年正月、文楽座が松島へ引移し新築をした時からだ。これは何も文楽座に限らぬ、道頓堀でも芝居に「座」名が付いたのが、総てこの明治五年正月だ。明治政府がいろ〳〵な世上の万般大小の事に亘つて改革を断行したのが、この明治五年である。
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再び冥目して「今昔譚」を開くと、十八頁と十九頁が見開きになる寓目すると奇怪なる事がある。
その頃(元禄期)の消息に通じてゐた西沢一鳳(近松浄るり本の出版元で又豊竹座の作者)の著はした「今昔操年代記」云々……とあつて、「操年代記」の引用がしてゐる。
が、一鳳ぢや年代が違ふ、西沢一鳳は享和に生れ化政度にかけての人だ。その一鳳が「元禄頃の消息に通じてゐる」も不しぎ。恐らくこれは一風の誤植か、作者の思誤りであらう。--と百歩を譲つて読んでも不思議な事がある。木谷氏の一鳳(風)の註によると近松浄るり本の出版元だとあるが、こは近松専門家の木谷氏とも思へぬ誤りだ。私の知れる処によると西沢一風にしろ一鳳にしろ、近松の浄るりを一冊も(と断言してもいゝだらう)出版してゐない。近松浄るり本は殆んど尽くが、正本屋九兵衛即ち京の山本九兵衛で、その出店である「大阪高麗橋一丁目山本九右衛門版」と本支店の合版になつてゐる。尤も山本九兵衛のみとはいはぬ。例へば正本屋仁兵衛その他もあるが、殆んどか、正本屋九兵衛版である事は、近松を原本で、多少とも味つたものゝ知らぬ筈のない事だ。それを木谷氏が豊竹座の作者であり、豊竹座の正本屋の西沢一風即ち正本屋九左衛門が近松浄るり本の出版元だとわざ〳〵註釈をしてゐるのだから、実は呆れ返へつて物が言へない。多少とも浄るりに開心を持ち「操年代記」でも繙かうといふものは、誰れでも知つてゐるこの事を平気で誤つてゐる。私は単なる誤りを責めないで、胡麻化しから出た誤りと其不真面目な態度を責めるのだと度々いつたが、人の翻刻した誤りだらけの活字本で近松を読んだり、明治初年の悪活字本の近松浄るりを引ちぎつて「大近松全集」を編纂する場合には、近松の出版元は分らないが、若干の近松の原本を取扱ふと、こんな誤りは断じて出来ない。したくとも出来ない誤りを木谷氏はやつてゐる。読者はこれを何と見るか。これが近松の専門家だから、--又それで世間が通用するのだから、世を賊する事の多い事を虞れ、私は茲に斯くはその「不都合なる誤り」を指摘しておくのである
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こんな風に、所選ばす冥目して引あけて、これだ。私はこの一冊のどこを開いても、これだけの誤りを指摘してみせる。実は一読して私の所蔵の「文楽今昔譚」は朱筆で真赤になつた。「三味線弾のかず〳〵」の条に出てゐる初代団平の逸事等は無嶄な有様だ。私は再び冥目して明けてみる勇気もないほど、この蓬吟氏の近著に対して、殆んで尽くについて申し述べたい誤りと、独断と資料使用の不妥当が目に付くのだから、これ以上書くことの愚を断言してこゝに私の筆を打切る。これでも木谷蓬吟氏は、この著をこのまゝで、世間に恥とともに晒しておく勇気があるか否かを、改めて聴いておきたい。
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茲において、私は注文したい。--それはこの著を発行した「道頓堀」編輯部は、著者蓬吟氏に乞うて、今後毎号の「道頓堀」にこの冊子の誤りを蓬吟氏自らが正しておくのが、著者の世間に対する義務ではあるまいか。又発行所としての義務でもあるまいか。物は相談だが、この実行が木谷氏に出来るかどうかを私は聴き、且つ注文するのだ。
又巻頭に「斯道後世に貴重なる文献を為すことゝ思考」したといふ、白井松次郎、大谷竹次郎の両氏は、こんな冊子を委囑して、斯道のために責任を感じないか。どうだと私は問ひたい。
私は私の愛する人形浄るりの最後の本城である新しい文楽座が、こんな浅ましい冊子を以てその新築を記念された事を遺憾に思ひ、「文楽座」の恥辱であり、引いては「大阪」の恥晒しだと断言する。著者蓬吟氏を初め関係諸氏以て如何とする。