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【 石割松太郎 木谷蓬吟氏に問ふ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
木谷蓬吟氏に問ふ -「文楽今昔譚」、その他について-」
 石割松太郎
 演芸月刊 第八輯 pp 16- 1930.1.20
 
 不幸にして(?)私は、近来木谷蓬吟氏の申さるゝ処と、私が申さうとする処と、常に直反対の傾向がある。こは申さで已むべきでないと、私は思つてゐるから、七くどく蓬吟氏の教へを乞はうとするのである。が、蓬吟氏からは、返辞、或は啓蒙の教へを賜ふたことのないのを遺憾とする。よし応へはなくとも、私は言はで已むべきでない又蓬吟氏は、旧臘私と同じ病に仆れられたといふ事を聞いて、実はこの稿を見合はす心持がしたのであつた。それは、その病が内的刺戟をも厭ふことを身につまされて知つてゐるからであつた。が、然し既に夕霧忌の句作を見たのであるから、機を失することを虞れて、又こゝに筆を執る事にした。
   ◇
 第一に蓬吟氏に聞ひたい事は、昨年の七月十四日の大阪朝日のサンデー・セクションにおける氏の「新文楽への注文」について、私は尽く直反対の意見を抱いてゐる処から、当演芸月刊の二輯で氏の教を乞ふたが、教へらるゝ処がなかつた。そして旧臘の「朝日週刊」を見ると、大朝のサンデー・ペーパーと同じ所論が「文楽座物語」として載つてゐるのを私は見て氏の頑迷を嗤つた。そして、文楽座の今日にとうに門戸が開放されてゐるに拘らず、「門戸の開放」を叫んでゐるカリケチユアーを見て笑はざるをえなかつた。--又「近松復活」とのみいふ所以なき事を再び論議する愚を、私は悟つた。これらに関しては、どうぞ読者には本誌の第二輯を一読されたいといへばそれで尽きる。
   ◇
 が、私が申し落した事で、水谷氏がこの「週刊朝日」で力説してゐる一事があるから、これは特に弁駁しておく必要を私は認める。--それは、浄るりの節は小堀口の長門太夫などが、当世にあふやうにと、改革を行つたがために、浄るりの興隆があの明治季にあつたのだといふ意味をいつてゐるが、私はさうは見ない。小堀口の太夫以下の名人上手が輩出したから、義太夫節にもその節章に工風が凝されたのである。この種の工風が今日事実誰が否定してゐるか、革命的の天才が出ないから、先人の様に拠つて葫芦を描いてゐるのである。第二の小堀口の太夫や名人団平が再生すれば、議論はあるまい。この名人が出ないからの問題だ。この時に当つて、新作の可能を主張する木谷氏などは、自家撞着、且つ痴人の夢を白日説いてゐるのぢやないか。既作の浄るりの或る範疇に鋳込まれた節の革命さへも出来ぬものが、新作の可能などは空疎の議論だとは木谷氏は考へないか。尚且つ新作を云為してゐる蓬吟氏の如きは人形浄るりを弄び賊ふ者だと私は敢て讜直するものだ。
   ◇
 又、この「文楽座」物語のうちに、蓬吟氏は、
  剛腹で鳴らした名人団平が「他の太夫は皆弾ひてやつたが長門師匠には弾かして貰ふた」
といふ団平の言葉を捉えて、長門の風格を忍んでゐるが、「蓬吟歴史を知らず、時代を知らぬ」と私は断言する。この団平の逸話は面白いやうで実は作り話である。第一団平を剛腹なる人物と見てゐる蓬吟は明治の人形浄るり史を知らない、これはいろ〳〵な彼の逸事が物語り証明してゐる。又、団平が長門太夫を弾いたのを蓬吟氏は年代的にいつの事だと思つてゐるのか、それが解るとこんな団平の作り話を採用する事が出来ないのだ。--団平が長門を弾いたのは、鶴沢清七の代役をしたのが初めで、安政元年八月の事、清七歿後長門の合三味線となつたのは、安政三年の九月だ。この若輩の団平の三味線の筋を見込んで抜擢したのが長門太夫だ。--その「長門は弾かせ貰ふた」と当然の事をかういふ語調で団平がいふ筈がない。
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 今一つをかしい誤りは、五代目春太夫を天満霊府の湯屋の三助だといふ説だ。これは蓬吟氏のみではないが、従来伝説の誤聞だ。春太夫は堺、--今の私どもが生れた堺市の出身、名家葛村といふ鍛冶屋町の出である。これが三助出身だといふのだが、こんなのは近い事で詮穿が行届いてゐない。--尤もこの「週刊朝日」の記事は、後に云はうとする「文楽今昔譚」の抜粋であるから、右の「今昔譚」で逐次詳しく述べたいと思ふ。
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 これらはとにかくとして、旧臘押詰つて、大毎の夕刊に蓬吟氏は、古靱太夫が文楽の初興行に語る「鬼界ケ島」の舞台に、青竹を用ゐる事にしたといふに対して、青竹を使ふなどは、「日向島」を連想して不吉である。それは「日向島」は豊竹越前少掾の追善興行であつたからだといふのである。私はこれを聴いて蓬吟氏いよ〳〵歴史を知らない、蓬吟二十年近松を説いて尚且つ人形芝居の歴史を知らないと思つた。誰れか新聞に、蓬吟氏の蒙を啓くものがあらうと思つてゐたが、年末にあつたがためか、絶えてその事がない。僅かに当の古靱太夫と人形の栄三、文五郎が、青竹は不吉とは思はぬといふ申訳だけを、大毎の紙上で見ただけだ。私は実は人形浄るりに関して「大阪人」が斯くまで無関心なのに公憤を感ずるとともに蓬吟氏の言説を駁する人のなきに憤り感じて、旧臘二十八日の関西中央新聞、夕刊の一面を借りて、蓬吟氏の不吉説を駁しておいた。
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 私の論旨は、「日向島」に青竹を使ふ事が人形の古実であつたにしても、手摺の青竹と、白木の見台との配合をえて追善を意味する。「青竹」だけで追善の意のない事は、世間の祝事に「青竹」を用ゐるに見ても判る。その事例は云云と述べた。第二に「追善」を「不吉」といふのはどういふ意味か、馬鹿も休み〳〵いふものだ。「遠きを追ひ近きを吊ふ」ともいふ、「追善」に何の不吉の意味があるか思はざるの甚しきものだ。第三に年表を繰り丸本を閲し番付を取調べてみると、明和元年十月興行の豊竹座は、豊竹越前少掾の追善興行であ事は申すまでもない。が、追善は五段目に書加へられた(追善記念谺[カタミノコダマ])で、「嬢景清八島日記」そのものが追善の意をなしてゐない。申すまでもない三段目の花菱屋から日向島までは「大仏殿万代石礎」で西沢一風の作、享保十年十月の初演であつて、追善の意があらう訳がない。
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 そして今一つの証拠に、豊竹座は、明和元年の「嬢景清」を打上け直ぐ引つゞいて、翌十一月の興行は、追善から離れて、「嬢景清」をそのまゝに前狂言に置据ゑにして、大切として「二つ腹帯」八百屋段を挿加へて更らに霜月十五日初日を開けてゐる。この八百屋を語つた太夫は、豊竹筑前少掾、ワキ豊竹此太夫、三味線が鶴沢十次郎--この一興行は音楽学校の「邦楽部表」にも誤脱しているから、当時の人形も序でに記しておくと、
 八百屋仁兵衛(若竹友五郎)同女房(辰松文十郎)同行五右衛門(笠井音五郎)同太郎兵衛(豊松元五郎)同七兵衛(豊竹源十郎)手代和介(豊松藤三郎)半兵衛(若竹伊三郎)女房おてう(藤井小三郎)手代嘉兵衛(若竹東工郎)--出遣ひ
とある。これを見ても十月の興行は、追善だが、十一月の「嬢景清」興行は、追善から離れてゐる。そしてその後のこの狂言に青竹を使つたかどうかは疑問だ。明和元年の昔において既に然り昭和の今日「日向島」から追善を連想するなどは半可人のいふ事か、然らざれば痴人の連想だ。痴人の連想に常人が煩はさるゝ所以がない。
   ◇
この三点が、私の青竹不吉問題に対する青竹不吉にあらずといふ説で、「青竹」を特に「清浄」とか「閑寂」とかいふ意味で、今度の「鬼界ケ島」に使ふ事は舞台効果を挙ぐる上において適当なる工風であることを勧めた。--そして事実は文楽座の当事者は、不吉と云はれた「青竹」を実際において使ふ事となつたのは、喜ばしい事だ。私の言説に動いたと己惚れるのでなく、蓬吟氏の俗論に動かされなかつた事を私は喜びたい。が、蓬吟氏は今日尚どう考へてるか、自説を撤廃したか、どうかをハツキリと聴きたい。
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 もう一つこの「鬼界ケ島」の一件について、蓬吟氏の不詮鑿なる独断を指摘して、蓬吟氏の人形浄るり史の知識に疑ひを挿はさみたい。それは、これも大毎に出た蓬吟氏の注意として、古靱が「四十年前二代長尾太夫が「鬼界ケ島」を語つて以来四十年目の上演である」といつたに対して、蓬吟氏は、「それは姫小松子の日遊」の洞ケ嶽の前場に過ぎないもので、「平家女護島」とは全然別なものであるといふ注意を与へた」--といふのが大毎の記事であるが、私は大毎の記事をそのまゝ信用すると、二十年近松を説いてゐる「近松屋さん」も案外アテにならぬものだ。蓬吟氏は只狂言の名だけ聞いて、そんな断定がどうして知つた顔に出来るか歌舞伎なり、浄るりが既作の浄るりをいろ〳〵と同じ筋を甲の丸本と乙のとを混淆して上演する事を知らないでもあるまいが、他人の言説に対して一応の詮鑿もせずに誤りだなどは以ての外だ。他人の事をいふには可なりの努力を要する事は私は本誌発刊以来つくづく感じてゐるのだが、狂言名題が「姫子松」だから「平家女護島」とは違ふなどいふ近松専売屋さんもアテにはならぬと私はいふのだ。試みに古靱太夫のいふ四十年前の二代長尾太夫が語つた場割を挙げてみると、
  大序。雲林院。伏見出船。平の重盛遊宴。鬼界ケ島。赦免状。東屋自害。亀王丸住家。洞ケ嶽巌窟。
とあるのだ。即ち「姫小松」の内へ「平家女護島」の鬼界ケ島の段を挿入れたのが、明治二十三年十月の文楽座の興行だ。そしてこの段を二代長尾太夫が語つてゐる、現にこの時に長尾太夫が使用した本が、今残つてゐて、それが蓬吟氏の御専門の近松の「平家女護島」と一字一句の増減がないのだ。これでも蓬吟氏は、其れは近松のでないと言ひ切るか。何を根蔕にして蓬吟氏は二代長尾が四十年前に語つたのは違ふといふのか。蓬吟氏のハツキリとした答へを聴きたい。--かういふ事はどうでもいゝやうなものゝ、青竹問題といひ、「姫小松」問題といひ、人は令名嘖々たる木谷蓬吟氏の名を無条件に信用する阿呆が世間にはある事を慮り後世事実を誤るを虞れて、私は人の厭がる事を軈て押切つて言つておくのである。
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阿呆序でに、この間私が「関西中央新聞に、右の青竹問題を書くと、去る人が、今度は松竹のお提灯ですかといつた阿呆がある。--私はこれらの人間を阿呆と敢ていふ。--私は松竹の悪い施設、不合理なる理不尽なる松竹の所業と、これに迎合する輩をこそ剔抉するとは言つたが、「松竹」ソノモノをいつどこで攻撃すると言つたと、私自ら私の顔色のサツと変じたを覚えるを感じつゝその言ふ者を詰つた。--ソレが堂々たる新聞の演芸記者先生であるから、世には泥棒の種は尽きる事があつても、阿呆の種は尽きぬものだと思つた。
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 次に私は蓬吟氏に問ひたい事は、蓬吟氏が、文楽座が新築竣工記念出版として、蓬吟氏の「文楽今昔譚」といふ一冊を出した。私もこの記念出版の贈呈を受けて、好きな道とて早速閲読して高教を受けようと期待したが読むと早々--表紙を繙くと早々に不審百出と云はうか、更らに教へを乞ひたい事ばかりが、列を為し、分列式をなしてゐるに驚いた。蓬吟氏はその先考の遺物に拠りて、近世浄るり史の資料には確か恵まれたる人であると、吾れ人ともに思つてゐたが、事実にそれが現はれてゐないのを見、誤謬、独断、不詮鑿が相亜いで頁を追うて逞がない。私はこれを一々にこゝに指摘しようとする。その意は、文楽座の記念出版であるだけに人はこの書を信ずるであらう事を人形浄るりのために虞れるからである。が、この貧弱なる「月刊」の紙数が尽きさうであるから、細目は次号から連載することとして、この書を編した蓬吟氏の態度をまづ難じたい。
   ◇
 蓬吟氏は、その「大序のことば」といふものにおいて、
  題名の「文楽」は、一般世間に通用してゐる「人形浄るり」の広い意味での代名詞として用ひた。
といつてゐる。すると、この書は「人形浄るり今昔譚」と解していゝわけだ。そして人形浄るりは、太夫、三味線、人形遣ひの三業によつて成立してゐる事は説明を要しまい。然るにこの書を見ると、太夫に専らにして三味線はホンの属、人形遣ひに至つては、果して幾枚を費してゐるだらうか。これで「人形浄るりの譚」だといふのには、ちと厚顔な話ぢやあるまいか。我が国の人形浄るり史において、或る発生の歴史からして人形遣ひが、太夫とは同格に取扱はれなかつたがために、人形に関する文献、人形に関する資料の乏しいのは事実であるが、「太夫」のみを語つて、--とにかく太夫を語つて「人形浄るり」といふのはあつかましい著者の態度である事に、まづ物足りなさを感ずる。
   ◇
第二に巻末の「文楽座興行年表」について、私は幾多の疑義がある。既に東京音楽学校編の「邦楽年表」義太夫節之部、が黒木勘蔵氏の苦心二十年の余に成つて、「未定稿」として発行されてゐることを、木谷蓬吟氏は知らぬ事はあるまいが、この蓬吟氏の年表が、音楽学校の年表に負ふ処がないだらうか。「蓬吟氏の良心」に聴きたい。--が、そんな事は一行も、蓬吟氏の著書に断りがない。   ◇ これは他の例だが、故朝倉無声が「新修日本小説年表」を著した、恐らくこの種の著書では集大成した先駆を為したものだ、処が、これを底本として増補訂正して山崎麓氏が、「近代日本文学大系」の内で「日本小説年表」を著した。私は山崎氏本の方が正確で手頃であるからこの方を主に用ひてゐる、人もさうであらうが、或人はこれは一種の版権侵害ぢやあるまいかとまでいつたのである。然しこれは朝倉本を底本にしたと序に断つてゐるのである。
   ◇
 「文楽座年表」の場合に同じ事がいはれはしないか。「邦楽年表」に蓬吟氏が負ふ処なくば幸ひである(?)。初めから「邦楽年表」を見ずに独立して編纂に当つたとすると珍妙な事がチラ〳〵と出て来るのはどういふものだらうか。が、然し先人或は先著があるに拘らずこの「年表」の種類を独立に初めからやらうといふ者があつたならば、それは馬鹿だ。無用の労力を空費するからだ。先著はよろしく尊重してその恩恵を蒙るべしだ。が、何の断りもなく失敬するのは「剽窃」とはいはぬが、「邦楽年表」の如き名著に対して不徳だ。蓬吟氏はこれを序文か何処かに断つてゐない以上、馬鹿?不徳?の何れかである。馬鹿でも不徳でもない合の子はありやうがない。
   ◇
 実例を以ていふと文楽の芝居が、文化八年正月二日が、現在判明してゐるうちの最古の興行であるといふ事を何によつて蓬吟氏は断定したか、そして「文楽座の興行年表」をこの文化八年から初めたかを聴きたい。
   ◇
 これを明治以後の例に見ると、「明治十二年一月の前狂言が「加賀見山」はいゝが、蓬吟氏の年表によると、この月はこれだけだが、事実は、「堀川」、「義経腰越状」と二段後にあるのが誤脱してゐる。これは単なる誤り?。年表の仕事に誤のない事は保せないが、単なる誤りと言はれない事実が外にある。畢竟胡麻化しであるといふ事を私は責めるのである。誤脱を責めないで不真面目の胡麻化しの態度を責めるのだ。
   ◇
 次号に追々と第一頁から初めて、教へを乞はうと思ふ。