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【 石割松太郎 「鬼界ケ島」復活 --文楽座竣工記念興行-- 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
「鬼界ケ島」復活
 --文楽座竣工記念興行--
  石割松太郎
 演芸月刊 第八輯 昭和五年一月廿日 p.10-15
 
 
 御霊の文楽座が焼けた時に、自分の居宅が焼けたほど暗い心持がした、朝飯を半ばにして箸を捨てゝ、私が当時勤めてゐた毎日新聞社ヘタクシーを急がした時に、京町堀の電車通から朦々と立登る黒煙を見た時の心持が忘られぬ。それに引代へて、四ツ橋々畔の近松座跡に復活竣工の初春興行を見るに至つた今日、御霊で焼けた心持の暗かつたゞけに、けふの喜びは、人後に落ちない。それにつけて申述べたい事、論じたい事、喧嘩したい事が山ほどあつて、言葉が吃々として口を衝いて出ない。それほどいひたい事が多い。まづ前の溝から捌く格で、私は茲では今度の初、記念興行の芸評に関してのみ述べるが、別項の「文楽座に関して」と今一つの「木谷蓬吟氏に問ふ」との二つを、併せて読んでほしい。蓬吟氏に対し申す処は、竣工記念出版の「文楽今昔譚」に就いてゞあるから、人形芝居に興味あるほどの人は必ず読んで頂きたい。
    ◇
 今度の狂言の立て方は、変態であるが、善悪をいふには、松竹が他に或は為し行はんとする施設があるかも知れないから、狂言の立て方については、短縮の時間ではこの外詮方がないだらうと思ふから、茲では批評はしない。前狂言が「先代萩」竹の間と御殿であるが、竹の間が、太夫をハカすために掛合になつてゐる。この掛合を聴いてみると、政岡を語つた駒太夫一人で語る方が遙か浄るりが上である。そして人形もよく魂が入つて動いてゐるやうに見える筈だ。元来浄るりの太夫は、芝居とは違ふのだから、小供を子役が演ずる場合、女を女太夫が語る場合必ずしもいゝ渾然たる浄るりが聴けるといふのではない。一例が今度の常子太夫、小松太夫が鶴喜代君と千松とを語つてゐるが、言葉がなつてゐないのと地合が全く幼稚にして、聴けたものではない、駒太夫と列ばして常子、小松に、駒と匹敵する浄るりが語れるわけがない。この意味からして、融合渾一を欠いた竹の間が出来上つたわけである。尚これを忍ぶとして常子、小松の両太夫のために、これが修業になるか否かは大きな疑問だ。しんの駒太夫を殺すのみならず、文字、和泉を殺し、尚且つ太夫の割当にのみ、こんな方法を採らねばならぬ事を、私は悲しむものだ。
    ◇
 人形では扇太郎の小牧が、不思議に若いに拘らず、よくこの役を消化せてゐた。
    ◇
 「御殿」は土佐太夫に吉兵衛だ。名人上手のなくなつた跡、今日では久しい間土佐太夫の語り場であつたが、土佐としては折紙付のものだが、今度の「御殿」には土佐に老衰の影がさした。あの長丁場を持堪へるにえらさうだ。ハンヂキヤツプを付けて迎へて聴くと、或は約七ケ月ほど、--本誌演芸月刊が生れてからこの人の浄るりを聴かなかつた--といふより全く七ケ月間休んでゐた土佐には、いとゞ老衰の影が早くもこの「休み」の隙を狙つて黒い影に襲はれてゐるのぢやないかと思ふ。土佐たるもの老来一番緊褌の要がある、悪い「御殿」ではないかも知らぬが生気がない、聴かせ処のキメ〳〵にさへも凛として看容の胸に響くものがない。
 ◇人形では文五郎の政岡、いゝ形を見せたが、矢張生気に乏しいのは、浄るりに相伴ふのであらうか。内に緊張する処が乏しかつた。が、政亀の栄御前との、人を払うてからの一くさりは役者がするよりもいゝ処を見せる。玉治郎の八汐には憎みが足りない。
    ◇
「床下」は、久しぶりで帰参の叶つた鶴尾太夫が友若(二日目)の三味線で御簾内で語つた。人形の玉松の仁木弾正は、貫禄に乏しく、凄味が全くない。この玉松がよく劇場では人形を前に結付けて花道の引込みといふ悪趣味を見せるが、人形本来の仁木を使ふには腕が足らぬ。もうこの仁木を使ふ人が人形にはなくなつたのだ。
    ◇
 次が「寿式三番叟」で、翁が津太夫千歳が古靱、三番叟が錣、大隅、ツレが越名と番付にあるが、私が見物の二日目は、文太夫かツレを語つてゐた。これは太夫のものといふより人形と三味線のもの、三味線では道八、団六、歌助、叶、勝平、猿糸で、栄三、文五郎の三番叟が懸命に腕を競つた。恐らくこの興行では人形では、この「三番叟」が第一の見物であり、且つ呼物であつたらう。旧臘廿六日の開場式から引続いての「三番叟」だが栄三も文五郎もよく遣つた。が、その内にも栄三と文五郎との相伯仲する腕にも、その芸の傾向--芸の個性がよく出てゐて面白い舞台であつた。
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 「引抜き」とあるが、「三番叟」が切れてやゝ時間を費して変つて万歳(栄三)才蔵(文五郎)になる。だから「引抜き」は事実に当らない。太夫は相生、島、越名以下ツレに出てゐる。三味線は勝市芳之助、友之助といふ連中だか、この「柱立万歳」には、私は疑義がある。聴いてゐると全く義太夫離れのした常磐津を、義太夫節の太夫が語つてゐますと、まざ〳〵と看板を揚げてゐるやうな浄るりだ。常磐津七分義太夫三分の調合がよく飽和ししてゐないのだから困る。或は相生、島の両太夫に罪があるのかも知れぬが、芸術の第一妙諦は調和、融合にある。その妙諦を逸した「常七義三」の「柱立万歳」とかいふものを語らねばならぬほど義太夫節の道は狭いだらうか、私は疑問とする。新築の祝、初興行だからといふ意味でのみ、この「万歳」は聴許し難い代物だ。まるで常磐津だといふ一例をいふと「みろく十年」のあたり、もつて義太夫化した節が聴きたい。
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 次に津太夫の「双蝶々」の橋本である。(前号の「新しき文楽へ」の文中橋本屋とある「屋」は衍)この人例の難声であるが、流石に叩き込んだ咽は語り込んで行くと味が出て来る。作としては「寿門松」の清新な芸術香の高いのとは、雲泥の差、与治兵衛が只の吝い爺になつてゐるなど、内容からいつて劣るが、津太夫の駕の甚兵衛は第一の出来、武士出の治郎右衛門、町人の与治兵衛と異つた爺をよく語り分けたしかも沼津の平作にならぬ処が津太夫の身上だ。
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 人形では、栄三の甚兵衛が親の慈悲をよく人形の一投手一投足にも現はした、玉松の治郎右衛門荒々しくて、丸るみがない。文五郎のあづま一通り、扇太郎のおてるにさうした娘心の術なさがよく出てゐる、扇太郎この処大出来がつゞく。
    ◇
次が「平家女護島」の内「鬼界ケ島」で、これが今度の呼物の唯一であり、古靱太夫の努力も又大に買つていゝ。元来度々私どもが口に筆に、古曲の復活を叫んでゐるのが、今度初めて、それと意識して古曲の復活に文楽座が努力を払つたことは双手を挙げて賛成し曲を選ぶにもほぼ当をえてゐるのに、私は満足の意を表したい。この鬼界ケ島の一回で世間の評判に凝りずに、この企図を新しき文楽座が、十分力を入れて為すべきが責務であり、且つ文楽座の生きる唯一の道だと、私は確信してゐる。従つて今度の舞台の効果如何を度外しても私は賛意を表する。まして多少の難点はあつても、大体において素破らしい出来栄と、舞台効果と、大努力とを収めてゐるのだから、文楽座の内部の人々もこんな企図に対して幕内を挙げて努力、助勢をするのが当然であり、幕内の責任であると私は思つてゐる。--この点に関係者以外がこの心掛に欠ける処あるかに見受けるのは、私の遺憾とする処である。
    ◇
 古靱の出来からいふと、この廃曲--とまでゞなくとも廃れようとする曲をこゝまで漕付けて、例の古靱一流の健実な語り口に鋳込んだ事を、巧罪ともにその努力を認めていゝと思ふ。世人が往々にしてこの曲を「日向島」と対比するのは私は不思議に思ふ。景清と俊寛とでは根本思想において違ふ事形式が似てゐるが、コントラクシヨンは全く異つた手法になつてゐるのだが世人は形に惑はされてゐるやうだ。(青竹問題に就いては別項を併読されたい)曲としては淋しいこの難物を、古靱のうまい音使ひなればこそ、あの前半を克くあれまでに客を引つけて聞かした。且つ難つかしい文句を二三の異論はあるが。正統に耳に訴へて解することの出来るやうに語つたのは、古靱の大きなる努力だ。が、その一方には魚づくしの近松一流の猥雑なる言葉が古靱の理智的の口吻で聴いてゐると、軽るみとどうけがなくて詰らぬ事を物物しく聴かされるやうな点があるのが欠点だ。流人三人の恋の話になると荒磯にパツと紅椿の花が投げられたやうな鄙びた色気が出る、俊寛のあづまやを想出して語るあたりはうまかつた。二日目に聴いた時には、俊寛が己が名を呼ばれないのに必死と詰寄る処や、京家の舶が来て流人を呼ぶ処に、「流人の餓鬼道」が十分出てゐない、切迫詰つた力が、どうも出てゐないで、節や辞に捉はれてゐはせぬかと思つたが、--六日目に再びこの段だけを聴いた時には、稍々餓鬼道の心持が出てゐたやうであつたが、まだ足らない。こゝの人情がもつとハツキリと出ると、この浄るりはもつと〳〵面白からうと思ふ。「鬼界ケ島に鬼はなく鬼は都に有けるぞや」の利き句が、どう語られるだらうかと期待したが、当込みのない節で上品に利かしたのはよい。按ふに作品がこの淋しい、普通にいふ山のない浄るりだけに、或は古靱は、見物を捨てゝ、自分楽しんで語る浄るり、己が語つて己か聴く浄るりだと思つて演技の場に臨んだのではなからうかと想像した。それほど聴衆を眼中に措かずに語つたこの太夫の努力を買ふとともに努力が正統に報ゆられたと私は断言する。「淋しい」とか「損な出し物」だとか「独りよがり」だとかの俗論に古靱は耳を籍すな。人間の行動、まして芸人が芸を以て世間に立つに「損得」のみが、標準でない事を牢記すべきである。当て込みのなかつた古靭を喜ぶ今一つの例は、同じく千鳥の口説きのうちの「海士の身なれば一里や二里……八百里九百里が游も水練も……」は、当込んで当込める節をハツキリと聴衆を眼中に置かなかつたが如き語り口を私は再び称讃して措かない。三味線は道八、八日から後は清六か弾くとの事であつたが、私が聴いた二度とも道八の絃だつた。今一度清六のをも聴くつもりだが、この稿の〆切までには聴けなかつたが、流石は道八、崇重なるこんな曲だと、変んな仕事をせないで、堂々としたる面白味を聴かせてゐた。
   ◇
舞台を見ると、まづ舞台の空気が綺麗事にすぎはしないか、鬼が住むてふ鬼気がない、浜の子等の貝拾ひが出さうな所作舞台見るやうなのはいけないその原因は、波が濃い空色がゝつたのが明かすぎるのと巌に絡む蔦紅葉が紅葉すぎて綺麗なのに煩はされたかと思ふ。そして下手の葭簀のやうな葦は利根かどこかの大河洲のやうでをかしい青竹で成功して、明るい舞台の色彩で打壊はした。人形では栄三の俊寛が一等、工風もあつたが、人形の方は概して統一を欠いてゐることが多い。第一に今後こんな復活曲を演ずる折には注意を要するかと思ふ。例へば京家の使者が「松陰に床几立させ」を語ると、流人三人はズラリと並んで、赦免の予感が流人にないやうなのは、ちとをかしい。又今一つ、「丹左衛門舳板に上り「御帳面の流人……下人成共介太刀すな」とキツパリと辞で怒鳴る利き文句があり、又「爰をせんどと挑みあふ船中さはげば」と文句があるのだが、ツメの人形も一向それらしいさはぎがなくこの処舞台にこれだけの「事件」の反映がない。これは人形芝居に対する変痴気論でなくして、もつと〳〵人形は、文句に尽く合はなくもよいが、文句のカド〳〵だけの科介はなくばならぬ筈だ。この点は今後復活曲などの時に、人形の舞台に太夫や三味線と統一を計る一人の人形遣がなくばなるまいが、どうあらうか。舞台監督といふもいゝ、其場のシテ人形が支配するといいと思ふ。
    ◇
 文五郎の千鳥は、萌黄に黒餅の着付腰蓑はあつても、里の女のやうだと思つてゐたが其後に、具しほりか蛸絞りかに変つたといふ事を聞いたが、とにかく人形の方も二日目に見たと六日目に見たと、この千鳥なども可なり工風が段々ついてゐたのを知つて、古靱だけでなく人形も、この復活曲に相当の苦心を払つてゐる事を嬉しく快く思つた。この千鳥を見ても、この浄るりを見ても元来近松門左衛門は文辞に専念であつたがために(?)、舞台の人形を諸忽に付してゐる この点が近松の作品があれだけの内容と文辞の華麗を持ちなばら後世加筆の作が上演されて近松の原作が廃曲になつて行く理由が、茲にある事に強く心付く。前半、丹波少将と平判官との区別がどうかすると舞台につかない、そして人形の出入に不用な、演ずる事のない人形が舞台に出てゐるなど全く人形を生かす事を知らなかつたのが近松である。近松の作が或る特種なもの以外は、改作で上演さるゝに至つたのは、これが原因だ。千鳥の口説きの如きも、近松が人形を知らなかつた一例で、「不便や浜辺に只独り友なし千鳥」の件が「人目も恥ぢず歎きしが」と語り終つて、又再び重ねて「海士の身なれば」と同じ口説が重なつて来る。これだから人形が困つてゐる。今度の舞台を見るも文五郎必ずしも工風に尽きたといふのであるまいが、大に閉口して、巌を上つたり下つたり、袖を巻いたり伸したり科介に尽きてゐる。--この点から見て木谷蓬吟氏の如き近松復活々々と十年一日の如く云つてゐらるゝがどういふ意見があるのか具体案を聴きたいものだ。私は文豪近松を認めるが、人形浄るりの作者としての近松を再吟味の俎上に上せねばならぬと、日頃筆を禿し口を酔くしていふのはこの点にある、近松氏神党の人はこの舞台を何んと見るか?これでいゝといふならば、その人は人形芝居を知らない輩である。
   ◇
 次に「廓文章」がある。又太夫捌きの掛合。錣の夕霧、つばめの伊左衛門だが、つばめには無理な出し物、七百貫目の金を一体どう使つたのだらうかつばめの伊左衛門はどうも吉田屋の大座敷を知らぬ人さうな、或はふるまひの甚五左めくのは詮がない、錣の夕霧も太夫職の品がない、せい〳〵端女郎なのは考へものだ。紋十郎が夕ぎりを伊左衛門を扇太郎が遣つてゐる。共に一通りの出来である。そしてこゝにも掛合の弊がある、夕霧と伊左衛門では人形を離れてヂツと聴いてゐると品位は別にして、何としても夕霧に老女の影が添ふ、浄るりの格からいつて、それは詮方のない事で、それが悪いとはいへない。これを一人が語る場合において、年相当の男女が出来る。夕霧が老ひれば伊左衛門も老ひるのである。浄るりのこの骨を無視して、歌舞伎と同じ手法で、掛合をさせようとするのは無理だ。これを極端にすると、女太夫も小役太夫も入れる事となる。浄るりはどこまでも語るもので、辞のトリヤリではない。語り物であることを忘れてはならぬ。私は断じて掛合をよして、止むなくば、数年来私が主唱してゐる一段を二つ乃至三つに切つて語る事に工風を要する時代となつた。これを私が数年前に大毎に書いた時に笑つた、そして「素人が」といつた人の顔が見たい。