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【 石割松太郎 「新文楽への注文」について -木谷蓬吟氏の説を駁すー 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
「新文楽への注文」について
 -木谷蓬吟氏の説を駁すー
   石割松太郎
 演芸月刊 第二輯 昭和四年七月廿日 pp.22-26
 
 
大阪朝日新聞の七月十四日、サンデー・セクシヨンを見つと、木谷蓬吟氏の「新文楽座へいろいろ注文帖」といふ一文がある。そしてその注文を五項目に分つてゐる
 一、新作物の上演
 二、近松物の復活
 三、後進の養成
 四、人才の抜擢
 五、門戸開放
とある。この三、四、五の三項目は要する一項目に包括さるべき性質で、現在の文楽の採りつゝある諸情弊を打破して、所謂「顔」を無視することが人才の抜擢となるのである、文楽座のの内外を問はない。これは木谷氏の説くところ尤もである、又、文楽座の内部においても、この事項に対して誰一人の反対がない。が、その効果が挙らないといふばかりだ。例へばこの両三年において、朝太夫を入座せしめ、貴鳳太夫を「化物」として玄人の太夫とならしめた。又文楽座に長い間弓を引いてゐた、友松の道八をも重用してゐる、現在の文楽座は、既に門戸開放を行つてゐるのである。問題は野に遺賢がないのである。「化物」の輩出は、門戸の開放によつて行はれるものでない。一例が貴鳳太夫の如き「化け損ね物灘が出て、さらでだに場割に困つてゐる文楽座を一層困らしてゐるのがその現状である。この木谷氏の三項目は、お説は尤もであるが、実情は剴切なるものがない、根本の改良案は、そんなところにはない筈だ。木谷氏の心事を忖度するを許さるゝならば、「人才抜擢」といひ、「門戸開放」といふのは、竹本錦太夫の輩を、文楽座は歓迎すべしといふのであらう。これが木谷氏の具体案、木谷氏のいふ処を皮を剥いて申すと、かうなるのであらう。が、今の文楽座はいかにその芸が陵遅してゐるとはいへども、さうはまゐるまい、古川に水の絶えぬといふ諺が真実を語つてゐる文楽座では、錦太夫輩の芸は掃いて捨てるほどあらうし、又あの邪道に陥つた錦太夫は、野に残されたる遺賢ではない。
 二、「近松物の復活」といふ木谷氏の説は、何故「近松物」と限つて復活を唱道してゐるかゞ会得しかねる。近松のみが浄るりの「氏神」だらうか、これが既に間違ひの根本だと私はいひたい。復活すべき浄るりが、近松に多いのは肯定しよう、それは近松が多作の作家であつたからだ。宝暦以前の廃れたる名曲を復活、上場しようといふ一案には、私も賛成であり、二三の腹案もあるが、「近松物の復活」といふ局限されたる一案は首肯出来ない。尚この項目について一考を要すべき事は、義太夫節の完成は竹本政太夫であると木谷氏もいつてゐる、私もこの説は肯定するが、只無条件で政太夫が義太夫節を完成したといへるだらうか。浄るり史はさうは語つてゐない、初代義太夫は義太夫節の創始者であらうが、これを大成し今日の義太夫とならしめたのは、義太夫の高弟竹本頼母、豊竹若太夫、及び若太夫の流れを、多分に汲んだ政太夫と、この三人努力の結果であらう。故に政太夫が大成者とはいへるが、政太夫の浄るりの拠つて来る処は、初代義太夫のソレよりも、若太夫の影響がヨリ大である。この若太夫即ち豊竹派--東風の浄るりが今日の浄るりの根蔕をなしてゐるものである。本来ならば竹本派の「西風」が基礎をなさねばならぬ今日の義太夫節が「東風」によつて大成されてゐる事も、一考を要すると共に、復活に考慮すべきは近松の作品に止らぬ、東風の作者である紀海晋その他、人形浄るりとしての作品中の価値あるものゝ詮鑿が、目下の急務である。豈に啻に「近松物」のみならんや。
     ◇
 以上述べた処は、木谷氏の第二項から第五項までに対する私の考へであるが、実はこれは末梢の議論である、それよりも木谷氏とは全然反対の意見を茲に表せねばならぬのは
  一、新作物の上演
 である。浄るりに新作物の上演を可能とする木谷氏の説は、人形浄るりを廃滅せしむる一つの企てゞある。木谷氏は「新作といへば「乃木将軍」の類を連想するのは困る」といつてゐる。この「乃木将軍」は、近松座が試みた愚かなる企ての一つであつたらうが、こは実は「時代」と申すより、その時の「際物」といふ意味の御愛嬌の変態的の興行的見世物浄るり、一つの愛矯に過ぎないから、また罪が浅い。この例は「乃木将軍」に止らぬ、その以前に、例へば明治三十七年三月十日初日の文楽座で「伊賀越」を出した時に、新関の段が引抜となつて戦争当込みの新作がある、玉助がロシヤニーゲル氏、紋十郎がクーレクサ嬢、兵三郎がワリヤアク艦長、玉亀がマーレツ艦長などいふ役割を勤めてゐる。次に同年四月廿日初日の「妹脊門松」の生玉の段、これが引抜となつて、戦争新作浄るりが出てゐる。これらの新作と「乃木将軍」とはさしたる相異もがないお愛嬌だが、罪の深いのは木谷氏の唱道するが如き「新作物の上演」である。木谷氏の論を採用したのか否かは知らぬが、松竹が本年四月の弁天産における文楽座において「付物」として古靱太夫に「お染半九郎鳥辺山心中」を語らしめようとしてゐる。これが左団次所演岡本綺堂作の「鳥辺山心中」を浄るりにした新作である、高越語太夫が承知すれば、早急の作と早急の節付で上演する松竹の肚であつたらしいが、幸ひにして浄るりの道未だ衰へず実現にはならなかつた。--お染半九郎の浄るりは安永五年菅専助の作で、北堀江の芝居で上演された「鯛屋貞柳歳旦闙」はあるが、古靱に当がつたのは勿論それではなかつた。--木谷氏は、浄るりと姉妹芸術の歌舞に新作可能なるが故に、浄るりにも新作が可能であると、この大問題を、大胆に事もなげに解決してゐるが、以ての外である。又木谷氏は新作可能を、「浄るり史に見るがよい」と、例の木谷一流の独断を以て断じ去つてゐるが、四百五十年の人形浄るり史に徴して、無条件に「浄るり史」が木谷氏のいふが如く、都合よくは敎へてゐない。私は浄るり史を見て、却つて木谷氏の説くところと、反対の事実を教へられるのである。
 木谷氏のいふ浄るり史は、義太夫節が生るゝ最初の--初期の浄るり史を指していつてゐるのみで、四百五十年の全浄るり史を通じて見ると、歴史の教ふるところは、木谷氏の反対の事実であることを忘れてはならぬ。古浄るりが行詰つて、井上播磨、宇治加賀掾を転機として、義太夫が義太夫節を創始した当時の歴史は木谷氏の説の如くであるが、爾来政太夫が義太夫節大成以来、まづ宝暦を限つて新作らしい新作が出ないといつてもいゝ、旧作の手入れはあつたらうが浄るりの創作は宝暦を限りとして終焉と見ていゝ、安永--これから起算して約百六七十年の人形浄るりは先人の残した作品の一部或は一節の改作か、節なり三味線の手なりの時代適応、集大成を目標として進んでゐるこれがホントの「人形浄るり史」であつて、木谷氏のいふ浄るり史は木谷氏が自家の説を都合よく証拠立てようとする「木谷氏独断の氏手製の浄るり史」であつた、世間には適用しない贋札だ。ホントの浄るり史は木谷氏の説を裏書しないのである。
 これは何故であるか。申すまでもない「人形浄るり」は宝暦の昔に大成した、完成した芸術である。もつと大まけに負けて見ても寛政度を限りとして完成した芸術だ。その証拠に、松屋清七の如き人が出ても、初代豊沢団平の如き不生出の大天才が現はれても、決して新作には寄与するところは無なかつた。僅かに時代の推移に伴ふ趣味好尚の推移に浄るりを変革したにすぎぬ。
 斯の如く完成された古典芸術を、今日において新作を可能とすることは、私らからいはすれば痴人の夢だ。人形浄るりはそのまゝに保存すべきものだ、保存するについての案はいろ〳〵とあるが、新作上演は完成品を破壊するものである事を強調する。奈良正倉院の古代裂を、このまゝではおしいといつて龍村平蔵氏の手によつて補織しようといふ愚挙と同じだ、補つた新作は、一つのイミテーシヨンに過ぎない。龍村氏の造詣と手腕とを以てして尚且つ然りだ人形浄るりを歌舞伎の姉妹芸術だと多くの人にいはれてゐる、その発達の歴史において、さうであつたことは事実であるが、今日では本質的に歌舞伎と姉妹芸術といふよりも保存上の見地からして、能楽と同一の取扱ひを受くべきものであると私は思ふ。
 又木谷氏は、今日の文楽座が二十ばかりの同じ外題をのみ繰返へしてゐると非難してゐるが、この点に心づくならば、その方法の不当なる所以を極めねばならぬ、これは今日の文楽座経営者の松竹といふ営利一点張の営利会社が、事茲に至らしめたのである。この事については口を酸くし筆を禿していつも、私は松竹が人形浄るりを亡ぼしつゝある事を論じ来た。最近一ヶ年に亘つて雑誌「演芸画報」に、人形浄るりの概論を述ぶるに当り、その都度松竹の誤れる文楽座に対する経営を、無遠慮に記述して来たから、爰では述べないが、木谷氏は「今日に及んでなほかつ古典芸術の博物館としての文楽を保持することは事実において空論に属ぜずば幸ひである」と述べてゐるが、私は--今日新作を以て完成したる人形浄るりを破壊し、その変質したる「人形浄るり」を展開と称するならば、今日の人形浄るりは寧ろ玉砕するに如かず
といひたい。私のいふのは、古典人形浄るりをいふのであつて、「変質したる人形浄るり」は、私は茲では問題にしてゐないことを更らに断つておく。木谷氏が新文楽座への注文といはずして、変質したる人形浄るりの、展開を欲するとならば御意のまゝだ--ちよんがれ節なりと浪花節の姉妹芸術なりと御意のまゝだ。
 最後に一言申したいことは、木谷氏の新文楽座へのいろいろの注文が、床の太夫三味線に限つてゐるが如き観がある。私は人形浄るりの歴史を按ずるに、斯道の衰運にあるときは、常に人形が主となつて、浄るりの天才の輩出をまつたものだ、私は今日の「人形浄るり」の現状に徴して、保存の重点を「人形」において講ぜらるべきものだと思つてゐる。これらに対する私の私案は、外の機会に本誌の読者に見えたいと思ふ。
   ◇
 終りに木谷氏の「近松論」の一部に触れて一言したい--
それは、三ヶ月前であつたか、浪速叢書刊行会の関係を中心としたる一会に「散木会」といふがある、この散木会の席上で、木谷蓬吟氏が近松門左衛門の持つ思想的の特長として、「平民的であること」「強い人間愛を持つたこと」「皇室中心主義者であつたこと」等を説いた。その他の近松の思想的傾向はまづ肯定するとして、近松を「皇室中心主義者」であつたと断ずる木谷氏の所論に、私は服さないものである。木谷氏は、この夜近松を「皇室中心主義者」と認むる証拠として挙げたところを聴くと
 一、近松の時代物は大抵書出しに、戯曲が取扱ふ年号と御代の何々天皇と明記してゐるのは、禁廷を人心に深く彫りつくる一手段であつたこと。即ち禁廷の存在を知らしめたのである。
 二、脚色に畏いが親王が、民間に漂泊された時に、賎しい民家の娘との情事を多く脚色したのは、皇室と人民とを握手せしめた近松の意志で、徳川政府を除けものにしてゐる点が見える。
 三、近松の画像の賛にある例の「代々甲冑の家に生れながら云々……今はの際にいふべくおもふべき真の一大事は一字半言もなき倒惑云々……」とある、この「一大事」といふのが王政復古の一大事である。
 と木谷氏は説明した。これに対しては、私は何も知らぬ一介の老書生だが、実に噴飯に堪へず、腹の筋をよらし、臍が茶を沸かしたのである。が、これらを聴く誰もが謹聴してゐるのと、当日の司会者の江崎政忠氏の如きは、近松の贈位申請の好個の材料だとまでいつてゐられた。府立図書館館長今井貫一氏は流石に文芸の士である近松の贈位申請は文芸家としてゞなくばいかぬとやんわりと近松の皇室中心主義説を否定してゐられたが、駁するまでもない木谷氏のこの近松論は愚論だが、筆の序でに申述べておくと
 一、年号天皇名を記したのが思想的に皇室中心主義の証拠だとすると、昔の金平本の作者は皆皇室中心主義者だ、金平本の作者岡清兵衛が皇室中心主義を奉じてゐたことになる。近松以外の少しは古浄るりをも顧みられよと木谷氏に申勧める。
 二、皇室人民との握手も、いりほかの説で古浄るり--近松以前の作者も皆この理由で皇室中心主義を奉じてゐたことになる。
 三、の賛中の「一大事」を王政復古と読まうとする木谷蓬吟氏は、森鴎外博士が嘗て「めさまし草」の「雲中語」か何かでいつた如く、軟体動物に骨を求め胎内の一本のトゲを獲て喜ぶ手合だ。「睡余小録」その他、「羈旅漫録」いろ〳〵なものに出てゐる、近松のこの辞世(?)の各種の文句を、読者は克くその文勢を一読されて、軟体動物に骨を求むる木谷氏の態度を共に嗤はうぢやありませんか。(七月十四日大朝を見て直ぐ認む)