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【 浄瑠璃文句評註 難波土産 】

(2023.02.01)
提供者:ね太郎
 
 読み仮名付き版     読み仮名省略版
 
 
御所桜堀川夜討
お初天神記
安倍宗任松浦登
北条時頼記並に雪之段
大内裏大友真鳥
国性爺合戦
刈萱桑門筑紫轢
蘆屋道満大内鑑
大塔宮曦鎧

『浄瑠璃文句評注 難波みやけ 上ノ本』 《表紙》
見性却清醇
享齢擬壮椿
春温渾満腔
空眼転洪釣
句翰譫歌玅
少牋綺語神
申休門榜爍
楽隠特相親
右題近松平安翁像
  穂積 已貫《見返》
 おしてるや難波[なにハ]のミつの賑[にぎハ]ひ余国[よこく]にこえ、港[ミなと]に出入[いでいる]百千の船[ふね]。ヤンラ目出度[めでた]やの声[こえ]絶[たへ]ず、就中[なかんづく]南江[なんかう]の哥舞妓[かぶき]浄瑠璃[じやうるり]芝居[しばゐ]の軒[のき]をならべて繁昌[はんじやう]の時[とき]を得[え]たり。僕[やつかれ]もとし比[ごろ]浄留りの作文[さくぶん]に種[いろ]〳〵の事[こと]共取あつめたるが面白[おもしろ]さに、数本[すほん]一覽[いちらん]をなすに、唐倭[からやまと]の引事[ひきこと]聞[きゝ]しらぬ俗[ぞく]の諺[ことハざ]など時〃[とき〳〵]抄[ぬきがき]せしを懐[ふところ]にし、ひそかに博識[はくしき]の隱士[いんし]に便[たより]てこれを問[とふ]に、其[その]解[とく]こと流水[りうすい]の如[こと]くなりしをこと〴〵く筆[ひつ]《序1オ》記[き]し見[ミ]れバ、おのづから善[せん]をすゝめ悪[あく]をこらすの一助[いちじよ]共成けるまゝ、頓[やか]て清書[せいじよ]し篋[はこ]に藏[おさめ]んとするに、書林[しよりん]某[それがし]来[きたり]て是を梓[あづさ]に寿[いのちなが]ふせバ四方[しほう]好事[かうず]の本望[ほんもう]ならんといふにぞ、吝[おしむ]べきにもあらねバ吾子[ごし]が心[こゝろ]に任[まか]せんと、直[すぐ]に難波[なにハ]ミやげを題[だい]として茅舍[ばうしや]の窓下[そうか]に筆[ふで]をおきぬ。
 元文三年戊午のほし
 西海の蘭皐書《序1ウ》
 
浄瑠璃[じやうるり]評註[へうちう]巻之一
発端[ほつたん]
 抑[そも〳〵]浄瑠璃[じやうるり]といへる来由[らいゆ]を尋[たづぬ]るに、むかし豊臣[とよとミ]秀吉公[ひでよしこう]の御台[ミだい]政所[まんところ]の侍女[しぢよ]に小野[をのゝ]於通[おづう]といふ人[ひと]あり。才智[さいち]人にこえ手跡[しゆせき]も普通[ふつう]に勝れたりけれバ、時[とき]の人[ひと]殊[こと]におもくもてはやしける。一日[あるひ]御台所[ミだいどころ]於通[おづう]を召[めし]て仰[あふせ]けるハ、いにしへの淸少納言[せいせうなこん]・紫式部[むらさきしきぶ]などいへるハ、源氏[げんじ]・枕双紙[まくらさうし]等[とう]の文[ふミ]を作[つく]りて其名[そのな]を千歳[せんさい]に残[のこ]しぬ。汝[なんぢ]が才[さい]をして小女[せうぢよ]にひとしく朽[くち]なん事いと口をしきわざなり。何にてもあれ作物[つくりもの]がたりして後世[こうせい]にとゞむへきよし命[めい]ありければ、小通[おづう]かしこまりて退[しりぞ]き私[ひそか]に思ひけるハ、いにしへの才女[さいぢよ]の仕[し]わざにならハん事思ひもうけさる事也。しかりといへ共主命[しうめい]もだしがたしとて、閑窓[かんそう]に閉[とぢ]こもりて長生殿[てうせいでん]十二段[だん]といへる物語[ものがたり]を書[かき]て参[まい]らせける。其[その]趣[をもむき]ひとへに矢矧[やはぎ]の浄瑠璃姫[じやうるりびめ]の事[こと]を主[しゆ]とし薬師[やくし]の十二神[じん]に表[へう]して十二段として《序2オ》書[かき]たるにより、時[とき]の人此[この]草紙[さうし]を浄瑠璃本[じやうるりぽん]とぞ申ける。こゝに岩橋[いわはし]検校[けんげう]といへる有て、この双紙[さうし]に節[ふし]を付ケ、夫[それ]よりして以来[このかた]好事[かうす]の人間{まゝ}出[いで]て浄るりの作文[さくぶん]をし、音声[おんじやう]すぐれし人に曲調[きよくてう]して豊[ゆたか]なる世[よ]のもてあそびとす。又人形[にんげう]とあハする事ハ、往[いん]じ慶長[けいてう]の比[ころ]六字[ろくじ]南無右衛門[なむえもん]といふ女太夫[おんなたゆふ]四条[してう]河原[がハら]に芝居[しばゐ]を立[たて]興行[かうけう]せしに初[はしま]る共いひ、又同[をな]し比西[にし]の宮[ミや]の傀儡師[くハいらいし]ミやこに出てかなでしが濫觴[らんしやう]也共いひ伝[つた]へり。近世[きんせい]にいたりてハ或[ある]ハ座敷[さしき]浄[じやう]るり、あるハ芝居[しばゐ]浄るりなんど專らもてはやす事にハ成[なり]ぬ、然ども其文勢[ぶんせい]筆力[ひつりよく]なく何[なに]となく拙く感情[かんじやう]もなかりけれバ、只[たゞ]下〃[した〳〵]のもてはやすのミにして、中人[ちうじん]以上[いしやう]ハ曽[かつ]て其本とて取[とり]あげミる事もなかりしに、元祿[げんろく]年間[ねんかん]に近松氏[ちかまつうじ]出[いで]て始[はしめ]て新作[しんさく]の浄[じやう]るりを作[つく]り出[だ]し、竹本氏[たけもとうぢ]が妙音[めうおん]にうつさせたりけれバ、聞人[きくひと]感情[しやう]を催[もよほ]し、ひそかにその本をもとめて其作文[さくぶん]をミるに文体[ぶんてい]拙[つたな]からず、儒仏神[じゆふつしん]によく渡[わた]り、《序2ウ》譬[たとへ]を取り故事[こじ]を引にも人の耳[ミヽ]にするどからず、貴賎[きせん]のさかひ都鄙[とひ]のわかち、それ〳〵の品位[ひんい]につきてさこそあるらめとおもハせ、道行[ミちゆき]等[たう]のつづけがらもいせ・源氏[げんじ]の俤[おもかげ]をうつして、しかも俗間[ぞくかん]の流言[りうげん]をおかしくつらねけれバ、自然と貴人[きにん]高位[かうい]も御手[て]にふれさせ賞[しやう]し翫[もてあそび]し給ひしより、打続[うちつゞき]て数多[あまた]の浄[じやう]るりを作[つく]り出すに、佳言[かげん]妙句[めうく]挙[あげ]てかぞへかたし。終[つい]に其名[そのな]を天下[てんか]にあらハし、彼[かの]浄[じやう]るり本[ぼん]を見るに恥[はぢ]なく成[なり]て、專[もつハ]ら世上[せいじゃう]に流行[りうかう]する事数十年[すじふねん]に及[をよ]べり。是[これ]偏[ひとへ]に近松氏[ちかまつうぢ]が力[ちから]なり。然[しかふ]して近松死[し]したれた共猶[なを]余光[よくハう]うせず、其門[もん]に遊[あそ]ぶの人[ひと]相続[あいつゞき]て作文をなす。夫[それ]より数多[あまた]の作者[さくしや]出来[いできた]りて、今[いま]に於[をい]て燦然[さんぜん]たり。皆[ミな]是[これ]近松がながれをしたふが故[ゆへ]に、其おもかげ残[のこり]て甘味[かんミ]ある事すくなからず。然[しか]ハあれど元来[ぐわんらい]近松が器[うつハ]なけれバ古語[こゞ]の取あやまり古実[こじつ]のたがひまゝ有て、気[き]の毒[どく]ながら気転[きてん]発明[はあつめい]がおとらぬ所も有て、近年[きんねん]の浄[しやう]るりにも世人[せけん]の耳目[じぼく]を悦[よろこバ]しめ、或[あるひ]ハ希有[けう]の一趣向[ひとしゆかう]《序3オ》を出[いた]して大[おゝき]に当[あた]りを取事[とること]、是また達人[たつじん]といハんに強[しい]て難[なん]有[ある]べからず。
 
○往年[わうねん]某[それがし]近松が許[もと]にとむらひける比[ころ]、近松云[いゝ]けるハ、惣[そう]じて浄るりハ人形[にんげう]にかゝるを第一[だいいち]とすれバ、外[ほか]の草紙[さうし]と違[たが]ひて文句[もんく]ミな働[はたらき]を肝要[かんやう]とする活物[いきもの]なり。殊[こと]に哥舞伎[かぶき]の生身[しやうじん]の人[ひと]の芸[げい]と芝居[しばゐ]の軒[のき]をならべてなすわざなるに、正根[しやうね]なき木偶[にんげう]にさま〴〵の情[じやう]をもたせて、見物[けんぶつ]の感[かん]をとらんとする事なれバ、大形[おゝかた]にてハ妙作[めうさく]といふに至[いた]りがたし。某[それがし]わかき時[とき]大内[おゝうち]の草紙[さうし]を見侍[ミはんべ]る中[なか]に、節会[せちえ]の折[をり]ふし雪[ゆき]いたうふりつもりけるに、衛士[ゑし]にあふせて橘[たちはな]の雪はらハせられけれバ、傍[かたへ]なる松の枝もたハヽなるがうらめしげにはね返[かへ]りてとかけり。是[これ]心[こゝろ]なき草木[さうもく]を開眼[かいげん]したる筆勢[ひつせい]也。その故[ゆへ]ハ橘[たちばな]の雪[ゆき]をはらハせらるゝを松がうらやミて、おのれと枝[えだ]をはねかへしてたハゝなる雪[ゆき]を刎[はね]おとして恨たるけしき、さながら活[いき]て働[はたら]く心地[こゝち]ならずや。是を手本[てほん]として我[わが]浄るりの精根[せうね]をいるゝ事を悟[さと]れり。されバ地文句[ぢもんく]せりふ事ハいふに及[をよ]バず、《序3ウ》道行[ミちゆき]なんどの風景[ふうけい]をのぶる文句[もんく]も、情[じやう]をこむるを肝要[かんやう]とせざれバ、かならず感心[かんしん]のうすきもの也。詩人[しじん]の興象[けうしやう]といへるも同事[とうじ]にて、たとへバ松島[まつしま]宮島[ミやしま]の絶景[せつけい]を詩[し]に賦[ふ]しても、打詠[うちながめ]て賞[しやう]するの情[じやう]をもたずしてハ、いたづらに画[ゑが]ける美女[びちよ]を見る如[ごと]くならん。この故[ゆへ]に文句[もんく]ハ情[じやう]をもとゝすと心得[こゝろう]べし。
○文句[もんく]にてにハ多[おゝ]けれバ何[なに]となく賎[いや]しきもの也。然[しか]るに無功[ぶこう]なる作者[さくしや]ハ、文句[もんく]をかならず和哥[わか]或[あるひ]ハ俳諧[はいかい]などのごとく心得て、五字[じ]七字等[とう]の字くばりを合さんとする故、おのつと無用のてには多くなる也。たとへバ年[とし]もゆかぬ娘[むすめ]をといふへきを、年[とし]はもゆかぬ娘をバトいふごとくになる事、字わりにかゝハるよりおこりて自然[しぜん]と詞[ことば]づらいやしく聞ゆ。されバ大[おゝ]やうハ文句の長短[ちやうたん]を揃[そろへ]て書べき事なれ共浄るりハもと音曲[おんぎよく]なれバ語[かた]る処[ところ]の長短[ちやうたん]ハ節[ふし]にあり。然[しか]るを作者より字くバりをきつしりと詰過[つめすぐ]れバ、かへつて口にかゝらぬ事有物[あるもの]也。この故に我作にハ此かゝハりなき故、手にはおのづからすくなし。
○昔[むかし]の浄るりハ今の祭文[さいもん]同然[どうぜん]にて花《序4オ》も実[ミ]もなきもの成[なり]しを、某出て加賀掾[ぜう]より筑後掾へうつりて作文せしより、文句に心を用[もちゆ]る事昔[むかし]にかハりて一等[いつとう]高[たか]く、たとへバ公家[くけ]武家より以下[いけ]ミなそれ〳〵の格式[かくしき]をわかち、威儀[いぎ]の別[べつ]よりして詞[ことば]遣[つか]ひ迄、其うつりを專一[せん ち]とす。此ゆへに同[おな]じ武家[ぶけ]也といへ共、或[あるひ]ハ大名或ハ家老[からう]その外[ほか]禄[ろく]の高下[かうげ]に付て、その程[ほど]〳〵の格[かく]をもつて差別[しやべつ]をなす。是もよむ人のそれ〳〵の情[じやう]によくうつらん事を肝要[かんよう]とする故也。
○浄るりの文句、ミな実事[じつじ]を有[あり]のまゝにうつす内[うち]に、又芸[けい]になりて実事になき事あり。近[ちか]くハ女形[おんながた]の口上[こうじやう]、おほく実の女の口上にハ得いハぬ事多し。是等[これら]ハ又芸といふものにて、実[じつ]の女の口より得いハぬ事を打出[うちた]していふゆへ、其実情があらハるゝ也。此類[るい]を実[じつ]の女の情[じやう]に本[もと]づきてつゝミたる時ハ、女の底意[そこい]なんどがあらハれずして、却[かへり]て慰[なくさミ]にならぬ故也。さるによつて芸といふ所へ気を付ずして見る時ハ、女に不相応[さうおう]なるけうとき詞など多しとそしるべし。然れ共この類[るい]ハ芸也とミるべし。比外敵役[かたきやく]の余[あま]りにおく病[びやう]なる体[てい]や、どうけ樣の《序4ウ》おかしミを取[と]ル所、実事[しつし]の外[ほか]芸[げい]に見[ミ]なすべき所おほし。このゆへに是を見る人其しんしやく有べき事也。
○浄[じやう]るりハ憂[うれい]が肝要[かんよう]也とて、多[おゝ]くあハれ也なんどいふ文句[もんく]を書[かき]、又ハ語[かた]るにもぶんやぶし様[やう]のごとくに泣[なく]が如[ごと]くかたる事、我[わが]作[さく]のいきかたにハなき事也。某[それがし]が憂[うれい]ハミな義理[ぎり]を専[もつは]らとす。芸[げい]のりくぎが義理[ぎり]につまりてあハれなれバ、節[ふし]も文句[もんく]もきつとしたる程いよ〳〵あハれなるもの也。この故にあハれをあハれ也といふ時ハ、含蓄[がんちく]の意[い]なふしてけつく其情[じやう]うすく、あハれ也といハずしてひとりあハれなるが肝要[かんやう]也。たとへバ松島[まつしま]なんどの風景[ふうけい]にても、アヽよき景[けい]かなと誉[ほめ]たる時[とき]ハ、一口[ひとくち]にて其[その]景象[けいしやう]が皆[ミな]いひ尽[つく]されて何の詮[せん]なし。其[その]景[けい]をほめんとおもハヾ、其[その]景[けい]のもやう共をよそながら数[かず]〳〵云立[いゝたつ]れバ、よき景[けい]といハずしてその景[けい]のおもしろさがおのづからしるゝ事也。此[この]類[るい]万事[ばんじ]にわたる事なるべし。
○ある人の云[いハく]、今時[いまどき]の人ハよく〳〵理詰[りづめ]の実[じつ]らしき事にあらざれバ合点[がてん]せぬ世[よ]の中[なか]、むかし語[がた]りにある事に当世[たうせい]請[うけ]とらぬ事多[おゝ]し。されバこそ哥舞伎[かふき]の役者[やくしや]なども、《序5オ》兎角[とかく]その所作[しよさ]が実事[じつじ]に似[に]るを上手[じやうず]とす。立役[たちやく]の家老職[からうしよく]ハ本[ほん]の家老[からう]に似[に]せ、大名[だいめう]ハ大名[だいめう]に似[に]るをもつて第一[だいいち]とす。昔[むかし]のやうなる子供[こども]だましのあじやらけたる事ハ取らず。 近松答云[こたへていはく]、この論[ろん]尤[もつとも]のやうなれ共、芸[げい]といふ物[もの]の真実[しんじつ]のいきかたをしらぬ説[せつ]也。芸[げい]といふものハ実[じつ]と虚[うそ]との皮膜[ひにく]の間[あいだ]にあるもの也。成程[なるほど]今の世[よ]実事[じつじ]によくうつすをこのむ故、家老[からう]ハ真[まこと]の家老[からう]の身[ミ]ぶり口上[こうじやう]をうつすとハいへ共、さらバとて真[まこと]の大名[だいめう]の家老[からう]などが、立役[たちやく]のごとく顏[かほ]に紅脂[べに]白粉[おしろい]をぬる事ありや。又真[まこと]の家老[からう]ハ顏[かほ]をかざらぬとて立役[たちやう]がむしや〳〵と髭[ひげ]ハ生[はへ]なりあたまハ剝[はげ]なりに、舞台[ふたい]へ出て芸[げい]をせバ慰[なぐさミ]になるべきや。皮膜[ひにく]の間[あいだ]といふが此[こゝ]也[なり]。虚[うそ]にして虚[うそ]にあらず、実[じつ]にして実[じつ]にあらず、この間[あいだ]に慰[なぐさミ]が有たもの也。是に付[つい]て去[さ]ル御所方[ごしよがた]の女中[ぢよちう]、一人[ひとり]の恋男[こひをとこ]ありて、たがひに情[なさけ]をあつくかよハしけるが、女中[ぢよちう]ハ金殿[きんでん]の奥[おく]ふかく居[ゐ]給ひて、男[おとこ]ハ奧方[おくがた]へ参[まい]る事もかなハねバ、たゞ朝廷[てうてい]なんどにて御簾[ミす]のひまより見[ミ]給ふもたまさかなれバ、余[あま]りにあこがれたまひて《序5ウ》其[その]男[おとこ]のかたちを木像[もくぞう]にきざませ、面体[めんてい]なんども常[つね]の人形[にんげう]にかハりて、其[その]男[をとこ]に毫[うのけ]ほどもちがハさず、色艶[いろつや]のさいしきハいふに及バず毛[け]のあな迄をうつさせ、耳[ミヽ]鼻[はな]の穴[あな]も口[くち]の内[うち]歯[は]の数[かず]迄寸分[すんぶん]もたがへず作[つく]り立[たて]させたり。誠[まこと]に其[その]男[おとこ]を傍[そば]に置[をき]て是を作[つく]りたる故、その男と此[この]人形[にんげう]とハ神[たましゐ]のあるとなきとの違[ちがい]のミ成[なり]しか、かの女中是を近付[ちかづけ]て見給へバ、さりとハ生身[いきミ]を直[すぐ]ににうつしてハ、興[けう]のさめてほろぎたなくこハげの立[たつ]もの也。さしもの女中の恋[こひ]もさめて、傍[そば]に置[をき]給ふもうるさくやかて拾[すて]られたりとかや。是を思へバ生身[いきミ]の通[とを]りをすぐにうつさバ、たとひ楊貴妣[やうきひ]なり共あいそのつきる所あるべし。それ故に画[ゑ]そらごとゝて、其[その]像[すがた]をゑがくにも又木[き]にきざむにも、正真[しやうじん]の形[かたち]を似[に]する内[うち]に又大[おゝ]まかなる所あるが、結句[けつく]人の愛[あい]する種[たね]とハなる也。趣向[しゆかう]も此ごとく、本[ほん]の事[こと]に似[に]る内[うち]に又大[おゝ]まかなる所あるが、結句[けつく]芸[げい]になりて人の心のなぐさミとなる。文句[もんく]のせりふなども此[この]こゝろ入レにて見るべき事おほし。《序6オ》
 
浄瑠璃[じやうるり]評註[へうちう]巻之一
  目録[もくろく]
○御所桜堀川夜討[ごしよざくらほりかハようち]
○お初天神[はつてんしん]記
  巻之二
○安倍宗任松浦簦[あべのむねたふまつらきぬがさ]
○北条時頼記[ほうでうじらいき] 幷[ならびに]雪之[ゆきの]段《序6ウ》
  巻之三
○大内裏大友真鳥[たいだいりおゝとものまとり]
  巻之四
○国性爺合戦[こくせんやがつせん]《序7オ》
○刈萱桑門筑紫𨏍[かるかやだうしんつくしのいへづと]
  巻之五
○蘆屋道満大内鑑[あしやのだうまんおゝうちかゝミ]
○大塔宮曦鎧[おゝたふのミやあさひのよろい]
 
浄瑠璃評判目録終《序7ウ》
 
浄瑠璃[じやうるり]評註[へうちう]巻之[けんの]一[いち]
 外題[げだい]
○御所桜堀川夜討[ごしよざくらほりかハようち]
 此浄[じやう]るりハ九郎[くらう]判官[ほうぐハん]との京[きやう]ほり川の御所[ごしよ]に御座[ござ]有し時、鎌倉[かまくら]の頼朝卿[よりともけう]より土佐坊[とさぼう]を討手[うつて]にのほされ、堀川[ほりかハ]の舘[たち]にて夜[よ]うちの始終[しじう]をあミ立たる故、かく外題[げだい]する也。げだい当世[たうせい]の気[き]に応[おう]じ尤[もつとも]面白[おもしろ]し。
 序[じよ]
○恩[おん]ハ春[はる]のごとく威[ゐ]ハ虎[とら]のごとく訓[おしへ]ハ父[ちゝ]のごとく愛[あい]ハ母[はゝ]のごとしと李厳[りげん]をうたひし吏民[りミん]の詞[ことは]
 李厳[りげん]ハ三国[さんごく]の時[とき]の郡守[ぐんしゆ]也。民[たミ]をよく治[おさめ]し故民[たミ]の吏[したづかさ]や民共[たミども]が其[その]徳[とく]を《2オ》ほめてうたひし詞[ことバ]也。民をめぐむハ春[はる]の陽気[やうき]の草木[さうもく]をうるほすがごとく、下[しも]を畏[をど]すに威[ゐ]のある事ハ虎[とら]のはげしきがごとく、民[たミ]を教[をしゆ]るに道[ミち]の明[あき]かなる事ハ父[ちゝ]が子[こ]を教[をしゆ]るがごとく、民[たミ]をあハれミて愛[あい]する事ハ母[はゝ]が子[こ]をいつくしむがごとしと也。こゝハ平家[へいけ]ほろび源氏[げんじ]の世[よ]となりて、頼朝[よりとも]義経[よしつね]の民[たミ]を治[をさ]め給ふになぞらへいふ也。
○義形[ぎげう]せり
 儀刑[ぎげう]と書[かく]べし。儀[のり]とし刑[のつとる]といふ事にて、君[きミ]の徳[とく]が天下[てんか]の手本[てほん]となりて四海[しかい]がのつとるといふ事なり。
 
◎評、右[ミぎ]の序文[じよぶん]、近松[ちかまつ]の筆法[ひつほう]とハ大[おゝい]にたがひ、句作[くづく]りの格[かく]何[なに]となくいやしく、理[り]もまたとくと本意[ほんい]に妥貼[つか]ず。しかしこれらハ全体[ぜんたい]の文[ぶん]づらの巧拙[じやうずへた]の論[ろん]なれバ、何許[どこ]を指[さし]てその好悪[よしあし]をあらハしがたし。但[たゞ]し漢和[からやまと]の文[ふミ]共を多[おゝ]く見たる人の目[め]にハ、おのづからミゆる事也。是ぞ古人[こじん]のいへる知人[しるひと]ぞ知[しる]の場[ば]なるべし。
○兄[あに]によろしく弟[おとゝ]に宜[よろしふ]して国民[くにたミ]をおしゆといふ《2ウ》
 大学[だいがく]に詩経[しけう]を引て、国ををさむるの本[もと]ハ家[いへ]の内にて兄弟[けうたい]中[ない]よくするが肝要[かんよう]なりとおしへたるを引[ひく]なり。よりともよしつね兄弟[けうだい]にかけていふ。
○呉越[ごえつ]とへだゝり
 春秋[しゆんじう]戦国[せんごく]の間[あいだ]、呉[ご]の国[くに]と越[えつ]の国[くに]と不和[ふくハ]にしてたゝかひにおよびし故、中[なか]のあしくへだゝるをいふ。是に付て世俗[せぞく]あるひハ間[あいだ]のはるかにへだゝる事を呉越[こえつ]になぞらへ思ふハ誤[あやま]り也。呉[ご]と越[えつ]ハ遙[はるか]ならず。唐詩[たうし]に到江[えにいたつて]呉地尽[ごのちつき]隔岸[きしをへだてゝ]越山多[えつさんおゝし]といへるも、呉越[ごえつ]の界[さかい]たゞ江をへだてたるのミなる事知[し]るべし。但[たゞ]し間[あいだ]のへだゝるハ胡越[こえつ]なり。唐人[たうじん]も間の遠[とを]くへだゝる事を胡越[こえつ]のごとしと書簡[しよかん]に書[かけ]る事あり。
○摩利支天[まりしてん]
 軍[いくさ]をまもる天部[てんぶ]の本尊[ほんぞん]なり。
○その咎[とが]をしらためるに
 しらためるの語[ことバ]淺[あさ]ましゝ。是ハ京大坂などの側陋[うらやこうし]の匹夫[しもべ]などが、調[しらべ]るといふ事と改[あらため]るといふ事とを聞[きゝ]はつりて、両語[りやうご]を一つにしてしらためるなんど《3オ》いふ。それを直[すく]に取たるならん。殿中[でんちう]にてかぢハらが口上[こうじやう]にハ似合[にあハ]ず。
○甲[かう]がしやり
 大友真鳥[おゝともまとり]の抄[せう]に出[いだ]せり。
○梵天[ぼんでん]帝釈[たいしやく]
 仏法[ぶつほう]にいふ卅三天[てん]の司[つかさ]にて、天帝[てんてい]也。
○闔魔法王[えんまほうわう]
 是も仏法[ぶつほう]にいふゑんまわう也。閻魔[えんま]こゝにハ双王[さうわう]といふ。但[たゞ]し苦[くるしミ]と楽[たのしミ]とをならび受[うけ]給ふゆゑ也と名義集[めうぎしふ]にミへたり。
○五道[ごだう]の冥官[めうくハん]
 地藏十経王[ぢぞうじふわうけう]に出たり。めいどの官人[くハんにん]なり。誓文[せいもん]に請[しやう]ずる所の本尊[ほんぞん]、この外[ほか]に十二神[じん]あり。
○泰山府君[たいさんふくん]
 是も誓[ちか]ひにもちゆる神[かミ]也。陰陽者流[いんやうしやりう]のたつとぶ神[かミ]にて、史記[しき]にもミへたり。
○阿鼻地獄[あびぢごく]
 阿鼻[あび]こゝにハ無間[むけん]といふ。呵責[かしやく]の間[あい]しバらくも間[ひま]なき故に名[な]づくといへり。
○龍[りやう]の腮[あぎと]の珠[たま]
 此事列子[れつし]に出たり。河上翁[かしやうおう]といふものゝ子[こ]、川[かハ]に沒[しづミ]て千金[せんきん]の珠[たま]を得[え]たり。《3ウ》河上翁[かしやうおう]がいハく、石[いし]を取て是を鍛[きたへ]、かならず名珠[めいしゆ]ならん。惣[そう]じて珠[たま]といふものハ驪龍[りりやう]の腮[あぎと]の下[した]にあり。汝[これ]是を取えしハ龍[りやう]の睡[ねふり]たる時に出あひしならん。さなくバ汝[なんぢ]が身を粉[こ]にせられんものをと嘆[たん]じけるとなり。
○衆星[しうせい]北[きた]に拱[たんだく]して
 天[てん]の衆[もろ〳〵]の星[ほし]ハ四方[しほう]にめぐりて、北斗[ほくと]ハ北[きた]にありて動[うごか]ぬゆへ、衆星[しうせい]がめくりてハ北[きた]の方[かた]の北斗[ほくと]に拱[むかふ]を北[きた]にたんだくすといふ也。論語[ろんご]にも此たとへ見えたり。
○靜[しづか]ハたへかねコレのふと立[たち]よるを駿河[するが]がへだてゝどこへ〳〵もう泣[なき]ごとハかなハぬ我君[わがきミ]に見放[はな]されて身[ミ]のたてらいがならずバ
 身のたてらいとハ何〃の詞[ことバ]ぞや。身が立[たゞ]ずバとか、身を立るたつきがなくバとか、身を立るあだてがなくバなんどいハゞ、か程にハ鄙[いやし]からじ。《4オ》
○流殺[りうせつ]の法[ほう]ハ黄帝[くハうてい]の御代[ミよ]に始[はじまり]て
 流罪[るざい]の事、書経[しよけう]の舜典[しゆんてん]に出[いで]たる四罪[しざい]が、たしかなる書[しよ]にミへし始[はじめ]とすべし。書[しよ]ハ尚書[しやうしよ]よりふるきハなき事、漢[かん]以来[いらい]の諸儒[しよじゆ]の説[せつ]也。こゝに小[こ]ざかしく黄帝[くハうてい]に始るといひしハ、後世[こうせい]の雑書[ざつしよ]の端[はし]にさだかならぬ事の記[しる]せるを見ていふなるべし。今の作者[さくしや]ハ誰[たれ]もすべき事也と、近年[きんねん]世上[せじやう]に評判[へうばん]するも其理[り]ある事也。ミな此類[るい]の誹諧[はいかい]学文[がくもん]なる故なるべし。
○施[ほどこし]ハ財[たから]と法[のり]と無畏[むい]の三つ
 在家[ざいけ]より沙門[しやもん]へ金銀[きん〴〵]などをほどこすを財施[ざいせ]といひ、出家[しゆつけ]より俗[ぞく]へ法[ほう]をほとこすを法施[ほつせ]といふ。又真実[しんじつ]の妙道[めうだう]を得て畏[をそる]る事なき徳をほどこすを、無畏[むい]をほどこすといふ。此事つぶさに起信論[きしんろん]に出たり。
○剛臆[かうをく]を見て
 剛[かう]ハつよき也。臆[をく]ハ臆病[をくびやう]なる也。しかし此語[ご]ハ日本[にほん]の軍書詞[ぐんしよことば]にて、漢文[かんぶん]にハ通[つう]ぜぬ詞なり。《4ウ》
○四民[しミん]
 土農工商[しのうこうしやう]也。士[し]ハ官[くハん]につかへる人をいひ、農[のう]ハ百姓[ひやくしやう]をいひ、工[こう]ハ諸職人[しよしよくにん]をいひ、商ハ諸商人[しよあきんと]をいふ。此四つにはづれたるを遊民[ゆうミん]といふなり。
 
 評、 此間[あいた]の追[をひ]はきの段[だん]、理句義[りくぎ]文句[もんく]共はなハだ面白[おもしろ]し。針[はり]右衛門ハおかしく、ばくち打[うち]ハ小[こ]きミよく、親孝行[おやかう〳〵]の貧者[ひんじや]ハ思ひの外にあたゝまりて、よそのミる目[め]をこゝろようす。さりとハ作意[さくい]也。殊[こと]に伊勢ノ三郎が我[わが]身につまされての感心[かんしん]、尤[もつとも]人情[にんじやう]のいやといハれぬ所にて、又むかしも是に似[に]たる例[ためし]有て賢者[けんしや]の論[ろん]にも合[かな]へり。むかし漢[かん]の代[よ]に呉祐[ごゆう]といへる郡守[ぐんしゆ]の掾[したやく]に孫性[そんせい]といふ者[もの]ありて、其父[ちゝ]まづしく寒気[かんき]をふせぎかねし故、孫性[そんせい]がわたくしにて支配[しはい]の在〃[ざい〳〵]へ公用金[こうようきん]なりとて民[たミ]の金[かね]を出させ、衣服[いふく]をこしらへて父[ちゝ]にさづけゝるに、其父[ちゝ]いたりて簾直[れんちよく]なる者にて、汝[なんぢ]いかなる術[じゆつ]をもつて此衣服[いふく]を得[え]たるぞと問[とい]ける故、有[あり]のまゝに答[こたへ]けれバ、その父[ちゝ]おゝきにいかり、官[こうぎ]につかへる身[ミ]としてかゝる私[わたくし]の非道[ひだう]、天道[てんたう]のおそれあり。急[いそ]ぎ郡守[ぐんしゆ]へ参りて此趣[をもむき]を白状[はくでう]し、その罪[つミ]を乞[こひ]候へといゝ付ケける《5オ》にぞ、孝心[かうしん]ふかき余[あま]り父[ちゝ]の下知[げち]にしたがひ郡守[ぐんしゆ]に其旨[むね]を白状[はくでう]しけれハ、郡主[ぐんしゆ]呉祐[こゆう]かへつて是を感[かん]じ、汝[なんぢ]ハ父[おや]をいつくしむ故[ゆへ]をもつて民[たミ]のたからをかすめ汚[けがれ]れたる名[な]を取[と]れり。勿論[もちろん]民をかすめしハ汝[なんぢ]が過[あやまち]なりといへ共、又父[おや]のためにする所もだしがたし。是すなハち孔子[こうし]のの給ふ、過[あやまち]を見[ミ]て仁[じん]を知[し]るといふもの也とて、天子[てんし]へ奏[そう]してその衣服[いふく]をゆるしあたへけると也。今伊勢[いせ]ノ三郎がミづから劫盜[かうどう]をなすも、おやの故なれバ誰[たれ]か不義[ぎ]也とにくむべきや。尤[もつとも]見物[けんぶつ]のひいきをうながすものなるべし。
○耆婆[ぎば]や華駝[くわた]
 ぎばハ天竺[てんぢく]の人にて釈尊[しやくそん]時代[じだい]の名醫[めいい]なり。くわたハもろこし三国時代[さんごくじたい]の名医[めいい]にて、蜀[しよく]の関羽[くハんう]を療治[れうぢ]せし人なり。
 
 評 此浄[じやう]るりハ二段目一段[いちだん]丸ぐち無疵[むきず]の上〃吉、扨[さて]〳〵よくハ作意[さくい]を煉[ねり]たるもの也。しかも瑣細[さゝい]な所に気[き]のついて隅[すミ]から隅迄ミぢんのぬけめもないとハ《5ウ》此事、是を思へバ三段目ハよつぽどまだるい事がち也。惣じていせの三郎に付たる趣向[しゆかう]の筋[すじ]、一から十迄尤[もつとも]ずくめ、しかも骨[ほね]つぎの段にハ余程[よほど]おかしミ有て気の尽[つき]をさんじ、其跡[あと]土佐[とさ]と出合[であひ]てのせりふ、老母[らうぼ]の立あひ何から何までよくも〳〵揃[そろ]ふたりとミゆ。但[たゞ]し場[ば]が三のしゆかうとならぬが残念[ざんねん]也。二段めにハ打[うつ]てつけたる極[ごく]上〃の作意[さくい]なるべし。
 ある人難[なん]じて云[いハく]、伊勢[いせ]ノ三郞ハ道[ミち]を守[まも]るひんぬきに仕立[したて]たるに、浪人[らうにん]のならひとハ云[いゝ]ながら劫盗[がうとう]をさせたる所が少[すこ]しいさぎよからず。もしも学者[がくしや]などが見て評[へう]せバすこし云ぶん有べきか。 答[こたふ] 学文[がくもん]の理屈[りくつ]と世間[せけん]の人情[にんじやう]とハ少しづゝ違[ちがい]のあるもの也。こゝをよくのミこまねバ右のごとき難[なん]ある事也。殊[こと]に世上[せじやう]の人ごゝろにハ判官ひいきといふ僻[くせ]ありて、おゝだゝいが実方[じつがた]にて手抦[てがら]なんどある人の事なれバ、疵[きず]有てもよく云[いゝ]なし、又よく思ひこむ所か、芸[げい]にもちこむ骨髓[こつずい]なり。されバ哥舞伎[かぶき]浄[じやう]るり共義理[ぎり]を本[もと]とする事なれ共、その《6オ》義理[ぎり]に右のかけ引ある事也。それを一向[いつかう]に理くつぜめにして評判[へうばん]すれバ、芸[げい]の本意[ほんい]を取失[うしな]ふ事、たとへバ西[にし]と東[ひがし]との違[たが]ひができるもの也。それに付ちか比京都のさる学者を門弟[もんてい]がふるまひて芝居[しバゐ]をミせけれバ、此学者都[ミやこ]に住[すミ]ながらよく〳〵無風雅[ぶふうが]に偏屈[へんくつ]なる人にや、当代[たうだい]の役者[やくしや]の名[な]も顏も見た事なく、ミごと其日[そのひ]ハ一日[いちにち]見物[けんぶつ]せられしが、帰りて後門弟共問[とひ]けるハ、かの芝居[しばゐ]の立役[たちやく]の内いづれが上手[じやうず]也と思しめすぞといふに、答[こたへ]て、かの若殿[わかとの]に成[なり]し悪人形[あくにんがた]が芸[げい]ぶり甚[はなハ]だおもしろかりし、是が上手ならんといハれし故、それハ嵐[あらし]三右衛門とて実形[じつがた]にて候。かの継母[まゝはゝ]と一つになりて若殿[わかとの]の遊女[ゆうぢよ]ぐるひを云立[いゝたて]にして、家[いへ]を追出[おいだ]さんとたくミし家老[からう]が悪人[あくにん]がたにて候といゝけれバ、いや〳〵それハ理[り]にちがひし評判[へうばん]也。あの若殿[わかとの]がごとく淫酒[いんしゆ]におぼれて放埒至極[ほうらつしごく]のおこなひをなさバ家[いへ]の滅亡[めつごう]ゆへ、そこをとがめて追出[おいだ]さんと謀[はか]るまゝはゝや家老[からう]ハ至極[しごく]の尤也といハれしとかや。芝居[しばゐ]を此やうにミられてハいかなしばゐも仕廻[しまい]成[なる]べし。《6ウ》
 
○風[かぜ]の勢[いきほ]ひハ大海[だいかい]の波[なミ]をうごかせ共井[ゐ]の内[うち]の水[ミつ]をうごかす事[こと]あたハず
 語[ご]の心ハよく聞[きこ]えたり。但[たゝ]しこの語[ご]ハ正[まさ]しき古人[こじん]の成語[つくりたることバ]とハミへず。それゆへ経[けい]子[し]史[し]集[しう]の四部[しふ]にハ大[おゝ]かたミへぬ語[ご]ならんと思へバ、穿鑿[せんさく]に及[をよ]バず。此国[このくに]にて出来[でき]たる管蠡集[くハんれいしふ]といふ書[しよ]に、日月[じつげつ]ハ大地[だいち]をてらせ共海底[かいてい]をてらさずとある下[した]に、此語[ご]に似[に]たる事あり。然[しか]れ共たしかる語[ご]にハあらず。
○親[おや]〳〵矛楯[むじゆん]の折[をり]からに
 こゝのむじゆんといふ事、世俗[せぞく]ハ中[なか]のたがふ事共思ひ、又ハ相違[さうい]する事共おもへり。ミな誤[あやま]り也。是ハ故事[こじ]にて、自身[じしん]の口上か自身にくいちがふ事にかぎりていふ詞[ことバ]也。むかし一人[ひとり]の士[をのこ]矛[ほこ]と楯[たて]とを売[うる]ものあり。矛[ほこ]を売[うら]んとてハ此ほこをもつて突[つく]時ハいかなる楯[たて]もつきとをさずといふ事なしと《7オ》いひ、又楯[たて]を売[うら]んとてハ此たてにてうくる時ハいかなる矛[ほこ]をも請[うけ]とめずといふ事なしといふ。ある人難[なん]じて若[もし]又なんぢが矛[ほこ]にて突[つき]かけ汝[なんぢ]がたてにて請とめバいかゞととがめけれバ、此者[このもの]何共こたへんやうなく自身[じしん]の詞の相違[さうい]せるを恥[はぢ]たり。是より自言[じげん]の相違せるを矛楯[むじゆん]とハいふ也。作者その義[わけ]をしらず。是たゞ今やう作者[さくしや]の斗筲[ますではかる]の輩[ともがら]文盲[もんもう]の罪[つミ]也。
○伊勢[いせ]の二字[じ]を偏[へん]と傍[つくり]に引[ひき]わくれバ人[ひと]平[たいらか]に生[むま]るゝハ丸[まろ]が力[ちから]とよむとあれバ
 辻談儀[つじだんぎ]する物[もの]もらひが神道[しんたう]を講釈[かうしやく]する迚[とて]、何がな仏法[ぶつほう]をそしらんとて、西[にし]ハ西方極楽[さいほうごくらく]とて仏法にハ西をたつとむ。されバ西[にし]の心[こゝろ]になれバたちまち人の道[ミち]にそむく故、悪[あく]とハ西の心と書[かく]なんど、おのが胸[むね]のくらきにまかぜて盲[めくら]蛇[へひ]におぢずのたハ言[ごと]、世間[せけん]ハひろき物《7ウ》なれバ目[め]あき千人めくら千人、ミんごと口過[くちすぎ]をしてとをるもおかし。されバ伊勢[いせ]の二字[じ]を此[こゝ]に書たるごとくいひならハす事、愚俗[ぐぞく]の世話[せわ]にある事ハある事なれ共、偽銀[にせがね]もにせがねと知[しり]てハ取[とる]ましき道理[だうり]なれハ、僻言[ひかこと]を取もちゆるハ作者[さくしや]の目[め]がかすむ故とおしはかられて浅[あさ]はか也。近松なんどハかやうの所に自分[じぶん]の力量[りきりやう]のあらはゝるゝを恥[はぢ]、一向[いつかう]学者[かくしや]などの笑[わら]ふ事ハ除[のぞい]て書[かゝ]ず。されバこそ近松有てより後ハ浄[じやう]るり本[ぼん]が下[した]におかれず、上[うへ]〳〵がた迄も御覽[こらん]あるやうに有しに、近年[きんねん]ハ本[ほん]のもつたいぐわつたりとおしさがりて、公家[くげ]武家[ぶけ]のうへを書[かく]も町屋[まちや]下[しも]ざまの挨拶体[あいさつてい]になり下り取あげてミられぬ事多[おゝ]し。伊勢[いせ]の伊[い]の字の傍[つくり]ハ尹[いん]の字也。平[たいらか]の字にハあらず。勢[せ]の字も又生[むま]るゝの偏[へん]にあらず。本字[ほんじ]勢[せい]なり。俗[ぞく]に㔟[せい]とかくハやつしよりあやまりたる也。但[たゞ]し此[こゝ]の本文[ほんもん]にハ平産[へいさん]の縁[えん]をとらんため俗説[ぞくせつ]を用[もち]ひたらんか。俗[ぞく]の耳[ミヽ]にハ尤[もつとも]らしく聞ク事も有べし。然[しかれ]共盲[めくら]千人《8オ》の誉[ほめ]たるより目[め]あき一人の笑[わら]ひにかゝるハ身の汗[あせ]をしぼる種[たね]なるべし。賢者[けんしや]の詞[ことば]に身[ミ]かならずミづから侮[あなどり]てしかふして後、人これをあなどるといへるごとく、作者[さくしや]も自身[じしん]に我道[わがミち]の威光[いくハう]を引さげる事又口[くち]をしからずや。されバ悪[あく]の字[じ]を西[にし]の心と書[かく]と思ふも、伊[い]の字[じ]を人平[ひとたいらか]とよむとおもふも担[にな]ふておるゝ棒[ぼう]にあらずや。
○伯夷[はくい]叔斉[しゆくせい]ハその罪[つミ]をにくミて其人[ひと]をにくまずといへり
 論語[ろんご]にはくいしゆくせいハ旧悪[きうあく]を思ハずとの給ひし孔子[こうし]の意[い]を取て、其語[そのご]を作[つく]りなをして用[もち]ひたる也。
○倶不戴天[くふたいてん]
 礼記[らいき]に君父[くんふ]の仇[あた]にハ倶[とも]に天[てん]をいたゞかずといひて、君[きミ]と父[ちヽ]とを殺[ころ]されたる敵[かたき]とハ同じ天[てん]をいたゞきて同[おな]じ世[よ]に住[すむ]べき義にあらず。すミやかに其讎[あた]を討[うち]ほろぼすべしと也。《8ウ》
○古[いにしへ]の高良[かうら]の臣[しん]ハ湯起請[ゆぎしやう]取[とり]て
 高良[かうら]のしんとハ武内宿祢[たけちのすくね]也。人王[にんわう]ノ十六代応神天[おうじんてん]王三十一年、たけちのすくね勅使[ちよくし]として筑紫[つくし]におもむきける其跡[そのあと]にて、弟[をとゝ]むましうちのすくね帝[ミかど]へ讒[ざん]して、武内三韓[さんかん]をかたらひ謀叛[むほん]の志[こゝろざし]ありと奏[そう]す。天皇[てんわう]おどろき給ひて使[つかい]を下し武内を討[うた]しむ。武内の臣[しん]まね子[こ]といふ者武内に代[かハり]りて死す。武内是よりひそかに上洛[しやうらく]し咎[とが]なきよしを奏[そう]す。ミかど疑[うたが]ひ給ひて武内兄弟[けうだい]を神前[しんせん]において湯[ゆ]をさぐらしむ。是湯[ゆ]ぎしやうの由来[ゆらい]なり。
 
◎評 蜀紅[しよくかう]の錦[にしき]も衣服[いふく]の裁縫[したて]があしけれバ木綿[もめん]布子[ぬのこ]におとるべし。比所の梶原[かぢハら]が名字[めうじ]そなハりし慥[たしか]なる連判状[れんばんじやう]を義経[よしつね]公やき給ひて、鎌倉[かまくら]の大小名[だいせうめう]の中にも此連中[れんぢう]あるべけれバ、ミな〳〵心を安堵[あんど]のためわざと焼捨[やきすて]給ふとの意[い]、遠[とを]くハ楚[そ]の君[きミ]、ともしびをけさせ冠[かふり]の纓[えい]をきらさせ給ふの徳[とく]に似[に]、近[ちか]くハ《9オ》魏[ぎ]の曹操[そう〳〵]我にそむける百官[ひやくくハん]共の天子[てんし]への奏状[そうじやう]を箱[はこ]の内にて焼[やか]せたるふぜいにて、あつばれ大将[たいしやう]の胸中[けうちう]広大[くハうだい]なる一器量[ひときりやう]のミゆへき所也。たゞ残念[ざんねん]ハ筆[ふで]さきしぶりて其意[こゝろ]を尽[つく]さず。跡先[あとさき]の文言[もんごん]はつきりめかぬ故にや、泣[なき]ねいりに肝心[かんじん]の甘美[うまミ]がぬけ、見る人きく人の感[かん]ずる段[だん]迄とゞきかねるハ残念〳〵。アヽ近松[ちかまつ]恋[こひ]しや。
○勇士[いうし]の戦場[せんちやう]におもむく時[とき]三忘[さんぼう]とてわするゝ事[こと]三つあり
 この本文[ほんもん]七書[しちしよ]の中にミゆ。本文[ほんもん]の心ハきこえたるとをり也。
○もろこしの樊噲[はんくハい]が母の小袖[こそで]を母衣[ほろ]と名づけ戦場[せんぢやう]迄も持[もつ]たりといふ
 此事史記[しき]・漢書[かんしよ]等[とう]の実録[じつろく]にハミへず。通俗[つうぞく]などの中に出たるならんか。《9ウ》
 
◎評、弁慶[べんけい]ハ一代[いちだい]にたつた一度[いちど]女犯[によぼん]せしといふ諺[ことハざ]、子[こ]共迄いひ伝[つた]ふる事にて、しかも是迄狂言[けうげん]に取くまぬ事なれバまことに結搆[けつかう]なる一口趣向[ひとくちしゆかう]なるべし。是によつて作者[さくしや]の思ひつきとミへたれ共、浄[じやう]るりに仕立[したて]あげたる上[うへ]にてミれバ当世[たうせい]の気[き]にくいちかふやうにおもハれ待る。それ故にや世上[せじやう]にこの所の評判[へうばん]はづまぬよし。今[いま]の時代[じたい]、女形[おんなかた]があら事するを悦[よろこ]ぶ気[き]にハのらぬ筈[はづ]也。尤[もつとも]もべんけいかせりふづけ弁慶[べんけい]らしくぎごつなくハきこゆれ共、いかにしても女房[によぼう]といふ道具[だうぐ]おとし一体[いつたい]がなまけて見へ、芥子酢[からしず]のきぶい所へ砂糖水[さたうミづ]をくハへたやうに、底[そこ]があまふて見物[けんぶつ]にもたれのくるきミ多[おゝ]し。是を思ふに大事のもの也。かの鹿を逐[を]ふ猟師[れうし]ハ山[やま]をミずとかやいひて、鹿[しか]に計り目[め]か付て向[むか]ふミずに追[おい]かくれバ山に行[ゆき]あたる。難[なん]ある所に目がつかず。べんけいに此しゆかうハはづむと計り目が付て、かんじんのべんけいにぬるミのくる所へ目がつかず。ついに当世[たうせい]のはづミを失[うしな]へり。されバ此浄[じやう]るりあつたら二段目を三[さん]で引もどすやう、十ぶんのあたりとハ《10オ》ミへず。誠[まこと]におしむべし。そのうへ両人[りやうにん]が肌[はだ]にわけしふり袖[そて]ハ、淸十郞おなつの土用[どよ]ぼしかびくさく、播州[ばんしう]ひめぢのしのび寢[ね]ハ、七小町に名[な]にしあふ大原[おゝハら]のざこねの夢[ゆめ]まださめず、殊[こと]にべんけいが娘[むすめ]を切[きり]てより後のせりふ、うれひの中にすこしおかしミの出[で]る文句[もんく]あり。どこ共なふうれいもしらけて諸見物[しよけんぶつ]のうるほひすくなし。
 又ある人の難[なん]に弁慶[べんけい]が肌[はだ]着ハ童[わらべ]の時よりして昼夜[ちうや]身[ミ]をはなさず今[いま]此場[このば]の役[やく]にたちし事、あまりに見物をうつぶけたる趣向[しゆかう]ならすや。弁慶[べんけい]がおさなだちより是迄の越方[こしかた]、いか計りのへんれきとかせん。矢島[やしま]のうら波[なミ]、一[いち]の谷[たに]のしほ風[かぜ]、数[す]十年[ねん]のあらばたらき戦場[せんぢやう]の大汗[おゝあせ]にひたしてハ、おそらく斎[せい]の晏子[あんし]が名[な]を得[え]し三十年[ねん]の狐裘[こきう]なり共有[ある]べき事とハ思ハれず、事のかけたる仕組[しぐミ]かなと嘆息[たんぞく]せしもさる事なるへし。
○道行
 注[ちう]なし。《10ウ》
 この道行に評注[へうちう]なきハいかん。答[こたふ]。この道行一つも注[ちう]すべき事なし。其上近年[きんねん]の道行の文句[もんく]ハ生玉[いくだま]祭文[さいもん]あるひハ手[て]まり哥[うた]・絵双紙[えざうし]やうの口気[こうき]におちて、多[おゝ]くハ評[へう]ずるにたらず。近松[ちかまつ]が筆勢[ひつせい]の光燄[くハうえん]ハたへ果[はて]たり。おしいかな。近松が道行ハ何[なに]となく句[く]がらけたかく、やゝもすれバ哥書[かしよ]の体[てい]源氏[げんじ]なんどのうつり有て、優美[ゆうび]なる事かくべつ也。それに目[め]なれて今時[いまどき]の道行ハ一向[いつかう]評議[へうぎ]におよぶべからず。
 
○須弥[しゆミ]の四州[ししう]の四天[してん]王
 仏説[ぶつせつ]に世界[せかい]をしゆミせんといふ山に作[つく]り、東西南北[とうざいなんぼく]の四州[ししう]にわかち、四方[しほう]をつかさどる四天王也。多門[たもん]持国[ぢごく]増長[ぞうちやう]広目[くハうもく]の四天[してん]にて、謠[うたひ]などにも多[おゝ]くある事ゆへつまびらかにハしるさず。
○夜討[ようち]によせたる正俊[しやうじゆん]が心[こゝろ]をミする此[この]ゑびらと《11オ》重藤[しげとう]と共[とも]になげ出[だ]すを伊勢[いせ]ノ三郞おつ取てミれバ弓[ゆミ]にハ弦[つる]もなく鏃[やじり]をぬいたるゑびらの矢幹[やがら]
 この正俊[しやうじゆん]が義[ぎ]を立し所、よく聖賢[せいけん]の意[い]にかなへり。孟子[もうじ]離婁[りろう]の篇[へん]に此義と同[おな]じき事あり。鄭[てい]の国[くに]より衛[えい]の国をうちし時に、鄭[てい]の大将[たいしやう]を子濯孺子[したくじゆし]といふ。衛[えい]の国よりハ庾公之斯[ゆこうしし]といふを大将として向[むか]ハしむ。しかるに戦場[せんぢやう]にてしたくじゆし俄[にハか]にやまひおこりて弓[ゆミ]を引[ひく]事かなひがたく、其士卒[しそつ]に云[いゝ]けるハ、我かならず今日[けふ]の軍[いくさ]に討[うた]るべし。我レ病[やミ]て弓[ゆミ]をひく事かなハずとて其日[ひ]の衛[えい]の大将を誰[たれ]なるぞと問[とふ]に、士卒[しそつ]こたへて庾公之斯[ゆこうしし]なるよしをいゝけれバ、孺子[じゆし]聞[きゝ]てしからバ命[いのち]をたすかるべしといふ故、士卒ふしぎに思ひ、ゆこうしゝハ衛の国にて声[こへ]にきこへし弓[ゆミ]の上手なるよし。然[しか]るにかれが向[むか]ふと聞[きい]て命[いのち]を《11ウ》たすからんとの給ふハいかなる故ぞと問[と]ふ。孺子[じゆし]こたへて庾公之斯[ゆこうしし]ハ弓[ゆミ]を尹公之他[いんこうした]といふ人に学[まな]べり。尹公之他[いんこうした]ハわが弟子[てし]なるが日比[ひころ]たゝしき人なれバ、其人[ひと]が友[とも]として弓をおしへたる庾公之斯[ゆこうしゝ]ハかならずたゞしき人なるべし。此故に我レをたすくるを知[し]るといふ。果[はた]してゆこうししせめ来[きたり]て孺子[じゆし]の弓をひかざるをうたがひ問[とふ]に、じゆし病[やまひ]おこりたるよしを答[こたへ]けるにぞ、ゆこうしゝがいハく、我レハ弓をいんこうしたにまなび、いんこうしたハ弓を君[きミ]にまなべり。我レ君の術[じゆつ]をもつて君を害[がい]するにしのびず。然れ共今日のたゝかひハ我君の命[めい]なれバ捨[すて]られずといひて、矢をぬきて乗[のり]たる車[くるま]の輪[わ]にたゝきつけやじりをぬき拾[すて]て、中[あたり]ても孺子[じゆし]に害[かい]なきやうにして矢[や]をはなつて引しりぞけりと也。此事義[ぎ]によくかなひたるゆへ、孟子[もうじ]是を取て教[をしへ]とし給へり。
○けいほうきそくの日[ひ]
 此事いまだかんかへす。
○呉子[こし]孫子[そんし]張[ちやう]《12オ》良[りやう]陳平[ちんぺい]韓信[かんしん]に諸葛[しよかつ]が術[じゆつ]をそらんじ給ひ
 呉子[ごし]と孫子[そんし]とハ戦国[せんごく]の時の兵法[へいほう]の達人[たつじん]也。すなハち呉子[ごし]も孫子[そんし]も兵書[へいしよ]をあらハして七書の中[うち]の一つなり。ちやうりやう、ちんべい、かんしんハ漢[かん]の高祖[かうそ]の臣[しん]にていづれも名将[めいしやう]なり。しよかつハ孔明[こうめい]にて蜀[しよく]の劉備[りうび]の謀臣[ぼうしん]なり。
 
◎評 四段目の奥[おく]、いそのぜんじが舞[まい]に取まぜ藤弥太[とうやた]がはたらき、尤[もつとも]気[き]を取ル仕[し]くミ也。さて土佐房[とさぼう]を善[ぜん]にしたて、初段の口にかまくらにて誓紙[せいし]を書[かゝ]せたる所、世上[せじやう]のいゝつたへを反[うら]へなして、新[あたら]しく今この場[ば]にてよしつねにもせいしを奉り、御父[おんちゝ]義朝公[よしともこう]の重恩[ぢうおん]を思ひ、よりともよしつね御兄弟[ごけうだい]へ共[とも]に奉公[ほうこう]の筋[すじ]を立[たて]たる尤おもしろきしゆかう也。べんけいが尻馬[しりむま]ハ番場[ばんば]の似[に]せ土佐[とさ]、正真[しやうじん]の土佐ハ忠信[ちうしん]をたてぬき伊勢[いせ]ノ三郞にうたれし所、始終[しじう]《12ウ》よくぬけたるもの也。すべて此段もあなのあく所ミへず。いかさま佳作[かさく]といふべし。
○馬歴神[ばれきしん]
 馬櫪[ばれき]と書[かく]べし。厩[むまや]の神[かミ]なり。
 
◎評 正俊[しやうじゆん]と正尊[ぞん]と、むかしより土佐[とさ]が実名[なのり]を二樣[ふたやう]に云[いゝ]ならハせるを拠[とりこ]にして、真[まこと]と偽[にせ]とをわけ、真[まこと]の土佐ぼうハ正しゆんにして正[しやう]ぞんが偽土佐[にせとさ]なりとの事、尤[もつとも]似[に]つこらしき作意[さくい]なり。これより奧[おく]のかんたんのまくらの一[いつ]きよく、諸見物[しよけんぶつ]ながことのたいくつを引たて、罷顔[いにがほ]のよきやうとの取くミ、尤[もつとも]さもあるべし。《13オ》
 
 
○お初[はつ]天神記[てんじんき]
 曽根崎[そねさき]の天神[てんじん]のやしろの境内[けいだい]にて、天満屋[てんまや]おはつ心中[しんぢう]したるよりして、此天神をお初天神とよびならハせり。此浄[じやう]るりおはつが心中の始終[しじう]を作[つく]るゆへかく外題[けだい]せるなり。
○げにや安楽[あんらく]世界[せかい]より
 此語[こ]田村[たむら]のうたひの語[ご]をすぐに取て書たる也。あんらくせかいハ極楽[ごくらく]といふにおなじ。示現[じげん]ハかりに形[かたち]をあらハし給ふとの意[い]なり。
○のぼりて民[たミ]の賑[にぎハ]ひを契[ちぎ]り置[をき]てしなにハづや
 是ハ仁徳天皇[にんとくてんわう]高津[かうづ]にのぼりなにハづの体[てい]を見給ふに、貢[ミつぎ]ものをゆるされて民[たミ]が富[とミ]さかへて賑[にぎハ]ひけるを御覽[ごらん]まし〳〵ての御製[ごせい]に、《13ウ》高きやにのぼりてミれバけふりたつ民[たミ]のかまどハにぎハひにけりと詠[えい]じ給ひ、すへの世[よ]迄も此所の民のにぎハひをことぶき契[ちぎ]り置[をき]給ひしなにハづ也との事なり。さて大坂[おゝさか]をなにハといふ事ハ、むかし神武天皇[じんむてんわう]日向[ひうが]の国[くに]より御舟[ミふね]にてのぼり給ふ時、此所にて浪[なミ]速[はや]く御舟[ミふね]こえ難[かた]かりしかバ、此所を浪速[なミはや]の国と称[よび]給ひし事日本紀[にほんぎ]にミへたり。浪速[なミハや]もなにハとよむ。又なミのあらき心にて難波[なにハ]共書[かく]、ミな此時の故事[こじ]也。さて大坂[おゝさか]を三津[ミつ]の里[さと]共大江[おゝえ]の岸[きし]共いふなり。
○三[ミ]つづゝ十[とを]と三[ミ]つの里[さと]
 大坂三十三所[しよ]の観音[くハんをん]のある所三十三所ゆへ、三つづゝ十[とを]と三つといふ。こゝの文句[もんく]がら雅[が]にして面白[おもしろ]し。近松が手段[しゆだん]にあらずバかく優美[ゆうび]にハいひがたかるべし。是ハ伊勢物語[いせものがたり]の哥[うた]に、鳥[とり]の子[こ]を十[とを]づゝ十[とを]ハかさぬ共といへる詞[ことば]がらをかりて書[かき]たり。しかも大坂を三津[ミつ]の里[さと]といふにいひかなへて、三つづゝ十[とを]と三津[ミつ]の里[さと]と《14オ》詞[ことバ]を引うつりたる所妙[めう]也。大坂を三津[ミつ]の里[さと]といふハ高津[たかつ]・敷津[しきつ]・難波津[なにハづ]の三つある故也。
○罪[つミ]もなつの雲[くも]
 つミもなしといひかけてなつのくもといふ。
○かほよ花[はな]
 杜若[かきつバた]の事也。是も娥[かほよ]ハ妍[ミめ]よき事故云[いゝ]かなへたるもの也。
○てる日[ひ]の神[かミ]もおとこ神[がミ]
 神道[しんたう]にてハ日[ひ]を天照大神[てんせうだいじん]とす。天照[てんせう]だいじんハ陰神[めがミ]なり。しかるをかくいひしハいぶかし。但[たゞ]し日[ひ]ハ陽[やう]なるゆへ、陰[いん]陽の方[かた]より取ておとこ神[がミ]といへるならん。
○むかしの人[ひと]も気[き]のとをるの大臣[おとゞ]の君[きミ]が塩[しほ]がまの浦[うら]を都[ミやこ]へ堀江[ほりへ]こぐ
 融[とをる]のおとゞハ嵯峨天皇[さがのてんわう]第[だい]十五の御子[ミこ]也。むかし加茂川[かもがハ]のほとりに家[いへ]づくりして住[すミ]給ひ、六条河原院[ろくでうかハらのいん]と申す。官位[くハんい]ハ従一位[じゆいちい]左大臣[さたいじん]にて《14ウ》まします故大臣[をとゞ]といふ。しほ竈[がま]の浦[うら]ハもと陸奥[ミちのく]宮城郡[ミやぎこほり]にある名所[めいしよ]也。とをるのおとゞ、此塩[しほ]がまの景[けい]を都[ミやこ]の宅[たち]にうつし給ひしが、今なにハの堀江[ほりへ]をこぐ舟[ふね]の其しほがまのうらのけしきにて、茶[ちや]ぶね・荷[に]ぶねのかよひハ塩[しほ]くミ舟[ふね]のことく也と也。
○弘誓[ぐぜい]の櫓[ろ]べうし
 くハんをんめぐり故、廿五の菩薩[ほさつ]の来迎[らいかう]のぐぜいの舟[ふね]によそへていふ也。ぐぜいハ一切衆生[いつさいしゆじやう]を弘[ひろ]く済度[さいど]せんとの誓願[せいぐハん]を立[たて]給ふ故、しゆじやうのいのち終[おハ]る時、極楽[ごくらく]より観音[くハんおん]を第一[だいいち]として、廿五の菩薩[ぼさつ]がぐぜいの舟にて来迎[らいかう]し給ふと也。
○法[のり]の玉[たま]ぼこ
 玉ぼこハ道[ミち]といハん枕詞[まくらことバ]也。故にのりのミちとのこころ也。
○ふだらくや
 普陀洛迦山[ふだらくせん]とてくハんおんの浄土[じやうど]なり。
○久[ひさ]かたの
 久かたハ空[そら]といハん枕詞[まくらことバ]也。空にまバゆきと云[いゝ]たるゆへ、久[ひさ]かたの光[ひかり]とうけたり。
○光[ひかり]に移[うつ]る《15オ》我[わが]かげのあれ〳〵はしれバはしる是[これ]〳〵又[また]とまれバとまるふりのよしあしミるごとくこゝろもさぞや神[かミ]ほとけてらす鏡[かゞミ]の神明宮[しんめいぐう]
 この段文句[もんく]ハよく聞[きゝ]えたり。空[そら]の日[ひ]のひかりをうけてかゞミをいひ、鏡[かゞミ]ハ神[かミ]の御正体[ミしやうたい]ゆへしんめいぐうをいふ。空にまバゆきと云出[いゝだ]したるより以下[いげ]の文句、ミな神明宮[しんめいぐう]をいハんためのまくら詞[ことば]也。しかもはしれバはしるとまれバとまる等[とう]の詞、人形[にんげう]にふりを付[つけ]たるもの也。女一人[ひとり]の道行[ミちゆき]ゆへ、ながきもんくの中にハ此文句[もんく]のごとき事あれバ、一入[ひとしほ]人形の所作[しよさ]がつきてふりがあるゆへなるべし。
○御仏[ミほとけ]も衆生[しゆじやう]のための親[おや]なれバ
 一切衆生[いつさいしゆじやうハ]悉[こと〴〵く]是[これ]吾子[わがこなり]と法華経[ほけけう]に説[とき]給ふにもと付[づき]ていふ也。親[をや]の縁[えん]よりおはせと移[うつり]たり。《15ウ》
○かもめなれも
 鳥類[てうるい]畜類[ちくるい]虫[むし]などをよひてなれもといふ也。哥[うた]ことばなり。
○はづかしのもりて
 はつかしの森[もり]といふ名所[めいしよ]ある故それにかけていふ也。山城[やましろ]の国[くに]乙訓[をとくん]の郡[こほり]にあり。
○七千余巻[しちせんよくハん]の経堂[きやうだう]
 一切経[いつさいけう]をおさめたる堂[だう]也。一代[いちだい]の説経[せつけう]七千よくハんなりと也。
○経[きやう]よむ鳥[とり]のとき
 ほとゝぎすを経[けう]よむ鳥[とり]といひ、又ハめいどの鳥共いふ。此事くハしく十王経[じふわうけう]に出たり。経[けう]よむ鳥といひてすぐに日暮[ひくれ]の酉[とり]の時といひうつしたる也。
○きぬ〴〵も
 きぬ〴〵ハ別[わか]れの事なり。
○空[そら]にきえてハ是[これ]も又[また]ゆくゑもしらぬあいおもひぐさ
 西行[さいぎやう]の哥[うた]に、 風[かぜ]になびくふしのけふりの《16オ》そらにきへてゆくゑもしらぬわか思ひかな。 此詞を取て書[かけ]り。相思草[あいおもひくさ]ハたばこの異名[いめう]なり。
○夢[ゆめ]をさまさんばくらう
 獏[ばく]といふけだものハよく夢を食[くら]ふといふ故事[こじ]あるゆへ、ばくらうといひかけたり。されバ枕屏風[まくらべうぶ]の絵[ゑ]などにおほく獏[ばく]を書[かく]も、あしき夢[ゆめ]をくハせんとの心也とかや。
○仏神[ぶつじん]水波[すいば]のしるしとていらかならへし
 仏[ほとけ]ハ神[かミ]の本地[ほんぢ]にて神ハ仏の垂跡[すいしやく]なれバ、神とほとけハ水[ミづ]と波[なミ]とのごとく也となり。いらかハ甍[いらか]と書[かき]て瓦[かハら]なり。棟[むね]をならべたるをいらかならべしといふ。
○さしも草[ぐさ]
 たゞたのめしめじがハらのさしも草われよのなかにあらんかぎりハと、観音[くハんおん]のちかひをよミたる哥[うた]によりていふなり。
○三十三に御[おん]身をかへ
 観音[くハんおん]ハ人を済[さい]《16ウ》度[ど]せんために卅三の身[ミ]をあらハし給ふ事、くハんおん経[げう]にある故それによりていふ也。
○恋[こひ]のやつこ
 奴[やつこ]ハ下部[しもべ]の惣名[そうめう]なり。然[しか]れ共和語[わご]にやつこといふに二種[にしゆ]あり。一種[いつしゆ]ハ鑓持[やりもち]などの髭[ひげ]やつこ也。是ハ常[つね]のとなへのことくやつことよぶべし。又やさしき童僕[でつち]なんどハ。や。つこトやの字を截[きり]てよぶべし。こゝハ恋[こひ]の。や。つこなるべし。
○とくゐ
 あきなひ且那[だんな]をとくゐといふ事京大坂の常語[じやうご]なれ共、遠[とを]き田舎[いなか]にハしらぬ事也。先年[せんねん]奥方[おくがた]の学者[がくしや]、此浄[じやる]るりをよミて、此詞[ことバ]をあんじ煩[わづら]ひしよし聞[きゝ]つたへし故爰[こゝ]にあらハす。
○死手[しで]の山[やま]三途[さんづ]の川[かハ]
 めいどに死手の山とさんづの川ある事仏説[ぶつせつ]に出たり。三途[さんづ]ハ火途[くわづ]・刀途[たうづ]・血途[けつづ]とて三つの途[ミち]ありといへり。
○うつせ貝[がい]
 身[ミ]のなき貝殻[かいがら]なり。
○袖[そで]と〳〵をまきのとや《17オ》
 和哥[わか]の恋[こひ]の詞に、待[まち]わぶる付ケ合せに真木[まき]の戸[と]ざゝぬといふ事あり。この本文[ほんもん]も徳兵衛がまちたるにいひかけたるなり
 道行
○あだしが原[はら]の道[ミち]の霜[しも]
 あだし世[よ]・あだし野[の]・あだちが原[はら]ミな化[あだし]の字[じ]を書[かき]て、さだめなきあだなる心也。されバあだし野[の]・あだしがハらハおほく墓所[むしよ]を指[さし]ていふ。今死[しに]にゆく身[ミ]なればむしよへの道行の心也。又あだちが原といふ詞もあり。大和詞[やまとことハ]にあたちが原[ハら]とハおそろしきをいふといへり。然れバあだちが原と見ても遠[とを]からず。しかれ共其本意[ほんい]ハあだしが原也。さて命[いのち]のはかなきを露霜[つゆしも]にたとへたる古語[ここ]おほし。その意[い]を取て道[ミち]の霜といひ、霜[しも]より取てきへて行[ゆく]といへる、皆[ミな]おもしろし。
○ひとあしづゝに消[きへ]てゆく
 道[ミち]の霜[しも]といふより縁[えん]を取て、一足[ひとあし]づゝにきへてゆくと受[うけ]たる、尤[もつとも]おもしろし。しかもひとあしづゝにきへてゆくの意[い]ハ、人の命[いのち]の一日[いちにち]〳〵にちゞまる事を、仏経[ふつけう]に屠処[としよ]《17ウ》の羊[ひつじ]のあゆミにたとへたる語[ご]あり。羊[ひつじ]を殺[ころ]すものを屠者[としや]といふ。その屠者[としや]が羊[ひつじ]を屠場[はぐば]へ引てゆくをミれバ、ひかれゆく羊[ひつじ]ハ一[ひと]あゆミ〳〵にておのが命[いのち]がちゞまるなれ共それをしらず。凡夫[ぼんぶ]のいのちのちゞまるをしらぬもかくのごとしといへり。これらの心をふまへて書[かき]たるゆへ、底[そこ]に意味[いミ]をふくミたる文句[もんく]也。
○夢[ゆめ]のゆめこそあハれなれ
 うき世[よ]ハ夢[ゆめ]なるに、又我身[わがミ]のいま死[しに]にゆくはかなさ、さながらゆめの内[うち]にまた夢をミしこゝちなれと也。此世[よ]を夢といふ事ハ仏説[ふつせつ]におほき中に、唯識論[ゆいしきろん]に云[いハく]、いまだ真覚[しんがく]を得[え]ざれバ常[つね]に夢中[むちう]に処[しよ]す。故[かるがゆへ]に仏[ほとけ]説[とい]て生死[しやうじ]の長夜[ぢやうや]とすといへり。金剛経[こんがうけう]にも一切有為[いつさいうい]の法[ほう]ハ夢幻[ゆめまぼろし]のごとし共いへり。又詩[し]にも人間[にんげん]一夢中[いちむのうち]などゝ作[つく]りて、浮世[うきよ]のあだなるを夢[ゆめ]にたとへたる、これらの語[ご]をふミて書[かき]たる文句[もんく]也。
○鐘[かね]のひゞきの聞[きゝ]おさめ寂滅為[じやくめつい]《18オ》楽[らく]とひゞくなり
 涅槃経[ねはんげう]の偈[げ]に、諸行[しよげう]無常[むじやう]是生[ぜしやう]滅法[めつほう]、生滅〃已[しやうめつ〳〵い]寂滅為楽[じやくめついらく]と説[とき]給ふ。此心ハうき世のもろ〳〵のものハ一つとして常[つね]ある事なし。生[しやう]ずれバかならず滅[めつ]するの法[ほう]也。されバ生[しやう]じてハ滅[めつ]しめつしてハ生[しやう]じひたすら生滅[しやうめつ]を経[へ]て、其終[おハ]り寂滅[じやくめつ]としづかに滅[めつ]しおハりたる所を、真実[しんじつ]のたのしミとするとしめし給ふ也。されバ今死[し]ぬる身[ミ]にじやくめつをたのしミとするのひゞき也と聞[きゝ]とれバ此世[よ]よりさとりしこゝろもちあり。
○雲[くも]こゝろなき水[ミづ]の面[をも]北斗[ほくと]ハさえて影[かげ]うつる星[ほし]のいもせのあまの川[がハ]梅田[むめだ]の橋[はし]を鵲[かさゝぎ]のはしと契[ちぎ]りていつ迄も我[われ]とそなたハめうと星[ぼし]かならずそふとすがりよりふたりが中[なか]にふるなミだ《18ウ》川[かハ]のミかさもまさるべし
 陶渕明[たうえんめい]が帰去来[ききよらい]の辞[ことば]に、雲無心[くもむしんにして]以出岫[もつてくにをいづ]といふ語[ご]あり。その外[ほか]詩人[しじん]の詞に、雲[くも]の心なきを人情[にんじやう]のうき思ひの胸[むね]にふさがる目[め]より見[ミ]てうらやむ心多[おゝ]し。こゝも其心にて書[かき]なせり。我〳〵ハうき思ひにかきくれしに、うらやましや雲[くも]ハ心もなく何[なん]の苦[く]もなくミゆると也。それより水[ミづ]の面[をも]とうつりて、しゝミ川のけしきをいひしも、彼[か]の空[そら]ハひとつに雲[くも]の波[なミ]といへる心もちに書[かき]なし、空[そら]の景気[けいき]と今目前[もくぜん]の川辺[かハべ]のけしきとを打[うち]混[こん]じて、上[うへ]と下[した]とでいひたる甚[はなハ]だめづらか也。空[そら]のほくとハこゝろよくさへて、其かげ水[ミづ]にうつりてかゝやくも、我[わが]むねのくもりたるにハ事かハりてうらやまれ、わきてうらやましき事ハ、七夕[たなバた]の星[ほし]のいもせのちぎりをこめ給ふ天[あま]の川もあり〳〵と、さぞな二星[じせい]ハ千歳[ちとせ]をかけて、つきぬ契[ちぎり]りをむすぶらん。さらバ我〳〵もあやかりて、今わたる梅田[むめだ]のはしをかさゝぎの橋[はし]とちぎり、かならずそハんとす《19オ》がりよる有さま、その景[けい]その情[じやう]その態[すがた]いづれもさも有べし。かさゞぎの橋[はし]とハ牽牛[けんぎう]織女[しよくぢよ]の二星[ふたほし]落合[をちあひ]給ふ夜[よ]かさゝぎがきたりて羽[は]をのし天[あま]の川をわたすとのいひ伝[つた]へなり。扨ふる雨[あめ]よりいゝかけて川のミかさとうつりたるも、筆[ふで]のあゆミこゝろよくおもしろし。ミかさハ水[ミづ]のかさ也。水のかさ高[たか]くなるを水[ミ]かさもまさるべしとハいへり。
○きくに心[こゝろ]もくれはどりあやなや
 応神天王[おうじんてんわう]の御時、使[つかひ]を呉国[ごこく]へつかハして綾[あや]をる女[おんな]をもとめ給ふに、呉国[ごこく]四人の綾[あや]をり女をおくれり。其中に呉織[くれハどり]・穴織[あなハどり]と名付[なづく]るありしゆへ、是よりしてくれはどりといふ詞をうけてハあやとつゞる也。爰[こゝ]も心のくるゝといふをいひかけてくれはどりと云[いゝ]たる故、あやなやと受[うけ]たる古哥[こか]の心にかなひておもしろし。古哥[こか]に、 くれハどりあやにこひしく有りしかバふたむらやまもこえずなりにき。
○せめてしバしハ《19ウ》ながゝらで心[こゝろ]もなつの夜[よ]のならひ
 心もなしといふ心をもたせて心もなつといひかけたり。此類[るい]のいゝかけハ結句[けつく]きれいにして雅[が]なり。
○だんまつまの死苦八苦[しくはつく]
 いのちの終[おハら]んとする際[きハ]のくるしミを断末間[だんまつま]のくるしミといふ。死苦[しく]ハもとより死[し]する時[とき]のくるしミ也。八苦[はつく]ハ人間[にんげん]の八苦[はつく]なり。死苦[しく]といひたる故八苦[はつく]とうけたる、是もいひかけの類[るい]なり。
 
浄瑠璃評注一之終《20オ》

『浄瑠璃文句評注 なにはみやけ 上ノ末』 《表紙》
 
○安倍宗任[あべのむねたふ]松浦簦[まつらきぬかさ]
 此浄るりハ伊予守[いよのかミ]ミなもとの頼義[よりよし]、御子[おんこ]八幡[はちまん]太郎義家[よしいへ]の両将[りやうしやう]、奧州[あふしう]あべの貞任[さだたふ]・宗任[むねたふ]を退治[たいぢ]して凱陣[かいぢん]あり。其後都にて山純親王[やまずミしんわう]のむほんをふたゝび平治[へいち]し、その上むねたふを度〳〵ゆるし、其終[おハり]に奧州の旧地[きうち]をあたへ松浦党[とう]と名のる事をつゞりたり。外題[げだい]当世の気に応[おう]し諸人の評判[へうばん]よろし。但[たゞ]し簦[とう]の字をきぬがさとハめづらしき和訓[わくん]なりと、黒字[くろきじ]を見知[ミし]りたる人ハ咲[さミ]するもいやとハいハれず。
 序
○飛禽[ひきん]也[また]恩[おん]耶[と]義[ぎと]を知[し]る猛虎[もうこ]尚[なを]恵与仁[けいとじんとを]しる治乱[ちらん]我[われ]にあり敵[てき]にあらず帰心[きしん]叛意[はんい]おのれが《1オ》身たり同一[どういち]甘味[かんミ]の民[たミ]と君[きミ]
 この最初[さいしよ]の二句[く]ハ詩[し]の語[ご]とミへたれ共、其出所[しゆつしよ]つまびらかならず。其心ハよくきこえたり。空[そら]をとふ禽[とり]だにも恩義[おんぎ]を知[し]り、たけき虎[とら]さへ恵仁[めぐミ]の心ハあり。是らにさへ恩義仁恵[めぐミ]あるをミれバ、まして人たる者[もの]誰[たれ]か仁恵を捨[すて]んや。しかれバ此方[このほう]よりさへよくあしらふ時ハ、敵[てき]となるもの有べからず。たゞ世のミだれて敵多きハ、此方よりのもてなしのあしき也。かくミる時ハ此方のしむけ次第なる程に、治乱[ちらん]我レにあり敵にあらず。我[われ]にきぶくする心と我にそむく心とのさきさまに出来[でき]るハ、皆おのれよりの仕[し]むけによる。然れバ帰心[きしん]叛意[はんい]おのれが身[ミ]なるにあらずや。さて右のごとくミる時ハ、怨[うらミ]と情[なさけ]と二つにあらず。同一[どういち]なりと也。此序のこゝろ義家卿[よしいへけう]が宗任[むねたふ]をしたがへさせ給ふをふまへていふ。其文面[もんめん]よく意にかなひ面白[おもしろ]し。但[たゞ]し筆者[ひつしや]のあやまりにや、智[しる]の知[ち]の字[じ]を智[ち]の字に書たる見苦[ぐる]し。又同一《1ウ》甘味[かんミ]の甘の字鹹[かん]の字にあらざれバ意義[いぎ]通[つう]せず。その故いかんとなれバ、作者にハ御存なきかもしらねど、此語[ご]ハもと仏書[ぶつしよ]におゝく出たる語也。是ハ古哥にいふ、わけのぼるふもとの道[ミち]ハおほけれどおなし高根の月を見るかなと詠[えい]ぜしごとく、仏[ほとけ]のおしへさま〴〵に別[わか]るれ共、つまる所の本[もと]ハ一理[いちり]に落るをあかさんとて、千川万河[せん〳〵ばんが]の水、その流[ながれ]のすじハわかるれ共、おちこむ所ハ一つの大海[かい]にして同一に鹹味[かんミ]となるとのたとへ也。海水[かいすい]の鹹[しほやき]をいふなれハ甘[あまし]の字大にあやまれり。作者よく〳〵引るゝ所の本書を見られよかし。
○上意[じやうい]にまかせ天奏[てんそう]をもつて上聞[じやうぶん]に達[たつ]せしに
 天奏[てんそう]ハ伝奏[てんそう]のあやまり也。堂上[たうしやう]に議奏衆[ぎそうしゆ]・伝奏衆とて事を天子[てんし]へ奏する役[やく]なり。その内に伝奏ハ別[べつ]して武家[ぶけ]の事を奏するゆへ武家伝奏[てんそう]共いふ。いま天[てん]の字に書たる笑[わら]ふべし。又上聞[じやうぶん]といふ《2オ》詞も、天子[てんし]へそうするにハ耳[ミヽ]なれぬ詞也。但[たゞ]し今の浄るりにハ何方もかくのごとき胡椒[こせう]丸[まる]のミなる事多し。然[しか]れバかやうの僻言[ひがこと]ハ当世[たうせい]浄るりのはやり物共いふべし。
○大[おゝ]ミや人
 禁中[きんちう]の人〴〵を指[さし]ていふ詞也。
○うぐひす蛙[かハづ]も哥[うた]をよむ
 かハづの哥ハむかし紀[き]の良貞[よしさだ]といふ人住吉もうでの時、浦[うら]の草[くさ]をもとめに出けるに、木の下にうつくしき女の立居[たちゐ]けれハ、心をかけていゝよらんとするに、かの女今ハ露[つゆ]ばかり思ふ事あり、かさねて爰[こゝ]にきたり給へかならず相見んとちぎりてわかれし故、其明[あく]る年けいやくのごとく、良貞[よしさた]又かの浦に出て待けれ共其女ハ来[きた]らずして、たゞ砂[すな]の上[うへ]にかハづ有て前わたりせしかバ、其蛙[かハづ]の跡[あと]をミれば卅一字の哥也。 すミよしのうらのミるめもわすれねバかりにも人に又とハれぬる。良貞おどろき是を見て、扨ハ過[すぎ]し比女と見しハ此かハづよとそしりける。又《2ウ》鶯[うぐひす]の哥[うた]ハ孝謙[かうけん]天王の御宇[ぎよう]に、大和の国たかま寺の軒端[のきば]の梅[むめ]へうぐひす来[きた]りてさえづる。老僧[らうそう]その声を文字にうつせバ、初陽[しよやう]毎朝来[まいてうらい]不遭還本栖[ふそうげんほんせい]とあらハれて、是を和訓[わくん]にてよめバ、はつはるのあしたごとにハきたれ共あハでぞかへるもとのすミかに、といふ三十一字の和哥なりしとかや。
○周処[しうしよ]心[こゝろ]をあらたむれバ忠孝[ちうかう]のほまれをとる
 しうしよハ三国の時、呉[ご]の人なり。始ハ其里人[さとびと]に迄おそれられて、周処が三害[さんがい]とて三ケ条[さんがでう]の害[かい]の内へ入し程の悪人[あくにん]なれ共、後にハ大将となりて忠孝のほまれを取れり。
○なんぢ予譲[よじやう]が義[ぎ]を思ひ
 晋[しん]のよじやうといふ者、主人の敵[かたき]趙襄子[てうぢやうし]を討[うた]んとねらひたりしを、一たんてうぢやうしにとらへられたれ共、主の敵をねらふ忠義[ちうぎ]のこゝろざしを感[かん]じてたすけし事《3オ》也。しかれ共其後橋[はし]の下[した]にふして趙子[てうし]をねらひし故、後にハ殺されたり。
 
◎評 初段ずらりと大概[たいがい]きこえたるとをり也。さして替[かハり]ししゆこうもミへず。文句[もんく]もありべかゝりの内に、匡房[まさふさ]おつぼねなんどのせりふ、余[あま]りいやし過[すぎ]てミゆる所多[おゝ]し。
○衆愚[しゆぐ]の諤々[がく〳〵]いつハりの変言[へんげん]
 衆愚[しゆぐ]ハおほくの愚[をろか]なる者[もの]といふ事。諤〃[がく〳〵]ハげう〳〵敷[しき]ていなり。
○囲碁[いご]
 碁[ご]をいごといふ。但[たゞ]し碁[ご]を打[うつ]を碁[ご]を囲[かこむ]といふゆへなり。
○もろこし玄宗皇帝[げんそうくハうてい]すごろくをもつて后[きさき]をさだめしためし
 此事通鑑[つがん]の唐書[たうしよ]又ハ唐鑑[たうかん]などにハミへず。小説[せうせつ]の中にあるにや。
○いざ手談[しゆたん]と
 碁[ご]をうつを手談[しゆだん]といふ。相手[あいて]向[むか]ひに手[て]にて談[かたる]といふ心なり。《3ウ》
 
◎評 碁[ご]の所おもしろし。殊[こと]にごばんがすぐに八幡[はちまん]太郎の塀[へい]を飛[とん]て切付[きりつけ]らるゝの用[よう]にたち、其後まさふさの北の方が早成[はやなり]へ碁石[ごいし]を打付らるゝ場にても入用[よう]のものとなる。道具[だうぐ]ハかくのごとく始終[しじう]用に立[たつ]やうに遣[つかハ]るゝ事尤働[はたらき]なるべし。ある人のいハく、初段より二段目の段切迄打ミた処[ところ]がさらりとして、訳[わけ]ハよく聞[きこ]へ気のつきぬ芸[げい]とハミえたれ共、底[そこ]に意味[いミ]のある事見えず。何とやら請取[うけとり]ぶしんをミるやうによミがこまぬと存[ぞん]ずる。答[こたへ]、 尤[もつとも]さる事有べし。然れ共せかいの事ハ一概[いちがい]にいハれず。見物[けんふつ]にさま〴〵のすきこのミあり。是を料理[れうり]にたとへていハゞ、下戸[げこ]の口[くち]と上戸[じやうご]の腹[はら]と物ずきがうらはらなるごとく、其芸[げい]の見手[ミて]によりさらりとしたるが気[き]にいる有り、ねちミやくしたるを好[すく]もあり、兎角[とかく]何をまいらふもしれぬハ客[きやく]の心也。殊[こと]にしばゐでのあたりハ第一[だいいち]あやつりのはなやかなるが肝要[かんよう]にや。此二段め八まん太郞のしのびの段、前太平記[ぜんたいへいき]の移[うつ]りにて趣向[しゆかう]ハありべかゝりなれど、あやつりの踊[はね]どうもいハ《4オ》れず。是を思へバあたりを取[とる]ハ、陰[かけ]の舞[まい]の理屈[りくつ]よりハ、目の前で仕[し]てミせるが十分の理[り]也。しゆかうがわるふ入くめバ一段で一場[ひとば]程づつ長[なが]物がたりの居[ゐ]せりふ、しらぬ京物がたりにけんぶつの精[せい]をつからす事又ある事なるへし。されバ近比ある人の説[せつ]に、あやつりを見[ミ]やうならバ今のしバゐにしくハなく、本[ほん]を読[よミ]てたのしむにハ中古[ちうこ]近松が作[さく]にしくハなしといハれしごとく、迚[とて]も文句[もんく]のうへでハ今時ハ人のなぐさミになる程の事なけれバ、太夫衆[たいふしゆ]の音曲[をんぎよく]とあやつりの色とりにて評判[へうばん]をたのむも一手[ひとて]だてといふべきか。しかれバ場所[ばしよ]により趣向[しゆかう]もさらりが勝[かち]なるべし。
○桃薗[もゝぞの]
 源氏[げんじ]の先祖[せんぞ]六孫王[ろくそんわう]経基[つねもと]しん王[わう]の事也。
○本国[ほんごく]河内[かハち]へ引[ひき]こミ
 かハち石川郡[いしかハごほり]香爐峯[かうろほう]、今いふ壺井[つぼゐ]通法寺[つうほうじ]也。山のうへに頼信[よりのぶ]・よりよし・義家[よしいへ]三将軍[さんしやうぐん]の墓[つか]あり。つぼゐごんげんとあがむるも右の三将軍[しやうぐん《4ウ》]を祭[まつ]る也。又壺井[つぼゐ]と名[な]づくる事ハ、頼義[よりよし]奧州[あふしう]の水[ミづ]を壺[つぼ]にいれ本国[ほんこく]へもち帰[かへ]り、此所に井をほりて其水[ミつ]をうつし給ふゆへなり。
○六任[ろくたふ]の兄弟[けうだい]
 貞任[さだたふ]・宗任[むねたふ]・家[いへ]任・重任[しげたふ]・正任[まさたふ]・則[のり]任なり。
○青龍[せいりう]朱雀[しゆじやく]白虎[びやくこ]の籏[はた]
 天[てん]の二十八宿[しゆく]を四方[ほう]へわかち、四方に名[な]あり。南[ミなミ]をしゆじやく、東[ひがし]をせいりう、西をびやくことす。即[すなハ]ち天子[てんし]即位[そくい]の時、是にかたどりたるはたを立るなり。
○波羅門[ばらもん]白駝[はくだ]四天王[してんわう]
 ばらもん王[わう]・はくだ王・四天王ミなあらき姿[すがた]なる故、いきほひのはげしきにたとふ。
○韋駄天[いだてん]班足王[はんぞくわう]軍多利[ぐんだり]夜刃[やしや]提達達多[だいばだつた]
 いだてんハ足疾鬼[そくしつき]を追[をい]給天部[てんぶ]也。はんぞくわうハ天竺[てんぢく]にて暴悪[ぼうあく]の王[わう]也。ぐんだりやしやハ五大尊[ごだいそん]の一つ也。だいばたつたハ《5オ》釈迦[しやか]に敵[てき]せし悪人[あくにん]にて法華経[ほけきやう]につまびらか也。
○佞人[ねいじん]賢人[けんじん]に似[に]たれバ非[ひ]もまた理[り]にまがふことハり
 この文句[もんく]古語[こご]にハあらね共、此道理[だうり]なるがゆへに、作者[さくしや]の筆[ふで]さきにて古語[こご]のやうにつゞりなしたるならん。
○もろこし陳[ちん]の大夫[たいふ]に秋胡[しうこ]といふ好色者[かうしよくもの]わが婦[ふ]としらで戲[たハふ]れ後代[こうたい]のそしりを受[うく]る
 しうこハ魯国[ろこく]の人[ひと]なり。春秋[しゆんじう]の時陳[ちん]の哀公[あいこう]につかへて太夫となり、楚[そ]より責[せめ]られて陳[ちん]の国[くに]やぶれしかバ、城[しろ]の東門[とうもん]よりぬけ出て古郷[こきやう]に帰[かへ]らんとするに、既[すで]に古郷に近[ちか]く成て平山[へいさん]桑埠[そうふ]の間[あいだ]をとをりしに、ひとりの婦人[ふじん]桑[くハ]を取居[ゐ]しをミるに、其かたち甚[はなハ]だうるハしかりけれバ、しうこ是を恋[こひ]てたハふれ寄[より]、女の心を《5ウ》引見んために云[いひ]けるハ、百姓[ひやくしやう]の耕作[かうさく]を精出[せいだ]すよりハ、豊年[ほうねん]に出合[であい]たるがまされり。織[はたをる]おんなの桑[くわ]を取[とる]事をはげまんよりハ、一国[いつこく]の卿太夫[けいたいふ]にまミへて寵[てう]愛にあふがまされり。今[いま]婦人[ふじん]終日[ひめもす]桑[くハ]を取給ふ共筐[かたミ]にも満[ミた]じ。もし我心にしたがひ給ふ物ならバ我レに金[こがね]あり。婦人[ふじん]にあたへて辛苦[しんく]をたすけんとて金を出してミせけれバ、婦人[ふじん]こたへて云[いハく]、桑を取て絹[きぬ]をおり辛苦[しんく]して姑媂[しうとめ]をやしなひつかふるハ婦[よめ]たるものゝさだまりし道[ミち]也。我にハ夫[おつと]ありて今他国[たこく]につかへたり。我[われ]金をもとめず、又太夫[たいふ]にまミゆる事もねがハず。君[きミ]はやく其金をおさめてかへりたまへといふ、折[をり]ふし秋胡[しうこ]が僕[しもへ]ども来[きた]りけるゆへ其まゝわかれて立去[たちさり]、しこうハ古郷[こけう]に帰り着[つき]けり。此しうこといふ者[もの]、五年[ごねん]いぜんに妻[つま]をむかへ五日[いつか]過[すぎ]て陳[ちん]ヘ行[ゆき]つかへたりしが、此たび久[ひさ]〴〵にて帰りし程に老母[らうぼ]よろこびて対面[たいめん]し、るすの内ハ嫁[よめ]の白氏[はくし]ミづから桑[くハ]を取てよくやしなひよくつかへし事を語[かた]りて、かの嫁[よめ]をよび出してあハせけれバ、最前[さいぜん]平山[へいざん]にて桑[くハ]を取居[ゐ]たる婦人[ふじん]なり。夫婦[ふうふ]と成[なり]て《6オ》間[ま]もなく久[ひさ]しくわかれ暮[くら]せし故、双方[さうほう]共に見[ミ]わすれてかくのごとし。白氏[はくし]おつとを見[ミ]ておどろき泣[ない]てはぢしめて云[いハく]、君[きミ]先年[せんねん]妻[つま]をよひて五日[いつか]にして遠[とをく]つかへ母[はゝ]に別[わか]るゝ事久[ひさ]し。今日[こんにち]古郷へ帰らバ万事[ばんじ]をなげうつて途[ミち]を急[いそ]き[ぎ]、母[はゝ]にまミへてやしなふべき事なるに、途中[とちう]にして女[おんな]にたハふれ、母[はゝ]の孝養[かうやう]にそなふべき金[こがね]を捨[すて]んとせしや。母[はゝ]をわするゝハ不孝[ふかう]也。色[いろ]をこのミて行作[げうさ]をけかすハ不義[ふぎ]也。親[をや]につかへて不孝なれバ君[きミ]につかへて忠[ちう]あらじ。家[いへ]に居[ゐ]て不義[ふき]なれバ官[ミやづかへ]して理[り]にしたがハじ。されバ我レハ君[ミる]を見るにしのびず。君[きミ]他[ほか]の婦[をんな]をめとり給へといゝをハりて奧[おく]に入り、うしろの園[その]よりぬけ出て河[かハ]に身[ミ]を投[なけ]て死[し]したり。しうこ大[おゝき]におどろきて我[わが]あやまりをくやミ、泣[なき]かなしミて白氏[はくし]が死骸[しがい]をほうむり、ふたゝひ奉公[ほうこう]の心なく一生[いつしやう]母をやしなへり。魯人[ろひと]白氏かために廟[へう]を立[たて]、年[とし]ごとに祭[まつり]をなし潔婦[けつふ]の社[やしろ]とあがむといへり。
○あやまちを改[あらたむ]るにはゞからず《6ウ》と申せバ
 論語[ろんご]に出たる孔子[こうし]の語[ご]なり。
○冥途[めいど]黄泉[くハうせん]
 大友真鳥の抄[せう]に出せり。
 
◎評 三ノ口[くち]趣向[しゆかう]おもしろし。忍[しの]びの段[だん]の浪人[らうにん]が、夫婦[ふうふ]のやくそくを云立[いゝたて]て景正[かけまさ]を不義[ぎ]ものといふを義家卿[よしいへけう]もつともとしてかげまさを罪[つミ]に落[おと]し給ふ所、すこしまたるきやうなれ共。奧[おく]で打わつた所が元来[ぐハんらい]義家卿がつてんの謀[はかりごと]なれバさも有べし。惣[そう]じて大塔宮[おゝたうのミや]の三ノ口程にハミへ侍る。第一[だいいち]しゆかうの筋[すじ]が先[さき]へ少[すこ]しもミへぬ所が何[なに]よりの珍重[ちんてう]。此場[ば]より奧[おく]迄よく練[ねら]れたるしゆかうとミへて、当目[あたりめ]がたしか〳〵。
 ある人難[なん]じて云[いハく]、むかしより女を男[おとこ]の体[てい]にやつしたる事ハ、本朝[ほんてう]にも其例[ためし]を聞及[きゝをよ]ぶ事あり。此段のごとく男を女にしたつる事其ためしをきかず。ちかくハかぶきの女形[をんながた]など、うつくしき孌童[やらう]を地女[ぢをんな]の臙粉[いろどり]よりもなをこまやかに飾[かざり]たるもの故、打ミたる所ハ取なり物こし女に正[しやう]のやうなれ共、よく気[き]を付[つけ]たる時ハ《7オ》あるひハ手[て]の筋[すし]あらハに青[あを]ミだち喉骨[のどぼね]高くあらハれ、中〳〵真[まこと]の女とハ格別[かくべつ]なる所あり。いかん。 答云[こたへていハく]。 難[なん]のごとく男を女に似[に]せたる事狂言[けうげん]にハ多[おゝ]き事にて、実事[しつじ]にハ見及[ミをよ]バず。もろこしの歴史[れきし]などにも見あたらぬ事也。但[たゝ]し魏晋[ぎしん]以来[いらい]六朝[りくてう]の雑伝[ざつでん]をあつめたる歴代披砂[れきだいひさ]といふ書[しよ]にたま〳〵此類[たぐひ]の事あり。晋[しん]の恵帝[けいてい]くらゐに即[つき]て至[いたり]ておろか也。その妣[ひ]賈皇后[かくハうごう]淫乱[いんらん]ほういつのあまり、近侍[きんじ]の宦官[くハん〴〵]共にひそかに命[めい]して市井[いちまち]に人をつかハし、美少年[ひせうねん]の者[もの]あれバだまし誑[すか]て後宮[こうきう]へ召[めし]よせ給ふに、内外[うちと]の目[め]をおほハんため、かの少年[せうねん]を女儀[によぎ]に出立[でたゝ]せ、あまたの女官[によくハん]の中にまじへて給事[きうし]させ給ふ故、恵帝[けいてい]をはじめ朝廷[てうてい]の大臣[たいじん]もその事をしらざりしと也。是をもつてミる時ハたま〳〵其例[ためし]なきにしもあらずといふべし。
○是人[ぜにん]於[を]仏道[ふつだう]决定[けつぢやう]無有疑[むうき]
 法華経[ほけけう]其外[ほか]の経にもおほく出たる語[ご]なり。《7ウ》此文[もん]の心ハこの人[ひと]ほとけの道[ミち]においてハ、決定[けつぢやう]して疑[うたが]ふ事ある事なしと也。
 
◎評、三ノ奥[おく]一場[ひとば]注[ちう]の入ルべき文句[もんく]なし。但[たゞ]し諸見物ひいきせぬ方[ほう]の最後[さいご]故かうれひハしんミりとせざれ共、りくぎのやりかた十分こゝちよし。但[たゞ]しこしもと共が噂[うハさ]のあたりより奧方[おくかた]靏[つる]はぎの口上[かうじやう]などに、少[すこ]し奥へ気[き]のつくべき文句あり。それ故か此所でハそろ〳〵筋[すじ]ミへるこゝち、是ハ作者[さくしや]が奧のこゝろを心[むね]にもちて書[かゝ]れしゆへ、思ハすしらず其もやうがふでさきへあらハるゝ成[なる]べし。但[たゞし]ハそろ〳〵見物へのミこましもてゆく合点[かてん]でわざとかふ書れしか、それなれバわるい合点。惣[そう]じて先[さき]を隱[かく]す事ハ隨分[ずいぶん]かくすが宜[よかり]そうに思ハるゝ事ぞかし。勿論[もちろん]おゝとうの宮[ミや]などハ三ノ奧[おく]におどり場[ば]で身[ミ]がハりを切[き]る下[した]づくろひに、三ノ口に燈籠[とうろう]づくし、斎藤[さいとう]が切子[きりこ]の使者[ししや]、又奧[おく]の口[くち]あけに右馬頭[うまのかミ]がおとりなど、先[さき]のミへるやうなれど、是ハ肝心[かんじん]の趣向[しゆかう]にハちつ共かまハぬ事にて、しかも其狂言[けうげん]の時節[しせつ]盆[ほん]の比[ころ]ならねバ、宮[ミや]《8オ》の首[くび]きる場[ば]になりて俄[にハか]におどりを始[はじめ]てハ、時[とき]ならぬゆへ見物の気がけうとく、万一[まんいち]わるふ呑[のミ]こミて踊[おどり]に物[もの]のあるやうに成てハ主意[しゆい]の邪魔[じやま]になるゆへに、是ハわざと手[て]まへよりそろ〳〵おどりをもよほして、踊[おどり]の時節[じせつ]じやといふ事を見物の虫[むし]にがつてんさせんためなれバ、此格[かく]とハ別[べつ]なるべし。しかし此やうにいへバとて、此場[ば]に疵[きづ]を付るにハあらず。是ハ栄耀[えよう]の上[うへ]のせゝり箸[ばし]とやら、先[まづ]ハ三段目口[くち]奧[おく]共十ぶんの大出来[おゝでき]、文句[もんく]しゆかう共諸人[しよにん]の難[なん]ずる所なく、ミな当[あた]りとの評判[へうばん]なり。
○道行
 注[ちう]なし。
 
◎評 此道行、ざしき浄[じやう]るりにしてハ差[さし]たる事もなけれ共、芝居[しばゐ]でハあたりを取ル文句[もんく]共おほく、尤[もつとも]花[はな]やかにおもしろし。
○鳳凰[ほうわう]ハ徳[とく]を見[ミ]て下[くだ]り鳥[からす]ハ視[し]《8ウ》肉[しゝ]にまよふとかや
 この語[ご]文選[もんぜん]に見えたり。ほうわうハ諸鳥[しよてう]の長[かしら]にて、聖人[せいじん]の世[よ]ならでハあらハれず。雄[をんとり]を鳳[ほう]といひ雌[めんどり]を凰と[わう]いふ。羽蟲[うちう]三百六十の長也。からすハ注[ちう]に及バず。視肉[ししゝ]ハ鳥[とり]けたものなどの肉[にく]のある所を見[ミ]てまよひくだるとなり。
○もろこし郭巨[くハつきよ]といふ者[もの]母[はゝ]にちぶさをあたへんとて我[わが]子[こ]を土中[とちう]に埋[うづミ]しといへり
 くわつきよハ廿四孝[かう]の中[うち]の一人にて、此事廿四孝伝[でん]にミへたり。此時くわつきよ土中[とちう]をほりて金[こがね]釜[ふ]を得[え]たりと有り。それに付[つき]釜[ふ]ハ斤目[きんめ]の事にて、金[こかね]を釜[ふ]ほど得[え]たりとの義[ぎ]なるを、此方[このほう]にて取ちがへ、金[こがね]のかまを得[え]たりと訓[よむ]故、絵[ゑ]又ハ作[つく]り物などに釜[かま]を掘出[ほりだ]す体[てい]をなすハ誤[あやまり]也。
 
◎評 道行の奧[おく]の場[ば]より段切迄、しゆかう文句[もんく]共に上〃吉。飛脚[ひきやく]の籠[かご]をやく《9オ》所一際[ひときハ]おかしく、奧[おく]にいたりてのうれひあハれにひあひに、別[べつ]して女中[ぢよちう]などの好[すき]そうないきかた也。吃[ども]の置[をき]ミやげ、ふし事の段だてにあハれに面白[おもしろ]し。終[おハり]にハおさな子[ご]ハ命[いのち]たすかり、結句[けつく]沼[ぬま]太郞が思ひかけなき切腹[せつふく]、さいごの際[きハ]に吃[ども]のなをりたるいゝわけの所、きつくりと見物のむねにこたへて尤[もつとも]らしく、女房[によぼう]かたわのなをりしに付ケて。いとゞくやミなげきの体[てい]、人情[にんじやう]の感[かん]ずるたゞ中[なか]始終[しじう]この段も上出来[でき]なるへし。
 ある人難[なん]じて、沼[ぬま]太郞が心[しん]の臟[ぞう]を切[きり]てより物いひが正[たゞ]しき事、舌[した]ハ心[しん]に属[ぞく]する故との事ハきこへたれ共、心[しん]ハ真君[しんくん]の霊府[れいふ]なれバ、すでに心[しん]を傷[やふり]て暫時[ざんじ]も精神[せうね]の有べきやうなし。然[しか]るを弁舌[べんぜつ]が正[たゞ]しきなんどゝハ、医経[いけう]にうとき事也とさミせり。尤[もつとも]狂言綺語[けうげんきぎよ]とハいへど、かく難[なん]ずれバいやとハいハれず。然[しか]れバ筆[ふで]を下[くだ]す時少[すこ]しハ学文[がくもん]の心もつけらるへき事ならずや。
○諸神[しよじん]もとより形[かたち]なし《9ウ》正直[しやうぢき]をもつて心[こゝろ]とす虚霊不昧[きよれいふまい]の御神徳[ごしんとく]
 是も古語[こご]にあらず。作者[さくしや]のつゞりたる文句[もんく]なり。神体[しんたい]ハ鏡[かゞミ]の中[なか]のむなしきがごとく、さだまれる形[かたち]なし。神[かミ]ハたゞ正直[しやうぢき]を心として物をてらし給ふ事、かゞみの体[たい]の虚霊[きよれい]にしてくらからざるがごとしと也。虚霊[きよれい]とハ形[かたち]ハ虚[むなしく]してしかもあり〳〵と霊[あらた]なるをいふ。不昧[ふまい]ハかゝミのくらからぬにてすなハちあきらかなる事也。
○野夫[やふ]漁人[ぎよじん]
 野夫[やふ]ハ土民[どミん]をいひ、漁[きよ]ハすなどりにて魚[うを]をとる人をいふ。
○御欝然[ごうつぜん]をはさらせ給ふ一興[いつけう]
 この然[ぜん]の字あしゝ。惣[そう]じて然[ぜん]の字[じ]を卒然[そつぜん]・儼然[げんぜん]・鬱然[うつぜん]などゝ用[もちゆ]ゆるハ形容字[けいようし]とて其体[てい]をかたどるための付ケ字也。それ《10オ》ゆへ鬱然[うつぜん]としてとよまるゝ所ならでハ用ひてのらず。是等[これら]ハ作者[さくしや]が文章[ふんしやう]をしらざるのあやまりなり。
○冥感[めうかん]
 惣[そう]じて仏神[ぶつしん]のたすけハ、目[め]にミへぬ所より力[ちから]をくハへ給ふ故、冥[くらき]の心にて冥感[めうかん]の、冥加[めうが]のなどゝいふ詞を用る也。
○酒宴[しゆえん]たけなハの折[をり]から
 酣[たけなハ]の字を書[かき]て半酔半醒[はんすいはんせい]の時をいふと注[ちう]する字[じ]なれ共、古来[こらい]おほく熟酔[じゆくすい]の方[かた]へつかふ事也。軍[いくさ]にても酣戦[かんせん]といへバ戦[たゝかひ]をはなハだきびしくするになる也。
○五調[がんでう]
 五臟[ござう]がよく調和[てうくハ]したるといふ心にて用[もち]ゆれ共、漢文[かんぶん]にハ見あたらず。誹諧師[はいかいし]などのおほくもちゆる事なり。
○猿田彥[さるたひこ]
 神事[じんじ]の先[さき]へ悪魔[あくま]をはらふ鼻高[はなだか]の事[こと]なり。《10ウ》
 
○北条時頼記[ほうでうじらいき]
 此浄[じやう]るりハ最明寺殿[さいめうじどの]鎌倉[かまくら]執権[しつけん]の時節[しせ]の事を取くミて、末[すへ]にハ近松[ちかまつ]の残[のこ]し置[をか]れし女[おんな]はちの木[き]の雪[ゆき]の段[だん]を切[きり]くハせて、始終[しじう]をよくむすびあハせたり。それゆへ北条時頼記[ほうでうじらいき]と外題[げたい]を置[をく]也。
 序
○葵[あおひ]の花[はな]ハ日[ひ]を見[ミ]て転[てん]じ芭蕉[ハせう]ハ雪[ゆき]を聞[きい]てひらき
  ※ 雪[ゆき] 中百舌 は貼り紙して雷[らい]と修正
 此事円機活法[えんぎくハつほう]又ハ本草綱目[ほんざうかうもく]などに出[いで]たり。
○桑[くハ]の門[かど]薙髮[ちはつ]
 出家[しゆつけ]ハ樹下[じゆげ]石上[せきしやう]とてさだまる家[いへ]なく、あるひハ石[いし]のうへにたゝずミ又ハ樹[き]の下[した]にやどるものゆへ桑[くわ]の門[かど]といふ。薙髮[ちはつ]ハかミを薙[きる]ことにてすなハちしゆつけする事なり。
○将軍職[しやうぐんしよく]の《11オ》除書[ぢよしよ]
 将軍職[しやうぐんしよく]に任[にん]ぜらるゝの書[しよ]也。惣[そう]じて官位[くハんい]をさづけらるゝを除[ぢよ]せらるゝといふ。但[たゞ]しふるき官[くハん]を除[のぞく]といふ意[い]なりとかや。
○唐[もろこし]の盜蹠[とうせき]が邪智[じやち]
 とうせきハいにしへのぬす人也。伯夷[はくい]といふ賢人[けんじん]ハ飴[あめ]を見て、此食物[くいもの]ハ老人[らうじん]の口をやしなふに便[たよ]りよき物也といふ。とうせきハ飴[あめ]を見て此ものハ盗[ぬすミ]に入[いる]とき鎖[でう]にぬりて鎖[でう]をあくるにかつてよきもの也といへりとかや。
○節刀[せつたう]といふ
 天子[てんし]より将軍[しやうぐん]しよくをたまハるしるしとて、斧[ふ]・鉞[えつ]・刀[かたな]・籏[はた]などを給ハるを都[すべ]て名[な]づけて節刀[せつたう]といふ也。
○かのもろこしの鴻門[こうもん]の会[くわい]沛公[はいこう]がまぬかれし項伯[こうはく]が恩[おん]陳平[ちんぺい]が情[なさけ]
 沛公[はいこう]ハ漢[かん]の高祖[かうそ]也。楚[そ]の項羽[かうう]関中[くハんちう]に入て鴻門[こうもん]に陳[ぢん]を取し時、苑増[はんぞう]がすゝめに《11ウ》よつて高祖[かうそ]をまねき、酒[しゆ]えんのうへにて剣[けん]をまハせ沛公[はいこう]をうたんと計[はかり]しを、項伯[こうはく]と陳平[ちんへい]とがなさけによつて其座をまぬかれ給ふ事、史記[しき]および前漢書[ぜんかんしよ]にミへたり。
○功[こう]有て賞[しやう]ぜず罪[つミ]あつて誅[ちう]せずんバ唐虞[たうぐ]といへ共化[くわ]する事あたハず
 唐虞[たうぐ]ハ尭舜[げうしゆん]の天下[てんか]をおさめ給ふ代[よ]の名[な]なり。化[くわ]とハ治化[ちくわ]・教化[けうくわ]とて天下をおさめ給ふをいふ。此語[ご]ハ七書[しちしよ]の中[なか]に出たり。
○孟宗[もうそう]郭巨[くハつきよ]
 もうそうもくハつきよも二十四孝[かう]の中[なか]の人にて、両人共に親孝行[おやかう〳〵]の名[な]をえし人也。
○魍魎[もうりやう]鬼神[きじん]
 もうりやうハ山[やま]の神[かミ]の類[るい]也。鬼神[きじん]も山川[やまかハ]などの鬼神[きしん]なり。
○寿[じゆ]をやしなふものハ病[やまひ]にさきだつて薬[くすり]をぶくし世[よ]を《12オ》おさむる君[きミ]ハ乱[らん]にさきだつて賢[けん]にまかす
 この語[ご]の心なる文句[もんく]ハ儒書[しゆしよ]又ハ醫書[いしよ]にもあまた有ル事也。但[たゞ]シ正[まさ]しく此語[ご]の出所[しゆつしよ]ハ見あたらず。古語[こご]にハあらず。
○謀計[ぼうけい]ハ眼前[かんせん]の利潤[りじゆん]といへ共終[つい]に神明[しんめい]の罸[ばつ]をかうむる
 天道[てんたう]の正直[しやうぢき]にまかせずして、私[わたくし]の謀計[もくろミ]にてりしゆんを得[え]る事有といへども、終[つい]にハ神罸[しんばつ]をうくると也。此語[ご]ハ三社[さんじや]の託宣[たくせん]に出たり。
○もろこし周[しう]の世[よ]に魯国[ろこく]と戦[たゝか]ふ事あり一人[ひとり]の匹夫[ひつふ]二歳[にさい]の子[こ]をすて十歳[じつさい]の子[こ]をつれ走[はし]る《12ウ》
 この本文[ほんもん]のわけハよく聞えたり。此事は左氏伝[さしでん]に見へたり。
○道行
 此道行大概[たいかい]上上[じやう〴〵]の出来[でき]なり。但[たゞ]し注[ちう]におよぶ事なきゆへ略[りやく]しぬ。
 道行ノ奥[をく]
○こも僧[そう]しゆぎやうのぼろ〳〵と
 こもそうの事をぼろ〳〵と名[な]づくる事つれ〴〵草[ぐさ]に出[いで]たり。ミなかミハ京都[けうと]明[めう]あんじ元祖[ぐハんそ]ハ普化[ふけ]ぜんじ也。むかしハこも僧[そう]といハずしてぼろ〳〵といひけるとなん。又尺八[しやくはち]を洞簫[とうせう]なりと思ふ人あれ共さにあらず。洞簫[とうせう]ハ今いふ一重切[ひとへぎり]の事也。尺八ハむかしより尺八と称[せう]ず。羅山文集[らさんぶんじう]に尺八の賦出たり。かんがへミるべし。
○世[よ]の中[なか]をいとふ迄こそかたからめかりのやどりを何[なに]《13オ》をしむらん
 西行法師[さいげうほうし]の哥[うた]なり。
○げに人間[にんげん]の一生[いつしやう]ハ岸[きし]のひたいの根[ね]なし草[ぐさ]
 身[ミ]を観[くハん]ずれバ、岸[きし]のほとりに根[ね]をはなれたる草[くさ]、いのちを論[ろん]ずれバ、江[え]のほとりにつながざる舟[ふね]、といふ詩[し]の句[く]を取て書[かき]たる也。
○発心門[ほつしんもん]さとりの門[もん]
 はじめてぼだいにこゝろざしたるがほつしんもん也。後[のち]にぼだいをさとりへたるがさとりのもんなり。さとりのもんハすなハち悟道門[ごだうもん]なり。
○易行門[いぎやうもん]難行門[なんぎやうもん]
 他力念仏[たりきねんぶつ]などが心やすき修行[しゆげう]ゆへ易行門[いげうもん]なり。戒[かい]をたもち座禅[ざぜん]する等[とう]がむつかしきしゆぎやうゆへなんぎやうもんなり。
○観念門[くハんねんもん]天台[てんだい]二十四門[もん]《13ウ》
 くハんねん門[もん]は天台止観[てんだいしくハん]あるひハ一心三観[いつしんさんぐハん]などゝて、空仮中[くううげちう]の三諦[さんたい]等[とう]の仏法[ふつほう]の一大事[いちたいじ]をくハんずるをいふ。天台[てんだい]の廿四門ハ右[ミき]のほつしん・ごだう・いぎやう・なんぎやうもん等[とう]ミなその内[うち]なり。
○空門[くうもん]非空[ひくう]亦空門[やくくうもん]
 これも三諦[さんたい]より出たる事にて、諸法[しよほう]を空[くう]とくハんずるを空門[くうもん]といひ、空[くう]にもあらずとくハんずるを非空門[ひくうもん]といひ、空[くう]にあらざるにもあらずとくハんずるを亦空門[やくくうもん]といふ。ミな仏学[ぶつが ]の奥義[あうぎ]なれバたやすくえとくせらるゝ事にハあらす。
 
◎評 五段目[ごだんめ]にいたりてハ、近松[ちかまつ]の作[さく]の女鉢木[おんなはちのき]雪[ゆき]の段[だん]を切[きり]くハせて五段[ごだん]の都合[つかふ]首尾[しゆび]まつたし。かく古[ふる]き名作[めいさく]物を取合せ給ふ所偏[ひとへ]に作者の機転[きてん]也。さるにより此じやうるりハ大評判[おゝへうばん]にて今も人のよろこぶでき物なり。さて此奧[おく]にハ最明寺[さいめうじ]の道行の謠[うたひ]の出端[では]ば《14オ》かりにて浄[じやう]るりに移[うつ]る文句[もんく]よりして道行の間[あいだ]ハぬけたるか。此道行の文句[もんく]にハ筆勢[ひつせい]のおもしろき事共多[おゝ]し。まづ蝶[てう]のつばさのおしろいをくさにこぼして梢[こずへ]にハ靏[つる]のしもげをぬぎかくる、雪[ゆき]は花[はな]より花おほきと書[かけ]る所、円機活法[えんぎかつほう]の雪[ゆき]の部に靏毛[くハくもう]蝶粉[てうふん]といふ四字を出して石曼卿[せきまんけい]が雪を詠[えい]ぜし詩[し]を出せり。その詩[し]を和語[わご]にうつしたるもの也。其詩[し]に云[いハく]、蝶遺粉翼[てふハふんよくををくりて]軽難拾[かろくしてひろいかたく]、靏墜霜毛[つるハさうもうををとして]散未転[ちりててんぜず]といふ二句[く]あり。是をなをして右のごとくにつゞりしハ、彼[か]の楽天[らくてん]が青苔帯衣[せいたいころもををびて]掛巖肩[いハほのかたにかゝり]、白雲似帯[はくうんおびににて]繞山腰[やまのこしをめぐる]の句[く]を、苔[こけ]ごろもきたるいわほハさもなくてきぬきぬ山のおびをするかなとなをしたるにもおとるまじ。殊[こと]に雪[ゆき]を六出花[りくしゆつくハ]と名付るハ、常[つね]の花[はな]ハ蘂[はなびら]が五つづゝ出るもの故五出[ごしゆつ]といふ。雪[ゆき]のミごとさハ花にまさるの心にて、唐人[たうじん]も花のうへをゆくの心をもつて六出[りくしゆつ]とよぶの意[い]によりて、雪ハ花より花おゝきといへる、尤[もつとも]佳作[かさく]に《14ウ》あらずや。其外[ほか]雪中[せつちう]に最明寺[さいめうじ]一人道行し給ふを見立[ミた]て、さながら雪の一筆烏[ひとふでがらす]といひ、からすの縁[えん]よりお羽[は]打かれしといひ、其むすび文句[もんく]にハ、叡山[えいざん]の僧正[そうじやう]の雨[あま]ごひの勅[ちよく]をかうふり給ひて詠[えい]せる、 おほけなくうき世[よ]の民[たミ]におほふかな我たつそまにすミぞめの袖、といふによりて浮世[うきよ]の民[たミ]におほふかなの句[く]をもちゆ。一句[いつく]〳〵意味[いミ]ふかく筆[ふて]さきかんばしゝ。さて道行奥[をく]にいたりてハ、宿[やど]をかりかけ給ふ時墨[すミ]のおれか木[き]のはしかとあるハ、つれ〳〵に法師[ほうし]ばかりうらやましからぬものハあらじ、人にハ木[き]の端[はし]のやうに思ハるゝと書しをかたどりたる詞、さなから最明寺殿の詞共おもハれ、又娘[むすめ]がこたへ、鼻[はな]そげでもいぐちでもの詞大[おゝき]に下[しも]へ落[おち]て見物[けんぶつ]のはづミをうけ、又其跡[あと]をおさへて、天下[てんか]をさはく御身にも此へんとうにゆきくれて、たゝずミ給ふぞしゆしやうなるとハ、又及[およ]バぬ手段[しゆだん]にあらすや。爰[こゝ]の問答[もんだう]、一人ハ天下の執権職[しつけんしよく]ひとりハ在所[ざいしよ]の若[わか]むすめ、諺[ことハざ]《15オ》にいふ下駄[げた]とやきミその相手[あいて]とち、其相応[さうおう]にせりふを付られし事自然[じぜん]とそなハる妙手[めうしゆ]なるべし。さて爰[こゝ]の娘[むすめ]が詞について思ふに、惣[そう]じて今の世[よ]下[しも]がゝりにあらざれバ下へはづまず。さりとて下[しも]がゝりを無調法[ぶてうほう]に書くづせバ、千枚[せんまい]ばりの女形[をんながた]をミるやうになり、一向[いつかう]下鄙[けび]てけうがさめる。されバこゝのむすめがせりふの跡[あと]、天下をさバく御身にもの語[こ]にあらずんハ、なか〳〵花車[きやしや]にハおさまるへからず。然[しか]る時ハおかしい事げびた詞も、跡[あと]のおぎなひやうにていやしからず。天下取[てんかとり]の御前[ごぜん]でも耳[ミヽ]にたゝぬやうにもなるものなるべし。其外評[へう]したき事山[やま]〳〵なれ共、此浄[じやう]るりにかぎるにあらねバまづハ筆をとゞめぬ。
 
 太上感応編[だじやうかんおうへん]といふ書[しよ]をミるに、趙州[てうじう]の奥[おく]に白虎山[びやくこさん]といへる深嶺[しんれい]あり。その峡[すそ]に鳳鳴観[ほうめいくハん]といふ道士[だうし]の庵[いほり]あり。ある夜[よ]雪[ゆき]いたくふりすさびて暗夜[あんや]のけしき常[つね]ならぬに、扉[とぼそ]をしきりにたゝく者[もの]《15ウ》あり。道[だう]士立出何者[なにもの]なるぞとたづぬれバ、平生[へいぜい]おとづれを通[つう]じてむつましき麓[ふもと]の農民[のうミん]胡班[こハん]といふものゝ娘[むすめ]也。此むすめよハひ二八斗りにして近所[きんじよ]に名を得[え]し美女[びぢよ]なりしか、心に願[ねか]ふ事有て此峯[ミね]の絶頂[ぜつてう]なる神の祠[ほこら]にまふで日[ひ]の内[うち]に帰[かへ]るべきを、いかゞしけんをそなハりし内[うち]雪[ゆき]にふゞかれ道[ミち]にまよひ、這[はふ]〳〵夜[よ]に入てこの観[くハん]にたどり着[つき]たる也。道士[だうし]うちへ入るゝ事をゆるさすして云[いハく]、ぜつてうより是迄さへあゆミ来[きた]られしうへ是よりふもとへハ程近し。今すこしの艱難[かんなん]をしのぎ我家[わがいへ]へかへらるべし。若[わか]き女性[によせう]を此庵[いほり]にとゞむる事かなふへからずといふ。娘聞[きい]でうらめしく、此庵[いほ]迄たどり着[つく]をちからにして来[きた]りしを何とて扉[とぼそ]をあけ給ハぬ。日比[ひごろ]親[おや]たちのよしミハ思ひ給ハずや。其うへ此山中[やまなか]に人倫[じんりん]はなれておこなひすまし給ふ身が、わかき女をとめたりとの世[よ]のそしりをはゞかり給ふハ、扨ハ塵[ちり]の世[よ]をはなれ給ふの道[だう]《16オ》心[しん]ハおハせぬかやとゝがむれバ、道士聞て、いやとよ世[よ]のそしりハしばらく置[をく]、我いま道義[だうぎ]を修[しゆ]するとハいへ共猶[なを]いまだ肉眼[にくがん]なれバ、御身が色のうるハしきを人なき庵[いほり]に引いれさし向[むか]ふて見るならバ、いかなる煩悩[ぼんのう]かおこるべき。然[しか]れバ某[それがし]がしゆぎやうを害[かい]する悪魔[あくま]外道[げだう]心魔[しんま]をふせぐためなれバ、やどりハふつ〳〵かなハずと、彼[かれ]かあハれをよそに見捨[ミすて]身[ミ]のつゝしミをなしたるとなん。是に付て思へバ最明寺[さいめうじ]どのをやどさゞりし娘が遠慮[えんりよ]もさる事なるべし。殊[こと]に最明寺どのハ道徳[だうとく]すぐれ給ふ故、世にハ老人[らうじん]のやうに思ひなせ共、三十歳[さい]にて入道[にうだう]し給ひ卅七歳にて逝去[せいきよ]し給へバ、回国[くハいこく]ハ三十一二歳[さい]の比にて男[をとこ]ざかりなる時ハ、其身ハたしかにおぼしめす共わき目にうたがふもことハり也。されバ人ごとにたしかならぬ心をたのミて我身を正[たゞ]しきものと思へど、心ほど手綱[たづな]のゆるされぬものハなし。されバ孔子[こうし]ハ心を論[ろん]じて出入[しゆつにう]時なく其向[むか]ふ《16ウ》所をしらず、あやふき物[もの]也との給ひ、別[べつ]して仏法[ぶつほう]にハ心ハ縁[えん]にひかれてハさま〴〵に変[へん]ずる事を説[とき]給ふ。しかるに仏心[ぶつしん]ハいかなる縁[えん]に出あひても其境[けう]につれて変[へん]ずる事なき故に、是を不変真如[ふへんしんによ]といふ。いまだ仏心[ぶつしん]にいたらぬ内[うち]ハ、いかに道徳[だうとく]の人たり共悪縁[あくえん]にひかれてハ悪業[あくごう]におちいる事をまぬかれず。故[かるがゆへ]に衆生[しゆじやう]の心を随縁真如[ずいえんしんによ]とハいふなり。是によつて仏説[ぶつせつ]にハ心ハ孤生[ひとりをこ]らずかなるず縁[えん]に託[よつ]て起[をこ]るといへり。此心を書写山[しよしやさん]一雨[いちう]ときこへし僧[そう]の哥[うた]に、 にほハずバそれ共しらじゆふま暮[ぐれ]心をつくる梅[むめ]の下[した]かぜ、と詠[えい]ぜり。うす暮[くれ]の比むめの樹[き]のあり共しらず心せハしく打通[とを]りしを、風[かぜ]がもてくる匂[にほひ]にさそハれ心ときめき、色よき花[はな]の咲[さき]ミだれしを打ながめてハあかぬ思ひになづミ、終[つい]に下陰[したかげ]の立さりがたきも縁[えん]にひかるゝのゆへなるべし。       
                            二之巻終《17オ》
《17ウ》

『浄瑠璃文句評注 難波土産  中ノ本』 《表紙》
浄瑠璃評注[じやうるりへうちう]巻[けんの]之三
外題[げだい]
○大内裏大友真鳥[だいだいりおほとものまとり]
 むかしの内裏[だいり]ハ今の内裏[だいり]よりハ広[ひろ]く大[おほ]きにして、南北[なんぼく]卅六丁東西[とうざい]二十丁なり。それゆへ今の朱雀[しゆしやく]が古[いにしへ]の内裏[だいり]の朱雀門[しゆしやくもん]の跡[あと]也。今の東寺[とうじ]が禁中[きんいつ]の鴻臚館[かうろくわん]なりしを後[のち]に弘法大師[こうばうだいし]へ給ハりたる也。かく広大[くわうだい]なりし故大内裏[たいだいり]といふ。真鳥[まとり]筑紫[つくし]に於[をい]て是をうつして宮殿[くうでん]を作[つく]りしと也。大友[おほとも]の真鳥[まとり]ハ、人皇[にんわう]廿六代武烈[ぶれつ]天王[てんわう]の朝[てう]に仕[つか]へし人に真鳥[まとり]宿祢[すくね]とも又ハ平群大臣[へくりのおとゞ]ともいふありて勇猛[ゆうもう]なる公家[くげ]あり。此人の曽孫[ひまご]に大友金鳥[おゝとものきんう]といふ人、勇気[ゆうき]大胆[だいたん]の武夫[ぶふ]なりし《2オ》が、後[のち]に曽祖[ひぢい]の名[な]を取て大友真鳥と名のり、筑紫[つくし]にをいて謀叛[むほん]をおこせしを、朝廷[てうてい]より宿祢金道[すくねのかねミち]に勅[ちよく]して誅罸[ちうばつ]させ給ふ。此浄るりの全体[せんたい]真鳥がむほんを金道[かねミち]が退治[たいぢ]せるを主意[しゆい]にのするゆへ大友真鳥を外題[げだい]とす。殊[こと]に大内裏[たいたいり]を立たるが大事[おゝごと]ゆへ別[べつ]して大内裏とハ題号[だいごう]せり。其実記[じつき]ハ近年[きんねん]板行[はんこう]なりし大友真鳥軍記[ぐんき]といへる軍書[ぐんしよ]にくハしく記[しる]せり。
 
○周[しう]の世[よ]に八士[はつし]あり一母四乳[いちぼしにう]の伯仲叔季[はくちうしゆくき]双[ならび]生[むま]るゝ王佐[わうさ]の才[さい]
 この事ハ論語[ろんご]に出たり。八士[はつし]とハ八人の学者[がくしや]をいふ。周[しう]の世[よ]に一母[ひとりのはゝ]双生[ふたご]を四[よ]たびに乳[うミ]て兄弟[けうだい]八人を出生[しゆつしや]せり。四乳[しにう]とハ四たびに乳[うむ]といふ事也。伯仲叔季[はくちうしゆくき]とハ唐[から]にての兄弟[けうだい]の次第[しだい]也。日本[にほん]にてもむかしハ宗領[そうれう]を太郎[たらう]とよび、次男[じなん]を次郞、三男を三郞などゝ次第[しだい]して呼[よび]しごとくに、宗領[そうれう]を伯[はく]とよび、其次[そのつき]を仲[ちう]とよび、その次[つぎ]を叔[しゆく]とよび、末子[ばつし]を季[き]とよぶ也。故[このゆへ]に太郞次郞三郞四郞といふがごとし。扨[さて]ふたごを双生[さうせい]といふハ即[すなハ]ち双生[ならびむま]るゝといふ意[こゝろ]也。王佐[わうさ]の才[さい]とハ天王[てんわう]の天下[てんか]を治[おさ]め給ふを佐[たすく]る程の才能[さいのう]といふ事也。周[しう]の世[よ]に此兄弟[けうたい]八人が士[し]となりて天下[てんか]をおさむるほどの才能[さいのう]有しと也。是迄双生[ふたご]の才能[さいのう]すぐるゝ事をいひて金道[かねミち]になぞらへたる也。金道ハもと双生[ふたご]なるゆへなり。
○人[ひと]に双生[さうせい]樹[き]に連理[れんり]康叔[かうしゆく]が二穂[にずい]の稲[いね]王濬[わうしゆん]が二《3オ》茎[けう]の瓜[ふり]
 人に双生[ふたご]ありて其才能[さいのう]すぐれたるをめでたき御代[ミよ]の吉瑞[きちずい]とするのミならず、樹[き]にハ連理[れんり]の枝[えだ]をめて度[たき]事とす。連理[れんり]とハ根[ね]が二株[ふたかぶ]にて枝[えだ]が一[ひと]つにつらなるをいふ。康叔[かうしゆく]とハ周[しう]の文王[ぶんわう]の子[こ]にして衛[えい]の国[くに]の君[きミ]也。此人が衛[えい]をおさめたる時[とき]、異畝同影[いほどうえい]とて、田地[でんぢ]のならび畝[うね]に禾[いね]のかぶハ二株[ふたかぶ]にて畝[うね]を異[へだて]ながら穂先[ほさき]が一[ひと]つになりたるを、吉瑞[きちずい]也とて天子[てんし]へ奉[たてまつ]りけれバ、朝廷[てうてい]にもいわひ給ひて嘉禾[かくわ]といふ文[ぶん]を作[つく]り給へり。王濬[わうしゆん]ハ晋[しん]の武帝[ぶてい]の時[とき]の人也。此王濬[わうしゆん]といへる人の園[その]の内[うち]に、瓜[ふり]の茎[くき]二本[ふたもと]が一つになりてその末[すへ]に瓜[ふり]か一つなりたるを、是も吉瑞[きちずい]として天子[てんし]へ献[けん]じて祝[いハ]へり。是ミな人の双生[ふたご]のごとく天下[てんか]の吉瑞[きちずい]とする事也。されバ金道の双生[ふたこ]にて有しもめてたき御代[ミよ]のためしとなり。《3ウ》
○ミな皆是代〃[よゝ]の吉瑞[きちずい]のためしを爰[こゝ]に日[ひ]の本[もと]や文武天王[もんむてんわう]の皇居[くハうきよ]ある藤原[ふぢハら]の宮所[ミやどころ]
 吉瑞[きちずい]とハめで度瑞相[ずいさう]也。上[かミ]にいふ所の吉瑞[きちずい]とものたとへをこの国[くに]へひくといひかけて、たとへを爰[こゝ]に日[ひ]の本[もと]やといふ。金道の時ハ文武天皇[もんむてんわう]の御宇[ぎよう]也。此時ならの京ゆへ藤原の宮所[ミやどころ]といふ。宮所とハ天子[てんし]の御所[ごしよ]といふ事也。是も古[いにしへ]ハ下[した]〴〵の屋敷[やしき]をも宮[ミや]といひしを、秦[しん]の始皇[しくハう]の時より始[はじめ]て天子[てんし]の御殿[ごてん]にかぎりて宮所[ミやどころ]といふなり。
○壌[はらげ]り
 土地[とち]がよく腴[こへ]て膏[あぶら]のある如くに潤[につとり]として柔[やハら]なるをはらゝぐといふ。是ハ書経[しよけう]の禹貢[うこう]の《4オ》篇[へん]にミへたり。
○今上[きんじやう]
 何[いつ]の代[よ]にてもその時の帝[ミかど]を今上皇帝[きんじやうくハうてい]といふ也。
○聖徳[せいとく]ふかく
 聖[せい]とハ徳[とく]の至極[しごく]にいたりたるをいふ。
○神代[かミよ]の古風[こふう]
 天神[てんじん]七代[だい]、地神[ぢじん]五代[だい]を神代[かミよ]といふ。此時ハ上代[じやうたい]ゆへ上下[じやうげ]共に人の心すなほにして質朴[しつバく]なる風[ふう]なりしを古風といふ。
○四十[よそ]二世[ふたつぎ]
 文武天皇[もんむてんわう]ハ人皇[にんわう]四十二代[だい]なり。
○律令[りつれう]をはじめ給へバ
 律令[りつれう]とハ朝廷[てうてい]の法度[ほうど]おきてなり。
○礼楽[れいがく]たゞしく
 天子[てんし]の天下[てんか]をおさめ給ふ根本[こんぼん]が礼楽[れいがく]なり。礼[れい]ハ貴賎[きせん]上下の等[しな]をわかちて、其[その]身[ミ]の節[ほど]につけて衣服[いふく]道具[だうぐ]等[とう]も次第[しだい]あり。朝廷[てうてい]のつきあひにも貴人[きにん]をうや《4ウ》まふ等[とう]也。楽[がく]は聖[せい]人の道徳[だうとく]をうたひて楽[がく]に合[あは]せ舞[まふ]也。是も礼がたゞしけれバ貴賎[きせん]上下のあらそひなく、上下が和[くわ]して楽[がく]を用[もちゆ]る故、礼[れい]と楽[がく]との二つが世[よ]を治[おさ]むる本[もと]となる也。
○主水司[もんどづかさ]の貢[ミつき]の冰[おほり]ひむろのもたひ
 禁中[きんちう]にて水[ミづ]を支配[しはい]する役所[やくしよ]を主水司[もんどつかさ]といふ。六月朔日に主水司より旧冬[きうとう]の氷[こほり]を奉る。是を氷[ひ]のためしといふ。四海[しかい]ゆたかなれバ其氷[こほり]とけずしておほく有といへり。是ハ山里[やまさと]に氷室[ひむろ]とて冬[ふゆ]のこほりをたバひ置[をき]室[むろ]をこしらへ、六月朔日に其里人[さとびと]が主水司の取次[とりつき]にて天子[てんし]へ奉る也。毎年[まいねん]きハまりて春日野[かすがの]のさと人が献[けん]ずるが佳例[かれい]なり。貢[ミつぎ]とハ下[した]〴〵より君[きミ]へたてまつるをいふ。かすが野[の]とハ今[いま]の奈良[なら]なり。《5オ》
○深山幽谷[しんざんゆうこく]
 おくふかき山[やま]を深山[しんざん]といふ。哥[うた]にハ深山[ミやま]とよむ也。おくふかき谷[たに]を幽谷[ゆうこく]といふ也。
○陽気[やうき]おそく発[はつ]するゆへ
 草木[さうもく]ミな陽気[やうき]にて発生[はつせい]する也。春[はる]ハ陽気[やうき]が発[はつ]する故梅[むめ]さくらに花[はな]さくが常[つね]なれ共、深山幽谷[しんざんゆうこく]ハ寒気[かんき]つよきゆへおそく発[はつ]するなり。
○鳩[はと]ハ三枝[さんし]の礼[れい]ある鳥[とり]
 鴟夷全書[ちいぜんしよに]云[いハく]、烏有反哺之孝[からすにはんぽのかうあり]、鳩有三枝之礼[はとにさんしのれいあり]云々[うん〳〵]。烏[からす]ハ巣[す]だちして後[のち]おや鳥[とり]へ哺[ほ]をふくめ返[かへ]すもの也。是すごもる内[うち]におや鳥に哺[ほ]をふくめられし恩[をん]をおくるの心[こゝろ]也。鳩[はと]ハ木[き]の枝[えだ]にとまる時おや鳥[とり]よりハ三枝[ミえだ]づゝ下[しも]にとまるもの也。これ親[おや]をうやまふの礼[れい]ある心也。されバ詩経[しけう]にも《5ウ》諸侯[しよこう]の夫人[ふじん]を鳩[はと]の性[せい]の専一[せんいつ]なるにたとへてほめたる事あり。
○鷹[たか]ハ鷙鳥[してう]
 惣[そう]じて鷹[たか]・はやぶさ・鵰[くまたか]などの諸鳥[しよてう]を鷙[うつ]鳥[とり]をすべて鷙鳥[してう]といふ。同じ鳥類[てうるい]の命[いのち]をうちとるゆへ悪鳥[あしきとり]とする也。
○仲春[ちうしゆん]の月[つき]鷹[たか]化[くわ]して鳩[はと]となる事礼記[らいき]にハ見[ミ]へたれ共
 礼記[らいき]に月令篇[げつれいのへん]とて十二ケ月[つき]の月[つき]〳〵の気候[きこう]をしるして其時をしり天下[てんか]へ令[げぢ]し給ふ事をしるしたり。その中にこの語[ご]出[いで]たり。
○天地[てんち]の変怪[へんくわい]
 天下[てんか]に悪事[あくじ]おこらんとてハさま〴〵にあやしき事あるを変怪[へんくわい]といふなり。
○百官百司[ひやくくハんひやくし]
 禁中[きんちう]の百[もろ〳〵]の官人[くハんにん]百[もろ〳〵]《6オ》の司[つかさ]なり。司[つかさ]とハ一役[いちやく]をつかさどる役人[やくにん]なり。
○躑躅[てきちよく]と
 けだものゝ両足[りやうそく]を折[をり]ておどる体[てい]を躑躅[てきちよく]といふ。されバつゝじの花[はな]を躑躅花[てきちよくくわ]といふも、此花[はな]のつぼミ羊[ひつじ]の乳[ちゝ]によく似[に]たるゆへ子羊[こひつじ]が是を見[ミ]て母[はゝ]の乳[ちゝ]ぞとおもひて、躑躅[てきちよく]と足[あし]を折[をり]ておどる故也とぞ。
○小牡鹿[さほしか]
 ちいさき牡鹿[おしか]をいふ。
○秦[しん]の趙高[てうかう]
 秦[しん]の始皇[しくハう]天下[てんか]を取てのち諸国[しよこく]をめぐりて途中[とちう]にて崩[ほう]ず。李斯[りし]といふ者[もの]と趙高[てうかう]といふものと両人[りやうにん]共に佞人[ねいじん]にて、始皇[しくハう]の太子[たいし]扶蘇[ふそ]といふ人の正[たゞ]しき人がらなるを忌[いミ]恐[をそ]れ、此人を嗣[あとつぎ]にせずその弟[おとゝ]の胡亥[こがい]といふ人の愚[をろか]なるをかれらか便[たより]として、始皇[しくハう]の遺言[ゆいごん]也と偽[いつハ]りて扶蘇[ふそ]を自害[じがい]させ胡亥[こがい]を位[くらゐ]につけたり。右[ミぎ]の《6ウ》趙高[てうかう]ハもと宦官[くわん〴〵]とて女中につかハれ奧方[おくがた]へ徘徊[はいくわい]し始皇[しくハう]の気[き]に入て御前[ごぜん]近[ちか]く立身[りつしん]せし者[もの]なるが、此たび我[わが]はからひにて胡亥[こがい]を位[くらゐ]に立たるにほこり、朝廷[てうてい]の臣[しん]もしおのれを恐[をそれ]ざる者ハたちまち罪[つミ]に落[をと]しけるが、猶[なを]もおのれが権威[けんい]を試[こゝろミ]んとて、ある時鹿[しか]を奉りて馬[むま]也といひけれバ、胡亥[こがい]あやしミて群臣[ぐんしん]に問[とふ]にミな趙高[てうかう]が権威[けんい]におそれていかにも馬也とこたへし也。是より人をうつけにしてハ馬鹿[ばか]なりといふ詞[ことバ]はじまれり。
○前表[ぜんへう]
 先[さき]だつてあらハるゝをいふなり。
○九州[きうしう]の探題[たんたい]
 探題[たんだい]とハもと大内[おゝうち]にて政[まつりごと]をしらべ給ふ役[やく]にあたるをいふ。但[たゞ]し題[たい]を探[さくり]といふ事にて事[こと]をぎんミしてしらぶる意也。諸国[しよこく]にて一方[いつほう]の《7オ》惣領[そうれう]となるをむかしハ探題[たんだい]といへり。真鳥ハ九州[きうしう]の籏[はた]がしら故かくいへり。されバ今の俗[ぞく]に物[もの]をぎんミする事をたんだへるといふも此こゝろなるべし。
○霊仏霊社[れいぶつれいしや]
 霊[れい]ハあらたなる事をいふ。
○両部[りやうぶ]の社[やしろ]
 神道[しんたう]に唯一[ゆいち]と両部[りやうぶ]との二つあり。伊勢[いせ]加茂[かも]などのごとき仏[ほとけ]をいむハ神道[しんたう]一[ひと]すじに立るゆへ唯一神道[ゆいちしんたう]といふ。両部[りやうぶ]といふハ神道[しんたう]に仏法[ぶつほう]をまじへ、神[かミ]の本地[ほんぢ]ハ仏[ほとけ]にして神[かミ]ハ仏の垂跡[すいしやく]也と立る故神仏[かミほとけ]を合[あハ]せて両部[りやうぶ]といふなり。
○武士[ものゝふ]
 武士[ぶし]をものゝふといふハ日本のむかし物部氏[ものゝべうじ]の人、朝廷[てうてい]にてはじめて武官[ぶくハん]をつかさどりたるゆへ後[のち]の世[よ]迄も物部[ものゝふ]とよぶなり。《7ウ》
○兵部省[へうぶせう]
 省[せう]ハ禁中[きんちう]の役所[やくしよ]なり。禁中にハ八省[はつせう]とて八所[やところ]ある。その中[なか]に軍兵[ぐんへう]をつかさどる役所[やくしよ]を兵部省[へうふせう]といふなり。
○つの髪[かミ]
 わらべのひたひの両旁[りやうほう]に髪[かミ]をつかねて結[ゆふ]たるハ、角[つの]ごとくにミゆるゆへ唐[から]にてハ童のまへがミを丱角[くハんかく]共又総角[そうかく]共いふ。和訓[わぐん]にて角[つの]がミ共あげまき共いふ也。ミな前髪[まへがミ]の事なり。
○不肖[ふせう]
 我身を卑下[ひげ]する詞也。もとハ肖[に]ざる事にて賢人[かしこきひと]にハ肖[に]ざるとの意[こゝろ]なり。
○とび梅[むめ]の筑紫[つくし]
 菅丞相[かんしやう〴〵]つくしへ流[なが]され給ひ、都[ミやこ]の梅[むめ]をしたひ、こちふかバ匂[にほ]ひをこせよ梅[むめ]の花[はな]あるじなしとて春[はる]なわすれそ、と詠[えい]じ給へバ、都[ミやこ]にのこし置[をか]れし梅た《8オ》ちまちつくしへとびさりしとの故事[こじ]をふまへていへり。尤[もつとも]作者[さくしや]の頓作[とんさく]なり。
○堂上[たうしやう]堂下[たうか]
 公家衆[くげしゆ]を堂上方[たうしやうがた]といふ。いづれも官位[くハんい]を経[へ]て御殿[ごてん]の堂上[たうしやう]へあがり給ふ家[いへ]なる故也。公家[くげ]にあらざる官人[くハんにん]を堂下[たうか]とも地下人[ぢげにん]共いふ。堂上[たうしやう]へあがる事を得[え]す、階下[かいか]に伺候[しこう]するゆへなり。
○軍神[いくさがミ]の血祭[ちまつり]
 軍[いくさ]に出[いづ]る時に軍陣[ぐんぢん]をまもる神[かミ]を祭[まつ]るにハ、けだものゝ生血[なまぢ]をそゝぎ其肉[にく]をそなへるを血[ち]まつりといふ。唐[から]よりして其ためしある事也。
○馬鹿[ばか]
 上[かミ]に出たる故事[こじ]をふまへて馬鹿[ばか]もなしと書たる作者のはたらき也。
○王化[わうくわ]
 天子[てんし]の教化[けうくわ]といふ事なり。化[くわ]ハおしへなり。《8ウ》
○ふりわけ髪[がミ]
 いとけなき時のまへがミを中より二つにわけたるをいふ。哥[うた]に、くらべこしふりわけがミも肩[かた]すきぬきミならずしてたれかあぐべき。
○三種[さんじゆ]の神器[じんぎ]
 天子[てんし]の御位[ミくらゐ]をゆづり給ふに、此三つの御宝[ミたから]をゆづらせ給ひて御しるしとし給ふ。神璽[しんし]・宝剣[ほうけん]・内侍所[ないしどころ]なり。この三つ代〃[よゝ]の天子[てんし]御[ミ]くらゐをまもらせ給ふ御[ミ]たから也。
○瀟湘[せう〳〵]の夜[よる]の雨[あめ]
 からの八景[はつけい]のひとつ也。うたひの文句[もんく]を直[すぐ]に引[ひき]もちひたり。
○手向山[たむけやま]
 たむけハ近江[あふミ]の名所[めいしよ]なり。菅家[かんけ]の御哥[うた]に、 此たひハぬさも取あへす手向山[たむけやま]もミぢのにしき神[かミ]のまに〳〵。
○かたそぎや
 やしろの棟[むね]のかつほ木[ぎ]也。上代[じやうだい]ハ質朴[しつぼく]にして神[かミ]の御殿[ごてん]も茅[かや]ぶきゆへ、風[かぜ]をおさへるためにかつほ木を《9オ》もちゆ。かつほ木ハ風[かぜ]おさへ木といふ事也。その端[はし]をそぐゆへかたそぎといふ。是も神代[かミよ]の神ハ内[うち]へそぎ、人王[にんわう]以後[いご]のかミは外[そと]へそぐ也。口伝[くでん]也。
○額[ぬか]づきて
 ぬかハひたひ也。ひたひを地[ち]につくるをかくいへり。
○柏手[かしハで]
 神道[しんたう]にかしハでのはらひとて、神[かミ]をおがむに手[て]を拍[うち]てはらひする事あり。これにいろ〳〵の口決[くけつ]ありて神道[しんたう]に伝授[でんじゆ]とする事也
○かへりもふし
 賽[かへりもうし]と書[かく]なり。神[かミ]を拝[はい]して祈念[きねん]する事なり。
○瓢簞酒[へうたんざけ]
 うちミの薬[くすり]なる故なり。
○瑞籬[ミづがき]
 神前[しんぜん]の垣[かき]をいふ。たまがきといふに同[おな]じ。瑞[ミづ]ハあらたなる意[こゝろ]なり。
○庶流[そりう]
 宗領[そうれう]のすじを嫡流[ちやくりう]といひ次男[じなん]すじを庶流[そりう]といふ也。
○孹子[げつし]
 妾[てかけ]バらなとの末[すへ]の子[こ]《9ウ》といふ事なり。
○傅[かしづき]
 いとけなき時より其人の傅[もり]につきて諸事[しよし]をおしゆる役[やく]なり。
○国[くに]に杖[つえ]つく
 つえハ老[おい]て歩行[あゆミ]をたすくる也。礼記[らいき]の王制[わうせい]に、五十にして家[いへ]に杖[つへ]つき六十にして国[くに]に杖[つへつく]と云[いへ]り。
○金巾子[きんこじ]の冠[かんふり]袞龍[こんりやう]の御衣[きよい]
 巾子[こじ]は冠[かふり]の髪[かミ]をおほふ所をいふ。其うしろに立るものを羅[ら]といひ其うしろにたるゝものを纓[ゑい]といふ。巾子[こじ]を金[きん]にてしたるを金こじといふ。袞龍[こんりやう]ハのぼり龍くだり龍を袍[ほう]にゑがく装束[しやうそく]をいふ。金こじのかんふりにこんりやうのきよいハ天子のよそほひなり。
○こうがしやり
 甲[かう]が舎利[しやり]也。甲[かう]ハよろひと訓じて、甲虫[かうちう]といふハ亀や螺[にし]・蛤[はまくり]などのかたくよろひたる惣《10オ》名[めう]也。舎利[しやり]ハもと梵語[ぼんご]なり。翻訳名義集[ほんやくめうきしう]に舎利こゝにハ骨といふとあり。かの甲虫[かうちう]のごときかたき物が骨となる共といふ心也。
○補佐[ほさ]の臣[しん]
 補佐[ほさ]ハたすくるとよミて君[きミ]のたすけとなる臣をいふ。
○九州[きうしう]二島[にとう]
 九州に壹岐[いき]・対馬[つしま]をこめていふなり。
○掖門[えきもん]の扉[とびら]
 正面[しやうめん]の門の両旁[りやうほう]に小門あるを掖門[えきもん]といふ。人の脇[わき]の下[した]のごとくなる故也。掖[えき]ハ腋[わき]と同じ。
○大紋[たいもん]
 布[ぬの]びたゝれの事なり。
○なまめく
 媚[び]の字也。うつくしく艶[やさ]しきなりふり也。
○伽[とき]やらふ
 今ハ旅人[りよじん]のつれ〴〵をなぐさめの伽[とぎ]をやらふといふ事に成たれ共、もとハ下[しも]ざま惣嫁[そうか]やうのたぐひハ土の上・野中などの契[ちき]りなれバ唐土[もろこし]の書[ふミ]にも是を《10ウ》土妓[とぎ]野合[やがふ]といふ。すべて世俗[ぞく]の僻言[かたこと]そのいハれある事おほし。但したひ人なぐさめの伽[とぎ]にやらふと転したるも又一興也。
○おもゝち
 面[かほ]もちといふ事也。源氏[けんし]に見へたり。
○舟玉[ふなだま]
 ふねをまもる神なり。
○九百九十九の鼻[はな]かけ猿[さる]
 此こゝろハきこへたるとをり也。但し文選[もんせん]六臣注[りくしんちう]李善[りせん]が注[ちう]にミへたり。
○景行天皇[けいかうてんわう]
 人皇[にんわう]十二代[たい]の天子なり。鹿島[かしま]もふでの事ハ本朝通記[てうつうき]にミへたり。貝[かい]あハせの始り此浄るりの本文のごとし。
○両夫[りやうふ]にまミへぬ教訓[けうくん]
 通鑑[つかん]に出たる斉[せい]の王蠋[わうしよく]が詞也。燕[えん]の国[くに]の大将[たいしやう]楽毅[き]といふ者斉[せい]の軍[いくさ]をやふりたる時、王蠋か賢者[けんしや]なるをしり燕[えん]につか《11オ》えん事をすゝめける時、王蠋がいハく、忠臣ハ二君[じくん]につかへず烈女[れつぢよ]ハ二夫[じふ]にふれずといひてうけがハさりしと也。是より貞女[ていぢよ]ハ両夫[りやうぶ]にまミへずといふ詞あり。
○尾[お]に泥[どろ]をひく亀[かめ]山
 荘子[さうじ]に諸侯[しよこう]より荘子をまねきし時うけかハすして云けるハ、ト[うらかた]のためにもちひらるゝ亀ハ人が尊敬[そんけう]をなせ共かへつて其身を殺[ころ]さる。泥中[でいちう]のかめハ尾にどろを引て見くるしけれ共無事也と云り。是を取て亀山に恥[はぢ]をあたふる詞にいゝかけたり。
○逆鱗[げきりん]
 龍の頤[をとがい]にさかさまに生[はへ]たる鱗[うろこ]あり。此うろこにふれたる者ハかならず死[し]するゆへ、天子[てんし]のいかりにふれたるものハかならすいのちをとらるゝにたとへて天子のいかり給ふをいふ。
○綸言[りんけん]ふたゝひ帰[かへ]らぬ《11ウ》と汗[あせ]をぬくふて立帰[たちかへ]る
 古語[こご]に綸言[りんけん]如[ことく]汗とあり。天子の詞を綸言[りんげん]といふ。天子の詞一たび出てハ跡へかへらぬ事身の汗のふたゝひ帰らぬかことしと也。此本文にハりんげんよりあせをぬくふにいひかけたり。是作意なり。
○てんば
 顚婆[てんハ]と書也。顚[ものくるハし]き婆[かゝ]といふ事なり
○いぶせき
 詩にハ無聊[ふれう]といふ。源氏[けんし]岷江入楚[ミんかうんにつそ]に不審[いふせし]と書り。
○すゞめかまたか
 これハ駕[かこ]かきの山椒[かくしことハ]也。すゞめハ百に成てもおどりわすれぬといふ諺[せわ]より取て百をすゞめといふ。股[また]とハ二本との義にて二百をいふ。
○骨肉同胞[こつにくどうぼう]
 兄弟ハ同じ骨肉[こつにく]をうけたる故にこつにくといひ、同じ胞[ハら]にむまれしゆへ同胞[とうほう]といふ。《12オ》
○ミさほ
 操[そう]とも介とも書て共にミさほと訓[くん]じて人のまもりめのかたきをいふ。
○既[すて]に孔子[こうし]も季孫[きそん]のうれひ蕭墻[せう〳〵]のもとにあらんとの給へり
 此事論語[ろんこ]に出たり。魯[ろ]の国の季孫氏[きそんし]といふもの君をないがしろにして政道を我まゝにさハきしが、魯国の傍[そは]なる顓臾[せんゆ]といふ国をうたんとする事を孔子聞給ひて、季氏かごとく我まゝにてハ臣下[しんか]の内より乱[らん]かおこるべしといふ事を、季孫のうれひハ顓臾[せんゆ]にハあらすして蕭墻[せう〳〵]のもとよりおこらんとの給へり。蕭墻とハ外門[そともん]と内門[ないもん]との間にある墻[かき]也。畢竟[ひつけう]ハ季孫か家内より乱かおこるべしと也。俗[ぞく]にいふ足もとからおこるの意也。《12ウ》
○聡明睿智[そうめいえいち]
 耳に善悪をきゝたかへぬを聡[そう]といひ、目によしあしをあきらかに見るを明といふ。睿[えい]ハふかき心にて智[ち]の千万人にすくれたるをそうめいゑいちといふなり。
○つたへきく燕丹王[えんたんわう]
 この事史記[しき]に出たり。秦[しん]の始皇[しくハう]ハ燕丹[えんたん]の敵[かたき]ゆへ人をたのミてころす事をもとめ、田光[てんくハう]先生[せんせい]といふ勇者[ゆしや]にたのまれしに、田光[くハう]がいハく、某[それがし]ハ年老[をひ]たれバうつ事かなハずといへ共、我友に荊軻[けいか]といふ者あり。是をたのミて本望をとけ参らせんとてけいかゞもとへゆく時、燕丹王[えんたんわう]田光を門外[もんくハい]迄おくり出、この大事かならず人にもらし給ふなと申されしかハ、心得たりとてやかて荊軻[けいか]か方へゆき此事をよく〳〵たのミて、田光ハけいかゞ門前の李[すもゝ]の樹[き]にかしらを打わり死したり。是ひとへに燕王丹かうた《13オ》かひをはらさんかため也。今かすへの身のうへに尤よく相応[さうおう]したる故事[こし]にて尤おもしろし。
○此やい鎌[がま]のとかま
 中臣[なかとミ]秡[はらい]にやいかまのとかまをもつて切はらひ給へハといふ語あるをすぐにもちひたり。かねミちか鎌[かま]を持[もつ]ての所作[しよさ]なれハ尤とりあひよき作意也。
○邯鄣鏌耶[かんしやうばうや]
 晋[しん]の雷煥[らいくハん]といふ者、天にむらさきの雲気[うんき]たなびきしを見て其下をほりたれバ、つるきの鏷[したぢ]となるべき鉄丸[てつぐハん]二つを得てすなハちこれを地[ち]がねとし、干将[かんしやう]ばくやといへる夫婦[ふうふ]のものに剣をうたせて名剣となる。是より名剣[めいけん]をいふにハかならずかんしやうはくやと称[せう]するなり。
○孝弟忠信[かうていちうしん]
 孝[かう]ハよく親[おや]につかふるをいひ、弟[てい]ハよく兄につかふるをいひ、忠ハ君に《13ウ》よくつかへ、信ハ人にまことを立るをいふ。此四つのものハ人道のおもんずる所なり。
 三段目
○猩〃[せう〴〵]よく言[ものい]へども獣[けもの]をはなれず
 礼記[らいき]曲礼篇[きよくれいのへん]に鸚鵡[あふむ]よくものいへとも飛鳥[ひてう]をはなれす、猩〃[せう〳〵]よくものいへ共禽獣[きんしう]をはなれずといふに本つきたり。人として礼義[れいき]をしらさるハきんじう同然[とうせん]なりとの意なり。猩〃[せう〳〵]ハ面[かほ]ハ人のごとく身[ミ]ハ猿[さる]のごとしとあれバ、此語[ご]に引つゞきて獼猴[やまさる]をいへるも取合[とりあひ]よろしき引ことなるべし。
○獼猴[やまさる]の冠[かんふり]
 是ハ楚[そ]の項羽[かうう]、ミづから覇王[はわう]と称[せう]して我[わか]まま無礼[ぶれい]をおこなひしを、蒯徹[くハいてつ]といへるもの《14オ》是をそしりていへる詞也。今の真鳥が無礼[ふれい]我[わか]まゝに引あてたり。
○麒麟大王[きりんだいわう]
 きりんハ四霊[しれい]の一つにて毛虫[もうちう]三百六十の長[かしら]なり。身ハくじかのごとく、尾[お]ハ牛[うし]のごとく、ひつめハ馬のごとく、額[ひたい]に一つの角[つの]あれ共つのゝ端[はし]を肉[にく]がおほひて物にふれず。されバ生[いき]たるものをくらハず生草[いきくさ]をふます。至[いたつ]て仁[しん]あるけだもの故その徳[とく]を聖人[せいじん]になそらふ。真鳥[まとり]ミつからほこりてかゝる徳[とく]ある号[こう]を称[せう]ぜしと也。
○卿相雲客[けいしやううんかく]
 卿[けい]ハ天子[てんし]の朝廷[てうてい]にてまつりごとを相[たすく]る官[くハん]ゆへ卿相[けいしやう]といふ。天子の殿上[てんしやう]を雲[くも]のうへになそらへて殿上人[てんじやうひと]を雲客[うんかく]といへり。
○浮[うか]へる雲[くも]のうへ人
 論語[ろんこ]に、不義[き]にして富貴[ふうき]なるハうかへるくものごとしといふ孔子[こうし]の語[こ]あり。此語[ご]《14ウ》のこゝろハ有もなきかことくなるをうかへる雲[くも]といふ。又あぶなき事を浮雲[ふうん]共いふ。こゝの文句右[ミき]の両意[りやうい]をかねてしかも雲[くも]のうへ人といひかけたり。
○しらぬひの筑紫[つくし]
 むかし景行[けいかう]天王海上[しやう]より火のミゆるを見給ひて御舟[ミふね]を其火のある所へ着[つけ]しめ給ふ。すなハち今のつくし也。是よりしてつくしといハん枕詞[まくらことば]にしらぬひといふなり。古哥[こか]におほくよめり。
○色[いろ]やむかしの色[いろ]ならぬ
 春[はる]やむかしの春[はる]ならぬと詠[えい]したる古哥[こか]のもじりなり。
○麻[あさ]につるゝ蓬[よもき]
 此語[こ]の出所つまひらかならす。童子教[とうしけう]にもこの語あり。意ハあさの中に生たるよもきハあさにつれてなをく立のひるとなり。《15オ》
○子[こ]を妊[はらん]でハ寐[いぬ]るに側[そバたゝ]ず座[ざ]するに辺[かたよら]ず立[たつ]に蹕[かたしたちせ]ず
 是ハ漢[かん]の劉向[りうしやう]といふ人の作[つく]りたる列女伝[れつによてん]といふ書[しよ]の語[こ]をすぐに引たる也。是ハ胎教[たいけう]とて懐胎[くハいたい]の内のおしへ也。
○姫[ひめ]ごぜハ三界[さんかい]に家[いへ]なし
 三界[さんかい]の事ハこゝに出あふ事にあらね共、俗[そく]ハ世界[せかい]の事をさんかいといふ故俗説[そくせつ]にしたがひていひたる也。たとへハ子ハさんがいのくびかせなんといふも皆[ミな]せかいといふ心にもちゆ。女に家なしの事ハ女ハ夫[おつと]をもつていへとすと礼記[らいき]にもミへたり。又ハ孔子[こうし]の語[こ]に婦人[ふじん]ハ三従[さんせう]の道あり。家にありてハ父[ちゝ]に従[したが]ひ、人にゆきてハ夫[おつと]にしたがひ、おつと死[し]してハ子にしたがふ、あへてミづから遂[とぐ]る事なしとあり。ミな家[いへ]なしの義なり。《15ウ》
○よめいりを帰[かへ]るといふ
 詩経[しけう]の注[ちう]に朱子[しゆし]のいハく婦人謂嫁ヲ為帰[ふしんかヲいゝてきとす]といへり。是も女ハ夫[おつと]をもつて後ハおつとの家[いへ]をわが家とするゆへ嫁[よめり]ハ我家へ帰るの意[こゝろ]也となり。
○猶予[ゆうよ]せしに
 事を決[けつ]せすしてためらふをゆうよといふ。猶[ゆう]ハけだものゝ名[な]也。此けだものうたがひ多[お ]くして、人が来[きた]らんかとおそれ樹[き]の枝[えだ]へかけのほれ共、樹[き]のえだハ安[やす]からぬ故たちまち地[ち]へおるれ共、又人をおそれてのぼり又くだりてふたん居[い]どころを决[けつ]せず。予[よ]ハ犬[いぬ]の事也。いぬハ主人[しゆじん]に付したがひて主人[しゆじん]の行さきに待[まち]ゐるもの也。若[もし]かへり来[く]る事おそき時ハいかゞとうたがひて往[いき]つもどりつするなり。しかれバ猶[ゆう]も予[よ]もうたかひてさだまらぬこゝろをいへり。《16オ》
○形容枯槁[けいようこかう]
 形容[なりふり]のやせかれておとろへたるをいふ。屈原[くつけん]が漁父[きよほ]の辞[ことハ]に出たる語[こ]なり。
○つくも髪[がミ]
 藻[も]をミるごとくばら〳〵として見苦[くる]しき髪[かミ]なり、江沢藻[つくもかミ]と書[かく]なり。
○夫婦[ふうふ]ハ義合[きかふ]
 五倫[こりん]の内に天合[てんかふ]義合[きかふ]の別[へつ]あり。父子[ふし]・兄弟[けうたい]ハ天然[てんねん]と生[むま]れ合[あひ]たるもの故天合[てんかふ]といふ。君臣[くんしん]や夫婦[ふうふ]や朋友[ほうゆう]ハ今日[こんにち]のうへにて人と人とのやくそくづくにて義理[きり]をもつてまじハりをなす故義合[きがふ]といふ也。
○はらから
 兄弟[けうだい]をはらからといふ。伊勢[いせ]ものがたり初段[しよだん]にいとなまめいたるおんなはらからすミけりとあり。
○恙[つゝが]なけれバ
 いにしへ恙[つゝか]といふ虫[むし]ありて人を害[かい]せしゆへ人の無事[ふし]なるをつゝがなしといふ。《16ウ》
○いふに岩手[いハて]の神[かミ]ならで通[つう]ぜん事もあら気[ぎ]の雅道[まさミち]
 役[えん]の行者[げうじや]大[おゝ]ミね山上[さんじやう]をひらき給ふ時、神をつかひて道を作[つく]らしめ給ふに、日をへて成就[じやうじゆ]せさりし程に行者これをいかり給へバ、一言主[ひとことぬし]といへる神そのかたちの甚[はなハ]だ醜[ミにくき]を恥[はち]て夜[よる]ならではたらき給ハぬ故かく延引[えんいん]するよし、岩手[いハて]の神かうつたへられしかハ行者やかて一言[ひとこと]ぬしの神をしハり給ふ事元亨釈書[けんかうしやくしよ]にミたり。其故事をふまへて書たる文段[もんだん]にて尤[もつとも]よくかなひたり。
○琉黄[いわう]が島[しま]
 薩摩[さつま]にある島[しま]也。軽大臣[かるたいじん]燈台鬼[とうたいき]となりて此島にて死[し]せられしより鬼界[きかい]が島共いふよし。くしハしくハ真鳥実記[まとりじつき]といへる軍書[ぐんしよ]に出たり。昔[むかし]より科人[とかにん]をながすところ也。
○地獄[ぢこく]へミちびく五逆[こきやく]《17オ》罪[ざい]
 往生要集[わうじやうようしう]に一百卅六地獄[ぢこく]を出せり。八大ぢごくにおの〳〵十六づゝの小ちこくありて、八大ちこくを合せて百卅六となる也。五逆罪[ごきやくさい]ハ父母を殺[ころ]し仏身[ほとけのミ]より血を出し和合僧[そう]をやふる等[たう]の五つ也。
○丸[まろ]がはからひ
 此注[ちう]ハあしや道満[たうまん]の初段[しよだん]にくハしくしるす。
○順逆[じゆんぎやく]の二門[にもん]忘縁[ぼうえん]にあらざらんや
 仏語[ご]也。人の生死[しやうし]老[おひ]たるか先へ死しわかきがおくるゝハ順也。わかきかさきだち老たるがおくるゝハ逆[ぎやく]なり。この順逆の二門ありといへども、ともにりんゑのきづなをきりて縁[えん]をわするゝの端[はし]にあらずといふ事なしと也。
○傍若無人[ぼうじやくぶじん]
 晋[しん]の桓温[くハんをん]といふ人、王猛[わうもう]といへる高官[かうくハん]の人の前にて道[ミち]をかたるに、虱[しらミ]をひねりながら物がたりせられし程に、其さま傍[かたハら]に人なきがごとく見へたるゆへ、是よりして《17ウ》法外[ほうぐハい]なるはたらきを傍若無人[ぼうじやくぶじん]といふ也。
○さすらへ
 左遷[さすらへ]と書[かく]。もとハ官職[くハんしよく]を貶[ひきさげ]らるゝ事なれ共今[いま]でハ流罪[るざい]の事にももちゆるなり。
○欣然[きんぜん]と席[せき]をあらため
 きんぜんハよろこバしき体[てい]也。席[せき]ハ座[ざ]なり。
○双六[すごろく]かてうばミか
 てうばミといふ事源氏にミへたり。今いふおりはの事也。おりはといふもの塞[さい]の目[め]の偶[てう]にてとる故にいふ。偶食[てうバミ]と書[かく]なり。食[はむ]とハ石[いし]を取[とる]事也。十六むさしに食[くふ]といへるも是より出たり。
○皇后[くハうごう]も御懐胎[ごくハいたい]
 人皇十五代神功皇后[じんぐくハう〴〵]なり。御くわいたいにて出陳[ぢん]し給ひ新羅[しんら]・高麗[らい]・百済[はくさい]をうち、御凱陣[かいちん]のミぎり筑紫[つくし]にて誉田[ほんだ]の天皇[てんわう]を産[うミ]給ふとなり。
○子[こ]をもち月[づき]のいわた帯[おび]《18オ》
 ミちのくのならハしにて、我恋[わがこひ]にして妻[め]とらんとおもふ女の門[かど]ぐちに手拭[てぬぐひ]ふくさやうの物を竹[たけ]につけて立をく。是を縁[えん]むすびのしるしとするなり。これをいわたおびと名[な]づくとなり。
○口[くち]さへいまだ乳[ちゝ]くさき大将軍[たいしやうぐん]
 史記[しき]・漢書[かんしよ]等[とう]に、大[たい]将のわかきをあなどりていふ詞に口尚乳臭[くちなをちゝくさし]といふ語[ご]あり。それを取て国石[くにいし]が至[いたり]て幼稚[やうち]にして大将[たいしやう]となるをいふ。
 
 勢[せい]そろへの段
○五大力[ごだいりき]
 五大力ぼさつとて夫婦[ふうふ]の縁守[えんまも]りの本尊[ほんぞん]也。津の国にも住吉[すミよし]の神宮寺[じんぐうじ]ニ有。
○じびにいふてぞ通[とを]りける
 じびハ自鬢[じびん]也。自身[じしん]に髪[かミ]をいふ事なり。こゝハ自身[しん]にほめる事に取なしてそれより自鬢[じびん]にもいひかけたり。おぐしあげが口上[かうじやう]にハよくかなひたり。《18ウ》
○九牛[きうぎう]が一毛[いちもう]
 九[く]ハ老陽[らうやう]の数[すう]なれバ数[すう]の至極[しごく]として物のかずおほき至極[しごく]をかならず九をつけてよぶ。九天[きうてん]・九淵[きうえん]・九重[きうてう]の類のことし。されバ多[おゝ]き牛[うし]の中[なか]での一毛[いちもう]といふ心にて大海[だいかい]の一滴[いつてき]などゝいふにおなじ。但し仏書[ぶつしよ]におほき語[ご]なり。
○婦人城[ふじんじやう]
 是ハ晋[しん]の朱徐[しゆじよ]といふ者の母[はゝ]、軍勢[ぐんぜい]を引うけておほくの女を士卒[しぞつ]とし籠城[らうじやう]せし事あり。世[よ]に是を婦人城[ふじんじやう]といふ。くハしくハ晋書[しんしよ]に見えたり。
○一声[いつせい]の玄靏[げんくハく]そらになき巴峽[はけう]秋[あき]ふかし五夜[ごや]の哀猿[あいえん]
 是ハ円機活法[えんぎくハつほう]に出せる詩[し]の語[ご]也。作者[さくしや]ハつまびらかならず。あきの比巴峡[はけう]といふ山道[やまミち]を夜[よ]のくらきにとをりたる景象[けいしやう]を詠[えい]じたり。闇[やミ]の夜[よ]の物すごきに靏[つる]の一[ひと]こゑ物かなしき折し《19オ》も、猿[さる]のさけぶこゑいとあハれにきこへて心ぼそくなるとの意也。この城外[じやうぐハい]へしのびきたるもやうもかくやあらんとなり。
○秦[しん]の孺徐[じゆぢよ]が母[はゝ]
 是ハあやまり也。晋[しん]の朱徐[しゆぢよ]が母也。前にいひたる婦人城[ふじんじやう]の故事[こじ]也。歴代[れきだい]に外[ほか]の例[ためし]なけれバ必定[ひつぢやう]あやまりたる也。作者[さくしや]いかゞこゝろへられしや。
○扨[さて]は双方[さうほう]手[て]ハおハぬなこハいかにともぎ取[とつ]て火影[ひかげ]にすかし能[よく]ミれバきれぬこそ道理[だうり]なれ是も刃引[はひき]これも刃[は]ひき
 文句ハきこへたるとをり也。
 
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100001942/viewer/69
 
◎評[へう] ある人難[なん]じていハくこゝの刃引[はひき]の文句[もんく]のてには、初[はじめ]の是もといふが《19ウ》きこへず。是ハ刃[は]ひき是も刃[は]引と書べき事也。其故ハものてにはハ旁及[ぼうぎう]の詞とて一[ひと]つ主[をも]なる事ある上[うへ]に是もといふ事也。是ハ刃引[はひき]と一方[いつほう]を見[ミ]て又次[つぎ]に今一つをミれバ是も刃[は]引也といふべきを、最初[さいしよ]から是も刃引といへるハ作者[さくしや]のそこつ残念[ざんねん]なり。いかん。 答[こたへ]て云[いハく]、 これ文章[ぶんしやう]の法[ほう]をしらぬ難[なん]也。漢文[かんぶん]にこの格[かく]おほき事也。和語[わご]の。も。といふてにはハ漢字[かんじ]の亦[また]の字[じ]のきミなり。たとへバ翰文[かんぶん]に賢者[けんじやも]亦[また]有夭者[わかじにするものあり]、不肖者[ふせうしやも]亦[また]有寿者[いのちながきものあり]といへるも、上[かミ]の亦[また]ハ下[しも]の亦[また]へかけていひ、下[しも]の亦[また]ハ上[かミ]の亦[また]へかけていひて両方[りやうほう]をもちあハせたるもの也。是に同じく上の是も刃引といへる。も。ハ、下[しも]の是も刃引といへる。も。にかけ、下[しも]の是も刃引といへる。も。ハ上[かミ]の是もの。も。にかけていひて、両方をもち合[あハ]せたるゆへ、結句[けつく]文[ぶん]の法[ほう]をよく知[しり]て奇[めづらか]に書なしたる作者[さくしや]《20オ》の器量[きりやう]のミゆる所也。それをしらずかへつて咲[さミ]する事文章[ぶんしやう]にうとき故也。 難者[なんいじゃ]又いハく、文法[ぶんほう]ハさもあるにもせよ人形[にんげう]に合せてミるべし。まづ一人[ひとり]の刃[やいば]を見て是ハ刃引とおどろき、次[つぎ]に又一つをミて是も刃引といふべきを、あたまから是も刃引といへるハ何[なに]に対[たい]して是もとハいへるぞ。心得[こゝろえ]かたし。尤作者[さくしや]ハ二腰[ふたこし]ながら刃引とする趣向[しゆかう]にて書たるゆへ、作者の心にハ初[はじめ]より両方[りやうほう]刃引としりたる故あたまから是もといふ詞出さうなものなれ共、虎王[とらわう]が一方[いつほう]をしらぬ口からハ是もとハいふまじ。是作者が我心をすぐに書たるハあやまりならずや。 答云[こたへていハく]、この時虎王か人形[にんげう]ハいかゞつかひたるかもしらね共、もし両腰[りやうこし]を二度[にど]に見たるやうにつかひたらバ人形遣[にんげうつかい]のあやまり也。作者のあやまりにハあらず。まづ浄[じやう]るりの文句[もんく]を跡先[あとさき]よくミるべし。虎王が心に双方[さうほう]共手[て]をおハぬをふしんし、双方[さうほう]一[いつ]《20ウ》時[とき]にもぎ取て火影[ひかげ]にすかしてよく見れバ、きれぬこそ道理[だうり]なれ、両方共に刃引也との意也。火影[ひかげ]にすかしよくミれバといふ内に、二腰[ふたこし]をためつすがめつとくと見たる心こもれり。されバこそ両方共に刃引なるを見とゞけて、きれぬこそ道理[だうり]なれ、是も刃引是も刃引といひたるが、何とあやまりといふべきや。 難者[なんじや]此一句[いつく]に閉口[へいこう]しうなづいて退[しりぞ]きぬ。
○十月[とつき]にたらぬおろし子[ご]の諸仏[しよぶつ]一度[いちど]に御声[ミこゑ]をあげなげかせ給ふ御なミだ
 是ハくめのもりひさ地獄[ぢごく]のゑときといふむかし浄[しやう]るりの古文句[ふるもんく]をすくにはめ句にしたるもの也。今のわかき衆[しゆ]ハ多[おゝ]くしらさる所なり。
○もろこし衛[えい]の国[くに]出公輙[しゆつこうてう]《21オ》
 しゆつこうてうといへるハ衛[えい]の霊公[れいこう]の孫[まご]にして蒯聵[くわい〳〵]の子也。くわい〳〵罪[つミ]を得[え]て衛[えい]の国[くに]を立のきたる跡[あと]にて、霊公[れいこう]死し給ひしゆへ、しゆつこうてうを君[きミ]とす。しかるに蒯聵[くわい〳〵]このよしをきゝ国[くに]へ帰[かへ]りて衛[えい]の君[きミ]とならんとす。しゆつこうてう是を入[いれ]まじとして軍[いくさ]おこる。この時子路[しろ]といへる人しゆつこうてうにつかへゐたる故、しゆつこうの父[ちゝ]をふせぎ給ふをいさむれ共しゆつこう聞[きゝ]給ハぬゆへ、しゆつこうのゐ給ふ楼[たかどの]を焼[やか]んとせしを、やがて矛[ほこ]にてつきころされたり。此事くハしく史記[しき]にミへたり。
○首陽山[しゆやうざん]の伯夷[はくい]叔斉[しゆくせい]
 これも史記[しき]に出たり。伯夷[はくい]ハ兄[あに]しゆくせいハ弟[おとゝ]にて孤竹[こちく]といふ国の君[きミ]の子[こ]也。周[しう]の武王[ぶわう]籏[はた]をあげて殷[いん]の封王[ちうわう]をほろぼさんと出陣[しゆつぢん]し給ふに、この兄弟[けうだい]武王[ぶわう]の馬前[ばぜん]にすゝミ臣[しん]とし《21ウ》て君[きミ]をうつ事あるべからずとて轡[くつわ]を取ていさむ。左右[さゆう]の者共是をころさんとせしを太公望[たいこうぼう]見て義者[ぎしや]也といひていのちをたすけゝる。其後周[しう]の天下[てんか]になりしかバ、武王[ぶわう]の徳[とく]をけがれたりとして周[しう]の粟[あハ]を食[くら]ふ事をはぢ、首陽山[しゆやうざん]といへる山へ引こミ蕨[わらび]を折[をり]てくらひ終[つい]に飢[うへ]て死[し]したり。
○娑婆[しやば]と冥途[めいど]
 名義集[めうぎしう]に娑婆[しやば]こゝには忍土[にんど]といふ。しやばバ梵語[ぼんご]にて唐[から]の詞にすれバ堪忍土[かんにんど]といふ事にて、娑婆世界[しやばせかい]ハもろ〳〵の苦[く]を堪忍[かんにん]せねバかなハぬの意なり。冥途[めいど]とハ和語[わご]のよミぢといふ事也。
○一重[いちぢう]つんでハ兄[あに]のため
 是よりさいの河原を移[うつ]してものもらひする鉢[はち]ぼうずの口うつしなり。此たぐひの事ハなにハ辺[あたり]の人ならでハ遠国[をんごく]へハ通[つう]じがたし。《22オ》
○あハれはかなき我[われ]ら迄[まで]
 是も地藏[ぢざう]の和讃[わさん]に出る口うつしなり。
○神力[しんりき]勇者[ゆうしや]に勝[かつ]ことあたハず
 仏力[ぶつりき]ゆうしやにかつ事あたハずといふ語[ご]をなをしたるもの也。此理[り]ハ儒[じゆ]仏[ぶつ]神道[しんたう]共におなじ事也。近くハ織田信長[をたのぶなが]ひえ法師[ぼうし]と争論[そうろん]の事共あり。怒[いか]りて山王[さんわう]廿一社をこと〴〵く破却[はきやく]す。この時当分[たうぶん]にハ何のたゝりもなし。かゝるたぐひをいへり。しかれ共ついにハ神罰[しんバつ]のがれず明智[あけち]がために本能寺[ほんのうじ]にをいて自殺[じさつ]せり。おそるしべし。
○樗[あふち]
 散木[さんぼく]とてやくにたゝぬ木也。荘子[さうじ]に出たり。
○黄泉[くハうせん]
 人死すれバ体魄[たいはく]土[つち]に帰[き]す。つちの底[そこ]の泉[いづミ]ハ濁[にご]るゆへにめいどともくハうせんともいふなり。《22ウ》
○栲器[かうき]の柱[はしら]
 もと科人[とがにん]を責[せむ]る時に繋[くゝ]るはしらなり。今こゝにてハごくもんの台[だい]をいふ。
○俑桶[ようをけ]
 いにしへハ貴人[きにん]の死去[しきよ]の時近習[きんじう]の護衛[まもり]になそらへて蒭[わら]にて人形[にんげう]をつくり死骸[がい]にそへてほうむりしを、後[のち]になりて真[まこと]の人形[にんげう]をつくりて俑[よう]となづけてほうむる事はじまりたる也。今の俗[ぞく]それより取て棺[くハん]をようおけとよびならハせり。
○月日[つきひ]をつかむ修羅[しゆら]
 あしゆら王[わう]が梵天[ぼんでん]帝釈[たいしやく]とたゝかひて日月[じつげつ]をつかミし事仏書[ぶつしよ]に見えたり。
○紅梅[かうばい]のあハはませ
 馬を急[きう]にのりて駈[かけ]させれバ口わきより血[ち]まじりのあハを吐[はく]をいふなり。
○威風凜々[いふうりん〳〵]
 其いきほひの物すさまじきをいふ。
○天下創業[てんかさうげう]の旗[はた]《23オ》あげ
 はじめて天下[てんか]をとるを創業[さうげう]といふ。されバ親[おや]のゆづりの天下[てんか]をうけてまもるを守成[しうせい]の君[きミ]といひ、ミづから始[はじめ]て天下取たるをさうげうの君[きミ]といふ也。
○力士[りきじ]ごし
 りきじとハ本名[ほんめう]ハ那羅延[ならえん]といふ仏塔[ぶつたう]などのやねの四隅[よすミ]に棟[むね]を負[をふ]て鬼[おに]がハらのごときが是也。はなハだちからのつよきものなり。
○韋駄天[いだてん]ごし
 是も天部[てんぶ]の本尊[ほんぞん]にて足疾鬼[そくしつき]が玉[たま]をうばひて迯[にぐ]るを追[おつ]かけ給ふもこのいだてんなり。
○おぢ坊主[ぼうず]の白藏主[はくぞうす]
 つり狐[きつね]の狂言[けうげん]にあり。
 道行
○かくれがの軒[のき]もる
 山ざとなどに小家[こいへ]をしつらひたるをいふ。はにふの小屋[こや]とて軒[のき]もまバらなるさまをいふ。
○月[つき]にこがれ出[いで]
 あハれをもよほす折ふし《23ウ》月[つき]のさえたるにさそハれ出るていなり。西行の哥に、なけゝとて月やハ物を思ハするかこちかほなる我[わか]涙[なミだ]かな。
○露[つゆ]にやしなふ
 月に対[たい]して露[つゆ]をいふ。袖[そで]がうろにてしバらく気[き]をやしなふとなり。
○すがり
 きやらのたきさしが下著[したぎ]に香[か]の残[のこ]りたる故に香取姫[かとりひめ]といひかけたり。本[もと]ハ繒[かとり]とて好絹[よききぬ]をいへ共こゝにハ云[いゝ]かけに用ゆ。
○契[ちぎ]りを
 手と手[て]をもちにぎりてちかふ事也。もちにぎるを略[りやく]してちぎりと訓[くん]じたるなり。
○二世[にせ]
 仏説[ぶつせつ]におや子[こ]ハ一世[いつせ]といひ夫婦[ふうふ]ハ二世[にせ]といひて一蓮託生[いちれんたくしやう]と説[とき]給ふ。かねミちに深きちぎりをかけたるを二世とかねミちといひかけたり。
○未来[ミらい]のため
 仏教[ぶつけう]に過去[くハこ]・現世[げんせ]・末来[ミらい]の三世をたつ。過去[くハこ]ハ前[まへ]の世[よ]をいひ、現世[げんせ]とハこの世[よ]をいひ、未来[ミらい]とハのちの世[よ]をいふなり。《24オ》
○そぎ尼[あま]
 そきとハ髪[かミ]を薙[きる]事也。大内[おゝうち]などにてハ菩提[ぼだい]に入るとき尼[あま]になり給ふとてハ髪をきり給ふ也。是をそぐといふ。剃髪[ていはつ]にハあらず。
○うつぶし色
 黒[くろ]き色をいふ。すべてくろき色に染[そむ]るにハ五倍子[ふし]にてそむる也。さて五倍子[ふし]ハ子[ミ]の中[なか]空[うつほ]なるものゆへ空[うつ]五倍子[ぶし]といふ。蝉[せミ]のぬけがらを空蝉[うつせミ]といひ人の気[き]のぬけたるを空気[うつけ]といふがごとし。
○けさよりも
 今朝[けさ]と袈裟[けさ]とをいひかけたり。
○づだ袋[ぶくろ]
 天竺[てんぢく]にてハ乞食[こつじき]を分衛[ぶんえ]共頭陀[づだ]共いふ。出家[しゆつけ]の人修行[しゆげう]のために乞食[こじき]に同じく身をなして、食[じき]を乞[こふ]て袋[ふくろ]へ入るゝ故に其ふくろを頭陀袋[づだぶくろ]といふなり。又ふくろの訓[くん]ハ物をいれてふくれるの義也。れとろと通[つう]ずる故にふくろといふ。
○かたミに持[もち]し《24ウ》
 筐[かたミ]とハもと竹籠[たけかご]也。継[けい]体天王[てんわう]いまた位[くらゐ]につき給ハず男太迹[あけ]のの皇子[わうし]の時、西国にて女にちきりくらゐにつき給ひて後つね〳〵もち給ふ花筐[はなかたミ]をかの女へつかハし給ふ。それより人の別[わか]れのなごりにおくるものをかたミといふ也。形見[かたミ]とも記念[かたミ]とも書[かく]なり。
○なぎさの
 川などのほとりをいふ。むかし淀川[よどがハ]のほとりに宮[ミや]をつくりて渚[なぎさ]の院[いん]といふ。今の牧方[ひらかた]の傍[そバ]に禁屋[きんや]といふ村[むら]あり。又渚[なぎさ]といふ村もある也。
○身[ミ]なし貝[がい]
 貝[かい]の名[な]にあらず。浜辺[はまべ]の貝[かい]の殻[から]を身なしがひといふ也。
○片[かた]しく袖[そで]のかた思ひ
 君[きミ]まちがほのうたゝねにひぢまくらしたるをいふ。あハざる恋[こひ]のことばなり。
○菩提[ほだい]
 天竺[てんぢく]の詞[ことば]なり。こゝの詞にてハ得道[とくだう]といふ。仏[ほとけ]のミちを得[え]たるのこゝろなり。
 
○五戒[ごかい]
 一[ひとつ]に殺生戒[せつしやうかい]と《25オ》て物のいのちを取[とる]事をいましむ。二[ふたつ]に偸盜戒[ちうとうかい]とてぬすミをするをいましむ。三[ミつ]に邪婬戒[じやいんかい]とてよこしまなる婬欲[いんよく]をいましむ。四[よつ]に妄語戒[もうごかい]とていつハりをいましむ。五[いつゝ]に飲酒戒[をんじゆかい]とて酒[さけ]をのむをいましむる也。
○三界[さんがい]
 欲界[よくがい]・色界[しきかい]・無色界[むしきかい]これを三界[さんがい]といふ。今このしやばハ欲界[よくかい]なり。
○家[いへ]を出[いで]たる法[のり]のミち
 法華経[ほけけう]に三界[さんがい]無安[むあん]有如[うによ]火宅[くハたく]とて此界[かい]を火[ひ]の宅[いへ]なりといふ、故に仏道[ぶつだう]を修行[しゆげう]すれバさんがいの家[いへ]をいづるの心にて出家[しゆつけ]といふなり。
○むすぶすゝきハまねかねど
 古哥[こか]に、花[はな]すゝきまねかバこゝにとまりなんいつれののへもついのすミかそ 〽ふく風[かぜ]のまねくなるべし花すゝきわれよふ人の袖とミつれは。
○あだし野[の]の煙[けふり]《25ウ》
 あだなる野[の]といふ事也。名所[めいしよ]にハあらず。嵯峨[さが]の奥[おく]愛宕[をたぎ]のふもとに化野[あだしの]といふ墓所[むしよ]あり。つれ〴〵草[ぐさ]にあだしのゝ露[つゆ]きゆる時なく鳥部山[とりべやま]のけふり立さらでとあり。こゝにハ墓所[むしよ]に用[もち]ひたり。
○楊柳観音[やうりうくハんおん]
 洛東[らくとう]清水[きよミづ]のくハんおん也。むかし音羽[をとハ]の瀧[たき]のミづ五色[ごしき]にミへしを、諸人[しよにん]あやしミたづねのぼりしに、ミなかミに金色[こんじき]のひかりさし朽木[くちき]の柳[やなぎ]に花さきたちまちやうりうくハんおんとあらハれ給ふと也。
○はた物[もの]
 刑罰[しをき]ものを幟[はた]物といふ。但[たゞ]し唐[から]にてハその傍[そバ]に罪[つミ]におこなふ樣子[やうす]を書たる幟[はた]をたつる故なり。たぐり〳〵といひかけて糸くる体[てい]より織機[をりはた]にいひかけたり。
○千引[ちびき]の石[いし]
 ものゝ至[いたり]ておもきをいふ。千人[せんにん]もしてひく石[いし]となり。ミちのくに千引の石ありとぞ。おほく恋[こひ]によせて古哥[こか]によめり。人のこゝろのひけどもゆるがぬにたとへたり。《26オ》
○恋[こひ]のぬすミ
 貧[ひん]のぬすミに恋[こひ]の哥[うた]といふ俗言[ぞくげん]をあハせていふ也。
○白浪[しらなミ]
 ぬす人をいふ。伊勢[いせ]ものがたりに、 風[かせ]ふかバおきつしらなミ立田[たつた]山よハにや君かひとりこゆらん。 立田[たつた]山にぬす人あらんかと業平[なりひら]の山をこへてかよひ給ふをあんじて井筒[いづゝ]のよめる哥[うた]なり。
○暗[やミ]ハあやなし
 ものゝ文采[あいろ]もミへぬをいふ。躬恒[ミつね]の哥[うた]に、 春[はる]の夜[よ]のやミハあやなし梅[むめ]の花色[いろ]こそミへね香[か]やハかくるゝ。
○かねのミさき
 はりまの国[くに]の名処[めいしよ]なり。
○諸行無常[しよげうむじやう]
 涅槃経[ねはんげう]の四句[く]の文[もん]にてもろ〳〵の世[よ]にあるものハミな無常[むじやう]にして終[つい]にハ寂滅[じやくめつ]すると也。
○ひヾきの灘[なだ]
 是もはりまのめいしよ也。
○たまの緒[を]
 いのちの事なり。《26ウ》
○あられ釜[がま]
 いま茶[ちや]の湯[ゆ]にもちゆるかまの一つ也。あしやがまといふも有ルゆへあしやのうらといひかけたり。
○いさり火[び]
 在所[ざいしよ]の家内[かない]にてたく火[ひ]也。ある説[せつ]に海士[あま]の朝[あした]にすなとりするをあさりといふ。ゆふべにするをいさりといふと云〃。いさり火[ひ]ハその時ともす火也と鴨[かも]の長明[ちやうめい]がいへり。
 
◎評 惣[そう]じて此道行首尾[しゆび]全体[ぜんたい]近年[きんねん]の上作なり。しかしかとり姫がかねミちの首[くひ]をぬすミとらんとてのびあがり、とゞかぬ足[あし]のうらめしく世[よ]のせいすいやとなきしつむといへる詞何ンぞや。世[よ]のせいすいといふてハ其心をだやかならず。今すこしあるべき所なるに不自由[ふじゆう]千万なるくり言[こと]。かとり姫にハ残念[ざんねん]なる不相応[ふそうをう]の詞なり。是おしむべし。
 四段ノ奥[をく]
○ふとんの内[うち]むりやうのしあんぞこもりける
 ふとんといふより織[をり]ものゝ文[む]《27オ》綾[れう]と無量[むりやう]とをいひかなへたる面白[おもしろ]し。しかし是より前[まへ]近松[ちかまつ]が筆[ふで]に既[すで]にミへたり。是ハ口[くち]まね也。
○経陀羅尼[けうだらに]
 経[けう]ハ唐[から]の詞[ことば]にて仏説[ぶつせつ]の惣名[そうめう]しれたる事也。だらにハ梵語[ぼんご]にてこゝにハ惣持[そうぢ]といふとなり。
○魂魄髑髏[こんぱくどくろ]
 魂気[こんき]体魄[たいはく]とて神[たましゐ]ハ陽[やう]に属[ぞく]して魂[こん]なり。人死[し]する時ハ天[てん]にのぼる。体[からだ]ハ陰[いん]に属[ぞく]して魄[はく]なり。人死する時ハ地[ち]にかへる。髑髏[どくろ]ハしやれかうべなり。
○六根五体[ろくこんごたい]
 眼[め]耳[ミヽ]鼻[はな]舌[した]身[ミ]意[こゝろ]を六根[ろくこん]といふ。五体[ごたい]ハ手[て]と足[あし]とを四体[したい]とし首[くび]をそへて五体[ごたい]といふなり。
○四十九の餅[もち]
 亡者[もうじや]の七々四十九陰[いん]に表[へう]したるもの也。人死[し]してより四十九日の間[あいだ]ハ中有[ちうう]にまよひていまだ生[しやう]を受[うく]る所さだまらず。七日〳〵に生滅[しやうめつ]していまだ形[かたち]なく虚空[こくう]に住[ぢう]して香[かう]を食[しよく]す。《27ウ》この間[あいだ]を中有[ちうう]共中陰[ちういん]共いふと也。中陰経[ちういんげう]にくハしくミへたり。
 
◎評 ある人難[なん]じて云[いハく]、 四段目[だんめ]の趣向[しゆかう]の内[うち]かね道と助八とを見[ミ]ちがへたるにつき、かとり姫[ひめ]がごくもんのくびをかねミちと見ちがへしハ死[しに]くびなれバさもあらん。後[のち]に助八が家[いへ]にて真[まこと]のかねミちを疑[うたが]ひし所その意[い]をえず。いハんや嫁[よめ]のお作[さく]が近比[ちかごろ]まで助八と一所[いつしよ]にゐて、このたび来[きた]るかねミちを助八と取ちがへしハいよ〳〵有べき事ならず。世間[せけん]に双生[ふたご]ハよく似[に]るものとハいへ共いか程似[に]たり共すこしハちがひのなくてハかなハず。されバこそ世間[せけん]によく似[に]た人多[おゝ]けれ共取ちがへるといふ事ハ其ためしなき事也。然[しか]れバ同じしゆかうならバ実[じつ]に見物[けんぶつ]のうけとるやうにしたき事也。惣じて噓[うそ]もまことのうらにて諸人[しよにん]の尤[もつとも]とうけとるやうに書[かゝ]でハおもしろがらぬ筈[はづ]也。此所いますこししゆかうの未熟[じゆく]なるにあらずや。 答[こたへ]て云[いハく]、 兄弟[けうだい]のよく似[に]て夫婦[ふうふ]の間[あひだ]にも《28オ》取ちがへたる事唐[から]にもその例[れい]あり。張伯階[ちやうはくかい]といふ人の弟[をとゝ]を仲階[ちうかい]といひしが其かたち甚[はなハだ]よく似[に]て人の取ちがへる事おほし。あるとき弟[をとゝ]のちうかいが妻[つま]うつくしく化粧[けしやう]して立出るに、兄[あに]の伯階[はくかい]が立[たつ]てゐたる傍[そば]へより我夫[おつと]のちうかい也と思ひてさゞめごとをいひて手を取しゆへ、伯階[はくかい]興[けう]をさまし我ハ兄[あに]の伯階[はくかい]なりといひけれハおどろき恥[はぢ]て立去[たちさり]しが、又伯階がたゝずミゐたるを見て是こそ夫[おつと]ぞと思ひはしり寄[より]て手を取、さき程兄[あに]ぎミをあやまつて君[きミ]そと思ひはづかしきたハ言[こと]をいひたるといふ。伯階又我ハ兄なり仲諧[ちうかい]にてハあらずといひけれバ、いと恥[はつ]かしく思ひて奥[おく]に入て久[ひさ]しく出る事を得ざりしと風俗通[ふうぞくつう]にミへたり。是ハまさしく枕[まくら]をかハしたるふうふさへかゝるためし有。お作[さく]が見ちがへしは尤[もつとも]也。又かとり姫がうたがひも既[すて]に我手にかね道也と思い込[こミ]しくびがあるうへ、最前[さいぜん]より《28ウ》かねミちの狐[きつね]つきの体[てい]を見てハそこつに信[しん]ぜられざりしもことハりなるべし。 難者[なんじや]尤[もつとも]とうなづいてしりぞく。
 五段目
○乱臣[らんしん]の栄花[えいぐわ]ハ出沒[しゆつぼつ]螢[ほたる]のごとく太陽[たいやう]に照[てら]されその身[ミ]を失[うしな]ふ
 是ハ古語[こご]を取あつめ成語[せうご]のやうに書[かき]たるもの也。ほたるのひかりハひかるかと思へバそのまゝきへて、ある共なきともさだめられぬをしゆつぼつほたるのごとしといふ。太陽[たいやう]ハ日[ひ]の事也。らんしんのえいぐわをなすハ、やミの夜[よ]のくらき間[あいだ]にほたるかひかるごとくなれ共、徳[とく]ある人に出あひてハ日[ひ]にてらされて蛍[ほたる]のひかりのきゆるごとく終[つい]にその身[ミ]をほろほすとの意[こゝろ]也。
○民[たミ]を虐[しへたげ]
 虐ハ民[たミ]をむごくする事也。今の俗[ぞく]にいふ人をせめせたげるといふが此字[じ]なり。《29オ》
○課役[くハやく]をかけ
 課[くハ]ハおほせるとよミて日に幾[いくら]月[つき]にいくらといふ員数[いんじゆ]をきハめて公儀[こうぎ]へ役[やく]をとる事也。
○金殿紫閣[きんでんしかく]
 こがねの御殿[ミとの]むらさきの閣[たかどの]にて美[び]をつくしたるをいふ。三体詩[さんていし]に金殿当頭紫閣重[きんでんだうとうにしかくかさなる]といふ詩[し]の語[ご]を取て用ひたり。
○闘鷄[とうけい]
 にハ鳥[とり]合[あハ]せの事也。闘鶏[とうけい]とて唐[から]にもあり。
○闕[ミとの]〳〵
 御殿[ごてん]〳〵也。禁中[きんちう]にハ御殿[ごてん]の門[もん]に高楼[たかどの]ありて其両掖[りやうわき]を闕[かき]たるごとくに門[もん]をあくるゆへ掖門[えきもん]とも門闕[もんけつ]ともいふ。それより取て御殿[ごてん]を闕[ミとの]といふなり。
○大宮人[おゝミやびと]
 禁中[きんちう]の人をさしていふ。貞任[さだたう]が哥[うた]に、 わがくにのむめのはなとハ見たれどもおゝミやひとハいかゝいふらん。
○東天紅[とうてんかう]
 にハとりの時[とき]をつくる声[こゑ]也。文字[もじ]のごとく東[ひがし]の天[そら]くれなゐなりといふ事にて夜[よ]あけをつぐる鳥[とり]のこゑをいふ。《29ウ》
○てうけける
 寵戯[てうけ]と書[かく]。人をなぶる事也。今も北国[ほつこく]仙台[せんだい]あたりの詞に物をなぶるを寵[てう]するといふ。この字也。
○秋津島[あきつしま]
 和国[わこく]の異名[いめう]なり。秋津[あきつ]ハもと蜻蛉[とんぼう]の事なり。日本[につほん]の地形[ぢげう]あきつむしに似[に]たりとてあきつしまといふ也。
 
◎評 此真鳥[まとり]全体[せんたい]上出来[じやうでき]、おさ〳〵近松[ちかまつ]がしゆかうにおとらぬ所おほし。双生[ふたこ]のいりくミ始終[しじう]にわたり、お作[さく]かとり姫が二度[にど]のびつくり、助八が養母[ようぼ]のくり言[こと]、まとりが猛悪[もうあく]、かねミちが勇気[ゆうき]、女の勢[せい]ぞろへの発明[はつめい]ひとつとしてぬけめなし。それゆへ見物[けんぶつ]のよろこび数月[すげつ]の大入[おゝいり]を取し事作者[さくしや]のまんぞく座本[ざもと]の大慶[たいけい]いハん方[かた]なく、いかなる家[いへ]にもねづミの糞[ふん]と真鳥[まとり]の本[ほん]なき所ハなかりき。
 
浄瑠璃評注之三終《30オ》
《30ウ》

『上るり 文句評注 なにはみやけ 中ノ末』《表紙》
 
○国性爺合戦[こくせんやがつせん]
 此浄[じやう]るりの一体[いつたい]ハ、大明[たいミん]の末[すへ]に思宗[しそう]烈皇帝[れつくハうてい]の御子[こ]福王[ふくわう]南京[なんきん]にて即位[そくい]ありし時、先帝[せんてい]の時より韃靼王[たつたんわう]中国[ちうごく]へせめ入り北京[ほくきん]を居城[いじやう]として又なんきんへせめ入、此福王[ふくわう]をもほろぼさんとするに、先帝[せんてい]につかへし鄭之龍[ていしりやう]といふ者[もの]、先帝御存生[ごそんじやう]の折[をり]讒言[ざんげん]にあひてやう〳〵命[いのち]をたすかり日本[につほん]長崎[ながさき]へわたり、それより肥前[ひぜん]の平戸[ひらと]にて妻子[さいし]をもふけしが、大[たい]ミんの乱[らん]いまだしづまらざるを聞[きゝ]て妻子[さいし]を引ぐしふたゝび大ミんへ帰[かへ]り、一子[いつし]国性爺[こくせいや]と共に明朝[ミんてう]の味方[ミかた]をなして韃[だつ]と合戦[かつせん]する事をしるせり。始終[しじう]こくせいやがはたらきを第一[だいいち]とするゆへ此外題[げだい]を置[をく]也。しかし性[せい]の字[じ]を性[せん]の音[おん]にとなへさする事いぶかし。是ハ唐[から]の土地[とち]の名[な]や人の名[な]などハ唐音[たういん]にとなふる例[れい]もあるゆへ、作者[さくしや]の狡黠[こしやく]にて性[せい]の音[いん]をはねて国性爺[こくせんや]とかなを《1オ》付[つけ]たりとミゆ。松江[せうかう]の鱸[すゞき]を松江[ずんがう]のすゞきととなへさせ、南京[なんけい]を南京[なんきん]とよふ例[れい]也と思へるなるべし。然[しか]れ共性[せい]ハ唐音[たういん]にてハ性[しん]なり性[せん]にハあらず。殊[こと]に唐音[たういん]にてよぶならバ国性爺[こくせいや]の三字[さんじ]共ミな唐音[たういん]にして国性爺[こをしんゑゝ]とよふべき事也。され共人の名[な]に限[かき]りて唐音[たういん]によびて益[えき]もなけれバ国性爺[こくせいや]ととなふるがよしと知[し]るべし。是等[これら]ハもし浄[じやう]るりをもてあそぶ人〳〵学者[がくしや]なとにふしんせらるゝ時の心入レなれバ弁[べん]じ置[をく]也。世上[せじやう]のかたりならハしなれバかたるハ国性爺[こくせんや]とかたれ共、根[ね]ハとくとせぬ事也とわきまふへし。
 序
○花[はな]とび蝶[てう]おどろけ共人[ひと]うれへず水殿[すいでん]雲廊[うんろう]別[べつ]に春[はる]をおき曉日[けうじつ]よそほひなす千騎[せんぎ]の女[おんな]
 是ハ鄴宮[けうきう]を詠[えい]ぜし詩[し]の詞[ことバ]にて陸亀蒙[りくきもう]が作[さく]、すなハち三体詩[さんていし]に出[いで]たり。《1ウ》此意[こゝろ]ハ花[はな]がちる故春[はる]の尽[つき]んとするを見て花[はな]にたハふれし蝶[てう]ハおとろけ共宮中[きうちう]の人[ひと]ハうれひなし。その故ハ帝[ミかと]のおごりにて禁中[きんちう]にハ水[ミづ]をゑがきたる御殿[てん]や雲[くも]をゑがきたる廊[らう]などが有て、其内ハいつも春[はる]のたのしミ有て世間[せけん]とハかくべつに春[はる]を置[をき]たると也。さて曉[あかつき]がたにハ千騎[せんぎ]もあつまりし宮女[きうちよ]共が靚粧[かほよくよそほひ]て、白桜桃[はくあうとう]の下[した]にてむらさきの綸巾[りんきん]をいたゞきてたハふるゝと也。此奥[おく]にせんだんくハう女[によ]の縁[えん]さだめに女官[によくハん]の花軍[はないくさ]があるゆへ、其事にあてゝ此詩[し]を序文[しよぶん]とする也。殊[こと]に兄[あに]ミかどハ奢[おごり]つよくして、多[おゝく]の宮女[きうぢよ]に花[はな]いくさをさせ給ふ事、実録[じつろく]にも有ル事なれハ、かれこれよく相応[さうおう]したる序[じよ]也。
○紅唇[こうしん]翠黛[すいたい]色[いろ]をまじへ
 宮女[きうぢよ]共が口臙[くちべに]をよそほひ翠[ミとり]の黛[まゆずミ]をかざりて色[いろ]をあらそふとなり。
○三夫人[さんふしん]九嬪[きうひん]廿七人[にん]の世婦[せいふ]《2オ》八十一人の女御[によご]あり
 礼記[らいき]に天子[てんし]につかふる宮女[きうぢよ]の数[かず]をしるしたる通[とを]り也。夫人[ふじん]ハ本妻[ほんさい]也。嬪[ひん]より下[しも]ハミな女官[によくハん]なり。嫡妻[てきさい]にあらず。
○をよそ三千[さんぜん]の容色[ようしよく]
 禁中[きんちう]に内家叢[だいかそう]とて宮女[きうぢよ]のあつまる後宮[こうきう]ありて其内[うち]に容色[ようしよく]ある女[によ]くハん三千人[にん]ほどあるをいふ也。
○諸侯[しよこう]
 一国[いつこく]を領[れう]する君[きミ]をいふ。日本[にほん]の大名[だいめう]と称[せう]するがごとし。
○二月[にぐわつ]中旬[ちうじゆん]に瓜[ふり]を献[けん]ずる栄花[ゑいぐわ]也
 唐[たう]の王建[わうけん]が花清宮[くハせいきう]に題[だい]する詩[し]に、内園[ないえん]分得温湯水[をんたうのミづをわかちえて]、二月中旬[じげつちうじゆん]已進瓜[すでにふりをすゝむ]と賦[ふ]したる語[ご]を取ていふ。瓜[ふり]は六月[ろくぐハつ]にならてハ熟[じゆく]せぬ物[もの]なるを、たいりのそのゝうちにハ温湯[をんたう]の水[ミづ]をわけ取て種[たね]をくだし、二月中[ちう]じゆんにハすでに瓜[ふり]をすゝめたてまつると也。栄耀[えよう]の体をいふなり。《2ウ》
○越羅[えつら]蜀錦[しよくきん]
 越[えつ]の国[くに]の羅[うすもの]、蜀[しよく]の国の錦[にしき]、いづれも名物[めいふつ]なり。
○侍女[じぢよ]阿監[あかん]
 侍女[じぢよ]ハおもとひとゝよミてこしもと也。阿監[あかん]ハ女中[ぢよちう]かしら也。
○珊瑚[さんご]のたま
 珊瑚樹[さんごじゆ]ハ海底[かいてい]にある樹[き]なり。八月十五夜[や]の満月[まんげつ]に是を取て珠[たま]にミがく也。七宝[しつほう]の一つなれバ至[いたつ]て重宝[てうほう]するにたとへたり。
○虎[とら]の皮[かハ]豹[へう]の皮[かハ]
 虎[とら]は山獣[さんしう]の長[かしら]にして、かたちハ猫[ねこ]のごとく大[おゝき]さ黄牛[くハうぎう]のごとく黒[くろ]き章[かた]あり。爪[つめ]ハ鉤[かぎ]のごとく牙[きば]ハのこぎりのごとく両眼[りやうがん]はなハだ光[ひかり]あり。一目[ひとつのめ]よりハひかりをはなち一つの目[め]にてハ物[もの]を見[ミ]る。その皮[かハ]甚[はなハ]だ貴[たつとし]とす。豹[へう]ハめとらと訓[くん]ずれ共虎[とら]とハかくべつ也。毛色[けいろ]ハ赤[あかく]黄[き]にして黒文[こくぶん]ありといへり。
○南海[なんかい]の火浣布[くハくハんふ]東海[とうかい]の馬肝石[ばかんせき]《2ウ》
 火[くハ]くハんふといふハ布[ぬの]也。但[たゞ]し火中[くハちう]に火[ひ]を食[しよく]する鼠[ねづミ]あり。其ねづミの毛[け]にて織[をり]し布[ぬの]也。垢[あか]づく時ハ火中[くハちう]にて焼[やけ]バ白[しろ]くなる。もし水[ミつ]へいるゝ時ハ損[そん]ずる也。ばかんせきハ馬[むま]の肝[きも]に似[に]たる石[いし]なりと也。
○米粟[べいぞく]
 粟[ぞく]ハあわとよめ共日本[にほん]の稷[あわ]の事にあらず。米[こめ]のいまたすらざるをいふ。日本[にほん]にいふもミごめなり。
○三皇[さんくハう]五帝[ごてい]孔孟[こうもう]のおしへ
 三[さん]くハうは伏義[ふつき]・神農[しんのう]・黄帝[くハうてい]也。五帝[てい]ハ少昊[せうかう]・顓頊[せんぎよく]・帝嚳[ていこく]・尭[げう]・舜[しゆん]なり。孔孟[こうもう]ハ孔子[こうし]と孟子[もうし]と也。其教[をしへ]ハ仁義[じんぎ]忠信[ちうしん]人倫[じんりん]の正道[しやうたう]也。
○五常[ごしやう]五倫[ごりん]の道[ミち]
 五[ご]じやうハ仁[じん]・義[ぎ]・礼[れい]・智[ち]・信[しん]なり。五りんハ君臣[くんしん]・父子[ふし]・夫婦[ふうふ]・兄弟[けうだい]・朋友[ほういう]なり。其ましハりの道[ミち]ハ親[しん]義[ぎ]別[づへ]序[じよ]信[しん]也。これをも五常[ごじやう]といふ。
○断悪修善[たんあくしゆぜん]
 悪[あく]を断[たち]て善[ぜん]をおさむるをいふ。《3ウ》
○道[ミち]もなく法[ほう]もなく飽[あく]迄[まで]くらひ暖[あたゝか]に衣[き]て
 孟子[もうじ]に、飽[あく]までくらひあたゝかにきて逸居[いつきよ]して教[をしへ]なきハ禽獣[きんしう]に近[ちか]しといふ語[ご]あるに本[もと]づきていふ。口[くち]にハ飽[あく]迄物をくひ身[ミ]にハあたゝかなる程物を着[き]て人の道[ミち]をしらぬハ禽[とり]けだもの同然[どうぜん]なりと也。
○北狄[ほくてき]
 中国[ちうごく]の四方[しほう]のはし〴〵をゑびすといふ。俗[ぞく]のいふ大[おゝ]いなかなり。たつたんハ北[きた]のはづれ故ほくてきといふ。
○官仲[くハんちう]が九[こゝの]たび諸侯[しよこう]の会[くハい]もかくやらん
 周[しう]の世[よ]の末[すへ]に天子[てんし]の御家[いへ]おとろへたる故、天下[てんか]の諸侯[しよこう]勅命[ちよくめい]をもちひざるゆへ、斉[せい]の官仲[くハんちう]といふ人[ひと]その君[きミ]桓公[くハんこう]をもり立て諸候[しよこう]の伯[かしら]とし、天下[てんか]の諸侯[しよこう]を会[くハい]して国[くに]〴〵をよくおさめさせ、天子[てんし]をたつとむやうに下知[げぢ]したる也。それゆへ天下[てんか]のしよこう天子[てんし]の威にハおそれね共、桓公[くハんこう]やくハん《4オ》ちうにおそれて我[わが]まゝをなさず。それゆへ天下[てんか]が靜謐[せいひつ]なりし也。
○伍子胥[ごししよ]が余風[よふう]
 ごししよが眼[め]をくりて呉[ご]の東門[とうもん]にかけし事前[まへ]にしるせり。余風[よふう]とハ其余[あま]りのふせいにてなごりのこりたる体[てい]也。
○范蠡[はんれい]がおもむき有[あり]
 はんれいハ越王[えつわう]勾践[こうせん]の忠臣[ちうしん]にて越王をもり立[たて]て呉王[ごわう]を討[うた]しめたり。呉三桂[ごさんけへ]が君[きミ]をしゆごするにたとへていふ。
○万乗[ばんじやう]の位[くらゐ]
 天子[てんし]のくらゐをいふ。礼記[らいき]の王制[わうせい]に、天子[てんし]ハ万乗[ばんしやう]の国[くに]、諸侯[しよこう]ハ千乗[せんしやう]の国[くに]といひて、天子[てんし]の御領地[ごれうち]ハ軍車[いくさくるま]を万乗[ばんしやう]いだす程あるものゆへにいふと也。
○頭[かうべ]にさせバ二月[じげつ]の雪[ゆき]と散[ちり]もあり
 折梅花[ばいくハををつて]挿頭[かうべにさせバ]、二月雪[じげつのゆき]満衣[ころもにミつ]といふ詩の句[く]のこゝろを取て書[かけ]り。《4ウ》
○一家[いつか]仁[じん]あれバ一国[いつこく]仁[しん]をおこし一人[いちじん]たんれいなれバ一国[いつこく]乱[らん]をおこす
 大学[たいかく]の語[ご]をすぐに書り。君の家一つか仁愛[しんあい]の風になれハ其教[そのをしへ]が下へおよびて一国中が仁愛[しんあい]のならハしとなり、君[きミ]一人が貪欲無道[とんよくふたう]なれハ下もそれを見ならひて国中が乱[らん]をおこすとのぎなり。
○五刑[ごけい]の罪[つミ]
 つミに軽重[けいちう]ある故刑罰[けいはつ]の法[ほう]に五ケ条[てう]あるを五刑[ごけい]といふ。五刑[こけい]ハ墨[ほく]・劓[ひ]・剕[ひ]・宮[きう]・大辟[たいへき]なり。墨[ほく]とハ科[とが]人の額[ひたい]を刺[さし]ていれ墨[すミ]をするをいふ。劓[ひ]ハ鼻[はな]を断[そく]をいふ。剕[ひ]ハ足[あし]を斬[きる]をいふ。宮[きう]ハ男[をとこ]なれハ勢[まへ]を割[きり]女なれバ幽[まへ]を閉[とつ]るをいふ。大辟[へき]ハ斬[きり]ころすをいふ。
○宗廟[そうへう]の神[しん]
 先祖[せんそ]の神霊[しんれい]を祭[まつ]る処[ところ]を宗廟[そうへう]といふ。宗[そう]ハ源にて先祖[せんそ]ハ子孫[しそん]のミな《5オ》もと也との意なり。廟[へう]ハ神主[いはい]を置[をく]殿[てん]也。廟[へう]ハ貌[へう]也とて先祖[せんそ]の貌[かたち]にかたとるとの義なり。
○大[だい]の字[じ]の金刀点[きんたうでん]
 筆法[ひつほう]に点[てん]の名さま〴〵あり。大の字ハ三点[てん]にて、大の字の一文字を玉案[きよくあん]と名つけ、左へひく点[てん]を犀角[さいかく]と名づけ、右[ミぎ]へひく点を金刀[きんたう]と名づく。其形[かたち]刀[かたな]の身[ミ]に似[に]たるゆへなり。
○宸翰[しんかん]
 天子の御筆をいふ。
○かし水[ミづ]
 米[こめ]をあらふ水也。浙[かしミづ]と書[かく]也。もと米をたくを炊[かしく]といふゆへ、それより取てこめを炊[たか]んとてあらふミづゆへかしミつと訓[くん]ずるなり。
○龍顏[りやうがん]
 天子の御顏[かほ]をいふ。天子の徳を龍にたとふるゆへ也。
○刃[やいば]のさびハ刃[やいば]より出[いて]て刃[やいば]をくさらし檜[ひのき]山[やま]の火[ひ]ハ檜[ひのき]よよりいでゝ《5ウ》檜[ひのき]をやく。
 この語[こ]ハ成語[むかしよりあるご]にあらず。是ハ作者[さくしや]が意[こゝろ]をもつて造語[ごをつくり]たるもの也。藍[あい]よりいてゝ藍[あい]より青[あを]く朱[しゆ]を研[すり]て朱[しゆ]よりもあかしなんといへる語[こ]の勢[いきほ]ひを摸[うつし]てあらたにつゝりたる詞也。さひハ銹[さひ]と書か正字なり。
○印綬[いんしゆ]
 もろこしにハ天子より百官[くハん]迄その位[くらゐ]につきたる印あり。その印を腰[こし]におふる紐[ひも]を綬[しゆ]といふ。是ハ天子の御位[ミくらゐ]のしるしのいんじゆ也。
○たまの緒[を]
 いのちの事を大和詞にたまのをといふなり。
○綿蛮[めんばん]たる黄鳥[くハうてう]丘隅[きうく]にとどまる人としてとゞまる所[ところ]にとゞまらずんバ鳥[とり]にしかざるべしとかや
 是ハもと詩経[しけう]の詩にて大学に出たり。鳥のなく声[こへ]をめんはんといふ。黄[くハう]《6オ》鳥ハうくひすと訓[くん]じて毛の黄[き]なる鳥也。丘隅[きうく]ハ峯[ミね]の樹[き]のはへふさかりたる所をいふ。此詩[し]の心ハめんばんとさへつりとふ黄島[くハうてう]も人ちかき所にハ居[きよ]をやすんせす、かならす山おくの樹[き]の生ふさかりて猟師[れうし]の弓矢[ゆミや]なともとゝかぬ所にいたりてとゞまり居[い]ると也。然れハ人の住居[ちうきよ]もとゝまるへきよき所にとゝまらすんハ鳥[とり]にもおとりたるなるべしと也。
○長沙[ちやうさ]の罪[つミ]をさけ
 漢[かん]の賈誼[かき]といふ賢臣[けんしん]讒[さん]言にあひて朝廷[てうてい]をしりぞけられ長沙王[ちやうさわう]の傅[ふ]に貶[へん]せらる。いま鄭之龍[ていしりやう]もさんげんの罪[つミ]を避[よけ]て日本へわたり居[いる]と也。避[さけ]るハよけるなり。
○砂頭[さとう]に印[いん]をきざむ鴎[かもめ]
 唐詩[たうし]の語[ご]なり。かもめが浜辺[はまへ]の砂[すな]を足[あし]にてかきさかす体[てい]を文字を印に彫[ほり]きさむの体[てい]に見立たる也。
○蛤[はまぐり]よく気[き]を吐[はい]て楼台[ろうたい]を《6ウ》なす
 蚌[はう]・蛤[がう]・蜃[しん]ミなはまくりと訓[くん]ず。蚌[はう]と蛤[がう]とハ常[つね]のはまくり也。蜃[しん]にハ二種[しゆ]あり。一種[しゆ]ハ大蛤[たいがう]也と注[ちう]して一名[いちめう]を車螯[ほたてかい]といふ。是ハ貝[かい]の類[るい]なれ共楼台[ろうたい]をなすものにあらず。よく気[き]を吐[はい]て楼台[ろうたい]をなすといふ。蜃[しん]ハはまぐりと訓[くん]じても其かたち蛟[ミつち]に似[に]て龍[りやう]の類[るい]なる物なり。本草綱目[ほんさうかうもく]に其かたち虵[しや]に似[に]て大なり。角[かと]ありて龍[りやう]の形[かたち]のごとし。紅[くれない]の鬛[ひれ]あり。よく気[き]を吐[はい]てろうたい城郭[しやうくハく]の形[かたち]をなす。まさに雨[あめ]ふらんとしてミゆ。是を蜃楼[しんろう]と名[な]つけ又海市[かいし]共いふと云り。又唐詩訓解[だうしきんかい]の注[ちう]にも、蜃[しん]ハ蛟[ミつち]の類[るい]にて気[き]をはき楼台[ろうたい]人物[しんふつ]のかたちのごとしといへり。然[しか]るを近松ハ鷸[しき]蚌[はまくり]のはまぐりと思へるハ麁末[そまつ]のいたりにあらずや。又謝肇制[しやしようせい]が五雑爼[こさつそ]に、登州[とうしう]の海上[かいしやう]に蜃[しん]の気[き]あり、時〳〵むすんて楼台[ろうたい]のごときかたちをなす、是を海市[かいし]といふ、但[たゞ]し是海[うミ]の気[き]にして蜃[しん]の気[き]にあらす、をよそ海水[かいすい]の精[せい]多[おゝ]く結[むす]んでハ形[かた]をなし散[ちり]てハ光[ひかり]をなす、海中[かいちう]の物何によらす其気[き]を《7オ》得[う]る事久しけれバミなよく変幻[へんけん]をなす、蜃[しん]のミにかぎるにあらず共いへり。日本[にほん]にても近年[きんねん]安芸[あき]の厳島[いつくしま]に此気[き]あらハれ所の人ミな是を見たり。三刻[さんこく]ばかりの間[あいた]ハその辺[あたり]金色[こんしき]のひかりさし五色[こしき]の岩[いわ]くミさながら金楼[きんろう]玉台[きよくたい]のごとくなりしと也。
○あさる羽[は]おと
 鳥[とり]の餌[え]をもとめんためにさへつるをあさるといふ。
○雪折竹[ゆきをれたけ]に本来[ほんらい]の面目[めんもく]をさとり臂[ひち]を切[きつ]て祖師[そし]西来[さいらい]意[い]のわをさとりしも
 初祖[しよそ]に神光[しんくハう]といふ僧[そう]来[きた]り参[さん]するに、祖[そ]ハたゝ端座[たんさ]して教[をしへ]の詞なけれハ、かの僧[そう]庭[にわ]に立けるに大雪[おゝゆき]ふりて竹を折レ共しりぞかす、夜[よ]あくる迄立居[たちゐ]たりしかバ、初祖あハれミて汝[なんち]何事[なにこと]を求[もとめ]んためにか雪中[せつちう]に有やと問[とい]給ふに、かの僧[そう]なミだをながし師[し]たゝ《7ウ》ねがハくハ教[をしへ]給へといふ。初祖[しよそ]のいハく、諸仏[しよふつ]無上[むしやう]の妙道ハなんぢがごとき小智[ち]小徳[とく]の慢心[まんしん]をもつて得[う]べきにあらずと。かの僧[そう]聞[きく]やいなや力をもつて左のひちをきり師[し]の前[まへ]に置[をき]て云く、諸仏[しよふつ]の法印[ほういん]聞事[きくこと]を得[う]へしや。祖[そ]のいハく、諸仏の法印[いん]ハ己[をのれ]が心にあり、他[た]よりもとむへけんや。かの僧[そう]のいハく、我心いまた安からす師[し]ねかハくハ我ために我心をやすんせよ。祖[そ]の云く、なんちか心を我前へもちきたれ。かの僧[そう]心をもとむるにとらへ得べからす。祖のいハく、今なんちかために心をやすんぜりと。かの僧[そう]つひにさとりをひらけり。
○しぎ蛤[はまくり]のあらそひ
 是ハもと韃靼[たつたん]より梅勒王[はいろくわう]を大将として大明[ミん]をせめしむる時、闖王[ちんわう]李自成[りしせい]といふ者其虚[きよ]にのつて南京[なんきん]へせめ入帝[ミかと]を害[かい]し王位[わうい]を奪[うば]ふたる故、呉[ご]三桂[けい]いそき靼王[たつわう]の陣[ちん]へ至[いた]り、此たひ力をくハへて闖王[ちんわう]を討[うた]しめ給へと願[ねか]ふに付[つき]、だつ王いかゞせんと評議[へうき]有しに、ばいろくわうが謀[はかりこと]にハ此度《8オ》ごさんけいが乞にまかせ加勢[かせい]をやりて闖王[ちんわう]とこさんけいとをたゝかハせ、其虚[きよ]に乗[のり]て両方[りやうほう]をだつたんの手に入へしとて、此鷸[しき]蚌[はまくり]のたとへを引てたつ王をさとしたる故事也。今此浄[しやう]るりにハ国せんやが事にもちくミたる尤作意也。さて此故事の源ハ戦国策[せんこくさく]に出たり。
○秦[しん]の始皇[しくハう]六国[りくこく]を呑[のま]んため連衡[れんかう]の謀[はかりこと]
 この時天下に七ケ国あり。秦[しん]・燕[えん]・趙[てう]・韓[かん]・魏[き]・斉[せい]・楚[そ]なり。しかるに秦[しん]の始皇[しくハう]、のこり六国を攻[せめ]ほろほしてミな秦[しん]へあハせ天下を一つにして皇帝[くハうてい]のくらゐにつき給へり。連衡[れんこう]とハ此時蘇秦[そしん]といふものと張儀[ちやうき]といふものと謀[はかりこと]をなして、あるひハ六国をつらねて秦[しん]につかへさせんとし、あるひハ秦[しん]を討[うた]んとし又ハ六国を討[うた]んとする等[とう]の謀[はかりこと]共をなしたるをいふ。
○楊貴妣[やうきひ]
 唐[たう]の玄宗皇帝[けんそうくハうてい]のてうあいし給ひし女官[によくハん]なり。《8ウ》
○なむきやらちよんのうとらや〳〵
 あミた如来の根本だらにの詞に、のうほあらたんのうたらやゝといふ事あり。それを略[りやく]してかくいひたる也。是もよき作意[さくい]なり。是より奧[おく]の唐人[たうしん]ことは皆[ミな]やくたいもなき事なりとしるへし。
○くひの八千度[やちたひ]
 いくたひも〳〵くゆるをいふ。和哥[わか]のことはなり。
○本卦師[ほんけし]の卦[け]にあたつて
 師[し]の卦[くわ]ハ六十四卦[くわ]の一つにて、八卦[はつくわ]の坤[こん]を上卦[しやうくわ]とし坎[かん]を下卦[かくわ]としたる卦体[くわたい]なり。卦[くわ]の義理[きり]は専[もつハ]らいくさの事を断[ことハり]たる卦[くわ]也。
○天[てん]の時[とき]ハ地[ち]の利[り]にしかす地[ち]の利[り]ハ人の和[くわ]にしかず
 孟子[もうし]に出たる語[こ]なり。軍[いくさ]を出すに天の時をかんかへ歳[さい]月の吉凶[きつけう]日取時とりの吉凶、又ハその日によりて或[あるひ]ハ勝利[せうり]を得[え]《9オ》あるひハ敗北[はいほく]する等[とう]の方角[ほうかく]もある事也。然[しか]れ共要害[ようかい]堅固[けんご]なる土地[とち]の利[よろしき]城[しろ]にこもりたる時ハ、何程よせ手の勝[かつ]へき時日[ししつ]にせめよせても勝[かた]れぬか治定[ちてう]なれハ、是天の時ハ地の利[り]にしかさる也。又たとひやうかいのよき地に陣[ちん]を取たり共、士卒[しそつ]の心和合[わかう]せすして大将[たいしやう]をうらむるハ、いかなる堅固[けんこ]なる城[しろ]をも士卒[しそつ]か捨[すて]て逃[にく]る時ハ大将[たいしやう]一人してまもる事あたハず。つひに打負[まく]へき時ハ是地の利[り]は人の和[くわ]におよハさるなり。
○三韓[さんかん]退治[たいち]
 新羅[しらき]・高麗[こま]・百済[くたら]これを三韓[さんかん]といふ。神功皇后[しんくくハう〳〵]さんかんたいちの時ともへにあらミさきの立し事日本紀[にほんき]に見へたり。
○もろこしの望夫山[ほうふさん]
 婦人[ふしん]その夫を虎[とら]に喰[くい]ころされし者[もの]、この山へのほり虎[とら]に似[に]たりし石の有しを敵虎[てきこ]と思ひ矢[や]をはなちしかハ、婦人[ふしん]の念力[ねんりき]にて其石に矢[や]か立[たつ]たり。其石を望夫石[ほうふせき]といひ其山を望夫山といふ。
○我[わか]朝[てう]のひれふる山《9ウ》
 狭手彥[さてひこ]が東夷[とうい]征伐[せいはつ]に発足[ほつそく]の時、その妻[つま]まつらさよ姫[ひめ]其別[わかれ]をかなしミ、この山へのぼりて袖[そて]をふりてなけきしと也。大和詞にひれふると袖[そで]ふる事なりといへり。
○潯陽[しんやう]の江[え]これ猩々[せう〳〵]のすミ所[ところ]
 じんやうハ隠[かくれ]なき大江にてこゝにハ別[へつ]してせう〴〵おほくすむといへり。
○赤壁[せきへき]とてむかし東坡[とうば]が配所[はいしよ]ぞや
 赤壁[せきへき]ハ三国の軍[いくさ]に魏[ぎ]の曹操[さうそう]か呉[こ]の周瑜[しうゆ]に舟をやかれて敗北[はいほく]せし所也。宋[そう]の蘇軾[そしよく]を東坡[バ]と号す。朝廷[てうてい]よりつミせられて流[なか]され此赤壁[せきへき]のもとにあそぶ。東坡[とうは]か赤壁[せきへき]のあそび前後[せんご]に二度にて前赤壁[せんせきへき]の賦[ふ]後赤壁[こうせきへき]の賦[ふ]をつくりてそのあそびのたのしミを詠[えい]ぜり。
○廿四孝[かう]の楊香[ようきやう]が孝行[かう〳〵]の徳[とく]に《10オ》よつてしぜんとのがれし悪虎[あくこ]の難[なん]
 此事二十四孝[かう]の伝[てん]につまびらかにしるせり。
○西天[さいてん]の獅子王[ししわう]
 しし一名[いちめう]を白沢[はくたく]共いふ。狻猊[しゆんけい]といふも是也。かたちハ虎[とら]に似[に]て黄[き]なり。銅[あかかね]のごとき頭[かしら]にて鉄[くろかね]のごとき額[ひたい]あり。牙[きば]ハ鋸[のこきり]のごとく目のひかりいなひかりのことく吼[ほゆ]る声[こへ]いかつちのことし。よく虎豹[こへう]を食[くら]ふ。天竺[ちく]にあるけだもの也。天ちくハ中国[ちうこく]より西[にし]にあたるゆへ西天[さいてん]といふ。
○あまのぶち駒[こま]
 神代[かミよ]の馬[むま]なり。
○しやぐハん
 射官[しやくハん]なるべし。火砲[くハほう]弓箭[きうせん]を射[い]る役[やく]也。
○ちやぐちう左衛門[さへもん]
 是より国所をかしら字にしてよび名[な]とす。その国〳〵の文字ハ東埔塞[かほちや]・呂宋[るすん]・東京[とんきん]・暹羅[しやむ]・白城[ちやぼ]等[とう]也。
○仁[しん]ある君[きミ]も用[よう]《10ウ》なき臣[しん]ハ養[やしな]ふ事[こと]あたハず慈[し]ある父[ちゝ]も益[ゑき]なき子[こ]ハ愛[あい]する事[こと]あたハず
 古語[こゝ]のやうなれ共慥[たしか]なる書にハ見えす。その理[り]もちかく似[に]たれ共正しき聖賢[せいけん]の意にハ的当[てきたう]せざるかことし。
○夜[よ]まハりのどらの声[こゑ]
 とらハ鉦[とら]と多く書共刁[とら]の字よし。史記[しき]・通鑑[つかん]等[とう]に出て陣屋[ちんや]の用心[ようしん]をいましむる夜廻[よまハ]りかうつ鐘[かね]也。もと刁斗[てうと]といふを和訓[わくん]にて刁とよませり。此字を刁[とら]とよむに付て今の俗[そく]子[ね]・丑[うし]・寅[とら]のとらの字の略[りやく]也と思ひて寅[とら]の字の代[かハ]りに用ゆるハ笑[わら]ふべし。是さためてかなの濁[にこり]を見をとしたる麁相[そさう]ものゝ取ちがへそめたるなるべし。
○いしゆミ
 弩弓[ときう]とて此方の人のいふ石はしきの類[るい]也。
○いしびや《11オ》
 仏郎機[いしひや]なり。
○胡乱[うろん]
 胡国[ここく]ハ天竺[ちく]の際[きハ]にて中国よりハ甚[はなハ]だ遠[とを]きゑひす故言も中国へ通[つう]ぜぬゆへ不埒[ふらち]なる詞を胡説[こせつ]乱道[らんたう]といふ。胡乱[うろん]ハ此二字を切て唐音[たういん]にていひならハしたるもの也。
○きこらい〳〵びんくハんたさつふおん〳〵
 此浄るりの唐音[たういん]ハ前[まへ]もいふ通[とを]り訳[わけ]もなき事也。きこらいハ帰去来[きこらい]の字を用ひたれ共是も唐音[たういん]にてハ帰去来[くいやいらい]なれハ合ず。ひんくハんたさつふをん〳〵も唐音[たういん]をもつて文字に合せなハ相応[さうおう]なる事も有べけれ共、すへて近松[ちかまつ]が唐音[たういん]ハミな頓作[とんさく]にて其かゝハりなし。前の所にハたらにをもぢりて唐音[たういん]にまきらかしたり。又大職冠[たいしよくハん]の唐音[たういん]ハ唐菓子[たうくハし]や膏薬[かうやく]の名にてまきらかせり。又本朝三国志[ほんてうさんこくし]の大王の道行に、御いたハしや大わうハちりくちくすい引かへてあほす峠[とうげ]のよるの道と書り。京都のさる俳諧師[はいかいし]此ちりくちくすいの語[こ]をあんじ煩[わつら]ひて《11ウ》問[とい]けれハ、是ハ大王[たいわう]夫婦[ふうふ]の道行ゆへくちりくちすい引かへてといふかなを上下[うへした]へ置[をき]かへて用ゐたりとこたへしとかや。又唐船[たうせん]はなし今こくせんやの口に唐[から]の木やり有。其文句に、 らうがときろくほにやふたうにやくこんもつきんとゝいふ事あり。是ハむかしの東国哥[とうこくうた]に、うらか斎坊[ときほん]にや豆腐[とうふ]こんにやくきんもつだといふを、かなを上下へ置[をき]かへて用ひたる也。此類[るい]にて埒[らち]もなき事を知[し]るへし。近年[きんねん]鼎軍談[かたへくんたん]の唐音[たういん]ハまことのたういんなり。
○足[あし]かせ手[て]かせ
 足械[あしかせ]ハ足[あし]にうつ械[かせ]也。手械[てかせ]ハ手鎖[てちやう]なり。
○延平王[えんへいわう]国性爺[こくせんや]鄭成功[ていせいこう]と号[かう]し
 本伝[ほんてん]を按[あん]するに鄭之龍[ていしりやう]か児[こ]鄭森[ていしん]廿歳[さい]の時父[ちゝ]と共に大明[たいミん]の皇帝[くハうてい]隆武爺[りうふや]につかふ。身のたけ六尺八寸ちからハ大象[たいそう]を取ひしき、殊[こと]に倭国[わこく]の産[うまれ]なれハ日本の両刀[りやうたう]を善[よく]つかふをきこしめし、忝[かたじけな]くも宮中[きうちう]にて元服[けんふく]し成功[せいこう]と字[あさな]し明[ミん]の朱姓[しゆせい]を《12オ》たまひ、常[つね]に左右に侍[し]し奉れハ、臣民[しんミん]これを貴[たつと]ミ国性爺[せいや]と称[しやう]す。後[のち]又延平王[えんへいわう]と号[がう]せりと云〃。
○章甫[しやうほ]の冠[かんふり]花紋[くわもん]の履[くつ]
 しやうほハ殷[いん]の代のかんふり也。花紋[くハもん]ハはなの紋[もん]を織[をり]つけたるくつ也。
○幢[とう]のはた幡[ばん]のはた
 幢[とう]幡[ハん]共にはたにて天子諸侯[しよこう]のもたせらるゝ道具[たうく]なり。
○会稽山[くハいけいざん]に越王[えつわう]のふたゝび出[いて]たるごとくなり
 呉国[ここく]を討[うた]んとて越王[えつわう]の勾践[こうせん]くハいけいさんより籏[はた]をあけ給ふ体[てい]也。前にいふかことし。
○父[ちゝ]が庭訓[ていきん]
 孔子[こうし]の子[こ]伯魚[はくきよ]ある時庭[にハ]を通[とを]りたるに、孔子立給ひて詩[し]と礼とをまなふへしと教[をしへ]給ひしより故事[こし]と成[なり]て父[ちゝ]のおしへを庭訓[ていきん]といふ。
○玉[たま]ある淵[ふち]は岸[きし]やぶ《12ウ》れず龍[りやう]すむ池ハ水[ミづ]かれず
 この語[ご]文選[もんぜん]にミへたり。
○むかし唐土[もろこし]の白楽天[はくらくてん]といひし人[ひと]日本[につぽん]の智恵[ちゑ]をはからんと
 此所の文段[もんだん]つぶさに白楽天[はくらくてん]の謠[うたひ]に有て誰[たれ]もよくしりたる事ゆへ是を略[りやく]す。
 道行
○唐子[からこ]わげにハ薩摩[さつま]ぐし島田[しまだ]わげにハ唐[たう]ぐしと大和[やまと]もろこし打[うち]まぜて
 此文句[もんく]うはべハ何事[なにごと]もなけれ共、底意[そこい]にふまへたる故事[こじ]有て書出[かきだ]したる也。荘子[さうじ]に蝸牛[くハぎう]の角[つの]のうへに国[くに]二ケ国[こく]あり。左[ひだり]の角のうへなるを蛮[ばん]の国[くに]と名[な]づけ、右[ミぎ]の角[つの]の上[うへ]なるを蜀[しよく]の国[くに]と名づく。此左右[さゆふ]の国[くに]たがひに《13オ》あらそふて戦[たゝか]ふといへり。蝸牛[くハぎう]ハかたつむりと訓[くん]じて俗[ぞく]にいふでん〳〵虫[むし]也。荘子[さうじ]は人の耳[ミヽ]をおどろかす事を書[かく]上手[じやうず]なるゆへ右[ミぎ]のとをりにいゝたり。此語[ご]の心をふまへて、中[なか]むかしの毎句付[まいくつけ]の笠[かさ]に、かしらの上[うへ]に国[くに]二ケ国[こく]といふ題[だい]ありしを、加賀笠[かゞがさ]の下[した]にさしたるさつま櫛[くし]といふ句[く]をつけて勝句[かちく]となり、世上[せじやう]の人の語[かた]り草[ぐさ]となる。此[こゝ]の道行の出[で]の文句[もんく]又是をやつしたる也。唐子[からこ]わげにハ和国[わこく]のさつまぐし、和国[わこく]の島田[しまだ]にハもろこしの唐[たう]ぐしとやまともろこし打まぜてといひかけて、せんだん女[によ]と小[ご]むつと打まじりてのたびだちをことハる也。
○枕[まくら]をたゝむ夢[ゆめ]たゝむ千里[せんり]を胸[むね]にたゝミこむ
 船中[せんちう]などに用[もち]ゆる懐中[くハいちう]のたゝミまくらより邯鄲[かんたん]の枕[まくら]をふまふへて夢[ゆめ]たゝむといひ、飛張房[ひてうばう]が縮地[しゆくち]の杖[つへ]の意[い]をふまへて千里[せんり]をむねにたゝミこむといふ。殊[こと]に二人が渡海[とかい]のはるけさ《13ウ》千里[せんり]あなたへ着[つく]意を胸[むね]にたゝミたくハふるの情[じやう]によせていふ。
○我[われ]ハ古郷[こけう]を出[いづ]る旅[たび]君[きミ]ハ古郷[こけう]へ帰[かへ]るたび
 此句[く]情[しやう]をいハずして情[じやう]その中[なか]にこもる。尤詩[し]などにこの格[かく]多[おゝ]き事也。小むつハ古郷[こけう]を出る旅[たび]なれバ古郷[こけう]をはなるゝ物[もの]うさいか斗りぞや。それにくらべてハせんだん女[によ]ハ古郷へ帰[かへ]り給ふ旅[たび]なれハ旅のうさにも便[たより]ありと、小むつがせんだんによへ力[ちから]をつけていさむる体[てい]也。それゆへ此下[しも]の文句[もんく]に小むつがいさめちからにてといへり。
○ふたはに見せてせんだん女[によ]
 古郷[こけう]を出ると帰[かへ]るとの二端[ふたは]とうけて又せんだんの二葉[ふたは]といふにいひかけたり。
○親[おや]と妻[つま]とを持[もち]し身[ミ]ハ何[なに]かなげきハ有明[ありあけ]の月[つき]さへ同[おな]じ月[つき]なれどなふ二人[ふたり]見馴[ミなれ]し閨[ねや]の月[つき]《14オ》
 小[こ]むつが身[ミ]の上[うへ]にて小むつが情[しやう]をのぶる也。月[つき]を見て夫婦[ふうふ]ねやにてながめし思ひをのぶる。尤[もつとも]さもあるべし。
○なごり数[かず]〳〵大村[おゝむら]の 是より ぬれてかハかぬ旅衣[たひごろも]
 といふ迄の文句[もんく]其心ハよく聞[きこ]えて注[ちう]に及[をよ]バず。たゞ文句のずら〳〵として何共なうおもしろく筆にうるほひのある事よく〳〵気[き]をつけてミるべし。是らが筆さきにうまミの有といふならん。
○二千里[じせんり]の外[ほか]故人[じん]の心[こゝろ]
 白楽天[はくらくてん]が月[つき]の詩[し]也。三五夜中[さんごやちう]新月色[しんげつのいろ]といふの対句[ついく]なり。月をなかめて二千里の外[ほか]に別[わか]れある所の故人[ともだち]の心もさぞや此月を見て我[われ]をしたふらんとなり。
○うなバら
 ■海[さうかい]の二字[じ]をあをうなバらとよむ也。
○鬼界[きかい]十二の島[しま]
 きかいハさつまのいわうが島[しま]也。それより目通[めどを]りに打つゞきて十二の島ありと《14ウ》なん云[いへ]り。此所の島[しま]〳〵ミな今に有ル島共也。
○あれハいにしへ天照神[あまてるかミ]の住吉[すミよし]の明神[めうじん]に笛[ふえ]ふかせ舞曲[ぶきよく]を奏[そう]し二神[ふたがミ]のあそび給ひし所[ところ]とて二神島[にじんしま]共申す也
 そさのをの尊[ミこと]暴悪[ほうあく]なりしかバ、天照神いかり給ひて天磐戸[あまのいわと]へ引こもり給ひしかバ、天下[てんか]常暗[とこやミ]となりたるゆへ、住吉の明神をはじめ八百万神[やをおろづのかミ]かぐらを奏[そう]し給ひしかバ、それより岩戸[いわと]をひらき給ふ。爰[こゝ]のすミよしのふえふき給ふハ此故事[こじ]也。又二神島[ふたがミしま]にてふたがミのあそび給ひしハ余[よ]の事なれ共、かぐらをいふ故住吉の明神を引て立たる也。二神[にじん]島ハふたがミしまとて今に有となん。
○敷島[しきしま]のはや秋津洲[あきつす]の地[ぢ]を《15オ》はなれ
 敷島[しきしま]もあきつすも日本[につほん]の別名[べつめう]なり。
○あまの鳥舟[とりふね]岩舟[いわふね]の
 たゞ舟の事をいふ哥[うた]ことばなり。
○まだ秋風[あきかぜ]に鱸[すゞき]つる松江[ずんかう]の湊[ミなと]
 古来[こらい]ずんがうとよミ来[きた]れ共唐音[たういん]ハ松江[そんきやん]にてすゞきの名処[めいしよ]なり。日本[にほん]にても出雲[いつも]の松江[まつへ]ハ鱸[すゞき]の名所[めいしよ]にて、まだあき風[かぜ]にすゞきつる也などいへる古哥[こか]あり。其古哥[こか]を取てこゝの文句[もんく]のいゝかけに用ひたり。
○陶朱公[たうしゆこう]
 越[えつ]の范蠡官[はんれいくハん]を去[さり]て後陶朱公[たうしゆこう]と名[な]のり大に富[とミ]をえたり。
○宮前[きうぜん]の楊柳[やうりう]寺前[じぜん]の花[はな]
 三体詩[さんていし]に出たる詩[し]の句[く]にて其こゝろハきこへたるごとし。
○鸞輿[らんよ]属車[しよくしや]
 天子[てんし]の御車[ミくるま]をらんよといふ。跡[あと]につゞくくるまをしよくしやといふ也。《15ウ》
○谷[たに]のましら
 ましらハ猿[さる]の事也。
○かたにかし
 肩[かた]に駕[のる]といふ事也。
○さいくハいの山路[やまぢ]に
 崔嵬[さいくハい]と書[かく]也。山[やま]のけハしき体[てい]也。詩経[しけう]に有。
○手談[しゆだん]のわざ
 前[まへ]にミへたり。
○斧[おの]の柄[え]もおのづからとや朽[くち]ぬべし
 列仙伝[れつせんでん]に此事あり。仙人[せんにん]の碁[ご]を打[うつ]を見[ミ]る内に年月[としつき]移[うつ]りて手[て]につきゐたるおのゝえくさりたりとなり。
○とりのそら音[ね]ハはかる共
 孟嘗君[もうしやうくん]といふ人秦[しん]に囚[とらへ]られし時、ひそかに秦[しん]を夜[よ]の内にぬけ出たりしが、追手[おつて]のかゝらん事をおそれ道[ミち]をいそぎしが、函谷関[かんこくくハん]といふ関所[せきしよ]をひらかざりし所に、もうしやうくんにしたかひし者[もの]に鷄[にハとり]のなくねをよく似[に]する人あり。鶏[とり]のまねをせしかバ其辺[そのへん]の鷄《16オ》ミななきし程に関守[せきもり]やかて夜[よ]明ケたりとて関所[せきしよ]をあけて通[とを]しけるとの故事[こし]なり。
○驪山[りさん]のふもと
 りさんといふ山[やま]のふもとに花清宮[くハせいきう]といふ御殿[ごでん]あり。
○楊貴妣[やうきひ]の御廟所[ごへうしよ]大真殿[たいしんでん]
 唐[たう]の玄宗皇帝[げんそうくハうてい]の十八番目[ばんめ]の御子に寿王[じゆわう]といふあり。楊貴妣[やうきひ]ハもと此寿王の妣[きさき]なりしが美[うるハしき]事すぐれたりしかバ、寿王へハ別[べつ]に妣をあたへやうきひをバ玄宗[げんそう]寵愛[てうあい]し給ふ。すなハち楊玄琰[やうげんたん]がむすめにておさな名[な]を大真[たいしん]といふ。貴妣[きひ]ハ女官[によくハん]の名[な]也。後[のち]に安禄山[あんろくさん]といふもの乱[らん]をおこせし故玄宗[げんそう]ハ貴妣[きひ]ともろ共に蜀[しよく]へにげ給ふ。其ミち馬嵬[ばくハい]といふ所にて軍兵[ぐんへう]が貴妣[きひ]を殺[ころ]したる故、その後玄宗したひかなしミて臨邛[りんけう]の方士[はうじ]に勅[ちよく]して貴妣の魂[たまあしゐ]のあり所をもとめ給ふに、蓬萊山[ほうらいさん]へいたりて大真殿[たいしんでん]といふ額[がく]のかゝりし所へゆきいたり楊貴妣[やうきひ]にあひしとぞ。《16ウ》
○楚人[そひと]の一炬[いつこ]に焦土[せうと]となんぬ咸陽[かんやう]宮共いつゝべし
 是ハ杜牧之[とぼくし]が作[つく]りたる阿房宮[あぼうきう]の賦[ふ]の詞[ことバ]なり。秦[しん]の始皇[しくハう]がおごりをきハめて花麗[くハれい]に立たる咸陽宮[かんやうきう]なれ共楚[そ]の項羽[こうう]が一戦[いつせん]にほろぼされ項羽[こうう]楚人[ひと]にやかせしかバさしもびゝしき宮殿[くうでん]共も一つの炬[たいまつ]にやきつくされて焦土[せうと]となりたると也。
○目擊一瞬[もくげきしつしゆん]
 目擊[もくげき]ハまたゝき也。一瞬[いつしゆん]ハ一たび目[め]をひらきて閉[とづ]る間[あいだ]をいふ。故にまちかく見るをももくげきすといふ。
○福寿海[ふくじゆかい]無量[むりやう]
 法花経[ほけけう]普門品[ふもんぼん]の語[ご]也。福[ふく]と寿[じゆ]との徳[とく]を得[う]る事海[うミ]の量[はかり]なきがごとしと也。
○鵲[かさゝぎ]のわたせる橋[はし]
 前にミへたり。
○くめの岩[いわ]はし
 大和[やまと]の国[くに]大峰山[おゝミねさん]をかづらきといふ。此所《17オ》にくめの岩[いわ]はしといふ名所[めいしよ]あり。
○泰山[たいさん]を挾[わきばさ]んで北海[ほくかい]をこゆる事[こと]ハあたハず
 是ハ孟子[もうし]が梁[りやう]の恵王[けいわう]へ教[をしへ]給ふ語[ご]なり。此心ハ魯国[ろこく]の泰山[たいさん]のやうなる山[やま]を脇[わき]の下[した]にはさミて、北海[きたうミ]のごとき大[おゝき]なる海[うミ]を飛[とび]こゆる事ハ何程したき事とねがひてもかなハぬ事也。君[きミ]の位[くらゐ]ある人が民[たミ]をおさめて王[わう]となる事ハ此類[たぐひ]にあらず。君[きミ]の心に為[せん]とさへ願[ねが]ひ給へハなる事なれ共君[きミ]の心にその事[わざ]を為[し]給はざるゆへなりとなり。
○御幸[ミゆき]
 天子[てんし]の御行[ミゆき]を御幸[ごかう]といふ。但[たゝし]行[ゆき]給ふ前〃[さき〳〵]にてたまものあるゆへ民[たミ]ミな幸[わいわい]とするのこゝろあるゆへなり。
○鴆毒[ちんどく]
 鴆[ちん]といふ鳥[とり]ハ甚[はなハ]だ毒[どく]あり。此鳥[とり]もし水[ミづ]に影[かげ]をうつせバ其所の鱗[うろくず]こと〴〵く死[し]すと言[いへ]り。是によつて唐[から]にてハ酒[さけ]又は食物[しよくもつ]に此毒[どく]を入レて毒餌[どくがい]するの術[じゆつ]あり。又井[い]の傍[そば]に桐[きり]を植[うへ]るも、桐[きり]ハ鳳凰[ほうわう]のすむ樹[き]にしてほうわうハ諸鳥[しよてう]の《17ウ》長[かしら]なる程に、この樹[き]を見てハもし鳳凰[ほうわう]や有べきと鴆鳥[ちんてう]も恐[をそ]れてよりつかざる時ハ水[ミづ]にその影[かげ]のうつる気[き]づかひなきがため也とかや。
 
◎評 右国性爺[こくせんや]合戦[がつせん]五段の趣向[しゆかう]外[ほか]にいゝぶんなし。只[たゞ]一つ老一官[らういつくハん]が甘輝[かんき]か城[しろ]へゆきし時、かんきが妻[つま]の金祥女[きんしやうぢよ]がやぐらのうへにて一官がすがた絵[ゑ]を月[つき]かげにうつしてよく見合[ミあハ]する所、理[り]のくらき書[かき]やう也。一官[いつくハん]ハ城外[じやうぐハい]にたゝずミ、きんしやう女[ぢよ]ハ櫓[やぐら]の上[うへ]に居[ゐ]、その間[あいだ]遠[とを]きゆへ鏡[かゞミ]にうつして引合[ひきあハ]すとの心、是ハ昼[ひる]ならバさも有べし。月[つき]ハもと日[ひ]の光[ひかり]をうけてひかるものなれバ夜[よ]にいり太陽[たいやう]地[ち]にしづミてハ月光[げつくハう]が本影[もとかげ]也。それに復[また]かゞミをうつしたりとて照[てら]すべき理[り]なし。是ハさだめて古人[こじん]の云[いへ]る書[しよ]をよむに雪[ゆき]をあつめ螢[ほたる]をあつめし格[かく]と思ハるべけれ共、それハ目[め]の前[まへ]にて目[め]にさし当[あて]てミるなるべし。それさへあるべき事ならず。いハんや数[す]十間[けん]をへだてゝその影[かげ]あきらかに鏡[かゞミ]にうつるべきや。何[なに]として直[ぢき]にハ見られぬぞ。此段[このだん]はなハだいぶかし〳〵。《18オ》
 《18ウ》
○刈萱桑門筑紫𨏍[かるかやだうしんつくしのいへづと]
 此浄[じやう]るり全体[ぜんたい]がかるかやの事を取組[とりくミ]たる故此外題[げだい]也。かるかやの事ハむかしより説経[せつけう]又ハぶんやの浄るり其外かぶきにも多[おゝ]く仕来[しきた]る事にて今さら語[かたる]にも及バず。次[つぎ]に此げだいの轢[いへづと]の字をいへづとゝ訓[くん]ずる事たしかなる出所[しゆつしよ]ありやおぼつかなし。惣じて外題[げだい]ハ三字[じ]五字[じ]七字[じ]等[とう]の奇[はん]の数[かず]をもちゆる事俗[ぞく]の胡婆[ごま]の業[がう]より出て、かならず字わりを偶[くう]にハせぬ事有ふれたる例[れい]なる故、字数[じがず]を奇[はしだ]にかなんへための無理訓[むりくん]と聞へたり。尤狂言綺語[けうげんきぎよ]とハいへど近比[ちかごろ]わかまゝなるよし評[へう]ずる人もすくなからず。いかさま文字[もんじ]の形[なり]を分[わけ]てミれバ、家[いへ]の土産[ミやげ]に栄[さかふる]ものを車[くるま]につミて帰[かへ]るの心を会意[くハいい]して此字[じ]を製[せい]しかくよませたるにや。此やうな事が格[かく]になりなバ金扁[かねへん]に遣[つかふ]といふ字[し]を大臣[だいじん]とよませ、紫帽子[むらさきほうし]を冠[かふり]《19オ》にして爺[おやぢ]といふ字[じ]を孌童[やらう]共よませるやうになりゆくべし。
 序
○大道[たいたう]すたれて仁義[じんぎ]おこり国家[こくか]ミだれて忠臣[ちうしん]をあらハす此語[このご]をもつてかんがミれバ道[ミち]にもまた誠[まこと]の本[もと]あり其まことのミなもとを尋[たづぬ]れバ恋慕[れんぼ]愛執[あいしふ]にしくハなしと豊芦原[とよあしハら]の陰神[めがミ]陽神[おがミ]さぐり給ひし天[あま]の逆鉾[さかほこ]
 この序[じよ]の詞木[き]に竹[たけ]をつぐとやら。前後[ぜんご]の語[ご]つゞきはなハだ不都合[つがふ]也。まつ大道[たいたう]すたれて仁義[じんぎ]あり国家[こくか]ミだれて忠臣[ちうしん]をあらハすとハ老子経[けう]に出て、老子[らうし]が道[ミち]とする所の虚無[きよぶ]自然[しぜん]の眼[まなこ]より聖人[せいじん]の仁義[じんぎ]忠孝[ちうかう]を打やふりたる詞也。この語[ご]をうけて道にも又誠[まこと]のもと《19ウ》ありとハ何事ぞや。しかも恋慕[れんぼ]愛執[あいしう]を道[ ち]のもとゝいふ事、いかに狂言[けうけん]なれバとて余[あま]りにつたなき書[かき]やうならずや。勿論[もちろん]男女[なんによ]のまじハりより父子[ふし]兄弟[けうだい]等[とう]と人倫[じんりん]のひろまる事ハ諸書[しよしよ]に多[おゝ]き事なれバ、その心をいハんとならバ聖書[せいしよ]にもあれ神書[しんしよ]にもあれ此所へ引[ひく]べき語[ご]幾等[いくら]もある事なるを、かくのごとく妄言[もうげん]を書[かき]ならべて一部[いちぶ]の発端[ほつたん]とする事作者[さくしや]の恥[はぢ]也。さて豊芦原[とよあしハら]は日本[にほん]の別名[べつめう]にて、伊弉諾[いざなぎ]伊弉冊[いざなミ]の二神[にじん]あまのさかほこをもつてさぐり給ひ此国[くに]がはしまりしといふ事ハ、子供[ことも]もしつたる事なれバくハしくしるすにおよバず。
○世〃[よ〳〵]のひつき
 祚[ひつき]の字[じ]にて天子[てんし]の御[ミ]くらゐをいふ。
○君子国[くんしこく]
 日本[にほん]の別名[べつめう]なり。日本ハ礼儀[れいぎ]たゞしき国なるゆへ称美[せうび]していふとなり。三才図会[さんさいづえ]にハ日本の外[ほか]に別[べつ]に君子国[くんしこく]といふ国あれ共、日本の事をくんしこくと称[せう]する事昔[むかし]よりふるき事なれバまつハ《20オ》日本の別名[べつめう]とすべし。
○踏歌[たうか]の節会[せちゑ]
 正月十六日に内裏[だいり]におこなハるゝ節会[せちえ]なり。
○とのゐもり
 だいりへ御番[ごバん]にあがりて守護[しゆご]するをいふ。
○いなにハあらぬいな船[ふね]
 古今[こきん]などに最上河[もがミがハ]によめる哥[うた]の詞[ことば]也。出羽[でハ]の国[くに]の名所[めいしよ]もがミ川[がハ]ハ川水[かハミづ]ことの外[ほか]はやくして舟[ふね]を引のほすにふねのかしらのふる態[すがた]が人の物[もの]を否[いな]といひてかぶりをふるに似[に]たる故かくいひかくると也。
○公卿[くぎやう]
 内大臣[ないだいじん]・右大臣[うだいじん]・左大臣[さだいじん]を三公[さんこう]といふ。又内大臣[ないだいじん]をのぞきて太政大臣[だいじやうだいじん]をくハへても三公[さんこう]といふ。その内[うち]にだいじやうだいじんハ常[つね]になき官[くハん]なれバまづハ内大臣と左右[さう]の大臣[だいじん]を三公といふ。さて三位[さんい]以上[いじやう]を卿[けう]といふ故に三公[さんこう]と三位[さんい]以上[いじやう]とを公卿[くげう]といふ也。
○比翼[ひよく]の友[とも]羽[は]がひ
 山海経[せんかいけう]にいハく、常晋山[しやうしんざん]に鳥[とり]ありて《20ウ》翼[つバさ]も一つ目[め]も一つゆへ二鳥[にてう]相[あい]ならびて飛[とぶ]その名[な]を鶼[けん]といふと。又爾雅[しが]にも南方[なんぼう]に鳥[とり]あり比[ならハ]ざれバ飛[とバ]ずといへり。皆[ミな]ひよくの鳥[とり]の事なり。
○香染[かうそめ]の袈裟[けさ]
 絳色[あかいろ]に染[そめ]たるけさをいふ。
○おどろの髪[かミ]
 荆[おとろ]ハいばらの事也。いバらのごとく乱[ミだれ]れたるかミといふ心也。
○叡感[えいかん]
 叡[えい]の字[じ]ハ深明[ふかくあきらか]也と注[ちう]して智[ち]の至[いたり]てふかき事也。書経[しよけう]にハ叡ハ聖[せい]をなす共いへり。されバ時の天子[てんし]をあがめて聖主[せいしゆ]などゝ申す故、天子[てんし]の事にハほめ奉[たてまつ]りて叡[えい]の字[じ]をつくる也。
○常陸帯[ひたちおび]
 ひたちの国[くに]かしま明神[めうしん]の祭[まつり]の日[ひ]、女[おんな]に思ひかけたる男[おとこ]のあまたあるを布[ぬの]のおびに其名[な]を書付[かきつけ]て神前[しんぜん]におけバ、其多[おゝ]き中にすべき男の名[な]書[かき]たるハおのづとひるがへるを祢宜[ねぎ]が取てとらすれバ、それを聞[きゝ]て男かこちて終[つい]にしたしくなるといへり。それゆへいもせの縁[えん]むすびの事に引ていふなり。《21オ》
○大悲[だいひ]のおちから
 大日経[たいにちけう]に大慈[だいし]大悲[だいひ]といへり。仏[ぶつ]菩薩[ぼさつ]の衆生[しゆじやう]をあハれむをいふ。
○念彼[ねび]の段[だん]
 観音経[くハんをんけう]の偈[げ]に念彼観音力[ねんひくハんをんりき]といふ事多[おゝ]く有。その所を俗[そく]にねびの段[だん]といふ。
○雲雷[うんらい]くせいでん
 念彼[ねひ]の段[だん]の文[もん]也。もし雲[くも]おこり雷[いかづち]なり電[いなびかり]はげしき時彼[かの]観音[くハんおん]の力[ちから]を念[ねん]ぜバ時に応[おう]じて消散[せうさん]する事を得[え]んとのこゝろ也。
○胎金両部[たいこんりやうぶ]の峯[ミね]
 真言家[しんごんけ]に仏体[ぶつたい]を陰陽[いんやう]にわかちて陽を金剛界[こんがうかい]とし陰[いん]を胎蔵界[たいざうかい]とし是を両部[りやうぶ]といふ。それより取て大峰[おゝミね]かづらきの山上[さんじやう]をたいこんりやうふのミねといふ也。
○幕下[ばつか]
 大将[たいしやう]の籏下[はたした]をばつかといふ。大将の陣所[ちんしよ]に幕[まく]を打たる其幕の下[した]といふ事也。されバ其手下[てした]につくをばつかにつくといふなり。
○大玄谷神[だいげんこくしん]の咒[しゆ]《21ウ》
 幻術[げんじゆつ]などをつかさどる神[かミ]にて其本尊[ほんそん]の咒[しゆ]なり。
○雲井[くもゐ]のかほり蘭奢[らんじや]の乗[のり]もの
 こゝのらんじやハ蘭麝[らんじや]なるべし。匂[ひほ]ふ乗物[のりもの]との心也。又蘭奢ハ南都[なんと]東大寺[とうだいし]にある奇楠[きやう]の名[な]也。むかしより東大寺に伝[つた]ハる宝物[ほうもつ]也。それにつき世俗[せぞく]のものがたりに寺を東大寺となづくる事此蘭奢待といふ奇楠ある故也。其故ハ蘭[らん]の字[じ]の中[なか]にて東[とう]の字[じ]を取[と]り、奢[じや]の字[じ]の上[かミ]にて大[だい]の字を取り、待[たい]の字の旁[つくり]にて寺の字を取て東大寺といふと也。此説[このせつ]久[ひさ]しく云[いゝ]つたふる事なれ共蘭[らん]の字[じ]の中[なか]ハ東[とう]にハあらず、柬[かん]の字[じ]なれハいぶかしき事也。さて此序[ついで]に伽羅[きやら]の事をも弁[へん]すべし。世俗[せぞく]に奇楠[きなん]を伽羅とよぶ事漢語[かんご]のやうに覚[おぼ]へたれ共伽羅ハもと梵語[ぼんご]也。漢語[かんご]になをすれバ黒[こく]といふ事也。仏法[ぶつほう]に大黒[だいこく]の真言[しんごん]を摩訶[まか]伽羅といふ。是すなハち漢[から]にてハ大黒といふ義也。翻訳名義集[ほんやくめうぎしう]に摩訶[まか]此[こゝ]にハ大といふ、伽羅《22オ》こゝにハ黒[こく]といふと云[いへ]り。然[しか]れバ漢[かん]にてハ黒といふべきをそのまゝ梵語[ぼんご]をもちひて伽羅[きやら]といふなるへし。さるによつて伽羅といふ字義[じぎ]を穿鑿[せんさく]してハ奇楠[きなん]の名[な]とする事其義[そのわけ]知レがたし。是に付て薰物[たきもの]の方[ほう]を黒方といふも伽羅[きやら]の方[ほう]也との意[い]なるべし。是等[これら]ハ世間[せけん]に多[おゝ]くしらざる事ゆへ序[ついで]ながら書付[かきつけ]ぬ。
○たそかれ
 黄昏[くハうこん]と書[か]く。暮方[くれかた]の事也。
○男山[おとこやま]のむかしを尋[たづぬ]るに豊前[ぶぜん]の国[くに]宇佐[うさ]の郡[こほり]より勧請[くハんじやう]
 男山[おとこやま]とハ八幡山[やハたやま]の事也。元来[くハんらい]ぶぜんの国[くに]うさのこほりひしかたの山[やま]に広幡[ひろハた]八ながれあらハれて八幡大神宮[はちまんだいじんぐう]とあをがれ給ふを、其のち神亀[じんき]四年[ねん]に今の山城[やましろ]のおとこ山にうつし勧請[くハんじやう]し奉[たてまつ]るとなり。
○餓死[がつし]
 餓[が]の字[じ]に餓[がつ]のかなを付ケて餓死[がつし]とかたるハ何[なに]故ぞや。大[おゝ]かたうへ死[しに]をがつしと覚[おぼへ]たるならん。鄙[いやし]〳〵。
○大行[たいかう]は細瑾[さいきん]をかへりミず
 戦国策[せんごくさく]に出たる語[ことハ]也。天下[てんか]などを取[とら]んとのぞむやうなる大事[おゝごと]をおこなふものハ瑣細[さゝい]なる事にハ目[め]をかけぬもの也とのこゝろなり。
○外面似菩薩[げめんにぼさつ]内心如夜刃[ないしんによやしや]
 阿含[あごん]に女人[によにんハ]地獄使[ぢごくのつかいにして]能断仏種[よくほとけのたねをたつ]外面似菩薩[げめんハぼさつににて]内心如夜刃[ないしんハやしやのごとし]といへるを截[きり]ていふ也。
○まよふが故[ゆへ]に三界[さんがい]の火宅[くハたく]
 仏法[ふつほう]のさとりの意[い]をのべて迷故[まよふがゆへに]三界城[さんがいじやう]悟故[さとるがゆへに]十方空[じつほうくう]、本来無東西[ほんらいとうざいなし]何処有南北[いづれのところにかなんぼくあらん]といふ偈[げ]あり。此心をふまへて書[かき]たる也。三界[さんがい]の事火宅[くハたく]の事ハ前[まへ]に注[ちう]せり。
○輪廻[りんゑ]のきづな
 恩愛[おんあい]にほださるゝものハ三界をはなるゝ事あたハず。車[くるま]の輪[わ]のめぐるごとくに生[むま]れかハり〳〵て三界の間[あいた]をうろたゆる。是をりんゑのきづなといふ也。《23オ》
○無明[むミやう]のさとり
 無明[むめう]ハ煩悩[ぼんのう]の事也。無明の暗[やミ]といふハあれ共無明のさとりとハめづらしき詞也。無明を悟[さとり]で破[やぶ]るのこゝろにて書[かき]たるにや。
○妻子[さいし]珍宝[ちんぼう]不隨者[ふずいしや]
 経[けう]に妻子[さいし]珍[めづらかの]宝[たから]及[および]王位[わうゐも]臨命終時[いのちをハるときにのそんてハ]不隨者[したがハざるもの也]といへるをきりて用[もちゆ]る也。
○愛別離苦[あいべつりく]
 前[まへ]に出たり。
 
◎評 此段[だん]の本妻[ほんさい]と妾[てかけ]とが碁盤[ごばん]の枕[まくら]のうへ二疋[ひき]の蛇[へび]の咬[くい]あふ趣向[しゆかう]ハ、もと藤沢[ふぢさハ]の一遍上人[いつへんしやうにん]の俗[ぞく]の時の事也。くハしく爰[こゝ]にしるすべき事なれ共北条九代記[ほうてうくだいき]にもあり、又ハ近年[きんねん]出たる小栗実記[をぐりじつき]といふ軍書[ぐんしよ]にも遊行[ゆげう]の由来[ゆらい]を書たる所にくハしくあり。作者[さくしや]大[おゝ]かた小栗の中より得[え]られたる思ひつきならん。
○富[とん]で奢[おご]らず貧[まづじふ]してむさぼらぬハ未[び]《23ウ》可[か]なり富貴[ふうき]にして礼[れい]をしり貧[まづしふ]してたのしめと弟子[ていし]にしめせし孔子[こうし]の詞[ことバ]
 此語[ご]ハ論語[ろんご]に出て、孔子[こうし]の弟子[でし]に子貢[しこう]といふ人問[とい]かけられしを孔子[こうし]のしめし給ふ詞也。其心は文面[もんめん]にてよく聞[きこ]えたり
○鏑矢[かぶらや]
 矢[や]じりに煉[ねり]ものゝ丸きを付たる矢也。
○一天[いつてん]の主[あるし]となる某[それがし]十二人[にん]迄[まて]女房[によぼう]持[もつ]てもくるしからず
 天子の妣[きさき]ハ十二人をさだめて一年[いちねん]の十二ケ月[つき]にかたどると白虎通[ひやくこつう]に出たり。日本[にほん]の天子[てんし]にも女官[によくハん]ハ典侍[すけ]四人[よにん]お下[しも]四人[にん]内侍[ないし]四人合[あハ]せて十二人あり。これを局[つぼね]といふ。俗[ぞく]多[おゝ]く取ちがへて十二の后[きさき]といふ。后[きさき]ハ天子の妻[つま]也。一人に限[かぎ]る。局[つぼね]ハ官[くハん]《24オ》女にて官[ミやづかへ]なり。
○もろこし臨潼[りんとう]の会[くハい]に善[せん]をもつて宝[たから]とすと伍子胥[ごししよ]がいひし
 りんとうハ秦[しん]の哀公[あいこう]天下[てんか]の諸侯[しよこう]を会[くハい]せられし所の名也。この会[くハい]闘宝[たからくらべ]の会[くハい]なりしが、楚[そ]にハいか成ル宝[たから]かあると問[とい]し時、伍子胥[ごししよ]こたへて我国[わがくに]にハ金銀殊玉[きん〴〵しゆぎよく]の宝をもつてハ宝とせず、惟[たゞ]善人[ぜんじん]をもつてたからとすと答[こたへ]たり。伍子胥[こししよ]この時楚の霊王[れいわう]にしたがひて臨潼[りんとう]にゆき此会[くハい]の明補[めいほ]たり。
○つひに妹背[いもせ]の道[ミち]しらず
 本朝[ほんてう]の神代[かミよ]に鶺鴒[せきれい]ありてその尾[を]をびくめかせるを伊弉諾[なぎ]いざなミの二神[にじん]見[ミ]給ひて是にならひて其腰[こし]をびくめかし給ふより婚婤[ミとのばくハへ]の道[ミち]ひろまり長[なが]くいもせの道をつたふ。されバせきれいを《24ウ》恋[こひ]おしへ鳥[とり]といふも此故事[こじ]也とかや。
○智仁勇[ちじんゆう]
 此三つ人道[じんたう]の大徳[たいとく]也。智[ち]ハちえ也。仁[じん]ハ天[てん]よりうけたる本性[ほんせい]の徳[とく]なり。勇[ゆう]ハすゝミていさミある也。人に此三つがそなハらねバ道徳[だうとく]にいたられぬ也。智[ち]ハたとへバ行[ゆく]所の道[ミち]すじを目[め]をもつて見わくるがごとし。仁[じん]ハたとへバ行[ゆく]べき道すじを足[あし]にてあゆむがごとし。勇[ゆう]ハたとへバ行へき所へゆき着[つく]へしといさミすゝむがごとし。故[かるがゆへ]に此三つを天下[てんか]の達徳[たつとく]共いふ也。
○もろこしにハ卞和[へんくわ]がたま我朝[わがてう]の驪龍[りりやう]のたま
 荆[けい]の国[くに]にへんくわといふ人あり。山より璞[あらたま]を堀得[ほりえ]て是を荆王[けいわう]に奉る。荆王かのあらたまを玉尹[きういん]といふ目利[めきゝ]に相[ミ]せしめ給ふに是石[いし]なりといふ。荆王へんくわが上[かミ]をあざむくと怒[いかり]て左[ひだり]の足[あし]を刖[きう]せらる。其のち荆王死[し]し給ひその子[こ]武王[ふわう]くらゐにつき給ひしかバへんくわ《25オ》ふたゝび是を献[けん]ず。玉尹[きういん]又見[ミ]て石也といふ故、武王[ぶわう]もいかりて右[ミき]の足[あし]をきらせらる。其後武王[ぶわう]死[し]し給ひて共王[けうわう]くらゐにつき給ふ時、へんくわは荆山[けいざん]に引こもりかのあらたまをかゝへて哭[なき]ゐたるを荆王めし出し給ひかのあらたまをミがゝせ給へバ至極[しごく]の名玉[めいぎよく]にて有しと也。ざて驪龍[りりやう]のたまといふも唐[から]の事也。こゝに我朝[わがてう]といひしハ心得[こゝろえ]ず。是も又めつぽうに書[かき]たるものなるべし。
○張華[ちやうくわ]が博物志[はくぶつし]
 はくぶつしハ書物[しよもつ]の名[な]にてちやうくわといふ人の作[さく]なるゆへちやうくわがはくぶつしといふ也。
○万劫[まんがう]
 劫[かう]ハ数[かず]の名[な]也。仏書[ぶつしよ]におほくいふ事にて一劫[いつかう]といふもはなハだ久[ひさ]しき事也。四十里[り]四方[よほう]の岩[いわ]あるを天人[てんにん]が三千年[さんせんねん]に一度[いちど]づゝあまくだりて羽衣[はごろも]にて一遍[いつへん]づゝなづるになでつくしたるを一劫[いつかう]といふ共いひ、又四十里[り]四方[よほう]の藏[くら]に粟[あハ]のミのりたるを三千年に一度づゝ天人[てんにん]がきたりて一粒[いちりう]づゝ是を取[とる]に其取[とり]つくしたる時を一劫[いつかう]といふ共いへり。《25ウ》
 
 女之助[をんなのすけ]の趣向[しゆかう]尤おもしろしとハいへ共、仕組[しぐミ]のすじ入くまぬ故か一つ〳〵さきがミへて気[き]の毒[どく]。それゆへ素人目[しろとめ]にハ感[かん]ずれ共推[すい]ハのミこまぬ所多[おゝ]し。さて守宮[いもり]の事俗説[ぞくせつ]にいひふらす事なれ共慥[たしか]なる拠[よりどころ]を見ざりしか、先年[せんねん]長崎[ながさき]の人にちなミて煕〃子[きゝし]といふ南京人[なんきんじん]の伝授[でんしゆ]の書[しよ]也といふをミるに、薬方[やくほう]も多[おゝ]くのせたる中[なか]に女[おんな]のほれる薬[くすり]とて此事を書[かけ]り。その方[ほう]守宮[いもり]の雌[め]と雄[を]とを取[と]り生[いき]ながら竹[たけ]の筒[つゝ]へ入レ、但[たゞ]し竹の筒[つゝ]に節[ふし]を一つこめ雌[め]と雄[お]とを節[ふし]をへだてゝ入レおけバ、一夜[いちや]のうちにかのふしを咬[くい]やぶりて二疋[にひき]がつるむを直[すぐ]に霜[くろやき]となし、是を煉[ね]る汁[しる]にハ好尼[かほよきあま]の自漏婬[じろういん]とて妍[ミめ]のよき尼[あま]の男[おとこ]にまじハらずしておのづともらしたる婬水[いんすい]を取てとゝのへ、ほれさせんと思ふ人にしらせずして是をつくれバ、其人たちまち心ほれ〴〵として其つけたる人を恋[こひ]したふといへり。今按[あん]するに唐人[たうじん]ハ日本[にほん]より偽[いつハ]りおほきものにてかゝる得[え]しれもなき事をいひたるならん。しかも尼[あま]の自漏淫[じろういん]《28オ》といふごとき取得[とりえ]られぬものを薬味[やくミ]にくハへたるハ嘘[うそ]のはげざる前置[まへをき]なるべし。
○それを力[ちから]のしのぶ草[ぐさ]
 しのぶ草[ぐさ]は哥[うた]に多[おゝ]くよミて忍[しの]ぶ事にいひかくる也。人家[じんか]の軒[のき]につるしのぶといふくさなり。
○爰[こゝ]ハやもめのかたを波[なミ]
 惣[そう]じて波にハめなミおなミありて、女波[めなミ]ハ多[おゝ]く打[うち]てその間[あいだ]におなミがうつものなるに、紀州[きしう]和哥[わか]の浦[うら]ハめなミハうたずして男波[おなミ]のミうつゆへかたをなミといふ也。山辺[やまべ]の赤人[あかひと]の哥[うた]に、わかのうらにしほミちくれバかたをなミあしべをさして田靏[たづ]なきわたる。
○婬犯[いんぽん]の病[やまひ]
 犯[ほん]の字[じ]誤[あやま]り也。婬奔[いんぽん]と書[かく]べし。婬乱[いんらん]といふに同[をな]じ。
○ひなの者[もの]
 鄙[ひな]ハいなかの事也。
○屠処[としよ]のあゆミ
 譬如屠所羊[たとへバとしよのひつじのごとし]歩〃近死[ぼゞしにちかし]といふ語[ご]ありて羊[ひつじ]が屠[はがれ]にゆく時ハ一足[ひとあし]づゝにて死[し]に近[ちか]しとなり。《8ウ》
○陰徳[いんとく]あれバ陽報[やうほう]あり
 陰[いん]ハかげにて陽[やう]ハはひなたの事也。人の目[め]にかゝらぬ陰[かげ]にての徳[とく]を陰徳[いんとく]といふ。又人の目[め]にミへたる報[むくい]のあるを陽報[やうほう]といふ。陰[かげ]にて徳[とく]をつむ人ハかならず目[め]にミへたる善報[よきむくひ]を得[う]ると也。楚[そ]の叔敖[しゆくがう]といふ人いとけなき時出[いで]てあそひ両頭[りやうとう]の蛇[へび]を見る。たちまち殺[ころ]して是をうづミ帰[かへり]て泣[なく]。母[はゝ]そのゆへを問[と]ふに答[こたへ]て云[いハ]く、我きく両頭[りやうとう]のへびを見るものハかならず死[し]すと。さきにこれをミるゆへ母[はゝ]をすてゝ死[し]せん事をおそるといへり。母[はゝ]のいハく蛇[へび]今いづくにか有ル。いハく他人[たにん]の又見ん事をおそれて殺[ころ]してこれをうづむと。母[はゝ]のいハく、我きく陰徳[いんとく]ある者[もの]ハ天[てん]かならずむくふに福[さいハい]をもつてすと。汝[なんぢ]かならず死[し]せじといへり。果[はた]して無事[ぶじ]に成長[せいちやう]し後[のち]に相[しやう]となりしとかや。
○浮木[うきき]の亀[かめ]の対面[たいめん]
 仏書[ぶつしよ]に多[おゝ]くある事也。盲亀[もうき]とて目[め]の盲[しい]たる亀[かめ]大海[だいかい]の底[そこ]にありて千年[せんねん]に一度[ひとたび]海上[かいしやう]《9オ》へうかミ出[い]づ。しかるに此かめ甲[かう]ハひゆれ共腹[はら]はなハだ熱[ねつ]す。もし赤旃檀[しやくせんだん]といふ木[き]をえて其身[ミ]に添[そふ]れバ熱[ねつ]をさます薬[くすり]となる。それ故亀[かめ]の心に赤[しやく]せんだんの浮木[うきき]に乗[のり]て腹[はら]をひやし甲[かう]を日[ひ]にほしてあたゝめバやと思へ共、目[め]ハミへずあまつさへ千年[せんねん]にたゞ一度[いちど]うかミ、又しやくせんだんが浮[うき]てながるゝに出あふ事甚[はなハ]だまれ成ル事なれバあふ事の希[まれ]なるたとへとハするなり。
○奇恩入無為[きおんにうむい]
 奇[き]の字[じ]あやまり也。棄恩入無為[きをんにうむい]とて出家[しゆつけ]する人ハ恩愛[をんあい]を棄[すて]て無為[むい]の菩提[ぼだい]に入ルとの心也。しかるを奇[き]の字[じ]にてハ通[つう]ぜず。今の作者[さくしや]の義[わけ]もしらず書[かき]ちらすめつぽうかいこれらの所にて見るべし。
○今此三界悉是吾子[こんしさんがいしつぜごし]
 法華経[ほけけう]の文[もん]にて今この三界[さんがい]の衆生[しゆじやう]ハミなこれわが子[こ]也との意[い]也。
 
◎評 高野山[かうやさん]の案内[あんない]、作者[さくしや]ハしられぬにや、文句[もんく]に間違[まちがい]あり。はじめ石動丸[いしどうまる]《9ウ》が登[のぼ]リし坂[さか]ハ不動坂[ふどうさか]よりのほりたり。それ故苅萱[かるかや]の詞に、来[き]た道すしハ難所[なんじよ]にて草臥足[くたびれあし]にハかなふまじ、こちらへゆけバ花坂[はなさか]とて平地[ひらぢ]も同然[どうせん]といへり。さて次[つぎ]の文句[もんく]に息[いき]をはかりに玉[たま]やの与次[よじ]ミだい所をおい奉り女人堂[によにんだう]迄来[きた]りしがと有て、又其次[つぎ]の文句[もんく]に石動丸[いしどうまる]ハかちはだしかくとミるよりはしりつきノウ情[なさけ]ない母[はゝ]様といへり。是大キなる間[ま]ちがい也。其故ハ大師[だいし]の廟[べう]の前[まへ]より花坂の方[ほう]へゆけバ大門といふ門[もん]有て女人堂[によにんだう]ハなし。但[たゞ]し女人[によにん]ハ大門より内へハ入ル事かなハぬ也。右[ミき]の通[とを]りゆへ花坂へゆけバ女人堂へハ行あはず。花坂と女人堂とハ大[おゝき]に方角[ほうがく]たがふ也。いかさま近年[きんねん]の作[さく]にハふぎんミなる事すくなからず。ちか比[ごろ]ある人の物[もの]がたりに、今の浄[じやう]るりハ東西[とうざい]となくたハいもなき事がちなるを似[に]つこらしく語[かたり]なして見物[けんぶつ]をまねかるゝハ、いかさま日本一人[につほんいちにん]の名太夫[めいたゆふ]なるべしといひしも思ひ合[あハ]すれバ過論[くハろん]ならず。その一理[いちり]ハある事なるべし。《10オ》

『浄瑠璃文句評注 難波みやけ 下』《表紙》
 
浄瑠璃評注[じやうるりへうちう]巻之[けんの]五
 
○蘆屋道満大内鑑[あしやのだうまんおゝうちかゞミ]
 此じやうるりミな蘆屋のだうまんが事を主意[しゆい]にして書たる故蘆屋道[やだう]満の四字[じ]を置[をく]也。あし屋ハ氏[うじ]なり。道満[だうまん]ハ名[な]也。大内[おゝうち]ハ内裏[だいり]の事也。鑑[かゞミ]とハ唐[たう]の代[よ]の詞[ことば]に、古[いにしへ]をもつて鑑とすれバ興替[こうたい]を知り、人[ひと]をもつて鑑とすれバ得失[とくしつ]を知[し]るといふ事貞観政要[でうぐハんせいよう]といふ書[しよ]にミへたり。それよりして物をかんがへミるを鑑と名付[なづく]る事多[おゝ]し。是もかんがへミるの心にて大内鑑[おゝうちかゞミ]と外題[げだい]す。此浄[じやう]るりげだい評判[へうばん]ハすぐれざりしが、与勘平[よかんべい]といふ名趣向[めいしゆかう]よりして浄るりハ近年[きんねん]の大あたり世上[せじやう]にかくれなき事也。《2オ》
 序
○風[かぜ]にさけぶ青嶂[せいしやう]の外[ほか]雨[あめ]にうそむく古林[こりん]の中[うち]
 青嶂[せいしやう]ハ松柏[せうはく]などの生[はへ]しげりて青[あを]〳〵としたる峯[ミね]也。屏風[へうぶ]を立[たて]たるごときを嶂といふ。狐[きつね]が風[かぜ]にむかひて吼[ほく]さけぶ体[てい]をかくいふ也。嘯[うそふく]といふも雨[あめ]にむかひて打[うち]あをのき息[いき]をつく体[てい]也。古林[こりん]ハふるき林[はやし]の物[もの]さびしき所也。是ミなきつねのあそぶありさま也。
○尖[とが]れる■[はな]はびこる尾[お]小前[せうぜん]大後[だいご]
 これ狐のかたちを詠[えい]ず。小前[せうぜん]大後[だいご]とハ狐の形[かたち]ハ前[まへ]の方[ほう]小[ほそ]く後[うしろ]の方大[ふとり]たるもの也といふ事なり。
○色[いろ]中和[ちうくわ]をかね死[し]すれバ丘[をか]を首[かしら]とす
 是ハきつねの徳[とく]を詠[えい]じたり。狐の色の黄[き]なるが中和[ちうくわ]の徳にかたとる。中和といふハ徳の至極[しごく]にて、天気[てんき]にていへバ寒[さむ]からず暑[あつ]からず春[はる]の日[ひ]ののどかなるが《2ウ》ごときを中和[ちうくわ]といひ、人の気[き]にていへバ聖人[せいじん]の気象[きしやう]の剛[つよ]からず柔[よハ]からずほどよきを中和といふ。されバ五色[ごしき]を方角[ほうがく]に配当[はいたう]すれバ、青[あをき]ハ東[ひがし]にあたり赤[あかき]ハ南[ミなミ]にあたり白[しろき]ハ西[にし]黒[くろき]ハ北[きた]にあたりて黄[き]なるが中央[ちうわう]にあたるゆへ是を中和[ちうくわ]の色[いろ]とする也。さて狐ハ死[し]する時丘[をか]をまくらとする事礼記[らいき]にミへたり。狐ハ丘にて生[むま]るゝもの故死[し]する時又丘を首[かしら]として死[し]するハ本[もと]をわすれざるの心也。これミな狐の徳[とく]なり。
○是[これ]この妙獣[めうじう]百歳[ひやくさい]誰[たれ]かしらん女[おんな]と化[け]し苔[こけ]の褥[しとね]に草[くさ]まくら契[ちぎ]りを人[ひと]におなじうす
 こゝにハ狐の妖[ばけ]る事をいふ。妙[めう]ハふしぎなるをいふ。字彙[じい]に狐ハよく尾[お]をうつて火[ひ]を出[いた]すと云り。仏法[ぶつほう]にハ狐のよく妖[ばけ]るを報徳[ほうとく]の通[つう]と名[な]づく。事文類聚[じもんるいじゆ]といふ書[しよ]の中[うち]に百歳[ひやくさい]を経[へ]し狐名[な]ある人の髑髏[しやれかうべ]をかしらに《3オ》いたゞき北斗[ほくと]を拝[はい]するに落[おち]ざる時ハ淫婦[いんふ]とばけて人をまよハすと云[いへ]り。されバ狐がばかせバ苔[こけ]をしとねと思ひ草[くさ]を枕[まくら]として真[まこと]の美女[びぢよ]と思ひて人にちぎりをおなじうすとなり。
○日月星度[じつげつせいと]
 日[ひ]や月や星[ほし]やなどのあゆミの度[のり]を度[と]といふ。惣[そう]じて天にハ形[かたち]なき故、二十八宿[しゆく]の星[ほし]を東西南北[とうざいなんぼく]の四方[しほう]へまくハりて是を天[てん]の体[たい]とさだめ、月日[つきひ]や星[ほし]のあゆミをさだむ。故[かるがゆへ]に日月星度[じつげつせいと]といふ。
○比翼連理[ひよくれんり]
 比翼鳥[ひよくてう]とて雌[め]雄[を]つばさを比[ならべ]てとぶ鳥ゆへいもせの中[なか]むつましきにたとふ。連理[れんり]ハ前[まへ]にミへたり。唐[たう]の玄宗皇帝[げんそうくハうてい]楊貴妣[やうきひ]を愛[あい]しある時ちかひて天[てん]に在[あり]てハひよくの鳥[とり]となり地[ち]にありてハ連理[れんり]の枝[えだ]とならんとの給ひしとかや。
○気候[きこう]
 天地[てんち]の気[き]を一歳[いつさい]に廿四気七十二候[こう]にわかつ。即[すなハ]ち春夏秋冬[しゆんかしうとう]の気のめくるをいふ。
○月かげの《3ウ》白虹[はくこう]日つらぬけハ甚[はなハ]だひかりを失[うしな]へば
 むかし荆軻[けいか]が秦[しん]の始皇[しくハう]をうちに行[ゆき]たる時、白虹[はくこう]が日[ひ]をつらぬきし例[ためし]あり。すべて虹[にし]が日月[しつけつ]をつらぬくハ不吉[ふきつ]のしるしなり。
○日蝕[につしよく]月蝕[ぐハつしよく]
 蝕ハむしバむとよミて日月[じつけつ]がひかりを失[うしな]ふ事也。もと日[ひ]と月[つき]とがたがひに光[ひかり]を衝[つき]て蝕[しよく]する也。日蝕[につしよく]ハ君[きミ]よハきの象[しやう]、月[くハつ]触ハ臣[しん]よハきの象[しやう]也といへり。
○身[ミ]まかり
 罷[まかり]と書てしりぞく事也。死[し]する人ハこの世[よ]をしりぞくの心ゆへ死[し]するをミまかるといふなり。
○天文[てんもん]の博士[はかせ]
 日[ひ]の月[つき]の星[ほし]のといふものハ天[てん]の文[あや]ゆへ天文[もん]といふ。博士[はかせ]ハ官[くハん]の名[な]にて其道[ミち]を博[ひろ]くきハめたる学士[がくし]といふ事也。
○薄氷[はくへう]をふむごとく
 恐[おそ]るゝ体[てい]をいふ也。詩経[しけう]に戦〃[せん〳〵]《4オ》兢〃[けう〳〵]として薄氷[はくへう]をふむがごとしといふ語[ご]に本[もと]づきて書たるなり。
○胸[むね]ハうつせの
 おそるれバむねがだく〳〵とうつやうなる故胸[むね]ハうつといひかけてすぐに空蝉[うつせミ]へ取付て、心がうつゝぬけがらのやうになりたるをたとへいふ。ミな御前[ごぜん]をおそるゝ体[てい]なり。
○おめず
 おめるハ臆[をく]の字[じ]也。人に恥[はぢ]る所ありておそるゝきミなり。
○分野[ぶんや]
 唐[から]の九州[きうしう]の地[ち]を天[てん]の廿八宿[しゆく]に割付[わりつけ]て何州[なにしう]ハ何の星[ほし]のぶんや也とさだむる事也。
○白虹[はくこう]日[ひ]をつらぬけバ天子[てんし]のお身[ミ]のたゝりなれ共月[つき]の体[たい]をつらぬきしハ親王[しんわう]さま
 日[ひ]は君[きミ]の象[しやう]、月[つき]ハ大臣[だいじん]の象なり。又月[つき]ハ日[ひ]に次[つぐ]ものなれバ儲貳[ちよじ]の象あり。ちよじハすなハち親王[しんわう]なり。《4ウ》
○二十八宿[しゆく]
 東方の七宿[しゆく]ハ角[かく]・亢[くう]・氏[てい]・房[ぼう]・心[しん]・尾[び]・箕[き]なり。北方[ほくほう]の七宿ハ斗[と]・牛[ぎう]・女[ぢよ]・虚[きよ]・危[き]・室[しつ]・壁[へき]なり。西方[さいほう]の七宿ハ奎[けい]・婁[ろう]・胃[い]・昴[ぼう]・畢[ひつ]・觜[し]・参[しん]なり。南方[なんぼう]の七宿ハ井[せい]・鬼[き]・柳[りう]・星[せい]・張[てう]・翼[よく]・軫[しん]なり。かくのごとく四方におの〳〵七宿あるを四方合せて二十八宿にて是を天[てん]の体[たい]とする也。
○しなとの風[かぜ]の天[あま]の八重[やへ]雲[くも]を吹[ふき]はらふやうに
 神書[しんしよ]にある事也。たゞ雲[くも]を天[あま]の八重[やへ]雲[くも]といふ。八ハ神道[しんたう]にたつとぶ数[かず]ゆへ別[べつ]して八重[やへ]といふ。しなとの風[かぜ]ハ神風[かミかせ]なり。
○聞[きゝ]でんほふ
 聞伝法[きゝてんほう]なり。耳[ミヽ]に聞[きゝ]たるばかりのおしへといふ事なり。
○易[ゑき]ハ変易[へんゑき]
 易[ゑき]ハ陰陽[いんやう]のうつりかハる妙用[めうよう]をいふ。故に易[ゑき]の書[しよ]に易[ゑき]ハへんゑき也、時にしたがつてへんゑきして道[ミち]に随[したが]ふといへり。《5オ》
○大元尊神[たいげんそんじん]
 大元帥明王[たいげんすいめうわう]とて惣身[そうミ]に蛇[へび]のまとひ付たる本尊[ほんぞん]也。いくさをまもり給ふゆヘ大元帥[たいげんすい]といふなり。
○和哥三神[わかさんじん]
 住吉[すミよし]・玉津島[たまつしま]・人丸[ひとまろ]をいふ。
○そこにお暇[いとま]たまハらばミづからも身[ミ]をすべり
 そこハ足下[そこ]なり。今の俗[ぞく]の貴樣[きさま]といふ程の事を雅[たゞしき]語にハ足下[そこ]といふなり。
○丸[まろ]が心[こゝろ]にあり
 丸といふ事を天子[てんし]の自称[しせう]と心得[こゝろう]るハあやまり也。是ハ上[かミ]を恐[をそ]れて我身[わかミ]をよぶ詞なれハ親王[しんわう]以下[いげ]臣下[しんか]の自称[じせう]に用[もち]ゆべし。其故ハ元来[ぐハんらい]まるハちゞまるといふ略語[りやくご]なり。君[きミ]をおそれて此身[このミ]がちゞまるとなり。都[すべ]て和語[わご]にまるといふ詞の付[つく]ハミな物が一所[ひとゝころ]へあつまりちゞまるの義[ぎ]也。これ和訓[わくん]の一つの秘事[ひじ]なれ共こゝに明[あか]す。まづまるといふてにはの付語[つくご]《5ウ》共を案[あん]ずべし。あつまる・ちゝまる・わだかまる・こまる・つゞまる・つまる・せまる等[とう]ミなちゞまるの意[い]あり。されバ子供[こども]の大小便[だいせうべん]を取[と]る小厠[をかわ]をまるといふも腰[こし]がかゞまり身[ミ]がちゞまるの意[こゝろ]也。朝臣[てうしん]にもいにしへハ麿[まろ]と名[な]を付たる人多[おゝ]し。後世[こうせい]にハ麿[まろ]を転[てん]じて丸[まる]の字[じ]をもちゆと見えたり。
○無状[あぢきなし]
 無為[あぢきなし]共書て埒[らち]もなき事をいふ。
○おぼろけ
 小縁[おぼろけ]と書[かき]てすこしのゆかりといふ事なり。
○久[ひさ]かたの空[そら]
 ひさかたハ空[そら]といハんとてのまくら詞[ことバ]なり。
○うちはへて
 打栄[ちはへて]と書[かく]。にぎハふ体[てい]也。又ミごとなるきミ也。
○簠簋内典[ほきないてん]
 阿部[あべ]の晴明[せいめい]が作[つく]りし暦数[れきすう]をしるしたる書[しよ]なり。
○注連縄[しめなわ]
 神前[しんぜん]にはる縄[なわ]なり。惣[そう]じて神事[じんじ]の清[きよ]めにもちゆ。紀貫之[きのつらゆき]が土佐日記[とさにつき]にハしりくめ縄[なわ]とあり。諸社根元記[しよしやこんげんきに]云[いハく]、《6オ》いわとのまへに縄[なわ]をはりて日[ひ]の神[かミ]の還[かへ]り入り給ハぬやうにする也。是今のしめなわ是也。わらを左[ひだり]にない七五三と数[かず]をわくるハ七五三ハ合[あハせ]て十五也。天道[てんたう]ハ十五にして成[なる]なり。ひだり縄[なわ]にするハ天道[てんたう]の左旋[させん]に取[と]る。左[ひだり]ハ陽[やう]也。陽にハ陰[いん]が添[そふ]もの也。縄[なわ]の二筋[ふたすじ]まとふハ是すなハち陰陽[いんやう]也。はしをたゝざるハ質素[しつそ]の義[ぎ]なりと云〳〵。
○非相非々相[ひさうひゝさう]
 ミな三十三天[てん]の中の天の名[な]也。
○大ト師[たいぼくし]
 占[うらなひ]の官[くハん]をいふ。周礼[しゆらい]に大ト[たいぼく]の官[くハん]といふハ天子[てんし]のうらかたをつかさどる官[くハん]也。
○暦算[れきさん]推歩[すいほ]の術[しゆつ]
 暦[こよミ]をつくる算[さん]をれきざんといふ。日[ひ]月[つき]星[ほし]の歩[あゆミ]を推量[をしはかり]てつもり知[し]るを推歩[すいほ]の術[じゆつ]といふ也。
○吒枳尼[だぎに]
 天部[てんぶ]の本尊[ほんぞん]なり。
○咒咀[しゆそ]の文[もん]
 まじなひにて人をのらふ文[もん]なり。
○三百六十四爻[こう]の占[うらなひ]《6ウ》
 易[えき]の卦[くわ]ハ六十四卦[くわ]にて爻[こう]ハ三百八十四爻[こう]あり。今こゝに六十四爻[こう]といへるハ六十四卦[くわ]の数[かず]を取ちがへていひたるもの也。作者[さくしや]の文盲[もんもう]なる尾[お]の出る所もつともかやうなる所に於[をいて]てミつべし。
○坤[こん]の卦[け]乾[けん]の卦[け]
 坤[こん]も乾[けん]も共に八卦[はつけ]の中の一つなり。
○ふかミ草[ぐさ]
 牡丹[ぼたん]の事なり。
○塵[ちり]にまじハる宮柱[ミやばしら]和光[わくハう]の影[かげ]もあきらけき
 神[かミ]の威光[いくハう]のひかりをやハらげて塵[ちり]の世[よ]にまじハり給ふといふ事を和光同塵[わくハうどうぢん]といふ也。此語[こ]ハもと老子経[らうしけう]に出たり。
○鴻[こう]飛[とん]で冥〃[めい〳〵]弋者[よくしや]なんぞしたハんや
 感遇[かんぐう]の題[だい]にて唐[たう]の張九齢[ちやうきうれい]が作りたる古風[こふう]の詩[し]也。鴻[こう]の大鳥[おゝとり]がめい〳〵たるおほぞらへ飛[とび]あがりとび去[さり]たる時ハ弋[ゆミ]いる《7オ》ものも取[とら]んとしたふ事あたハずとの意[い]なり。
○蟻[あり]の穴[あな]から堤[つゝミ]のくづれ
 老子経[らうしけう]にある事也。蟻[あり]の穴[あな]を老子経[らうしけう]にてハ蟻封[ぎほう]となづけたり。
○恋[こひ]ぞつもりて淵[ふち]となる
 陽成院[やうぜいいん]の御製[ぎよせい]に、 つくバねのミねよりおつるミなのがわこひぞつもりてふちとなりぬる。
○詩経[しけう]といふ唐[もろこし]のふミに桃[もゝ]の夭〃[よう〳〵]たる其葉[そのは]蓁〃[しん〳〵]この子[こ]こゝにとつぐ
 詩経[しけう]周南[しうなん]にある詩[し]也。是ハ詩人[しじん]が嫁[よめり]する女[むすめ]を見[ミ]て桃[もゝ]の若木[わかき]の夭〃[わか〳〵]としてその葉[は]の蓁〃[さかん]なるにたとへ美[ほめ]ていふたる詞也。とつぐハ嫁[よめり]をいふ。
○優曇花[うどんげ]
 天竺[てんぢく]に在[あり]て三千年[ねん]に一[ひと]たひ花[はな]さくといふ木[き]なり。《7ウ》
○亀ト[きぼく]
 亀[かめ]の甲を焼[やき]て其甲のやけわれたるすじを見て吉凶[きつけう]をうらなふをいふ。
○身体髮膚[しんたいはつふ]をわけられし父[ちゝ]
 孝経[こうけう]にしんたいはつふハ是を父母にうけたりといふ。孔子[こうし]の語[ことバ]あり。
○伍子胥[ごししよ]ハいさめて誅[ちう]せられ眼[まなこ]軍門[ぐんもん]にかけられしが呉王[ごわう]の恥辱[ちぢよく]を見[ミ]て笑[わら]ひしとや
 是ハ呉越[ごえつ]の戦[たゝか]ひの節[せつ]の事也。呉王[こわう]を夫差[ふさ]といひ越王[えつわう]を勾践[こうせん]といふ。両方[りやうほう]相たゝかひて越王[えつわう]勾践[こうせん]会稽山[くハいけいざん]にて打まけ、さま〴〵の艱難[かんなん]に身をこらし今一度[いちど]籏[はた]をあげ呉王[ごわう]をほろぼさん事を心がけたり。此時呉王[ごわう]ハはなハだ奢[おごり]をきハめられしかバ其臣[しん]伍子胥[ごししよ]これをいさめ斯[かく]てハ又越王[えつわう]にほろぼされ給ハん事をいふ。呉王[ごわう]い《8オ》かつてごししよに属縷[しよくる]の釼[けん]をあたへ是にてなんぢが首[くび]を刎[はね]よとわたさる。伍子胥[ごししよ]も大にいかり今呉王[ごわう]知[ち]なくして我[われ]を殺[ころ]し給ふ、此後[このゝち]久しからずして越王[えつわう]のためにほろぼされ給ふべし。我いま死[し]したらバ首[くび]を東門[とうもん]にかけ置[をく]べし。我呉[ご]のほろぶるを見んといひて自殺[じさつ]しぬ。其のち果[はた]して越[えつ]にせめられほろび給ふ時[とき]ごししよが眼[まなこ]に是を見て笑[わら]ひ其まゝしほれけると也。
○随求陀羅尼[ずいぐたらに]
 大[だい]ずいぐぼさつのだらに也。都[すべ]てだらにハミな梵語[ぼんご]にてぼんじ也。
○露[つゆ]ときえゆくたまよばひ
 いにしへ人の死[し]したる時、その死人[しにん]の衣服[きるもの]を屋根[やね]の上[うへ]へ持[もち]のぼりてその名[な]をよび、かへり給へ〳〵と三度よぶをたまよバひといふ。すなはち復[たまよバひ]と書[かく]なり。
○離魂病[りこんびやう]
 俗[ぞく]にいふかげのやまひにて異病論[いびやうろん]・病名彙解[びやうめいいかい]などに出たり。
○はづかしや《8ウ》あさましや
 此かゝりより奧[おく]へむけて葛[くず]の葉[は]が子[こ]に別[わか]れの口上[こうじやう]、おほく百合若大臣[わかだいじん]野守鑑[のもりのかゞミ]の鷹[たか]が子[こ]にいふせりふをはめたるものなり。もとよりゆり若[わか]のせりふハ近松の筆[ふで]ゆへ一入[ひとしほ]しつほりとして人の感情[かんじやう]をもよふす事多[おゝ]し。此場[ば]ミな〳〵其移[うつり]ゆへおもしろき筈[はず]なるべし。
○畜生[ちくしやう]残害[ざんがい]の人間[にんげん]よりハ百倍[ひやくばい]ぞや
 ざんがいとハ物[もの]のいのちをそこなふ事也。こゝの文句[もんく]残害[ざんがい]といふと百倍[ひやくバい]といふと文句[もんく]がつりあハず。百倍といふハ畜生[ちくしやう]ハ人間[にんげん]より愚痴[ぐち]なるゆへ愛着[あいぢやく]の念[ねん]のふかき事百倍ぞやといふ事也。されバ仏法[ぶつほう]に畜生[ちくしやう]の子[こ]を思ふ事人にまさるを愚痴鄙陋[ぐちひろう]とハの給へり。残害[ざんがい]ハこゝへ出あハず。
○道行
 注[ちう]なし。
○葛[くづ]の葉[は]の恨[うらミ]
 くずの葉[は]といふものハ風[かぜ]にふかれてハ其葉[は]のうらをかへしてこと〴〵くうらを見するもの故哥道[かだう]に恨[うらミ]《9オ》のまくら詞にハくずのはのうらミといふなり。
○卅一字[じ]の哥[うた]の詞[ことば]ハ八雲[くも]たつ
 素盞雄尊[そさのをのミこと]の御哥[うた]に、 八雲たついつもやえかきつまこめにやえがきつくるそのやえかきを 是三十一字の始[はじめ]なりとかや。
○丹波[たんば]の父[てゝ]うち栗[ぐり]
 此事世上[せじやう]に大に取あやまりて伝[つた]ふるハ、むかし此里人[さとびと]に不孝[かう]のもの有て我[わが]父[てゝ]を殺[ころ]して地[ち]にうづミたり。その墓[つか]より栗[くり]の樹[き]はへて常[つね]の栗[くり]よりも其子[そのミ]大[おゝ]き也。今の丹波[たんば]の名物[めいぶつ]てゝうちぐり是也と。是跡方[あとかた]もなき説[せつ]なり。此栗[くり]ハいがの内[うち]よりひとり割出[われいで]て樹[き]よりおのづと地[ち]に落[おつ]るがこの粟[くり]の妙[めう]也。それゆへ古人[こじん]出落栗[でゞをちぐり]と名付[なつけ]しとかや。それを後世[こうせい]ハミぎのごとくに取あやまるとなん。
○司天台[してんだい]
 天文[てんもん]をうかがう台[うてな]なり。禁中[きんちう]にあり。《9ウ》
 
◎評 此浄[しやう]るり始終[しじう]の趣向[しゆかう]文句[もんく]共おほやう面白[おもしろ]くよく出来たるものとハいへ共又格別[かくべつ]に外[ほか]の浄[じやう]るりにすぐれたり共ミへず。然[しか]るにかくべつの当[あた]り有し事ハ与勘平[よかんべい]のたすけなるべし。まづ与勘平といふ名[な]ばかりでも一当[ひとあた]りがものハ有べし。其上に我[われ]がおれかおれが我[われ]かのせりふおかしうて尤で底[そこ]に意味[いミ]のふかきやうにおもハるゝ事也。但[たゞ]し荘子[さうじ]に此趣[おもむき]あり。荘周[さうしう]ある時夢[ゆめ]のうちに小蝶[こてう]と化[け]して翔[かけ]りまハりてたのしミしが、たちまち夢[ゆめ]さめたれバ我身[わがミ]をミるに床[ゆか]に打ふして本[もと]の荘周[さうしう]なり。さて荘周ハ世上[せじやう]を虚[うつと]なるものと見捨[ミすつ]る見識[けんしき]ゆへ、今日[こんにち]のゆめのさめたるも亦[また]ゆめのごとしと思へり。それゆへ此夢[ゆめ]の事を論[ろん]じていハはく、今ゆめのさめたる我心より思ひやれバ今迄ゆめの内に小蝶[こてう]となりしハ荘周[さうしう]がゆめなるべし。然[しか]れ共打返[かへ]して思ふてミれバ、今我[わが]ゆめさめて荘周[さうしう]といふ人に成[なり]たるが小蝶が夢[ゆめ]にて、今我身[わがミ]を荘周[さうしう]也とおもふハ却[かへつ]て小蝶[こてう]がゆめの内やらしれ《10オ》ず。夢[ゆめ]が現[うつゝ]かうつゝが夢か、荘周[さうしう]が小蝶[こてう]か小てうが荘周[さうしう]か其差別[しやべつ]知[し]れがたしと云[いへ]り。仏法[ぶつほう]にも此意[い]ありて維摩[ゆいま]と文殊[もんじゆ]舎利弗[しやりほつ]なんと心体[しんたい]の入かハる事あり。入我[にうか]我入[がにう]といふも此きミ也。然れハ此しゆこうハその心の来[きた]る所の根[ね]ざしがはなハだ高妙[かうめう]也。しかれど見た所がやつことやつこの所作[しよさ]、町中[まちぢう]子供[こども]のうれしがる所葛[くず]の葉[は]がせりふハ女中[ちよちう]の感心[かんしん]あさからず。何やかや都合[つがう]よく出来[でき]立[たち]たる故の評判[へうばん]なるべし。《10ウ》
 
○大塔宮曦鎧[おゝたうのミやあさひのよろい]
 此浄[じやう]るりハ後醍醐天王[ごたいごのてんわう]太子[たいし]さだめの事につき、関東[くハんとう]ならひに六[ろく]はらの我まゝをいきどほらせ給ひ大塔宮[おゝたうのミや]をもつて将軍[しやうぐん]とし征罰[せいはつ]の企[くハたて]をなし給ふ事、大樣[おゝやう]太平記[たいへいき]の意[い]を本[もと]にしてつゞりたるもの也。中にもおゝとうのミや御鎧[よろい]をめされたる行粧[けうさう]あさひのかゝやくごときとの文句[もんく]あるをもつて外題[げだい]を直[すぐ]にあさひのよろひと名付[なづく]るなり。尤[もつとも]よきげだいとの評判[へうばん]なり。
 序
○舜[しゆん]に錐[きり]を立[たつ]るの地[ち]なけれ共天下[てんか]をたもち禹[う]に十戸[じつこ]の聚[じゆ]なけれ共諸侯[しよこう]に王[わう]たり《11オ》上[かミ]三光[さんくハう]の明[めい]をおほハず下[しも]百姓[はくせい]の心[こゝろ]をやぶらざるハ王者[わうしや]の術[じゆつ]
 この語[ご]文選[もんせん]に出たり。いにしへ舜[しゆん]といふ聖人[せいじん]ハそのはじめハ百姓[ひやくせう]の子[こ]にてわづかの土地[とち]もたもち給ハざりしか共後[のち]にハ天下[てんか]をたもち給ふ。錐[きり]をたつるの地とハ至[いたり]てわつかなる地[ち]をいふ。禹[う]といふ聖人[せいじん]ももとハ尭舜[げうしゆん]の臣[しん]にして其はじめハ民[たミ]のかまと十軒[じつけん]もたもち給ハず。十戸[じつこ]ハ家数[いへかず]十軒[じつけん]にていたつて少[せう]〳〵也。聚[じゆ]ハ落聚[らくじゆ]とて民のあつまり住居[すまゐ]する村[むら]をいふ。禹[う]ハ十軒ほどある村[むら]の主[ぬし]にてもあらざりしかども後[のち]にハ天下[てんか]の諸侯[しよこう]の上[かミ]に立て天下[てんか]の王[わう]となり給ふ。されハかく舜[しゆん]や禹[う]のごとくに後[のち]にてんかを取給ふ事ハ其身[ミ]の徳[とく]、上[かミ]日[ひ]月[つき]星[ほし]の三光[さんくハう]のあきらかなる徳[とく]をおほハず、下[しも]ハ百姓[ひやくせい]の心をやふり給ハざるを《11ウ》心として天下に王[わう]たるの術[しゆつ]とし給ふ故也となり。
○参差[しんし]たる
 かたたがひとよミて、世[よ]の済[とゝのほ]らずさま〴〵の出入[ていり]のあるをいふ。
○山[やま]の座主[ざす]
 山[やま]といふものハ何[いつれ]のやまにもおの〳〵名[な]あり。或[あるい]ハ愛宕山[あたごやま]・鳴瀧山[なるたきやま]などゝ皆その名[な]をよふ事なるに、只[たゞ]打まかせて山と斗りよべバひえの山にかぎる也。是但[たゝ]し叡山[えいさん]は王城[わうじやう]の鬼門[きもん]をまもり仏法[ぶつほう]王法[わうほう]を鎭護[ちんこ]ある第一[だいいち]の山なるゆへなり。
○扈従[こせう]
 君[きミ]の供[とも]をするをこせうといふ。
○赤酸醬[あかかゞち]
 鬼灯[ほうつき]の事也。日本紀[にほんぎ]に出たり。
○折伏門[しやくぶくもん]
 仏法[ふつほう]に摂取門[せつしゆもん]・折伏門[しやくふくもん]のニつあり。衆生[しゆしやう]をあハれミてすくひとるをせつしゆもんといひ、悪魔[あくま]外道[げだう]をおどしてくつ伏[ふく]さするをしやくぶくもんといふなり。《12オ》
○解脱[けだつ]どうさう
 罪[つミ]を解まぬかるゝをげだつといふ。衣[ころも]ハつミをげだつするゆへげだつとうさうといふ。
○若宮[わかミや]ハおもなげに
 おもなげハ面目[めんぼく]なき体[てい]なり。
○一言事[いちげんこと]をやぶり一人[いちにん]さだむ国津風[くにつかぜ]
 文句[もんく]ハよく聞[きこ]へたるとをり也。此語[ご]ハ大学[たいかく]の書[しよ]に見えたり。
○鐘馗[しやうき]の絵[ゑ]
 しやうきハもと終南山[しうなんざん]の人なり。唐[たう]の太宗[たいそう]の時進士[しんし]及第[きふだい]し出世[しゆつせ]をくぢかれいきどをりを発[をこし]て御殿[ごてん]の階[はし]にて頭[かうべ]を打わり死しけるが、其後玄宗皇帝[げんそうくハうてい]の御宇[ぎよう]楊貴妣[やうきひ]わづらひの時、ミかどの夢に大臣[だいしん]の姿[すがた]となり悪鬼[あくき]を追[おい]はらふと御らんあり。終[つい]に悪鬼[あくき]ごうふくの神[かミ]として其像[ざう]を絵[ゑ]にうつさせ鍾馗大臣[しやうきたいしん]とあがめさせ給ふ。それよりして後[のち]の世迄大和[やまと]もろこし相伝[あひつたへ]て此像[ざう]をあが《12ウ》め悪魔[あくま]及び疫癘[えきれい]をはらふのまもりとする事也。
○酒[さけ]は詩[し]をつり哥[うた]をつり
 唐詩[たうし]に酒[さけ]を掃愁箒[うれいをはらふはゝき]といひ又ハ釣詩鈎[しをつるはり]なりといへり。
○僭[ひところ]び
 礼[れい]をのりこゆるをひとごろぶといふ。
○釈提桓因[しやくだいくハんいん]
 梵天王[ぼんでんわう]の名なり。
 
◎評 無礼講[ぶれいかう]まんざい等[とう]の文句[もんく]ミなあたり有。その中に無礼[ぶれい]もぶれいぬれえんさき立はたかりしとの文[もんく]句あまりのやうなれ共これ下[しも]の句[く]の受[うけ]がよき故耳[ミヽ]にたゝず。立はたかりしハの跡[あと]右少弁[うせうべん]俊基[としもと]といふものにて格別[かくべつ]いやしからす。是又気[き]をつけあぢハふべき事なるべし。
○臣[しん]として不忠[ふちう]なるハ子[こ]として不孝[ふかう]なるにおなじと田氏[でんし]が母[はゝ]の確言[かくげん]
 この語[ご]円機活法[えんぎくハつほう]忠臣[ちうしん]の所にミへたり。確言[かくげん]とハ名言[めいげん]の事也。《13オ》
○北[きた]の方[かた]より家[いへ]の挑灯[てうちん]さきバしりのかちの者[もの]お帰[かへ]りとよバゝる声[こへ]に門番[もんばん]とび出貫[くハん]の木扉[きとびら]ぐハつたりひつしり八もんじにひらく地[ち]に鼻[はな]手燭[てしよく]かゝげて扈従[こせう]近習[きんじゆ]敷台[しきだい]におりめ高[たか]なる玄関[げんくハん]前[まへ]月[つき]にきらめく鑓印[やりじるし]父[ちゝ]斎藤[さいとう]太郞左衛門利行[としゆき]お帰[かへ]りかいのと乗[のり]物に取つけバ
 文句[もんく]は注[ちう]におよバす。
 
◎評 此所太郎左衛門やしきの表[おもて]へ早崎[はやさき]がきかゝる所へ斎藤[さいとう]帰[かへ]り合せ、門番[んばん]が門[もん]をひらけバこしやう近習[きんじゆ]出むかへ、はやさきハ斉藤へあいさつをせんとする。何[なに]やかや《13ウ》一時[いつとき]に取まぜたる事の多[おゝ]き場[ば]なるを、文句[もんく]を綷[くり]て小[こ]ミじかによく書こなしたるもの也。貫[くハん]の木[き]とびらぐハつたりひつしり八もんじにひらく地[ち]にはな手[て]しよくさゝげてこしやうきんじゆ敷[しき]だいにおりめたかなる玄関前[げんくハんまへ]の句[く]、ずいぶん〳〵つゞめたる内[うち]に其場[ば]のもやうをよくかたどりたるもの也。まづ爰[こゝ]の語[ご]を一つづゝ引はなしてハきこえぬ事多[おゝ]し。第一[だいいち]ひらく地[ち]に鼻[はな]とハ何ンの事ぞや。しかれ共あとさきの書[かき]まハしが奇妙[きめう]なるゆへおのづと其わけよく聞[きこ]ゆ。此本[ほん]をよむ人これらの所にて作者[さくしや]のはたらきのある所を気[き]をつけ給ふべし。此次[つぎ]に早崎[はやさき]がせりふも小[こ]りこうに書[かき]たるもの也。その故ハ夫[おつと]に隠[かく]して参[まい]りしといハずして、もしも夫[おつと]よりかず殿[との]ハミへまいかといひアヽ心せかれやといふゆへ、聞[きく]親[おや]ハなを心ならず子細[しさい]ハしらねど立ながらのさたでハあるまじ、いざまづ奥[をく]へとつれゆくやりかた、人形[にんげう]を活[いか]してせりふがしづまぬ書方[かきかた]也。是より奥[をく]に至[いた]り早崎[はやさき]が斎藤[さいとう]へものがたりの所、斎藤が返答[へんたう]、よりかずが立ぎゝ、ミな〳〵都合[つかう]よく勝手[かつて]《14オ》ばやにいやといハれぬ書[かき]こなし尤[もつとも]妙作[めうさく]なるべし。
○三十年来[ねんらい]夢[ゆめ]空〃[くう〳〵]しゆミせんくだけて盤石[ばんじやく]に花[はな]ひらく一喝[いつかつ]
 辞世[じせい]の偈[け]をつゞりたる也。よりかずが年[とし]卅歳[さい]あまりゆへ一生[いつしやう]の間[あいだ]を夢[ゆめ]とさとりて卅年来夢[ゆめ]空〃[くう〳〵]といふ也。空〃[くう〳〵]ハ本来[ほんらい]空[くう]の意[い]にて元来[ぐハんらい]我[われ]といふ物[もの]なしと也。しゆミせんハくだくべき物[もの]にあらず。ばんじやくハ花[はな]さくべき物にあらざれ共、真理[しんり]をさとり得[え]たる時ハしゆミも常[つね]あるものにあらず。盤石[ばんじやく]も一仏性[いちぶつしやう]なれバ又さとりの花[はな]をひらくべし。一喝[いつかつ]とハ我[わ]が一念[いちねん]悟入[ごにう]の眼[まなこ]をひらかんため心をよびおこして喝[かつ]とさけぶ也。ミな禅宗[ぜんしう]のさとりの意[い]也。
○哀別離苦[あいべつりく]
 人間[にんけん]八苦[はつく]の一つ也。いとしかハいひ親子[おやこ]ふうふも死[しに]わかれてかなしミくるしむをいふ。《14ウ》
○周[しう]の八疋[はちひき]項羽[こうう]が騅[すい]呂布[りよふ]が石兎馬[せきとめ]我朝[わかてう]の鬼鹿毛[おにかげ]
 周[しう]の穆王[ほくわう]八疋[はちひき]の龍馬[りうめ]にのりて天下をかけめくり給ふ。騅[すい]ハ楚[そ]の項羽[こうう]が名馬[めいば]、せきとめハ漢[かん]のりよふがめいバ也。我朝[わがてう]にてハ小栗判官[をぐりはんぐハん]の名馬[めいば]をおにかけといふ。
○辟易[へうゑき]
 おどろきさハぐをいふ。
○弥天[ミてん]の暴逆[ぼうぎやく]
 天[てん]にはびこるを弥天[ミてん]といふ。
○那羅延力[ならえんりき]
 仏書[ふつしよ]におゝく出たり。ならえんハ今いふ力士[りきし]なり。
○都[ミやびやか]なる女[おんな]あり車[くるま]を同[おな]じうす顏[かんバせ]蕣[あさがほ]の花[はな]のごとしとうたふ
 是ハ詩経[しけう]の鄭風[ていふう]有女同車[ゆうぢよどうしや]の篇[へん]の語[ご]也。蕣[あさがほ]ハ今いふ槿[むくげ]の花[はな]也。《15オ》其顔[かほ]のうつくしきもくげのはなのごとしと美女[びじよ]を詠[えい]ぜし詩[し]也。三位[さんい]の局[つぼね]にかけていふ。扨今の俗[ぞく]のあさがほといふハ牽牛花[けんぎうくわ]也。なる程草[くさ]にてハ牽牛花[けんぎうくわ]をあさがほと訓[くん]ずべし。木[き]にてハ槿[むくげ]をあさがほと訓[くん]ず。詩[し]などにいふハおゝく槿[むぐけ]の事也。詩経[しけう]の注[ちう]にも蕣[しゆん]は槿[きん]也といへり。
○鄭衛[ていえい]の二風[じふう]道[ミち]を蕩[とらか]し国[くに]をそこなふの淫声[いんせい]
 詩経[しけう]国風[こくふう]の内にて鄭[てい]の国[くに]衛[えい]の国[くに]の詩[し]ハ其うたひ声[ごへ]たハれて淫声[いんせい]と名付[なづけ]て人の心をとらかす故聖人[せいじん]是をいましめ給ふ。
○気焰[きえん]鷹[たか]のごとくにあがり
 書経[しよけう]に周公[しうこう]の勇気[ゆうき]をほめたる詞なり。其ゆうきのいきほひ鷹[たか]のはげしくあかるかごとしとなり。
○根笹[ねさゝ]のあられに水晶[すいしやう]《15ウ》の玉[たま]をかざり上[うへ]にハ鳶[とび]が羽[は]をのし鯉[こい]をつかむつくり物[もの]恋[こひ]に心[こゝろ]ハとびたつばかり根[ね]ざゝにあられさハらバ落[おち]よの心[こゝろ]をさとり
 こゝの燈籠[とうろう]のもやうづくしの文句[もんく]。五十年[ねん]もいせんのはやり哥[うた]をすぐに書たるもの也。されバ時代[じだい]がうつれバ古物[ふるもの]があたらしく今のわかき輩[ともがら]にこれをふる言[こと]と知[し]る人なし。
○ひきがいるに哥[うた]よミも有[あら]ふ事[こと]とぞさゝやきける
 此まへの文句[もんく]を段〃[たん〳〵]よミて此落文句[をちもんく]をミるべし。これらが正真[しやうじん]の近松[ちかまつ]の筆勢[ひつせい]なり。かハづの哥[うた]をふまへて太郎左衛門がふつゝかなるをひきがへると《16オ》いひたり。諸見物[しよけんぶつ]のどよミをつくつてよろこぶ所おかしミ又かくべつ也。是につき近松かよのつね人に語[かたり]しハ、をよそ落文句[をちもんく]に笑[わら]ひを取[とる]事又ハかる口[くち]なんどを書[かく]にハ、すこしもあんじたるけしきなく其場[そのば]へふと出[で]たるやうに書がひミつ也。しかれ共是が下手[へた]のなりにくき事也とかや。尤[もつとも]さも有べし。近松の筆勢[ひつせい]にハ思ひがけもない所で時[とき]〴〵ひよかすかおかしミある故、本[ほん]をよミてもよむ人の気[き]をつかさす。是近代[きんたい]作者[さくしや]の大[おゝい]に及[およ]ハぬ所なるべし。
○乾達婆王[けんだつばわう]
 法華経[ほけけう]にあり。夜刃[やしや]などのごとくあらくれたる姿[すがた]なり。
○もしほぐさ
 何やかや書[かき]あつめたるをいふ。
○らうたげに
 此語[ご]のもとハ御所[ごしよ]に上﨟[しやうらう]下[げ]らうありて、官位[くハんい]をおほく経給ふを﨟長[らうたけ]たりと申すゆへ下[した]〴〵のいふ長[おとなし]やかのきミあり。又爰[こゝ]でハ宮[ミや]の御ンものおもひにて気[き]をつかし給ふ体[てい]にもかけていふ也。《16ウ》
 
◎評 三の奧[おく]のかゝり、八歳[さい]のミやの御うたの前後[ぜんこ]、文章[ぶんしやう]うづだかくさながら下[した]におかれぬ手段[しゆだん]あり。亦[また]近松が筆勢[ひつせい]也。中々余[よ]の作者のおよふ口気[こうき]にあらず。今の浄[じやう]るりハかやうの場[ば]になりて格[かく]かがつたりと落[をち]て正真[しやうじん]のよミうりの絵[え]ざうしと肩[かた]をならぶ。能[よく]〳〵気[き]をつけて何[なに]かを見[ミ]くらべたらんハおのづからあじハひしるべし。
○充満[じうまん]其願[ごぐハん]如清凉池[によしやうれうち]
 その願[ねがひ]を充満[ミた]しめて清浄池[しやう〴〵ち]のごとくならんとの文言[もんごん]にて、奈落[ならく]の底[そこ]の罪人[さいにん]も七月十六日にハちごくのほのほをのがれ出すゞしき池[いけ]にあそぶ心地[こゝち]とて、すなハち盂蘭盆経[うらんぼんけう]の説[せつ]なり。
○漢[かん]の紀信[きじん]が忠義[ちうぎ]にこへ
 きしんハ漢[かん]の臣[しん]にて、かんそのたゝかひに高祖[かうそ]のあやふかりし時きしん身[ミ]がハりとなり、かうそのしやうぞくにて車[くるま]にのり楚の陣[ぢん]にゆき《17オ》て焼死[やけし]したり。是によつて高祖ハあやふき場[ば]をのがれ給へり。此事史記[しき]・前漢書[ぜんかんしよ]に出たり。
○九品蓮台[くほんれんたい]
 極楽[ごくらく]に九品[くほん]あり。上品上生[じやうぼんじやうしやう]・上品中生[じやうぼんちうしやう]・上品下生[じやうぼんげしやう]・中品上生[ちうぼんじやうしやう]・中品中生[ちうぼんちうしやう]・中品下生[ちうぼんげしやう]・下品上生[けほんじやう〳〵]・下品中生[げぼんちうしやう]・下品下生[げぼんげしやう]合[あハ]せて九品[くほん]也。其うてなをれんだいといふ。
 
◎評 斎藤[さいとう]が賢介[けんかい]を立[たて]ぬきたる所尤[もつとも]ぬけめなし。はじめよりかず切腹[せつふく]の上[うへ]にて力若[りきわか]を斎藤がもり立んといひし所にすでに此こゝろあれ共もとより見物[けんぶつ]に思ひがけなし。扨この場[ば]にいたり斎藤が始終[ししう]の心をかたるについて最初[さいしよ]よりのいきかたをあんすれバ、斎藤ハしゞう武士道[ぶしたう]を立ぬきたる所あきらか也。我ハ六はらのひくハんゆへ我身におゐてハ少しも天王[てんわう]への荷担[かたん]なく、頼員[よりかず]力若[りきわか]ハ天王[てんわう]へのたのまれし義[ぎ]を立させ始終[しじう]てんわうの御ためにいのちを果[はた]し、しかも力若がさいごによつてよりかずがむた死[じに]迄忠死[ちうし]と《17ウ》なる。ミな是さいとうが一心[いつしん]よりあミ立し武道[ぶだう]、尤[もつとも]さも有べし。をよそ三段[だん]め一段[いちだん]丸[まる]ぐち外[ほか]の筆勢[ひつせい]ならず。ミな近松の形見[かたミ]なるべし。されバこそ趣向[しゆかう]より文句[もんく]にすこしもぬけめなく、おどりの中の愁[うれい]なんどまハらぬ筆[ふで]にハおよびもなき事共なるべし。
○道行
 注[ちう]なし
四段目
○北宮黝[ほくきうゆう]が勢[いきほ]ひをひらき孟施舍[もうししや]が義[ぎ]をまもる
 ほくきうゆうハいにしへの勇者[ゆうしや]にてすゝんで敵[てき]にむかふ事をこのむ。もうしゝやもいにしへのゆうしやにて我身をしりぞかず敵[てき]に屈[くつ]せざる事をこのむ。ミないにしへの名[な]あるゆうしや共にて此事孟子[もうじ]に出たり。
○分段[ぶんだん]同居[どうご]の塵[ちり]にまじハり
 仏法[ぶつほう]に四土[しと]といふ事有て世界[せかい]を四つにわかつ。其中《18オ》に貴賎[きせん]ひとしく居[い]る地をどうごどゝいふ。すなハちどうごどハ刹利[せつり]もしゆだもわかちなく貴賎[きせん]貧富[ひんふ]のしやべつなし。娑婆[しやば]ハぶんだんどゝて上下[じやうげ]きせんのぶんざいがそれ〳〵にへだゝりて貧福[ひんふく]のわかちあり。されバ仏[ぶつ]ぼさつハ同居土[とうごど]より出てしやば分段土[ぶんだんと]のちりにまじハり給ふとなり。
○薄伽梵[ぼきやぼん]
 仏[ほとけ]をぼきやぼんといふ。すなハち仏の十号[じうがう]のひとつ也。
 
◎評四段目殿[の]のひやうえが潔癖[きれいずきのやまひ]にて狂気[けうき]の段[だん]よめむすめのいきぢ万端[ばんたん]始終[しじう]おもしろし。しゆかう文句[もんく]共に大[おゝ]でき。尤はんなりとして道具立[だうぐだて]迄見物[けんぶつ]の気[き]を取よく出来[でき]たりとの評判[へうばん]にて有しとぞ。
○日[ひ]西天[さいてん]に沒[ぼつ]する事三百七十余ケ日[よかにち]大凶[だいけう]変[へん]じて一元[いちげん]に帰[き]す
 天王寺[てんわうし]にて楠[くすのき]が見たる聖徳太子[せうとくたいし]のミらいきの語[ご]なり。《18ウ》
○もろこし管仲[くハんちう]が古主[こしゆ]をすて桓公[くハんこう]をたすけし
 斉[せい]のくハんちうハはじめ斉[せい]の公子糾[こうしきう]が傅[めのと]なり。斉[せい]の君[きミ]死[し]し給ひて糾[きう]の弟[をとゝ]くハん公[こう]斉[せい]の君[きミ]とならんとす。この故に兄[あに]の公子糾[こうしきう]と桓公[くハんこう]とたがひに国[くに]をあらそひて軍[いくさ]におよび終[つい]に公子糾[こうしきう]うたれて桓公[くハんこう]の世[よ]となれり。はじめこうしきうが戦場[せんぢやう]にて、くハんちうハ主人[しゆじん]こうしきうがためにくハんこうを射[い]てころさんと迄せしか共、後[のち]にくハんこうの世[よ]になりてくハんちうがいのちをたすけ斉[せい]のまつりごとをさづけ給ひけれバ、くハんちうすなハちくハんこうの宰相[さいしやう]となり斉[せい]の国[くに]をよくおさめたり。此事春秋左氏伝[しゆんじうさしでん]につまびらかなり。
 
浄瑠璃評註終巻五《19オ》
 
元文三年
  午正月本出来
         丹波屋半兵衛
浪華書肆            寿梓
         伊丹屋茂兵衛
一 後篇近日出し申候 御望み旁御覧被成可被下候以上《19ウ》