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【 石割松太郎 片手人形の余蘖 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
片手人形の余蘖-文楽に残る人形源流の痕跡-
石割松太郎
日本民俗 8 pp.1-4 1936.2.1
今日の「三人遣ひ」の人形遺ひ方について
私が屡々問題にする「片手人形」に就いて、
私は更らに自ら疑問を提出して、改めて「片
手人形」と「三人遣ひ」との關係を説いてみ
たい。そしてその「片手人形」のひこばえが
今日の文楽座にも多分に残つてゐる事につい
て、その道の研究者に、注意を喚起したい。
○
私は、昭和六年十月の雑誌「芸術殿」にお
いて、「人形三人遣ひの源流」と題して、山
本飛騨椽の「片手人形」を説明し、この「片
手人形」から「三人遣ひ」が生れたものだと
説いた。そして「片手人形」「手妻人形」を
更らに闡明すべく、雑誌「旅と伝説」に於て
「碁盤人形」に就いて記すところがあつた。
ー右の二誌の私の所見を参照されたいー
ところで、「片手」から「三人遣ひ」に至る
変遷の説明として、人形の各方面に創造の多
かった人形遣ひの巨擘初代吉田文三郎が、初
舞台の様を記したる「倒冠雑誌」の記事に
「国性爺後日合戦に錦しやの出つかひ片手
にてのはれわざ年若けれ共……云々」
を引用して、この錦しやの人形を「片手人
形」と断じ、山本飛騨から吉田三郎兵衛へ、
そして三郎兵衛から、その子吉田文三郎へ、
「片手人形」が伝へられて、遂に享保十九年
十月、竹本座の「芦屋道満大内鑑」の与勘平
で、三人遣ひが、始めて発生したと、私は説
いたのであるが、--実は私、内心でもこの
「倒冠雑誌」の謂ふ「片手にてのはれわざ」
に落着を欠いてゐたのである。即ち「片手に
てのはれわざ」は人形遣ひ文三郎の片手で、
人形の片手でない事いふまでもない。こゝに
疑問がある。この錦しやの文三郎の人形は、
やっぱり辰松八郎兵衛風の突込遣ひの人形で
飛騨風の片手人形ではなかつたといふ方が、
当然ではあるまいか。文三郎のは、突込遣ひ
で、人形の裳より両手を突込んで遣ふ様式で
あつた。その両手を突込む様式を片手で遣つ
たからの「片手にてのはれわざ」と解するの
が正しいのぢやないか?
「片手人形」の「片手」は画証で見ると人
形の片手でもあるらしく、又近松が「重井
筒」の文句だと「包む袂の飛騨椽ふたつ遣ひ
の手妻にも」と人形遣ひの片手でもある如く
で、こゝにも疑問が存する。
--と、私は私の前説を自ら訂正し疑問に
したい。が、然し「三人遣ひ」の源流は「片
手人形」で、こゝから発達したといふ私の主
張には変りがない。
即ち
「三人遣ひ」の発生するまでには、いろい
ろな人形の遣ひ方と人形の櫟式があつた。ソ
ノ中でも、主なるものは、辰松八郎兵衛を代
表とする「突込遣ひ」山本飛騨椽を代表とす
る「片手人形」の二つが、各人各自に、遣ひ
手の得意とする所によつて遣はれ、舞
台には混用されてゐた場合もあつた。
これは元禄宝永頃の絵入細字本の「愛
染明王影向松」の挿画が証明してゐ
る。そして初めは、人形舞台の第一の
勾欄が高かつたから突込遣ひばかりで
あつたのが、勾欄のひくまるにつれ
て、「片手人形」の一様式が生れた。
そして「片手人形」又の名を「手づま
人形」といつた。この人形は機巧人形
から派生した人形の一様式で、機巧人
形から派生させたのは山本飛騨椽らし
い。そして飛騨の人形を「手妻人形」
「片手人形」とも称へた。
そして、「片手人形」或は「手妻人
形」と呼ばるゝ-様式の人形が、座敷
浄るりなどに遣はるゝ場合「碁盤人
形」とも呼ばれたらしい。
それは挿入の「碁盤人形」の画証
(第一図)が、これを証明してゐる。
この「碁盤人形」の画は、元禄十六年
刊行の西沢与志作「風流今平家」の挿
画で、この「碁盤人形し」の遣ひ方の様式は、
全く「片手人形」「手妻人形」のそれと異る
ところがない。唯舞台でなく、碁盤を人形の
台にしてゐるといふだけだ。即ち片手人形を
携帯して先方で遣ふ場合、種も仕掛もないと
いふ意味で碁盤を用ひたのであらうか。
即ち
「片手人形」とは、人形の裳より両手を突
込んで遣ふ形式の「突込遣ひ」でなく、人形
の背後より左の片手を人形の胴へさし込み、
右手では人形の右手を遣つた一つの形式であ
る事は、私が「芸術殿」で発表した所蔵の元
禄十四年刊行の「役者評判記」の所載が、明
確な一つの文証だと、私は確信してゐる。そ
して「手妻人形」も「碁盤人形」も「片手人
形」と同物異名にすぎない。
言葉を換へると--
元禄宝永頃の人形遣ひ方に「突込」と「片
手しの二つの様式があり、竹本座は主として
或は純然たる突込遣ひを襲用して来たらし
い。辰松八郎兵衛を盟主として。然るに豊竹
座は、初め辰松八郎兵衛と提携したが、間も
なく八郎兵衛が竹本座へ復帰したから、自然
機巧系統の手妻人形が、主となつてゐたので
はあるまいか。恰も彼の加賀椽の流れを汲む
宇治派が機巧系統即ち手妻人形に傾き、片手
人形が主で、若干の突込遺ひを併用してゐた
らしいのと同じではあるまいか。
それは挿入の竹本座の享保十八年(三人遣
ひ発生の前年)の七月十五日の番付(第二図)
で判る。即ち吉田文三郎、三浦新三郎がこの
番付では突込遣ひの出遣ひを画示してゐる。
然るに豊竹座の享保十一年四月の「北条時頼
記」の出遣ひを「操年代記」に示せる挿画によ
ると、純然たる片手人形の出遣ひばかりであ
り、機巧人形振の手法である事明瞭だ。これ
らによつて考察するに、竹本座は「突込」、豊
竹座は「片手」といふのが本来ではあるまい
か。乏しき文献や画証でかう断ずるのは早計
のやうだが、もう一つ、享保十九年十月の竹
本座の「芦屋道満大内鑑」にしてからが、与
勘平--即ち三人遣ひを始めて工夫したとい
ふ与勘平の遣ひ手は、豊竹座から竹本座へ転
じた人形遣ひ近本九八郎で、近本九八郎こそ
この北条時頼記で最明寺の人
形を片手人形で遣つてゐる人
形遣ひであること「操年代記」
の出遣ひの挿画の小画が証明
してゐる。
按ふに「浄るり譜」で、三
人遣ひの最初の人形遣ひの名
を逸してゐるが、与勘平であ
る事は、確かである。而して
与勘平は近本九八郎が遣つて
ゐるのだから、三人遣ひの創
造の栄誉は豊竹派の人形系に
帰すべきであらうと思ふ。さ
れば、遡って吉田文三郎の
「片手にてのはれわざ」は
「片手人形」とは、別の様式
で、三人遣ひの源流には、何
の関係もないと考察する方が
真に近くはないか(?)
○
ところで、前掲の如く「京
機巧人形振」の舞台に突込と
片手とが併用されてゐた如く、今日の文楽座
--三人遣ひ発生の享保十九年から算出して
約二百年後の今日の文楽座の舞台には、突込
人形は跡を絶つたが、「三人遣ひ」と「片手
人形」が併用されてゐる。山本飛騨椽の「片
手人形」とはどんな様式の遣ひ方か判明しな
かつた時は是非もないが、前述の如く、飛騨
の人形は、「片手」にしろ「手妻しにしろ、
「碁盤」にしろ、皆、名は異るも等しく左片
手を人形の背後から突込んだ遣ひ方だと、ハ
ツキリと私の説明を会得して下さるならば、
今日の文楽座に「片手人形」の尚余蘖の残存
する事は直ちに承認さるゝ事だと思ふ。
即ち図示する(第三図)が如き、文楽座で
吾々が謂ふところの「ツメ」の人形は、悉く
飛騨椽が「片手人形」ソノまゝである事が判
る・
歌舞伎の所謂「仕出し」として「ツメ」の
人形が出ると、さうも感じないが、「ツメ」
の人形が、何か小道具を持つて舞台で動く時
に観衆は、明に「ツメ」が「片手人形」の余
蘖[ひこばえ]である事に心付くと思ふ。例へば、世話の
舞台に出る下女に掃木を持して掃かすと、右
手一本で掃木持つ人形など注視されたい。私
の謂ふ意味がハツキリとしようと思ふ。
○
この意味からいつて、「突込遣ひ」と「片
手人形」との遣ひ方の二様式では、どうも出
遣ひは、突込よりは「片手」の例で先きに創
められるのが、様式から考へて順序ぢやある
まいか。--と私は想像する。
突込遣ひは勾欄の上へ、腕を一杯に延ばし
て遣ふのが本来の形である。この勾欄をはづ
す事を考へるよりも、「時頼記」に見る如き
片手人形の出遣ひの舞台の方が、自然らしく
考へられる。--と想像ばかりではない。現
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に故黒木勘蔵氏は、邦楽年表で、今日通説と
なつてゐる竹本座の宝永二年十一月の「用明
天皇職人鑑」の辰松が鐘入の段の出遣ひの半
年前の、同宝永二年六月に既に「小さん狂気
道行」の藤井小三郎の出遣ひを虱本から示さ
れてゐるが、この小さん道行の「金屋金五郎
後日雛形」の挿画を見て、私も竹本座よりは
この豊竹座の若太夫の芝居こそ出遣ひ出語り
の嚆矢であると、断言してもいゝとまで思つ
た。人形遣ひ方の様式から見て、さもさうあ
らう順序だといつていゝ。
この意味においても藤井小三郎といひ、近
本九八郎といひ豊竹座の人形系統に調査を進
むる必要があるのだが、今のところ、何の索
線もないのに、私はぢれにぢれてゐるのであ
る。(おはり)
本稿は、昭和七年、雑誌「民俗芸術」第
五十号記念特輯の為に御執筆下さつたも
のだが、同誌の発刊が遅れて、そのまゝ
お預りしてゐたのを、こゝに掲載させて
頂いた。筆者の諒恕を乞ふ次第である。