FILE 160

【 石割松太郎 「操」研究の困難 若月氏の「近松人形浄瑠璃」 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
「操」研究の困難
 若月氏の「近松人形浄瑠璃」
  石割松太郎
 東京朝日新聞 昭和九年十月十二日
 
 
 若槻保治氏の近業「近松人形浄瑠璃の研究」といふ尨大なる書冊の寄贈を受けて、その主旨とする所は、「文学としての近松」でなく「院本」としての近松研究であるといふに、まづ敬意を表し、私共が日頃の主張に吻合する研究態度なるを喜び早速拝見して、私は、却て操研究の困難を感じた。恰もこの書の所感を求めらる。私は読後感を率直にこゝに述べようと思ふ。新聞雑誌の新刊批評の大抵が、お座なりであり、御世辞であるを、読者に不忠実なりと日頃思うてゐる私は、好んで「赤面」を買つて出ようと思ふ。
 この書の巻頭に「近松時代大阪地図」といふものが添付してある。その「近松時代」といふの意は、近松の著作年代、五十余年に亘る地名を記入せる地図といふのであらうが、私は、そんな調法なものがあり得るだらうかとまづ疑ふ。半世紀に亘る大阪の変遷を「圧搾した地図」といふものは、ウソの地図、机上の地図だと思ふ。例へば道頓川に中橋といふ橋が架してあるが、こんな橋が、一体大阪のいつの時代にあつたかを聞きたい。又上大和橋は実際あるが、「下大和橋」といふ橋がいつあつたか。「恵比寿橋」も同じ、「猪喰屋橋」も同じ、また近松の或る時代に「曾根崎新地」のないのはどうしたもの?
 この一枚の地図は丁度この書のシヨー・ウヰンドーのやうなものだ。この装飾窓があつて、実施の地図でない如く、本文は「実際の近松」でなく、著者が
十年寝食を共にしたと序文にいふ著者が「幻影の近松」である事を、私は極めて遺憾に思ふのだ。著者幻影の近松を千頁に近いこの書によつて一々に列挙して行くと、私も千頁を費さねばならぬ程、各頁に実際の近松でなく、「机上の近松」が多いから、何故かくも談ずるところが違ふのであるかを、例をこの書から求め根本の疑点を挙げてみようと思ふ。
(一)著名は内容の吟味を忘れて、名称の同じものを内容も等しとしてゐる。例へば--
 (イ)丸本の記号に「祭文」とあり、「歌念仏」とあれば(六九四頁)それが「祭文」で語られ「歌念仏」で唄はれたとし、且つそれは作者が太夫に付けた注文だと独断に陥つてゐる。(一三四頁)「祭文」とあつても当時祭文で語つたとはいへない。且つ作者の注文だなぞとは考へられない。従つて若月氏は近松が当時の俗謡を収入れたから、その俗謡が今に近松の曲節に残つてゐるといふ。(一三四頁)が、近松の書卸の曲節が残つてゐるといふのからして現在の実際とは大分の距離がある。
(ロ)浄るり節の発達を論じ(四七〇頁)平曲、幸若を引用するがそれ等が今日著者が聞く平曲幸若を以て昔の姿そのまゝだと考へてゐる。--そんな事が考へられるだらうか。
(ハ)三味線が浄るりの伴奏以前に「小唄の演奏」に用ひられてゐたとある。(四七四頁)--そんな事実がどこにある。或はどうしてさう推定されるか。実例を示してほしい。
(二)「棠大門屋敷」に「あやつり芝居に舞台を付る事」とある此「舞台」といふ言葉を「平舞台」(五〇八頁)或は「歌舞伎式に付舞台を新に設けた」(五一〇頁)と何の文証画証もなしに机上で開展せしめて、出遣ひを説いてゐる。「棠」にいふ「舞台」といふ言葉をもう一度考へてみてはどうだらうか。
(ホ)佐渡の文弥節、ノロマ人形を直に昔のソレ〳〵の文弥節ノロマであるが如く考へてゐるらしい。(五一七頁)
(ヘ)人形の「手摺」と「舞台」といふ事が名称の上で混淆させてゐる。(五二〇頁)等々々。
 (二)書物の版の相違及び画証に批判のない事。
(イ)「寛永年間木下甚右衛門が江戸の土佐少掾橘正勝の為に書いた数十種の六段物」(三八八頁)とあるが、この「寛永」は「宝永」の誤植、木下甚右衛門は作者の如く書いてあるが、木下は版元。この二点を訂正して読んでみても土佐少掾を宝永の浄瑠璃太夫としてゐる点が正本の版の様式に注意が払はれてゐない一例。
(ロ)第二十一図といふ浮世絵の絵空事を証拠に突込人形に片手遣ひがあつたと大胆にいふ独断など人形操り方の様式が各所に混乱してゐる。
(ハ)最も杜撰なる明和版の「外題年鑑」を信用して豊竹座の創立を元禄十二年と断じ、豊竹座の初期の興行が総て人形入であつたと軽々に信じてゐる事。
 以上は、この書の根本的の疑点を、試みに挙げてみたのである。 何故十年近松を研究した著者がこんな結論を提供してゐるかを考へたい。--即ち著者は、「机上の近松」はダメだと自覚しながら、著者は英文学者にして専門外の江戸期の作家には門外漢なるが故に著者の研究は依然として「机上で近松の人形、机上で近松の音曲」を知らうとしたところに誤謬があつた。故に後に来る学徒に対するこの書の功績を二つ挙げると--
 一、近松研究は、机上では到底ダメだと確証を与へた事。
 二、所在は示されないが、「源氏六十帖」の舞台絵(五五六頁)を図版にして示した事。
 この舞台図は著者が五〇九頁から五五七頁に亘つて述べる以外に操史上重要な画証である事を欣ぶ。【四六倍判、九〇九頁定価十円、特価八円五十銭、第一書房】