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【 石割松太郎 『操』に関する雑考 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
 『操』に関する雑考
  石割松太郎
   日本精神文化 1(8) pp.186-200 1934.9.1
 
    一
 私の今までの経験によると、「操」に関して相当系統を立てゝ書いてみても、さう反響がない。私どもの書く事にさう新発見があらうと言ふのではないが、従来知られてゐる事とは違つた見解に立つて立論してみても、その異つた点が、余り理解されない怨みがある。--と私は何も愚痴をいふのでないが、そんな心持がいつもしてゐる。--といふのは、実は当然の事で、不思議に操関係の研究がなされてゐない。言はゞ処女林に斧を入れてゐるやうなものだから、どれが珍しくて、どれが珍しくないのかさへも、普通の読者では判別が付かないのが、世間の実際であるやうだ。
 これはホンの一例に過ぎないのだが、私どもが、古浄瑠璃の正本の完本でなくても発見されたといふ噂を聞いてさへも、胸轟かすのだが、先年最も早い時代の古浄るりが安川文庫に入つたのを稀書複製会で、次々にその悉く--十七八種の複製が出来て、私どもは古浄るりに一道の光明がさした如く悦んでゐると、「古浄るりを、もう五十曲も複製されるといゝのだがな」といふ人があつた。十七八種ぢや物足りぬと言ふ意である。それが浄るりの研究者であつた。--この不足を聞いて、もう五十曲の古浄るりでもが現存するものと思つてゐる口吻の研究家にとつては、複製会の難事業が理解されてゐない。それが専門の研究家であつたのであるから驚かされる。世間はそんなものだ。
 もう一つ例をいふと、この程刊行された『近松人形浄るりの研究』といふ大冊の新刊を、著者から贈られて、道のために欣びつゝ、早速拝読すると、驚いた。吾どもの考へるところと、全然異つた立脚点から近松の浄るりが考へられてゐるには全く一驚を喫した。何んとしても承服されない根本の見解を異にしてゐる。その著者の言ふところをまつ紹介して、日頃私の考へてゐる操の研究法について愚見を述べてみよう。これは決して『近松人形浄るりの研究』の悪口を言ふのではなくして、道のために第三者の批判を仰がうとの意である。
 
    二
『近松人形浄るりの研究』百三十三、四頁に亘つて「音楽的要素」といふ題下でかういふてある。
  太夫の取入れた曲節の外に、最初から近松がわざわざ工夫して取入れた曲節が随分少くないのである。その大抵は台本に記入されてゐて、太夫の取入れたり三味線弾の指定したそれと明かに区別することが出来るのであるが、それは先行芸術である平曲、謡曲、幸若舞、女舞、相の山、大黒舞、祭文等其他当時流行の諸派の浄るり節乃至、種々の俗謡から取られたもので、中には近松が浄るりの中に之を取入れてゐるが為に、今日幸にその曲節の現存してゐるものも少くない云々
とあるのだ。この考へ方は、昔の浄るりを研究するに、第一の誤つた根本の考へ方だと私は申したい。元来、近松即作者が取入れた曲節とかいふものが、太夫並びに三味線弾の指定外のものである事がどうして明かに区別されるかを、この著者に私は教へて頂きたい。作者が浄るりに取入れたといふ曲節がどうして分るか。これが分るものだと考へてゐるところに、大きな誤解がありはしない?
 著者は、六百九十四、五頁に亘つて『日本振袖始』の丸本から、「祭文」或は「説経」といふ指示を指して太夫、三味線弾ならぬ、即ち作者の指定曲節としてゐる。或は『五十年忌歌念仏』から「歌念仏」と指定せるを「林清」なりとして作者近松が「先行芸術や姉妹芸術から色々の曲節を取入れた」ものとしてゐるのに徴すると、丸本のかういつた指定は作者が指定するものだと独断をしてゐるやうだ。そんな事がどうして言はれるのか?ハツキリとした証拠を示して貰ひたい。のみならず、前記に引用した如く、著者は、当時の俗謡などを近松が浄るりに取入れたから、「今日幸にその曲節の現存」するものがあると言つてゐるが、その現存してる曲節を一つでもいゝ示教してほしい。かう著者がいふ根底には、近松作で今日尚その曲節の残存せるものがあるといふ誤れる許にこんな事が言へるのであるが、私どもの知れる範囲にありては近松原作の当時の曲節など今日一曲たりとも残存してゐる道理がない。従つて、近松が取入れたがために諸派の浄るり乃至俗謡が幸に今残つてゐるなどとは、夢にも考へたくても考へられない事実である。
 これはホンの一例だ。千頁に垂んとする『近松人形浄るりの研究』に、浄るりソノ物に対するこんな認識不足、或は独断から出発してゐるから、研究の結果に正鴻を求むる事は、求むる方が無理ではあるまいか。
 これは要するに、音楽が幾年経つても、そのまゝに後に伝はるものだと言ふ誤つたる仮定説に禍されてゐるものらしい。その証拠に、著者は浄るり発達の経路を説いて、「今日でも一たび平曲を聞いて見ると云々」と記してあるが、その「平曲」とは館山漸之進氏の息館山甲午氏の語る「平曲」を指してゐる。私もついこの程甲午氏の所謂「平曲」--会津訛りの「平曲」を聞いたが、この「会津平曲」で、本来の平曲が声明殊に天台の六道講式から出たものである事を「すぐ肯ける」著者の鋭敏なる耳に、私は感心せざるをえない。
 のに拘らず、「竹本座以後の近松の浄るりの四つの要素」を説いて、「対話と地の文」とを四ツに分類して説けるところ、曲節の時代の推移を超越し、説くところ実際に吻合しない記述である事は、恐らく執筆の著者本人の耳には、浄るりが響いてゐない、空疎な記事なのであらう。いかにも、後世の浄るりには、こゝに著者が説けるに似た詞と地と色との区別はあるが、『近松人形浄るりの研究』に著者が説けるところとは少々ばかり柄ゆきが違うふ。まして「竹本座以後の近松の浄るり……」と言つてこの四要素とかを、近松の「文章の立場から見ると」として論じられると、若い後学を誤る事夥しく、その罪、断じて許すべからざるものがある、「十年、近松と共の寝食」したといふ著者の見る近松は、どうも私どもの近松とは似ても似つかない近松である。音楽としての浄るりが全く判つてゐないらしい。これは一体どういふのだらうか。
 かふいうと私は徒らに人の著者のアラのみを拾ふやうだが、こゝには曲節に関してだけの一端を挙げたにすぎない。わけて人形に就いていへば、曲節同様大分申したい事あるが、要は、根本の考へ方、根本の研究方法が誤つてゐるがために、こんな結果を見せて来るのだと思ふ。故に私は、必ずしもこの『近松人形浄るりの研究』の著者に止らず、現今の操研究が誤つた方法を採つてゐると思ふから、これを一例として、私が考へる事をこゝに述べてみようといふのだ。幸ひに先輩諸氏の叱正をえば幸ひである。
 
   三
 「操」の研究をする人を、試みにその態度を分類してみると、近来は屹度「人形」から入られる。人形の頭がどうとか、どこそこにどんな人形があるかとか、その由来はどうであるかとか、研究の対象が操の一部分である人形ソノ物であつて、その人形をどう操つてどんな芸を見せるかといふ事は忘れられてゐる。--これが一つ。(一)
 もう一つの流れの操研究は、近松の作品などを、書斎で机上に読んで、音楽である事、舞台にかゝるべき院本である事を忘れてゐられるやに見受ける一系--これが一つ。(二)
 もう一つの系統は、民俗学かぶれとでも言はうか、地方に残存せる人形操をソノまゝ買かぶつて、地方資料に眩惑されて、いかにも芸術的な立派なものであるかの如く誤認されてゐる一系--これが一つ。(三)
 まあザツト右の三つの系統の操研究者があるやうに思はれる。この内で右に挙げた第二の研究者は明治大正度の研究態度であつて、流石に今日は、文学としてのみ見らるゝ浄るりの研究者は少なくなつたやうだ。が、それと共に浄るり研究--近松研究などは殆んど企及さるべきものでないかの如き考へ方をさるる人と、無鉄砲に、音楽として、院本としての研究の対象とする事を自覚しながら、机上で音楽、机上で舞台を研究対象とさるゝ人の二つの流れが出来て来たやうだ。
 元来各大学の卒業論文に現はれた若い学徒の研究題目を注意して見てゐると、江戸期の研究者に毎年屹度「近松研究」の題目が、いろ〳〵な形で、各大学の卒業論文に現はれてゐる。ところでこの右にいふ前者の机上の近松研究は企及すべからざるものとする消極派は、外の大学は知らず、私の関係してゐる早稲田大学では、この風が来年度の卒業論文にハツキリと反映してゐる。本年まで国文専攻の卒業論文には、必ず西鶴、近松が殆んど同数を数へたが、来年の卒業論文指導に現はれた処を見ると、近松研究は一人もなく、江戸文学専攻の論文は悉く西鶴であるといふ現象を観て、私は角を矯めて牛を殺したやの感がないでもないと思つた。--がそれは当然来るべき正当なる現象であつたと私は信じ、次に来るべき真の近松研究者は、我か早大に現はれる前提だとさへ考へてゐる。
 が、このもう一つの(二)の場合における無鉄砲なる机上の音楽研究者は、こゝに例として挙げた『近松人形浄るりの研究』の態度である。丸本の節章に現はれたる記号を以て、その浄るりの音楽的効果を間然に考へらるゝものと考へてゐるやうだ。これが抑もの誤りだ。こゝに私が節章とは、丸本の文字の傍に示したるゴマ点或は指示せる記号をさして言ふのである。
 例へば古浄るりの山本角太夫の節章の一端を見て直にその類似を、後の義太夫節に求めて、その語り口を知り得たりと思つてゐるやうな研究態度は、机上の空論である。この空論の現実さを信ずるから、近松の曲が今日尚残存するなどと考へのである。少し実際が分るとソンナ馬鹿げた事が考へられようとも思へない。即ち、丸本の節章さへ残存するならば、その浄るりは語れるものだと思つてゐるらしい。この実際が呑み込めないらしい。文政度に入つて松屋清七が三絃の譜即ち朱章を工夫して以来、初めて浄るりといふ音楽が記録されるやうになつたのである。故にその以前の曲節だとか三味線の手だとか、或は浄るりに最も大切な「風」などが今日伝つてゐる道理がないのである。--然るに音楽として当時の「風」或は「曲節」の伝へられざる近松の研究を、音楽として、人形のテキストとして研究する処に、真の近松の研究があるのである。例へば今日『冥途の飛脚』の書卸曲節は一切分らない。今日伝はるものは、清水町団平の朱章が基本ととなつてゐる。今の土佐太夫が『原作の封印切』だと言つて語つてゐるのがソレだ。原作といふ意は文句に改竄を施してゐないといふのである、が、これが原作曲の--近松の封印切だなどと思ふと飛んだ事になる。即ち封印切の浄るりの風としては名人染太夫の風が今日に伝つてゐる。それは文政度の作曲である。改竄の封印切の染太夫風から類推して原作当時の音楽的、舞台的の効果を知らうとする、こゝにほんとの近松研究があるのぢやあるまいか。故に近松の音楽的舞台的の研究は歴史的にのみ存在する研究対象である事を忘れてはならぬ。即ち言葉を換へると、操としての発達した極致から見ると、近松当時は舞台芸としては稚拙であつた事に間違ひはない。然るに近松の作品に魅せられて、近松当時も舞台芸としても優秀な芸であつたとの誤認の仮定の許に、徒らに後世の改作を非芸術的だとし、この建前から近松を研究し様とすると、研究者自らの影、幻を近松に追ふ事になりはしまいか。さすれば実際は、舞台の近松を研究しようと意図しながら、(二)の場合と同じに、「机上の近松研究」に陥つて了ふ。こゝに戒心を要すべきである。忘れてはならぬ事は、舞台芸としては極めて稚拙であつた--音楽としても、人形としても、--近松の研究を歴史的の研究対象とし、舞台芸的に優れたるものだと誤認せざる事が肝要である。近松当時の舞台が、操として立派に定成されたものだと考へる時、即ち机上の作品と舞台の作品とを混淆する誤りに陥る事、(二)の場合と全く同じ結果で、机上の空論となる。--机上で読んでの作品と舞台の作品との建前の相異がこゝにある。端的に言へば卑俗味がなくて舞台芸の成立がない。卑俗味とは、その時代の舞台性である。『操』としての近松の研究は、この点にある。近松の作品が後世改作を必要とするには、それだけの理由が、操の発達推移に伴うて生じてゐる。之を忘れては、研究対象の認識がいんでしまふ。『近松人形浄るりの研究』の著者が、恰もソノ好適例である。されば、近松の真の研究は、操史上における、音楽としての浄るりの未完成時代の一期の優れたる作品としての研究である。操史を離れて、音楽としても人形としても何の研究があらうかと私は申したい。故に(二)の消極積極のそれ、何れの態度もが詮するところは、机上の研究であつて舞台芸としての近松の根本には触れてゐない事になる。
 丁度その表徴の如く見ゆるのが、『近松人形浄るりの研究』の巻頭に掲げらた地図である。この地図に付いては著者は、「最も信すべき当時の地図を悉く参照した」とあるが、一体この地図はいつの時代、幾年の地図なのであらうかを私は疑ふ。何の年号の何年の地図か?著者の掲げ説明する処によると『近松時代の大坂地図』といふ至極便利な地図であるやうだが、近松が生存の七十有二年に亘る地図といふものがあり得ないと私は思ふ。約五十年の近松の著作を読むには、都合よく或は作為されたる地図であらうが、ソノ時代をハツキリ明示する事の出来ない地図は、机上の地図であつて、実在の地図ではない。例へば橋を担ぎ廻らぬと、同時にはあり得ない橋名が地図面に現はれてゐるのは、このためであらう。時代を圧搾し、近松の著作を読むに都合のよい地図は、実はほんとの地図ではないと、私は解する。地図の事は私の専門でないから、地図学の方ではそんな調法な、年代のない地図があつて然るべきかも知らぬが、丁度この地図が表徴するが如く、『近松人形浄るりの研究』の対象とされた「近松」は実在の「近松」でなくて、著者が寝食を十年間、共にしたと言ふ、著者が幻影の近松たる事を遺憾に思ふ。著者がさう思はれる事は、御勝手だが、それがために後学を誤る事を、私は罪な事だと思ふのでこの機会にハツキリと私の考へ方を述べて、大方の批判を仰ぎたい。
 
   四
 (二)の場合は、如上縷説、消極積極の相違こそあれ、共に机上の操研究で論ずるに足らぬが、前記の(一)の場合を考へてみると、近頃の若い方々の操研究がこれに類するものが多い。操研究即人形の機構の研究であり、その人形をどう操るかも知らないで、それらには殆んど関知せずに、人形の頭のみの知識にあこがれてゐるやうな態度がある。元来人形の頭は、操発達の当初、--例へば初代文三郎前後、新作が月々に次々に上演された時代に幾つかの人形頭が制作されて、これが舞台に用ゐられた。彼等の人形役者の仲間で謂ふ魂を入れられた。その後の新作は、これらの幾つかの人形頭に、作品の類型を求めて、頭の流用が行はれた。二百幾年の間に、幾多の類型的な頭がかうして生れたのであるが、世人の思ふやうに、操関係の頭には、決して名作はない。名人が頭を打つた例がまづないといつていゝ。当時市井の下級の人形師が、手間取仕事に打つたのが、人形頭で、自然と能楽の面とは、この点大分事情を異にしてゐる。故に頭のいゝの悪いのといふのは詮ずるところ、人形遣ひの、腕の冴える冴えぬの問題だ。例へば明治期の下町の蓮葉女が、橘屋の耳が兎のやうだとか、鼻が尖つてゐるとか、栄三郎の唇か受口でいゝわネと言つて喜んでゐるのと同じで、人形頭の名品扱ひは、実はこの程度の御研究である。下等な例を引けぱ、吉原の泥町で売女の顔ばかり見て喜んでゐるコケが、丁度今の人形頭の研究者である。これで、操の研究だと思ひ、或は操研究の入門だ位に思つてゐるのは沙汰の限りである。東京日日新聞の三宅周太郎の文楽の劇評を見ると、その主役に一々「孔明」だとか「文七」だとか、人形頭の註記があるのは、その何の意たるかを解するに苦しむ。これが、人形劇の一記録だと思つてゐるなら、その稚気愛すべきものがある。
 かういふ風に「頭」ばかりに喜んでゐる傾向が、研究だと考へる結果がツイこの間大阪の文楽座の栄三の部屋で起つた珍事を齎らしてゐる。この事件の内容はこゝでは言ふ必要がないが、去る素人の頭打ちが作つた頭を「久作」に用ひて頭に魂を入れませうと、栄三がいつたに初まる忌々しい事件である。が、これ「頭」が操の全体であるかに思ふ今の世の浅ましさを示してゐる事件である。
 この操の一部分である「頭」を尊重する誤解が、操研究に及んで、どこの山奥そこの村はづれに人形--古く昔用ひた人形が残つてゐると言ふて若い人々が、大分憂身をやつしてゐる。そしてその地方の人形が、特に残つてゐたものであつたかの如く考へてゐるやうだ。--尤もさういふ風な残存の人形の機構を知つて、我が操史の根本資料を掘出す例がないとは言はないから一応は検討の必要があるが、その検討に、何の標準、何の準備をも持たぬ悲しさ、地方に伝はる愚でもない伝説を、そのまゝに信用して人形の根本資料が発見されたやうに騒いでゐるのを見るとおぞましく思ふ。
 例へば『近松人形浄るりの研究』の著者も、さう信じてゐる一人らしく考へらるゝ文勢があるが、佐渡の島の文弥節に合して「のろま人形」がこの島に伝はるといふ。そして文弥節といひ、「のろま人形」と佐渡においての伝説の「名」ソノ物を信じてそのまゝ昔時の上方の文弥節であり、江戸の「のろま人形」の如くに考へて研究の対象にしてゐるのを度々拝見する。こんなのが実際を知らず、「文弥」「のろま」の名のみによる研究の誤りである。
 この馬鹿〳〵しさを知るべき一画証をこゝに掲げておかう。こゝに写真銅版として掲げたは『乱脛三本鑓』といふ西沢一風が作の浮世草子の一巻二章目に挿入された挿絵である。これは出雲の大社の縁日の賑ひを描いた絵である。この浮世草子は、享保三年の刊行であるが、こゝに描かれていゐるやうに当時--享保年代、或はもつと遡つて寛文延宝度から、或はもつと遡ると人形舞台の故郷がソレであつたが如く人形は諸国を舞台にして流れ〳〵て人形を舞はし歩いてゐたのが、本来の人形舞はしの姿であらう。されば人形舞はしと浄るり太夫とは、二三人で一座--といふほどでもない連れ立つて諸国、国々の市、縁日の如き盛り日を選んで巡業してゐた。その一つの画証が、『三本鑓』のこれだ。一例にこゝに掲出した挿絵の如き人形舞はしの旅芸人が、仮りに出雲の地に、何かの因縁で永住したとする。人形はその人一代限りで、出雲の土となつた芸人は勿論忘られて了ふ。そしてその人形が今日に残る。そしてその人形の由緒にしば〳〵地方資料に見るが如き、愚にもつかぬ効能書が伝説される。そんな事は諸国にありがちの事実だが、又あり得べき事実でもあるが、こんなのに、一々由緒を信じて、何の省察もなく根本資料かの如く取扱はれる。この『三本鑓』の挿絵の如き、当時(享保期)の大阪の竹豊両座かの人形のあふれが旅芸人に堕ちたものと猜するが、これに出雲の由緒が付くと、今日の操史に危険を齎す。丁度佐渡の「のろま」「文弥」がそれである。
 こんな研究法が、私がこゝに言ふ(一)の場合である。即ち各諸国に例令人形が残存されてゐても、一応の検討を経れば、その人形の正体がハツキリ判明するやうに、根幹の操史を標準にすべきである。この標準に照して正体が分つたならば地方人形などは諸国の分布図に一行の書込さへあれば、それでよろしい種類に属するのであつて、この地方人形研究に憂身をやつす事が、抑も無駄な事だと私は言はうとするのである。根幹の操史とは何ぞや、大阪に発達した竹豊両座の進展の跡がソレである。そして人形のみではない。浄るりと、三味線と、人形操法との三つは断じて離すべからざる関係にある。操において人形のみを抽出しての研究観察は、意味を為さない事を知らねばならぬ。
 
   五
 前記の(三)の場合は、(一)の場合とほゞ同じで、人形の価値を知らずして、根幹の操との関係を忘れて、好古的に、或は民俗学的にかぶれたる無用の研究態度である。私はこれを現在東京で行はれてゐる八王子における『車人形』を一例にして述べてみよう。『車人形』を御覧になつた方はどう観ぜられたらうか。あの人形をどう鑑賞され又あの説経節とやらいふものをどう聴かれたか。私に言すれば、あの説経節は音曲にもなつてゐない素人芸、芸などとは烏滸がましいものである。あの三味線を伴奏に用ひる程度は、多寡が浪花節の民衆性のないものである。人形はといふと『いざり人形』で昔江戸の末期?の寄席か何かの小規模なる舞台で、人形遣ひもゐないところから、三人懸りに発達したものを、逆転して一人で間に合はした御座なり程度の舞台のものが、あの『車人形』を生んだのである。ならば三人で遣ひたいのが、経済上或は寄席の舞台の広さから、それが許されないで『車』が--『いざり車』が発明された。よし、発生はそこにあつても、その生れた芸に芸術があれば、或は生れゝばいゝが、今日の車人形を見ても、一向に発達の跡もなく、又芸にも成つてゐない。あの程度のものが、さも〳〵一廉の芸であるかの如く持てはやされて、操研究の一科でもあるが如くに、言はれてゐるのが、私には不思議でたまらない。あの車人形程度のものが、我が操に何を増減するか問うてみたい。
 車人形ばかりに、私はかういふのではない。木更津にありといふ袱紗人形といふ指人形もこの類であらう。
 これで思出したが、この適切な一例を述べてみよう。現在神戸の花柳界--仲検に政蔵といふ一年増芸妓がある。この女は手先の器用の人であつて、宴会の余興に「手拭人形」をよく買つて出る。それが政蔵の売り物になつてゐる。『手拭人形』といふのは、手拭の端で人形の頭やうのものを結び、それに指を挿し腕に手拭の残りを垂らして片手で以つて、文楽の人形の姿態をよく演ずるのである。「これは文五郎のお園です」などといふお園のクドキなどは、文五郎の後姿そのまゝの姿態、写し得て妙である。その器用さ、その鮮やさは宴席の珍で、神戸の花柳界を知れる人はよく熟知さるゝであらうが、が、が、あの『手拭人形』が、芸術だとは言へまい。又さう思ふ人はあるまい。「余興」と「芸術」との差異はこゝにある。『車人形』なり、『ふくさ人形』なりは器用だらう。或は鮮やかであらうが、芸術の境地にまで至つてゐるだらうか。問題はこゝだ。
 又右の政蔵の『手拭人形』を、今二三十年も経つて、新聞の端にその記事を見付けて、操史の一資料と考へる学徒がありとすれば、お笑草だらうぢやないか。が、が、『ふくさ人形』『車人形』に操史上の一位置を認めようとする研究者があるのであるから、お笑草が、現実の話なのである。即ち、私がこんな態度の操研究は無用であるのみならず有害であるといひたい。然らば、何を標準に地方人形を見るべきかが問題である。
 一、地方に残存する人形を、まづ観察するに当り、果してその人形の舞台が芸術的の価値があるものなりや否や。
 二、その残存の人形が、現在操法を知るものなく舞台に生きない人形ならば、その機構に、根幹の操に歴史的の意義がありや否や。
 即ちこの二つの標準に照して、地方人形を見るべきである。この二つの標準をはづして地方人形を見る場合は、一好古癖に陥るものであらう。好古の習癖、必ずしも私は咎めないが、好古即研究だとは厚顔がましい沙汰だ。好古の業と研究とは截然として別途のものである。
 学徒がペダンチツクな傾向を帯びる時、その人の使命には、もう生命がない。戒心すべきはこの点である。
 
   六
 最後に一言したい事は、上にも触れた如く、操研究は、浄るり、三味線、人形の三業の何れにも偏してはならぬ。三輪車の輪のやうなものだと断言する。これは研究者の方面ではないが、この七月に大阪文楽座の操が歌舞伎座へ出張興行をした。この第一回の初日に土佐太夫の語つた『大文字屋』のおまつの出の処で、『……中門へ提灯のかげも心もかきくもるお松といへど色かはる』といふ文句がある。この『大文字屋』の一段中恐らく最も大切なのはこの「お松といへど色かはる」の一句である。この一句がなか〳〵語れるものでない。そして浄るりを聴かうと思ふ程のものは、『大文字屋』を聴けば、必ずこの一句を聴いて、太夫のこの一段における用意を知らうとするのである。ところでこの間、歌舞伎座でこの『大文字屋』が出た時に、私は耳を澄まして、『提灯の』と土佐がいひかけた時に、私の全身の注意を耳に集めて『お松といへど色かはる』を聴かうとした。が、恰も下手の小幕を開けて出たのが文五郎のお松であつた。すると歌舞伎座の看客は、大拍手を以て文五郎を迎へたので、お蔭で、『お松といへど色かはる』が一語も私には聴きとれなかつた。私は実に腹が立つたが仕方がない。が、この日は恰も文五郎のための組見があるといふのを聞いて、納らぬ胸を撫ぜて帰り、その翌日二日目に、この『お松といへど色かはる』の一句だけを聞くがために木挽町まで出かけて床の下、傍に陣取つて、この一句を聴のがさじと緊張したが、駄目だ。文五郎の組とてないこの日も聴衆の拍手に耳を聾された。--これが東京の浄るりの見物だ。愛想がつきる!
 東京の人形研究者にも、この大衆のお客の心持が反映してゐるのだ。それで操の研究だといふのである。
 『大文字屋』が大阪に出ると、こんな現象はまづない。昔越路が『お松といへど色かはる』の一句を語つた後で、文楽の聴衆は、等しく肩でイキをして、知るも知らぬも互いひに顔を見合せて溜イキが、一度にホツと出たので水を打つたやうな場内の空気をよどました例が、明治四十五年の六月の御霊文楽座に残されてゐる。
 尤も太夫の非力にも由るが、浄るりを聴く耳の準備の不足がこの結果を見せる。
 この耳で、何の操ぞ、何の浄るりぞと、私は腹立たしく、七月廿五日の歌舞伎座の前から驀らに帰るタクシーの中で、長嘆したのである。(昭和九・七・三一)