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【 石割松太郎 『操』研究に関する雑考 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
『操』研究に関する雑考
    石割松太郎
 旅と伝説 第7年9月号 pp.9-12 1934.9
 
 
  一
 本誌の九月号(?)に一文を求めらる。--何か纏つたものをと考へたが、近来私は、『操』研究の抑も〳〵の根本研究法に、疑ひを持ち出した。いろ〳〵皆さんの『操』に関しての研究なり考へ方を拝見してゐると、私の考へとは、どうも考へ方が違ふのが多い。これは固より私の研究--といふと大袈裟だが、私の存じ寄りが誤つてゐて、私の考へ方が筋違ひになつてゐるのかも知れぬ--と考へると、短い人世に無駄をしすぎるやうに思へる。仮りに私の考へ方が誤つてゐないとすると、皆さんのお考へ方、或は研究法に陥欠があるのぢやないかと思ひ出した。
 これは卒直に自分の考へ方を述べて、人の言ふところと違ふ理由、原因をハツキリ知ることを得ば改むべきは改め、主張すべきは主張すべきだらうと考へて、卒直に物を言はうと思ふ。
 その私の思ふ研究法をまつハツキリとさすには人の言ふところとの根本の相違を、実例に就いていふのが、最も早わかりだと考へるので、甚だ失礼かも知れぬが、近来第一書房の主人長谷川巳之吉氏が、感激の余り、その労苦に対して甚大の絶讃を与へられてゐるやに見受る、若月保治氏著の『近松人形浄るりの研究』といふ尨大な冊子に述べてゐらるゝところと、私が考へるところとが余りに隔りがあるので、その点を記して以て、先輩の批判を仰ぎたいと考へた。それで、雑誌『日本精神文化』の演劇号に駄稿を求めらるゝを幸ひに卒直に書いてみると、「曲節」から見た近松のホンの一端を述べてみると、もう紙幅が尽きたので、本誌には「人形」に関しての一二を述べてみようと思ふ。万一こんな駄文に、興味を持たるゝ方があらば、精神文化を併せ読んで頂きたいと、勝手な事を希望しておく。
  二
 元来この書を拝見して、私が不安に堪へない事は、文証を選挿して掲げらるゝ著者の、文献に対する注意が極めて疎漏である事が第一に不安でならない。即ち引用の書物は元来幾通りもある筈である。一つ書物でも初版もあれば再版もある。ずつと後の後摺り本のもある。こんな事は余りに初心で説明するまでもない事だらうに、著者は、著者が見た書冊が初版であらうが再版であらうがお構ひなしに、その奥付の年号を取つて以つて、その書の内容の年代としてゐらるゝやうである。例へば江戸の土佐浄るりに就いての記述を見ると『寛永年間に木下甚右衛門が、江戸の土佐少掾の為に書いた数十種も……』(三八八頁)とある。この「寛永」は恐らく「宝永」の誤植、或は校正の誤りかと思ふが、木下甚右衛門がかう書いてあると、浄るり作者の如くに考へらるゝが、私どもは「木下甚右衛門」は、作者でなく土佐浄るり愛好の書肆だと心得る。これも校正の誤り、或は著者の誤記で「為に書いた」とあるは「為めに刊行した」の意であると解釈してみる。それにしてからが、かういふ文勢にあると土佐浄るりは文字通りにすれば「寛永」訂正して読んでも「宝永」に栄えた六段物の浄るりだといふ事になるが、どうあらう。疑問だ。この短い一句の中に二箇所の校正の誤り(?)と、重大なる内容の喰違ひがある。
 これは古いものを研究するに等り最も細心の注意を要する書物に対する取扱ひ方に誤れる点があるのぢやないか。どうあらう--と考へると著者は、資料たる書物に対する注意がどうも行届いてゐないやうに思ふ。もう一つ例へば、著者は、『浄瑠璃譜』の刊本が『温知叢書』本以外に、安永天明年間に刊行されたものとされてゐるやうだ(四九〇頁)。こんな事はどうでもいゝ事のやうだが、資料たる書物に対するこんな不注意があるために、著者の引用さるゝ文証をそのまゝ信用する事が私には出来ない。
  三
 引用の文証に不安を持つ私の心持は、軈て、著者が、浄るりの本文を読まるゝ態度にも、私は信用する事が出来ない。例へば人形に足が付いた事を考証してゐらるゝ条で、『曾根崎心中』の天満屋の場で、例の縁の下に徳兵衛を忍ばせての近松の文句に
「初は之を知らせじと足の先にて押鎮め」
或は又
「独言になぞらへて、足で問へば」
 と本文にあるから、「この時のお初の人形には足があつたかの様である。或は此場合特にお初の人形には足をつけたかとも思はれる」と書いてゐる。
 かういふ風な態度で浄るりの文句と、舞台の実際とを吻合させて考へらるゝ処に人形研究には大きな誤りを生ずると、私は断言する。莫迦〳〵しくて反対論を実例で述べるのも噴飯の至りだから、私は結論だけを、かう述べておく。
  四
 これは人形とは違ふが、四五四頁に三味線の事を述べて、
  ……一種の新楽器として役立つに至つた三味線は、小唄の演奏などに用ひられてゐたが……
と事もなげに、三味線を浄るりの伴奏以前に小唄の演奏に用ひたとある。この明確な証拠を見たい。示してほしい。三味線の発達がかういふ風に事もなげに説明さるゝならば、苦労は要らぬ。が、浄るり以前に小唄に用ひられたか否かゞ大問題ぢやないかと私どもは思つてゐる。操研究が、近松研究がこんな手軽な考へ方、こんな大ざつぱに方付いて行くと天下は泰平だと言ひたい。それとも「小唄演奏」の証拠なり、推定を許すべき資料があらば教へて頂きたい。恐らくそれがハツキリすると、それこそこの尨大なる書冊よりも、それだけで学界を稗益するところが多からうと思ふので敢へて著者にその証拠、或は推定資料の公示をお願ひしたい。
  五
著者は四八五頁に『倒冠雑誌』を引用して、吉田文三郎が「経錦舎の人形を片手遣にして見物を驚嘆せしめた」とあるが、私の家蔵する『倒冠雑誌』にはそんな記事がない。私の家蔵本から引用すると
「錦しやの出つかひ片手にてのはれわざ若年なれ共…」
とある。この「片手にてのはれわざ」を「片手遣ひ」と著者は解してゐられるやうだ。かうなると、この『近松人形浮るりの研究』に引用の文献は、往々安心して拝見が出来ない。人形様式からの名目として『片手人形』のある事を著者はなんと解釈さるゝか、その辺の御高見が伺ひたいものだ。
  六
 『西鶴諸国咄』に所載の舞台を説明して、
 中央最も高い処に、観音開の扉があるやうに見えるのは、そこからも人形が出入出来たのであらう。
 と推定されてゐるが、これも証拠或はそんな不可思議な推定が許さるなゝらば、その資料を示してほしい。
 舞台構造の大問題だ。もう一つ著者が大分思ひ違ひをしてゐらるゝやうに感じられるのは、豊竹座の総ての経営振りなり当時の操座としての位置なり、越前の周囲の事情なりの研究に余程の誤解がある、その誤解から発立して推論を立てゝゐらるゝから五分の相違は、千里の隔りを見せてゐるところなど、全くの品玉遣ひである。
 著者が序文に述べてゐらるゝ出語出遣の問題、文弥の問題など、この実際の根本から正して行くと果してどうなるだらうか。それは又の機会に述べぬと与へられた紙幅が足らぬ。右はホンの思付の二三のみ。(昭和九・八・二)