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【 石割松太郎 興味をひいた文楽座-津、古靱競演の陣容 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
興味をひいた文楽座-津、古靱競演の陣容
  石割松太郎
 新演劇 1巻8号 pp.58-61 1933.11.1
 
 
 近来大阪の文楽座の狂言の立て方が甚だ面白くない。「反復」のために来る芸の鍛錬が、その全生命となつてゐる今日の浄るりに、必ずしも珍しい狂言をと私は望まないが、取合せが甚だよろしくない。又取扱ひ方が甚だよろしくない。今度の十月の文楽座の切狂言「柳」の如きがその後者の一例だ。「柳」といふ一段の浄るりを三つに切つて、「夢にちる柳」「鳥目になやむ孝子」「母の木をはこぶ稚子」などの不用意極まる題目を付けてゐるなど醜態を極めたものだ。
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 が、この切の「柳」の取扱ひを問題外として取上げないと、今度の文楽座の出し物は、実に聴衆の興味を引くに十分だ。--ソレは、津、古靱が争つて半歳以上同座しなかつたといふ、紛糾事件の和解に名な籍つて、中狂言に「妹脊山」の山を出し津太夫の大判事、古靱の定高で蹴合はし次狂言で、「心中紙屋治兵衛」の新地を出して、津、古靱の一日替りといふ--飽くまでも津と古靱との芸の蹴合ひに聴衆の興味をそゝらうとした陣立で、蓋が開いた。
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論ずる者あり、津、古靱とも、紋下或は紋下候補の太夫であるのを、営業政策の上から、かくの如く壇上に立たして競演の姿をとる事は、その位置に対してあるまじき事であるといふのがその主張であるが、私はさうは思はない。芸人は常に芸に対する刺戟を必要とする。どんな芸人でもが、他の誰かを仮想敵手として競争意識が旺んな時に、ソコに進歩がある。「お山の大将」が一人になると沈滞がある。近い例が、大阪道頓堀に松島屋と成駒屋の愚に近いまでの贔屓争ひがあつて、我当、鴈治郞の芸が出来た。豈に啻に歌舞伎のみならんや。紋下太夫のみ神聖視すべき理由もがない。よろしく素ツ裸にして競演の土俵に立たしむべきである。今日までの文楽座の最近には、この事がなかつた事を私は寧ろ遺憾とする。古番付を按ずるに明治三年十一月の稲荷の東芝居を、文楽軒がやつてゐた時に「源平布引瀧」が出て次に「加賀見山」が出た。この「加賀見山」の長局を先代の古靱太夫と越路太夫(後の摂津大極)とが中老尾上と、お婢はつとで競演の姿に導いてゐる。この時の紋下は湊太夫であり、紋下候補には五代目春太夫があり、欝然たる大家揃ひの中で、古靱と越路とは、書出しどこの花形。興行師の謂ふところの「金になる太夫建」の双璧だこの二太夫を駆つて、尾上とおはつの配役は、全く満都の血を湧かした語り草を今日に伝へてゐる。今から顧れば、全く浄るり道華かなりし頃の夢の跡だ。
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 この明治三年霜月以降、今日に至るまで、こんな配役がなかつたともいへる。又、それだけ競演の姿に立つて興味を唆る太夫もがなかつたのだとも言へる。先代古靱と越路と並べ称しても、尾上とおはつの浄るりが想見さるゝのだソノ上この時の尾上の人形は、名人喜十郎がをつた。おはつは巧者、上手の辰造がをつた。大玉造が局岩藤であつた大阪中の血を沸かしたのも当然の事だ。--恐らくこの時の興行以外の競演の第二次が、今度の「妹脊山」の山と「新地」であらう。今度は、紛糾といふ宣伝の種と、「山」と「新地」と二重の枷がかゝつてゐるのだが、「大阪の血」は沸かない。--文楽座の表は森閑としてゐた。百二十里の道を近しとして、私は月の九日と十日とを、大阪に飛んで文楽座の桟敷の客となつたのだが、沸いた私独りの血が、後めたい程世間は静かだ。--顧れば、これが今日の「世間」が見る文楽座のホントの姿なのだ。こゝに文楽座の運命が懸つてゐるのだ。--鳴呼、千百の施設も、万億の宣伝も、屁ツツバリにもならない。「時」の力、時代の推移がハツキリと棧敷の私の眼に映る。
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 が、流石に幕内の血は高潮を呈してゐる。いつにない緊張が舞台に漂ふのである。この故を以て、上方耳の行脚の二日は、私に教ふるところが多かった。
 九月の大判事の津太夫は、今日までの聴いた津の大判事の中で一等よい出来であつたのは、津の心の締め方の致すところだ。願くばいつもこの心持の緊張を要求する。が、身体の調子が悪かつたのか、初めの内は全ツきり声が出ない。やう〳〵語り込んでいつて聴かれて来た。果然、十月の大判事は、休場して大隅太夫が代役をした。とう〳〵津太夫は胃痙攣で倒れたさうな。で、津の大判事は一体どうなのだといふに答へるには、相当大きくも語つた。--といふがいかにも、注意の至らぬ浄るりだといへる。この浄るりでは、大判事は染太夫の書卸しの時から、西風の曲で定高の春太夫の東風に対比して語り、一曲ソノものゝ風は大判事が西風で支配すべきものだと聴くに、津太夫にソノ用意を欠いた。そして、もう一つこの人の大判事についていつもいふ事だが、「女の面一ト目見てなぜ死なぬ」とあるべきを、「なゝゝゝせ死なぬ」と歌舞伎の影響がありすぎる。即ち浄るりの辞を逸がれて科白になつてゐる。丸本を見よ、「なゝゝゝぜ」などいふ「せりふ化」は、もつと後の丸本にはあるが、--例へば「合邦」の辞の如き--が、大判事にはこんな音廻はしを用ゐるのがホントぢやあるまいか。勿論津太夫には限つた事ぢやあるまいが、この辞の「せりふ化」は、警戒すべき浄るりの一つの悪傾向だ。もう一つ津太夫について言へる事は、津太夫が大判事を語つてゐる以上、この妹脊山の山の段の責任は大判事にある。即ち津太夫にあるのだが、辞の受渡しに、津太夫は非常に不注意だ。脊山の太夫を考慮せずして語つてゐる。即ちこれはこの一段の責任者の大判事の欠点だ。試みに十月の大隅太夫の代役を聴いて、九日と十日とを比較する時に、この点がハツキリとする。即ちこの曲の最高潮である「雛鳥の首討つたか」「久我殿は腹切つてか」の妹山脊山の床のイキが九日よりも十日にピツタリと合つた事によつて証拠立てらるゝのだ。もう一つその証拠に、詞峙つ親(津)と親(古靱)の二つの「親」の音廻はしにでも、この事が言へる。
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 昔の定高はいつも摂津、近い頃では、いつも定高は、土佐であつたが、今度は競演の陣立で、古靱であつた事に、この人の初役としても非常に興味が高い。古靱はいつもの細心なる定高を描いた。説をなすものは古靱の定高に「母性愛」が乏しいといふ批難を、大阪で聴いたが、私は古靱のために弁護の位置に立ちたい。この妹脊山の山の作意を十分翫味して見なさい。「母性愛」といふやうな近代風な母の情よりは「封建制度の母」が、--「家」を重ずる後室型の定高が、ごの山の生命だ。後室型の定高が雛鳥に対する母の心持は「入内してたもるか、……嬉しや出かしやつた〳〵」のあの古靱で十分に浸み出てゐた事を私は挙げたい。「母性愛」といふ言葉を咎むるのでなくて、さういつた定高の心持よりも、後室型の定高が、山の定高の全幅だと私は主張する。この意味において古靱の定高は初役ながら見上けた定高であつた。「心ばかりは久我之助が宿の妻と思うて死にや」など、後室型の女を描いて遺憾のない出来栄だ。また技巧の点では、巧みな音使ひが随所にあつて「夢縁の仇花……」の前後は、典型的の定高を語つて見せた。
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 いつも聴きなれた古靱の久我之助がつばめ太夫で「我相果しときかば」なで、古靱の再来を思はしむるやうな語り口を示した。雛鳥はいつも、近頃は錣太夫で、下品なのが気になつてゐたが、今度は南部太夫で「下品」は救はれたが、技巧は未だし。その上あの堅い声が耳に立つ、一工夫
を要しよう。
 栄三の人形、大判事。今日歌舞伎でも、これだけの大判事はあるまい。この人の傑作に一つを加へる事が出来た。
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 「心中紙屋治兵衛」新地の段の津太夫と古靱太夫との競演一日替りは相撲にならない。津太夫いつもの「足」で初めから終りまで同じ足どりで押し、怠屈ソノものゝやうな浄るりは考へものだ。殊にこの段の浄るりは、人物の心の変化、心持の推移が眼目で、その移り変りを目安に語らねばならぬと聴く。そしてそれがこの浄るりの曲風なのだ。即ち今日に伝はる三代政太夫の曲風がこの推移を中心に掴んで語らねばならぬ。ソンナ曲風の浄るりを、あゝいふ風に津太夫の如くに一律の足どりで語つては「新地」の段の生命がなくなる。然し津太夫で採るべきは、孫右衛門が侍の装束でも町人に語れた事は津太夫のこの段の手柄であるといつていゝ。が、格子に結へられた治兵衛を見ての太兵衛の辞に、門左衛門でも、近松半二でない、更らに後世の不調和な辞が挿入されてゐるのは紋下の姑券に拘はる。よろしく改むべきだ。--例へば「ほんにけつたいなナア」など、浄るりの文句、辞ではない。津太夫の浄るりのこの種の歌舞伎化は、その位置に顧みて反省すべきであると、私は強く反対の意を致すものである。
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 古靱の「新地」は、津太夫と比較にならぬまでに断然と立優つた「河庄」であつた。殊に孫右衛門の巧さは際立つてよかつた。「馬鹿を尽したこの刀」或は小春の懐ろから手紙を抜取り、「小春殿まゐる、紙屋」まで語り「内」の一語を呑んで語つた細心の孫右衛門のこのイキ無類。もう一つ孫右衛門で、段切れの「義理で立つまいがの小春殿」の「殿」がよく利いて、「人をたらす遊女」と思つた小春を「殿」と呼ぶ孫右衛門の心持を、この一字に示現したのは偉い。元来古靱は女を語る事が下手だが、今度の小春では「口と心は裏表」の条りで、二重の小春をよく語り描いたのも、今度のこの人の手柄だ。
 人形では持役の玉次郎の孫右衛門に、町人がよく出てゐるのはいつもながら感心。栄三の忠兵衛では「どこの客から来た状」の処で、人形の胸から孫右衛門によりかゝつて行く処、どんな治兵衛役者でもが及ばぬうまさがあつた。
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 最後に津太夫と古靱との条るりの語り口の相違を示しておくと、治兵衛が小春を罵るところで「家尻切め貧乏神の親玉め」とある、この「親玉」を津太夫は、大きな声で語つてゐる。が古靱は小さな声で、沈めて語つてゐる。この両人の浄るりの風が、これでよく分ると思ふ一例だと私は思つた。まだ申したい事が多いが、長くなるを恐れ、これで擱筆する。