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【 石割松太郎 勾欄雑話 人形浄瑠璃考 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
勾欄雑話 人形浄瑠璃考
  石割松太郎
 中央公論 48(8)(548) pp.270-281 1933.8.1
 
 
〔一〕
 言葉--訛は国の切手だといふが、それは空間的の見方で、時間的に取扱ふと、言葉の変遷推移は、「時代」を見せてゐる。その「時代」の真実を示すものは、その時代の言葉だ。徳川時代の市井文学に、謂はゆる軟文学に、文学として、さう価値の高いものが在らうとは思はない。然しその時代時代の真実がどんな詰らぬ文字の裏、言葉の慣用にも顕はれてゐるから面白い。これは昔の話ではない。現在大阪で「文楽を見に行かう」といふ言葉を耳にする事が多くなつた。近頃では文楽--即ち人形浄瑠璃は見に行く演芸になつた。が、こゝ十数年前には「文楽を見に行く」などいふ言葉が大阪人の口には出なかつた。「文楽を聴きに行かう」「文楽を聴いたか」-と人形浄瑠璃は聞くものであつた。二十歳年配の大阪を知る若い方でも、幼少の頃の、この用語例を注意して思ひ起さるゝと分る事だと思ふ。これは人形浄瑠璃の変遷が、言葉の裏にハツキリと顕はれてゐる一例だ。元来、「人形浄瑠璃」といふ言葉でもが、近い頃の言葉で、昔の人を冥府から蘇らして「人形浄瑠璃」といへばヘンな顔をするかも知れぬ。「操」といふ言葉が常用語として通用してゐたのだ。「人形」を冠する「浄瑠璃」といふ言葉を考へると実はヘンナ言葉だ。文弥浄瑠璃、歌浄瑠璃、当流浄瑠璃--といふ風に浄瑠璃を流義によつて特定の形容句を冠するならば分るが、「人形」といふ形容句を冠する浄瑠璃の意味が可笑しくなる。その可笑な浄瑠璃を見に行くといふのだから、余ツ程ヘンな事になるのだが、今日では浄瑠璃を見に行く事になつてゐる。このヘンな言葉に実は、真実が顕はれてゐる。言葉の妙用はこゝにあり、真実が言葉に残つてゐるのだ。話はズツト遡るが元来「操」といふ言葉は、「綾ヲトル」といふ語源を持つ言葉で、古い「アヤツリ」の用語例に考へると、後の「カラクリ人形」に用ひられてゐる言葉だ。「操り燈■[ロウ]」などがソレであるが、「操り」が一般語となつたのは、浄瑠璃と三味線と人形とが提携して一個の「芸」となつた時に「操」といふ言葉の内容がハツキリと極つたやうだ。今日の言ふ人形浄瑠璃が、即ち操りなので、天井から糸で操縦する操りは「糸操」と別の言葉が出来てゐる。「堀川猿廻し」の芝居を見ると、段切れに猿を遣ふあの猿は、結城孫三郎などが天井から糸で操つて動かしてゐる。アレが「糸操」で、文楽座の「手遣」の人形芝居は、「操芝居」とのみ用ひて来た。コレが古い慣用例で、人形浄瑠璃といふのは、極く近い頃の言葉だ。「操芝居」でもが聴きに行くのだつたが、「人形浄瑠璃」と言ふやうになつて、却つて見るといふのだから、余ツ程ヘンなのだ。--が、こゝに考ふべき二つの問題が与へられる。
 
〔二〕
 その一つは大衆に請容れられ易いのは、「耳」よりは「目」に訴へる芸だ。いつも「耳」の芸よりは、「目」の芸の方が大衆的なのだ。近頃世間の音楽の好尚が、浄瑠璃の曲節とは余程縁遠いものになつたから、耳に訴へらるゝ浄瑠璃は、実はどうでもいゝ、人形が精巧に動くといふ事にのみ興味を持ち出した。塵に埋れた人形が、多少ともチヤホヤされて浄瑠璃は一向顧みられないといふ今日、「文楽を見に行く」といふに何の不思議も、実はないのだ、浄瑠璃はまだしも、三味線に至つては、実以て情ない程耳のないお客ばかりが、文楽座のお客様なのである。
 
「目」に訴へる芸が、大衆的に迎へらるゝ事、昭和の観客のみではなかつた。初代の竹本義太夫が、道頓堀に櫓を掲げた貞享元年以来、当流浄瑠璃(義太夫節といふのは、後に人が、しか呼んだので、その時代の本人達は「当流浄瑠璃」と自称してゐた)に、枕を砕き、骨を削る程の思で、新作を以て提供してゐたのだが、初めの二三年こそ、物珍らしさに多少繁昌したが、後の十七八年の間は、興行的には赤字ばかり出してゐた。竹本義太夫は、これがために借金に苦しみ抜いた。この竹本座を、赤字から救うたのは、竹田出雲で、出雲は耳に訴へる事のみ工夫してゐた竹本座の主義方針を根本から覆へして、「目」に訴へる人形を目安にして客を呼んだ。竹本座が盛返へし建て直つたのも、この「目」に訴へる人形からである。この興行師としての腕を揮つた竹田出雲といふのは、「忠臣蔵」の作者だと伝へる竹田出雲の父で、興行師としての敏腕家であつたらしい。この出雲が竹本座を引受けた時には、既に道頓堀の興行殆んどを、竹田一家の手で独占に近いまで手を伸ばしてゐた。竹本座も初めは、竹屋庄兵衛といふ興行師が付いてゐたが、竹本座の小屋ソノモノは、竹田一家の所有小屋であつたのだから、小屋主が、太夫元としての竹本義太夫が、経済的にヘコタレたのを引受けて太夫元となつたといふ順序であつた。その内情はとにかく竹田一家の経営に移つて、初めて大衆的に「目」に訴へる人形が発達進歩したのである。この人形の発達がなかつたならば、当流浄瑠璃も、他の音曲、例へば一中の如く、江戸の義太夫の如く、河東の如く、今日まであの有様のまゝ伝はらなかつたであらう。そして竹田一家は、当時、宝永から宝暦にかけて「目」に訴ふる興行で道頓堀を席捲してゐたのである。竹田の元祖近江が機巧人形といふ目にのみ訴へる舞台の骨法を呑込んでゐたのだから、この舞台を、竹本座に応用したといふ勘定である。
 
〔三〕
 もう一つ考へらるべき事は、大衆的に迎へらるゝのは人形である事。かくの如く今日に初つた事でないに拘らず、人形浄瑠璃にあつては、常に主体は浄瑠璃で、人形、三味線は従であるといふ長い歴史を続けてゐる。しかも操の発生の慶長年間以来、浄瑠璃、三味線、人形の三者の中一つを欠いても操は成立しないのだが、浄瑠璃は主で三味線、人形は常に従である。この三者の関係を、三田村鳶魚氏は、「精神」と「肉体」との比喩を以て説いてゐられる。浄瑠璃は精神で、人形或は三味線は「肉体」であるといふのである。これは既に操の発生当初において、この主と従との関係におかれてゐる。或る「語り」の文句の間に、廉々だけに極めて幼稚な人形の動作が伴つたのが人形発生当時の有様であらう。ズツト傀儡子の人形を想像してみても、勾欄芸能の形式を採つた後の創始期の操を想像してみても、幼稚なる人形の動作を文句の廉々に見せ、三味線は、今日の浪花節の三味線程度に文句の間を措いて、伴奏された幼稚なものであつたらうと思はれる。常に斯くの如く浄瑠璃が主であり、精神であつた様であつたから、「操芝居は聴きに行く」ものであつた。その「人形浄瑠璃を見に行く」時代になつたのである。「精神」の滅亡を、言葉が裏書してゐる。もうカンフル注射も酸素吸入も追付くまい。これが人形浄瑠璃の現状だ。もう恐らく生きた保存の道も手遅れであらう。存する一法は機械の力によつて、ミイラの如き保存--即ちトーキーにでもとつておく事がせめてもの保存であらう。が、これは生身の保存ではない、缶詰の一法だが、或は冷蔵庫貯蔵のやうだが、それすら、こゝ一二年に急いで施行せねばなるまい。具体的にいへば吉田栄三の健康な間に行はねばそれすらむつかしからう--心細い話だ。
 
〔四〕
 この中、去る百貨店へ八王子の車人形が、一週間人寄せの余興に演じられてゐた。その新聞広告に「文楽座の人形浄瑠璃の根源の人形だ」といふ意味の宣伝が書いてある。一百貨店の宣伝だから、どうでもいゝやうなものゝ、「車人形」といふ江戸に於る末期の人形の一形式が、文楽--言葉を換へると「三人遣の人形」の根源だといふのだから、宣伝にしても少しアクどい。元来「三人遣ひ」の人形の源流が、普く知られてゐない、常識になつてゐないから、こんな不法が堂々と広告されるのだと顰蹙される。上方の三人遣ひの様式が、江戸に移されて後も、江戸には人形が発達しなかつた。三人遣の人形の舞台には、相当の広さが必要だつたが、江戸の末期には劇場でなく、人形は寄席で演じられるものになつてゐたから、三人遣ひにしては舞台が狭いのと人形遣の人員の倹約から工夫されたのが、車人形だ。言葉を換へると「躄車の人形」だ。これは進歩でなくして三人遣ひからの退歩であつた。--それはとにかくとして、今日文楽座に見るが如き人形の三人遣ひは、いつの頃より初まつたかといふと、誰でも享保十九年十月、竹本座における「芦屋道満大内鑑」の時から初まつたと答へるが、三人遣ひが突如としてこの時に工夫される訳がない。三人遣ひが工夫されるには、工夫されるだけの順序と準備時代とがあつて、こゝまで発達したのである。が、「大内鑑」の時から三人遣ひが初まつたといふのは「浄瑠璃譜」といふ書に「与勘平役勘平の人形は左、足を外人につかはせ、人形の腹働くやうに拵そむる也是を操り三人懸りのはじめといふ」を典拠とする。が、この簡単な記事では、遣ふ様式がハツキリとしない。
 今日の三人遣には主遣と左手遣ひと足遣ひとの三人がゝりで一個の人形を動かしてゐる。この内主遣ひはどんな風に人形を取扱ふものかといふと第一図に示した如き様式で、主遣ひの左の手で頭の下方に延びた胴串といふ頭を支ふる棒を握つて、それと同時に人形を支へ、右手は人形の右手を遣ふのである。こゝに示した第一図の写真は、衣裳を脱がした裸の人形で、主遣ひの遣ひ方をのみ示したものだ。
 ところがかういふ複雑な遣ひ方が、突然に工夫さるゝものでなくて、この三人遣ひが工夫された享保十九年十月以前の人形はどうして人形を動かしてゐたかといふと、第二図の番付に描かれた絵の如く、人形には足がなくて、人形の裳から人形遣ひが両手を突込んで、両手を差上げて遣つてゐた。この一人で遣ふこの形式を「突込人形」と称へる。然しこの「突込人形」から、今日の「三人遣」に変化するには、余程の飛躍的の工夫が試みられねば、かういふ形式が何んとしても生れないといふ事は、この絵を両者比較された時、読者は直ちに合点せらるゝであらうと思ふ。
 ところが、この「突込人形」の形式は、主として竹本座の手法であつた。別に豊竹座の手法としては山本飛騨掾が工夫になる「片手人形」といふ様式で、人形を働かしてゐた。「片手人形」といふのは、丁度今日の「主遣ひ」だけで動かしてゐる様式と見るべきものであつて、左手はなく、足を遣ふものもなく左の袖を体裁よく胴体に結び付けたまゝ、左に手のある如く想像せしめ右手だけで動作をつゞけるが故に、「片手人形」の称がある。この「片手人形」の形式に、左手を付けて遣ふものが、別に出来、足をつけて足を遣ふものが新たに出来て、初めて三人がゝりの形式が調つたのである。故に第二図に示した竹本座の「突込人形」からは、三人遣ひは導き生れないで、豊竹座の「片手人形」から直ちに三人遣ひが工夫されたのである。この三人遣ひの源流の発見については、私は昭和六年の十月の雑誌「芸術殿」に、考証的に初めて源流考を発表したのであるが、その際には、この工夫者を、豊竹座の立役遣ひ近本九八郎といふ人形遣ひであつて、後近本九八郎が、竹本座へ転座し、「大内鑑」に出勤してこの工夫を遂げたと発表したのだが、その後引続いて研究を重ねてみると、近本九八郎の外に、もう一つ、先行の工夫者のある事を発見した。それは、桐竹門左衛門といふ人形遣ひで、門左衛門は、この「大内鑑」の時に「丸胴」といふ人形胴を初めて用ひてゐる。第一図に示したのが「前胴」といふので、人形の胴のところは、前だけ布を垂らして胴としてゐる。「丸胴」は、胸、脊、腹もある、今日劇場に用ひる縫ひぐるみのやうな胴で、第三図に示したのが、丸胴の写真である。この丸胴の初めての工夫が桐竹門左衛門で、「大内鑑」の時に与勘平を遣つてゐる。そして肩を脱いで人形の肌を看客に見せた。この時の必要上この丸胴が、工夫されたのであつて、「浄瑠璃譜」に謂ふところの「人形の腹働くやうに拵そめし也」に当る。或は又宝暦七年刊行の「外題年題」に「今度(享保十九年の大内鑑の興行を指す)与勘平より人形の腹ふくるゝ様に仕初る」とあるのが、この桐竹門左衛門の工夫で、即ち三人懸りの形式がこの丸胴の工夫にヒントを得て、同時に工夫されたのである。そして与勘平に対する弥勘平を遣つたのが、前記の近本九八郎であつた。……即ち三人遣の工夫者は丸胴を遣ひ初めた桐竹門左衛門と、この時豊竹座から転座した近本九八郎との両人の工夫によつたものであつた事が、ハツキリと分つた。が、この享保十九年の「大内鑑」の直後尽くの人形が三人遣ひとなつたといふ意味ではなくて、三人遣ひ、「片手人形」「突込人形」の三様式が併用されてゐたのが、延享二年の竹本座における人形舞台としては画期的の興行であつた吉田文三郎の「夏祭浪花鑑」から、「三人遣」が主として用ひらるゝに至つたものであらうと想像する。
 そしてこゝに挙げた三人遣ひ以前の昔の「片手人形」の形式も、今日でも尚、文楽座の舞台に、併用されてゐる事に心付く人が少い。殆んど三人である今日の人形舞台に「片手人形」の存在する事に見て、「片手人形」の様式は、相当長く、数においても多く、三人遣ひと共に併用されてゐた事が判る。第四図に示したのが今日文楽座で、尚用ひられてる「片手人形」であつて、今日は「ツメの人形」と称して、並び大名、腰元、或は奴などの端役がソレである。
 
〔五〕
 人形を遣ふ様式が、かういふ風な変遷を経て、今日の三人遣ひの様式となつて、爾来は、浄瑠璃ソノモノが現す内容の演出で、舞台がよくもなり悪くもなつた幾様の時代もがあつた如く、浄瑠璃の曲風も、今日一般に考へらるゝやうな、簡明なものではない。よく人の言ふ事には、近松の作を復活せよ、名作が沢山あるではないかと、ごく簡単にいふが、さう古典の復活が手ツ取早く行はるゝものではない。作はあつても曲はない。上に述べた如く、人形の様式でも、近松時代と今日とでは全く違つてゐる。三人遣ひといふやうな遣ひ方は、近松の歿後の舞台だ。近松在世の人形は、言はゞ浄瑠璃の間々〳〵に極めて簡単に、人形全身の動作、少くとも頭を動かす程度の動作しかなかつたのが、近松時代の舞台だから、近松が考へた、人形の出入などいふものは、今日の人形舞台とは、全く勝手の違つたものとなつてゐる。節にしても、三味線の手にしても、それだ。「義太夫節」と他人からではあるが、称へらるゝのだが、実は初代義太夫の曲風といふものは、義太夫一代で滅亡したものと考へていゝ位のものだ。貞享を句切りとして古浄瑠璃から、当流浄瑠璃を創始したのは、初代義太夫だが、義太夫の在世に既に、豊竹若太夫が東風の浄瑠璃を創めてゐる。その上当流浄瑠璃を大成し、完成の域にまで達せしめたのは、政太夫、後の播磨少掾である。この播磨少掾は、義太夫の弟子ではあるが、義太夫よりも、兄弟子の豊竹若太夫の影響の多い太夫であり、そして初代の歿後播磨少掾は、「若太夫の技巧」を以て「若太夫【義太夫】の腹」を語るのがほんとうの当流浄瑠璃であるといふ意味の事を門弟に話してゐる口吻によつて観るも、播磨の曲風は、初代が創始した浄瑠璃とは、柄も風も節もが違つてゐた筈だ。その上に寛延元年といふ「忠臣戴」の書卸しの時に、由良之助の人形を遣つてゐた吉田文三郎が、山科を語つてゐた竹本此太夫と衝突して此太夫をして退座せしめ、豊竹座の太夫で後に大和掾となつた三輪太夫をして此太夫と交替して山科を語らしめたのである。これが謂ふところの「忠臣蔵」騒動なのだが、この時に端を発して、西風の浄瑠璃と、東風の浄瑠璃とが全く混淆雑糅を極めたのである。その上にこの大和掾は、いろ〳〵な節の工夫をなし、後に伝へて節の根源をなしてゐるのだから.今日の浄瑠璃は、上に述べた播磨少掾で、東風が加味され、大和掾で、東も西もを含んだ曲風が出来たと観ていゝ位だ。その後長い歳月の間には益々曲風の変遷、複雑化、分化が行はれ、名人、上手が出て、一つ〳〵の作品に、特有な曲風が出来た。そして明治期に入る前に、三代長門太夫、五代春太夫のやうな名人上手が輩出した。その曲風が、明治の好尚につれて、美声一番の後の摂津大掾、即ち二代越路太夫で一変したといつてもいゝ位の変化を見せた。浄瑠璃の風がかくして全く違つた。これに伴ふ三味線は、検校出の盲目の竹沢権右衛門が、初代義太夫に始終し、播磨少掾の政太夫節の大成には、鶴沢友治郎の初代が、三二時代に大に尽した。そして大和掾が、「忠臣蔵」を西と東とで交替して語つた時も初代友治郎の晩年であつた。斯くの如当流浄瑠璃は、義太夫から源を発したが、作品からいふと播磨少掾の「国姓爺合戦」と大和掾の「仮名手本忠臣蔵」を画期的作品として当流の原始的「相」「風」が既に失はれたと見ていゝ、そして複雑な曲風を作つた。
 
 更らに三味線の手が弥々益々こんで来たから従来の如く口から耳への伝承のまゝでは、作曲が残りさうもなかつた時に、三代友治郎即ち松屋清七といふ天才が出て、三味線を記録する技術を発明した。斯道に今日伝はる朱章、即ち三味線譜がこれである。今日西洋音楽の五線譜が記録されて、和洋の音楽に、至極便を与へてゐるが、この五線譜とて三味線においては、清七の譜を去る事、さう遠くはない。この朱章の発明は明和安永の頃【文化年代と見ていゝ位】で、三味線の手が記録さるゝに至つて、益〃手が複雑となつた。天保度に入つては殊に手がこんで来た。豊沢広助が出て豊沢流の元祖としてその門葉が栄ゆるに至つて、三味線は伴奏の域を脱して三味線の独立した位置を築き上げた。
 即ち三味線ソノモノも天保の頃から一階大造りとなつた。この大ぶりとなつたのは全く天保を境としてゞあつた。糸も義太夫の相三味線竹沢権右衛門時代は記録がないから分らないが、中古(初代二代の友治郎時代)の三味線の糸は七五、或は八五といひ、糸一掛の目方七匁五分乃至八匁五分であつたのが天保度から上方の糸は、九がけといつて九匁あつたのが、明治初年は九掛といひながら、ソノ実際は九匁三四分あつた。三味線弾でいふと天保度初めの鶴沢文造、同勇造、同寛治、稍下つて才治、勝七などが、皮も厚皮を好み用ひた。それと共にコマも軽くては用をなさないから、生蝋に鉛を錬り、変駒を用ひてゐたのを、天保の中期には、大阪の桝藤と呼ばれた三弦工の石村東助といふ者の工夫になる、鉛籠の駒が出来て、専らこれを用ふるやうになった。重さでいふと四匁五分前後に及んだ。この石村東助が、撥皮の工夫などもしてゐるから、三味線を強く弾くやうになつたのも、この桝藤の工夫が与つて力が大きかつたともいへる。★★
 この潮先に出たのが三絃の天才、豊沢団平であつた。団平が出て浄瑠璃三味線の位置が確乎とした。--と共に、見方によつては、浄瑠璃を、古来の格式から崩したのは、或は団平であつたかも知れない。或者は浄瑠璃の節、三味線の古来の風を破つたの豊沢団平だと非難する人もあるのはこの意味であるが、私は団平を観察するに、自ら前後の二期に分れたと考へたい。
 
〔六〕
 即ち団平の芸を明治十四年十一月を句切りとして前期、後期に分ちたい。前期は修業時代を別として、元治二年正月竹本湊太夫を弾くやうになつた時から、五代春太夫、二代越路太夫を弾いた時代であり、後期は、明治十五年以降越路太夫と分れる迄と、大隅を弾いた彦六座時代とになる。そして前期は所謂、非難する人の言ふ破壊時代であり、後期は守成時代で、この期に入つて、団平は芸の円熟と共に、古来の本格的なる芸の研究復活に努力し、従来の浄瑠璃の集大成を目安にして進んだ時代で、この期の団平の功績は実に絶大であつたといつていゝ。
 明治十四年末に、団平の態度に一転機を来たした原因は、十四年十一月十八日を初日とする松島文楽座における「苅萱桑門筑紫𨏍」の三段目宮守酒を越路太夫が語りその三味線力を豊沢団平が弾いたに起原する。団平は常にこれまでの浄瑠璃について、改良を施し、節の延び縮みに、三味線の手の繁簡に、いろ〳〵な手を尽し、建設のための破壊を敢て行つて来た。この時に前狂言が「八陣守護城』で、次に「苅萱」が選定された。宮守酒が越路太夫、高野山が法善寺の津太夫、奥の院が組太夫といふ顔触れであつた。この宮守酒の役を受取つた越路太夫の相三味線が、当時豊沢団平であつて、越路のためには先輩であり、越路の芸を見込んで越路を導き育てゝゐた関係の相三味線であつた。この時、団平は、宮守酒の曲風に一新機軸を企てた。元来「苅萱」の書卸しは、享保二十年八月の豊竹座であつて、宮守酒はこの正本の三段目の切で、櫓下の太、越前少掾の持場で、その作曲にかゝり、曲風の伝承するところがあつたのは、この書卸しの越前の後に、宝暦二年に筑前少掾が、この三ノ切を語つて、越前少掾の曲風をそのまゝに祖述してゐる。ところがこの書卸しの宮守酒の端場を語つたのが、初代豊竹駒太夫とて、播磨屋弥三郎といつた素人浄瑠璃で、この時が太夫としての初舞台であつて、古今の好評を博した。謂ふところの「駒太夫風」といふ一流の浄瑠璃の風が生れたほどの太夫となつた。駒太夫といふ人は、高い調子で三味線を弾かして、浮沈みの音使ひに工夫を施した名人で、詞に特別の音使ひを工夫して、人物の身分を語り分けた太夫であつた。こゝに思付いたのであらうと思はれるが、豊沢団平は、宮守酒の切をも、所謂駒太夫風で、手を付けて、越路をして語らしめた。言葉を換へると端場が駒太夫風で、切が越前風である宮守酒を、端場、切を通じて越前風の曲風を、駒太夫風に変革してしまつたのであつたが、この時の世評は実に散々の不評で、越路は美事に失敗した。流石の団平もこの失敗から翻然悟るところがあつて、この後は、伝承の浄瑠璃の風は決して変革しなかつた。そして絶えたる古曲に新たに手を付ける時には、太夫直の正本の節章を尊重して、一点のゴマも諸忽に付せず、節章のないところは、前後のゴマの有りようを考覈熟慮するところあつて、古来の「風」を変へざる事を心得とした。即ちこの「宮守酒」の失敗以来、団平の採り来た態度は、主として、その浄瑠璃が持つ伝承の曲風の保存、復活にあつた。そして新たなる手を付するのは、曲風を鑑みて、「弾出し」に限つて、古来にない手をも付けたが、その曲本来の「風」は、「弾出し」の手においても深く考慮を払はれてゐる。そして彼自らは「弾出し」において、二度と同じ手は弾かなかつたといふ事を言伝へてゐる。こゝに団平の作曲上の技巧を見る事が出来るのだが、団平は不幸にして作者の傑れたる人を得なかつたので、この新作方面に貢献するところはなく、廃滅の古典の復活と古来の曲風の乱れんとするのを、集大成して、こゝに団平は大きな功績を残した。即ち前記の明治維新の際に曲風を破壊したものは団平だといふ非難は、前記のやうな意味において、真実であり、その非難は当つてゐようが、明治十五年以後、遅くも彦六座創設されて以後の団平は、復古派の総帥の観があつた位だと言つていゝ。こゝに述べた「弾出し」といふのは、各曲の始め、太夫が浄瑠璃に口を開かない前の、三味線の前弾をいふのである。即ち新しい前弾は、常に新たに用意されてゐたが、新たな前弾にしても、その来来の曲風を暗示し、示唆する手が、常に付けらるゝ事を念としたといふ意味である。
 もう一つこゝに注意したい事は、前記の如く、「宮守酒』に越路、団平が失敗した。--世評が散々の不評であつたと言つてしまへばそれまでゞあるが読者の注意をこの一点で喚起していたゞきたい事がある。当時日の出の人気、あの越路の音声、且つ三味線は三絃の神様扱ひされてゐた清水町の師匠だ。団平ともいはないで、--清水町の大師匠で通つた、ニラミの利く弾き手だ。この越路と団平とがコンビの宮守酒でも、「悪ければ悪い」と散々の不評を蒙るのだといふ当時の立派な大衆の耳がナンと羨ましいではないか。この「立派な耳」が大衆にあればこそ、浄瑠璃も発達する、芸人も一生懸命の仕甲斐があるといふものだ。キクラゲのやうな外耳だけが、耳の形はしてゐるが、節穴同前の、風通しのいゝけふこの頃の「大衆の耳』では、もう浄瑠璃も末の末だ。語る芸人、聴く看客が因となり果となつて、芸に魂が吹込まれる。これが生きてる芸だ。血の気の通つてゐる芸だ。--豈に啻に浄瑠璃のみならんやだ。歌舞伎でも同じだ。六月の明治座の吉右衛門の初役といふ「沼津」の平作を見て御覧じろ。なつちやゐない。初役だといふから割引もしてみよう。稽古だと思つてみようが、案外技巧は勉強してゐる。テクニツクに対する努力は認めるが、「沼津」といふ曲風が全く忘れられてゐる。--「風」とは平作の性格といふのぢやないですよ。「沼津」といふこの段が持つ一段の「風」が吉右衛門には、全く解つてはゐないやうだ。従つて松原は疝気筋だ。--しかも、一代を指導すべき大通と我れも人も許す劇評家が、「松原が巧い」といひ、「手馴れるに従つて立派な売り物になる」といふ意味の高評を見て、呆然たらざるをえない。……申添へておきたい、浄瑠璃の曲風と、歌舞伎の舞台とは違ふといふ議論がありはするかも知らぬが、長い間相当な研究を重ねて作上げられた「風」である。浄瑠璃の風が歌舞伎の舞台に移し植ゑて、役にこそ立て、荷厄介にはならぬ、邪魔にはならぬものだと私は強く主張したい。言葉を換へればこの「風」が丸本の味ひとなるのではあるまいか。この六月明治座の吉右衛門の平作では「手馴」れゝば手馴れる程、方向が違つて来はしまいか。しかも「売物になる」と仰言る。--もう何もいふまい。越路と団平の宮守酒に散々の不評を浴びせて、団平をして反省せしめた「その時代の耳」が羨しい事だと、再び強く私は述べておかう。
 団平の転機が丁度宮守酒であつた。こゝに「人形浄瑠璃の常識」を述ぶるに当つて、本場の大阪でさへも、明治末に出た限りの珍しい宮守酒を例に引くに極めて不相応なのが、恰も六月の大阪文楽座では古靱太夫が、友治郎の絃で宮守酒を語つてゐる。且つ六月四日には、ラヂオの恩恵で、全国に古靱が宮守酒を放送した。聴かれた方が多からうと思ふと、大衆的に耳にない筈の浄瑠璃だが、こゝに安心して引用する便宜と機会とが与へられたが如く、私は感じた。が、古靱の宮守酒の批評は、こゝでは述べまい。それは、高松の浜焼を小包郵便で届かつて、浜焼の真味を、東京で語る愚を学びたくないからである。が、浄瑠璃の「風」だけはラヂオでも聴く事が出来る筈だ。前記のやうに越路は、団平で失敗し、続いて五代目野沢吉兵衛の三味線で、明治十五年五月に、焼けた御霊の文楽で出した時も、宮守酒は失敗した苦い経験を持つてゐる。三度目に、明治三十九年六月豊沢広助で語つた時に漸く、本道へ帰つたやうであつた。この広助は後の絃阿弥で六代目である。古靱の今の相三味線の鶴沢友次郎は五代広助の弟子であるから、宮守酒の曲風は越前風の正しいものである事に間違ひはない。
 
〔七〕
 さあ、こゝで考へさせらるゝ事は、越路太夫と豊沢団平--明治期の浄曲界におけるこの両巨擘が、この事あつて間もなく、十七年七月から分離した。若し分離しないで、長く団平が越路の相三味線で続いてゐたら、越路の芸境は、あるがまゝにあつたであらうか。団平が彦六座で大隅太夫を仕込んだ如く越路に長く臨んでゐたら越路の曲風は、アレとは違つたものになつてゐなかつたらうか。又この二人はどうして別るるに至つたらうか。--いろ〳〵な興味の深い問題が、次から次へと惹起り来るのである。
 即ち団平が明治十七年九月二日、文楽の使ひとして竹本浪太夫の来訪を受けた時の日記(団平の妻ちか女が付けた日記也)には、かう書いてある。--
 
 九月二日浪太夫殿文楽の使に被参、少し申分に此方不服故へ改て暇取り日残り二日分儀助殿呼にやり二日分渡し勘定相済是より稲荷彦六座へ住込咄しきわまり夕方より大石へ行く万鳳様大悦びの事
とある。文楽座を出て大悦をした万鳳とは、明治の初中、両期を通じて大阪における素人浄瑠璃の雄で、斯道の勢力家で、彦六座のために団平に話を取継いでゐた人である。「少し申分に此方不服」とあるが、内容に触れてゐないからこの日記では、文楽を団平が引く動機は分らないが、別に「文楽芝居引一条書」明治十七年申八月廿三日と日付のある、同じく団平の妻ちか女筆の恐ろしく昂奮したらしい一条書が存してゐる。これによつてみると何処の社会にもある事だが、団平と越路との家庭へ中言を言ふものがあるので、近因となり導火線となつたのであるらしいが、真因と遠因とが、別に二つあるらしく思はれる。ソレは、団平の妻ちか女は、「壷坂霊験記」の作者だと訛伝さるゝ位の女で、多少文筆の才もあり、賢女と呼ばれた女である。「乞食でもいゝ日本一の乞食なら亭主にしたい。」といふ希望を持して、日本一の三味線弾といふので、妻に死なれて蛆がわかうといふ鰥の団平に、進んで縁を求めた一種の押かけ女房。--その性格の程が想像さるゝ。一方越路の妻女たか女も、赤ン坊の如く、越路を取扱ひ、食物一つでも健康を重んじ、咽喉の保護を思うて、越路が好物の鰻一串食ふにも、たか女の裁量を得ねばならなかつたといふ程の嬶天下。以てこの事もその性格が想像さるゝ。この嬶天下の嬶のたか女が宮守酒以来、団平の三味線では、ウチの太夫は咽喉を破つてしまふ、殺ろされてしまふと公言し続けた。--といふ話。この話が団平の妻女ちか女の耳にいつとはなしに入つたのは必ずしも、中言とのみは受取れない。団平の方に言はすと、越路は無類の美声を持つてゐるあの天分を、もつと〳〵行ける処まで聞かさうと企て、美声、美音以外のとても面白い音があの呼吸で出よう。それが俺の楽しみだといふのが、その主張で、浄瑠璃道のため、美声を超越した音吐を、越路に希望した。この希望と、弾き殺されるといふ杞憂とが、宮守酒の不評を契機として、表面化し、日記にあるが如く明治十七年九月二日を以て、山を上げて了つた。そして遂にこの両巨匠は舞台で相逢ふ機会は永久に去つた。一度、浄瑠璃の御前演奏をこの二人によつて試みんとした顕官もあつたが、とう〳〵その事なくして豊沢団平は、明治三十一年四月一日稲荷座で大隅太夫の「志渡寺」を弾きながら、脳溢血の発作を起し、病院への途中、担架で落命した。七十二歳の老齢であつたが、団平越路の両妻女、賢女すぎなかつたら、明治の浄瑠璃の曲風に、今一段の精彩を加へたらうものを惜しい事をした。