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【 石割松太郎 所謂元禄期と人形浄るり 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
所謂元禄期と人形浄るり
  石割松太郎
 京阪百話 pp.302-310 1933.7.17
 
大阪落城の元和から数へて、元禄は七十余年。社会万般の文物が、面目を一新し、且つ足利時代に支那の文化を、そのまゝに直輸入した素材が、やうやく茲に我が国民性に陶冶され、一方民衆の擡頭は、町人の文化となつて、元禄の花を咲かした。所謂日本の文芸復興期。これを文学の方面に見る浮世草紙、劇壇における歌舞伎創始期。或は第一次の煥発期。--坂田藤十郎の傾城買の狂言に始まつて、嵐三右衛門大和屋甚兵衛等々。
 この華やかなる元禄期、我が国の歴史に嘗て見ざる、この自由の天地に、咲いた文化の華、その数多きうちにも、最も京阪の特色を持し、又京阪を離れて発達しなかつたものに、人形浄るりがある。「元禄期の京阪」を摘出するに人形浄るりを離れては、又説くべからざるものであるとまでに、私は人形浄るりに、京阪--所謂上方の相を見るものである。
 一口に「元禄」といふと、「元禄」は西暦一六八八年から、一七〇四年までの僅々十六年。いかに長足の進歩をしたからといつて、歌舞伎、浄るりの芸術が、十六年の短日月に、何の足趾をも残すわけがない。茲に「元禄期」といふ年代を、ハツキリとまで限定すると、歌舞伎の舞台芸術における「元禄期」は、恐らく前後の二期に分るべく、
  元禄前期は、貞享より元禄を通じて宝永に至る。
  元禄後期は、宝永から正徳を経て享保に至る年代。
を包含してゐる。
 私が、茲に京阪の代表芸術として、説かうとする人形浄るりも、所謂「元禄期」に前後の二期を有する。即ち前期は「浄るり時代」で、貞享二年に始り、元禄を経て、宝永元年まで。後期は「人形時代」で宝永二年に始つて、正徳を経、享保十二年までである。恰も歌舞伎と略ぼ期を一つにしてゐるのも、偶然ではあるまい。 
 この元禄前期を「浄るり時代」といふのは、申すまでもない。流祖竹本義太夫が、古浄るりの範を脱して貞享二年二月一日竹本座の櫓を、大阪道頓堀に揚げ、操芝居を興行したに始まる。爾来約二十年、宝永元年竹本義太夫の筑後塚が、病気の故を以て、実は十八年間打続く興行上の不振から脊負つた負債が、元禄十六年の「曾根崎心中」の大当りで清算されたのを機会に、興行界から引退した。この竹本座の旗揚から筑後引退までを「浄るり時代」といふのである。勿論浄るりには人形が伴うてゐる。人形のない浄るりは形を欠くものである。浄るりと人形とは心身の関係にある。人形は形体であつて、浄るりは精神である。両者離るべからざる関係に置かれてはゐるが、発生、発達の初めにおいて、二者別々の途を歩んでゐる。浄るりと人形とが心身の関係を持するやうになつたのは、稍々後の事であつて、両者は一面夫婦のやうなものだ。夫唱婦従の夫婦のやうなものだ。この夫婦の結婚は、傀儡師が、浄るりとどれ合つた慶長の始めから始まる。万一浄るりが夭折したらば、傀儡師の人形は、いはゞ未亡人となつて、誰れに再嫁したか知れない。人形が若死をしたらば、浄るりは、俚歌俗謡と共に鰥を通したかも知れない。--といふ関係におかれてゐるが、幸ひに古浄るりの域を脱して、流祖竹本義太夫が義太夫節を樹立し、人形は義太夫節に連添うて上方で共白髪までも生残つた。されば貞享二年の抑もの竹本座の旗揚当初から、浄るりと人形との発達は交互に遂げれられて、歩を一にしては発達しなかつた。浄るりが盛んになると人形は等閑に付せられる。人形が旺盛になると、浄るりは忽諸になつてゐる。誠に奇しき因縁を辿つてゐる。そして元禄の前期は、浄るりのみの発達時代で、人形は機械的にも、芸術的にも発達しなかつた。即ち流祖義太夫が、新浄るり義太夫節の樹立に専心であつて、舞台の人形にまでは、その念が及ばなかつた。されば、元禄前期の貞享二年から、宝永元年までの人形は古浄るり時代と同一地点に地鞴を踏んでゐたのである。その代りに義太夫節はこの約二十年間に全く面目を新にする発達を遂げた。古浄るりの謡曲味から全く蝉脱して一流の節と間とが完成されたのである。
 ところで、大抵、この義太夫を竹本義太夫が、創始すると共に完成したかの如く考へられるやうだが、決してさにあらず、筑後椽はいかにも、古浄るりから蝉脱はしたが、--義太夫節といふ一種の新節を創始したが、完成は、義太夫の高弟竹本頼母に母胎を持つ、豊竹若太夫後の豊竹越前少椽の系統を引く、義太夫の晩年の弟子竹本播磨少椽に拠つて大成されてゐるのである。言葉を換へると、浄るり道でいふ西風に端を発して東風を以て義太夫節は大成されてゐる。更らに言葉を換へると竹本派浄るりに、豊竹派の浄るりが加味されて、今日の義太夫節が完成されたといふ事になる。そしてそれは、この元禄前期の約二十年間に略基礎を築いたのである。この点において今までは竹本頼母の名がいつも逸してゐるが、東風の浄るりの母胎をなしたものは、美音で当時の人気、創始者の筑後を凌いだ、この頼母のある事を忘れてはならぬ。「冥途の飛脚」中の巻に近松も、「いかふ気がめいるわつさりと浄るりにせまいか、禿共ちよつといて竹本頼母さま借つて来い」といつてゐる。当時の人気のほどがほゞ知れる。
 これが元禄後記になると、浄るりよりも人形「耳」よりも「眼」が興行の主体となつて来てゐる即ち宝永二年の顔見世狂言から以後の竹本座の興行主は、二代の竹田出雲である。興行主であり櫓下であつた竹本筑後が引退したので、当時竹田芝居の座主であり、太夫元である二代の出雲が竹本座を引受けた。そして竹本筑後を舞台のみの芸人として抱く、京から都万太夫座の作者であつた近松門左衛門を招聘し、専門の浄るり作者として雇入れ、人形の方面は、従来とも筑後とは提携して来た辰松八郎兵衛、吉田三郎兵衛を以て、をやま、立役に当らしめた。こゝで注意したいのは、近松を作者の氏神の如く崇敬するの余り、近松が都万太夫座を去つて竹本座の専属となり、歌舞伎を捨てゝ浄るりの作に専念となつたについて、何らかの意義を見出さうとしていろいろ愚説を(?)並べる識者(?)があるが、実は竹田出雲の金力で、大阪へ招聘されたのが近松門左衛門である。金で抱えられたといふに過ぎない。
 も一つこゝで注意したいのは、この「二代の竹田出雲」を、千前軒と号した「忠臣蔵」の作者である出雲だと思つてゐる一廉の専門家もあるが、それは誤りで、二代竹田出雲とは、後に「外記」と名乗つた人で、恐らく千前軒の出雲の父であつたらう。千前軒の出雲と、この外記出雲の親身の関係は不詳だが、外記出雲が竹本座の第一次の座本で、筑後椽と提携した人である事だけは確かである。--この随筆に私は考証の筆は省くが、かう結論だけを述べておく。
 そして、この宝永二年の顔見世狂言に近松の「用明天皇職人鑑」が上演されて、鐘入の段に辰松八郎兵衛が、出遣ひを行つた。この「出遣」といふ事が人形の一大画期的の革命なのである。「出遣」が敢行されて、人形が俄然として進歩の端に着いたのである。
 「出遣」とは、今日いふ「出遣」とは、言葉は同じくして、意義が違つてゐる。即ち元禄前期の人形の舞台は人形遣ひは尽く、勾欄の裏にゐて人形のみが見物に見えてゐる。--尤も元禄十二年に上演された「虎が石」の勾欄が綟子張りであつた事を「棠大門屋敷」に文証があり、「牟芸古雅志」に「曾根崎心中」のお初を遣つてゐる辰松八郎兵衛が、勾欄の彼方に、その動作の見えてゐるのは、単に絵宮事とのみいへない画証でもあるから、これらを先駆として、鐘入の段が、人形の一大革命である出遣ひを完成したのだ。--即ち人形遣ひを隠してゐる勾欄を無視して、勾欄の前方、舞台鼻に出て人形を遣つたのだ。--今日まで唯一つ残されたる人形芝居である文楽座の舞台構造からいふと、第一の勾欄即ちシゲザンの前なる「幕あゆみ」へ出て、辰松は人形を遣つたといふ事になる。
 一度この出遣ひが敢行されてから、人形は長足の進歩をした。また人形遣にも、古今独歩の名人といはるゝ、吉田三郎兵衛の息子吉田文三郎が出た。文三郎が始めて舞台に立つたのは、享保二年二月「国性爺後日合戦」で、径錦舎の人形で、片手にて出遣ひをやつたのである。この文三郎の片手人形から、又人形が機械的に進歩の足取が急速であつた。人形の舞台の装置が改良される。例へば、一枚の山みすで事を足してゐたのが、本山に張抜いた。人形の口が開き、目が開閉し、五指が動く、たうとう享保十九年十月を以て「操三人がゝり」の、現今の遣ひ方が大成されたのである。--この享保十九年の三人遣ひの完成を以て、私は元禄後記の終りとする。
 そして延享、宝暦の人形芝居全盛期、吉田文三郎の芸術完成期を形造るのであるが、この素地は、全く右いふ元禄前期の浄るり時代と、後期の人形時代に発生された「人形芝居の花」が、延享宝暦の完成期に至つて結実したといふ順序である。されば今日日本に残された世界に類ひない人形芝居芸術は、この元禄期の上方に創設発酵されたものなのである。
 で、終りに申添へておきたい事は、従来何人も、右いふ辰松八郎兵衛の「をやま人形」と、文三郎の「片手人形」との間に、差異を認めなかつたやうだが、私が頃日、家蔵の元禄十四年の古役者評判記、(逸題)の記事に左の如きを見出した。 
    中之上  山下佐五右衛門
   此人は去冬都へ登りし、出羽が芝居にて、山本飛騨椽遣はれし、片手人形共たとへられませふか、それをいかにといふに此度のお役、ちよりと見た品が、片手人形のごとく、うごきそふな物でござらぬ品を、太夫本の引廻しの手を、うしろより入て遣はるゝ故か、一両年めつきりと所作ぶり御狂言に成りましてござる。
とある。これは山本飛騨橡の片手人形であるが、文三郎は、飛騨橡の系統を引く人形遣ひである即、父「吉田文三郎は立役人形を専らにして元祖山本飛騨橡に近寄人形の奥義儀を極め」云々と宝暦九年刊行の「例冠雑誌」にあるのを証として、文三郎の芸は父三郎兵衛を経て、飛騨の系統を引くものと見て誤りはなからう。その文三郎が経錦舎で初舞台に片手人形で出遣ひをしてゐる。飛騨流の片手人形である事に間違ひはあるまい。その飛騨橡の片手人形は、右の評判記の記事によると、人形のうしろから手を挿入れてゐる。辰松流は人形の裳から両手を差込んで腕一杯伸して、勾欄の上に差上げてゐる。この辰松と吉田文三郎との遣ひ方の相違は、出遣ひと同様に人形芝居としては最も注意を要する一事ある。即ち三人遣ひの主遣ひは、人形のうしろから片手を差込んでゐる事を見遁してはならぬ。これあるかな、現今の三人遣ひの人形の殆んど凡てが吉田文三郎を、流祖と仰ぐ吉田姓の人形遺ひなのである。