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【 石割松太郎 『役者評判記』雑談 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
『役者評判記』雑談
石割松太郎
書物展望 3(4) pp. 16-20 1933.4.1
古珍書、稀覯本が段々少くなる。東京では恐らく十二年の震災を限りとして、下町が焼野原になつたのだから、就中私共に関心の多い江戸期の市井文学、歌舞伎関係の本は全く出なくなつたのだらう。大阪では別にあの大震災の影響はないが、近頃とんと瞠目する程の稀覯書に出くはさない。この方はこゝ数年来の不景気財界の沈滞は、珍書の売行きに打撃を与へたがためだらうといふが、その実際は売行の打撃よりも不景気のため和紙の反古の値が落ちたのが、珍書の世に出ない一大原因ださうだ。--玄人にいはすと和紙の反古が貫に一円五十銭以上すると。拾ひ屋(紙屑屋を歴訪して古本を探し買集める小商人)が活躍するから稀本は売行に拘らず出ます、今日のやうに貫に一円そこ〳〵では日当にも当らないから出ようがないと悲観する。
そんな故か、大阪にも東京にも近頃役者評判記なンテ享保期のものすら滅多に出ない。さう思ふと評判記ばかりはよく早い時代に集めておいたものだと、私は私の机辺を眺める。
私の本箱には蔵書らしい蔵書もないが、--それでも時には相当な稀覯書に宿借した事もあるが、貧乏すると一冊売り二冊売り止め度がなくなる。が、幸ひに『役者評判記』ばかりは米塩には代へなかつた。
両親は見送り、妻には死別し、子もないほんとに天涯孤独の今の私は、『役者評判記』が、一生苦労を共にする女房でもあり、可愛い子供連でもある。
さう思ふと、この蒐集した評判記の一冊づゝ一部づゝにソレ相当の私としての思出が多い。
死んだ愛宕下の村幸の薄あばたの主人の小机の上に『役者口三味線』の完本の真新[まつさら]のを見出したのは、もう三十年も前の事だつた。この『口三味線』が八文字屋の黒表紙の最初の刊行であつた事を、水谷不倒氏の『列伝体小説史』で教へられてゐたから、欲しくて堪らなかった。値を聞くと村幸は、真鍮縁の眼鏡をかけて更めて、絵を繰つてみて「書生さんの事だから九円にしてあげませう」と言つた。言葉ソノまゝ私はハツキリ今でも覚えてゐる。いかにも、真実、私はその頃まだ下戸塚の植木屋の離座敷の六畳の間を食費付一ヶ月九円で下宿してゐた頃だ、『口三味線』が私の一ヶ月の生活と吊代へだ。今まで習得した十八の芸を「女の脚布と吊代へに致したし」といふ意味の事を『独り寝』に豪語してゐるが、吊代へに致したしといつても現実の問題ぢやないから貧乏の味など御存じない柳澤沢権太夫は勝手な熱をふいてゐるが、こつちは正に現実の問題だ。--私は思切つて一銭二銭の酔払ひ銭を混ぜて蟇口をはたき『口三味線』を内懐中に入れて芝から下戸塚へ空を馳ける思ひで飛んで帰つた事を、今まざ〳〵と覚えてゐる。電車など東京にはまだなかつた時代だ。
こんな思出を書いてゐては限りがない。且つ私一人の私事で、読者には何の役にも立つまいが、宝永三年の『役者女吟味』元禄十三年の『役者一代男』同十四年の『二挺三味線』同十二年の『一挺鼓』時代は下るが、享保十年『役者座着袴』廿一年の『盃の蒔絵付』又天明二年『役者助六噺』などと、自家所蔵の評判記目録を繰つてみると一冊々々に深い〳〵私の思出が多い。長男、長女、次男、乙娘と子供があると、それ〴〵一人づゝに想出があるだらうと想像さるゝやうに。--仮りに隠し子があつたと想像する。と、それは元禄十四年の型変りの『京役者三鉄輪』一冊が、隠し子にも当たらうか。
この『三鉄輪』は評判記の形を破つて、後の酒落本型で、一寸珍しい。『松廼家の評判記年表稿本』にも高野班山博士の年表にも見当らない。守随憲治氏の年表には三冊となつてゐるが、何かの誤りだらう。この『三鉄輪』は『京役者』だけの評判一冊限りのもので、板元は正本屋九兵衛である。正本屋は例の江島屋其磧を八文字屋から拉し来り『役者一挺鼓』を元禄十二年に刊行し、八文字屋に桔抗する商算であつたらうが、すぐ其磧は八文字屋に取戻され、その代りに正本屋の方は好色軒円水といふ、元禄十六年に『好色大振袖』を書いてゐる作者を、其磧が紹介して来た。円水が書いた評判記の初めは『役者評判記談合衝』とその後日『役者登はしご』であらうと思ふが、この二書は私は未見の書だから何ともえ言はない。が、その次に正本屋が円水に書かして刊行したのがこゝに言ふ『京役者三鉄輪』で、続いて、元禄十五年には『役者万石船』を刊行したのであらう。『三鉄輪』に『万石船』の大々的広告、刊行前触れがある。この元禄末が八文字屋と正本屋との競争対立の尤も油の載つた峠で、宝永期には、正本屋は立遅れの形となり、僅かに七年間に三部ほどしか出してゐない。恐らくこれは其磧と円水との腕の相異でもあり、また八文字屋は、評判記を演劇関係書刊行の死線として奮闘し正本屋の方は、既に正本の刊行を続けて劇書々肆としての暖簾もある事だつたから却つて、評判記が二の町となり、一籌を輸し八文字屋をして評判記の大元締たらしめたのであらう。正徳四年の『役者目利講』で、八文字屋江島屋の葛藤を読んでもいかに八文字屋が評判記に執着の深かったかゞ窺はれる。
こんな意味で案外『役者三鉄輪』などを初め、正本屋の評判記は流行しなかつたから伝本が少いのであらう。
私はもう一本、珍しい評判記の紹介をして、この稿を擱かうと思ふ。ソレは操り評判記で『音曲猿口轡』といふ枕本型の写本である。「延享三年寅二月下旬」とあり、巻末に「丙延享三年寅三月下旬書之」とあるから二月の刊本を三月に謄写したものであらう。豊芥子の蔵印がある。
この『猿口轡』で珍しい事は、操浄るりの評判記は鶯宿梅以外大阪のに限つてゐる、操評判は役者ほど数がない。刊行二十部にも上るまい。そして年代も延享より遡るまいと想像さるゝ。即ち延享三年といふと操評判では最も早い時代であり、且つ少い操評判の内でも、最も少い江戸操の評判である事が特に珍しい。この時の江戸の操り座を『猿口轡』によりて摘記すると
堺町外記座本 竹本七太夫 操興行
同町座本 若松丹後掾 操興行
葺屋町座本 辰松八郎兵衛 操興行
木挽町座本 結城孫三郎 当分休
とある。享保の始めに江戸に下つて、後どうなつたか分らない--私は知らない「辰松八郎兵衛」の座本名代を爰に発見して、私は武蔵野の逃げ水を又見付けたやうに、或は忘れ川のしよろ〳〵流れの末を草の葉の下に見出したやうな心持がする。評判記の一冊々々に、私の子供のやうな心持がする点からいふと行方の知れなかつた隠し子が、場末の芸者屋町に下地ツ子に売られてゐたのに邂逅つたやうに、今私はこの『猿口轡』に染着を感じて繰開げ〳〵してゐる。この内容については他の機会に操史の幾頁かとして述べたい。が、この『猿口轡』といふ書名を見るだけでも、別な意味で私に思出が一つある。
これも話は三十年近い昔に返へる。私がまだ早稲田の学園にゐた明治三十七年の夏、二学年の暑中休暇を目当てに下戸塚の下宿から、池の端の下宿に引移つて、二ヶ月を上野の図書館に通ひ、上野に蔵する劇書を片ツぱしから読破しようと若い元気に任せて考へた。この夏の一日、図書館の貴重本で故 原芳埜氏納本の『猿轡』といふ三冊合綴の写本を借出して見た。この書は万治の初年東山の辺りに喜多七太夫の次男十太夫が勧進能を催した時、『ぶしやうごま』といふ能評三冊を綴つて六百余丁に及んだ。その『ぶしやうごま』の能評に慊らず、これに反駁を加へたのが、この『猿轡』三冊であつた。当時の私は芝居と浄るりとを上野に渉つてゐたのだが、ふとこの猿轡を見ながら、走読みにしてゐると--驚いた。その下巻に『浄るり小歌などの義は』といふ一節があつて、従来の十二段草子と全く違つた耳新しい論が書いてある。驚いて早速筆録した。大辺な発見だと実際胸が高鳴りしたのであつたが、これによると浄るりの初めは盲目の座当が稲葉堂の薬師如来に所願をかけて三七日の満願の日に目が明いた。そのうれしさに、やすだ物語を作って「浄るり国土の薬師たるゆへ瑠璃光如来と号し」「じやうるりとなづけ」て語つたとあつた。--が、当時の私は、盲目の法師が眼が明くなんてヂヤラ〳〵したと考へ直して、忘るゝともなく『猿轡』の記事などは思出しもせないで、早稻田を出ると新聞記者生活に入つた。すると四十四年の春であつた? 当時私は都新聞にゐた。編輯局の部屋の中央に立つてゐた柱に靠れて新刊書や新雑誌を読散らしてゐると高野辰之博士の『十二段草子考』が目について読んでゐると、右の『猿轡』の記録が、浄るりの起原として取扱はれてゐる。約七年前の上野に籠つた一夏が浮絵のやうに私の頭に映じた。そして、下宿に飛んで帰つて古行李を引くり返へして当時のノートを播くと正に高野博士の引用文と私の筆録とは吻合する。この時につくづく思つた--本といふものは、読む者の知識だけしか教へてくれないものだと、ホントにつく〴〵さう思つた。その頃私は本郷の振袖火事で知られた本妙寺地内の菊富士楼といふ下宿にゐた。
このところ三十年相経ち申候
て、旧冬住慣れた故郷大阪を去つて、孤影寂然と東京へ一個の鞄を抱いて上つて来た。五十の坂を二つ越して。
丸の内ホテルにまづ投じて、今後五尺の身を納るゝ部屋を求めようと、朝日新聞の案内欄を見てまづ目についたのは、菊坂の菊富士ホテルの「菊富士」の三字だつた。
今私は菊富士ホテルの一室を、仮りの宿りとして母校の教壇に立つて近松、西鶴を講じてゐる。そして今手に入れた、『音曲猿口轡』に、浄るり史の前人未踏の資料を机上にして、私の眼は悦びに輝いてゐるのだ。(昭和八・二・四)