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【 石割松太郎 「操り」近頃の事 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
「操り」近頃の事
石割松太郎
 日本及日本人 261 pp.84-87 1932.11.15
 
 
 世相の移り変りが激しいと共に、それに伴ふ言葉の変遷も目まぐるしい。茲に「操り」と題名をおいたが、「操り」の言葉、既にその本場である大阪でも耳遠い。「人形浄るり」とか「人形芝居」とかが具通の言葉のやうで、「操り」といふと「糸操り」のやう考へらるゝやうになつた。大阪の俗「文楽」は「聴く」「歌舞伎」は「視る」と、誰誤らぬ言葉と思つてゐるうちに、「文楽を見に行かう」が、普通の事となつた。この時代に浄るりを保存し、浄るりを「興行の対象」として算盤のケタにかけて行かうとするのは、実に至難の事業だ。「三勇士」が飛出しても一杯晒し、「空閑少佐」が出て来る頃には、興行がヘタる。これは尤もだ。「お客正直」で文句はない筈だ。要は「興行の対象」とならぬ筈のものを興行しようとする所に無理がある。が、私は茲でこれらの操りの将来を論じようと意図しない。それは他日機会があらう。
   ◇
私の言ひたい事は、今のやうな状態に押進み、根本の変質がなくて、今日に及んだ操りほどの「芸」ならば、今日何の役にも立たぬ事で古格を崩すことは詰らぬ事だ。成るべく、出来るだけ「あるがまゝ」の態で保存したらよからうといふ事を言ひたい。
 近く九月、十月、十一月の文楽座の興行で、九月には例の「空閑少佐」に明治期の新作「勧進帳」十月にも亦明治期の新作である「桜時雨」に廃曲となりかけてゐる「宵庚申」の復活、十一月には「太閤記」「火燵」「寺子屋」と耳にタコの語り物と、文楽座当事者の内心の焦慮が露骨に現はれてゐるのを観るが、それと共に「定見」のない事も露骨だ。語り場の振当てにも適材適所でなくて、「顔」が禍をしてゐる。「顔」とは文楽座における「身分」である。年所から生るゝ位置である。「語り場」の軽重と「身分」の均等が配役の重点をなしてゐるから各〃に技倆が発揮されない。「顔」とか「位置」とか「年所」とかは「情実」である。「情実」の纏綿するところに清新なる芸が生れない。--「古格」は重んぜよ。が「情実」は排せよ。「古格」と「情実」とを混同すべからずだ。
  ◇
 早い話が「酒屋」が上演された。「艶容女舞衣」の酒屋の段は、一段ソレ限りの語り場だが、この九月の番付には、
    切 竹本錣太夫
      豊沢新左衛門
    後 豊竹呂太夫
      鶴沢叶
とある。古く番付編纂の約束からいふと、「酒屋」に後(アト)といふ語り場があるべきでない。「アト」と浄るり道でいふと又の名を「落合」ともいふ「切」の次に尚存する事件の始末場だ。即ち実例でいふと「忠臣蔵」の城渡しが、四段目のアトだ。「廿四孝」の狐火の次にある「小手返し」がアトだ。「布引」の四ツ目のアトの「紅葉山」がソレだ。「鏡山」を例にするとお初が主の仇返しの「奥庭」がアトである。「アト」といふ言葉が浄るり道に持つ意味にはかうした約束がある。「酒屋」の一段を語り場によつて観ると、三勝がお道を捨てに来る所が口(クチ)で、お園を連れた宗岸の出「こそは入相の」からが「切」〔きり)で、お終ひ「アト」があるべき筈がない。その「酒屋」に「アト」があつて呂太夫が語るといふのだから、こんな無茶は考へられない。--が、実際は、お園のクドキがすんで「最期を急ぐ心根は余所の」で錣太夫の浄るりは終る。これを「切」と称し「見る目もいぢらしゝ」からが「アト」と称して呂太夫が語つてゐる。分割すべからざる「酒屋」を分割したがそのために「アト」といふ珍妙来な「ア卜」を作つた。私のいひたいのは、こんな特殊の意味のある言葉をわざ〳〵崩すには及ぶまい。心ない業といひたい。事実分割して語るなら、例へば「切の切」といふ意味の言葉を使つてもいゝぢやないかといひたいが、こゝに「顔」が顔を出すのだ。「切」を重ずるといふ習慣から「切ノ切」とすると、錣太夫より呂太夫が「顔」のいゝ太夫になる事を錣が嫌ふがためである。「切」を重ずる習慣を保存するなら「アト」といふ言葉を崩す理由が解らない事になる。
    ◇
 言葉といへば「お園のクドキがすんで」と今私は述べたが、読者は恐らく「お園のサハり」だらう。--「跡にはそのが憂思ひ」……「今頃は半七さん」……は誰でも知つてゐる「酒屋」のサハリぢやないかと言はるゝだらうが、これが抑もの誤り。「サハリ」とは何ぞや「クドキ」とは何んぞやと、問詰めるとハツキリした概念を持つてる人が恐らく少ない事と思ふ。これは「サハリ」といふ言葉の変遷とか転用とかいふのでなく、「サハリ」といふ言葉を誤用し、誤用が一般的に用ひられて、誰もが正さなかつたために混用誤用を続けてゐるのだと思はれる。
 専門的でなく一般使用の代表として「サハリ」といふ言葉を辞書に求めると「サハリ」と「クドキ」の区別が付いてゐない。両者の定義がハツキリしてゐない。辞書の解説は循環する。以て浄るり道にいふ「サハリ」といふ言葉の意味及び使用法が極めて昧曖だ。が、ごれを専門的に求むると「サハり」といふと節の名であつて、内容に関係しない。竹本大和掾が「音声巨細秘抄」に述べてゐる「サハりとは歌がかかりといふ如し」といふ解釈が当る。サハりとは即ち一つの節の名である。浄るりにおける「クドキ」とは浄るり中の人物の述懐であつて、浄るりの一節で、クドキは内容にも関連してゐる、浄るり構成の一部分で節の名ではない。「辞林」には「さはり」を「触り」の(三)の意味として
 「義太夫節にて戯曲中述懐の場合などに於ける流麗なる文句の所」
と註してゐるのは、「サハリ」の説明でなくて、実は「クドキ」の説明に当る。「クドキ」をいつの程にかサハリと誤用して今日に及んでゐるが、これは正しく原意の言葉に戻すべきものだと思ふ。私は恐らくこれこそたま〳〵素人義太夫の一知半解から来た誤用であると思ふ。按ずるに節の名としての「サハリ」の語原と辞書に示す如く「触る」からでは意味をなさない。恐らく、昔時の合金で、銅、鉛錫を合した「サハリ」と命名さるゝ合金が語原で、浄るりの「語る」と「唄ふ」との合金の意味で、名称の出来た一つの節の名であると、私は推する。一般辞書のいふ「触る」からは出て来ない言葉だと思ふのはどうであらうか。
    ◇
 文楽座におりる軍事劇の新作、明治期における新作で、清水町団平節付の「勧進帳」及び三代団平の仙右衛門の節付「さくら時雨」や、広助節付の「宵庚申」のざいしよ(上田村)について、大分述べたい事があるが、もう九月、十月の興行であつただけに、六菖十菊の感興も薄れたから、もう書くまいが、十一月興行の二三の所感を述べたい。本誌が興行土地の発行誌でないので「二階から眼薬」のやうな感じがするが、この程素浄るりで、東京でも聴かしたらう出し物だけに述べてみよう。
    ◇
 十一月の文楽座の前狂言が、「太功記」で、妙心寺を錣、夕顔棚が大隅、尼崎が古靱であるが、私どもは、前に述べた適材適所からいふと、錣の「妙心寺」などは御免だ。聴きともない一段だ。文楽の次の時代が、尚ありとすれば錣、大隅の天下だらうと思つた時代もあつたが、近来の錣の芸のすさみ方、邪道に陥り方、迷ひ方は法外で、ソノ足は地上についてゐない。相当な音声声量と天分を持ちながら、あの第一文句の解らぬ浄るり、下品な浄るりはどうだ。芸に不忠実だと極言する。こんなのなら、大隅に妙心寺を語らし、夕顔棚を呂太夫、つばめの一日替り、錣が紙屋の端場のチヨンガレを語るのが御客本位の狂言の建て方。錣が妙心寺を語るのはお客を忘れて、楽屋内部の「顔」本位。それでお客に満足ささうは間違つた料簡だと思ふ。前興行の「さくら時雨」でも錣の大門口が丸つきり作の味ひを打壊してゐる。例へば、私が第一回(三日目)に聴いた時には、原作の通り語つてゐたが、二回目、三回目と三度聴くと、大分大切な処が文句を語り崩してゐた。芝居のせりふと違つて音楽である浄るりには、芝居以上にあるまじき事だと思ふ。例へば、紹由の詞で、「モシ一寸お尋ね申ます、吉野太夫は、どこに揚げられてをりますな」で切れて「ナニ吉野ヲヽ吉野、吉野なら……」と狂はしい嫖客の詞にならねばならぬ本文を、錣は、「どこに揚げられてをりますな、アノ吉野」と言つてる、嫖客の詞で「吉野」を三度重ねていふ第一のを「ナニ」を「アノ」と変へて紹由の詞にしてゐるのが一例。もう一つ「これは気狂ひ、あれは身投げ」の「これ」と「あれ」とを取かへてゐるので、私が三度目に見た時には人形の科とあらこらになつてゐた。--これは巧拙の問題でなくて、芸に対する忠実不誠実の問題だ。
    ◇
 近来の大隅に大分たるんだとか、進歩が鈍いなどの評を聞くが、静時代から一部に期待された事の大きかつた事を不幸とせねばならぬ。私はこの人など進歩の長足な方だと評したい。特に道八が指導に立つてからの進境を見てやらねばウソだ。尤も器用でない人だから巧緻を来むるのは無理だ。今度などは妙心寺を聴きたい。--が、ともするとハヅれるのは、何としても弁護の余地がない。今度私が聴いた(二日目)終りの「三国一の悲しみ」の高い所でハヅす、はがゆい浄るりだ。
    ◇
 「尼ケ崎」は古靭で、これは徹頭徹尾巧緻、精妙で固める。その弊は大まかな味、抜けた面白味は求められないが、当代第一の「尼崎」だらう。他の企及を許すまい。前興行の「八陣」のやうなものになると、伝統的の我らの感じは、「予ねて松虫雛絹が」と美しい声で、美しいお姫様を待構へるに理窟がない。研究がなくて美の陶酔だが、ソレは古靱では出ない。同じ美しさでも初菊になると、古靱で別な味が出て来る。今度詞で情意の行届いたのは、「末来永々。縁きるぞや」などが一例だ。もう一つ詞の上出来は婆々で、「目出度〳〵嫁御寮」の第一の「目出度」が上乗の出来を示した。いゝ所を拾へば限りがない出来栄で、且つ当て気味の絶無なのを、まづ第一に採りたい。当代模範的の「尼崎だ」と言ふ。が、これは贔屓の言葉でなくして本人努力の賚で、その報酬であるといつていい。
 もう一ついつもの「尼崎」だと、人形の操を貴ぶ文五郎が、例のこの人の手法である足踏を盛んにする。わけて「操の鏡曇りなき」で、手拭を咬へて、下手へ足踏で極る、当て込みの芸をするのだが、今度は手拭は使はず、比較的「当て」ずに下手斜に、躯のシナで極つたのは、珍しく文五郎として改良の一つで、いゝものゝ一つとして嬉しく見た。
 「主を殺した天罰」の聴きどころで、小兵衛の婆々が、左手を不自然な位に引ぱり上げた科に、鬼気の迫るほどのうまさがあつた。小兵衛もうまかつたが、この左を遣つてゐたのは誰れだらうか?近来眼についた「左」のいゝ有数であつた。
    ◇
 端場語りの名手駒太夫が「寺入り」では喰足らない。この人の不遇を本人と共に悲しむものだ。寺子屋の切を紋下の津太夫が語つた。個所々々のいゝ処はあるが、何分あのダラ〳〵の「足」で、浄るりの緩急が全くない。回虫のやうな感じを与へる浄るりだ。ピリツと反応する神経がない。それなら大間な味があるかといふとソレもない。東京の読者には理解のない例だが、大阪俳優の死んだ巌笑の芸のやうだと、津太夫を聴く度びに連想した事だが、歿する前に巌笑の政岡を見て大まかな味を満喫した。--近来の歌舞伎の舞台に珍しい味だつたが、津太夫の松王にでもせめても「この味」が欲しかつた。
 人形の栄三の松王、例の芸の味、歌舞伎に見られぬこの松王の味は、もう幾年この世に存するだらうか。トーキーでも何でも保存の道、術がほしい。
 文五郎の千代、今度はいつもの「御夫婦の手前もある」と叱られて、上手へ「遊女」らしいスネ方で坐るところいつも程の蓮葉の醜態を見せなかつたのは、「操の曇り」と共に、文五郎としては特筆すべき千代であつた。
    ◇
 次が紙屋内の段、土佐太夫で、純現実味で行かうとする態度の浄るりに慊らない。が、この土佐の芸風に最も適した語り物の一つであらう。併しこの語り口で「日頃の意趣とゞめの刀」などに、工夫の味がない。かう軽々に写実的に語るべきではなからうと思ふ。
    ◇
 終りに述べたい事は、この間中東京で、紋十郎とその師匠文五郎とが延寿太夫の清元で、人形の「累」を見せる企てが熟したかの如き新聞記事があつたが、東京ではいざ知らず、あの記事に延寿太夫の話まで載つて、来春に実行さるゝやうにまことしやかに報じてゐるが、記事の内容に実行性が乏しい。--が、悪い事でない偶人劇のためには好ましい事だ。出来るなら実行させたい。が、併しこの企てに栄三を除いては舞台上の効果はない。
 この企てが実行さるゝならば--即ち「人形」が「当流」以外とコンビさるゝならば、ソレと同様に浄るりと舞踊との結合も行はしめたい。例へば、文楽座中堅処の若い太夫に、道行の三味線の名手仙糸を配して、試みに菊五郎をして「四季の寿」--嘗て享和末に京で高評を博し爾来京に伝つたーーを踊らしめるのだ。従来の竹本長唄の出合は、名は「竹本」だが、チヨボの竹本連中だ。本流の義太夫、当流の義太夫に善舞の菊五郎の手が加はらば、必ずや舞踊に新生面が拓かるゝ事と思ふ。
 元来文楽の太夫三味線が、俳優と共に舞台に出る事に困難が横はつてゐたが、この十月大阪歌舞伎座の昼狂言に、道八の節付で文楽座の若手中堅どこが出演した。これが今数年前ならば、「因講」のヤキモキした物言ひが付いたらうが、「時」の力が凡てを支配し、何の事もなく運んだ。尤も松竹は耳を塞いで鈴を盗む態度で、この問題に世間をして触れしめざるやう細心の注意と、事もなげな態度をワザと採つた「猿芝居」は見てゐて噴飯に堪へなかつたが、一つは時世だ。今度の歌舞伎座の企ては舞踊の地だつたが、次に来る問題は、文楽座の連中と所謂チヨボとが混淆されるも近い事だ。この問題に対する私の言ひたい事は、そして歴史上の事実も述べたいが、今は紙幅が許すまい。次の機会にするが、文楽興行の合間々々は延寿、松尾など両派の浄るりと、人形との提携を画し、一方菊五郎の舞台にほんとの「浄るり」チヨボでない竹本連中の劇場進出には、まづ私は実行を希望する。その手初めは、「四季の寿」だ。手ツ取早く舞台上の効果を収むる事疑なしだ。下らぬ百害あつて一利なき新作よりも、興行的の方策はこの二つより道は外にない。(昭和七・一一・三)