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【 石割松太郎 三人遣ひの源流 追記 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
三人遣ひの源流 追記
石割松太郎
 阿波郷土誌 第四輯 pp.115-117 1932.9.30
 『三人遣ひの源流』は芸術殿1(6) pp.16-23に掲載され、『文楽の芸術』 に収載されたが、阿波郷土誌掲載の際の追記は収録されていない。
 
 追記==「人形三人遣ひの源流」執筆後、尚ほ足らざりしをこゝに追記して述べておきたい。
それは新たに私が「人倫重宝記」(玖□社記文庫蔵本)を見て従来の人形舞台の発生期のそれとは違つた見方をした事を差加へたい。即ちこゝに挿入の「人倫重宝記」の人形舞台の挿絵を篤と観てほしい、この「人倫重宝記」は「元禄九年乙子初春」の刊行である(丙子の誤り?)
 この元禄九年頃、若しくはそれより早い時代の人形の遣ひ方は、従来は差込遣ひとのみ知られてゐたがこの「重宝記」の人形舞台を見ると、今日まで私どもが見た差込遣ひとは、多少違つてゐるやうに思ふ。試みに「声曲類纂」に「西鶴諸国咄」から転載の井上播磨が芝居の図、同書に謂ふ正保慶安の古画京師芝居の図の「上るり内記」の舞台、及び今一つの「右の下」の図を見るに、人形の裏が半ば勾欄で隠れてゐる。今日写真でいふ「半身写し」の形である事、「人倫訓蒙図彙」七巻の土佐掾芝居の上るり楽屋の図に照合して差込遣の形式である事に、一点の疑ひがない。
 然るにこの「人倫重宝記」の人形の裳は、これら前掲の図とは全く違つてゐる。私が三人遣ひの源流だと示した片手人形の一形式である後年の「北条時頼記」の舞台絵に、寧ろ近づいてはゐないか。唯人形遣ひが現はしてあるか、現はれてゐないかの相違だけだと見るのは無理だらうか。(第三図参照)
 茲において思ふに、西鶴「好色一代男」(五巻)にある--
 人形廻しして遊べと、捽箱より、たゝみ家体取組、上幕つらがくし首落し、五尺にたらぬ内に、金銀をちりばめ、自由を仕懸、六段ながらの出来坊うごき出ける。
 とある。「上幕つらがくし首落し」といふは、「上幕つらがくし。」「首落し。」と二つの上下の幕で、「首落し」は高い勾欄代用の幕で、「上幕つらがくし」は一つの幕で、人形遣ひの顔隠しの上幕を指して言つてゐるのではないか。即ちこの「人倫重宝記」の後ろの黒幕は一様だが、この幕の後ろに人形遣ひが、隠れて遣つてゐる事を想像すると、「人倫訓蒙図彙」の土佐掾の楽屋の如く腕を一杯に伸して差上げての遣ひ方と違つた遣ひ方、--即ち人形の後ろから手を差込んだ遣ひ方が、もう既にこゝに存してゐるのぢやないか。
 さう考へると、師重の描く「役者ゑ尽し」の、人形遣ひが半身を勾欄の上に現はしてゐる遣ひ方は、当然の事で、「重宝記」の舞台の黒幕、即ち「上幕つらがくし」を除けば、「役者ゑづくし」の伊勢、半太夫、孫四郎の遣ひ方になるのぢやないか。
 言葉を換へると人形の遣ひ方には、差込遣ひと後ろから遣ふのとの二つの人形の形式があり、勾欄の装置からいふと、腕を一杯に伸して人形を勾欄の上にのぞかせて遣ふ形式と、人形遣ひが半身のり出して遣ふ形式とが、既に発生期から存してゐたのではないか。
 かう解釈すると、「雍州府志」(巻八)にいふ
 人形芝居或謂操其式中央正面設舞台横長五間構矮欄其上下設幕操偶人者居幕内出人形於上下幕間上段幕称顔隠操偶人者以此幕隠顔面之謂也
 とある一文の意義がはつきりと通ずる。西鶴の言ふ「上幕つらがくし」の意ともなる事、この今までに見ない「人倫重宝記」の舞台絵で、略々察する事が出来ると思ふ。が、どうあらう?(完)