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【 石割松太郎 人形劇のエロ・グロ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
人形劇のエロ・グロ
  「鼻」が伸びる人形頭
  石割松太郎
 映画と演芸 昭和七年六月一日 p21
 
 
 今日の聴衆、看客から見ると、「偶人劇」などといふと古典だ、何だのと、可なり厳粛な見方をされてゐますが、人形浄瑠璃は、元来が商業都市の大阪に猥雑な発達、野育ちなものですから、能楽などとは、ちと違つた趣、異なる毛色の興行物です。能楽は武家の式楽だが、人形芝居は民衆の物だ。今日の言葉でいふと大衆的だ。ここに本質があるのだから、羽織袴でなくて、着流し前垂掛といふ風を忘れてはならぬ。「義太夫股引」なのだから、人形のエロ・グロは当然のことで、今日のゼントルマンライクの見物様には、顰蹙ものが多いわけだが、さてソコが御方便なもので、「古典」のお蔭(?)で今日の耳はそのまゝ素通りする。
   ○
 一例が此程問題になつた「ししきがんかうがかいれいにうきう」は巫山戯た骨頂です。が、これはまだ、隠語のやうなものだからともいへるが、浄瑠璃の最高峰である筈のこの「しゝきがんかう」の道行の次の忠臣蔵の九段目、祇園から朝戻りの由良之助が「こぶら反りぢや足の大指折つた〳〵おつとよし〳〵次手に○○じやと」奥方石様の裳を○○、「これほたへさしやんすなへ」を女武道のお石に叱られる。これぢやお酒加減でも由良之助の御人体に拘りさうだが、この人形の科は、今日でもやつてゐる。立派に「ほたへさしやん」してゐる。昔ほどあくどくないから見物様は顰蹙するまでもないが、由良之助は茶屋場でもお軽にほたへる。「道理で船玉様が見えるわ、ヲヽ覗かんすないな」とお軽も気さくだ。こゝらの人形は今日ではあつさりと片づけてゐるが、昔は相当見物席をヂワつかせたものだ。今日のレヴユーが、ピン〳〵片足を挙げたり、前をまくつて踊つたり、あのエロチツクなポーズが、仮りに西洋画の裸婦であるなら、人形のエロは正に、笑ひ本の開巻第一頁。近頃「浮世絵内史」といふ本を見たが、今日の「人形」はこの内史程度、昔の「人形」は二三頁繰開げたところが多かつた。
   ○
 早い話が、近松門左衛門が世話浄るり□□初だといはれる「曾根崎心中」が、元禄十六年の道頓堀に大した人気で、竹本座の借金だらけの屋台骨を建て直し、座本の竹本義太夫が永々の負債苦から遁れた。そして藪入をした--。近松の筆の力、人形に見物様同様の真世話の番頭や丁稚が出て、親しみがあつたとか、お初徳兵衛の道行、「一足づゝに消えて行く」の文章の妙味を説く儒者があるが事実、この浄るりの流行つた真の原因は、お初の裳に隠れた徳兵衛のエロ味が人気の頂上。こゝに下がゝつた人形のエロがあつたのだ。このため徳兵衛はお初の股倉に入つたが竹本座は蔵入をした。近松の筆や、義太夫の作曲は二の町だつたからこそ、義太夫はこの翌年に世を味気なう思ふて引退したといふ段取。世は挙げて色気だ。昔も変らぬエロ万歳。
   ○
 今日妹背山の御殿が出る。あの紅葉局などがわちや〳〵いふ文句をとつくりと聴いて御覧なさい。そして人形が笏を持つてどんな科をしますか御らうじろ。若い娘ツこを連れた奥様などが見てゐられるものぢやないが、さてこゝが世間は方便なもので、今の聴衆は聴いてゐでもハツキリと意味が分らぬか、顔を赤らむ婦人を見ない。今日でも儼存するこれが人形の科だ。御殿が出たら注意めされとお勤めする。
   ○
これは流石になくなつたが、桂川の石部宿屋の段「……結ぶの神と白紙の障子……」と今日の活字本では○○ばかりのエロ百パーセント。この石部の宿屋で丁稚の長吉の人形の鼻は、ろく〳〵首のやうに伸びてヘンな形になつて、御見物様をワツと笑はしたものだ。この「長吉の鼻」が今日、もう廃物となつた人形の頭にエロの昔を物語つて余りある、この「長吉の鼻」が伸びないで、納まつた人形の頭が、--丁度人間の尻ツぽにも尾底骨のあるやうに、--鼻がグイと上向く頭が、今日でもよく用ひられる。善六太兵衛の鼻に用ひる時もあるが、上向く鼻の滑稽味。動かぬ筈の「鼻」と「臍」とは人体にあつて、可なりの滑稽を見るものをして感ぜしめる。「臍」ぢやないが腹ふくるゝ野干平、与勘平も「臍」の延長と見てもよからうか。こゝに人形のエロ・グロがある。グロを説かうとして与へられ紙幅が尽きたが、人形のグロは至る処に事例に乏しくない。一寸人形芝居を覗いてもグロ満喫疑ひなし--といふ処だから詳説しまい。